撮影日記 2017年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2017.1.24〜27 「面白いことをやって笑わせているようじゃダメ。」

 昨年末に、俗に武蔵野と呼ばれる地域の雑木林を案内してもらったのが良かった。
 池袋駅から西武線に乗ると、東村山という地名がアナウンスされた。昔ドリフの志村けんが歌って大ヒットした東村山音頭の「東村山」ってここにあったのかぁなどと、目的とする里山以外にも、名前を聞いたことがある場所を電車で通るだけでも面白かった。
 最後は西武狭山線に乗って、ハッと分かった。歌詞の中で何と発音しているのかよく聞き取れず、意味も分からず適当に口ずさんでいた「さやまちゃどころ」の「さやま」は「狭山」、「ちゃどころ」は「茶所」かな。ということは、お茶の栽培が盛んなのかな。

 帰宅をして東村山音頭の動画を検索して見てみたら、案外面白くない。
 ドリフの芸では、「ヒゲダンス」なんかもそう。
 面白くないは言い過ぎかもしれないけど、「腹が痛くなるまで笑い転げた」あの日の印象には、程遠い。
 でも、萩本欽一さんこと欽ちゃんが
「面白いことをやって笑わせているようじゃダメ。」
とどこかで語っていたのを思い出した。
 その真意は、今となっては正確には覚えてないけど、芸人は存在そのものが面白くて、出てきただけで笑いが取れて本物というような意味だったように思う。
 そういう意味では、まさに、志村けんの存在自体がオモシロかった。

 見たことがないものが写っているとか、何がスゴイというのではなく、ただ生き物が写っているだけなのになぜか惹かれる写真が撮れたらな、と思うことがある。
 よく見かける生き物のよく見かけるシーンで、ある程度その分野に通じている人なら誰でもカメラを向けることができるのに、あの人が撮る写真がなぜか好きと言わせることができたらな、と。
 欽ちゃんが言う
「面白いことをやって笑わせているようじゃダメ。」
を、
「スゴイものを撮って驚かせているようじゃダメ。」
 と言い換えてみたりする。


NikonD7100 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF)

NikonD7100 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF)

NikonD7100 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF)

 元々僕は、見えないものを写真の力で見えるようにするよりも、自分の目に見えている通りに撮りたい気持ちが強い。
 そして写真機という道具は僕にとって非常に扱いが難しくて、しばしば、自分の目に見えているようには写らない。



● 2017.1.19〜23 何となく

 子供の頃、釣り具なら釣り具で、僕が持っている物に対して父から
「これは何に使うと?」
 と聞かれ、
「何に使うか、別に決めているわけではないよ。」
 と答えたら、
「そんなはずはない、何か答えなさい。」
 と怒られたことが何度かあった。
 が、どんなに答えなさいと要求されたところで、決まった目的がないものはないのだから、答えようがない。
 多分、父にはそんなことがないのだと思う。確かに父の部屋には、何に使うのかわからないようなものは置かれてない。



 さて、僕は何に使うか自分でも分からない、遊んでいる場所や遊んでいる物を置いておくことを重視する。
 例えば、机の上には、作業の際に出た端材やその他を、何の役に立つのかはわからないけど、何となく置いておく。
 シールをはがした際の裏紙とか、切ったガラスのきれっぱしとか。
 すると、それが何となく役に立つことがあり、そうした中途半端で商品としては売られてないような物が役に立つ時には、案外、他のものでは代用が効かない場合が多い。



 また、ここで何をすると決めてあるわけではなけど、何となく置いてあるテーブルもある。
 この日はそこで、三脚の手入れ。脚を一本ずつ抜いて、締め付けるリングに塗ってあるオイルをいったん落として、新しいものに塗り替える。
 オイルはいろいろなものを試すけど、今回はラバーグリスを使ってみた。



 油を塗ったり拭き取ったりする際は、お手拭きでもない、雑巾でもない、台布巾でもない何となく置いてある布が妙に役に立ったりする。
 また何となく置いてあるトレイが、油が付着した布を置く場所として役にたったりもする。
 はみ出した油をふき取ったティシュを何となくおけば、その微妙な量の油が役に立つ場合もある。
 頭の中で構えて考えた自分が欲しい道具ではなくて、身の回りにあるものを柔軟にうまく使うことを重視する。



