撮影日記 2018年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
・今現在の最新の情報は、トップページに表示されるツイッターをご覧ください。
 


● 2017.5.29〜30 メモリ不足

 僕は、パソコンに例えるなら、CPUはそんなに旧式ではないと思うのだけど、メモリはそう大容量ではないタイプだろうと思う。
 複数の作業が重なると、急激に動きが悪くなる。その場合に追い込まれやすく、黄色信号がすぐについてしまうので、このタイプの人は一言で言うと、精神力が弱いことが多い。
 
 さて、6月に発売される本のデスクワークが予想よりも後ろにずれ込み、それに伴って5月に予定していた撮影もずれ込んだ結果、6月の日程が密になってきた。
 同時進行している本が5冊とそれらが終わった後に取り組むべく仕込みが一冊。
 進行中の5冊に関しては、いずれも手遅れではないはずだが、どうも気が気ではない。
 今から仕込んでおきたい1冊の本に関しては、必須ではないものの、ちゃんと手掛けておかなければいずれどこかで仕事に空白が生じ、ちゃんと回っていかなくなる可能性がある。

 本のデスクワークを進めながら、それらの撮影を進行させることができればベストだったのだが、前述の通り、僕にはなかなかそれができない。
 特に難しいシーンや過去に似たパターンを撮影したことがない未経験のシーンは、他の作業が重なると、考えたくもなくなる。
 1つ、撮影も被写体となる生き物に関しても全く未経験のシーンがあり、それがプレッシャーとして非常に重くのしかかっていたのだが、昨日の昼間に、生き物の取り扱いに関しては手掛かりを掴むことができた。
 あとは、それをどう撮影したらいいのかの開発のみになり、撮影は予想以上に難易度が高いことが分かったのだが、問題が1点に絞られたことにより、気分は随分楽になり、昨日は夕刻の光が妙に明るく、心地よく感じられた。
 気分1つで景色までが違って見えてくる。



● 2017.5.27〜28 アクション
 画像処理ソフト・フォトショップには、アクションと呼ばれる、一定の操作を記憶させる機能がある。アクションを使用すると、連続した幾つかの操作を1つのものとして覚えさせることもできる。
 したがってよく使用するパターンの操作をワンクリックで実行でき、大幅に時間短縮が可能になる。
 例えば、撮影した画像に対して、コントラストを一定程度上げ、シャープをかけ、○○というフォルダーに保存して画像を閉じる などという一連の操作を覚えさせることができる。
 あるいはプリントを作成する際には、A3サイズに画像を変換するアクションを作成しておけば、1クリックでA3サイズの画像ができる。
 僕は画像をプリントする際には、小さなL版と大きなA3ノビに変換する2種類のアクションを使用し、最初にワンクリックでL版に変換して試し刷りをする。L版のサイズに変換する場合に、再サンプリングをOFFして画素を間引きしないようにしておけば、次にその画像をワンクリックでA3ノビに変換できるので、少ない操作で本番のプリントを作ることができる。

 作成したアクションは、他のパソコンへ輸出することもできる。
 その場合、輸出元と輸出先の2台が、同じ構成になっていると都合がいい。例えば、それぞれの機械にCトライブとDドライブとが存在し、それぞれのDドライブの中に全く同じ名前のフォルダーが存在すれば、ある一台のパソコンで作成した画像をどこかのフォルダーに自動的に保存するアクションが、他のパソコンでも使用できる。
 新しいパソコンを購入した場合などにアクションを輸出さえすれば、新たに設定をする必要がなくなる。
 したがって、すべてのパソコンを可能な限り、同じ状態にする。

 あるパソコンで作成したアクションが収められているフォルダーを、インターネット上のハードディスク(クラウド)と同期させ、次にそのクラウドと別のパソコンのアクションのフォルダーを同期させれば、理屈の上では、あるパソコンで作成したアクションが自動的に別のパソコンのフォトショップで使用できることになるはずなのだが、フォトショップの場合、仕組みが単純ではないようで、今のところこれはできていない。



