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● 2020.2.21〜26 僕が写真で表わしたいもの



 以前、ひどく腹を下して、間に合わなくならないようにトイレの入り口に横になっていると、家族がマットを敷いてくれたのだが、そのマットに、僕よりも先にコロンと犬が横になった。
 マットを敷いてくれた家族の思いやりをありがたいと感じたが、実はそれ以上に、僕の体調不良なんていっさい理解できない犬のいつも通りのその姿に、妙に癒されたものだった。
 自然や野生生物や他の動物のいいところは、僕の悲しみや苦しみなんて一切分かってくれないこと。自分のことで頭がいっぱいな時に、僕のことなんてまったく理解しないその存在が、
「ああ、俺のことなんて些細なことだな。」
と思わせてくれる。
 そういう意味では、僕が好きなのは生き物であり、必ずしも野生生物でなくてもいい。
 もっと言えば、生き物じゃなくてもいいし、それを言葉にするならば、「人間の意思ではないもの」ということになる。
 そして僕が写真で表わしたいものも。
「俺の写真凄いだろう」とか「俺は正しいだろう」ではなくて、逆に、「俺」なんてどうでもいいと「俺」を忘れさせてくれるもの。
 人の意思はとても大切なものだけど、そうじゃないものも、人間にはとても大切なのではなかろうか?

 人の意思は、管理と言い換えてもいい。管理は、行き過ぎると、人を不幸せにする。管理は、やりはじめると止まらなくなる。どんどんそちらの方向へと向かっていく。
 なぜか?
 管理は、理屈の上では、正しいのだと思う。
 だが理屈の上で正しいのと、人の幸せは、また別のこと。
 誤解恐れずに書くと、真面目な人は、管理が大好きな傾向にある。理屈の上で正しいことをすれば、人が幸せになると固く信じている節がある。
 でも理屈の上で正しいのと、人の幸せはまた別のこと。
 僕は、真面目な人ではなくて、適当な人間が大好き。
 元プロ野球選手の福本豊さんは、盗塁の世界記録を打ち立てた際に国民栄誉賞を打診されたが、「立ちションもできんようになる」と断っている。
 福本さんのような心持ちで生きることができたらな、とその言葉を時々ふと思い起こすことがある。
 
 

● 2020.2.20 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。



● 2020.2.18〜2.19 進化の話


 ヒラスカシガイだと思うのだけど、よく似たスカシガイの方かな?もしも画像を見て判別できる方がおられましたら、是非教えてください。
 頭部に申し訳程度の小さな貝殻。貝殻の頂点付近には穴が開いていて、そこから煙突状の突起が。
 不思議な形態で、ほとんどアニメの世界やんなんて思えてしまう。海は凄いなぁ。
 自然写真の仕事を始めて以来の僕の悩みは、こうした、写真がまず売れないような一般受けしない生き物に猛烈にひかれてしまうこと。キタキツネとかリスとか、ああいう生き物に萌える性格に生まれていたらなぁと思うのだが、自分でもどうしようもない。
 よく鳥の写真を専門的に撮る人たちが、
「野鳥の写真は売れない。」
 と言うのだが、この手の生き物の写真の売れなさ加減と言えば、そんな次元の話ではない。
 
 では、どうしたらいいのだろうか?
 自分の指向を分類し直してみるのは、一つの方法ではないかと思う。
 例えば、
「僕は妙な生き物に興味を感じる。」
 では世間に通用しないのなら、
「僕は、生き物のふしぎな進化に興味を感じる。」
 とより普遍性を持つように言い換えてみる。
 進化なら、すでに世間から興味深い現象として認められているので、一部の人にしか通用しないマニアックな話ではなくなる。
 そう、僕は、生き物の進化に興味があるのだ。

 ただし、進化は興味深い現象だが、仕事として自然写真を撮る際のテーマとしては、やはり弱い。
 誰だっただろうか?東大の先生が東大の学生さんに、
「進化なんて研究しても意味がない。だってすでに終わったことでしょう?」
 的なことを言われ、
「なるほど、確かに。優秀な人というのはそんな人なんだ。」
 と感じたことがあると書いておられるのを読んだことがある。
 進化は好奇心をくすぐる大変に興味深い現象ではあるが、役に立つとか立たないとか、実用という観点から見ると、道楽に近いだろう。
 その点は、認めざるを得ない。



