撮影日記 2020年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2020.1.25〜29 お金の話

 取引先からのお金の振り込みは、複数の銀行口座を使い分け、口座ごとに役割を決めてある。
 ある口座に振り込まれるお金は、光熱費など、自動的に引き落とされる支払いにあてる。またある口座は機材を買うお金にあてるとか、生活費にあてるとか、遊び金にするなどと。

 お金が振り込まれて一番嬉しいのは、言うまでもなく遊び金にあてる口座にお金が振り込まれた時で、ちょっと高価なものを食べてみたり、あぶく銭だと思ってお金を使う。どうせなら入金を早く知りたいので、入金があればすぐに知らせがくるネット銀行をこれに指定してあるのだが、残念ながらその口座は、ほぼ空になって久しい。

 振り込まれてはほぼ空に、また振り込まれてはほぼ空になるのが、機材購入に充てるお金が振り込まれる口座だ。
 そして、どうしても必要なものを買わなければならないのにその口座にお金がない場合は、オークションに使わないものを出品して換金する。
 機材の買い物は、必ずしも自分が欲しいものが買えるわけではないので時に切ないこともある。具体的には、以前よりもちょっといい写真が撮れる道具よりも、自分の写真を劇的に変える道具を優先的に購入する。
 今お金をかけようとしているのは、ビデオトランスミッターだ。何をする道具かと言えば、ビデオの映像をワイヤレスでモニターに飛ばすためのもの。

 
 長い長い待ち時間を伴う撮影の場合に、被写体をビデオで撮影し、その映像をスタジオの場合は寝室に飛ばせば、ゴロゴロ横になって待つことができるので余計な体力の消耗を防ぐことができる。
 また野外の場合は車に飛ばせば、何かの撮影の待ち時間にクマや猪に襲われるなどという事故を防ぐことができる。
 問題は、野外で使う場合で、電源をどうするか。
 車内泊の場合、充電をどうするかがとても重要になり、いろいろなタイプの電池を試行錯誤をしているのだが、大容量の電池は比較的高価なので、あれこれ試したり、必要な量を揃えるとそれなりにお金がかかる。



● 2020.1.23〜24 センスの話


Panasonic G9PRO M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PRO MC-14

 自分よりもたくさん稼いでいる人のことは分からない。スゲーなぁとひたすら感心することはできても、その写真を評価したり批評することはできない。
 もしもそれができるのなら、写真撮影のような行為の場合は、自分も同等の写真を撮れるということであり、同等に稼げるということ。分かるというのはそういうこと。
 つまり、向こうからこちらは見えても、こちらから向こうは見えない。

 もしもそれが見えれば、努力が可能になる。だが、見えないものに対しては、努力をすることができない。何をしていいかが分からないのだから。
 土俵に上がることができれば戦うことができるが、どこに土俵があるかが分からない場合は、そもそもスタート地点に立つことができない。
 自然写真の業界の第一線で活躍することを夢見た人の中には、その土俵にさっと上がれた人もいれば、キャリア何十年でも、土俵の場所が分からない方もおられる。
 その差がいったい何なのかは、僕程度の人間には分からないのだけど、物が見えているかどうかであり、人はそれをセンスという。
 物は、もがいていたら何かの拍子にパッと見えることもあるけど、どんなにもがいても見えない人もいて、運や才能もあるけど、時としてその人の人間性なのかな?
 
 さて時々、「ああ、そうなのか!」と何かが分かる瞬間がある。それまで見えなかったものが、パッと見える瞬間が。パッと見えてきた中身を冷静に考えてみると、決して大したことではなくて、今まで気付かなかったのが不思議なくらいの当たり前のことだったりする。
 最近気付いたことと言えば、被写体をきちんと描写できることが、とても大切だということ。構図だとか瞬間だなどという前に、写真がちゃんと写っているということが。
 そんな目で自分よりも稼いでいる人の写真を見ると、例外なく、きちんと描写されていることに気付かされる。被写体の色を出す、模様を出す、線を出すって、大切なんやなぁ。
 瞬間は、静物の撮影など、全く要求されない場合もある。
 構図も、仕事の現場では当たり前のようにトリミングされるので、少なくとも出版では、厳密なことを言っても意味がない。
 だがちゃんと描写するのは、写真を100枚撮れば100回要求されることであり、瞬間の撮影の際にも構図が重要なケースでも常に求められる。
 ただ、自分がちゃんと描写できているかどうか?あるいはどの程度描写できているか?の判断は、自分ではなかなか難しい。自分がなかなか見えないのだ。

