撮影日記 2020年11月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 2020.11.24〜25 好きなことを仕事に?

「好きなことを仕事にできていいですね!」
 と言われることがありますが、僕は、仕事として自然写真を選択した時点では、一度も自然写真の仕事をしたことがありませんでした。
 つまり経験したことがなかったのだから、その時点で自然写真の仕事を自分が好きかどうか、わかりませんでした。
 そして実際に自然写真業界に飛び込んでみると、思っていたものとはかなり違うし、それは、一部の天才を除いて大部分の同業者が同じじゃないかな?
 みんな、好きなことをしているのではなく、自分の目の前にあった自然写真の仕事を新たに好きになっているのだと思います。
 さらに、仕事の中身は、時代背景を反映して変化します。そして変化が起きると、その変化した自然写真の仕事を、改めて好きになるわけです。

 問題は、仮に仕事の側が変化しなくても、自分の側も変わること。今まで好きだったことに、やがて興味が持てなくなるというのは、人間にはよくあることです。
 これは、努力云々の話ではなく、誰も悪くありません。
 時々、努力で何でも乗り越えられると思い込んでいる人がいますが、そんな人だって、苦手な食べ物や苦手な人がいるはずです。
 自分のことだから、自分でどうにかできるというのは、ただの妄想。
 ともあれ、興味を失った場合に、趣味ならやめればいいだけですが、仕事の場合は、代わりにお金が得られる手段が確立されない限り放置できないので、とても困ったことになり、プロにとって最も恐ろしい事態でしょう。
 僕だっていつそうなるかわかりません。

 多少なら、対策があるような気もします。
 予防というやつです。
 体の健康管理にある程度の効果があるように、こんなことをしていたら情熱を失うことに結びついてしまうよという心の健康管理は、それなりに大切なことのような気がします。



● 2020.11.21〜23 スタジオの勉強は必要か?

 昔、ギタリストに憧れてギターの練習をしていた時に、大好きな曲の難易度が高いギターソロは、それなりにコピーできるのに、単純なペンタトニックスケール(ドレミファソラシドみたいなもの)の練習になると、ミスが多かったり、安定性が悪かったりして自分が明らかに素人だったことを、時々思い出すことがあります。
 写真でも、同じようなことが起きます。
 飛んでいる鳥やトンボの難易度が高い写真が撮れるのに、ただポンと置いてあるだけの物の写真が撮れないケースをSNSなどで非常によく見かけるのです。
 なぜ、そんなことが起きるのか?と言つと、難易度が高いギターソロや飛んでいる鳥などは、表現しようとしているもの自体に華があるので、技術が低くても、演奏できたり写真が写ればそれっぽく感じられてしまうのに対して、ドレミファソラシドやただポンと置いてあるだけのものみたいな退屈なものは、本当の技術がなければ表現できないから。
 そういう意味では、生き物を撮影する時よりも、物体を撮影する時の方が、より写真の基礎が求められます。
 写真の場合、ただポンと置いてあるだけの被写体がきちんと撮れないのは、写真は本来どう写っているのが理想かが体に染みついてないからですが、スタジオでの撮影を勉強すると、そこのところがとてもよく分かります。
 絵画で言うと、デッサン力を鍛えることに相当するでしょう。
 スタジオは勉強した方がいいのか?とたまに聞かれますが、プロを志す人の場合は、その人の伸びしろを左右するし、僕は勉強することをお勧めします。
 
 ただし注意しなければならないのは、スタジオで撮る写真は理想に近い写真なので、そうではない写真が撮れなくなってしまう嫌いがあること。
 例えばフィルムの時代には、スタジオで写真を撮っておられる方の中には、35ミリ判みたいな小さくて画質が悪いフィルムでは写真を撮る気になれないという方がおられました。
 でも、生き物の写真を撮る人の場合は、多くの人がその画質が悪い35ミリ判を使いました。
 大きなフィルムの理想の画質よりも、もっと大切なものがあるから。
 自然写真の場合は、写真の画質が理想ではなくても、とにかく写真を撮ろうとすることが大切なケースがあります。理想をちゃんと知っておくと同時に、時には理想を捨ててでも写真を撮れることが求められるのです。
 それさえ分かっておけば、スタジオでの勉強は、決して無駄にはならないでしょう。



● 2020.11.20 何が起きるかわからない

 今月の水辺を更新しました。
 今回は、自分が死ぬ間際にもう一度見てみたいような気がするシーンを選びました。



● 202011.14〜11.19 何が起きるかわからない

 いつもなら、冬の間に一度上京して出版社に出向いて人と会うのですが、今年はコロナ騒動があるので上京は中止に。
 人に会うといっても何か具体的に打ち合わせたいことがあるケースは稀で、たいていは何となく話をして、その何となくが案外大切だったりします。
 写真撮影も同じだなと感じているのは、今日はこれを撮ろう!と具体的に狙って撮れる写真は、上手く撮れたとしても80点。
 仮に僕が、何かを狙って撮りに行って、
「今日の撮影は満点だった」
 と言ったとしても、それは80点満点のテストで80点を取ったような感覚であり、決して100点ではないということ。
 そもそも、自分が狙って撮れる写真は、人も狙って撮れる範囲に収まる写真であり、あくまでもそのレベルのもの。
 それ以上の写真は、思いがけずこんな凄いシーンに出会ってしまったよ!といった偶然でしか撮れないのです。
 絵画や文章を書くことと写真が違うのは、写真の場合は相手(被写体)あってのものであり、かなりの部分が被写体次第であり他力なのです。