● 2020.2.15〜2.17 軽量コンパクトの話



 地面から雲台までの高さが約10センチ。胴長を履いて干潟に正座をしてカメラを構える。
 重たい機材では干潟にめりこんでしまうし、数メートル前に出たいような場合に動きが悪くなるので、カメラやレンズや三脚は、可能か限り軽量なものを。



 カメラを低く構えると背景が遠くなるので、ボケが大きくなり、食べられるカニの姿を背景に溶け込ませずに描き出すことができる。



 あと1セット撮影機材を準備して、上空を飛び交うズグロカモメにもレンズを向ける。干潟のような不安定な場所では、こちらも軽量コンパクトな機材が望ましい。
 大枚をはたいて購入した高価な超望遠レンズを、いつの間にかほとんど使わなくなった。
 まだ若い頃に、
「野鳥写真家は、もっとアングルを工夫したり、もっとスナップ的な要素を取り入れるべきだ。」
 と指摘をされたことがあるのだが、それらを妨げていたのが、大きくて重たい道具だった。
 軽量コンパクトで優れた道具の登場で写真の撮り方が変わり、よく使われる写真も、徐々に変わりつつある。
 次から次へと新しい道具が出てくるので、時々、もういいかなぁなんて考えることもあるのだが、多分、ついて行かざるを得ないんだろうな。



● 2020.2.11〜2.14 条件の話



 ズグロカモメは潮が引いて干潟が現れると飛来して、上空から獲物を見つけてはヒラリと急降下し、捕食する。
 干潟のような開けた水辺では、曇った日には被写体の色が出にくいので、晴れの日に撮影する。
 ただし晴れの日の場合、お日様の角度によっては被写体に見苦しい陰がついてしまうので、太陽の位置が重要になる。
 つまり、潮が引き始める時刻、天気、時間の3つの要素がかみ合った時のみ、干潟での撮影が可能になる。
 僕のフィールドの場合、太陽の位置が撮影に適するのは、午後。したがって、写真を撮る時刻がまず決まる。
 次に、その時刻にちょうど潮が引き始める日を選んで、予定表に印をつけておく。
 そして、その印の日が晴れたら、撮影に出かける。



 あと1つ、実は重要なのが気温。
 気温が高いと、獲物であるカニが活発になりたくさん姿を現すので、捕食のシーンを撮影できる可能性が高くなる。



● 2020.2.8〜2.10 写真集の話



 浜にたくさんのサルがいるシーンが世間のリクエストであり、自分の狙いでもあるはずなのに、内心気に入る写真は、大半のサルが引き上げた後に一匹だけ浜に残っているシーンだったりするのが、写真の面白いところ。
 そうした、世のニーズからは外れていて仕事の現場では使い道がないものの、自分が好きで、またそれを見たいと思う人が一定数以上存在するようなな写真は、どこかの段階で写真集という形で発表したい願望がある。
 写真集は、仕事で喜ばれそうなシーンを集めても仕方がない。それでは、写真集というよりは傑作集になってしまうから。
 音楽で言うベストアルバムを作りたいわけではない。

 自然写真で生活をしている人なら、コネクションを総動員して無理をすれば、写真集を作ることはできるだろう。
 だが、写真集はただ出すことには意味がなく、お金にはならなくても、写真業界である程度の話題にならなければ始まらない。
 つまり、プロモーションが肝になる。写真が10%、プロモーションが90%くらいの割合になるのではなかろうか。
 どうやってそれを1つのイベントとして成立させるか・・・ちょっと先輩に相談してみよう、というので、先日少し話を聞いてもらったところだ。



