撮影日記 2019年9月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2019.9.28〜30 グレタ・トゥーンベリさん

 環境活動家のスウェーデン人高校生 グレタ・トゥーンベリさんの演説に対する反応は、僕が、普段何かあった時にこの人の意見を聞きたいなと参考にしている方々の間でも賛否両論に分かれるが、僕は、違和感を感じた。
 どこに違和感を感じるのか?と自分自身を突き詰めてみると、グレタ・トゥーンベリさんが、怒っておられるという点。
 怒るということは、今起きている環境問題が人間のせいで引き起こされていて、人間次第で解決できると考えておられるからだろう。
 誰のせいでもないことに関しては、怒っても意味がないのであり、つまりグレタ・トゥーンベリさんの話は大雑把に分けてしまうと、人間の態度が悪いという話であって、もっと科学者の話に耳を傾けよと主張しておられる。

 環境問題が人間の活動の結果起きているというのは、誰の目にも明らかなこと。
 でもだからと言って、人間次第で変えれるか?というと、僕はそんなものではないような気がする。この手の問題は、人間自身にももはやコントロールできないのであり、行きつくところまで行きつくしかない。
 僕が子供の頃は、あと何年で石油がなくなるという話がよくあった。早いケースでは25年で無くなるなどと聞いたこともあった。もしも本当にそんなことが起きれば、その時には、人は変わる、というよりは変わらざるを得なくなると思う。
 だが現状で変わるというのは、僕は不可能なのだと思う。人間は、そんなにできた存在ではないから。
 それは、誰でも、自分自身のことを考えてみたらわかるのではなかろうか?
 人は時に、自然(運命)の前ではほとんど無力であり、自然を受け入れるしかない場合があるが、人間という生き物の中にも自然が存在し、その自然の部分に関しては、人間自身にもどうにもできないものだから。
 
 環境問題を放っておいていいとは思わないのだが、怒る、つまり誰かが悪いという態度は、筋違いのような気がしてならない。
 誰かが悪い、大人が悪い、社会が悪いではなくて、科学の目で、諦めずに少しでも工夫をするしかないのではなかろうか。
 
 

● 2019.9.27 更新のお知らせ

8月分の今月の水辺を更新しました。



● 2019.924〜26 思ったよりも難しい外来種の話

 外来種の問題は、自分が思っていたよりもずっとずっと難しいことなんだな、と最近ようやく分かってきた。
 なぜ外来種を駆除するのか?
 色々な意見があるけど、その中の1つとして、日本の生態系を守ることが日本に暮らす人々のためになる、という考え方がある。
 だがそれだと、自分たちの暮らしの邪魔になる生物は駆除をしてもいいという理屈が成立する。
 そして人間の邪魔になるという理由で、害虫と呼ばれる虫たちなどたくさんの生き物たちがすみかを奪われてきたという現実があり、人間にとって不都合なら生き物を駆除してもいいと言うのなら、そうしたことも認めることにもなってしまう。
 その場合に、その生き物がどの程度人の暮らしの邪魔になるのかの問題があるのだが、ここでは、それはいったん横に置いておくことにする。

 僕は、日本の生態系を守ることが日本に暮らす人みんなのためになるという理屈は、どうしても理解ができない。
 世間にはいろいろな価値観の人が存在するのであり、自然以外の何かに価値を感じる人だってたくさんいるじゃないかと思えてしまう。
 僕の場合は、なぜ生態系を守らなければならないのか?に理由はない。
 理由がないのは、なぜ人を殺してはいけないのか?に、誰も明快な答えを出せないのに似ているように思う。
 人の社会の中には、理屈、つまり言葉では説明ができないこともたくさんあると思う。そんなに何もかも全部、理屈で説明しなければならないのだろうか?

 自然が失われる原因として、科学性の不足を主張する方もおられるが、僕はむしろ、科学性によって自然が失われているような気がしてならない。
 科学の世界では、現象の中からエキスの部分を抜き出す。
 例えば、ある食べ物に病気を治す効果があったとするならば、その食べ物の中の何の成分に病気を治す効果があるのかを調べ、その成分だけを抜き出そうとするし、成分さえ抜き出せれば、その食べ物全体は不要になる。
 同様に、人が食べ物を欲しいと思った際に、その食べ物さえ手に入ればいいという発想がまかり通り過ぎているような気がする。
 例えば、田んぼなら、いい米さえ取れればいいとか、海なら、人が欲しい魚だけ手に入ればいいとか。
 科学の世界では物事を純化するのだが、純化し過ぎとでも言ったいいのだろうか。
 その結果、田んぼや海には、人の食用にならない他の生き物もたくさん住んでいるのに、それらはどうでもいいという扱いを受ける。
 僕は、科学はもちろん大切だけど、科学とは逆に、合理的な理由がなくてもいいじゃないかという観点も大切であるような気がしてならない。
 もちろん、科学の考えが深く正しく普及すれば、人にとって必要な食べ物の部分だけが得られればいいという発想にはならないのだが、どんなに教育を強化しても、大多数の人にそこまで科学性を理解してもらうことは不可能ではなかろうか。
 科学で人の社会が治められると思い込んでいる人は、恐らく、人の社会の中には、そうではない発想の人が一定程度存在することを身近に体験したことがないのだと思う。人という生き物を知らな過ぎるような気がしてならない。

