撮影日記 2019年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2019.5.28〜31 更新のお知らせ

 PCの新調やハードディスクのトラブルで遅れましたが、4月分の今月の水辺を更新しました。



● 2019.5.11〜27 デジタルな話

 画像処理用の新しいパソコンが届いた。
 まだまだ使用できる古いものは、事務所から徒歩で30秒の場所にある、別棟のスタジオへ移動。
 30秒の距離なので、これまではスタジオで写真を撮ったら事務所に戻ってから画像を確認していた。しかし、何度も何度も修正が必要な撮影もあり、そのわずか30秒が苦に感じられることもあるので、古いものとは言えスタジオにもPCがあるに越したことはない。
 また、最新のPCと言えども故障はありうるし、いつでも使える予備は欲しい。
 事務所には画像処理用とは別に事務作業用のPCがあり、事務用と画像用は、お互いにどちらが故障しても代役を務められるようにはなっているのだが、画像処理用はやはり、よりハイスペックな専用のものが好ましい。
 実は、古い方がまだ十分に使用できるにもかかわらず、新しいPCを購入したのは、今回が初めてのことだ。古い方がまだまだ十分に現役だと、新しいPCへの移行を慌てる必要はないし、データの移行もスムーズだし、いいことだらけだった。
 ただそれでも、新しいPCが使用できる状態になるまで、正味の時間で丸二日を要した。
 パソコンは、壊れる前や古くて使えなくなる前に新しい物に買い替えるのがいいとと分かってはいるのだが、つい、撮影機材の方にお金をかけてしまうのだ。

 さて、トラブルも発生した。
 パソコンの移行に関係があるかどうかは不明だが、重要なハードディスクの1つが故障して、読めなくなってしまった。
 中身は、画像処理を施した上で、生き物の種類ごとに分類された仕事用の画像で、『カタログ』と自分で命名しているハードディスクで、これが失われると、仕事ができない。
 もちろん、写真を撮った際の元のデータも残してあるのだが、それらを再度画像処理するのは、手間を考えるとほぼ不可能なので、非常に困った自体が起きたことになる。

 ただし、救いもあった。
 『カタログ』に収納している画像は年々量が増えるので、ある時、既存のハードディスクの容量では収まらなくなり、 『カタログA』 と 『カタログB』 の2つに分割したのだが、今回故障したのは、使用頻度が低い 『カタログB』 だったのだ。
 また、カタログは、容量が増えハードディスクが満タンになった際には、より容量が大きなハードディスクにデータをコピーして移行し古い方を残してあり、今回故障した容量6TのカタログBに関しては、去年の10月末まで使用していた容量4Tの古い方が存在するので、失われたのはその間の約半年分。しかも、撮影量が少ない冬が含まれているので、重大なトラブルの中では、運がいいケースにあるだろう。
 ともあれ、それでも失われた画像が戻るに越したことはないので、まずはハードディスクを復旧してくれる会社へお願いしてみることにした。こんな時代なので、そうした会社がどの程度頼れるのかも経験しておいた方がいいと考えたのだ。
 
 当然、失われたカタログBに関しては、普段からバックアップを取ってあるのだが、そちらも読めない。
 想像するに、まず元のディスクにエラーが発生し、バッアップを取った際に、そのエラーもバックアップされたのではなかろうか?
 誰にも起こりうるトラブルだが、これって、どうしたら回避できるの?
 
 僕は今、バックアップを取る際に、ミラーリングという方法を採用している。ミラーリングとは、2つのハードディスクの中身を同じにすること。
 だが今回、ミラーリングには、不具合もミラーリングされてしまうという致命的な問題もあることがわかった。
 ということは、バックアップソフトを使用するしかないのかな?
 バックアップソフトを使用すれば、データだけでなく、過去の経歴も記憶してくれる。
 したがって今回と同様のトラブルがードディスクに起きた際に、〇月〇日の状態に戻すなどということができる。
 ただし欠点もある。
 バックアップソフトで得られたバックアップは、画像の状態で保持されるのではなく、文字列などになっているのか、画像として見ることができないのだ。
 バックアップ先のデータが、画像としては見えないというのは、何か落ち着かないのである。



● 2019.5.6〜10 野良猫は是か?非か?



