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● 2019.8.31 社会と自然

 日本の社会では、正しいことが選ばれるのではなく、みんなが選んだことが選ばれる。だから日本の自然を考える際に、
「こちらの方がこんなに正しいのに・・・なぜそうしないの?」
 とどんなに思っても、みんなが同調してくれなければ、どうにもならない。
 どうもそれが民主主義だということが、最近やっと分かってきた。
 民主主義という単語は子供の頃に社会の授業で教わったのだが、社会というやつが、自然について考える際に自分が思っていたよりもずっと大切だと痛感するようになった。
 
 日本の社会の中では、正しいことが選ばれるのではなく、みんなが選んだことが選ばれるというしくみがちゃんと理解できていれば、現状に関して、どうにもならないほど嘆いたり腹を立てることは、ないのではなかろうか?
 みんながそれがいいと言っているのに、自分の主張ばかりが通るわけがないし、それでも自分の主張が通るべきだと思うようならその方が傲慢になってしまう。
 法律でどんなに縛ったところで、みんなが実際に関心を持っていないことは、縛り切れない。
 ブラックバスのような日本の自然に大きなダメージを与えかねない生き物を放流してはならないという法が整備されても、大多数の人にとってはどうでもいいことであり、みんながどうでもいいと思っていることは、やっぱりどうでもいい程度にしかならない。
 結局、現状は、みんなが望んだ状態になっているとしか言いようがない。
 それを踏まえてしか、物が言えない。

 ツイッターで自然好きの若者たちのつぶやきを読んでいると、しばしば原理主義の様相を呈していて、まるで学生運動みたいだなと感じることが多々ある。
 もっとも、僕が生まれた時にはまだ学生運動が繰り広げられていたものの、当時は赤ちゃんだったので何の記憶もなく、学生運動に関して知っているのは、後日まとめられたものを見聞きした程度だが。
 ともあれ、そのうち総括なんてやり始めるのではなかろうか?

 もちろん、強い主張が求められる場合もある。
 しくみの不備などで、みんなが望む方向とは違う方向へ社会が向かってしまっている場合は、みんなで声を上げる必要がある。
 あるいは、みんながまだ知らないことは、みんなの意見がちゃんと反映されるために知ってもらう必要があり、僕が打ち込みたいのはこの部分だ。
 ともあれ、生き物のことを考えていると、自分の望みと世の大多数の人の望みとがかなりかけ離れていてることを思い知らされる。
 結局、自然について知ってもらう努力をする以外にできることがない。



● 2019.8.29 自然科学と自然科学写真の違い

 生き物の研究とツイッターは相性がいいのか、生き物の研究者にはツイッターを利用している方が少なくないのだが、研究者のツイートには、ある1つの特徴がある。
 それは、自分で調べたわけではないことでも、つまり他人のデータでも、あたかも自分で確認した事実であるかのように語る場合が少なくないということ。
 生き物の研究に限らず、科学者に共通の特徴だ。
 自然科学の研究の世界には「論文」というシステムがあり、乱暴だけど大雑把に言ってしまうと、論文として発表され認められている現象に関しては、それを引用して物を言ってもいいということになっている。
 というよりは、自然科学という学問は、すでに調べられてる知識を引用してまだ調べられていない現象を説明する行為であり、基本的に引用の積み重ねで成り立っているのだ。

 ところが、自然写真家の場合は、事情が異なる。自然写真家は、誰かが撮影した写真を使って物を言うことはできない。
 言いたいことがあるのなら、自分でその現象を一から見て写真を撮った上で語らなければならない。
 例えば、希少な生き物を食べてしまうと問題になっている奄美大島の野生化した猫について、その問題点を語りたいとする。
 研究者ならは、「野生化した猫にはこんな問題がありますよ」という内容のすでに存在する誰かの論文を引用して、野生化した猫の問題点を指摘することができる。
 一方で自然写真家の場合は、奄美に行ってそれらの猫の問題点が写っている写真を撮り、自分の写真で、自分のデータで語らなければならない。
 自然写真界で圧倒的な仕事を成し遂げてきた二人の写真家が、奇しくも全く同じことを主張しておられる。
 それは、研究者の言うことは「机上の論理だらけ」ということ。
 そう主張する一人は岩合光昭さん、あとの一人は宮崎学さん。
 机上の論理だらけ、というのは、恐らく「引用」のことを指しているのだと思うが、そこに、自分で撮った写真でしか物を言えない写真家と、他人の研究でも引用して物を言っていい研究者との立場の違いがある。
 研究の優れているところは、積み上げていくことができること。ある一人の人間の寿命や能力では分からないことを、引用の積み上げによって調べることができる。
 一方で岩合さんや宮崎さんの写真があれだけ評価され人の心を捉えるのは、それが正しいかどうかは別にして、自分で見たことだけを言っている点に心を打たれるからだと言える。