 水辺の場合は、きちんと当たり前に描写することが、野山よりも難しい。
 具体的には、例えば水辺の鳥の場合、鳥に当たっている光と背景の水に当たっている光とでは、色温度その他が異なる場合が多い。背景の水には、鳥とは全然異なる場所にある風景が写っているのであり、同じ日の同じ瞬間でも、離れた2点では光の質が異なるから。
 鳥にホワイトバランスを合わせると水には合わなくなり、水に合わせると鳥に合わなくなることが多々ある。
 同様の現象は、小高い場所から広い風景を写すような場合にも見られる。



● 2020.1.19〜22 趣味と仕事



 子供の頃に釣りの師匠にもらったルアーのセットは、主にフランスやスウェーデンの製品で、大変に精巧。
 こんな素敵なものをもらってしまうと、ハマるよなぁ。
 当時の日本製は、釣り具に限らずしばしば手抜きで、丁寧に作られたヨーロッパやアメリカの物に猛烈な憧れを感じたものだった。
 師匠との渓流釣りは、前日のうちに現場に着いておいて、山の中でワゴン車の中に車内泊をする。
 夜は師匠の釣りや生き物談義を散々聞いて、一晩夢を見て妄想が膨れ上がり破裂寸前になったところで、翌日はまだ薄暗いうちに沢に入る。
 以降、自然や生き物に関する楽しい思い出は山ほどあるけど、子供の頃、師匠に連れられて行った渓流釣りを超えるものはないし、今後もそうだと思う。
 プロ野球の関係者の方々が、「金田正一さんの400勝を超える投手はもう2度と出てこない」と口を揃えて言うが、それと同じくらいの確からしさで、師匠に連れられて行った渓流釣りを超える幸せは僕にはあり得ない。

 大学4年の時に、僕がプロの自然写真家を目指すことを決意した際に大反対をしたのが、その釣りの師匠だった。
 自然の中で何かをすることがいかに素敵なことかを教えてくれたのが師匠だっただけに、まさか反対されるとは思ってもみなかったので面食らった。なぜ?と。
 師匠にとって釣りが何なのか?が理解できたのは、割と最近のことだ。
 師匠は、『趣味=自分の妄想の世界に浸ること』と定義しておられ、その妄想の時間こそが、人生でもっとも幸せな時間であるとし、師匠にとっての釣りは、まさにその趣味だった。
「おれは、ヤマメ釣りの第一人者だ!俺には釣りが分かるんだ!」
 などと夢や妄想を楽しむのだ。実際には、師匠よりもヤマメ釣りが上手い人はたくさん存在するし、第一人者を名乗るだけの実績や知名度もないのだけど。
 ツイッターやインスタグラムなどを眺めていると、写真や生き物愛好家の世界にも師匠に似たタイプの人が時々おられ、そうした方々の投稿をたくさん読むことは、師匠の釣りを理解する上で、とても役に立った。
 
 一方で僕は、大人になるにつれて、夢や妄想に浸ることよりも、現実の方に喜びを感じるようになっていった。
 仕事の面白さと言い換えてもいい。
 趣味が、自分の評価は自分で決める世界だとすると、仕事は、他人が自分を評価する。写真を何枚売ったかとか、何冊本を作ったとか、本が何冊売れたとか・・・
 ある時、ある方から、
「君はかわいそうだな。自分が好きなように写真を撮れないのだから。」
 と言われたことがある。
 確かにその通りだけど、仕事の現場では、結果を出せばそれなりの扱いを受けるのもまた事実。そしてその喜びは、その立場に立ったものしか味わうことができない。
 夢は夢で楽しいけど、現実の世界には現実の世界の面白さがある。

