撮影日記 2020年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2020.3.27〜31 植物の写真


 
 僕は植物には興味があるけど、植物の写真にはあまり興味がない。
 すると、植物写真の場合、こんな風に撮ってくれという人からのリクエストを受け入れやすい。
 言うならば、自分の側に意見がない状態であり、自分に意見がないと人からの要望がありがたいし、聞きやすい。
 そしてリクエストを受け入れて素直に撮ってみると、なるほどなぁと思う。ああ、写真ってこんな風に撮ればいいのか!と。
 思い入れが強い動物の写真では、なかなかそうはいかない。

 植物の写真と人物の写真は、よく似ていたりする。
 植物が生えている地面も含めて、植物体の全体が写っていて形がよく分かる写真が欲しいと求められることがあるが、人物の写真でも、全身が写っている写真は、何枚かの写真でページが組まれる際に必ずと言ってもいいくらい使用される。
 人物の場合、全身だとか、バストアップだとか、顔などの切り取り方があるが、植物もだいたい同じで、植物の場合は、花が顔だと思えばいい。
 人物の、それ以外の中途半端に切られた写真は、あまり見かけない。
 中途半端に切られた写真が好まれないのは、植物の写真ではなかなか理解ができないのだが、人物の写真なら分かりやすい。全身でもないしバストアップでもない写真は、中途半端で何を見せたいのか分からないし、写真が素人っぽくなる。
 そして人物の写真で被写体を切り取る際のルールが分かれば、ああ、同じことだよなと植物写真でもわかるようになる。
 恐らく・・・なのだけど、人物のポートレートが上手い人は、植物の写真が上手いんじゃないかな?花が顔で茎の地面に突き刺さっている箇所が足だよと教えてあげればいい。
 さらに言えば、植物の写真で言えることは、動物の写真にも当てはまる。
 動物の写真で人から指摘されても、思い入れが邪魔をしてなかなか受け入れられないことが、あまり思い入れのない植物の写真を撮ることで、身に付いたりするのだ。
 そういう意味では、あまり興味がないことをやらされる機会も大切なのかなと思う。好きなことばかりをやろうとすると、自分で自分の世界を狭めてしまう。



● 2020.3.23〜26 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。
 幼稚園の時に、運動場で一人でモンシロチョウの幼虫を探した思い出を書いてみました。



● 2020.3.22 M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PRO




 小型軽量な機材のメリットは2つ。
 1つ目は、持ち歩きが楽になること。近年は一般の人がスマホで撮影した映像がよくニュースで使用されるが、報道がどんなに凄い機材を持っていても、ここぞ!という現場でそれがなければ話にならないし、道具が常に持ち歩けるサイズかどうかは、非常に重要なこととなる。
 2つ目は、撮影時の扱いが楽になること。道具が軽いと、高速で動く動体を追いかけるのが楽に、確実になる。
 
 ミサゴの撮影に使用したレンズ・オリンパスのM.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROは、超広角やマクロレンズやストロボなどの日頃僕が使用している撮影機材を一通り全部持った上で、常に持ち歩くことができるギリギリのサイズにおさまっている。
 長さが約23センチで重さが三脚座を含めて1.5キロ。それよりも大きくなると、常時持ち歩くのはきつい。
 35ミリ判換算で600o相当。1.4倍のテレコンバーターを加えても何の問題もなく実用になるので、840o相当を常時持ち歩くことができるのは、非常に大きい。
 さらに、OM-D E-M1 Mark IIIボディーとの組み合わせで7.5段分の手振れ補正が効くとなると、三脚も不要。
 それが便利だということは購入する前から分かっていたのだが、実際に手にしてみると、便利などという次元ではなく、何と凄い道具だ!と感動さえ込み上げてくる。
 さらに、M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROは、虫の撮影でも、鳥の撮影でも、恐ろしくよく写る。
 もう凄いの一言。

 オリンパスのM.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROとあと一本、興味をひかれるのが、ニコンのAF-S NIKKOR 500mm f/5.6E PF ED VRだ。AF-S NIKKOR 500mm f/5.6E PF ED VRは、特殊な仕組みを採用することで、500oでありながら、常時持ち歩けるサイズに収まっている。
 このレンズに、APS-Cサイズのカメラを組み合わせれば、800o前後の画角が得られる。
 M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROで、小型軽量の威力を知ってしまった今、AF-S NIKKOR 500mm f/5.6E PF ED VRも欲しい・・・
 ただ、AF-S NIKKOR 500mm f/5.6E PF ED VRは一眼レフ用なので、今買うレンズではないのかな・・・。一眼レフ用のレンズをミラーレスカメラに取り付ける場合はアダプターが必要になり、アダプターの重量やサイズが常に加わってくるのは楽しくない。
 また、オリンパスでは可能なプリ連写ができるカメラが今のニコンにはないのと、接写能力もオリンパスほどは優れていないことを思うと、両方持っていても、オリンパスの方を使いたくなるのかな・・・多分。



