撮影日記 2020年9月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 2020.9.19〜28 更新のお知らせ

 8月分の今月の水辺を更新しました。
 今回は、シオカラトンボの卵を選びました。シオカラトンボの卵を撮影したのは、何と15年ぶり。
 その15年で自分や自分の身の回りの環境がどう変わったのか?
 そんなところに触れてみました。



● 2020.9.14〜18 野暮用

 前回の更新の際に、昔撮影した人物の画像がぞくぞく出てきたことを書きましたが、それらは写ってくれた人に届けようと、人物別にフォルダーに分けておきました。 
 ただ、分けたはいいけど、ちょうど今野暮用が多くてなんとなく忙しくて、いざ送ろうとするとなかなかめんどくさくて、もう見なかったことにしようかという気持ちにも。
 そんなこともあろうかと思って、
「画像が出てきたから今度送るね。」
 などとういう迂闊なことは誰にも言っていないのが、ここ最近僕が大人になった部分かな?
 僕は、できればゴロゴロしておきたい怠け者のくせに、自分で野暮用を増やしてしまう傾向があるのです。
 最近は、触らぬ神に祟りなしとか、藪蛇といった言葉を、強く意識しているのです。
 
 

● 2020.9.10〜13 2005年

 画像を保存しているハードディスクに、重篤ではないものの、トラブルあり。
 すぐに復旧できたので、どれどれ中身は大丈夫か?確認してみると、主に2005年あたりに撮影したデータでした。
 懐かしくて、仕事そっちのけで画像の閲覧。
 いくつか人に協力してもらった写真もでてきて、これは誰に送る、こっちは誰々とフォルダーに分けて整理。
 人物って面白いな!と思った点は、人は老けるということ。
 お兄ちゃんがおっさんに、お嬢さんが・・・やめておきましょう。
 撮ったその時には何の変哲もない写真が、後で見るととてもおもしろかったりするのは写真や映像の魅力ですね。



● 2020.9.9 想像と実際の話

 新しいテクノロジーが登場して写真撮影が自動に近づき簡単になると、
「そんなやり方をしても面白くない。」
 とか、
「そんなことをやっていては上手くならない。」
 などと言う人がいます。
 一方で自然写真に関して言えば、基本的に、評価が高い人であればあるほど、新しいテクノロジーに貪欲で、新しいテクノロジーの登場をより待ちわびている節があります。
 何でだろう?

 「そんなやり方をしても面白くない。」とか「そんなことをやっていては上手くならない。」という人は、今の自分が想像できる範囲で物を考えているのかな。
 でも実際には、想像もつかないことがたくさんあるし、その想像もつかないことが未来であり、その未来に適応していくことが、その人が「現役」であるということだからじゃないかな。

 想像ができないことは、楽しい反面不安でもあります。
 新たに起きることは、いいことばかりじゃないし、悪いこともあるから。
 でも今の自分に想像ができる範囲だけで生きると、想像ができる範囲の中では伸びても、その範囲を超えて飛び出していくことはできません。
 そしてその自分の枠組みを何度も何度も飛び出した人が、きっと高く評価されている人なんじゃないかな。

 正確に言うと、新しいテクノロジーが登場した時に、
「そんなやり方をしても面白くない。」
 とか、
「そんなことをやっていては上手くならない。」
 などというのは、正しくは、
「今の私には、まだわからない」
 なんじゃないかなと思います。

 想像と現実がいかに違うか?は、プロの将棋を見ると、とてもよく分かります。
 将棋の世界を知らない人のために書くと、プロの棋士は、とてつもない大天才ばかりで、はるか先が読めるわけですが、そんな人でさえ、実際に1手指してみて目の前の駒の配列が変わると、しまったーなんてことが起きるから。



● 2020.9.9 プロの土俵

 日本自然科学写真協会への入会は、プロになるのに有効ですか?と聞かれることがあります。
 僕の答えは、必須ではないけど、プロになりたい人には有効かも。で、そんな動機の場合は、懇親会(飲み会)に参加することが何よりも重要です。
 
