撮影日記 2019年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2019.11.30 M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PRO

 注文していたオリンパスのレンズ・M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROが届いたので、テストをしてみた。
 レンズの性能を語る際に大切なのは、必ず他のレンズと比較をすること。しかも、同じ条件下で。
 時々ネット上の記事で、そうした比較なしに写真をアップして、「このレンズはいい!どうですか、この描写。」的なものを見かけるが、人は気のせいがとても多い生き物なので、同一条件で同じ被写体を他のレンズで撮り比べてみなければ、何も言うことはできない。
 高校の理科で、実験の、あるいは科学の基本中の基本として「対照実験」という概念を教わるのだが、「対照実験」をしなければならないのだ。
 そこで、うちにある一番スペックが近いレンズ、ニコンのAi AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)と比べてみた。
 カメラは、どちらのレンズにもパナソニックのG9PROを同一の設定で取り付けた。従って、テストの結果にはカメラの性能の差は含まれず、純粋にレンズの性能の違いを表わすことになる。
 ただし試してみたら、同じ距離から撮影しても、ニコンの方がやや大きく写ることが分かった。
 写る大きさが違うと描写性能を比べることができないので、先にオリンパスで撮影し、次にオリンパスとなるべく同じ大きさに被写体が写るよう距離を調整した上で、ニコンの方でもテストをした。
 

左 M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PRO
右 Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)

 結果は上の画像の通り、明らかにM.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROの方が画質がいい。
 ただし、忘れてはならないのは、ニコンの方は35ミリ判フルサイズセンサーに対応したレンズであるということ。したがって、APS-Cや35ミリ判フルサイズセンサーのカメラを取り付ければ、テストで撮影した範囲の周囲も写すことができる。
 また、APS-Cや35ミリ判フルサイズセンサーのカメラを取り付けた上で、もっと近づいて、より大きなセンサーのカメラで同じ範囲を写すこともできる。
 ただし、そもそもレンズが解像していないものは、どんなに大きなセンサーのカメラを使ったところで見えるようにはならない。また、大多数のレンズは被写体に近づき過ぎると性能が悪くなるので、益々写らなくなることも珍しくない。
 同様のテストでうちにあるレンズを試した範囲では、同じくらいの値段と焦点距離なら、マイクロフォーサーズ用のレンズの方が、35mm判フルサイズセンサーのカメラの用のレンズよりもよく解像する。
 つまり、マイクロフォーサーズシステムの特徴は、よく解像するレンズを作れることにあり、マイクロフォーサーズ機に、35ミリ判フルサイズセンサー用のレンズを取り付けるのは、ただのトリミングに過ぎず、特殊な意図がない限り意味がないということになる。
 あるいは、大きなセンサーのシステムで撮影した画像を、マイクロフォーサーズサイズにトリミングすると、レンズの性能の差でマイクロフォーサーズシステムでノートリミングで撮影した画像には敵わないということになる。
 僕は当初、マイクロフォーサーズ機にはニコンのレンズを取り付けて使用していたのだが、これは邪道。やっぱり専用レンズ、しかもプロレンズのような高性能なものという結論に達した。

 では、35ミリ判フルサイズセンサーのシステムなんて意味がないのか?と言えば、そうではない。
 上のテストではレンズのシャープさを見ているだけで、被写体の微妙な濃淡を再現することに関しては、大きなセンサーのカメラの方が明らかに優れている。例えば、下の画像のようなシーンで、水の青色の微妙な濃淡の描写は、試すまでもなく、大きなセンサーのカメラの方がいい。
 その差は、画像の立体感の違いになって現れる。



 では以下の画像はどうだろう?
 線で表現する氷の微妙な筋は、マイクロフォーサーズ機の方がよく写るが、氷の微妙な濃淡は大きなセンサーのカメラの方がよ写る。
 ただ、近年のプロの仕事の現場に関して言うと、シャープさが重視され、被写体の微妙な濃淡(立体感)は軽視される傾向にあり、立体感を重視した撮り方が、緩いと見られてしまうケースが多々ある。