 ただ1つ言えるのは、自然写真の仕事で得られる喜びは、師匠との渓流釣りの幸せには及ばないということ。
 なぜ及ばないのか?
 現実の喜びは夢には敵わないのか?あるいは、現実や夢の問題ではなく、ただ単に自分が年を取り感激が薄れたからなのかは、僕には分からないのだけど。



● 2020.1.17〜18 更新のお知らせ

2019年12月分の今月の水辺を更新しました。



● 2020.1.4〜6 ルアーに釣られる



 暇な時に傷んだ針を交換しようと思って机の上に置いておいたルアーが、釣り具用のロッカーに戻ることなく、延々と置きっ放しになっている。
 ルアーを見ているだけで、何となく楽しくなることに気付いたのだった。
 僕は飾り物はあまり置かないけど、その手のものが好きな人の気持ちが分かるような気がする。きっとこうして楽しくなるんだろうなと。
 
 ルアーは、自然好きの日本人にとっては、とんでもない問題を引き起こしている。
 ルアー釣りの対象として人気のブラックバスがゲリラ放流されることによる、在来の生き物の減少や小さな絶滅だ。
 在来の生き物の減少は環境破壊のせいであり、ブラックバスのせいではない、という意見もある。
 確かに、その手の現象をきちんと調べて因果関係を評価するのは、極めて難しい。水中で起きていることの大部分は目視できないので、科学に基づいた報告書であっても、所詮推測の域を超えない面が多々ある。
 だがこれだけたくさんのバスがいるということは何かが食べられているということになり、それが決定的かどうかは別にして、バスは、在来の生き物にとっていないに越したことはないのは言うまでもない。
 また、食べられる生き物が減ればバスも生きられなくなるのだから、バスが他の生き物を絶滅させてしまうことはないという意見もあるが、食べられやすい生き物とそうでない生き物とがいて、食べられやすい生き物が絶えてしまうことは大いにあり得るし、「バスが他の生き物を絶滅させてしまうことはない」と主張する人の念頭には、例えば、小さな水生昆虫などはほぼないだろう。

 賞金がかかったバス釣りのトーナメントでインチキをして、追放された人がいるらしい。
 そのインチキの中に、釣り用のボートの中に禁止されている生きた餌を忍ばせておいて、生餌で釣りをした人がいるらしい。
 おもしろいなぁと思う。
 趣味で本格的なバス釣りをする人が生餌を使うなんて話は聞いたことがないが、お金がかかると、バスプロと呼ばれる腕自慢が生餌を使うのだ。
 つまり、釣るという事に関して生餌にはそれだけの威力があるけど、多くの人は、わざわざルアーで釣りたいということ。
 人を引き付けているのは バスを釣ることではなくて、ルアーの魅力だということ。
 ルアーは、見て楽しいし、釣っても楽しい。ルアーを眺めているとあまりに魅力的で、とても残念だけど、ルアー釣りを止めることはできないし、バスのゲリラ放流もなくなることはないだろう。
 これをモラルの問題と考える人は腹を立てるのだが、それは自分を基準にしているからであり、僕は、人の社会の運命としか言いようがないように感じる。

 僕は、ルアーが大好きだけど、放流をしたいなんて少しも思わない。
 それは、僕が立派だからではない。
 たまたま、日本の在来の生き物に興味を持つ機会があり、それらに魅了されただけの話。
 でも、全員が僕と同等の体験をするわけではないし、むしろ同じような経験をする人の方が圧倒的に少数派。
 例えば小学校の同窓会に行って僕の主張を心の底から理解してくれる人なんて、クラスに一人いるかいないかくらいじゃないかな?大多数の人のとっては、どーでもいい話。
 そもそも、自分が知っていることをみんなも知っているべきだと思うのは傲慢だろうし、自分がそれを知った時点は、他人がそれを知る時点ではない。
 では、何ができるか?と言えば、結局「知ってもらうこと」以外に何もない。
 知ったからと言っても、必ずしも人が共感してもらえるわけではないし、共感してくれない人が分からず屋やダメな人というわけでもない。それぞれの人が、自分で感じ、何に価値を感じるのか自分で考えるべきことだと思う。
 それを思うと、僕の仕事の肝は、何が正しいか?ではなく、自分にとって素敵なものをいかに素敵に伝えられるか?ということになる。