 自然写真は、コマーシャルフォトみたいなビジネスを前提としたジャンルと違って、元々アマチュアの世界です。
 アマチュアでも、写真が使われればギャラが支払われるわけですが、それらは専門誌や同人誌的なボランティアだと考えると分かりやすいでしょう。ギャラというよりは、謝礼に近い意味合いのお金です。
 つまり、写真業界の中でも自然写真業界の場合は、お金をもらったからプロというわけではない面が多分にあります。
 そうした枠とは別にビジネスを前提にしたプロの土俵があって、その土俵がどこにあるかを知るには、会の懇親会は大変に有効だと思います。
 特に今の会長・昆虫写真家の海野先生は飲み会が大好きだし、そうした動機で懇親会に参加する人にとっても好意的で、その人が懇親会に来てよかった!と思えるように究極の気配りが施されます。
 なんでこんなに全員に気を配れるの?と、あとに続こうとする後輩に対するその暖かさには、ただひたすらに感心させられるのみです。

 プロの土俵の場所を知るのは、なかなか難しいことです。なぜなら、「プロ自然写真協会」みたいな形で、プロの土俵が定義されているわけではないから。
 定義されていないものはコンピューターがとても苦手としており、ネットで調べても出てきません。でもその中にいる人はみんな知っているいわゆる「業界」であり、「世間」というやつです。
 他に定職を持っている人でも、その土俵で仕事をしている人は、プロ扱いされています。
 もちろん、プロでも、専門誌、同人誌、学会誌・・・等、その土俵以外で活動をすることはありますが。それらは、存在することに意義があるからです。

「写真が使われただけで自分はプロだと勘違いした困ったちゃんがいてね・・・」
 といった話は、愚痴としてちょくちょく耳にします。
「メンドクサイから、プロ扱いしておくんだけどね。」
 などと。
 例外なく、プロの土俵の存在を知らない人です。
 それで満足するのもいいけど、プロの土俵に上がりたいのなら、会は有効かもしれません。
 会というよりは、懇親会が有効なのです。



● 2020.9.7〜8 五感で感じる世界(後)

 のら猫がおもしろいのは、のら猫の行動が人工ではないからでしょう。
 人は、自分の暮らしを人工で塗り固めたがる癖に、人工ではないものを必要とし、人工ではないものに理屈抜きに魅せられます。
 そして人工ではないものを自然と言うのなら、多くの野良猫好きの人たちが魅せられているのは自然の面白さです。
 こう書くと、
「野良猫は人が放したものが由来であり、外来種であって、自然ではないよ。」
 と言いたくなる人がおられるでしょう。
 でも外来種や在来種と言った概念は、人の脳が作った概念でありカテゴリーなので、人工です。
 少なくとも自然界には外来種や在来種と言った概念はないはずだし、ではどこにあるのか?というと、各々の人の脳の中にあり、みんなでその概念を共有しているわけです。
 人の価値観と言ってもいいのかもしれません。
 さて、
「野良猫は外来種であり日本の在来種に悪影響を与える存在させてはならない」
 と主張しているほとんどすべての人が、自分たちの主張を、自然を守る主張だと思い違いをしている節があるように感じます。
 でも実際に守ろうとしているのは、自然ではなく、人の脳が作った自然という概念や知識、つまり人の価値観、人間だと思うのです。

 ここで大切なのは、人の価値観だからダメと言いたいのではありません。例えば人が作ったものを否定したがる人は少なくないのですが、そんな人は人間をやめるしかないでしょう。
 人の社会なのだから、人の価値観は何よりも大切。
 ただし、自分たちが守ろうとしているのが、実体としての自然ではなく人の価値観であることは、きちんと理解しておく必要があるんじゃないかな?
 野良猫の問題が揉める大きな原因の1つは、「野良猫NO」を主張する人の多くが、自分たちの主張が自然を守るためのものと勘違いしているところにあるよな気がするのです。
 本当は「もっと自然を大切にしようぜ!」じゃなくて、「もっと人間の価値観を大切にしようぜ!」だということを理解する必要があるのでは。