 田んぼで植物の写真を撮っている時に、
「何撮ってるの?ああ、花?ああ恥ずかしい。あとでそれ抜いといて。」
 と言われたことが何度もある。
 恥ずかしいというのは、不要なものが混ざっている管理が悪い田んぼということのようだが、そんな時に、まあいいやという寛容さというのか適当さが大切であるような気がしてならないのだ。
 人の社会では、そうした寛容さや適当さを『遊び』と呼ぶ。
 つまり、自然が失われるのは、きちんとしていないから(科学性の不足)なのだろうか?それとも、遊びがないからなのだろうか?
 もちろん、両方あるのだろうが、日本の場合は、遊びがないからの方が大きいような気がしてならない。



● 2019.921〜23 NOTEを始めました。

 インターネットの世界は、恐ろしい勢いで移り変わるなぁ。
 最初にホームページが登場した際には、幾つかのホームページをブックマークして、それらを巡回するのが日課であり、勉強だった。
 また、他にも面白いコンテンツはないか?と日々探し回った。
 他人のホームページを巡回しないなんて、あり得なかった。

 その後、ブログが登場したのだが、僕はブログを本格的には導入しなかった。
 理由は、ブログを提供する会社の都合に左右されるのが嫌だったから。
 例えば、確かヤフーブログはサービスが終了すると聞いたのだが、そんなことになると、10年、20年、30年と続けることができなくなるから。
 ただ、インターネットで何かを検索した際に、ホームページよりもブログがヒットしやすい傾向があり、ブログではなくてホームページを継続していこうとする場合は、新たな読者にも見てもらうためには、ホームページを紹介する別の何かが必要になり、ツイッターやフェイスブックを導入するとになった。

 今や、そのブログもあまり見てもらえなくなった。
 人が見るのは、圧倒的にツイッターやインスタグラムであり、その中で特に関心を持った人だけが、ホームページやブログを見るという状況になった。
 今度は、NOTEというシステムが登場した。
 NOTEは、クリエイター向けのブログみたいなものなのかなと思っているのだが、記事を読む際に有料に設定することが可能。
 で、僕もそのNOTEを始めてみた。
 詳しくは以下の通り。 

自然写真で仕事をしたい人向けの記事を書きました。
有料です。
有料なのは、お金が欲しいわけではなく、書く人も読む人も本当に一生懸命な世界が僕は好きなので、自分からも読者からも何となくという部分を排除したいから。
本当は10円にしたいのですが、最低の額が100円なので、しかたなく100円になってしまいました。
普段から僕に寄付したくてたまらない人や、自然写真で仕事をしたい人は、是非読んでください。本格的に写真に取り組みたい人にも役に立つはずです。
初回は、先日ツイッターに投稿した2007年撮影のウスバキトンボの大群の画像を題材にして、仕事として写真を撮りたい場合はこう撮るべし、という観点から書きました。

プロの写真の現場には、言葉がある|タケシン|note(ノート)
https://note.mu/takeda_shinichi



● 2019.919〜20 上がったり下がったり

 昨日〜今日は、弟と泊りがけで釣りに行く約束をしていたのだが、弟が熱を出して中止になった。どうも腎盂炎を起こしてしまったらしい。
 あ〜あ、と思っていたら、家族が体調不良で僕以外が動けなくなり、みんなのお世話をしなければならなくなり、たまたま釣りに行くことができなくなって良かったのかなと思い直した。
 すると、定点撮影中の植物のつぼみが昨日の午後から急激に大きくなり、今朝には撮影しなければならないタイミングになり、もしも釣りに行っていたらば撮影ができなかったことを思うと、もしかして運が良かったのか?という気になってきた。
 しかし今朝、咲いた花を見てみると、花びらがつぼみの中で傷んでいたようで、どっち道撮影はできなかったことが分かり、がっかり。
 ガッカリして、気を取り直して、喜んで、またがっかりして、上がったり下がったりが激しい二日間になった。
 僕は、将棋の大山康晴十五世名人の
「助からないと思っても助かっている。」
 という言葉が好きで、計画表の一番上に書いておいて、毎日計画を見る際にチラッと見ることにしているのだが、物事は最後までわかりませんね。
 大山康晴十五世名人は、最後の最後まであきらめないことで有名で、完全な負け試合を、プロとしては考えられないような相手のポカの結果逆転勝ちするなどのエピソードが知られている。
 普通、棋士は40代になると成績が落ち始めるものだが、強い時期が異常に長く、60代になっても上位10人のA級と呼ばれる枠に入り続け、さらにタイトル戦の挑戦者になったりして、A級に属したまま癌で亡くなられた。
 最近では、強い棋士と言えば羽生さんが有名だが、羽生さんが将棋が強いだけでなく人間としても同業者からひたすらに愛されているのに対して、大山名人は、機会あるごとにライバルたちにコンプレックスを植え付けるような言動や振る舞いをして嫌がられていた感があるのだが、僕はそこまで勝負に徹した大山名人が嫌いではない。



