撮影日記 2020年12月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 2020.12.30〜31 自然とは

 コロナの影響だと思うのですが、今年は僕のSNSのタイムライン上に、政権批判をはじめ、危機を煽る重苦しい書き込みが多くなりました。
 僕は、
「もうこの国はおしまいだよ。急がないととんでもないことになるよ。急がないと間に合わないよ。」
 的な話には乗らないことに決めているので読み飛ばしていますが、それでも重苦しいなと感じるほどに。
 因みに、子供の頃の重苦しい話と言えば、「あと○○年で石油が無くなる。」でした。
 その手の話を楽観しているわけではありませんが、悲観したところでどうにもならないことが世の中にはたくさんあると思うのです。
 危機をあおれば変わるような気がしても、変わる程度は誤差に収まるレベルであり、知識を供給することはとても大切なことですが、結局多くの人の暮らしに何らかの実害が生じ始めて、みんなが困ったを体験しない限り変わらないのだと。
 
 ともあれ、そうした人の力ではどうにもできない物事のことを自分が「自然」と定義し、自然とは何か?つまり、自分が望もうが望むまいが受け入れざるを得ない人の力ではどうにもならないものは何か?を知りたくて野山を歩いていることを、改めて感じた一年になりました。



● 2020.12.29 夫婦別姓の話


 
 柱に残った背くらべの跡。
 浩通君は、僕のいとこで、僕よりも2〜3才年上だったはず。だから、もしも今生きていたら55〜56才くらい。
 残念ながら14才の時に亡くなり、今はもうこの世にいません。
 浩通君の両親、つまりぼくの叔父さんや叔母さんは、割と最近ですが大分県に引っ越してしまったのでお墓の手入れをする者はなく、昨年、僕は誘われてお墓の手入れに行きました。
 お墓は荒れていましたが、叔父さんや叔母さんが浩通君のことを忘れたわけではなく、何かの歌詞にあるように、浩通君はお墓にはいないということ。
 今年になってからは、浩通君の弟であるかずちゃんが墓じまいをして、大分県のお寺の納骨堂に引っ越しをしたそうです。
 あと30〜40年もたって、かずちゃんや僕らの世代の親類が死んでしまえば、浩通君のことを知っている者もこの世の中からいなくなります。お墓のわずかな記録もなくなってしまうと、最初から存在しなかったのと、ほぼほぼ同じになってしまいます。
 それを思うとやっぱり寂しい気持ちになり、供養って、どんな形が一番望ましいのかな?なんて、普段考えもしないことを考えてしまいました。
 因みに、墓じまいをした僕のいとこのかずちゃんは
 https://kirafte.com/
 店主の日常ブログに墓じまいのことを書かれていました。
 


 武田家のお墓も墓じまいしました。
 67才で亡くなったことが記されている武田新さんは、確か僕のおじいさんのお父さん。
 それよりも1つ前と2つ前に刻まれている3才と5才で亡くなった二人の女の子は、順番から判断するに、新さんの娘?つまり僕のおじいちゃんの兄弟でしょうか。

 僕は選択的夫婦別姓に反対する人の気持ちが、全く理解できませんでした。
 というのは、別姓に反対する人は同性を選択すればいいし、別姓にしたい人は別姓にすればいいのだから、誰も困らないじゃないかと思ったから。
 でも、同姓にすることで、人のルーツが残りやすいというのは、あるかもしれませんね。
 自分のためではなく、未来に生まれる誰かが自分のルーツをたどりたいと思った時により多くたどることができ分かりやすいのは、間違いなく夫婦同姓の制度でしょう。
 ルーツは、別の言葉で言うと血縁。
 血縁なんて糞くらえ!という気持もないわけではありませんが、それは僕がそういう意味で孤独ではないからであり、大半の人は気付かないだけで、どこかで血縁に支えられているような気がします。例えば、僕が天涯孤独だったなら、自分の祖先のことを知りたいと思うような気がするのです。
 確かNHKのテレビ番組だったと思うのですが、有名人の祖先をたどる番組があります。
 そうした番組が成立するということは、他人の祖先でさえ関心があるということであり、皇室の存在意義も、究極のところは、日本を代表する血縁、血縁のきれいなサンプルではないかと思うのです。
 あるいは、僕らが生き物を好きというのも、理屈抜きに脈々と受け継がれているものごとに対する思いの一種なのかもしれません。



