撮影日記 2017年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2017.12.29〜31 マネージメント

 今年は、プロのカメラマンを目指して写真を撮り始めた頃に、本で読んだり、先輩方に教わったことを、よく思い出した一年だった。
 当時教わったことが、今更ながら、なるほどな〜と思える機会が多かった。
 それらの大部分は、どんな写真がいい写真なのかとか、いかにして写真を撮るかではなくて、いかにして撮った写真を見てもらうか、つまりマネージメントの話だった。
 滞りなくちゃんと仕事ができている、ちゃんとまとまっている、上手く写真が撮れているでは埋もれてしまう。
 埋もれないためには、どうしたらいいのか?どこで勝負ができるのか?など、マネージメントの大切さを改めて感じた一年だった。



● 2017.12.26〜28 凄くイイところと、ひどくダメなところ

 ある非常にちゃんとした由緒正しい人が、実は電話に出るのが大嫌いで、鳴っていても取らないことがよくあると聞いて、なんだかに癒された。着信の直後に、メールで、電話鳴らしました?と要件を尋ねるのだそうだ。
 僕にも、とても良く似たところがある。
 そう言えば昔、「生き物を好きな人はしばしば、凄くイイところと、ひどくダメなところを合わせ持っている。」という話を聞いたことを思い出した。

 僕の場合は、そもそも、基本的に人とあまり話をしたくないタイプだ。
 ところが例外があって、例えば自然が好きな人となら、話をしたくないどころか、会話が楽しい。
 だから、身の回りの自然好きのみなさんに対しては、とにかく感謝の気持ちでいっぱいだ。もしもみんなが存在しなければ、僕はかなり重度の引籠りになっていることだろうから。
 なぜ自然が好きな人と話をすると楽しいのかな?
 大好きな自然の話ができるから?
 それももちろんあるけど、自然が好きな人は、凄くイイところと、ひどくダメなところを合わせ持っているからのような気がする。聖人君子みたいな人と話をしても楽しくないし、ダメなところばかりの人と話をするのもまた困る。
 
(お知らせ)
今月の水辺を更新しました。



● 2017.12.25 最近聞かれたこと(2)

「魚部のメンバーはみんなは川原さんが大好きですよね。武田さんも川原さんが大好きなようですが、どこが魅力ですか?」
 と聞かれた。
 川原さんというのは、北九州魚部のメンバーで、水環境館という小さな水族館にお勤めの、生き物が大好きな人。
 僕にそう質問をしたのは、北九州魚部の代表・井上大輔先生。
 北九州市の西の方に住んでいる魚部のメンバーで、焼肉を食べた日のことだった。
 川原さんは、生き物に関して何かを質問すると、必要最低限のことだけをピシャと的確に教えてくれるのだ。
 だがそれ以外にも、生き物を捕まえたり、飼育したりと僕がやりたいことをやっているという面もある。
 生き物の撮影には、時間がかかる。
 写真術の部分に大変な時間を取られるし、写真を撮る限り、被写体以外の自然を見ることができる時間は限られてしまう。
 あるいは、写真の被写体として成立し得る、限られた生き物しか見ることができなくなる。
 例えば、ソボサンショウウオを見に行きたいなと思っても、非常に特殊なサンショウウオの写真のニーズはまずほとんどないし、なかなか、そんな機会は得られない。
 そんな時に、自分がやりたいことをやっている人と一緒に行動をすることで、心が満たされることがある。
 だから、自分の代わりにやってもらう感覚に近い。
 僕が他人にそう感じるということは、もしかしたら僕も、誰かの代わりに写真を撮っているのかもしれない。



● 2017.12.21〜24 最近聞かれたこと(1)

 先日、某中華料理店で、たまたまその場に水辺のカメラマンが2人いたこともあり、
「なぜ水辺なんですか?」
 と聞かれた。
「水辺の人って少ないじゃないですか。」
 と。
 僕の場合は、水辺をテーマにしている理由はいくつかあるが、その1つに、水辺が好きな人には、心が自由な人が多いことがあげられる。
 水辺の場合、生き物をちゃんと知ろうと思えば、網を入れてみたり、捕まえてみなければ分からないことが多い。おのずと水辺を好む人には、「捕るな」とか「触るな」とか、「見るだけにしろ」、などという人が少ない。
 逆に、不自由が多いのが、例えば野鳥の世界だろう。
 ルールが不要だとは思わないけど、管理人みたいな体質の人には辟易させられる。
 多分、一度他人が気になりだしたら気になって気になって仕方がないのだろうと思うが、時にナンセンスな学校の校則を思い出す。
 自然界にはルールはないし、ルールがあるのは人間の世界だけだが、そういう意味では野鳥観察の世界は人間的で、人工物だらけ。
 それは、鳥の観察ではあっても、自然観察とは程遠いような気がしてならない。