● 2017.5.26 天気予報

 最近の天気予報はよく当たるという方もおられるけど、思い通りの写真を撮るという観点から言うと、なかなか当たらないなぁと思う。
 天気予報に合わせて撮影の計画を立てても、しばしば、外れてしまう。
 本来は、晴れの日には晴れの日にしか撮れないような、曇りの日には曇りの日にしか撮れないような写真が撮れるのだが、絵コンテを与えられその通りに撮影しなければならないケースでは、天気はこうでなければならないと厳密に決まってしまう。
 絵コンテに青空が描いてあれば、曇りの日ではどうにもならないし、絵コンテが柔らかい影で描いてあれば、青空の日には手も足も出ない。
 今日は、曇り〜雨の予定だったので、そうした条件が適する撮影を予定していたところ、なんと青空になってしまい途方に暮れる。
 天気予報って真剣にやってるの?と腹立たしくなり、
「君たちは恥を知りなさい。」
 と独り言をつぶやくが、それで何かが変わるわけではない。
 今から晴れの天気に合わせて別のシーンを撮影できないか検討してみるが、間に合いそうもない。
 今日は休みにするか?と思ったところで、ふと思いついた。
 野外で撮影する予定だった写真を、スタジオで撮ってみようか!と。休みにしようと思ったくらいだから、別にスタジオでうまくいかなくても損はない。
 果たして、スタジオで撮影してみると、今日予定していたシーンについては、断然スタジオの方が適することが判明した。
 いやぁ〜分かってないんだなぁ。 



● 2017.5.25 校了

 2016年の春から取り組んでいた本が、つい先日、校了した。
 撮影した生き物は、微生物〜爬虫類までと幅広く、一言で言えば、虫以外の小動物ということになる。
 随分前のフィルムの時代には、とにかくいろいろな種類の生き物をざっと撮影するのに力を入れたことがあったが、デジタルカメラに置き換わって以降は、一種類の生き物をある程度詳しく撮影する方が僕の好みに合い種類をたくさん揃える気になれなかったので、今回の本をいい機会だと考え、すべての写真をデジタルで置き換えてしまおうと目論んだ。
 大部分の写真を撮り直すわけなので、大変な労力になった。
 生き物の撮影にはタイミングがあるので、時に食事時の飲食店のような慌ただしさになる場合があるけど、そんなスクランブル体制がほぼ丸2年間続いた。
 また、フィルムでもほとんど撮ったことがなかった海の生き物が大量に含まれていたことが、慌ただしさを倍増させた。
 さすがに慣れない生き物の撮影は、予想外の失敗の連続だった。
 また、海の生き物の性質を知るためにいろいろと飼育をした結果、随分お金もかかってしまった。
 
 途中、やっぱり昔撮影したフィルムも使おうか、と心が傾いたこともあった。
 そしてフィルムを探してみると、あまりに整理が悪くてなかなか目的のものが出てこないものだから、今度はフィルムに対してアレルギーを発症するようになった。
 しかしおかげで、結果的に初志貫徹できた。
 校了したらちょっと息抜きをしようと思っていたのだが、美術館でのイベントが待ち構えており、今日、なんとか展示物を搬入することができた。

 幼児向けの本なので、撮影した写真の中でも、初歩的なシーンだけが使用され、突っ込んだ写真が未使用で残った。
 せっかく撮ったのだから使いたいなぁという気持ちは、当然あったのだが、未使用の写真が残るのも悪くない。買い物をした際に、お金を使い果たすのではなく、なお余力を残す感じに近い。
 実は、1年間締め切りを伸ばしてもらった。
 そのおかげで、本を一冊作るのに加え、もう少し突っ込んだ写真を撮ることができ、余計に撮影できた分が、例えるなら、僕の貯金のようなものになる。
 生き物の写真は、カメラを構えるまでに時間とお金がかかるので、できれば、必要最低限の写真に加えて、他のシーンも撮影しておいた方が効率的なのだ。