 あと1つ、書いておかなければならないのは、このテストは、レンズの最短撮影距離付近でのテストであり、この結果は近くの被写体を撮影する場合にのみ言えるということ。
 遠くを撮影すると、結果が違ってくる可能性もある。
 レンズの遠くの描写と近くの描写は全く別物で、一般に遠くがよく写るレンズは近くがあまり写らない。名レンズと呼ばれるレンズでも、近くはボロボロというケースも良くある。
 因みに、近くがよく写るように設計されているのが、マクロレンズだ。マクロレンズはただ寄れるだけではないのだ。

 ともあれ、どの道具が最も高画質に写るのか?は、どんなシーンを撮るかによって違ってくる。
 レンズの解像力が物を言うシーンの場合は、必ずしも大きなセンサーのカメラが高画質とは言えない。被写体の濃淡をどこまで再現できるかが画質を大きく左右するようなシーンの場合は、大きなセンサーのカメラが圧倒的に有利になる。



● 2019.11.27〜11.29 更新のお知らせ

10月分の今月の水辺を更新しました。



● 2019.11.22〜11.26 シャッターショックの話

 一眼レフと呼ばれるタイプのカメラの内部には鏡(ミラー)がある。ミラーはシャッターを押した際に動く構造になっていて、ミラーが動いた際には微細な振動が発生し、その振動は時に写真のブレに結びつく。
 ミラーショックと呼ばれる現象だ。
 一方でミラーレスカメラには、その名の通りミラーがない。ミラーがないので、当然ミラーショックもない。
 ミラーレス機を使ってみて僕が一番驚いたのは、一眼レフのミラーショックってこんなに大きかったのか!ということ。

 ところが、ミラーレス機にもシャッターはある。
 そしてシャッターが動く際にも、シャッターショックと呼ばれる微細なブレが発生する。
 一眼レフの場合は、ミラーショックに加えてシャッターショックもあるのだから、ミラーレス機の方ががブレにくいのは確かだけど、ミラーレス機と言えども、カメラの内部から発生するブレはゼロではない。
 ただ、ミラーレス機には、機械式のシャッターを動かさずに電気的にシャッターを切る電子シャッターと呼ばれる機能があり、電子シャッターを使えば、カメラ内部から発生する振動はなくなる。
 そして電子シャッターを使用してみると、今度はシャッターショックが、自分が思っていたよりもはるかに大きくて、写真の画質にそれなりの影響を与えていたことに驚かされる。
 ただし現時点では、電子シャッターは万能ではなく、いつでも使用できるわけではないので、多くのカメラマンは、シャッターショックとはもうしばらく付き合わなければならない。

 そのシャッターショックに関して言うと、フルサイズ機とマイクロフォーサーズ機とでは、フルサイズ機の方がずっと大きく、びっくりするくらいの違いがある。
 シャッターのサイズが大きいだから振動が大きいのは当然で、大きなセンサーのカメラの方がぶれやすい。
 ただしここで僕が書くぶれ易いとは、超拡大とか、超望遠など、ブレの影響がとても大きく作用する分野での話であり、一般的な撮影では、さほど気にする必要はない。
 ともあれ、大きなセンサーのカメラの方が画質の面では、諧調と呼ばれる点で優れているのだが、諧調よりもブレの方が大きく画質を左右する局面では、小さなセンサーのカメラの方が高画質に撮れるケースも多々ある。
 