 ただし、人の価値観は、とても大切なものだけど、人の暮らしのすべてを人工で塗り固めることはできないでしょう。
 また、ここで僕が取り上げた「野良猫が好きな人」は、岩合さんの写真に写っているような野良猫を好きな人であり、野良猫好きにもいろいろな動機があって、一律に論じることができるわけないことは、付け加えておかなければならないでしょう。
 猫や鳩にひたすらに餌を与えている人などというのは、全く別の存在であるような気がします。



● 2020.09.03〜06 五感で感じる世界(前)



 以前にも紹介したことがある本ですが、この中の岩合さんの記事は、日本の自然写真家が書いたものやインタビューの中で、もっとも優れたものの1つではないかなぁ。
 冒頭に
「動物写真を撮るのに必要なのは知識ではない」
 とあるのですが、確かに、岩合さんの写真には、知識(=誰かから教えてもらわなければわからないこと)は写っていません。
 では何が写っているのか?と言えば、岩合さんが自分の五感で感じ取ったこと。
 知識が、人の頭の世界であり極めて人間的な物の見方だとすると、五感で感じ取るのは体の世界であり動物的。
 岩合さんの写真は、その捉え方が極めて動物的であり、そこに表現されているのは、人の体であり五感なのです。

 さらに読み進めると今度は
「僕の写真を見てくれる人は都市に住む人が多いわけで、その考えが分からなければだめ。」
 とあります。
「頭でっかち」という言葉がありますが、人の暮らしは都会に行けば行くほど頭でっかちになり、知識や情報など頭が占める割合が大きくなります。
 そして知識や情報は大切なものですが、その反動としてそうじゃないものも=知識ではなく五感で感じる何かが同時に必要になってきて、岩合さんの写真はそこを見据えていて、そこに応えているのです。
 実は、この岩合さんのこの記事とほぼ同じことをより直接的に主張する方がおられます。養老孟司さんです。
 養老さんの著作を読むと、岩合さんのこの記事やなぜ岩合さんが突出しているのかがとてもよく分かるようになります。

 少々下世話なたとえですが、不倫をしてはならないというのはとても人間的な考え方でしょう。でも一方で不倫をしてしまうのは、人の中にある動物的な部分。
 瀬戸内寂聴さんが「不倫であろうが何であろうが、好きになるのは仕方がない」と強く主張するのを聞いたことがありますが、実はこれも、岩合さんと同じこと、つまり人間にとって理性や頭の部分は大切だけど、人は動物でもあるのでそれだけで塗り固めることはできないよ、と言っておられるのかな。
 あるいは、医師の日野原重明さんが、
「自分は動物的な部分をたくさん残している人が好き。」
 と書いておられるのをどこかで読んだことがあるのですが、これも。

 岩合さんは野生動物以外に、野良猫をたくさん撮影しておられます。
 そして野良猫は外来種(本来日本にはいない生き物)であり、日本の自然に悪影響を与えることがあるため、「野良猫を楽しむのは間違っている」と岩合さんの作品に対しては、批判も存在します。
 その場合に、「野良猫は外来種である」というのは知識であり、誰かに教わらないと分からないことです。
 一方で岩合さんがテーマにしているのは、知識ではないもの。そして多くの人が、知識をはじめとする都会の頭でっかちな暮らしに疲れを感じ、そうじゃないものが必要になって岩合さんの写真を見ている。
 岩合さんの猫の写真を批判している人で、そこがきちんと理解できている人に僕はまだ会ったことがありません。
 僕は野良猫を放っておいてもいいとは思わないのですが、岩合さんが写真を通して表そうとしているところが理解できなければ、人は野良猫に何を求めているのか?がわからなければ、野良猫の問題には、いい落しどころが見つからないような気がします。
 野良猫の問題だけなら解決できても、形を変えて別の何かが現れるだけのような。
 不倫が無くならないのと同じで。



