撮影日記 2018年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2018.8.21〜26 幡野広志さんの著作

 30代半ばにして末期がんを患った写真家・幡野広志さんの著作。
 写真には、いろいろなジャンルがあり、幡野さんがどのジャンルで仕事をしておられるかは分からないのだが、ここでは、WEBで分かる範囲で、人間の写真家としておこうと思う。


 
 以前にも書いたことがある。
「うちの社の若い人を葬式の取材に行かせると、望遠レンズで遠くからチョコンと撮影してくるんですけど、カメラマンってそれじゃダメなんですよね。広角レンズを持って被写体に迫る気持ちがないと。」
 と第一線で活躍する写真家に、昔話してもらったことがある。
 それが本当に正しいのか、僕には未だに答えがない。
 広角レンズ付きのカメラを持って迫られると、悲しみに暮れる遺族や残された人たちは、時に不愉快な気持ちになるだろう。でも、写真家が写真を撮るというのは、もしかしたらそんなことなのかもしれないな、とも思う。
 カメラマンは、ただの誰かある個人の葬式に乗り込んで撮影したりはしない。カメラマンが出向くということは、撮影して伝えなければならない何かがあるからであり、その何かは、社会にとってとても大切なものなのかもしれない。
 ただ、僕には分からない。

 それからおよそ25年経っているのだが、ある時、幡野広志さんの文章が目に留まった。
 葬式の撮影の話ではないのだが、幡野さんはどんどん写真を撮るし、なんと、禁止されているところでも撮影することがあるのだと。
 ただのエゴイストがそう言うのなら、サラッと読み飛ばしてしまうのだが、幡野さんの文章には非常に考えされられることが多く、一言で言えば、ただ書かれた文章は一行もなく、それゆえに放置することができなかった。
 幡野さんの発信に関心を持ったきっかけだった。
 
 本は、
「変わらないこともないし、絶対のものもない。たぶん、この世界はそういうふうにできていて、すべては変化していくのだと思う。」
 という一文で始まる。
 それから、これがベストだと思って撮影した自分の過去の写真を後で見直すと恥ずかしく、レベルの低さにあきれ、顔が赤くなると続く。
 
 自分に照らし合わせてみると、合致する部分もあるし、そうではない部分もある。
 合致する部分を上げると、最近僕は、プロとアマの写真には、自分が想像していた以上に技術の開きがあると感じるようになった。どこまで分かって写真を撮っているのか、どこまで見えているのかには明らか過ぎる違いがある。
 一方で僕の場合、昔自分が撮影した写真に、
「いい写真じゃないか!」
 とうならされることも実は案外多い。撮影した当時とは比較にならないくらいに、今の自分が成長しているはずなのに。
 スタジオでは、そうしたことは起きにくい。
 それが起きるのは、自然が相手の場合だ。他力本願と言う言葉があるが、自然写真は、他のジャンルの写真よりも他力(偶然)の要素が大きいのだ。また、それがない自然写真は、面白くない。

 癌の話、命のやり取りの話は、僕には未知の領域であり、ただ一方的に受け止めながら読むことしかできないのだが、僕も、いずれ何かの病気で死ぬのだろうし(事故で死なない限り)、病気を宣告された時には、幡野さんが書き残してくださったことを、きっと思い起こすだろう。
 この本は、その時まで読めるようにしておきたい。



● 2018.8.18〜20 変り者の貝の話



 アラレタマキビは、海辺の岩場にたくさんくっついている小さな巻貝。
 海の貝だが濡れることを嫌い、満潮でも、水がギリギリかからないくらいの位置に多い。
 そして暑くなると、貝の上に貝が乗っかって、こんな光景が見られる。岩の上よりも殻の上の方が冷たいのかな。
 これ、何という現象なんだろう?正式な現象名はともかく、どなたか、この現象に楽しいニックネームを思いついたら、是非教えてください。いつになるか分からないけど、その名前を本の中で採用して、本ができたらお礼に一冊献本します。

 この現象をもっと詳しく知りたくて、数日海に通ってみた。
 すると、この段々は移動することなく、数日間同じ位置にあった。
 僕はてっきり、夜や潮位が高くて水しぶきがかかるような時間帯には動いている、つまり毎日動いているのだと思い込んでいたのだが、そうではないことになる。
 特に潮が高い日とか、雨の日だけに動くのかな?当然、食べ物もたまにしか食べないことになる。
 食べ物は、恐らく岩に付着しているものだと思うが、濡れているものしか食べられないはず。
 その癖に、水がかかる場所を好まないのだから、なかなか個性的な生き方で、こいつを世に知らしめたいという気にさせられる。