 胴長を履いて池に立ち入れば水は濁るし、水草はちぎれるし、投網を投げれば、網の目のサイズに応じて魚が突き刺さり、外す時に死んでしまうものが出てくるが、自分が行動したらどんなことが起きるかを肌で思い知らさせる。
 少なくとも聖人君子にはなれないし、正義の味方みたいなことばかりは言えなくなるが、それを思い知ることが自然観察ではなかろうかという気がする。



● 2017.12.13〜20 人の心の中にある自然

 都会に行くと、人の意識が高いなと毎回感心させられる。
 例えば男女平等というような概念が、より浸透している。
 だが男女平等というのは理屈や論理であり、人の感覚的には、男と女はかなり違う存在であるのもまた事実。
 ワイドショーで今流行の浮気問題などでも同じ。
 理屈を言えば、浮気は過ちになるが、感覚的には、人を好きになるというのは理屈ではないし、条件さえ整えば誰にでもあり得ること。
 理屈が人間社会の秩序とするならば、感覚は人間の中にある野生だったり自然の部分。
 不倫は文化だと言って叩かれた人がおられる。
 文化ではないと思うのだが、人の心の中に住む自然ではないかと思う。
 別にそれを推奨しているわけではないけど、理屈と感情は必ずしも一致しない、つまり矛盾していても全然おかしくないことを知っておくべきではないかと思う。

 だから僕にとっての自然は、生き物や岩や土や水と言った即物的なものではなくて、人のルールには縛られない場所や物であり、役に立つとか立たないとか、損とか得とか、何のためにあるとないとか、そういう切り口では切れないもの。
 自由と言い換えてもあまり差し障りない。
 生き物や風景は、その一例に過ぎない。
 僕は、人の社会の秩序を守りつつも、心の中にある自然を大切にする人が好きだし、そうした人のことを「自然を愛する人」と定義している。
 自然を愛する人と生き物を愛する人は、必ずしも一致しない。
 最近つまらないなと思うのは、若者の中に生き物を愛する人はそこそこいるけど、自然を愛する人は案外少ないように感じられること。
 
 以前弟と魚釣りに行った際に、弟が、
「僕ね、いい人とか立派な人って嫌いなんよね。」
 とつぶやいたことがあった。
 前後の文脈は覚えてないのだが、弟が言う立派な人というのは、秩序や理屈のみを優先にする人のことかな?
 秩序や理屈を優先する人には、人の心の中にある自然を大切にしない人が多い。



● 2017.12.12 なぜ自然は大切なのか?

 自然が大切にされたらいいな、と切に思うけど、僕は、それを目的とした本を作る気にはなれない。
 適当な言葉が見つからないので「自然保護」という言葉を使うが、自然保護は一種の道徳や宗教だと思うし、それら思想信条の話は、自然写真の仕事とは切り離しておきたい。
 あくまでも僕の好みを書いているのであり、別にそれが正しいと思っているわけではない。
 ただ、「自然が大切にされたらいいな」という気持ちは、根っこのところに常にある。
 だから、なぜ自然を大切にしなければならないのか?という質問に答えられるようになるのは、僕にとって大きなテーマであることは間違いないし、それについて考える時間は長い。