 それに対してカメラマンにできることと言えば、ただ1つ。それは、偶然が起きるように仕向けること。
 部屋にこもっていたらその偶然は起きないのだから、とにかく出かけるのです。
 その場合に、撮らなければならないシーンがあってもいいけど、それはあくまでもその日のノルマであり、ノルマ以外で出会う何らかの偶然こそが本命だったりするのです。
 人に会う時も同じで、会って話さなければならない要件があってもいいのですが、それ以外に、会って話をしてみなければどんな展開になるかが分からない話が肝心であり、そのどうなるか分からないがとても大切だからこそ、人に会いに行くのです。



● 202011.7〜11.13 才能

 ツイッターに投稿される画像があまりに凄いので、この人何者?とある方のプロフィールを見てみたら、生き物関連のイラストの仕事をしておられる方でした。
 それならば多分分かるだろうと業界の知人に聞いてみたら、
「とっても面白い人ですよ。」
 とのこと。
 なるほどなぁ。

 絵の心得がある人が写真を撮ると、構図などの面で絵心に優れた写真が撮れるというのはあり得ることですが、僕が感じたのはそういうタイプの写真の凄さではなく、とにかく、よくこんなシーンに出会えたな的ないいシーンだらけであること。
 誰かの写真を評価する際に、写真の技術力が高いかどうかは、大したことではありません。
 写真の技術は、真似をしようと思えば真似ができてしまうものだから。
 絵画でさえ、素人では区別がつかないような有名作品の贋作を描ける人間は、それなりの数存在するのだし、機械で描き出す写真ならなおさら。
 一方で、なんでこの人の目の前でだけ、こんなにいいシーンが繰り広げられるの?と不思議になるような人が存在します。
 そしてそれは、真似ようと思っても、真似ることができません。
 そんな人のことを、写真の天才って言うんじゃないかな?

 強いてその方の写真の凄さをイラストの仕事を結びつけるならば、もしかしたら、イラストを描く際の資料として写真を撮られているのかな?
 投稿されるすべての写真が、単刀直入に被写体をズバリと見せていて、それゆえに非常に力強いのです。



● 202011.4〜11.6 管理

 絵コンテをもらった際に、これは大変そうやなぁと思った仕事が、案外楽に終わったので、何でかな?と考えてみたら、編集の方が、ちょうどいい具合に管理をしてくださったという結論に達しました。
 細かく言われ過ぎると、窮屈で、撮影が辛くなってしまいます。
 かと言って何も言われないと、つい後回しにしてしまい、その結果季節を逃し、季節を逃してしまったものをどう撮影しよう?とあとで苦しみ余計な時間を要する羽目に。
 上手に管理してもらえると撮影期間が短くなり、時に何日もの差になることを思うと、とてもありがたいことですね。
 上手に管理してもらった時って、トントントンと仕事が終わるので編集者の存在感が薄くなるのですが、なぜそんなに順調に仕事が進んだのか、ちゃんと気付きたいものだなぁと感じました。
 
 

● 20201025〜11.3 人の社会にあって自然界にないもの

 撮影中は、いい写真を撮ってやろう!などと考えることは、僕の場合は、ほとんどありません。
 頭の中にあるのはたいてい撮影とはかけ離れたことで、よく考えるのは、自然界と人の社会との違いです。具体的には、人の社会にあって、自然界にはないものついて。
 例えば、『約束』は、人の社会ではとても重視されますが、自然界には存在しません。
 自然とは約束ができないのだから、自然を相手にする仕事は約束を重視する人の社会とは相性が悪く、難しいはずです。
 
 人のすることでも、自然や動物に近い部分では、約束はほとんど意味を持ちません。
 例えば誰かを好きになった時に、その相手とどんな約束を交わしていたとしても、嫌われてしまったらおしまい。
 約束が違うと言ったところで相手の気持ちを取り戻すことはできませんし、約束が違うと主張すればするほど、空しくなるだけでしょう。
 相手のふるまいを分析したり、誰が正しいかとか間違えているかを論じても、何の意味もありません。
 要は、正しいかどうかよりも、モテるかどうかが大切で、結果がすべて。

 写真の仕事は、誠実にきちんと取り組んだかどうかよりも、究極のところは人気に左右される仕事なので、そういう意味では恋愛的だし、動物的。
 写真に限らず、創作活動は基本的にもてるかどうかが重要なので計算がしにくい面があり、仕事として成り立たせるのは難しい側面があります。
 その写真と自然とが組み合わさった自然写真は、仕事としては、非常に危うい仕事なのです。


   
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