撮影日記 2018年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2018.3.26 道具


EOSM5 EF-M28mm F3.5 マクロ IS STM

 撮影機材は中古市場が活発で、使わないものを売り買いする文化があるのだが、中にはほとんど値がつかないカメラもある。
 例えば今なら、大部分のフィルムカメラは二束三文だ。
 かと言って持ち続けると場所を取る。そこで、使わなくなったものは、まだ値打ちがある間に売ってしまうことにしている。
 機材を売って得たお金は、どんなにお金がない時でも生活費には回さないと決めてある。そのお金は、新たな機材を買うのに使う。
 先日、そうして新しいレンズを買った。キヤノンのミラーレスカメラ用のEF-M28mm F3.5 マクロ IS STM。中古とは言え、わずか値段は3万円弱なのに、これが非常にいいので驚いた。
 今やカメラという道具は完全に熟しきっていて、あれでなければダメなどと難しいことを言って道具に執着する時代ではなくなった。
 道具よりも、写真を撮ることに打ち込む時代になった。

 写真の面白さや写真に対するこだわりとは別に、道具には道具の面白さがある。
 そういう意味では、デジタルカメラの黎明期は、道具が非常に面白かったし、道具にこだわった。
 当時使用していたカメラには常にそれなりの不満があり、これが解消されたらと・・・と次に登場するであろうカメラやレンズに対する期待が大きかった。
 が、今はもうそんな時代ではない。
 新しい道具は買うけど、それでなければ写真が撮れないとは思ってない。

 ミラーレスカメラのいいところは、ファインダーをのぞかなくてもいいところ。
 カメラのファインダーをのぞくのには案外時間がかかるので、いいなと思う瞬間があってカメラのファインダーをのぞいて撮影する態勢が整うまでの間に、その瞬間を逃してしまうことが多々あるのだ。
 それが嫌で、ノーファインダーで写真を撮る練習を積んでおられる方も、以前はおられたのだが、今なら、ミラーレスカメラの液晶を見ながら撮影すればいい。
 また、犬などは、ファインダーをのぞいてカメラを構えられるのを怖がったり嫌う傾向がある。ファインダーをのぞくと硬くなりやすい。



● 2018.3.20〜25 立派な人

 僕がこの人好きやなぁと思う人には、なぜか愛煙家が多い。僕自身はタバコの匂いが好きではないしタバコを吸わないのだから、不思議だなと以前から思っていた。
 多分僕は、正しい物とか、健康なものとか、いい物とか、一言で言えば立派なものだけで身の回りを固めてしまうのが嫌なのだと思う。
 その点、タバコが好きな人は、安心できる。
 昔から、立派過ぎる人とは友達になりたいとは思わないというのか、あまり好きではない。
 立派なことが決して悪いとは思っていないのだけど、
「冗談も休み休み言えという言い回しがあるけど、真面目も休み休み言えくらいが人間にはちょうどいい。」
 という河合隼雄さんの言葉などが、僕にはピッタリくる。
 タバコが有害だから絶対に許さないという発想は、もしも矛先が他の方向へと向かえば、例えば虫は気持ち悪いからとにかく遠ざけようとか、害虫は根絶せよとか、雑草が生えないように全部コンクリートで固めてしまえと言った発想に結びつくような気がする。

(お知らせ)
2月分の今月の水辺を更新しました。



● 2018.3.17〜19 遊びには敵わない
 僕が所属している北九州魚部の活動に関して、以前ツイッターに

「業務」でもないし「ボランティア」でもない。それがひたすらに好きだから、やりたいからやる。そこが魚部の魅力。僕も、魚部の出版物に少しだけ関わってしますが、ボランティアというつもりは全くありません。面白いから本気で参加するわけです。お金をもらわない=ボランティアというのは大間違い。

