撮影日記 2019年2月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2019.2.28 眠れぬ夜の話

 滅多にないことなのだが、昨晩、なぜか眠れなくなった。そこで、寝るのをやめて、確定申告の準備をすることにした。
 いつもなら眠たくて眠たくて仕方がない時間帯に全く眠気を感じないどころか目が冴えて冴えて仕方がないのだから、まるで疲れない体でも手に入れたかのよう。
 1時頃に始めて午前9時ころまでぶっ続けても大丈夫。休憩も不要だし、音楽もいらない。
 不謹慎だけど、もしかして、覚せい剤なんかやったら、こんな感じになるのかな。
 今年の確定申告は絶望かと思っていたのだが、なんと一晩で、しかも本来なら寝ている時間の間に片付いてしまったのだから、お得感が凄い。
 僕の心をひたすらに重くしていたお荷物が、目覚めたら無くなっていたかのようで、儲かった。こんなことがあるんだなぁ!
 
 作業を終えたら、急に眠たくなってきた。
 僕らの仕事は、結果さえ出せばいつでも、どんな順番でもいい。むしろ、何をどんな順番で片づければ能率が上がるのかは工夫のしどころ。
 今度はひと眠りすることにした。
 ク〜ンと何かに吸い込まれるように眠りに入り、しばらくして眠りから醒め始めても、体がフワフワ宙に浮いたかのようで実に気持ちがいい。
 ここ10年くらいで一番の眠りではなかろうか。
 突然、郵便物の配達で玄関のチャイムが鳴って目が覚めた。
 さあ、起きようか。



● 2019.2.27 裏話



 岩崎書店の 『石はなにからできている? 』 では、石をテーマにした風景の写真を二ヶ所で使用することがあらかじめ決まっていた。
 その風景をどこで撮影するかに関しては、あまり類書がないだけにお手本がなく、自由な反面、何をどう撮るかで迷った。
 まずパッと思いついたのは、石がきれいな海岸や河原の画像をインターネットで検索して、そこに行ってみるという手。生き物の写真の場合は、有名な場所に行って撮影するのはオリジナリティーの面から避けたいが、風景は事情が違う。
 生き物は、同種のものが何匹も何匹も存在して移動もするけど、風景は唯一無二の存在だから、その唯一無二のものを撮影することに意義があるのだ。
 一方で、自然科学系の本の場合は、例えイメージカット的な風景写真でも、ただキレイなだけでなく、ある程度、本の内容を反映する必要がある。
 それを考えると、満たさなければならない条件が一般的な風景写真よりも多く、見ず知らずの土地でにいきなり思い通りの結果を出すのは難しい。
 特に水辺の場合は、川なら、直近の雨次第で水量が変わったり、石が泥をかぶっていることがあるし、海なら満潮か干潮か、大潮なのか小潮なのかなどによって景色が大きく違ったり、波が強い日の直後なら、大量のごみが漂着して撮影ができない場合もある。
 それらをすべて読み切るのは不可能であり、近所で撮影ができるなら、そこに何度も何度も通って、ベストなタイミングで撮影するに越したことはなかった。
 結局、通いなれた福岡県福津市の海岸を選んだ。



 実は、僕はこの場所へは何度も行ったことがあるのに、小石のこの景色を見たことがなかった。
 というのは、この景色が見られるのは大潮に近い満潮の時だけであり、生き物の観察に適する干潮の時は全く違う風景になってしまうのだ。



 干潮になり、小石よりも沖にある磯が表れると、磯の存在感の大きさから、小石の景色が伝わりにくなる。
 したがって、この場所で僕がイメージする写真を撮影するためには、大潮であり、満潮であり、さらに同時に、この方角にカメラを向けた場合に順光になる午前10時前後であり、おまけに青空の日でなければならない。
 撮影は、それらを逆算することから始まった。
 まず潮時表を見て、順光になる午前十時頃に満潮になる大潮の日をまず抜き出す。そして、それらの日のうちの晴れた日に出かけるのだが、条件が整う日はほとんどなかった。



● 2019.2.20〜26 カメラマン体質


NikonZ7 AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR

NikonZ7 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonZ7 AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED

