撮影日記 2021年6月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 21/6/22〜28 牧野富太郎さん



 編集者としていっしょに仕事をしたことがある清水洋美さんが、今回は著者として本を書いたというので読ませてもらいました。
 面白くて分かりやすい文章、楽しく読めるようにする工夫等、いい本だなぁ、みんな努力しているんだなぁと感激。
 実は、僕は大学生の時に牧野富太郎さんを知らずに、植物を専攻する同級生のK氏に、
「本当に牧野富太郎を知らんのか?お前が知らんのか?」
と驚かれたことがありました。
 今考えると、僕は、人が作ったものではないもの、人の意図ではないもの、つまり自然が好きなのであり、人には興味がなかったのだろうな。同様に、南方熊楠のことも、割と最近まで知りませんでした。
 そういう意味では、僕は文化人ではないし、自分を野蛮人だなぁと思います。
 でもこの本が子供の時にあったら、僕でも、一生懸命読んだような気がします。

 一言で生き物を好きな人と言っても人それぞれですが、幾つかの典型的なタイプに分けられるように思います。
 代表的なのは、政治型や宗教型の人です。人の社会の秩序や決め事として自然は大切にすべきであり、それこそが正しい、という意見を持っている人です。
 それから、僕のような、人ではないものとしての自然を好きな人かな。野蛮型。
 人ではないものとしての自然は、言い換えると自由と言ってもいいでしょう。
 また逆に、人の決め事やルールは、人が自由にふるまってはならない時に作られるものなので、反自然と言い換えることができます。
 ただし、自然(自由)がいつも素晴らしく、反自然(ルール)が困ったことだとは限りません。
 先日、ツイッターに、
「ゴミを捨てる人がいるけど、ゴミを捨てるのは自然なことですよ。だって野生生物ってゴミ拾いとかしないでしょう」
 と投稿しておられる方がおられました。ゴミを拾うというのは、不自然で、人間独特の行為なのです。
 いくら自然(自由)が好きと言っても、僕だってゴミを捨てるような人は好きではなありませんし、あくまでも程度の問題であり、どこまで人のルールを広げるかの好みです。
 
 

● 21/6/22〜28 漁師さん

 漁師さんにお願いして、ツメタガイの駆除に同行させてもらいました。
 ツメタガイは、他の貝を食べてしまう肉食の貝で、アサリの天敵です。



 大潮の日の干潮の時間帯に、干潟のロールスロイスと呼ばれる、トラクターの後ろに軽トラックの荷台を結合した乗り物にのって、沖へ向かいました。




 これがツメタガイ。巻貝の仲間です。
 軟体部分が大きく、この大きな軟体で他の貝を抑え込みます。
 僕は、貝殻と軟体の大きさの比率、つまり貝殻が大きいか軟体が大きいかには、大変に興味を感じます。
 陸のカタツムリの場合、軟体が大きい種類はよく移動するとか、木に登るのが得意とか、機動力に結びついていることが多いのですが、海の貝まで範囲を広げてみると、大きな軟体には獲物を抑え込む働きがあるようです。
 
 さて、僕は普段、アンテナを立ててさまざまな情報を進んでキャッチし、より有利に暮らそうとしているのですが、漁師さんたちと話をしていると、みんな素朴で、そうしたスタイルとは全然違う生き方があるのだろうなぁと感じられました。
 特にインターネットは情報という側面が大きく、インターネットをよく見ている人は、最新の情報、知識等を求めているわけですが、人が幸せであるためには、最新である必要はないし、普通でいいのかな?と思ったりしました。
 
 

● 21/6/10〜21 ナメクジはカタツムリだった?



 本が出ます。タイトルは、「ナメクジはカタツムリだった?」です。
 出版社は岩崎書店で、配本日は明日(22日)。アマゾンでは、発売日は6/24と記載されています。
 
 僕は、昆虫写真家の海野先生に見せられる本を作ることを、1つの目標にしてきました。
 海野さんは自然写真に関して、誰よりもあたたかいと同時に、誰よりもするどい人だから。
 見せてアドバイスをもらいたいわけではありません。僕にはその手の向上心はあまりありなく、本を作りましたと報告できるとするならば、それが自分の喜びだからです。
 今回の本は、はじめて、それができるかな?という気がしています。