 と投稿したところ、「魚部の活躍にある種のやっかみを感じる」と公言しておられる方から、
「所詮、遊びじゃないか。」
 と言った風の反応があった。
 指摘は全くその通り。それはまさに遊びであり、僕の投稿をざっくり言ってしまえば「遊びなんだ〜」と主張しているわけだから、よくぞ我が意を汲んでくれた!と嬉しくなった。
 ただその方は、遊びを、大したことがないことと考えておられるのだろう。例えば、仕事の方が遊びよりも上だと思っている人は、少なくない。
 だが、それは大間違い。
 写真でも、最もハイレベルな作品を撮影しているのは、プロではなくてアマチュアだ。
 プロは、限られた日程と予算の中で、自分に利潤が出るように撮影しなければならない。また、1つのテーマでの仕事が終わると先へ進まなければならないのだから、アマチュアで1つのテーマを長い期間をかけて延々と追及している人にかなうはずがない。
 記憶が曖昧で言葉が間違えている可能性が若干あるが、そうした打ち込み方をしている方々を、スーパーアマチュアと呼ぶのだと聞いたことがある。写真の質だけで言えば、一番優れているのはスーパーアマチュアであり、究極の遊びの世界だと言える。
 プロがアマチュアよりも圧倒的に優れているのは、撮った写真を発表するすべを知っている点、つまりマネージメントであり、写真を撮るまでにはプロもアマもなく、労力と時間とお金をつぎ込んだ人がいい写真を撮るのだ。

 近年はプロの定義が様々になっているので補足をしておくが、ここでは、従来からのプロの定義、つまり本来遊びとして撮影するような写真を撮って生計を立てている人をプロとした。
 例えば、お医者さんのことを、プロの医者とは言わない。なぜなら、医療は最初から仕事であり、プロもアマもないから。あるいは、カメラマンの中でも、会社に属して写真を撮っている人や、写真館のカメラマンはプロのカメラマンとは呼ばれないことが多い。それらは業務であり、アマチュアの世界が存在しないから。
 プロとは、遊びで暮らしている人のことだった。
 また、写真のみで暮らしている人をプロ、副業を持っている人がセミプロと呼ばれたのだが、セミプロという言葉はほぼ消滅した。



● 2018.3.13〜16 出たがりと引籠り

 写真は、記録報道であると同時に自己表現の世界でもあるので、カメラマンには、「俺のこと見て!」というタイプの出たがりな人が多い。
 またそうでなければならないのだろうと思う。自然写真家の中では岩合光昭さんが、そんなことを書いておられるのを読んだことがある。
 岩合さんは、カメラマンを、野球で言うならピッチャーと例えておられた。
 ではピッチャーとはどんな人なのだろう?野球の野村克也さんはピッチャーの体質を、俺が俺が・・・と自己中心的で目立ちたがり屋と主張しておられるが、カメラマンにもそんな要素が必要なのだろう。
 一方で生き物が好きな人には、引きこもり体質の人が多い。一見社交的に見える人も実は・・・という話はたくさん聞いたことがあるし、僕が尊敬する魚の研究者などは、電話を取りたくないので鳴っても取らず、着信直後に何かありました?とメールで返信をするのだと話してくださった。
 では、目立ちたがりの写真屋と引籠りの生き物屋がくっついて自然写真屋になったら、どんな人の集まりになるのだろうか?
 自然写真の場合は、どうも自然の要素の方が強いようで、引きこもりの人が多い。そして僕なども、典型的なそのタイプだ。

 そんな僕が、ツイッターのような発信力がある手法で、仕事ではない発信をしているのだから、自分が分からなくなる。引籠っておきたいのなら、やらなければいいじゃないか、と自分で思う。
 ツイッターのユーザーの多くが、何人が自分をフォローしてくれて何人がいいねやリツイートをしてくれるのかを気にしているのに、僕はフォロワーが増えるのがどこか嫌なのだ。
 そこでそんな自分を色々と分析してみるのだが、多分僕は、自分が見せたい人に見てもらいたいのであり、「誰に見てもらうのか」にこだわっているんじゃないかな?
 ただ、写真は結果の世界。
「自分は人を集めたいわけではない。」
 と主張してもいいけど、それ以前に、人を集めたくても集めるだけの力がないのでは、それを言う資格はない。「俺はモテたくない」と主張する人が、そもそもモテない人だから話にならないのと同じこと。
 そこで昨日ツイッターに、自然や写真の世界について触れることに加えて、うけることを意識した投稿をしてみた。
 ツイッターの傾向として、何かに対する批判などは反応が得られやすい傾向があるが、そうしたツイートは選択肢から除外することにした。というのは、その手のツイートは、同じ意見の人が結集することを目的にしているのであり、すでにみんなが思っていることを主張しているのであって、カメラマンにとって大切なオリジナリティーに欠けるから。 
 あくまでも、僕のオリジナルな内容の発信で。 
 そのツイートがこちらだが、
 → https://twitter.com/TakedaShinichi/status/974054364288561153
 「いいね」「リツート」の数共に、十分な数ではなかろうか。
 ともあれ、うけようと思えば多少うけるくらいのことなら僕にもできそうだし、人目を意識した投稿は今回限りでおしまい。 大半のツイッターのユーザーなら反応があったと喜ぶのだろうけど、僕はやはり何か楽しくない。
 「大衆」という目に見えないシガラミみたいなものがのしかかってきて、強烈に引きこもりたくなる。