 ともあれ、苦しんだ分だけ、楽しかったとも言える。



● 2017.5.23 岸


EOSM5 EF-M11-22mm F4-5.6 IS STM 

 自分の本を作る場合は、自分が好きな写真を使えばいい。
 だが、何かの企画で必要な写真を提供する場合は、相手が求める写真を持っていなければならない。
 他人のニーズに応えるのはしんどいことではあるが、非常に勉強になる。

 水辺の場合は、手前の岸が写っていることが、よく求められる。1つの形式だと言ってもいい。
 池の写真を撮ったことがある人は、その写真を見直してみるといい。手前の岸がきっちり写っている写真を撮っている人は、多分少ないと思う。そこを入れると、撮影が非常に難しくなる。
 手前の岸は、池にとっては余白みたいなものだが、土地が狭いからだろうか、日本のフィールドには余白が非常に狭いのだ。
 もっと自由に撮らせてくれよ、と思うことがある。
 だが、岸というものが水辺の1つの要素として存在するのだから、そこが見たいと思うのは、自然なことでもある。僕独自の目線で切り取られた池の一部ではなく、その池のそのままの姿を見たいと思うのは。

 昔、写真仲間の野村さんの写真展を見に行ったら、
「この写真はこう撮ればもっと良くなる」
 と講釈を垂れている観客のおじさんがいた。
 干潟のシギの写真で、確か7〜8羽が砂の上にたたずんでいて、周囲に空間が残された写真だった。
 おじさん曰く、その空間をカットして画面をシギだけで埋め尽くしてしまえば、シギの群れがずっと広がっているように見える写真になるのに・・・と。
 シギが実際に大きな群れでたくさんいるのなら、たくさんいるものをたくさんいるように見せるために、そうしたテクニックは有効だと思う。
 だが、数匹のシギをたくさんいるように見せるのは、誇大広告みたいで、せこいな、というのか、つまらねぇと感じた。
 部分を切り取るというのは、きれいに魅せる1つの技術ではあるけど、僕は自然好きとして、そこにあるものは、あるものとして、やっぱりありのままに見たいなと思うのだ。
 そういう意味では、不自由なようだけど、やっぱり岸って、少しでいいから写っていて欲しいかな。



● 2017.5.14〜22 更新のお知らせ

4月分の今月の水辺を更新しました。今月は、干潟の思い出です。



● 2017.5.9〜13 葬式の写真

 昔、学生の頃に聞いて以降、ずっと胸に引っ掛かっていた話がある。
「カメラマンは、たとえ葬式の取材でも、望遠レンズで遠くからチョコンと撮影するようではダメ。広角レンズを取り付けて、被写体にグンと迫って撮らないと。」
 という話だ。
 自分が気に入った写真さえ撮れればいいというような人が言うのなら一笑に付すのだが、ちゃんとした人が言うのだから、考えた。
 葬式の場でそんなことをしたら、人を不愉快にさせるよな・・・
とか、
 被写体に迫る気持ちを持てという一種の比喩なのかな・・・
とか、
 今の僕がカメラマンの世界を知らないだけで、カメラマンの仕事ってそうなのかな・・・
とか。
 すると、今年になってから、ほとんど同じことを主張している、やはり人間的にも、仕事も素晴らしい写真家がおられることを知って、また考えるようになった。

