撮影日記 2021年2月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 21.2.22〜26 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。
 今月は、本は東京中心に書かれていて、怪しからんという話です。



● 21.2.12〜2.21 生態系サービス

 最近時々耳にする『生態系サービス』とは、Wikipediaによると「生物・生態系に由来し、人類の利益になる機能」のことですが、僕は、イマイチ好きになれない言葉です。
 人の役に立つかどうかという話は、「機能」の話ですが、機能の話はその宿命として、いずれ、ではその中で必要最低限なものは何なのか?に行きつくから。
 自然が人の役に立つのは事実だし、人はそれなしでは生きていけないわけですが、世の中の大多数の人はそんなことはわかった上で、機能という観点に立つからこそ、まだまだ自然は削れると思っているように僕には感じられるのです。
 例えば、水辺にメダカがいるかどうかは、大多数の人にとってはどうでもいいこと。だからメダカが果たしている「機能」の話になってしまえば、メダカは、いてもいなくてもどうでもいいという人が多数派を占めるでしょう。メダカは名前が知られていて、のどかで平和なイメージがあるのでまだしも、そうではない生き物は、機能という見方をすれば、ほぼほぼ不要になってしまうでしょう。
 生態系サービスでおいしい魚が食べられるよ、と言っても、それを機能として見る限り、人の役に立つ魚が人の手に入るような方向に向かうだけで、その先にあるものは、役に立つものも役に立たないものも含まれた自然とは別のもののような気がしてならないのです。
 生態系サービスの中には、人の心が癒されるなどという概念も含まれていますよ、と言いたくなる方もおられるでしょうが、それを言うと、世の中のありとあらゆるものが人の役に立つのであり、自然が役に立つなどということを論じる意味がなくなってしまいます。
 
 一方で、よくよく世間を見渡してみると、機能ではないものが幅を利かせているケースも多々あるように思えます。
 例えば、服や車のデザインがそう。
 それらのデザインの一部は機能性ですが、そうではない、単なる人の気分の問題の部分、役に立つかどうかという観点に立った時にある意味とてもくだらない見かけだけの部分がなぜだか大きなウェイトを占めているのです。
 僕は、機能という観点から物を見る『生態系サービス』という概念よりも、もっとくだらない観点の方が重要であるような気がするのです。
 それは、立派な人がお説教をすることではなく、楽しく生き物を知ってもらうことではないか?という気がします。
 コロナ騒動で痛感させられるのは、どんなに誰かが理論的に正しいことを主張しても、多くの人が理解でき賛同できする範囲でしか物事は成立しないということ。
 知識でも、法律でも人は縛れないということ。
 それ以上のことは、共産圏の国みたいなシステムでもなければ、できないということ。
 物事は頭が良い人が知識で決めるわけでも、政治家が決めるわけでもなく、みんなの空気で決まるということ。



● 21.1.31〜2.11 プロの考え方

 例えば、カエルが大好きで、カエルの写真だけを撮って暮らしたいと思っても、日本で一年間に流通するカエルの写真の総額が人が一人暮らせる年収よりも少なければ、カエルの写真だけで暮らすことはできません。
 実際には、カエルの写真の総額は、人が一人暮らせる年収よりも多いとは思うけど、それを何人かのカメラマンで分け合うことになるので、やっぱりカエルの写真だけでは暮らせないでしょう。
 すると他の何かにも撮影対象を広げていくことになるのですが、その際に、生き物が好きなら生き物を好きとは限らないのが難しいところです。
 
 時々思い出すのは、生物学の学生時代のこと。
 卒業論文を書くために研究室に配属される際に、研究室側の都合で定員があり、必ずしも希望の研究室に行けるとは限らなかったのですが、「あの研究室には絶対に行きたくない。」的な話になりました。
 みんな生き物の研究に興味があって大学に入ったはずで、どの研究室に配属されても生き物の研究をできるはずなのに。
 自然写真でも、これは撮りたいけどあれは撮りたくない的なことは、しばしばあります。
 では、自然写真を職業にしていて必ずしも今自分が興味を持っているものではない被写体にもレンズを向ける人は、どうやってそれに対応するのでしょう?
 僕の場合は、写真を撮りながら目の前にある被写体を好きになる、です。
 今自分がそれを撮りたいかどうかはある種の思い込みや仮のものであり、物事はやってみなければ分からないし、やれば、大抵の生き物は被写体として面白いという考え方です。
 リクエストがあった被写体を我慢して撮っているわけではなく、それを好きになる訓練=物をちゃんと見る訓練をするのです。

 大学時代に研究室に別れる際に、みんなが行きたくないと嫌った研究室に、
「じゃあ、僕が行きます。」
 と進んでいった行った同級生が一人いました。岡野聡君でした。
 僕は当時、岡野君はあまり研究には興味がないから譲ったのだ、と思いました。また、どうしても行きたい研究室があり他は絶対に嫌と主張する者は研究にこだわりがあり、やる気があるやつだ、と。
 ところが、その岡野君は研究者になりました。一方で、どうしても行きたい研究室があり、他所には絶対に行きたくないと主張した者は、誰一人研究者になりませんでした。
 岡野君は、研究に興味がなかったのではなく、生き物の研究に興味があったからこそ、どの研究室でも研究ができたわけです。
 僕の恩師は、
「研究室なんてどこでもいい。」
 と当時主張しました。
 理由は、どの研究室に配属されても、生き物の研究をするのだし、生き物の研究は面白いのだから、でした。
 今なら、僕も恩師の話が理解できるのですが、二十歳そこそこの岡野君がそれを理解して研究者になって今でも活躍しているのは、凄いなぁ。
 つまり、それがプロの発想なわけですが、あいつ、二十歳そこそこでプロの考え方を確立できていたんだなと、と今更ながら驚かされるのです。
 もちろん、今自分が興味があることだけでやっていけるプロも、中にはいるのでしょうが。
 
 

● 21.1.31〜2.11 カマキリの卵

 非常に高く評価されている大先輩の写真家が、その年のカマキリの卵の高さと雪の深さについて、自分が見ている範囲では今のところ関連がある、とSNSの中で触れておられた。つまり、卵が高い位置に産み付けられた年には雪が深く、そうでない年には雪が少ないのだと。
 哺乳類や鳥類を得意としておられ昆虫の話はほとんど出て来ない方なので、へぇ、そんなことにも興味があるんだ、とちょっとビックリ。
 カマキリの卵の位置と雪の深さに関しては、それを完膚なきまでに否定する研究結果が発表されている。そもそも、カマキリの卵は4ヶ月間雪に埋もれても孵化率に何の影響もないことも調べられている。
 だが写真家という存在は、何が世間で知られている客観的に正しいことなのか?ではなくて、自分の目の前で起きたことを大切にしなければならないんだろうなとも思う。
 そこが学者と作家の違いなんだと。
 ある1つの光景が、僕の目に浮かぶ。
「その年のカマキリの卵の高さと雪の深さについて、自分が見ている範囲では今のところ関連がある」
 と主張する人に対して、
「それは間違えです。この論文で否定されていますよ。」
 という人の姿が。
 大切なことは、そんな論文を知っているかどうかではなくて、自分の目で見ようとしているかどうか、ではなかろうか?
 自分で調べる意思がない人間が、誰かの論文を持ち出すのは、虎の威を借る狐みたいなもので、どんなに知識があってもむしろ恥ずかしい。
 自分が写真の仕事をしていることは別にして、最近、知識よりも自分の目の前で起きていることをもっと大切にしないといけないんだろうな、と感じるようになってきた。そして知識はあくまでも、自分の目で物を見ることを支える存在に過ぎないと。


   
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