撮影日記 2018年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2018.1.15〜21 外来種の話

 僕は外来種の本も作っているので、たまに外来種に対する考え方を聞かれることがある。
 そんな時は、まずは模範解答から答える。
 外来種を放置すれば、在来の生き物が影響を受けるケースがある。例えばブラックバスを放置すると、ある種の魚は生き残ってもある種の水生昆虫が消えるなど、在来の生き物の中でも特にバスに食べられやすい生き物が、その場所では完全に絶えてしまう可能性がある。だから状況に応じて駆除をする必要がある、と。
 だがそんな話では、僕が答える意味がない。
 だから、次に自分の考え方を話す。

 まず僕が重視するのは、ある生き物が外来種であるかどうかは、人が五感で感じることはできないということ。例えば一切の情報を持たない土地へ行って、そこで生き物を採集して、それらがその場所の在来なのか外来なのかを判断することできない。
 だから外来かどうかは、情報であり、知識であり、人が決めたルールのようなものだと言える。
 人は自然に何を求めているのだろうか?
 もちろん人それぞれだろうけど、それとは正反対のもの、具体的には、五感を使いたい、五感で感じたいと思っている人がたくさんいるのではないかと思う。
 だから僕は、自分の五感で感じ取れるかどうかに一線を引くことにしている。
 例えば、雷魚と呼ばれる外来の魚は、僕が子供の頃から池や川で見られ、それが外来であることは自分の五感で感じることができないから、僕にとっては在来種だ。
 一方でブラックバスは、ある時を境に急にみられるようになり、それが他所からやってきた魚であることは自分の五感で感じることができた。だからブラックバスは、僕にとっては外来の魚。
 だが僕より後に生まれた人にとっては、ブラックバスは子供の頃からいた魚ということになる。だからブラックバスが外来で悪影響があるから駆除する、という考え方は、人が自然に五感を求めていることを思うと、いずれ通用しなくなるだろう。
 100年後にブラックバスの駆除を、日本人はやっているだろうか?
 僕は、それはないか、せいぜい細々ではなかろうかという気がする。

 外来種を言い過ぎると、自然に五感を求めている人たちが、そこから離れてしまう。
 では放置するしかないのだろうか?
 僕は、野焼きのようなものをイメージする。在来とか外来などと目の前にあるものを評価しようとするのではなく、場所を選び、ちょうど野焼きのような感覚で、それが正しいとか、間違えているというのではなくて、ある一定の状況や環境を漠然と維持するための活動だ。
 この漠然というのが大切で、それが日本人には合っているのではないかという気がしてならない。
 それとて、自然は本来変化する存在で、放置しておくべきではないかという意見もあるだろうけど、人が生み出したテクノロジーは異様はスピードで物事を変えてしまうから、それくらいでちょうどいいのではなかろうか?と思う。

 不倫報道で引退を発表した小室哲哉さんが、そうなった理由として「現代のストレス」というような話をなさったが、そのストレスとは、基本的に、情報とか知識とかルールなどといった人が作ったもの。
 それに対して、人が作ったものではない自然が存在し、多くの人が自然に癒しを求める。
 その自然に、人が作った情報とか知識とかルールである外来種という概念を持ち込み過ぎると、もはや自然は自然でなくなり、多くの人にとって不必要な存在になる。
 外来種の問題が語られる時に、科学者が定義する自然は、そこに存在するべきある生き物だったり植物だったり地形だったりと一種の物であり、科学は即物的なのだが、多くの人が定義する自然は一種の観念であり、物ではないのだ。



● 2018.1.9〜14 更新のお知らせ

 2017年12月分の今月の水辺を更新しました。



● 2018.1.4〜8 意味がないこと



 北九州魚部の中に発生したサンショウウオ部のみなさんとカエル捕り。
 そろそろヤマアカガエルが産卵をする時期だが、
「前に来たときは、もう雄が雌に抱きついていましたよ。」
 ということで、部長が水たまりに網を入れてみるが、なかなか捕まらない。
 ジャケットが汚れ長靴の中に水が入り、僕は、カエルは狭い隙間に入り込んでいてこの状況では捕まらないんじゃないか?と正直思ったのだが、見事に捕獲。
 さすが!


 
 みんなで見たら、後は元の場所に放す。
 そこまでして捕まえたのに、見て放すだけの行為に何の意味があるんだ?と感じる方もおられるだろうが、それがいいのだと思う。
 役に立たないものや意味がないものも、必要だと思うから。
 役に立たないものと言えば、直方市の谷尾美術館で、新聞の紙面を正確に模写した絵画を見たことがある。
 そんなものは写真に撮れば早いし、描くことに何の意味があるのだ?ということになるが、だから面白い。
 新聞紙を写した写真を見て何か楽しいですか?と。

 役に立たないものの中におもしろいが存在するのに、役に立たないがダメなことだと思い込み否定したがる人が非常に多い。
 その一番わかりやすい例が、
「子供たちに命の大切さを教える。」
 という定番のセリフではなかろうか。
 子供たちを野山に連れ出す際によく使われる言葉だが、多分主催者は、そこで見るものが大して役に立たないと内心感じているのだろう。
 たいして役に立たないというのはまさにその通りであり、だから自然観察は面白いし素敵なのに、役に立たないでは許されないと思い込んだ人が、何の役に立つんだろうとこじつけた結果が、
「子供たちに命の大切さを教える。」
 というものであって、それは、自分たちがやっていることを自ら否定するような言葉じゃないかと思う。