● 2020.09.02 打ち込める環境

 近年、年間で一番難しい時期は、7月後半〜8月かな。とにかく暑いので、体の管理に気を使います。
 疲れさせ過ぎないようにとか、パソコンでの作業が続いたりすると涼しい部屋に体が慣れてしまうので、デスクワークが連続しないように予定を組んだりとか。
 体の管理が悪いと、集中を欠いたり、物を壊したり、事故を起こしたり・・・
 そして体をきちんと管理しようとすると、心が穏やかであることがとても大切。
 悲しんでいたり、怒っていたり、心配していたりして気が散っていると体の管理まで気が回らなくなり、気付いたら夏バテをしていて、いったん夏バテをすると、涼しくなるまでほぼほぼ回復は不可能で一ヶ月くらい不調で棒にふってしまいかねません。
 そういう意味では、一緒に仕事をやり慣れていて、あうんの呼吸でいける相手はありがたいですね。
 写真の修行をすることは言うまでもなく大切ですが、集中して打ち込める環境を整えることの方が、自然写真のような仕事をする場合は、もっと大切であるような気がしています。



● 2020.09.02 自粛警察

 日本では、移動の自由は保障されているわけですが、伝染病が流行ったりすると、現実には、自粛警察みたいな人が現れたり、あるいはさまざまな社会からのプレッシャーがかかり、本来憲法で保障されている自由なんて吹っ飛んでしまうことが、コロナ騒動でよく分かりました。
 それを世論というのでしょうが、世論って、凄いなぁ。
 不謹慎に聞こえるかもしれませんが、興味深いなと思います。

 新型コロナは、元々は野生動物から、それを食べた人に最初に感染したなどと言われていますが、最初はおそらく一人かせいぜい同じものを食べた数人だったのが、あっという間に世界中に広がるのだから、人の貿易やネットワークって凄いものですね。
 コロナを収束させたり、同様の病気がまた流行した際に備えるためだけでなく、コロナを利用して取れる限りのデータを取り、人間の活動ってどんなものなのかを整理しておくべきじゃないかと僕は感じます。



● 2020.09.01 政治と自然

 有力な政治家って、何が凄いの?というのは、僕が子供の頃から知りたかったことです。
 地盤、看板、カバンなどと聞いたことがありますが、大雑把に言うと知名度とお金?
 別に知名度があってもお金があってもいいわけですが、では、人の社会をよりよいものにする能力には長けてないの?という点が、いつも疑問だったから。そういう角度から、政治家が取り上げられる機会は、ほとんどないから。

 大人になって分かってきたのは、有力な政治家は何のプロか?と言えば、権力闘争のプロだということ。
 そして、権力闘争は人を相手にする行為なので、権力闘争のプロは、疫病や自然災害のような人ではないものが相手になると、しばしば、実にお粗末だということ。
 しかし今後は、人ではないものを相手にする能力も大切になるんじゃないかな?
 そういう意味で、自然とは何か?を知ることの重要度は増してくるような気がします。
 
 ただしその場合の「自然とは何か?」は、僕を含め、多くの自然愛好家が考えるようなものではないでしょう。
 例えば、ペットとして品種改良されたメダカが野に放たれるいるのを最近時々見かけるようになりました。
 つい先日も、あるため池に青いメダカが大量に。
 ため池の管理者の人が放したのかなぁ。
 それらのメダカは、ため池の水を作物の育成に使用する際に流出するでしょうし、流出すれば野生のメダカと交雑をするでしょうから、やがて、地域によっては純粋な野生のメダカがいなくなってしまう危険性があります。
 自然愛好家は、そうした小さなことが積もり積もってやがて大きな環境問題になると懸念しますが、世の大多数の人はそうは思わないでしょう。
 メダカの遺伝子ごときは自分の暮らしには何の影響もないか、あっても、そんな細かいことを悩むマイナスの方が大きいと感じることでしょうし、そう考える人の暮らしには何の影響もないのは、多分正しいでしょう。
 「自然とは何か?」は、生き物愛好家的な視点ではなく、人の意思ではコントロールできないものがあることを頭に入れておくことではないかな?という気が、僕はします。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2020年9月分


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