 カタツムリの撮影中に猫が駆け寄ってきて、膝まづいていた僕の太ももにちょんと手をのせた。食べ物をねだりに来たのかな?
 撮影を中断して猫を触っていると、僕が猫をかわいがっていることを、と同行者に驚かれた。
 というのは、僕は普段猫にとても辛いのだ。猫は野生の生き物を食べてしまうので、放し飼いをして欲しくないし、放し飼いは規制されるべきだとずっと考えてきた。
 でも、そういう問題を抜きにすれば、猫自体が嫌いなわけではないし、動物は基本的に全部好き。
 ただ、近年は、猫の放し飼いの是非は、自分が思っていたほど簡単な問題ではないと思うようになってきた。

 人の社会は、人が作ったルールや秩序で成り立っている。人の社会=人が作ったルールだと言ってもいい。
 一方で自然界には、そんなルールはない。
 だから、人のルールではないものが自然だと定義してもいいし、そこまで言語化できなくても、実は直感的に、自然=人のルールではないものと定義している人は少なくない。
 人のルールというと高圧的で堅苦しいイメージがあるけど、ルールは人が暮らしやすくするためのものであり、人が幸せに暮らすためにとても大切なものだと言える。
 ただ、人は人間である以前に動物でもあり、人の中には動物の部分が存在するから、人のルールで100%塗り固められた世界は窮屈になる。
 その結果、人が病んでしまう現象は現代病などと呼ばれ、大きな社会問題にもなっている。
 だから、たまには人のルールがない世界に行くのもとても大切なことだし、僕の場合は、野山や生き物に求める。

 中には、それをのら猫に求める人もおられる。
 猫は外来の生き物であり、自然ではないという方もおられるが、自然と言う言葉にもいろいろな定義があり、「猫は自然ではない」という人が定義する自然は、自然科学の世界でいう生態系みたいな概念(自然界の法則のこと)であって、「人のルールではないもの」という意味での自然とは観点が異なるので、指摘は筋違いのような気がする。
 それは、どちらが正しいか?というよりは、自然とは何か?のイデオロギーの対立と考えた方が正確だと思う。
 ともあれ、犬よりも猫が好きという人に、猫のどこが好き?と聞くと、
「人に媚びないところ」
 と答える人は少なくない。
 つまりそうした人たちは、猫に人のルールではないものを求め、猫によって癒されているのであり、のら猫の存在がある種の福祉のようになっている面がある。
 それを奪ってしまうと、どうなるのだろうか?
 野良猫禁止だけの影響はそんなに大きくはなくても、同レベルの他のあらゆることにも同様に規制がかかるとするならば、規制の結果何が起きるかに関しては想像がつかない面もあって、野良猫禁止は、一部の非常に特殊な野生生物が生息する島のような場所を除いて、急にワッとやってしまうべきことではないと近年は感じるようになってきた。

 野生生物が好きな人には、僕と同様に、野良猫に否定的な人が多いのはなぜか?
 1つは、生態系というような概念を知っているから。
 でも、実は、理由はそれだけではない。
 野生生物を見ている人は、僕のそうなのだけど、その間に、本人は意識していなくても人間社会のルールから逃れることができる時間を持つことができていて、それによって満たされているので、そのタイプの癒しを必要とする人の気持ちが、案外理解できないのだ。



● 2019.4.30〜5.5 単行本化



 以前、月刊誌として作った本が好評だということで、単行本化されることになった。
 このタイプの月刊誌は、僕が絵コンテを描くわけではなく、カメラマンは与えられた絵に則って写真を撮るのが仕事になる。
 上京した際に、この本が月刊誌として出版された際の読者からのハガキを見せてもらったのだが、これが大変に役に立った。
 日頃編集者から、
「こんなイメージで」
 と求められても、なかなか理解ができない部分が、ハガキを読むと
「ああ、カメラマンはこんなことを求められているのか!」
 と感覚的にとてもよく分かった。
 それに合わせるのが必ずしもいいとは思ってないのだが、知っておくのは大切なこと。
 ギャラ以外に何か得られるものがあるというのは、次に新しい局面が開ける可能性があるということであり、僕が普段とても重視している部分だ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2019年5月分


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