 製造中止になってしまったが、ニコンのミラーレスカメラ・ニコン1V3を一眼レフ用の600mmレンズに取り付けると、35ミリ判換算で約1600mm相当になり、遠くの物を大きく写すことが可能になる。
 ただし一眼レフの常識では、1600mmで写さなければならないほど遠くの被写体は、カメラと被写体の間の空気の層が厚すぎて、空気の影響でシャープには写らないとされてきた。
 ところがニコン1V3を使ってみると、写らないはずのものが予想以上に、少なくとも通常の仕事で使用できる画質で写ることに驚かされた。2016年のことで、上の画像はその頃撮影したものの中の一枚。
 ニコン1は、ミラーレスカメラなのでミラーショックはないし、とても小さなセンサーを搭載したカメラなので、シャッターショックも極めて小さい。カメラ内部から発生する振動がなければ、遠くの被写体がここまで写るのか!と衝撃を受けたものだった。
 ニコン1V3は、実は手放してしまったのだが、しまったな〜。持っておくべきだったな〜と感じているカメラの一台。
 ニコン1V3はプリ連写が必要な撮影に使用していたのだが、プリ連写が可能でより操作性に優れたG9PROを購入した際に、不要になったと手放してしまったのだ。しかしプリ連写以外に、とにかく遠くの被写体を撮る用途に使用していたことを、後で思い出した次第。
 ニコン1は、すべての機種が600mmレンズに取り付けられるわけではなく、取り付けられるのはVシリーズだけで、Jシリーズのような安価な機種は使用できない。



● 2019.11.17〜11.21 どんな写真が売れるのか?

 時々、
「どんな生き物の写真がよく売れますか?」
 と聞かれるが、「売れる」には2種類あり、相手が聞いている「売れる」がそのどちらなのかによって答えが違ってくる。

 1つ目の売れるは、写真が使用されることが多い生き物は何か?ということ。例えば、僕は撮影したことがないのだが、カブトムシの写真はたくさん使用されることが知られている。
 ではカブトムシを撮影すれば売れるのか?というと、そんな簡単な話ではない。カブトムシを撮影している人がたくさんいれば、どんなにカブトムシの写真がたくさん必要とされていても、自分の写真が使われる確率は低くなり売れにくくなる。
 つまり2つ目の売れるは、あるカメラマンが写真を売ろうとした際に売れやすい生物はなんですか?ということ。
 日本国内では、カブトムシの写真はダンゴムシよりもたくさん使用されるが、写真の売れやすさは、場合によってはダンゴムシの方が上などということもあり得る。

 生き物の写真は、日本の社会の中で確実に必要とされているので、今後も写真のニーズがなくなることはないのだが、一方でそんなにたくさん必要とされているわけではない。
 したがって、各生き物を撮影するプロのカメラマンは全国で4〜5人程度で十分であり、その4〜5人の中に入れば生活ができる程度写真が売れても、それ以降になると、突然にほとんど売れないなどという可能性も大いにある。
 人によって違うということになるし、何が売れるのか?は、実はなかなか難しくて、少なくとも自然写真で生活ができる程度に売ってみなければ何も言えないのだが、一方で、もしも生活ができる程度に売れるのなら、何が売れるかの知識はあまり必要ではなくなってしまう。
 そういうところは、語学の文法の勉強に似ているように思う。文法は、言葉を使いこなして初めて理解できるのだが、言葉を使いこなせる人には文法の知識はあまり必要ではない。

 では、どんな人がその4〜5人に入るのだろうか?
 まずは、その人が写真を通して何を言うか、が一番大切。自然写真の場合は、写真を売り込む際にどこが見られるか?というと、まずは、撮影者が何を言おうとしているのかが見られる。
 次に、その言おうとしていることが、世間に必要とされ通用する内容なのか?
 その次が、言わんとすることが、写真でちゃんと表現できているか?
 と言った順番ではなかろうか。
 コマーシャルフォトや人物写真だと全然違う可能性も大いになるが、写真がきれいかどうか、シャープかどうかなどは、さらにその後になる。
 あとは、定職を捨てて、写真に打ち込む気持ちがあるかどうかも、案外みられているように感じる。これは、写真を使う側の立場に立てば当然のことかな?
 ただし、定職に就く場合でも、仕事が学芸員であるとか、その見識が自然写真の活動にプラスに働くような職種の場合は差し障らないし、現にプラスに働く場合もあるだろう。
 最近は、学芸員の方々が大活躍するようになったし、確かに、彼らが、学芸員ならばでの知識で作る物は面白い。