 さて、
「こうしたほうがいい。」
「ああしたほうがいい。」
「この機材がいい。」
「あれはダメ。」
 などと世間にはいろいろな議論があるけど、写真みたいな世界の場合は、まず自分の写真を人に見せて評価を得ることが大切ではないかなと思う。
 自分の写真を人の心に届けることができない人が、
「ああしたらいい、こうしたらいい。」
 と言っても、伸びしろが見えている。
 僕が子供の頃、武田家にはよく投機用のマンションを買ってくれというセールスの電話があった。
「儲かりますよ。」
 とセールスマンが語るらしいのだが、父の返事は、
「そんなに儲かるのなら、あなたが買うでしょう?」
 というものだった。
 写真の世界も同じで、
「そんなにいい方法があるのなら、そのいい方法で自分の写真を売ったり、WEBページを人気にしてみればいい。」
 あくまでも写真のような世界の場合の話ですが。



● 2018.3.11〜12 古い写真

 自然写真業界の特徴は、他のジャンルよりも、古い写真よく使うことではなかろうか。なるべく新しい写真を使いたいと思っていても、生き物の写真は急には撮れないから、どうしてもそうなる。
 20年前に撮影された写真が、今でも当たり前のように使用される。
 おのずと、自分を振り返る機会が多くなる。特に冬〜早春にかけては、写真を貸し出す作業が多く、古い自分の写真をたくさん見るはめになる。

 そんな時に、自分の弱点に気付かされることもある。
 一例を書くと僕の場合、写真とその写真につけるべき文章が一致しないことが多い。
「アマガエルが葉っぱからジャンプしました」という内容の写真なのに、ジャンプしているカエルだけが大きく写っていて、カエルが止まっていた葉っぱが写っていないとか。
 そんな写真は、使い道がない写真になってしまう。

 出世が早い人は、概して、写真と文章がよく一致しているように思う。
 ただし、写真と文章が一致し過ぎるのもまたダメ。
 写真と文章が一致し過ぎるというのは、別の言葉で言うなら、説明してしまっているということ。
「こうこうこんな特徴があり、とてもきれいな生き物です」と説明に書かれていて、確かに特徴に関してはよく説明できているけど、写真がきれいに感じられないようなパターンだ。



● 2018.3.10 ノイズの話



 成長に伴って変身すると言えば昆虫が有名だが、実は海の生き物にも変身をするものが多く、中でもクラゲの変身は有名で、高校生物で取り上げられる定番の1つだ。
 ポリプと呼ばれるクラゲの子供は、物に付着していてイソギンチャクのような形だが、水温が下がるとその胴体に段々腹のような皺が多数でき、やがてその段々腹の一段一段が花のような形に変化して、ついには花の1つ1つが一匹一匹のクラゲとして泳ぎ出す。
 今日の画像はその変化の最中のミズクラゲ。
 すでに大部分の変身を終え、花が多数積み重なったような構造をしている。

