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● 2017.3.19〜26 更新のお知らせ

今月の水辺を更新しました。



● 2017.3.7〜18 講演

 オーストラリアのロックバンドAC/DCは、高校生の頃に初めて聞いて以来、ずっと好きなバンドだ。ワンパターンと言えばワンパターンだが、自分達らしさを、これでもか!と押し通してくる。
 僕が高校生の頃から第一線で活動しているのだから、当時のメンバーはすでにみんなおじいさんだ。
 ギターのマルコム・ヤングは、認知症で引退。
 ヴォーカルのブライアン・ジョンソンは、体調面で医師からドクターストップがかかり、引退。
 あと一人のギタリストのアンガス・ヤングも、近年の動画を見てみると、今にも倒れてしまいそう。
 でも、そんな姿が素敵だなぁと思う。
 そんなAC/DCに対して一部のファンが、いつも同じ曲ばかり演奏するから多少が曲目を変えろと要求したことに対して、ヴォーカルのブライアン・ジョンソンが、
「くたばりやがれ、曲目を変えるのがどんなに大変かわかってない。」
と反論したのをどこかで読んだことがある。

 さて、明日は講演会。本来の予定ではとうの昔に準備が終わっているはずが、途中2種類の食中りに立て続けにやられてしまい、動けない期間が生じてしまったために、前日に大慌てで準備をする。
 僕は普段あまり講演を引き受けないのだが、最大の理由は、準備に時間を取られ過ぎるから。
 生き物の撮影なら、自分がもっとやりたいと思ったところで、シーズンやその生き物の行動に終わりがあってやがて終えなければならなくなる。
 ところが講演の準備みたいなものは、打ち込めばきりがなく、いつの間にかつい膨大な時間を費やしてしまう。
 でもね、講演を引き受けるたびに毎回話を準備をするのではなく、同じ話を違った場でも披露するような形を取ればいいのかな。ちょうどミュージシャンがライブで演奏をする曲目をあらかじめ決めておいて、それを違う会場でも演奏するように。
 そこで今回は、今回限りの話の準備をするのではなく、同じことをまた別の場で話す機会があるかもしれないという前提で取り組んでみた。
 つまり一度の講演の準備をするのではなく、数回分をまとめて準備するのだから、いつもよりも時間をかけて。 
 ネタの使いまわしは少々気が引けるのだけど、その方が質を上げることができると考えた。



● 2017.3.3〜6 晋ちゃん小学校

 自然について考えてみても、ある程度から先は、社会についても知らなければ、考えられないことを思い知らされる。僕は、そういう意味でなら、政治や経済や教育などにも多少は関心があるし、中でも「安倍晋三小学校」の話題は面白いなと思う。
 例えば、「子供たちには君が代を絶対に歌わせない」と主張する人がいると、今度は、小さな子供たちをほとんど洗脳してでも、君が代を歌うように仕向ける人が現れる。
 そんな極端な出来事を目にした時に、やっぱり曖昧にしておくべきこともあるのではないかと感じる。

 たまに耳にする「日本の伝統」とか、「日本らしさ」って何なのかな?と思う。
 僕が日常生活の中で感じる日本らしさは、曖昧さなのだけど、安倍晋三小学校で教えようとしている日本らしさは、「規律」みたいなものでありそれとは随分違うところが面白い。
 その違いがどこから生じるのか、僕ごときの見識では解釈や理解なんて不可能だけど、そもそも、日本の伝統と言ってもその人の立場によって全く違うはずで、何か1つの方向性に定義できるわけがない。
 例えば、武士の伝統と農民の伝統と商人の伝統や体質とが同じであるわけがない。
 そういう分類をするのなら、安倍晋三小学校で教えようとしている日本らしさは、支配者階級に近い発想に思える。
 別にそれが間違えているわけではないと思う。
 今の日本に支配者は存在しなくても、TOPは必要であり、TOPと支配者とには共通点もたくさんあるはずだから当然そこから学ぶべきことがあるだろうと思う。
 でもそこだけを取り上げて、それが日本の伝統と定義するのは、視野が狭すぎるのではなかろうか?という気がする。
 日本らしさって、何なのだろう?