 では、どちらが大切なのか?と言えば、どちらも大切に決まっている。
 知識は必要だし、一方で世間の人は、必ずしも正しいことだけを求めているわけではない。
 むしろ、正しいことだけに執着している人の方が%としては少数派ではなかろうか?だから、ドラマや映画やフィクションが存在するし、テレビでノンフィクションを放送しても、なかなか見てもらえないちう現実がある。
 人にとって大切なのは、それが正しいかどうかではなくて、それがその人にとって豊かかどうかだったりする。
 正しい知識に執着する人の中には、とにかく騙されることを過度に恐れている方がおられ、
「ほら、これは嘘ですよ。やらせですよ。」
 と嘘あばきに熱心な方もおられるが、人の社会の中では、騙されてあげることも大切ではなかろうか。夫婦でも親子でも友人どうしでも、正しいことだけではなかなか成立しないし、騙されることもとても大切なのだ。
 もちろん、程度の問題ですが。



● 2019.8.20 更新のお知らせ
 
 今月の水辺を更新しました。



● 2019.8.16〜19 経験

 プロ野球の王さんが、ドラフトで新人選手を指名する際に、
「もしも二人の打者で迷ったなら、飛距離が出る方を選ぶ」
 と語るのを聞いたことがある。
 打者の飛距離は天性の部分が大きく、努力では、ある一定以上は伸びないのだそうだ。
 
 写真の技術の中にも、練習によって上手くなる部分とそうではない部分とがある。
 動いている被写体にピントを合わせるなどという技術は、誰でも、練習をすればするほど上手くなる。ところが構図は天性の要素が大きく、努力をしても、才能がない人はある一線よりも上手くならないと言われている。
 練習をすれば上手くなる部分や才能に左右される部分の他に、第一線で仕事をして経験を積まなければ上手くならない部分もある。
 例えば、ある一枚の写真を撮る時に、その写真の中のどこを見せなければならないかという判断などは、それに該当する。
 別の言葉で言い表すなら、どこまで細部が見えているかと言ってもいい.
 どこまで細部が見えているかは、一人でどんなに一生懸命に写真を撮ってもなかなか上達しない。写真を使ってもらって誰かに指摘をされたり、仕事の現場で交わされる会話によってのみ上達する。
 生き物の写真なら、顔の向きやどこに光が当たっているかや微妙な角度であり、プロとアマの写真を比較した際に、一番違いが出やすい場所でもある。
 それはちょっとしたことなのだが、天気のように写真を大きく左右する大きなことは運の要素が大きく、どうにかしたいと思ってもどうにもなりにくいのに対して、ちょっとしたことは、撮影者の見識次第という面があり、実は非常に差が出やすいのだ。
 つまり、大きなことというのは、しばしばどうにもならないこと。そして細かいことは、実は案外大きなことだと言える。



● 2019.8.9〜15 パッと写真を見た時に・・・







 上の三枚の画像を見て、「あ、すべて同じことをしようとしているな」と分かる人がいたならば、その人は写真の基本をとてもよく分かっている人で、すでに自然写真で生活をしているか、やろうと思えばそれができる人だと思う。
 
 一番上のアオサギは、レンズの絞りを絞ってさらにNDフィルターを取り付けて、スローシャッターを使用して撮影した。
 スローシャッターを使うと水が流れて写るが、水を流すことが目的ではない。水が流すことで背景をぼかすのが目的。
 もっと正確に言うと、ぼかすことが目的ではなく、背景がぼけることで、同系色の中で、主要な被写体であるアオサギにパッと目がいくようになる。
 
 真ん中のアラレタマキビは、貝の上に貝が乗っかって四連結になっているシーンだが、レンズの絞りをf2.8にして、ピントを少しずつずらしながら約100枚の写真を撮った上で、ピントが合っている箇所をパソコン上で深度合成したもの。
 深度合成をするのは貝にピントを合わせるためだと思われがちだが、それが最大の目的ではなく、狙いはf2.8の絞りで背景をぼかすこと。
 背景がぼけることで、パッと写真を見た時に貝に目がいくようになる。

 一番下のウスバキトンボは、広角レンズを使用した。
 広角レンズを使用することで背景が広い青空になり、青空とトンボの色の対比で、パッと写真を見た際にトンボが背景から浮かび上がってきて、トンボの部分に真っ先に目が行くようになる。

 いずれも、写真をパッと見た時に、一番見せたい箇所に人の目が行くように仕向けて撮ってあり、そのためのスローシャッターであったり、深度合成であったり、広角レンズの使用なのだ。
 因みに、写真の世界には構図という技術が存在するが、構図も、パッと写真を見た際に、一番見せたい箇所に人の目を誘導することが最大の目的だ。
 生き物を小さく撮影する写真は難しいとよく言われるが、難しい理由は、生き物を小さく撮影すると、パッと見た時に周辺に目を取られやすくなり、主要な被写体に目線が行きにくくなるから。