● 2020.1.3 何とかしのぐ

 去年の4月から取り組んでいる定点撮影で大分県へ。
 定点撮影なのだから毎回同じレンズを使うのだが、何と肝心なレンズを忘れてしまい、近くならともかく、時間や交通費がかかる場所なので現場で絶望。
 すごすごと帰ろうかと思ったのだけど、銘柄が違う別のレンズでやってみようかと気を取り直す。
 24-70mmズームの70mmの画角は、70-200mmの70oで代用。
 ただし同じ70mmでもレンズによってかなり画角は異なるという問題がある。手元にある70-200mmの70oの方がより広く写る場合は、今回の一枚だけをあとで同じになるようにトリミングをすればいいだけなので問題はない。だが、より狭く写る場合はトリミングでは対応できないので困る。
 かと言って、去年の4月から毎月撮影してきた画像の方をすべてトリミングして今回の画像に合わせるというのも、気分が悪い。
 果たして、試してみると両者の70oはほぼ同じ画角になることが分かり、70-200mmで代行ができた。
 24-70mmズームの28mmの画角で撮影する写真は、16-35mmの28mmで対応。
 画角が少し合わないので、多少ズームをして何とか合わせる。レンズの歪み方にも違いがあり画面の周辺が過去に撮影した定点撮影の画像と上手く合わないのだが、重ねでもしない限り分からない差異だろうから、まあいいでしょう!気にしない気にしない。
 24-70mmズームの40mm前後は、代用になるレンズがなかったので、16-35mmの35mmで対応。40mm35mmの画角の際は大きく、当然いつもの定点撮影よりも広く写ってしまうので、あとでトリミングをすることにした。。
 レンズを忘れるとは何事だ!だらしないと思うのだが、よく考えてみたら、2つの偶然が重なり、忘れてしまったことがわかった。
 さらに、しまった!と慌てた結果、他にも現場でミスを重ねてしまい撮影を諦めなければならないか?という危機に見舞われたのだが、そちらも頭を働かせて何とか回避。
 僕はミスが多いタイプなので、2重3重に備えをしてあるのが、ミスがミスを呼び、正月早々、危うくすべての備えを破られるところだった。気を引き締めよう。

 僕の機材は今、一眼レフのシステムとミラーレスのシステムとが入り混じっていて、混乱が起きやすい状況にあり、早くミレーレスに統一してしまいたいのだが、他にもお金をかけなければならない箇所がありそちらの方が費用対効果が大きいので、ミラーレス化は後回しになっているのだ。
 写真好きとして買いたい機材と、写真を仕事にする者として費用対効果を考えた時に買うべき機材は一致しないことが多く、欲しいものは後回しになりがちな傾向がある。



● 2020.1.1 英彦山へ



 ここ数年、正月は毎年、犬を連れて英彦山へ。今年は天気が良かったので、英彦山からの帰り道に遠賀川の河川敷にも立ち寄ってもう一度犬の散歩。
 僕は普段、仕事以外ではあまり撮影機材は持ち歩かないのだけど、正月だけは必ずカメラを持って行って、気象条件が良かろうが悪かろうが犬の写真を撮る。
 犬は年を取るし、機材は変わるし、自分も年を撮るし、写真の撮り方も変わる。
 
 昨年は、少しだけ、自然写真の仕事が分かったような気がする。
 分かったと言っても、よく考えてみたら当たり前のことであり、すでに先輩方がたくさん言っていることでもあって、決して新しいことではないのだが。
 ただその当たり前のことがなかなか難しくて、自分が思っていた以上にプロとアマチュアの間には差があったんだなと今更ながら思う。


   
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