 時々、編集者などで、とてもよく物が見えている方がおられ、この人カメラマンになったらいいのにと思うことがある。
 そしてそう伝えてみると、たいてい、
「いや〜、写真はメンドクサイ!」
 と返ってくる。
 確かに写真はとてもメンドクサイし、とにかく時間がかかる。
 オモシロい現象は、そんなメンドクサイことをするよりも、出来れば、ただひたすらに見ていたいと思うことがある。

 そう思う僕は、多分、カメラマン体質ではないんだろうなと思う。
 スマートフォンなどでガンガン写真を撮る人を見ると感心させられる。まるでカメラマンじゃないか!と。
 カメラマンにとって大切なことは2つある。
 まずは、目の前にある物や現象を記録して人に見せたい、と思うかどうか。次に、それをキレイに撮りたいと思うかどうか。
 僕の場合は、写真を撮る動機としては、後者のウエイトが圧倒的に大きく、前者の部分は非常に弱い。
 
 そこで、体質改善をして、もっとカメラマンらしくなってみるかと考えた。
 どうしたらカメラマンらしくなるんだろう。
 性格は、余程に価値観がひっくり返るような出来事がなければ変わらないと思うけど、習慣付けなら可能かも。
 ということで、季節の話題やネタなどを、マメに撮影してみようかな。
 例えば、花粉の飛散がピークを迎えたと聞けば、普段の自分のテーマとか関係なく、とにかく花粉を撮るとか。



● 2019.2.19 本作り

 もう10年くらい前のことだと思うが、自然写真家の新開孝さんが、誰が何冊くらいの本を出しているかを調べた上で、それらの本のうちどの程度が絶版にならずに売り続けられているかを話してくださったことがある。
 例えば、今森光彦さんが作った本には、絶版にならずに長く売り続けられるものが多いのだそうだ。そして、長く売り続けられるものを作らなければならない、と。
 当時僕は、とにかくただ本が出ればいいと思っていただけに、新開さんのお話は大変にいい刺激になった。
 また、その後の新開さんの後ろ姿にも、教えられることが多い。
 四六時中、本作りのことを考えておられ、それらが、新開さんが作る本にはにじみ出ている。
 せっかくそんないいお手本がいるのだから、少しでもたくさん勉強させてもらおうと思うのだが、新開さんが見せてくださる本作りは単なるハウツーやノーハウではないので、パッと真似ができるものではない。
 まるでスポーツの選手が動きを体に覚えさせる時のように小さな努力や小さな見識の積み重ねであり、年月を費やしながら少しずつ身に付けるものなのだ。
 
 さて、新しい本に関する構想を練って、書き留めていく。
 薄っぺらじゃなく、読者の心を深いところで揺さぶるようなものを作るにはどうしたらいいのだろう?と。
 最近、少しだけそれを考えられるようになってきたかな、と思う。
 自分自身に対して素直になることは、とても大切だと思う。自分に嘘をつくと、技術があれば本は出せるかもしれないけど、所詮そのレベルのものになってしまう。
 あとは、こうと決めたことをやり抜く、他人にも自分に流されない、鉄の意思も。
 そして、自分に刺激を与えてくれる取り巻きのみなさんは、とても大切。



● 2019.2.15〜18 理論は後付け

 普段写真を撮る際に、僕は理論をあまり重視しない。理論はあくまでも、撮った写真を確認するために使う。
 そうして確認することに関して言うと、僕は理論をとても重視している方だろうと思う。

 例えば、「構図はこうあるべし」、などという理論があるが、写真を撮る段階で、そんな理論を持ち出したりはしない。
 撮影時にはただひたすらに、どうしたら気持ちがいい写真になるのかを感覚で探る。
 そうして撮った写真を確認する際に、初めて構図の理論に当てはめてみる。
 すると、
「気持ちいい!」
 と思える写真が撮れた時には、その写真が構図の理論に適っていることは多々ある。いや、適っていることの方が多い。いやいや、必ず理に適っていると言ってもいいのかもしれない。
 けどれも、理論通りの写真を撮れば、「気持ちがいい」と思える写真が撮れるわけではない。
 先に理論を掲げて、「こうこう、こういう狙いでこの写真を撮った」と主張する方がたまにおられるが、僕はあまり信用しない。