● 2020.2.4〜2.7 運命の指摘

 まだ若い頃の話。
 当時僕は、野鳥専門のカメラマンを目指していた。
 ところがなかなか写真が売れなくて、鳥の写真は、生き物の写真の中でも難易度が高いと感じていた。
 鳥じゃなければ、もっと売れるんだけどね。鳥は難しいから売れないんだ、と。
 その難しい鳥の写真を撮っているのだから、自分の写真のレベルは高いんだ、という思いもあった。
 そんなある日、自然写真業界である会社を切り盛りしておられる経営者に、
「鳥は難しいから、なかなか売れないんです。」
 と言ったら、
「君そんなことを言うけど、じゃあ、他の物を撮ったら売れるの?鳥のカメラマンが撮影する鳥以外の写真なんて、本当にひどいものだよ。」
 と返ってきた。
 そんな馬鹿な!目に物を見せてやる、俺の凄い写真を!と憤ったのが、僕が鳥以外の被写体を本気で撮影するようになった1つのきっかけになった。
 果たしてやってみたら、僕が撮影した鳥以外の写真は、指摘された通り、鳥の写真以上に売れなかった。

 よく考えてみたら、指摘は当たり前のことだった。
 鳥の撮影には主に超望遠レンズを使用するが、その他のレンズはほとんど使わないので、僕は一般的な写真を撮った経験はほぼなしで、素人同然だった。
 また写真の難しさに関して言うと、望遠レンズよりも、焦点距離が短いレンズの方が難易度が高い。
 短いレンズで写真を撮ると、それは同時に望遠レンズでも写真を撮ったことになる。
 例えば、24mmレンズで撮影すれば、その中に50mmレンズの画角は含まれているので、トリミングをすれば50mmで撮影したことにもなる。
 したがって、24mmを使いこなせば、50mmの使いこなしも上達するのに対して、50mmを使っても24mmの使い方はなかなか上達しないのだ。
 超望遠レンズの難しさは、写真の難しさというよりは、ピント合わせの難しさとか、ぶれないようにする難しさとか、道具の扱いの難しさであることが多い。
 したがって、超望遠レンズをどれだけ使っても、道具の扱いは上手くなっても、写真自体は上手くなりにくい。
 
 ともあれ、あの日、そんな会話がなかったら、僕は今、写真では生活ができてない可能性が高いと思う。
 今にして思えば、運命の一日になった。



● 2020.1.30〜2.3 センスの話



 同じような写真でも、使用されたり、されなかったりする。
 若い頃は、僕の代わりに他の誰かの写真が使われていたら、コネがあるのか?とか、写真が使用されるのとその写真がいい写真であるかどうかは別のことなのかな?とか、考え込むこともあった。
 そんなある時、
「武田さんの写真が選ばれましたよ。指先が一番ちゃんと見えていたから。」
 と教えてもらったことがあった。
「指先?」
 僕は被写体全体のイメージばかりを見ていたのだが、ほんの些細なことで決まるんだなと勉強になった。
 そんな経験をして一旦知識を得て練習をすると、カメラを構えた際に自然と指先まで見えるようになる。
 ある著名な釣り師が、
「釣りは釣れた時に上手くなる。釣れない釣りをしても上手くならない。」
 と主張しておられるのだが、なるほどなぁと思う。
 昆虫写真家の海野さんからも、最初は頑なに自分の主張をするよりも、まずは世間に従って売ってみた方がいいと教わったものだった。
 一方で、まずは売ってみるではなくて、頑固なまでに自分の理想を追求していくことで、素晴らしい写真を撮るタイプの方がおられる。
 そうしたタイプで成功を収める方に共通しているのは、例えば指先の描写が大切などと、最初からちゃんと見えていることであり、物が見えるとしか言いようがない。
 それは技術でもないし、才能でもなく、世間では、そうした感性のことをセンスという。

 僕のようなタイプは、センスがある人が自然とできることを、知識や練習によって実現する。
 その結果撮れる写真が同じような物でも、かたやセンスで、かたや技術の賜物だったりする。
 仕事をする程度のことなら、センスがある人に対して、技術で対抗することはできる。むしろ技術がセンスを上回ることもある。
 だが、仕事などという枠組みを取っ払って高いレベルで自由演技をすると、センスがある人にはなかなか敵わないし、僕のような凡人は、悲哀を思い知ることになる。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2020年2月分


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