● 2020.3.10〜21 有料記事のお知らせ

主に自然系の学芸員や研究者や自然愛好家を想定した有料記事です。本当は10円にしたいのですが、最低の価格が100円なので、仕方なく100円です。冒頭のみ、無料で読むことができます。
白バックの標本写真を撮る(2)
https://note.com/takeda_shinichi/n/nb0514ac1a69f

 記事を書くには時間がかかる。だから余程にたくさんの人に購入してもらわなければ記事の販売は成立しないし、そもそもこういう一般向けではない記事は、100円では確実にペイしない。
 むしろ有料にすることで、その分精度を高めなければという意識が働くので準備に時間がかかり、無料の記事を書くよりも有料の記事の方が断然赤字になる感じがする。
 今回の記事だって、いったい何日費やしただろうか。
 だが、有料にするだけで知らず知らずのうちに一生懸命になるので、そこに有料にする意義はあると感じる。一生懸命書くと、自分が書いたことに自分が教えられることがあるから。
 人と話をすると、やはり勉強になるなとよく感じるのだが、その場合も、人が僕に話したことが勉強になるよりも、自分が人に話したことに何かを気付かされることが多いような気がする。
 自分を引き出してもらう感じがする。
 最近、誰かのために書くのではなく、自分のために書くことを大切にしている。



● 2020.3.4〜9 志の話

「僕には志はないんです」
 と言うと、ある種の謙遜やギャグだと受け止められて、笑われてしまうことがある。
 だが、決してウケを狙っているわけではなくて、僕には志はないし、強いて言うなら、志がないのが志だと言える。

 志とは一般的に、世の中を良くしたいというような人の気持ちを指すように思う。
 平たい言葉で言うと、政治とか教育とか。
 政治や教育はとても大切なことだと思う。
 だが、それだけでは人の社会は成り立たないし、政治や教育ではないものも人間には必要であり、その例が、芸術だったりエンターテインメントだったりする。
 政治や教育が規律とするならば、芸術やエンターテインメントは自由。そして僕の写真は、後者。自由はとても大切なものだから、僕は自分の写真を教育や政治にはしてはならないし、そこに志などというものを持ち込んではならないと思っている。
 結果的に誰かの志と僕が写真で表わすものが同じになるということはあっても。
 スポーツと体育の違いを指摘する方がおられるように、学校教育の中には、美術や音楽が含まれているけど、それらは美術教育や音楽教育であって、美術や音楽とは異なるものだろう。
 
 昔から、政治や教育と芸術やエンターテインメントは対立するものだと相場が決まっている。
 例えば僕が子供の頃は、まんがは人間を堕落させるものだから読んではいけません的な動きがあったし、テレビも、ドリフの番組などはそんな対象になった。
 それを主張するのは、教育委員会とかPTAというのがイメージであり、品行方正ではない人がいた時に、「教育委員会の人に訴えますよ。」とか「PTAに訴えますよ。」などという文言があった。
 今なら、やり玉にあげられるのはゲームかな。風俗産業などもそうだろうし、自然界隈でも、バス釣りとか野良猫の写真を撮ることなどは、「問題がある行動」という扱いを受けることがある。