 Aiみたいなものが今よりさらに発達した時に、
「この景色はこう撮ればいいですよ。」
 と構図を教えてくれるカメラが登場するかもしれないが、それは、所詮その程度のものではないかと思う。
 食べ物に例えるなるなら、チェーン店のいつも同じ味がする食べ物であり、それはそれでニーズがあると思うけど、真に心を打つものではないと思う。
 また、もしも人が理論に基づいて構図を決めるのなら、人は、いずれAiには敵わなくなるだろう。
 人がすることの魅力は、感覚の部分にある。



● 2019.2.14 コミュニティー

  

 随分前に、
「イカやタコの本の撮影を担当してもらえませんか?」
 と依頼をされたのだが、イカやタコの場合、撮影はダイバーでなければ難しいので、
「ダイバーの櫻井季己さんに声を掛けてみてはどうでしょう」
と返事をしたことがあった。
 僕は、多分日本で一番守備範囲が広い自然写真家の一人だと思うが、一方でその守備範囲は、生命維持装置が不要な場所までと決めてある。したがって、ボンベがなければ撮影できない海中は、僕の守備範囲ではないのだ。
 たまに、水中で長時間待機をするために空気のボンベを使用することもあるが、それはより高品質な写真を撮るためであり、僕が行くのは、ボンベなしで写真を撮ろうと思えば撮れる範囲に限定してある。
 実は、櫻井季己さんと会ったことはないのだが、随分前に、メールで水中撮影の機材についてアドバイスをもらったことがあった。
 特注の水中ハウジングを作りたい、とこの日記に書いたら、櫻井さんから
「プルーフの水元さんがお勧めですよ。」
 と教えてもらったのだ。
 そして僕は、プルーフの水元さんの手で、キヤノンのEOS5D用の特注ハウジングを制作してもらうことになり、その際に、桜井季己さんの人間性が素晴らしいと水元さんに聞いたことがあった。
 同業者であれば、その人の写真のレベルは、仕事を見ればすぐに分かる。
 一方で、この世界には偏屈な人も珍しくなく、個人的には偏屈な人は決して嫌いではないし僕の好みを言えばむしろ好きだけど、仕事で誰かに紹介する場合は、誰でも推薦できるわけではない。
 人柄がとても大切なのだ。
 ともあれ、それから数年が経過し、ついに櫻井さんのタコの本とイカの本が完成して、届けてもらったのだ。
 櫻井さんのイカとタコは、ページを開いてみて、大変に勉強になった。同じように水辺の生き物を見ていても、ダイバーの目線というのがあり、それが存分に発揮されている。また、イカとタコってこんなに違うの!という点が非常に面白くて、これはどちらか一方を買うのではなく、両方セットで買うべき本だと思う。

 正確に言うと、櫻井季己さんから機材に関するアドバイスのメールをいただく前から、櫻井さんのことは存じ上げていた。
 どの世界でも多分同じだと思うのだが、誰が誰の弟子で、誰と誰が親しくて・・・と言った風に人間関係を線で結んでいくと自然写真の世界には目見えないコミュニティーが存在し、直接相手を知らなくても、大抵の人が、友達の友達の範囲の中に入ってしまうのだ。
 僕は付き合いが悪い方だけど、それでも、自然写真業界でちゃんと仕事をしている人の95%は、多分、友達の友達の範囲に入っていて、誰か一人を介せば、接点が持てる状態にあると思う。
 つまり、自然写真業界は、それくらい小さな世界だということになる。そして、もしも自然写真業界で仕事をしたいと思うのなら、そのコミュニティーの中に入らなければ難しいだろう。
 今は写真の発表の場としてSNSが存在するが、自然写真を撮っているみなさんのSNSの使い方には二通りあるように思う。
 1つは、SNSに投稿することによって、既存のコミュニティーの一員になろうとしている人。そしてあとの1つは、自分を中心として新たなコミュニティーを作ろうとしている人。
 SNSなんて自分が好きにすればいいのだから、別にどちらでもいいのだが、もしも自然写真業界で仕事をしたいのなら、前者のやり方になるだろう。
 