● 2020.12.23〜28 助からないと思っても助かっている。

 先日、将棋の羽生さんが、「負けました。」と投了したことが話題になりました。投了とは、途中で自ら負けを認めて対局を終了することです。
 将棋の対局はほとんどすべての場合で最後まで戦うのではなく、途中で投了するのですが、異例だったのは、羽生さんが投了した時点では、コンピュータ-による評価であるAiは羽生さんの方が断然有利だと評価していたこと。
 対局者にはAiの評価は分からないので、対局終了後にそのことを新聞記者から知らされた羽生さんはビックリ。羽生さんほどの人が、もう手の施しようがない100%負けだと判断した状況が、実はそうではなかったのです。
 Aiが発達したら消滅する職業がたくさんあるとまことしやかに囁かれていますが、自然写真はどうなっていくのでしょう。いや、自然写真に限らず、人にしかできないことは何なのでしょうね?

 コンピューターは、これを計算しなさいと、最初に人が文字を入力しなければ始まりません。
 つまり人が文字として入力できないもの=まだ言語化できていないものごとは、取り扱うことができません。
 だとするならば、人にしかできないことは、まだ言語化されていないことを言語化すること。
 つい先日も同様のことがあったばかりですが、僕が撮った写真に対して、
「何が違うかは言葉にならないけど、この写真ではなない。」
とダメ出しが出る場合があります。
 いやいや、ダメ出しは構わないけど、何が違うか分からないなんて、じゃあ僕はどうやり直したらいいの?と困った気持ちになりがちですが、むしろチャンス。
 他人が言語化できにくいことを言語化できるならば、その人はAiには置き換えることができない仕事をしている人だから。
 よし、俺にしか解決できない事態が起きたぞとウキウキできることが大切で、逆に、具体的に指示してくださいなんて求めるのは、作家であることを自ら放棄する言動なのかもしれません。

 ともあれ、羽生さんが投了した状況が、実は羽生さん俄然有利な状況だったことを知って僕が真っ先に思い浮かべた言葉は、やはり将棋の故・大山康晴15世名人の
「助からないと思っても助かっている。」
 という言葉(正確には、陶工河井寛次郎の言葉で、大山名人がその言葉を好んで使ったらしいのですが)。
 僕は、「助からないと思っても助かっている。」という言葉を予定表の一番上に書いておき、時々自然と目に触れるようにしているのですが、今自分が、或いは人類が予測していることが、良くも悪くもほんとうにその通りになるとは限らんよという感覚がより大切になってくるのかなぁという気もします。



● 2020.12.21〜22 オリジナル

 人が生み出すものは、ほぼすべてがコピー&ペーストだという意見に対して、いやいや、元々はコピー&ペーストでも、その組み合わせでオリジナルなものが生まれてくる、という議論を見かけました。
 写真を仕事にしていると、オリジナリティーはしばしば要求されることであり、オリジナリティーについて考えている時間は長いのですが、僕の考えは前者です。
 オリジナルなものとは、正確に言うとオリジナルであるかのような印象を与えるものであり、人が生み出すもので実際にオリジナルなものなんてないような気がするから。
 むしろ、人の世界で評価されているものは、たくさんの人が、
「自分もこれいいと思うよ。あなたと同じ感じ方だよ。」
と言ったものであり、オリジナルとは逆に、みんなと同じだったという話。
 本当にオリジナルなものなんて、もしもあったとしても、それはオリジナルなんだから、誰も理解できないことになります。



● 2020.12.20 達人の話

 鱒の撮影の達人からだと思って電話を取ったら、奥様の声で、達人が亡くなったことを知らされました。
 以前に電話をした際に、食道がんを患い入院しても何もできることがないらしくて自宅療養をしていることや、だから今年は一緒に鱒の産卵の撮影はできないことを聞かされ、会いに行きたいなと思ったのですが、食道がんはきついと聞いたことがあり躊躇しました。
 でも、日に日に達人のことを考える時間が長くなるので、とにかく会いに行こうかと思った矢先のことでした。
 寂しいなぁ。