 この日は体調不良。
 当日は、風邪かな、と思っていたのだが、急激にきつくなり、その後の経過から判断すると、B型のインフルエンザではなかろうかと思う。
 帰宅後は、とにかく暖かくしてひたすら眠る。
 だが、たまに冷たい風に当たると、なぜかホッとする。
 寒さや暑さは人間にとって不要だから、人は暖房や冷房を使用するはずなのに、そのいらないものである寒さや暑さがなぜか欲しくなる。
 それが自然という存在ではないのかな?と僕は思う。



● 2018.1.1〜3 正月に考えていたこと

 この人、日本の自然写真家の中では図抜けているよな、といつも唸らされる世界クラスの写真家の中に、
「自然写真に、科学のお勉強は不要。学者の話は机上の論理ばかり。」
 と主張する方が複数人おられ、自然科学出身の僕としては、その言葉がグサッと胸に突き刺さる。
 そう言われると、
「本当に不要かどうかは、あなたも自然科学を勉強してみなければ分からないんじゃないですか?」
 と反論したくなる。
 だが、その反論こそが、まさに自然科学に毒されている証かもしれないなとも思う。
『科学が不要かどうかは、まずはあなたも科学を勉強し、科学を勉強した状態とする前の状態とを比較しなければ判断できないのでは?』という僕の考え方は、対照実験などに代表される、まさに科学の『比較』という物の考え方だから。
 科学が不要という人に対して、科学の考え方で反論するのでは、永遠に議論はかみ合わない。
 それよりも僕にとって大問題なのは、科学は不要と主張する方が、その考え方でもって、現に圧倒的に凄い写真を撮っているという事実だろう。僕らの世界は、結果の世界だ。
 そこで、この人いったい何を言おうとしているのかな?という観点に意識的に立ってみると、オリジナリティーという言葉が浮かんでくる。
 科学の知識は他の誰かが調べたことであり、その知識に基づいて写真を撮るという行為は、そもそも人の後追いに過ぎないという側面がある。
 「自然写真に、科学のお勉強は不要。」
 というのは、そんなことを言いたいのかな?

 オリジナリティーとは、唯一無二ということであり、比較ができないということ。
 例えば二人のお子さんを持つお母さんがいて、どちらが大切ですか?と尋ねたとしても、大半の人はなかなか答えられないだろう。
 というのは、それぞれの子供が唯一無二の存在であり、比較なんてできないのだから。
 写真家に要求されるのはそのオリジナリティー。
 ではオリジナリティーはどうやったら出てくるのかな?と考えてみると、それは、比較ができない唯一無二のものを取り扱うこと。例えば、その人が現場で純粋に感じたことなど。
 因みに、科学の世界では、比較できない唯一無二のものを排除する。

 実は、僕の中でずっと引っ掛かっていたことがあった。
 それは、オリジナリティーあふれる写真を撮る、ある大変に優れたアマチュア写真家が、しばしば生き物の名前を間違えておられること。
 例えば外来の水草の名前が、清流のみに分布する在来の水草の名前になっていたりすること。
 最初は、凄くいい写真なのに、この程度の知識もないなんて、ガッカリだよなと思った。
 だがやがて、いや、そうじゃないのでは?と感じるようになった。
 その方はその場で純粋に感じた、唯一無二の思いを写真に表現しているのであり、だから作品がオリジナリティーに溢れているのであって、知識うんぬんは二の次なのではなかろうか、と。



● 2018.1.1〜3 年をとる

 2017年は、
「ああ、こうやって人って年を取っていくんだろうな。」
 と実感をした年だった。
 ここのところ、インターネットが嫌いになり(元々あまり好きではないのだが)、撮影が立て込んでいる時など心にゆとりがない時には、見る気がしなくなった。
 そして数日ぶりに時間ができて眺めてみると、その間わずかな期間なのに、世間が随分先へ進んでいるように感じる。
 機材なんかも、以前なら知らない製品なんてほとんどなかったのに、ここのところは、気付けば知らない新製品がチラホラ。
 年配の人が時代についていけなくなるのが、とてもよく分かった。

 それに伴って、考え方も違ってきた。
 以前は、新しくてより優れた物や概念は、一刻も早く取り入れるのが正しい社会だとひたすらに思っていた。
 が、「これが新しいんだ。」「これが正しいんだ。」とゴリ押しされる社会は、正しい社会かもしれないけど、少なくとも暮らしやすい社会ではないんだろうなと感じるようになった。
 特にこれだけ情報伝達のスピードが速くなると。
 新しいものに変わらなくていい、と言うのではないけど、古くからあるものに対する配慮が大切なんだろうな、と感じた。
 ただし、写真家の活動とか自然科学の研究みたいな、新しさやオリジナリティーが肝になるジャンルは全く別だと思っているけど。

 ともあれ、新年の抱負みたいなものは、辞めようと思った。
 自分がどう変わるかわからないのに、今の自分が抱負を述べてもしかたがないような気がするから。
 それよりも自分が変わることで違って見える景色の方を、しっかりみてみたい。
 
 
   
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