 撮影は、実は案外難しい。
 絞りを開けると、貝がぼけてしまい、殻の形を描けなくなる。だが絞りを絞ると背景のぼけが小さくなり、貝がバックに溶け込んでしまう。
 そこで、絞りを開けて、ピントの位置を少しずつずらしながら数枚撮影して、それらの画像を深度合成をしているのだが、岩場では、思う位置に三脚を立てるのがとても難しいのだ。特にアラレタマキビのような小さな貝の場合、三脚の設置はとてもデリケートな作業になる。
 僕は三脚が好きということもあり、三脚を立てることに関しては工夫を凝らしたシステムを持っているにもかかわらず、わずか数枚の撮影に2時間を要してしまった。



● 2018.8.15〜17 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。
 今月は、アカテガニの話です。



● 2018.8.8〜14 時代の変化の話

 久しぶりにインターネットエクスプローラーを使用したら、古いブックマークが最後に使った時のまま残っていて、
「ああ、このブログ、いつも見てたよな。」
 などと懐かしい。
 インターネットエクスプローラーは、以前は、ウインドウズでインターネットを閲覧する際の標準的なソフトだったのだが、ある時からエッヂに切り替えられた。
 新しい方のエッヂは、正直に言えば使いにくいなと思うのだが、ウインドウズのシステムがそちらを使わせようとするのなら、長いものに巻かれ自分がなれることも必要であり、これは使いやすい、あれは使いにくいなどと主張し過ぎないことにしている。
 ともあれ、インターネットエクスプローラーに残ったままになっていた古いブックマークを1つずつ見ていくと、消滅してしまったり、更新が止まったままになっていたり、形だけ更新しているようなブログやホームページが案外多い。
 続けるって難しい。
 中には、無責任だなと思うものもあった。
 他人や他の団体を批判するために立ち上げられたホームページやブログなどが、途中で放棄されているのを見ると、あの批判は何だったのだろう?と疑問に感じる。
 
 昔、昆虫写真家の海野さんに教わったことを思い出した。
 自然写真業界でやっていくための一通りのノーハウを教わった最後に、
「あとは、とにかく続けること。」
 と念を押すように話してくださったのだ。
 それから10年くらいたった時に、自然写真業界のある方が、
「武田さんはもう大丈夫ですよ。やっていけます。」 
 と言ってくださったのだが、僕は、10年間1つのことを続けるのは、そんなに難しくないと思う。
 だが、実は20年続けるのは、案外難しくて、勝負どころは、もう大丈夫と言ってもらったその先にあるような気がしている。
 20年経てば時代も変化するし、自分も変化するし、いい時もあるけど、悪い時もたくさんあり、悪い時のしのぎ方が確立されていなければ、続かなくなってしまうのだ。
 海野さんがアドバイスしてくださった「とにかく続ける。」というのは、ただ日課のように写真を撮ることではない。
 同じことをすれば、人は飽きる。
 それを我慢して継続したり、何となく継続することを「続ける」と表現する方が少なくないのだが、それは、相撲で言うなら死に体であり、すでに右肩下がりになっていて実はもう終わっていて、あとは時間の問題だと言える。
 続けるというのは、毎日新しいことに喜々としてチャレンジしている状態を指す。昨日よりも今日の方が写真撮影が楽しい状態を意味する。

 ブログやホームページを見る人の数は、以前よりも、おそらく減っているだろうと思う。
 今みんなが見ているのは、ツイッターやインスタグラムまでであり、その閲覧者の中のごく一部の人だけが、ブログやホームページまでわざわざ見に来てくれる。
 僕は元々、お店に例えるならホームページが本店であり、ツイッターやフェイスブックは支店みたいなものだと思っていたのだが、むしろ、ツイッターが本店であり、ホームページは今や、ツイッターを見て気になった人だけがやってくるマニアックな二号館みたいなもの。
 つまり、ツイッターやインスタグラムなどが作品として面白くないと、ホームページまで人は見に来てくれないのだ。
 発表の場も、時代とともに変わってくる。

 ただ、現状は僕にとっては、悪くないと思う。
 というのは、僕は、写真にしてもホームページにしてもたくさんの人に見てもらいたわけではない。
 自分が届けたい人がいて、そうした人たちだけに届けたいタイプなのだ。
 だから、闇雲にフォロワーや閲覧者が増えないように細心の注意を払う。