 さて、ある若者がツイッターに投稿した、
「ゲームやアニメの存在が子供たちの自然離れを引き起こしているという大人が多いけど、自然好きにはゲーム好きやアニメ好きが多いと感じる。」
 という趣旨の書き込みが目に留まった。
 そう言えば、以前、ツイッターを使って、東日本のナメクジを送ってくださる方を募集した際に反応してくださった方には、ゲームやアニメが好きだと思われる方が非常に多かった。
 予想外だったから、印象に残った。
 きっと自然好きの中に、そうしたタイプが存在するんだろうな。
 僕の場合は、自然を好きな理由は、
「人が作ったものではない物が好き。」
 である。
 そんな僕が自然を知りたいと思う時に、その対極である都会を見るのは有効な方法だし、都会の人と話をする時間は非常に面白い。
 都会の人と話をしていつも感じるのは、「意識が高い」ということ。
 例えばほんの一例だが、不公平や理不尽を許さない人が多い。
 一方で自然は理不尽だらけであり、なぜ自然が大切か?と問われれば、今の段階では、人間には理不尽なものも必要と答えたくなる。
 理不尽なものも必要という発想自体が、都会の人からは許されない場合が多いのだが、なぜ必要なのか、自分の言葉で表わすことができない。

 他人の言葉なら、養老孟司さんの説明が僕には理解しやすい。
 養老さんは、子供は自然であると主張する。確かに、生まれた直後の人間の子供は、文明の影響を受けてないのだから、自然物だと言える。
 子供は自然だから、人(大人)の思い通りにならないし、極端なことを言えば、犯罪者になる場合だってあり得る。そして、都会は自然を排除しようとするわけだから、都会が少子化になるのは当然。
 でも、子育て=自然と接することって大切でしょう?と。



● 2017.12.2〜11 勉強

 先日、大先輩である自然写真家の新開孝さんと一緒に、ある企画の売り込みに行ってきた。
「こんな企画を提出したいのですが、僕一人では難しいので、一緒にやってもらえませんか?」
 と先輩にお願いするなど厚かましいかなと思ったのだが、厚かましいのは今に始まったことではないと開き直った結果だ。
 先輩の力をかりて企画を成立させること以外に、新開さんから本作りを勉強したいという目論見もあった。
 最初に新開さんのお宅にお願いしに行った際に、最後に僕が言い残した
「忘れないでくださいね。」
 という言葉が新開さんの耳に残ったのだそうだ。
 実は記憶にないのだが、そんな厚かましいことまで言ったのかと追加で冷や汗が出てくる。
 ただ果たして、一緒に売り込みに行ってみると、やはり本作りに関して勉強することが満載で、そんな機会が得られたことに大感謝。
 代わりに、いつか自分が誰かに問われる機会があれば、今回教わったことを伝えたい。それで許してもらうとするか。
 その前に、せっかく教わったことをまずは生かしたい。



● 2017.12.1 他人にイチャモン

 岩合光昭さんが撮影した野良猫の番組に関して、
「野良猫が野生生物に害を与えていることについても触れなければならない。」
 というインターネット上の意見を読んで、ふっと昔の出来事が思い出された。
 写真展を開催した際に、僕のカワセミの写真を見た方から電話があり、
「自分もカワセミを撮影するのでカワセミに害を与えるような撮り方をしていないことはわかるけど、解説文の中で自然保護についても訴える一文も加えるべきだ。」
 といった話だった。
 立派な意見だなと思いつつ、変な話だな、とも感じた。
 カメラマンは、自分が言いたいことを言うために写真を撮る。その僕の言いたいことを、他人であるその方が何で決めるんだろう?と。
 僕は自然が大好きだし、自然が大切にされて欲しいと思うけど、自分の作品の中でそんな型にはまったステレオタイプなことは、死んでも言いたくない。
 岩合さんの猫の番組も同じく、岩合さんの番組では、岩合さんの言いたいことを伝えるのが当たり前。
 中には、両論(野良猫の魅力と害)を併記するべきだという方もおられるのだが、それは報告書であり、作品作りとは別のことになってしまう。
 そんなことを主張する人は、写真家や作家の仕事を理解できていないのだと思う。
 そもそも岩合さんは、その著書の中で、「自然写真家にサイエンスは不要どころか、邪魔になる。」と、科学的な物の見方をしばしば否定しておられ、固定観念にとらわれることを嫌っておられる。そして、その自分の主張を作品の中で表現して、世界的な評価を得ておられる。 

 猫よりも野生生物の方に関心がある人は、誰かの猫の作品にイチャモンをつけるのではなく、自分が発信力を持つ努力をして、好きな野生生物の魅力を自分で発信するべきであり、人のせいにし過ぎではなかろうか?
 因みに僕は、野良猫は、正直に言えば好きではないのだが・・・。
 いや正確に書けば、生き物を放し飼いする人が嫌い。


   
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