● 2019.913〜18 観察会

 観察会の講師を依頼され、先日、子供たちとその保護者の方々と一緒に、磯に行ってきた。
 僕は、とにかく適当に暮らしたいタイプなので、イベントは苦手。正確に書くと、イベントが苦手というよりは、決まった場所へ決まった時間に行くことが苦手。
 普段の撮影の仕事でまだ朝薄暗い時間に野山のどこかに到着しなければならなくても、それは苦ではないのだが、午前11時に約束の場所に行くのは、なぜだかとてもつらいのだ。
 だから、観察会自体は楽しくても、約束をすることに、いつも自信がない。

 ところが今回は、苦手は苦手でも、担当の学芸員の方の仕切りが見事で、非常に快適。
 そう言えば昔ある方から、
「人は、取り巻きが重要です。」
 と言われたことがあるのだが、なるほど!
 もちろんそれでも、現場に向かう道のりで車が壊れたらどうしよう?とか心配が全く無くなるわけではないけれど、イベント事で、心の底から本当に打ち込めたのは、もしかしたら、生まれて初めてかも。
 ともあれ、どうしたらあんな風に上手に仕切れるのかな?
 細かな気配りはその1つだが、気配りばかりだと今度は窮屈になってしまうので、気配りとは逆に大らかさも大切。
 それから、仕切る人の人間の大きさって、仕切られる側の人の心持ちを大きさを左右するのではなかろうか?
 大変に勉強になりました。
 あと1つ、観察会の類でいつも感じるのだが、観察会にお子さんを連れてくる保護者の方々には、素敵な人物が多い。
 子供を見る目、自然を見る目・・・等教えられることが多い。



● 2019.912 インスタグラム

 自然写真協会の理事際の際にインスタグラムの話になり、
「武田君はやってないの?」
 と聞かれたのだが、興味がある方は下記をご覧ください。
https://www.instagram.com/shin_ichi_takeda/?hl=ja

 僕の場合、インスタグラムには、主に、偶然に撮れてしまった写真をアップしている。
 シャッターに手が触れてしまってたとか、センサーの汚れをチェックするために撮った写真とか、カメラの設定を間違えたとか、取り損ねたとか、試し撮りをしたとか・・・
 そんな写真の中にビジュアルとして魅かれる写真があった際に、更新することにしている。
 ただ、そんな機会は滅多にないのだが。

 なぜそんなことをするのか?と言うと、自然写真は、偶然に大きく左右されるものだと思っているから。
 ボードゲームに例えるなら、囲碁や将棋ではないと思う。偶然の要素を多分に含む麻雀かなと思う。
 だから、写真の持つその偶然性の部分だけを取り出してみようと思ったのだ。
 
 同じ写真でも、スタジオでの撮影は、基本的に囲碁や将棋みたいなものだと思う。
 強い方が勝つし、上手い方がいい写真を撮る。
 あるいは自然写真でも、型にはめてしまえば、スタジオ写真のようになる。ただそれでは本当に人の心を打つ写真は撮れないので、ここで言う自然写真とは、そうした型にはめた撮影ではなく、自然のロマンを追い求める撮影だとしておく。



● 2019.9.6〜9.11 資料価値

 昨日は、日本自然科学写真協会の理事会にテレビ電話で参加。
 僕は会議は大嫌いなんだけど、みなさんの顔を見ると、なんだか妙に癒されるという面もある。会議なので個人的な仕事や生活の話をするわけではないけど、自然写真のような特殊な仕事は、同業者にしかわかってもらえないことがたくさんある。
 会議嫌いは今にはじまったことではない。
 小学生の時にはすでに、じっと椅子に座っておくのがどうしようもなく苦痛だった。最近の知識に照らし合わせてみると、当時の僕は、ADHDと呼ばれる発達障害の一種の症状に非常によく一致する。
 そうして考えると、僕には会議の素質がない。
 