 僕は、自分はタバコを吸わないくせに、タバコが大好きな人を好きになる傾向があり、達人も、タバコとお酒が大好きでした。ひたすらに節制するよりも、好きなことをするというスタイルに共感するのかなぁ。話をしていると、この人みたいな老後を送れたらなとよく感じたものでした。
 達人がいない今年の鱒の産卵の撮影は例年のようには楽しくなくて、自分が撮影を楽しみにしていたというよりは、達人に会いに行っていたことに気付かされました。
 でも帰宅後に去年や一昨年に一緒に撮影した写真を見ていると、その時に話したことや現場の天気や気温や空気のにおいなどがまるでつい今しがたのように思い出され、達人が傍にいるかのような気持ちになりました。
 ああ、それが写真を撮るということなのかなぁ。一枚の写真の写真としての出来不出来よりも、その時間や空間や思いを残すことができる写真がいい写真なのかもしれないなぁ。
 写真は、人に見てもらわなければ意味がないと思っていたのですが、写真の原点は、自分が見るためのものなのだと付きました。
 来年同じ場所に行けば、今度は、達人と一緒に写真を撮っているかのような気持ちにもなれるのではないか?という気がしてきました。

 達人は広島県在住で、本来僕とは出会うはずもない方だったのですが、その縁を遡ると、山口県在住で両生類好きの徳永浩之にたどり着きます。
 その徳永さんの知人だった下川さんと出会い、さらに下川さんの知り合いだった中島さんと出会い、中島さんの知り合いだった達人と僕は出会いました。
 そうした縁を作ってくださったみんなに感謝しなければならないなぁ。みなさんがこの世に存在してくださって本当に良かった。



● 2020.12.17〜19 外来種の駆除の話

 自然科学という学問は、自然界に存在する法則性を研究する学問です。だから科学者が言う「自然」とは、基本的に、物事の法則性を指します。
 例えば、生き物を中心とした自然界のつながり(法則性)のことをまとめて生態系と呼びますが、生態系は科学者にとって自然です。
 その生態系の中に外来の生き物が入ってきて、従来の生き物どうしの関係、つまり生態系が崩れてしまうと、それは科学者にとって自然が破壊された状態です。
 一方で、多くの日本人が使う自然という言葉は科学者が言う自然とは別物で、人の意思ではコントロールできないもののことを指します。
 例えば、台風は人の意思ではコントロールできないので、自然です。
 養老孟子さんは、人の体は自然だと主張しておられますが、これも同じです。多くの人は自分の意思で寝たり起きたりしているのだと勘違いしているけど、実際は、体が寝てしまうから意思も眠り、体が目覚めるから意思も目覚め、人は自分の意思で寝起きしているわけではなく、体は自然だと言うのです。
 外来の生き物について考えてみると、今日本では、各地で外来の生き物が住み着いてはびこっていますが、生き物たちの従来の分布が乱れてしまう現象は、恐らく、人が地球上に登場した時点で必ずそうなると決まっていた規制路線であり、人の意思ではどうにもならないことでしょう。
 誰かが悪いというのは大間違えであり、人類が仮に何度人類の歴史をやり直しても、必ず今と同じ状況になるのではないでしょうか。だから外来の生き物が各地ではびこることは、自然です。
 つまり、科学者が言う自然と日本人が使う自然という言葉は、重なる部分もありますが、それなりに違うものでもあり、日本の自然を保全しようと思う人は、そこをよく理解しておくことが大切ではないかと思います。
 科学者が科学の知識でもって、日本の自然を守るために外来の生き物を駆除しなければならないと言っても、多くの日本人は、その理屈は理解しても、外来の生き物がはびこることも自然じゃねぇ?って心のどこかで思うことでしょう。

 では、多くの日本人にとって、外来の生き物がはびこるのは自然だから、日本では外来の生き物を放っておいていいのか?と言えば、答えはNOです。
 例えば、川が氾濫するのは自然ですが、人は護岸をしたりしてその自然に逆らいます。同じように、外来の生き物がはびこることが自然であっても、必要があれば、人はそれに逆らうわけです。
 外来種の駆除は、自然を守るためではなく、自然に逆らって人の価値観を守るため。
 それを、自然を守るためだと勘違いしてしまうと、日本では外来種の駆除は上手くいかないような気がします。



● 2020.12.15〜16 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。
 2020年11月分の今月の水辺は、生き物の分布の話です。