● 2017.1.18 更新のお知らせ

 2016年12月分の今月の水辺を更新しました。


● 2017.1.14〜17 立場の話



 アオダイショウを飼うことはないだろう、と思っていたのだが、撮影しなければならない生き物のリストの中に含まれていて、昨年の秋から飼い始めた。
 飼うことはないと思った理由は、恒温動物(大雑把に言うと、鳥と哺乳類)を餌として与えなければならないこと。ヘビだって食べなければ生きていけないことはわかっているけど、恒温動物にはそれなりの感情があるように僕には思えて、食べられる側の生き物の立場に立った時に、非常に心苦しいから。
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 さて、野生生物に餌付けをすることが、近年、悪いこととして批判をされるようになってきた。
 昔は餌付けが認められていた感があった。例えば、ある人が冬になると池にやってくるハクチョウに餌付けを試みて成功する。それが1つのドラマとして取り上げられたりもした。
 だが、世の中の風潮が変わってきた。
 なぜ餌付けが悪いのか?を大雑把に言えば、餌付けが生き物の本来の暮らしを変え、それが最終的に生き物たちの暮らしに悪影響を与えるという理屈だ。

 それに対して、餌付けには、人が餌を与えようと思って与える「意図的な餌付け」の他に、知らず知らずの間に餌を与えてしまう「無意識の餌付け」があり、「無意識の餌付け」の方が量としてははるかに多くて、「意図的な餌付け」なんて、大抵の場合(当然無視できない餌付けもあるけど)無視できる程度の量でしかないという意見がある。
 無意識の餌付けがピンと来ない方もおられるだろうから例を挙げてみようと思う。
 例えば人が作る田畑には、その作物を食べに様々な生き物がやってくる。
 人間の側から見れば餌付けをしているつもりはなくても、野生の生き物の側からそれを見れば餌付けと同じことであり、僕はその意見に納得させられる部分が多分にある。
 だが餌付けを悪として批判している人の中には、その説明では納得しない人もたくさんいるだろうな、と思う。
 それは、「野生生物の立場」からではなくて、「人間」という立場から物を見る人だ。
 例えば、人の社会では、意図的に人を殺すのと、そのつもりがないのに殺してしまうのとでは、まったく扱いが異なる。
 同様に、人が意図的に餌を与えることと無意識のうちに餌を与えることとは、人間にとってはかなり違ったことになる。
 つまり意図的な餌付けを否とする人たちが問題にしているのは、厳密に言うと、野生生物に食べ物が与えられるかどうかよりも、それが人の意図でなされるかどうか。餌を与えるという自分の喜びのために、野生生物が悪影響を受けかねない振る舞いをする人が怪しからんという話になる。

 僕は、誰かが怪しからんという話には、あまり興味がない。それが善だとか悪だということよりも、何がどんなしくみで起きているのかの方に興味があるから。
 つまり、社会的な観点よりも、理科的な観点に感心がある。
 ところが、ヘビにネズミを与えてみると、社会的な観点から物を見る人の気持ちが非常によくわかる。
 ある一匹の野生のネズミがアオダイショウに食べられるのと、僕が与えたネズミがアオダイショウに食べられるのとは、自分にとって全く違うこと。野生のネズミが蛇に食べられるのは当たり前のことでも、自分が与えたネズミが食べられるのは、重大な事件なのだ。
 ヘビも食べなければ生きていけないと十分わかっているつもりでも。



● 2017.1.11〜13 クラウド

 昨年末のパソコンのトラブルの後遺症がようやく一通り出尽くして、解決したと言える状態になったのではないかと思う。
 修理には結構な時間を取られ、なかなかダメージが大きかった。