 

● 2019.2.12〜13 グーグルカレンダー

 グーグルが提供しているグーグルカレンダーを利用して、その日の自分の行動を細かく記録に残すことにしている。
 グーグルカレンダーの本来の用途は、予定表なのだと思う。随分前に、上京した際に昆虫写真家の海野さんがヤフーが提供するその手のカレンダーを使用して自己管理をしておられるのを見て、そんなサービスが存在することを知ったのだ。
 僕の場合は、海野さんのような要人ではないので、未来の予定よりも残った記録の方が役に立つことに気付き、記録帳として使用するようになってから、もう数年が経過した。
 色分けも可能なので、野外での撮影の記録には緑、スタジオでの撮影には青、事務作業にはピンクなどと色も付ける。
 他には、体調が悪かった日も、あとで見た時に一目でわかるようにしてある。
 僕は時々ひどく無気力になることがあるのだが、そうして記録を残して色分けで一目でわかるようにしてみると、微妙に体調が悪い時期と無気力の時期が、とてもよくリンクしていることに気付かされる。
 具体的には、先に無気力になり、数日後に腹を壊すなど微妙な体調不良が来る。
 症状として体調不良が表れる前に、体内ではもう何かが起きていて、それが無気力として表に出てきているのかな?
 ともあれ、それ以前にはスランプだと思っていた状態が、実は、微妙に体調を崩しているケースが多いことが分かった。
 体調の管理って、大切なんやな。



● 2019.2.9〜11 好きなことをするってどんなこと?


EOSM5 EF-M11-22mm F4-5.6 IS STM

 サンショウウオが繁殖する湿地をこんな風に撮影しても、仕事の現場で写真が使用されることはまずないだろう。
 けれでも、今日は好きに写真を撮ろう、とあらかじめ決めておいた。
 写真撮影には、幾つか原則がある。
 主要な被写体は、一番目につきやすい位置(画面構成で変わるけど、画面の手前1/3くらいになることが多い)に配置すること。
 主要な被写体が画面に占める面積を、ある程度広くすること。
 主要な被写体には、しっかり光を当てること、など。

 別に写真を経験した人でなくても、目につきやすい位置に配置されていて、面積が広くて、しっかり光が当たっている部分にあるものを、人は、撮影者の伝えたいものだと認識する。
 だから、そこから外れている写真はあまり好まれない。一言で言えば、分かりにくいということ。
 だが、その原則を、部分的に崩したい場合もある。
 原則から外れた分かりにくいことをする場合は、逆説的なのだが、より一層、原則が大切になる。
 もしも主要な被写体を日陰にするのなら、その代わりに、被写体の位置や画面に占める面積によって、そこが主要な被写体であることが分かるように補う必要が生じる。
 ともあれ、 仲間と一緒にオオイタサンショウウオを見に行った。


EOSM5 EF-M11-22mm F4-5.6 IS STM

EOSM5 EF-M11-22mm F4-5.6 IS STM

「好きなことを仕事にできていいですね。」
 と言われることがある。
 だが、今自分が撮りたいと思っている被写体を自分が撮りたいように撮影してお金がもらえるようなケースは、ほとんどない。
 例えば、僕は以前ヤドカリの本を作ったことがあるのだが、撮影を引き受けた段階ではヤドカリには全く興味がなかった。
 でも、仕事を引き受けて写真を撮り本が出来上がるころには、ヤドカリを好きになっていた。
 仕事とは?と聞かれれば、「目の前にあるものを好きになること」、と僕は答える。
 だが、何でも無限に好きになれるか?と言えば、NOだろう。僕の場合なら、ブライダルの撮影を好きになれと言われても100%無理だろう。
 そういう意味では僕は生き物が好きで、その生き物の写真を撮っているのだから、好きなことを仕事にしていると言われるのも分かる。