● 2020.12.06〜14 続けることが難しい

 小学校の学級会でよく、
「武田君がこんな悪いことをするので、止めて欲しいと思います。」
 とみんなに指摘をされたものですが、時々、子供の頃の僕によく似ているなと感じる若者に出会うことがあります。
 そうした子供たちに割と共通しているように感じるのは、親の意識が高い場合が多々あること。親が立派なことを言い過ぎると、子供にとっては難しくなるのかな?
 意識を高く生きるには、それができるだけの力量が必要であり、自分の力量とのバランスが悪いと、人は暮らしにくくなります。
 意識が高いと言うと何か凄いことのような気がしますが、実際は、ほとんどすべての場合で当たり前のことを当たり前にやるだけ。だから、意識高く生きようとしている人は、しばしば自分の主張を当たり前だと思っているわけですが、その当たり前が、現実にはとても難しかったりします。

 さて、自然写真の仕事をしていてよく思うのは、これは絶対にできないというような仕事はほとんどないということ。
 大抵の場合、すんなりとはできなくても、修正に修正を加えれば解決できる、つまり今の自分でもできることの範囲の収まるのに、それを長い期間ずっと続けるのがこれまた難しいのです。
 僕は、自分が乗る気であろうがなかろうが、出来そうであろうがなかろうが、いつでも同じように淡々と取り組むことに決めていて、そこをそれ以上考えないことにしています。



● 2020.1126〜12.05 準備

 今日は、日本自然科学写真協会の技術講習会の講師として、「遠隔地操作で撮りにくいシーンを撮る」というテーマで話をします。
 その際に取り上げるものについて、ここでも紹介します。
 話を聞いて、
「あれを自分も試してみたいな」
 と感じた方は、下記を参考にしたり、下記より入手してください。


【水中でWi-Fiを使用するためのコードについて】

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 Bi Rod × Wireless Line
 https://birodstore.com/pages/underwater

 A 自作の方法を紹介するユーチューブ(1)
 水中撮影モニタリング用Wi-Fiアンテナケーブルの作り方
 https://www.youtube.com/watch?v=o0dq2PUxiA8

 自作の方法を紹介するユーチューブ(2)  SSP会員横山和男さん
 B 水中撮影 Wifi 実験 OLYMPUS TG-4
 https://www.youtube.com/watch?v=W4IxSbT3WME

【カメラ用のWi-Fi】
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 エアーダイレクト
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【被写体監視のためのカメラ】
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Signstek fish finder 釣り時水中監視器 モニター監視 録画 撮影
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● 20201126〜12.03 準備

 日本自然科学写真協会の技術講習会で話をする関係で、紹介する機材の写真を幾つか撮りました。カメラにコードで取り付けてある物体はカメラ用のWi-Fi。これを使うと、説明書では、60M離れた場所にあるPCやスマホから、カメラをコントロールできます。





 カメラ内蔵のWi-Fiとの違いは、電波が飛ぶ距離が長いのとカメラのバッテリーを使用しないのでより長時間使用できること。
 パソコンからのコントロールの場合は、メーカーの純正ソフトでテザー撮影が可能なカメラなら、大抵使用可能です。
 スマートフォンの場合は、ニコンとキヤノンのみです。この手のアクセサリーは、ニコンとキヤノン限定の製品がそこそこあるので、ニコンかキャノンは持たざるを得なくなります。

 遠隔地操作の道具などは、少しでも生き物を脅さないために、多少ならお金がかかっても買うし、今すぐ使わない場合でも持っておくように心掛けています。
 例えば、止まる場所が決まっている野鳥の撮影なら、そこから20Mの位置に望遠レンズ付きのカメラを放置し、そこからさらに50M離れた車の中からカメラをコントロールするなどが可能かも。ただし、遅延がそこそこありますが。
 ブラインドを張っても警戒されるとか、ブラインドを張るスペースがないとか、スペースはあっても人がよくくる場所で、ブラインドを張ると占有している感じがして嫌だというような人など。

 これをオンの状態でカメラに取り付けると、カメラの電源もオンになりバッテリーを消耗してしまうので、待機の時間が長い自然写真の人間としては、このWi-Fiを60メートル離れた位置からオンオフできるリモコンが欲しいです。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2020年12月分


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