 具体的には、生き物を好きな人が見ても、まだ興味がない人が見ても、どちらでもオモシロイ本を作りたい、です。
 普段仕事でこれを撮ってと求められる生き物は、ナナホシテントウ、アゲハチョウ、ダンゴムシ・・・大抵は、多くの人にとってなじみのある、すでによく知られている生き物です。
 なじみがある生き物が出版の中心になるのはいいと思うのですが、その枠に入らないものが完全に排除されてしまうのは極端ではないか?と感じるのです。
 生き物にあまり興味がない人しか楽しめない作り方は、残念だなぁと思うのです。
 例えば、海にアジを釣りに行った際に、生き物が好きな人は、アジ以外の魚が釣れるととても楽しくなります。
 人の意図ではないもの、予想外のものが自然の面白さだからです。 
 ナメクジはカタツムリだった?は、そんな自分の思いを込めて作った本です。



● 21/6/6〜9 野良猫の写真

 岩合さんの野良猫の写真は、なぜあんなに人気があるのか?は、僕にとって、とても興味を惹かれることです。僕は目立つのが嫌いなので、自分が人気写真家になりたいとは思いませんが、知りたいという気持ちは大いにあります。
 野良猫や野猫は、糞尿やいたずらなど、その存在を迷惑に感じる人もたくさんいます。それから、希少な野生生物を食べてしまう問題もあるわけですが、今回は、そこには触れずにおこうと思います。

 自然界に存在するものは、大抵のものが連続していて、その境目はモザイクになっています。
 例えば、オスとメスがそうです。
 時々、半身がオスで半身がメスのような生き物が見つかりますし、人間の中にも、体は男性だけど心は女性(あるいはその逆)を主張する方がおられます。
 その人は男なのか?女なのか?と言えば、正確に言えば、どちらでもなく、分けることができません。
 それに対して人の社会は、男と女をきれいに線引きしようとします。男女の境界線がモザイクなっていると、公衆浴場やトイレやスポーツの大会などの問題が生じるからです。
 でも実際は、男女の境目はモザイクになっているので、それはそれで、別の問題が生じます。
 先日、ある政治家さんの、
「体は男性で心は女性(あるいはその逆)なんて認めない。自然に反するから」
 的な発言を耳にしましたが、実は、自然界では男女の境目はあいまいで、それを自然に反して分けているのが人の社会だったりします。

 野生生物とペットや家畜の間も、きっちり分けれるわけではなく、連続しています。それから、外来種と在来種だってそうです。
 自然界には、野生とかペットとか家畜とか在来とか外来といった概念が存在しません。
 でも、その境目をあいまいにしておくと人の社会が困るので、無理やりに、人工的な線を引くことになります。
 つまり、野生、ペットや家畜、在来種、外来種と言った明確な線引きは、人の社会の決め事であり一種のルールなのです。
 ルールは、人の社会の中ではとても大切なものですが、一方で、人を窮屈にもします。
 自然のままでいいのならルールは必要ないわけですから、ルールは基本的に反自然です。でも、人は人の社会の一員であると同時に、やっぱり自然の一部でもあるからです。
 例えば、男女がきっちり線引きされると、とても窮屈になってしまいます。実際は、男女はそうして線引きできるものではないからです。

 岩合さんの写真には、飼われているわけではなけけど、野生でもない猫の姿が写っています。
 そこが、物事をルールで線引きしようとする人の社会に対して、より自然でありたいと思う人の琴線にふれているのではないか?と僕は推測します。
 では、いろいろなルールを作ってなされている生き物の保全活動は、一体何を保全しようとしているのでしょう?
 保全活動は、自然(=人のルールではないもの)を守るというよりは、もっと物質的で、自然物を守る活動のように僕は感じます。
 実は、自然を守ることと自然物を守ることは、かなり違うことで、両者は意外に相反します。

 ずいぶん前の話ですが、写真展の際に、
「君ねぇ。写真展をするのなら、最後に自然保護を訴えないといけないよ。」
 と言われ、つまらない人だなぁとと感じたことがありました。
 自然保護は、人の在り方の話ですが、僕は、自然っていったいなんだ?という観点に興味があるからです。
 それはともあれ、今日の記事は、自然っていったいなんだ?という観点に立つカメラマンの目から見ると、岩合さんの野良猫の写真はこう見えるという話です。



● 21/5/17〜6/5 更新のお知らせ

4月分の今月の水辺を更新しました。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2021年6月分


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