 カメラマンは、写真を撮る際に、どこまで踏み込んでいいのか?
 そう言えば、瞬間写真で有名なスティーブン・ダルトン氏は、トカゲの仲間が水の上を走る写真を撮るために、結果的に、10匹以上のトカゲを殺してしまったんだっけ。あるいは、フランス・ランティング氏は、時には、撮影に邪魔な木を、チェーンソーで切り倒してでも撮影すると聞いたこともある。
 そこで問われるのは、そこまでして撮る意味がある写真を、その人が撮っているかどうか、ということになる。その人の写真が、社会からそこまで必要とされているかどうか。
 例えば、写真を発表する場を、そのカメラマンが持っているかどうかがある。それにふさわしい規模の発表の場を持たない人が無理をして写真を撮ったところで、自己満足に終わる。
 スティーブン・ダルトン氏やフランス・ランティング氏は、言うまでもなく世界的に評価されたのだから、その写真が必要とされた、ということになるのだろう。

 社会に必要とされるようなものを自分が撮っているかどうか、が問われているのかな。
 それだけのものを撮っている自信がなければ、ただの無神経な人を除いて、葬式の場でなかなか広角レンズは使えないだろう。
 口で、「俺の写真にはこれだけの意義がある」と豪語するのは簡単だけど、場合によっては批判にさられるなど、自分が大きなダメージを受ける状況に足を踏み入れるのは、なかなかできることではない。



● 2017.5.4〜8 スマホ

 昔は、写真が趣味で一生懸命に撮影している人でも、なんでこうなるの?これって何が言いたいの?というような下手糞な人がいたものだが、最近は、特にここ数年は、下手な写真など見かけなくなった。
 なぜだろう?
 僕は、スマホの影響が大きいのではないかと思う。
 時々、スマホのカメラで他人が撮影した画像を見せてもらう機会があるけど、撮影者が写真に特別な興味を持たない場合でも、それが下手糞で、何が写っているか分からなかったことなど滅多にないのだ。
 スマホでは、一眼レフでの撮影と違って片目でファインダーをのぞくのではなく両目で見る、つまり撮影の段階から、写真を鑑賞する時と同じ状態で見る。
 それから、スマホのそう大きくはない液晶を見ながら撮影する結果、被写体を、ある程度大きく、画面の中央付近にオーソドックスにとらえることが自然とできてしまうのではないのだろうかという気がする。
 写真を大きくしてみると、実は失敗しやすい。
 大きくすると、良くない写真でも良く見えてしまうから。
 プロカメラマンの写真が分かりやすいのは、仕事の現場では写真が大きく使用されるよりも小さく使用される機会の方が圧倒的に多く、小さく使用されても最低限きちんとわかるように撮る習慣が大きいと思う。
 ともあれ、特殊な写真は別にして、何が写っているのかがきちんとわかるというのは、写真の基本中の基本なのだ。
 洒落た構図やその他のテクニックは、その後にくるもの。
 写真が好きな人は、時に、テクニックを駆使してやろうとか趣向を凝らしてやろうとと意識を働かせ過ぎてしまい、それが写真を台無しにしてしまうことがある。
 俺が俺が、私が私が・・・になってしまうと、肝心な被写体がおろそかになる。
 写真は自己表現の世界でもあるので、俺が俺が、私が私がが必ずしも悪いわけではないけど、その場合は、自己主張に徹する必要がある。



● 2017.5.3 はじめに言葉あり

 こんなの簡単じゃないか!と甘く見ていた撮影が、実際には難しかったというのは、よくある。
 例えば最近なら、花の撮影がそうだった。
 目の前に花がある。気象条件も悪くない。背景もきれいで申し分ない。なのに、そこで撮影した写真が没になる。
 写っていて欲しい箇所が見にくいから、と指摘される。
 例えば解説に、おしべはこんな形、めしべはこんな形と書きたいのに、その形が見にくいとか、おしべは5本と書きたいのに、写真では5本確認できないとか。
 そういう目で出版物に良く使用されている写真を改めて見てみると、確かにそんな風に写っていることに気付かされる。特別きれいというわけではないこんな写真が、なぜ、よく使われるのだろう?と感じていた疑問が解ける。
 自分でもその通りに撮ってみようとすると、非常に難しい。
 花をただきれいに撮影すればいいわけではなく、そういう諸々の条件を満たした上できれいに撮影しなければならない。
 そう言えば昔、アメリカザリガニの撮影で、小さな足が何本あるかがよく分からないという理由で、何度も撮り直しをしたことがあったっけ。
 写真はしばしば、先に添えられる文章が決まっていて、その通りに撮影しなければならない。
 他人の写真を見ていると、写真と文章を一致さえることが得意な人と、不得意な人が存在し、そのどちらかに割ときっちり別れるように思う。