● 2019.11.13〜11.16 静物の撮影は難しい

 生き物の写真と風景の写真とでは、写真の技術に限定すると風景の方が難しく、より確かな知識や見識が要求される場合が多い。
 生き物の撮影の難しさは、写真術の難しさというよりは、生き物に出会う「生き物の難しさ」である場合が多い。
 それを痛感させられたのが、「石はなにからできている/岩崎書店」の撮影だった。
 石を写すこと自体はいとも容易い。が、その写真をただ写っている以上の何かに仕上げるのは極めて難しいのだ。
 石に限らず静物の撮影が難しいのは、スタジオで物の写真を撮ってみるとすぐに分かる。
 動くものならたくさん撮影するうちに様になる写真が勝手に撮れてしまうのに対して、スタジオのでの静物は、何枚シャッターを押したところで、こちらが何かを変えなければ、同じ写真が何枚も撮れるだけで、何も前に進まない。

 生物の写真の場合は主役ははっきりしているし、生き物は、写真の中で勝手にある程度自己主張してくれる。
 ところが石は、だから何?という写真になる。
「石は何からできている/岩崎書店」の中には、スタジオで撮影した石のポートレート以外に、3枚の自然写真が使われているのだが、どう撮っていいかの手掛かりがなかなかつかめず、随分長い期間、金縛りにあったかのような手つかずの状態に陥った。



 そんなある日、海岸を歩いている最中に、ふっと、「鉢巻き石」と呼ばれる筋が入った石が目に飛び込んできた。
 そこで、鉢巻き石を主役に据えてカメラを構えてみると、鉢巻き石が主張をして、写真が様になった。
 今度は、鉢巻き石の周囲を、どこからどこまでを切り取るか?が問題になったのだが、右下にハート型の石があることに気付き、ハート石を脇役に入れることで、表紙が出来上がった。
 動物の撮影では、画面の中で何が主役かは自動的に必然的に決まることが多いが、例えば風景やこの本のように石みたいなものを撮影する場合は、まずは主役を定めることが第一歩になる。
 そして、動物を撮影している人は、しばしば主役を決めるのが上手くない。動物の撮影では、主役が自動的に決まるので、主役選びの技術が磨かれないのだ。



 2枚目は、以前カタツムリの撮影の際に訪れた新潟県の翡翠峡で、何となく撮影した渓谷の写真が最後の最後で選ばれた。
 そんなつもりで撮影したわけではない写真がピシャリはまったのは、この場所が石愛好家のメッカだからかな
 僕は、ブランドとか有名な場所は基本的に嫌いなのだけど、それでも名のある場所は一度は見ておいた方がいいんだろうな。



 3枚目は、福岡県内の、近所の海辺で撮影。
 動かないものの撮影は難しいのだから、動くものを撮ればいいんじゃない?と思いついた時点で、撮影が前に進みだした。
 海の景色は潮の満ち引きで大きく変化するし、波も加えると、同じ写真は2枚と撮れない。したがって、粘ったら粘っただけ違う写真が撮れて、そのうちその中に様になる絵が向こうから勝手に現れるはず、と。



● 2019.11.09〜11.12 プロは撮りたいものが撮れないのか?

 ツイッターで、

「プロのフォトグラファーを取材しているが成功している人は自分が撮りたい世界なんて目指していないという共通点がある。
仕事になるものを探しそれを伸ばしていく。仕事の中に撮りたいものを見つけるのである。
撮りたい被写体やものが先にある人は苦労してる人が多い。
そうだよなと同感。」

 という投稿を見かけて、確かに、と納得。
 先に撮りたいものがある人と、仕事の中に撮りたいものを見つける人。僕はどちらかな?
 生き物以外のカメラマンになるくらいになら写真以外の仕事を選んだだろうから、「生き物以外は撮ろうとしない」という点では先に撮りたいものがある人になる。
 けれども、「この生き物じゃないと嫌」とは言わないので、総合的に見ると、仕事の中に撮りたいものを見つける人かな。
 僕の場合は、本当を言うと写真が撮りたいわけではなくて、自由が欲しいのだと思う。で、自然は自由の象徴であり、写真はその自然に関わりながら可能な限り自由に生きていくための手段。
 ただし自由とは、好き勝手出来るということではなく、自分で決めることができるということ。
 だから勤めながら写真を撮るというのは選択肢にはないけど、例えば自分で農業みたいな仕事をしながら写真を撮るは、別にいいかもしれないな、と思う。