 生き物の世界にも、言葉の定義から生じる、揉め事がたくさんある。
 例えば、雑木林が切られて桜の木が植えられると、僕なんかは、「そんなの自然じゃない」と不愉快になる。
 それは僕が、「人の意図が介在しない状態」を自然と定義しているからであろう。人の意図が介在しない状態=自然ならば、人が品種改良をした上で植えたい場所に植えた桜は、自然ではない。
 だが、世間のみんなが僕と同じように「自然」という言葉を定義しているわけではない。
 植えられた桜を見て、「わぁ、自然っていいね。」と感じる人は、品種改良をしたどうかとか、人の手で植えられたなどということを抜きにして、「命」のことを自然と定義していると解釈すれば矛盾がない。
 そして、よくよく考えてみると、それもまた理解できる。
 というのは、「ソメイヨシノは人工物か?」と言えば、元々存在した生き物にほんのちょこっと手を加えただけに過ぎず、人がソメイヨシノを作ったと言うのはむしろ傲慢でさえあるから。
 そもそも、人はまだ無生物から生物を作ることに成功していない。

 科学の世界の中ならば、言葉の定義は絶対であり、まずは言葉の定義があって、その上で話が始まる。
 だが人の社会の中では、言葉の定義はしばしば後からついてくる変わりうる曖昧なものであり、先に言葉を定義してしまうと、例えば「これが日本の伝統的な考え方です」、などと断言してしまうと、その瞬間に対話ができなくなる。

 それはともあれ、たけだしんいちの「しん」はどんな漢字ですか?と電話などで聞かれた際には、「高杉晋作の晋です」と答えてきたし、実際に、高杉晋作から取ったらしい。
 だが最近は、安倍晋三の晋ですと答えるようになった。
 そちらの方が分かりやすいかな、と思うからだが、実際には、イマイチ伝わり方は悪い。
 因みに、安倍晋三の晋も高杉晋作から取ったものだとどこかで読んだことがある。
 晋の字が一番よく分かってもらえるのは、普通の「普」の字に上の点々がないものという言い方です。



● 2017.3.1〜2 僕の風景写真


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR Capture NX-D

 早朝、凍り付いた小さなため池。
 日が高くなって氷が溶けると、水の中に身を潜めているヒキガエルたちが動き出し、メスを取り合う、カエル合戦と呼ばれる戦いが始まる。池の外から新たな雄がやってきて、争うに加わる場合もある。
 カエル合戦は、カエルの行動の中でもビジュアル的に非常に面白いシーンの1つであり、中でも体が大きくて力士のような体型のヒキガエルの合戦シーンは、是非とも傑作をものにしたい、音楽で言うなら「さび」に該当するシーンだと言える。
 「さび」がつまらない曲に、名曲はあり得ないだろう。

 さて、生き物の写真を撮る人には時に邪魔になる三脚を嫌う方もおられるが、僕は必ず持ち歩くし、うっかり忘れた日には、カメラを忘れたのに近いショックを感じる。
 用途は風景の撮影だ。
 ただし僕が撮りたい風景は絵画としての風景ではなく、生き物が生息する環境や気象条件をとらえた風景。
 生き物を好きな人が見て、
「おっ、ここいいね。」
 と感じるような。
 そうした写真は、商売としては成り立ちにくい。
 というのは、絵画としての風景写真を見て「いいね」と感じる人ならたくさんいても、生き物の生息環境が分かる人は少ないから。
 だから、よりたくさんの人に分かってもらうために何か説明が必要になると思うが、そんなことができたらな、と思う。
 こう書いたところで、ある方の言葉が突然に思い出された。
「今森光彦さんはね、風景写真のカレンダー制作の依頼が来ても、虫やその他の生き物の写真も加えてもらえないのなら断ってしまうんだよ。」
 と、随分前に教えてもらったことがあった。
 カレンダーは広く一般に配布されることが多いため当たり障りのない被写体が好まれるし、生き物の写真、特に虫のような必ずしも好かれない存在は敬遠される。また、ギャラが高額であることを思うと、割のいい仕事の機会を逃しかねないそうした発言は非常に勇気と男気に満ち溢れたものだと言える。
 話をしてくださったのは、亡くなられた写真プロデューサーの坂本陽平さん。訳あって一緒に宮崎県に行った際に、昆虫写真家の新開さんのお宅に泊めてもらった晩の話だったように記憶している。

 生き物の写真を撮る人は、ただ生き物を見ている人よりも、生き物をよく見ている場合が多い。
 それは、よく見ようとしているからではなくて、写真を撮るのには時間がかかるため、結果的に見ることになってしまうのだと思う。
 僕が三脚を使うのもそれと同じ理由であり、三脚のいいところは、一枚の写真を撮るのに時間がかかってしまうところだと言える。


   
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