 写真が何かをきちんと説明できているのは、とても大切なことだ。
 では、説明すればいいのか?と言えば、そうでもないところが難しい。
 最初から説明に行こうとする人は、あまり写真が上達しない傾向がある。いつも写真はちゃんと撮れているのに、なぜか心を打たず、写真がおもしろくないのだ。
 そう言えば、随分前のことだが、ある大先輩から、
「九割は自分が撮りたいように写真を撮るのが大切だけど、全部好きに撮っちゃうのはダメで、残りの一割はその写真が商品価値を持つように整える必要がある。」
 と話してもらったことがある。
「残りの一割は、まあ、事務作業みたいなもんだね。」
 と。
 なるほどなぁ。



● 2017.4.29〜5.2 撮って出し


NikonD800 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED

 白い容器の中のメダカ。
 写真愛好家の間では「撮って出し」などと呼ばれるが、パソコンでの画像処理を加えず、撮影したそのままのデータを、WEB用にただ縮小したものだ。
 もしもこれと同様の写真を30分以内に撮って出しで撮影できるようなら、その人は多分写真で仕事ができるだろう。
 難しいのは、容器に水が張ってあること。容器の上に照明器具を設置すると、水面にライトが写り、反射で中のメダカが見えなくなる。かといって、真上を避けて斜めから照明を当てると、容器の外側に大きな影が出るので、今度は影を消すしかけが必要になる。

 しかしそんな難しいことをしなくても、影が出ることなんて気にせず撮影しておいて、後で、パソコン上で容器の部分だけを丸く切り抜けばほぼ同じ画像が得られるし、そうした撮り方なら、できる人がたくさん存在する。
 そして現実的なことを言えば、撮って出しで完璧な写真を撮ることにエネルギーを注ぐよりも、画像処理を駆使した簡易的な方法で簡単に撮影して、もっと別な部分に力を入れた方がいいという面もある。

NikonD610 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 魚の白バック写真を撮影する場合なども、僕は水槽を使用して白い背景の前で魚を泳がせて撮影しているけど、アクリルの小さな容器に魚を閉じ込め、それを撮影して、魚の部分だけをパソコンで切り抜いて使用するようなもっとお手軽なやり方がある。
 それが手抜き写真なのか?と言えば、必ずしもそうではない。
 簡易的なやり方で簡単に撮影する分、たくさんの種類の魚にカメラを向けた方が、本を作る場合には都合がいいことだって珍しくない。生き物の本はしばしば、完璧な写真が少量あるよりも、たくさんの種類のほどほどな写真があった方がいいのだ。
 同様に、大きな一眼レフで気合を入れて写真を撮るよりも、コンパクトカメラで適当に撮影した方が、総合的には好結果になる場合も珍しくない。あるいは低感度で時間をかけて丁重に撮影するより、高感度で簡単に撮影して、その分たくさん写真を撮った方がいい場合も多々ある。写真が小さく使用される場合は、低感度と高感度の差はしばしば分からなくなってしまうし、一眼レフとコンパクトカメラの差だって同様。
 高品位な写真を撮るこばかりに気を取られると、そこを見誤る嫌いがある。
 技術屋が陥りがちな落とし穴であり、技術にこだわってもいいのだけど、落とし穴には落ちないようにする必要がある。


   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2018年5月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