 こう書きながらふと思い出したのは、大学時代のこと。
 3年から4年に上がり研究室に割り振られる際に、人気の研究室と不人気の研究室とがあり、定員の関係で誰が譲るかのもめごとがあった。
 どうしても解決しないので、「各研究室の定員をもっと融通してくれ」と担当の先生にお願いしたら、先生は、
「どこへ割り振られても生物学をやることには違いはないのだから、そんなのどうでもいいこと。だから定員を変える必要なし。割り振られた研究室で無心に取り組みなさい。」
 とおっしゃった。
 僕の仕事に当てはめるのなら、何を撮ろうとが自然写真をやることに違いはないのだから、同じことということになり、これは、今まさに僕がやっていることになる。
 先生に対して強引で冷たいという意見もあったし、僕も多少そんな気持ちになったのだけど、先生が主張したのはプロの意見であり、研究は趣味や遊びではないという立場の表明だったことになる。
 ともあれ、自分が何をしたいか?の大枠は選ぶことができるが、細部は、タイミング等の運に左右され努力ではどうにもならないことがあって、自分の思い通りにならない場合が多い。こだわりや執着と同時に、諦めや受け入れる力も大切になる。



● 2019.11.03〜11.08 仕事の写真、趣味の写真。



 もう随分前にフィルムで撮影した写真。
 こんな感じで水中の風景を広く写しながら、その隅っこに、産卵中の岩魚や山女が写っているような写真を撮ってみたい。
 一見ただの水中の景色のようで、よく見ると渓流魚のペアーが写っていて、ペアーは口を大きく開け背中を反らし、白い精子が雲のように2匹の周辺を漂ってまさに産卵の真っ最中の写真を。
 仕事の写真ではなく、あくまでも、趣味の写真として。



 こちらは同じ場所を、陸上から撮影したもの。 
 淵の中には、以前潜った時には岩魚も山女も住んでいたし、2種類ともこの場所で産卵をする可能性はあると思う。
 ただ、付近を通った際には可能な限り見に行くのだが、いまだ撮影の機会すらない。
 とは言え、想像しているだけで楽しいのだけど。

 さて、写真を撮る場合、例えば川の写真なら、釣り師に見せたいのか、魚のカメラマンに見せたいのか、一般的な自然好きに見せたいのかなど、誰に見せたいかで撮り方が違ってくる。
 一例を書くと、釣り師なら、1つの淵だけでなく、前後の流れなど川をより広く見たいだろうとか、魚のカメラマンなら、産卵のポイントとか魚の写真が撮れるような場所が見たいだろうとか。
 写真を見せたい相手が決まれば、ここはこう撮るべきといった撮影の方向性が決まる。
 そして方向性が決まると、写真に良し悪しが生じる。あなたの言いたいことを写真で伝えるためには、こう撮った方がよりいい写真になるよねなどと。
 方向性は、「その写真で何を言うか」と言い換えてもいい。
 
 趣味の写真の場合は、何を言うかが曖昧な場合が多く、何を言うかよりも、どんな風に撮るのかを重視する人が多い。
 趣味の写真は自分のための写真であり自分に向けて撮っているのだから、何かを伝えるかはあまり重要ではないし、そんなことよりも、どうしたら自分が好きな絵になるかが重要になる。
 自分が何を好きか?は「好み」の問題なので、ある一枚の写真がいいとか悪いなどという評価はあまり意味がないし、その曖昧さが趣味の写真の面白さだと言える。
 一方で仕事の写真の方は、何を言うかがほぼすべてだと言っても言い過ぎではないだろう。
 出版社で写真を見てもらう時に、何が見られているのか?と言えば、9割以上は、何を言うかの部分ではなかろうか。
 何を言うかが明確な場合、写真の良し悪しも明確になるから、仕事の写真の面白さは良し悪しがはっきりするところ。仕事の写真には、競技のような側面がある。
 競技はおもしろいけど疲れるし、趣味が自分の世界で主観だとするならば、仕事は客観であり他人の評価。だから仕事はつらいし、たまに無性に趣味としての写真を撮りたくなることがある。