 人がどこを見ているか視線の先が分かる機械を取り付けた人にいろいろな写真を見てもらうと、恐らく、上手な人が撮った写真の場合は、スッと吸い寄せられるように視線が主要な被写体に向かい、下手な人が撮った写真の場合、最初一瞬探したのちに、視線が主要な被写体に向かうのではないかと思う。探すと言っても、コンマ何秒の世界だと思うが、そのわずかな間が、写真を見た際のインパクトを左右する。
 一枚の写真の中に何カ所か見せたい場所が存在する場合がある。例えば、一番見せたいのは蝶だが、他に蝶が止まっている植物も見せたいとか。
 そんな場合でも、上手な人が撮影すると、パッと写真を見た時にまずは蝶に目線が行き、次に花に目線が行くという風に、上手に誘導されるのだ。

 僕は学生時代に生き物を勉強したが、もしも写真を勉強するのなら、写真をパッと見た時に人の目が行くのはどんな箇所かを言語化し、その情報を使用して、「こういう風な構図にしたらいい写真になりますよ」と教えてくれるようなスマホのアプリの研究をやってみたい気がする。



● 2019.8.7〜8 偶然











 シャッターに思いがけず手が触れてしまったとか、撮り損ねたとか、レンズのオートフォーカスが作動するかどうかを確認するためにシャッターを押しただとか、何となく撮影したとか・・・
 そんな画像の中に、気になる絵が混じっていることがある。
 気になる、というのはあまりに不親切な表現なので、物以外の心をゆさぶる何かが写っているように感じられると言い直しておく。
 画像をチェックする際にその手のものが含まれていた場合は、抜き出して1つのフォルダーにまとめておくことにしている。
 その手の調子の写真をわざわざ狙って撮ろうとは思わないのだが、自分のカメラで撮れてしまった画像に関しては、何となく楽しいのだ。
 そうした作風の狙っている他人の作品を見ても、今の僕は特に楽しいとは思わないのだが、何らかの形で関わっていると、少しずつ理解できるようになる場合があるから。
 物事は、理解できないよりは、理解できた方がいい。
 理解することがえらいとかではなくて、自分が楽しいから。
 理解できれば、そうした要素を、今の自分の写真の中に撮り込むことも可能になるかもしれない。
 著名な写真家では、ジム・ブランデンバーグ氏の写真は、そんな匂いがする。自然を説明しつつ、ちょっと懐かしいとか、ちょっと胸がキュンとするとか、何だか心を揺さぶられる。



● 2019.8.1〜.8.6 小さなテーマ

 大学時代に初めて昆虫写真家の海野先生に会いに行った際に、おもしろいなぁと思ったのは、海野さんが、その日の小さなテーマを決めて撮影しておられたことだった。
 小さなテーマの中身は、その日見た蝶をとにかく一通りすべての種類撮影するというもので、テーマとまで言うと大げさで、ゲーム感覚と表現した方が正確だったかもしれない。
 何となくの撮影、あるいはマンネリの撮影にならないようにするための工夫だったのではないかと思う。
 最近、その日の海野さんをフッと思い出すことがある。

 さて、今日の画像は、タマムシとウスバキトンボの白バック写真だ。


 タマムシの方は、とにかく時間をかけずにパッと撮影して、幾つかの違うポーズも含めてせいぜい2〜3分でサッとおしまいにするやり方。
 細かいことを考えずに、日頃から準備してある撮影パターンに当てはまるのみ。
 撮影後にすぐに画像を見て場合によっては撮り直すようなことはなしで、照明が完璧ではなかった箇所などは、あとで画像処理で救う。


 ウスバキトンボの方は、ひと手間余計にかけるやり方で撮影。他の角度からの撮影も含めると、1時間くらい要したのではなかろうか。
 撮影後はすぐに画像をチェックして、気になる箇所があれば、より質が高い画像を目指して撮り直しをする。
 細部にこだわる、あるいはスピードと効率を重視するなどいずれにせよ、何か小さなテーマを決めた方が、写真が明快になるような気がする。

 大学1年の教養部の授業で倫理を担当しておられた村上先生は、担当する2つのクラスで、全く逆の方針を採用しておられた。
 僕が受講した倫理の方は、座席が決まっていて、毎回出席を取り、毎回レポートの提出があり、毎回細かな採点がある代わりに、単位が保障された。
 一方であと1つの倫理の授業の方は、座席は自由で、出席や課題はない代わりに、単位は試験の結果次第だった。
 今になってみると、とても面白いやり方だなぁと思う。
 というのは、どんなやり方が正しいなどと主張するのではなく、学生に選ばせていること。つまり、何がいいかは人それぞれですよ、と主張しておられること。
 村上先生は、確かお坊さんだったと記憶している。
 授業の中身はカントの純粋理性批判、あるいは実践理性批判だったこと以外は何も覚えていないのだが、「生命保険などというものはとてもバカらしいので、自分は絶対に入りません。」という話がとても印象的で、それのみ記憶にある。


   
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