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● 2017.2.17〜25 遊びの写真



「高感度は、画質が悪くて使えない」
 という知人に送るために一枚選んだ、ニコンD7200のISO1600の画像。
 APS-Cのセンサーを搭載したカメラのISO1600は、上手く使えば、今や完全な実用レベル。一般的な本のサイズや印刷では、低感度のISO200で撮影された画像と区別がつかない場合も珍しくない。
 ただし、使いこなしもあって、ノイズが目立たないような撮り方をする必要がある。
 では、どんな撮り方をすればノイズが目立たないのか?ということになるが、案外説明が難しいので、色がしっかり出るような状況で写真を撮れば、デジタルカメラのノイズは目立ちにくいと書いておこうと思う。
 普段から、色をしっかり出すことを意識して撮影している人は、カメラを高感度に設定してもきれいに撮れるが、そこをおろそかにしている人は、高感度に設定した途端に画質が悪くなってしまう。
 例えるなら、高校野球の金属バットとプロの野球の木製バットのようなもので、高校野球でそこそこの成績を残していても、金属バットに頼った打ち方をしている人は、木製バットに変わった時に全く打てなくなってしまうのと同じこと。

 仕事の現場では、失敗したくないという心理が働くので、いつものやり方で写真を撮りたくなるのだが、僕にとっての犬の写真のように遊びの場合は、いろいろなことを試せるし、そんな機会に、これまで使えないと思っていた機能が、
「あれ、これ仕事でも使えるやん。」
 と気付くことは珍しくない。
 そういう意味で、遊びの写真も、とても大切。



● 2017.2.10〜2.16 海や川は誰のもの



 磯で撮影用の生き物を捕まえようと準備をしていたら、漁業関係者と思われる人から咎められた。
「生き物を採ったらいかんよ。」
 と。
「規制がかかっているものは採りませんよ。」
 と答えたら、
「規制って?」
 と向こうから聞かれたので驚いた。
「例えばアサリを育成していて、アサリを採ってはいけない決まりになっているような。」
 そしたら、
「採っていい物なんてないよ。」
 と返ってきた。
 たまに、こんな方がおられる。
 やがて僕が写真を撮りに来ていることが理解できたら
「な〜んだ。」
 ということになった。
 その方が考えている生き物とは食用になるもののみであり、その他の生き物に興味を持っている人がいることなど、理解ができないのだと思う。
 確かに、食べ物は別格ではあるけど。
 先日、食べ物としてよく知られた生き物をインターネットで検索してみて驚いた。とにかく、食べることに関する記事ばかりが上位に表示される。

 言うまでもなく、漁業の邪魔になるようなことは最初からするつもりはないし、今後も同じ。それが当然だと思ってきた。
 ただ最近になって、当然と考えることが本当に正しいのかな?と多少疑うようになった。
 というのは、例えば、漁業で魚を捕り過ぎではないか?と指摘されるケースがあるが、そんな時に、魚は漁業をする人たちだけのものなのかな?と思うのだ。
 あるいは、本来の生き物の分布を無視した放流などもある。
 なんでもしていいの?と思う。
 漁協の人と言えども、本来はみんなの合意のもとで、そこで漁をさせてもらっている存在であり、海や川自体はみんなのものではないのかな?

 潮が引いた磯で写真を撮っていると、何人か、ワカメを密漁する人たちが現れた。いずれも年配で、そのうちの一人が、
「厳密に言うと密漁だけど、家でみそ汁に入れて食べるくらいの量だけ採るんです。」
 と自ら話してくださった。
 なるほどね。そんな人がいるから、カメラマンも警戒されるわけだ。
 小さな密漁に関して言えば、今どきの若い人には、そこまでして野山から食べ物を持って返る人は少ない。
 野山のものを持って帰って食べることに関心がないから、月日が流れ世代交代すれば、その手の密漁は減ると思う。
 捕り過ぎにしても、密漁にしても、食べ物が絡むと良くも悪くも目の色が変わるのは年配の人に多い傾向であり、生きてきた時代の違いが大いにあると思う。
 そしてこれは、話せば分かり合えそうで、実際には多分分かり合えない。
 経験してきたものが違うというのは、そういうことではないかと思う。

 さて、本作りのための追い込みの撮影や原稿作成や生き物の名前を調べる作業が幾つも重なり、日記を更新している場合ではないような気もするのだが、今年は、何かを感じた時にはそれを形にして残すことを優先しようかと思う。
 僕は、何かを感じ、それを発信する立場の人間だから。



● 2017.1.22〜2.9 Kenkoの話

 1月の末から、写真を撮ることが苦痛になっていたのだが、昨日、2週間ぶりに、楽しいと思った。
 前日までとの違いは、インフルエンザと思われる症状をきっかけに痛めていた喉の不具合が急激に回復し、気にならない程度になったこと。
 それにしても、写真撮影が楽しいかどうかが、これほどまでに健康状態に左右されていたとは!
 仕事が辛いは頻繁にあるが、写真を撮ること自体が辛いのは、生まれて初めての経験。

 ふと思い出されたのは、筋ジストロフィーで亡くなられた直方市在住の画家・田代勝大さんのこと。ほとんど指先しか動かない状況で創作活動をするのが、どれだけ凄いことなのかが今更ながら分かった。
 田代さんのことを知ったのは、2008年だったと思うが、直方市の谷尾美術館で開催された「筑豊アートシーン」というグループ展に参加した時だった。僕はアーティストではないので、企画に参加するかどうかはそれなりに迷ったが、以降、田代さんの活動から考えさせられることが非常に多くて、参加して良かったと感じるようになった。
 「筑豊アートシーン」で面白いなと思ったのは、インスタレーションと呼ばれるサドシマヒロカさんの作品だった。会場に巨大なオブジェを制作するのだが、会期が終わると壊してしまう。
 僕は、後に残したいという思いが強く、後に残る本を発表の場を選んでいるだけに、壊してしまうという点に興味を感じ、壊してしまうのは平気なのか?と聞いてみたところ、特に感慨はないのだそうだ。
 理解しやすかったのは、陶芸の石原稔久さんだった。
 作ったものを販売して、それで生計を立てるという商業的な側面が、僕の写真と同じだから。


   
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