 昔の自分の写真を見ると、売れるわけないよな〜と思える写真がとても多い。
 写真の撮り方が悪いわけではなくて、「何を言うか」が弱い、あるいはないのだ。
 写真の撮り方は単なる技術なので、それを覚えるのはそんなに難しいことではないが、「何を言うか」は、言うならばその人の人間性なので、鍛えるのがとても難しい。



● 2019.1031〜11.2 高感度の使いこなしの話



 超高速で動く動体を撮影するために高速シャッターを切る場合には、2つの方法がある。1つは、レンズの絞りを開ける。あとの1つは、カメラを高感度に設定する。
 レンズの絞りは可能な限り開けるが、被写界深度不足になってしまうと写真が使い物にならないので限度がある。
 そこで、カメラを高感度に設定するのだが、実は、高感度には使いこなしがある。

 今回使用したカメラはマイクロフォーサーズ機のパナソニックのG9PROで、感度の設定はISO1000だ。
 マイクロフォーサーズ機のISO1000の画質は、一般的に言われている知識に当てはめると、フルサイズ機ならISO2000くらいに該当するのかな?フルサイズ機でもISO2000と言えばそれなりの高感度だが、今日の画像を大きなモニターで見ても、恐らく誰もそんな高感度の画像であることを感じられないだろう。
 下手をすると、それなりに詳しい人でもISO200くらいだと思い込む可能性さえあるし、僕だって、時間が経って撮影時のカメラの設定を忘れてしまえば、そうなりそうな気がする。

 実は、今日のシーンは、高感度に設定した際の画質の劣化が感じられにくいシーン、つまり高感度と低感度の画質の差が出にくいシーンなのだ。
 高感度に設定した際に画質が劣化が顕著に現れるのは、例えば影や陰になっている部分やコントラストが低い部分など。
 したがって、そうならないように撮影すれば、高感度で撮影しても、高感度の弊害が出にくい。
 極端な場合は、光の状態が悪いISO200よりも、光の使い方がいいISO800の方が低感度に感じられるなどという現象が起きたりもする。
 高感度は、ただ感度の数字を大きな値に設定すればいいのではなく、光の使い方により気をつけなければならず、実は案外使いこなしがあるのだ。
 そして、高感度でも画質の劣化が感じられにくい撮り方は、言うまでもなく低感度でもよりキレイに写る撮り方でもある。
 ともあれ、今回のトビハゼのシーンでは、カメラの感度よりも、被写体のブレの方が大きく画質を左右する状況なので、カメラの感度は高め、被写体ブレを可能な限り防ぐ設定にした。

 さて、今日の画像は、トビハゼに対して、やや右側から光が当たっているのだが、本来なら、顔の側から (この場合は左側から) 光を当てるのがセオリーだ。
 スタジオで撮影されたポートレートなどを見たらよく分かるのだが、顔は一番陰にしたくない箇所なので、顔の側から光を当てる。
 顔の描写は、写真の印象を左右しがちであり、今日のシーンでそうした光を選択できれば、トビハゼの顔の輪郭の切れ味がより良くなり、カメラの設定は同じでももっと画質がよく感じられただろう。
 だが、潮は右から左に向かって満ちてきているので、水から逃げるトビハゼは必ず左を向くし、左から光が当たる時間帯には干潮で、この場所にトビハゼはいない。
 3週間ほど待てば、左(誤って右と記載していたのを左に修正しました)から光が当たる時間帯に満潮になるのだが、今度は潮位が低くて、トビハゼはこの位置まで上がってこない。
 自然って、難しいな。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2019年11月分


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