● 2018.8.2〜7 仕事の話


 
 生き物を見たり写真を撮ること自体は、ほぼ例外なく楽しいのだが、そこに、生活がかかってくると、時に撮影は辛くなる。
 締め切りやコストというやつは、なかなかシンドイ。
 そして、あまりにもひどく追い詰められてしまうと、まるで生き物を見ることやその写真を撮ることが辛いかのような錯覚が起す。
 そこでそんな時は、誰かに依頼されたわけではない写真を撮る。つまり、締め切りやコストに追われていない状態を作り出してみる。
 自分が好きなものにカメラを向けるのではなく、仕事で撮影してもおかしくはない被写体を選ぶ。例えば、アゲハチョウの生態などは、それに該当する。
 中でも、卵から幼虫が孵化するとか、脱皮をするとか、仕事の現場ではそれなりにストレスがかかるシーンをあえて狙ってみる。
 すると、撮影は、ストレスを感じるどころか、実に楽しい。
 仕事なら、「これ面倒やな」と何となく先延ばしにしたくなることが、いとも容易くその場でできてしまう。
 この感じで普段の仕事ができればなぁ。僕の人生はバラ色ではなかろうか。
 たまに、「好きなことを仕事にしたら、好きなことが好きなことではなくなってしまう」というようなことを言う方がおられるが、間違いだと思う。
 好きなことは、たとえ仕事にしても同じように好きなことなのだけど、そこに仕事のストレスが同時に存在するようになるだけだ。
 
 

● 2018.7.31〜8.1 苦手な生き物


EOSM5 MP-E65mm F2.8 1-5×マクロフォト

EOSM5 MP-E65mm F2.8 1-5×マクロフォト

 アゲハチョウは、撮影の対象としては、苦手な生き物の1つだ。
 まず、家の近所では珍しい生き物ではないのだが、どこに行ってもたくさんは見つからないし、何となく的が絞りにくい。
 それから、蝶を見つける場合は蜜源になる花か幼虫の食草の近くで待つのがセオリーだが、アゲハチョウの幼虫が食べるミカンの類やサンショウは大抵私有地にあり、蝶を待っていると「コイツ何をしているんだ?」とあらぬ疑いをかけられかねないのも苦手な理由の1つ。
 補虫網でももっているのなら、ああ虫採りかと理解してもらいやすいが、カメラは誤解を生みかねない持ち物だと言える。
 僕にとって自然や生き物は自由の象徴であり、ただ生き物を見たり写真を撮りたいわけではなく自由でいたいし、そこで疑われたり怪訝に思われるのは絶対にごめんなのだ。

 さて、うちの駐車場の片隅のミカンの木には、残念ながらアゲハチョウはあまり来ない。来るのは黒くて大きなナガサキアゲハばかり。
 生き物としては、ナガサキアゲハも大好きなのだが、写真の仕事は圧倒的にアゲハチョウが多い。
 ところが今年は、ナガサキアゲハがめっきり姿を消し、アゲハチョウばかりがやってくる。
 最初は、同じ一匹のアゲハが何度も姿を見せているのだと思っていたのだが、先日複数の雌が産卵をしているのを見かけ、例年になく数が多いことに気付いた。
 何があったのかな?
 
 うちの木なので、触れても誰かに怪訝な目でみられることはない。
 何度も何度も観察するのが楽しい。
 そう。撮影が苦手な生き物と言っても、その生き物自体は決して苦手なわけではなく、得手不得手を決めているのは、それに関わる人間社会の事情である場合が多い。
 ともあれ、せっかくなので、何となく撮影してみることにした。
 この何となく撮影というのも、実に楽しい。
 撮影って、こんなに簡単なのか?と思う。依頼を受けて失敗が許されない状況でカメラを持つと、手厚く構えなければならないので、すべてが格段に難しくなる。

 ふっと大学4年生の夏が思い出された。
 僕は、「自分も生き物のカメラマンになりたい」と昆虫写真家の海野先生を訪ねた。
 東京の事務所に行って、その後、長野県小諸市のスタジオに向かう途中で、花壇の花に来ているアゲハチョウに
「あっ、すごくイイ」
 と海野さんが車を急停止させカメラを向けた。
 蝶を得意とする海野さんにとっても、花に来ている普遍種のアゲハチョウがシャッターチャンスであることを思うと、アゲハの撮影は僕に限らず実は案外難しいのかもしれない。


   
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