 大学時代の恩師の話を思い出す。
 3年から4年に学年が上がり研究室に配属される際に、それぞれの研究室の受け入れ可能な人数の関係で全員の希望が叶うわけではなく、誰が譲るかで揉め事が生じた。
 それなら一層のこと、それぞれの研究室の定員を無くしてもらい、学生全員が希望の研究室に行けるようにしてもらおうと教授に抗議をした際に、
「どの研究室に行っても同じです。なぜなら、どの研究室に行っても生物学をすることには違いがなく面白いのだから。だから君らの話を聞くつもりはありません。」
 とおっしゃったのだ。
 これは、今の僕と同じ心境。
「何の生き物を撮影しても同じです。なぜなら何を撮影しても生き物の撮影は面白いのだから。」
 と。
 ただし、研究を職業にしている人の発想だと思う。
 だから、全員が研究職につくわけではない学生たちには、きびしい言葉だったかな、とも思う。ただし、その学生もいずれ何かの職に就き、仕事とは何か?に直面することになる。
 僕らの学年では、最終的に、
「僕が譲ります。」
 と岡野聡君が譲ってくれた。
 岡野君は、今研究職についていると聞いているのだが、あの時譲ることができたというのは、ただ単に人に譲る精神を持っていたからだけでなく、プロの考え方だったからではないかと思う。
 まだ学生で就職した経験がない若者がそんな風に振舞えたことを、今更ながら、「凄いな、大人だな」と思い出す。



● 2019.2.6〜8 更新のお知らせ

2019年1月分の今月の水辺を更新しました。



● 2019.2.4〜5 雨のち晴れ


NikonZ7 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D
卵を産み終えて現場を立ち去ろうとするニホンアカガエルの雌


NikonZ7 AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VR
ミサゴ

 雨が降ったら深夜のため池で両生類、晴れたら4時起きで早朝の海辺へ、曇ったらゆっくりデスクワークだと決めておいた。
 まあ、今の時期の福岡は多分曇りが多いだろうから、そんな日にはじっと辛抱をして、限られた雨や晴れの日にしっかり動けるようにと思っていたら、ここのところ晴れ続きで、一日だけ雨が降って、翌朝がまた晴れ。
 早朝の撮影が続いたかと思えば、雨の深夜に撮影して、翌日早朝にまた出かけるのはさすがに、体がきつい。
 けれども、何曜日が撮影で何曜日がデスクワークなどと決めてしまうと、自然物の撮影はだいたい上手く行かない。曜日を決めると、いわゆる「お仕事」になりがちだ。
 人は決めた方が楽なので、決めてしまいたくなるんだけど・・・。

 たまに、曜日を決めることもある。どうしてもリズムに乗れない時が多い。
 リズムに乗れない時は、チャンスがチャンスに見えなくなりがちなので、曜日を決めてでもとにかく無理矢理に出勤する。
 でもリズムにのったら、また元に戻して、気象条件に合わせて気を見るに敏で動く。
 何でもないことだけど、生活をパターン化せずに決めずにおいて、つまり義務化をしないで、しかも緊張感を保つのは、案外難しい。