 大切なのは、それを必要としている人がたくさんいるということ。つまり、人間がそれも必要としていること。
 2019年の後半は、ユーチューブが爆発的に広まる元年になったのではなかろうか?テレビ番組に取って代われるような番組を提供するユーチューバーが続々と現れた。一部の文言化された規制しかないユーチューブには如何わしいコンテンツが山ほどあるが、視聴者は規制が厳しくてよりちゃんとしたテレビからユーチューブへと流れようとしている。
 ユーチューブを見ると、確かにあまりの無法地帯ぶりに、「ひでぇなぁ〜」と思うことがある。
 いわゆる教育委員会の人やPTAの人なら、「世の中のために規制しなければならない!」と激怒するようなコンテンツがたくさんある。だが僕は、テレビよりはずっと健全な気がする。
 人は如何わしいものだし、その如何わしさがきちんと見える分、安心できる。
 テレビは、なぜあんなにつまらなくなってしまったのだろう?僕にはそれを論じるだけの見識はないけど、何となく感じるのは、一部の正しい人の意見を聞き過ぎてしまったからではなかろうか?
 例えば、
「こんな内容は怪しからん!」
 と怒鳴り込んでくる人は、恐らく、一部の極端な考えの人だと思う。なぜなら、僕の身の回りには、不倫程度でテレビから追放されなければならないと主張する人なんて見当たらないから(もちろん、類は友を呼ぶで、僕の身の回りに堕落した人ばかりが集中している可能性もあるのだけど)。
 ともあれ僕は、正しい意見というやつは、大衆の気持ちを反映しない場合も多々あるという意味で、実はとても危険なのではないかと思っているのだ。
 人は正しい意見を突き付けられ一度それに従ってしまうと、逆戻りすることは難しい。なんといっても相手は正しい意見なのだから。
 その結果正しい意見は人の多様性を損なわせる原因になりがち。
 もしもテレビが規制をし過ぎたと思っても、元に戻すことは難しいだろう。政治でも、規制を作ることはできても、規制を壊すことはとても難しい。
 
 

● 2020.3.2〜3 分からないということ

 野良猫に餌を与えている場所の近くで、お腹が大きな雌猫を見かけた。
 やがてどこかで子猫が生まれたら、事故にあったり、飢えたり、時には殺処分されてしまうのだから、かわいそうだなと思う。
 増やさない対策をせずにただ餌を与える人を、僕は、残酷だし無責任だなと思う。
 だが世の中には分からない人がいるといことが、最近分かってきた。囲碁や将棋に例えるなら、一手先までは読めるけど、三手先になると読めない人が。
 目の前にいる猫のことまでは分かっても、その猫に餌を与えるとどんな悲しいことが起きるかまでは分からない人が。
 言葉の上では理解できても、心で理解できない人が。決して無責任や残酷なのではなく、本当に分からない人が。

 日本の選挙制度を考えてみたらわかることだが、分からない人も、意見を言う自由がある。
 分からないからと言って、その人の票が少なく見積もられることはない。
 逆に政治や何かの専門家が、人より分かるからと言って、一人分以上の票を持つわけでもない。
 仮に、平均的な人が三手先まで読めるとして、専門家が五手先、七手先まで読んで、「これが真実なんだ!」とどんなに声を上げても通用しないし、平均的な人が読める範囲の中にあるものが選ばれる。
 そうして選ばれた物事を、「大衆はバカだから」と言って見下す専門家や詳しい人もおられるが、社会は専門家のためにあるわけではなく、みんなのためにある。
 人は真理を探究するために生きているわけではなく、自分の人生を生きるために生きているのだから。
 それを見下すような人間になってはならないんだろうな。
 野良猫に餌を与える人に対して言えるのは、「あなたは間違えていますよ。」ではなくて、「あなたの考えは分かるけど、あなたは一票しか持ってませんよ。」ということ。それは専門家が決めることでもないけど、餌をやりたい人だけで決めることでもなく、みんなの同意で決めること。

 僕が子供の頃、父は、僕が生き物を好きであることを好まなかった。
 それに対して、何を嫌がっていたのかな?と今になってたまに考えることがあるのだが、生き物を好きな人は、それを正義と言いたがる傾向があり、そうした生き物好きの体質を嫌っていたのかな?
 猫に餌を与える人も、野良猫は鳥やその他の野生生物に対して悪影響を及ぼすからそれは間違えだと主張する人も、よく似ているなと感じることがある。何が似ているか?と言えば、自分が正義だと言いたがること。
 みんなに向かって自分が知っていることや感じていることを発信して知らせることは自由だけど、何が正義かは、みんなで決めること。



● 2020.2.27〜3.1 デマ

 たった1つでもニセ科学に騙されてしまうような人を、政治家として支持することはできない。僕はデマは大嫌い。
 だが、もしもデマの類が世の中から無くなり、正しい知識に満ち溢れ、議論がある部分に関しては両論併記されるような社会が実現したとするならば、僕は自殺して死んでしまうような気がする。
 ただ頷くしかない社会は、つまらな過ぎる。
 怒ったり、抗ったり、悲しんだりすることも、人間には大切なことだと思う。
 デマじゃなくても、エゴだって同じ。
 人はそんな生き物だから、表現の世界が存在するのだと思う。
 昔、古物の鑑定士の中島誠之助さんが、私は贋作は絶対に認めないけど、贋作があるからおもしろいとおっしゃるのを聞いたことがあるのだが、なるほどなぁと思う。


   
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