 撮影に際してちょっと気になったのは、変身しているクラゲの足元に、変化をしていないクラゲが数匹写っていること(厳密に言うと、これらはすべてつながっているので一匹なのだが)。
 物事の変化の様子を見せるような場合は、基本的には、変化しているその物だけがスキっと写っている方が商品としては望ましい。
 今日の写真に写り込んだ余計な連中は、例えるならノイズのような存在だろう。
 だが個人的な好みを言えば、ちょっとノイズがある方が、僕は好きだ。
 生き物の写真に関して言えば、本当に必要とされる情報だけがビシッと写ると、自然写真というよりは教材写真という感じになり、お勉強的になる嫌いがあるように思う。
 ノイズがあっても必ずしも分かりにくくなるわけではないと合理的に説明できるような理屈があればなぁと思うのだが、今のところ思い当たらない。
 音に関して言えば、聞かせたい音だけを聞かせるよりも、聞かせたい音+多少のノイズがあった方が人間はよく聞き取れるとどこかで読んだ記憶がある。



● 2018.3.9 生活

 自然写真の仕事で何が一番難しいか?と言えば、写真に生活をゆだねることかなと思う。
 うまく写真が撮れなかった時に写真好きなら誰でも感じる
「ああ、撮りたかったのにガッカリ。」
 という感情に加えて、
「生活が・・・」
 という恐怖がある。
 生活がかかっているかどうかは、野球で言うならピッチャーがブルペンで投げるのか、公式戦の試合のマウンドで投げるのかくらいの違いがある。
 おのずと手堅く行きたくなるし、冒険ができなくなる。
 それに対して、手堅くいきたくなる自分を、意図的に崩すような作業が必要になる。
「もっ写真を上手くならなければ。」
 じゃなくて、
「もっと神経が太くならなければ。」
 と思うことの方が多いし、実際にそうだろうと思う。
 金正恩とかトランプって、あの針の筵のような状況でスゲーな〜、なんて感じることがある。
 僕なら、心の病になって、あっという間に失脚するだろう。
 すべてから解放されて、自由に写真を撮ってみたいなぁと思うことがある。
 そのくせに、生活がかからないとおもしろくないというのか、燃えないというのか、本気になれないようにもなってくる。



● 2018.3.6〜8 本作りと幕の内弁当


OLYMPUS/STYLUS TG-870 Tough

 100%ではないけど、僕らが作る生き物の本にはある程度の『型』があり、大まかに言うと、本のページは、『イメージのページ』+『説明のページ』の組み合わせになっている。
 イメージのページでは、季節感やムードが求められることが多く、おのずと、望遠レンズで撮影された狭い画角の写真よりも、周辺のいろいろな要素が写っているワイド気味の写真が選ばれることが多い。
 それから、イメージのページでは見開きで写真を大きく使うことが多いが、その場合、生き物が大きく写り過ぎていると気持ち悪いと敬遠されるという事情もある。
 写っている生き物は、どんな種類でもいい訳ではない。
 映画で言えば主役的な華が求められる。
 一方で説明のページでは、説明力のある写真が求められる。
 1つのページの中に何枚かの写真が盛り込まれ、一枚一枚は小さくなるから、細かな画質よりも、小さく印刷した時にも強く見える単純な画面構成がいい。
 さらにその説明の中にもいろいろや役割がある。例えば、ちょっとした面白ネタを提供する写真などがあると、ページが成立しやすくなる。
 説明のページでは、とにかく絵や内容が似通わないように、ちょうど幕の内弁当のように、肉〜漬物まで、それぞれの役割をもった素材がバランスよく含まれていることが求められる。
 日本人は、やっぱり幕の内弁当が好きなのだ。

 写真を撮る時には、そうした一般的な本の構造を頭に入れた上で、ならばどう撮影したらいいのかを逆算する。
 例えばある生き物を撮影する際に、広く撮るのかアップで撮るのかを決める際には、その生き物に主役を張れるような華があるタイプなのかどうかを検討する。
 華があるのなら、広い画角でムードを写し撮るような撮り方を候補に入れるし、そうでなければ、望遠系のレンズを使用して画面の中の要素を減らし、写真が小さく使用されても内容がパッと分かるように絵を簡素化する。
 