● 2019.2.3 更新のお知らせ

 2018年12月分の今月の水辺を更新しました。
 テーマは海岸の漂着ゴミ、内容は、写真でお金を稼ぐ話です。



● 2019.2.2 ミラーレスカメラ


NikonZ7 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED

NikonZ7 AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VR

 ミラーレスカメラを手にすると、正直に言えば、
「まだ一眼レフの方がしっくりくるな。」
 と思う。
 ところが現場でどのカメラを使おうかとなると、僕は意外にもミラーレスを選んでしまうことが多い。頭の中で考えていることと、自分の行動とが一致しない。
 なぜかな?
 今から十数年前にも、同じようなことがあった。フィルムからデジタルカメラへと移り変わる時に、両者を比較して、
「やっぱりまだフィルムが上だし、フィルムにこだわりたいな。」
 と頭の中では思っていたにも関わらず、現場で実際に手に取るのはデジタルカメラの方だった。
 なぜだろう?
 そうさせるのが、便利な道具ということなのかな。
 フィルムからデジタルへの移り変わりを今思い直してみると、フィルムの方がまだ上と思ったのは、結局慣れや使いこなしの問題だったような気がする。だからデジタルに慣れてしまうと、もうフィルムへの逆戻りは難しい。
 今回の一眼レフからミラーレスも、もしかしたら同じ?
 デジタルからフィルムへの移り変わりの際には、フィルムカメラを使用している時にでも、ついカメラの背面に画像が表示されることを期待してしまうようなことがあった。
 すぐに便利なものを覚え込んでしまう人の癖って怖い!と感じたものだった。
 ミラーレスカメラを使うようになると、今度は、一眼レフを使用した際にも、ファインダー内に画像が表示されるのをつい待ってしまう自分の存在に気付く。
 つまり、まだまだと頭では思っているミラーレスカメラに、いつの間にか染まっているわけだが、人は、そうして染まりやすい物の方に流れていくのかな。



● 2019.1.29〜.2.1 気持ち悪いの話

 ツイッターの面白いところは、時々、興味深いテーマが次々と流れてくるところだ。例えば最近なら、
「生き物を好きな人の前で、生き物は気持ち悪い、などと発言するのは許せない。」
 という怒りの声を聞いた。ツイッターでは、誰かがそうして主張した時に、時にそれに同調して他の誰かも声を上げ、いろいろな意見を一堂に知ることができるのだ。
 実は僕は、自分の目の前で、自分が大好きな生き物を、「この生き物気持ち悪い」と言われても、一切気にならない。
 なぜか?
 そんな性格だからとしか言いようがないが、例えば、僕の両親は共に生き物が好きではないので、そういうことに慣れている、のかもしれない。
 でも、「生物、気持ち悪い」とどんなに言い続けられても、慣れるどころか、益々怒りを感じる方もおられるだろうから、やはり性格なのだろうか。
 ただそれでは、ほとんどすべての物事が性格で片付いてしまうし話にならないので多少真面目に書くと、生き物を気持ち悪いと感じるかどうかなんてどうでもいいことで、それよりも、だからどうしたいのか?が僕には気になる。
 気持ち悪いから駆除すべきだと言いたいのか、気持ち悪いから、怖いもの見たさでもうちょっと見てみたいのか、気持ち悪いから、それをネタにイベントをしたいのか…などの方が、僕の興味の対象なのだ。
 だから、誰かが
「生物気持ち悪い。」
 と発言した際に、
「人が好きなものに対して、気持ち悪いなどと言うものではありません。」
 などと指導をしてしまうと、その続きのだからどうしたいのか?を知ることができなるから、野暮なことは言わないで欲しいのだ。
 また、「生物は気持ち悪い」と言う人に対して仮に苦言を呈したところで、その人の感じ方が変わるわけではないだろう。むしろ、益々嫌いになる可能性だってある。
 ちょっと賢くなって声に出して言わなくなるだけで、気持ち悪いと思われている生き物は、いずれどこかで、そうした人たちの意向で、黙って駆除されてしまうに違いない。
 言ったところで何にも変わらないじゃないか、と思う。

 ではなぜ、生き物を好きな人の前で、「この生き物は気持ち悪い」と言ってはならないのか?
 恐らく、人間社会の秩序を守るためだと思う。
「誰かが大切に思っているものに対して、気持ち悪いなどと言うべきではありません。」
 と
 人が嫌な思いをしないように、人の社会は、秩序を重んじる。
 でも、その秩序を守ろうとする人の働きが、自然環境を壊す。
 例えば、人が安定して同じように暮らせるように、つまり人の暮らしの秩序を守るために、たくさんのエネルギーが使用される。
 或いは、川が氾濫したら社会の秩序が乱れてしまうから、護岸する。
 その川の氾濫と、誰かが「生物気持ち悪い」と主張するのが、いずれも秩序を乱す何かという意味で、僕には同じことのように思えることがある。
 それに対して、秩序の乱れは許さん、と言うのなら、自然環境が失われていくのは当然であるような気がする。
 自然環境を大切にしたいのなら、「まあ、いいやん。人の秩序はほどほどにしていこうや」と言うのが筋のような気がしてならないのだ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2019年2月分


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