 日本自然科学写真協会が長年続けてきた企画に関して、今後どうしていくべきかの意見交換の際に、会長の海野さんが、資料価値という側面から話をしてくださったのだが、思いもしなかった観点だったので、大変に勉強になった。
 確かに、写真の持つ資料性という側面は、大切にしなければならない。資料性は、今すぐに役に立つわけではないのでどうしても軽視されるし、意識的に大切にしなければ、やがて失われてしまう。
 そう言えば海野先生は、ご自身の仕事の中で、子供の頃の家族写真などを発表しておられる。
 それらの写真は、写真術という観点から見ると平凡な記念写真であり何ということもないけれど、今見るとその平凡な写真が非常に面白く、写真は、技だけではないことがとてもよく分かる。
 そんなことを、ふっと思い出した。



● 2019.9.3〜9.5 電子シャッターの話

 一眼レフの中にはその構造上鏡があり、鏡は撮影時に高速で動く。そして鏡が動く際には振動=ミラーショックが発生し、写真の画質を悪化させることがある。
 具体的には、微妙にぶれた写真になってしまうことがある。
 その点、ミラーレスカメラには、その名の通りミラーがない。したがってミラーショックは存在しない。
 ミラーレスカメラを使用するようになって驚いたのは、ミラーショックが自分が思っていたよりも、ずっと写真に悪影響を与えていたということだ。

 ところがミラーレスカメラにもシャッターは存在し、シャッターが動く際の振動=シャッターショックが写真の画質を悪化させる場合がある。
 もちろん、一眼レフにはミラーに加えてシャッターもあるのだから、一眼レフの場合はミラーショック+シャッターショックが作用するのに対して、ミラーレスカメラの場合はシャッターショックだけとなり、機械が動く際の振動が小さいのは確かだけど。
 ミラーレスカメラでは、そのシャッターを使用せずに電気的に写真を撮る電子シャッターというモードが存在する。
 電子シャッターを使用すると、撮影時にカメラは一切振動しない。
 そして電子シャッターで写真を撮ってみると、今度はシャッターショックというやつが、自分が思っていたよりもやはり大きいことに驚かされる。
 ただし、電子シャッターには弱点があり、速く動いているものを撮影すると被写体が変形することがある。
 したがって、主に静止している被写体の撮影に使用するのだが、電子シャッターを使い慣れると、一眼レフがおそろしく乱暴な道具に思えてしまい、一眼レフではぶれてない写真なんて撮れるわけがないとさえ思えてくる。
 もちろん、ここで言うぶれた写真、ぶれてない写真というのは、通常の撮影ではほぼ無視できる微細なブレの話だが。
 仕事の現場では、極端な高倍率撮影や超望遠撮影があり、微細なブレが大きな影響になるケースが多々あるのだ。



● 2019.9.1〜9.2 ミラーレス

 カメラがフィルムからデジタルへと変わった時には、ものすごい変化が起きたと感じたものだが、デジタル一眼レフがミラーレスへと変化するのは、もしかしたら、それ以上の大きな変化になるかもしれないなと思う。
 フィルムからデジタルへの変化は、今になってみると、古いシステムの大部分を引きずっていた。変わったのは、ほとんどカメラだけだった。
 ところがミラーレス機の登場で、カメラ以外の周辺機器も含めてすべてが変わり始めた。
 軽いミラーレス用のレンズ、それにちょうどいい軽い三脚、カメラを操るスマートフォン・・・
 ミラーレス機の強みを本当に生かそうと思うのなら、アクセサリー類も含めて道具はほとんど総替えになる。
 別にミラーレス機のアドバンテージを生かさなくてもいいし、従来のやり方で写真は撮れるけど、恐らくどこかで変化について行けなくなってしまうだろう。
 趣味の場合はそれでもいいのだが、生活をかける場合は、 自分がやりたいことに新しい道具が必要かどうかだけでなく、新しい道具で何か考えてもみなかった新しいことができないか?という観点も必要になる。
 
 ただ、買い物をしなければならないのだが、業界がどこへ向かっているのかも見えてきて、買い物は若干やり易くなってきた。
 例えば、元々、パソコンの規格だったUSBが、撮影機材でもあちこちで使用されるようになってきた。
 あるいはスマートフォンやノートパソコン用に販売されていたモバイルバッテリーが、撮影機材でもあちこちで使用されるようになるなど、必要とされるものが一ヶ所に収束しつつある。
 別の用途で購入したモバイルバッテリーが撮影時に活躍するようになり、そうしたものは具体的に何に使うかとかではなく、とにかく持っておけば、いろいろなことに使えるという状況になってきた。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2019年9月分


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