 これらは今更僕が書くようなことではなく、業界で仕事をしている人なら誰でも知っているようなイロハのイだが、僕にはなかなか理解ができなかった。
 というのは、僕は弁当を買う時に、幕の内弁当を買いたいとは思わないのだ。
 色々な要素が一通り入っているものよりも、その時一番食べたい一種類だけを選びたいし、たけのこ定食よりも、小鉢なんかいらないから、たけのこご飯だけをひたすら食べたり、握り寿司ならその日一番食べたい1種類のネタだけを、ひたすらに注文したい。
 だから、本作りを勉強する過程で、そんな自分を矯正する必要があった。
 個性は、自然写真のような世界では大切だけど、普通であることもまた大切で、時には自分のスタイルを直さなければならない場合もある。
 ただしそれは、生業として写真を撮る場合の話で、趣味の写真なら、すごく地味な生き物を、大きく見せることを前提として撮り方をしたり、セオリー通りでは方が僕は好きだ。
 
 さて、通常は5本の腕をもつイトマキヒトデだが、たまに、4本や6本のものが見られる。
 こうした写真はタイプ的に言うと、ちょっとした小ネタ系。写真が大きく使われる確率は極めて低いから、小さなサイズでも内容がよく分かるような写真に仕上げる。
 そして、コンパクトカメラでも携帯電話でもなんでもいいから、とにかく写真を撮っておくことが肝心。



● 2018.3.4〜5 液晶画面

 僕の場合、写真の撮り方が2週間変わらない、というのはまずない。写真を撮るたびに何からの改良をするし、改良すればその分写真が変わる。
 ところがそれを日々積み重ねているはずなのに、古い写真を引っ張り出して見てみると、写真自体はそんなに上手くなっていないことに気付かされる。
 一方で、仕事をする上で守らないとならないセオリーを満たすことや、要領や効率などは、各段に向上した。
 鍛錬によって自分の写真の大枠を広げるようなことは難しいが、コツなら、掴むことができる。

 最近も、ああ、こうしたらいいのか!と何かがつかめた瞬間があった。それは、ミラーレスカメラの液晶画面を見ながら撮影していた時だった。
 一眼レフの場合は、片目でファインダーを覗き、撮影した画像は両眼で見る。したがって、そこに、片目で見るか両目で見るかのよるズレが生じる。
 一方でミラーレスカメラの液晶を見ながら撮影すると、撮影段階から両目で見ることになるので、自分が撮ろうとしているものと撮れた写真の間のズレが少なくなる。
 また、カメラに目を近づける必要がないので、手を伸ばすだけで、自由な位置にカメラを構えることができる。
 以前なら、そうした撮り方ではカメラブレが心配されたが、最近は高感度の画質が各段に向上し、カメラの感度を高くすることでブレをあまり気にする必要がなくなった。
 そう言えば、携帯電話で撮影した生き物の画像などを見せてもらう機会はちょくちょくあるが、ひどく下手糞な写真を見たことがないのは、ファインダーを覗かないからではないかな?
 液晶画面を見ながら撮影すると、
「ああ、ここにカメラがあればいいんだ。」
 というカメラポジションがとてもよく分かるのだ。
 それが分かり、感覚として脳が覚えれば、今度は一眼レフのファインダーを覗き込んでも、同じように写真が撮れるようになる。理想のカメラポジションを探そうと試行錯誤している時間が大幅に短縮され、さっとカメラポジションが決まるようになる。



● 2018.2.26〜3.3 環境写真

2018年1月分の今月の水辺を更新しました。

 今年の今月の水辺は、月によっては例外も生じるだろうけど、環境写真を中心に選んでみようかと思う。
 僕は、風景写真を撮るのが大好きなので、生き物に関わる撮影の中では、生物の生息環境を記録した環境写真を撮る時間が楽しい。
 ただ、仕事の現場では、写真は自分が好きに撮影してもなかなか使われないし、ある程度需要を理解した上で、その枠の中で自分らしさを発揮する必要がある。
 環境写真に関して言うと、撮影自体は大好きなのに、需要をイマイチ把握できずにいた。
 ところが去年、たくさんの環境写真のリスエストがあった。
 需要をよく把握できていないだけに、それに答えられない場合も多かったけど、どう撮ればいいのか、多少分かったような気がする。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2018年3月分


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