 仕事で主に使用しているパソコンは2台。普段はそのどちらの機械でも、ほぼ同じ作業ができるように備えてある。
 例えばメールは両方のパソコンで受信するし、仮にどちらかが故障しても仕事には全く差し障りがないはずなのだが、昨年に限っては非常に忙しくてそうした備えがおろそかになっていたところに運悪く故障ときた。
 さすがに画像だけはどんなに忙しくても二重三重に備えてあり少々のことでは失わないが、その他のデータ関しては、復旧を試みたものの回復できないものもあった。
 内心、まあ、画像さえなくさなければいいやと思っていた部分もあるのだが、いやいや、その他のデータだって、失うと非常に面倒だった。

 復旧の過程でクラウドと呼ばれるシステムの優位性を痛感した。
 簡単に言うと、パソコンに保存してあるデータが、自動的にインターネット上にも保存されるようにするやり方だ。
 クラウドを使えばパソコンが壊れても、データはクラウド上に残る。
 さらにそのクラウド上のデータが、今度は別のパソコンに自動的にダウンロードされるように設定しておけば、2台のパソコンの中にあるデータが同じになる。
 クラウドを使いこなすには若干の慣れを要し、クラウドはクラウドで気を使わなければならないことがあって、それゆえにすべてのデータをクラウドで保存してあるわけではなかったのだが、今回のトラブルに懲りて、とにかくクラウドを使うことにした。
 僕が使用しているクラウドは、ワンドライブ、グーグルドライブ、ドロップボックスの3種類で、それぞれを用途に応じて使い分けている。

 ただ、クラウドでは保存できないデータもある。
 例えばフォトショップにはアクションという機能があり、普段自分がよく使用する一連の操作を記憶させることができる。
 そのアクションのデータをクラウドに送り、別のパソコンに自動的にダウンロードされるようにしておけば、ある一台のパソコンで作成したアクションが、他のパソコンでも自動的に使えるようになるはず。
 ところがそれを試みると、どうもうまくいかない。フォトショップは、データをクラウドに管理されることを許さないのかな?
 そうしたデータは、手作業でバックアップしたり他のパソコンにエクスポートせざるを得ない。

 他にクラウドで管理できないデータと言えば、一般的なメールソフトのデータがある。
 あるメールソフトのデータをクラウドへ送り、さらに別のパソコンへとダウンロードしても、別のパソコンでは、そのデータを開くことができない。
 そもそもメールソフトには、データを輸出する機能と輸入する機能があるが、それを使ってもE-メールのデータはうまくデータを移動ができない場合もあり、メールのデータにはデリケートなところがある。
 ただ、メールのデータは更新の頻度が高いので手作業での保存は煩わしいし、メールこそクラウドを使いたいので調べてみたところ、サンダーバード・ポータブルというソフトならそれが可能だとわかり、今日は仕事の合間にそれを試してみた。
 
 

● 2017.1.8〜10 二十数年ぶりに

 ふと、「今日は念のために池の様子を見に行った方がいいかも・・・」と感じ、急きょ、山口県まで車を走らせた。前日と当日朝の天気予報では、その必要はないと判断していたのだが、実際の天気を肌で感じてみて、予定を変更した。
 生き物や自然を相手にする場合、予定なんてあってないようなもの。当日、実際に起きる現象に、いかに柔軟に対応できる形を作っておくかがカギを握る。
 もしも、写真を撮ることになれば徹夜になる可能性が高い。それを思えば昼寝をして仮眠をとっておきたいところだが、お隣の山口県と言っても東部はそれなりに遠く、大急ぎで車に荷物を放り込んで出発した。
 内心は、多分徒労に終わるだろうと思ったので、大学時代の研究室の仲間に声をかけてみた。それならば、外れなら外れで楽しいし、どちらに転んでもいい。
 いや、どちらかと言えば外れてほしかった。というのは、大慌てで出発した結果、決定的ではないものの、幾つか忘れ物があったのだ。
 結果は外れで、人に会いにいったようなもの。顔を合わせるのは、二十数年ぶりのこと。

 大学時代の研究室の話ができる相手は、大部分の人とは今となっては付き合いがないし、ほんの数人に限られる。したがって会えば、普段、引き出しの奥にしまってあり、自力では辿れない記憶が蘇る。
 そんな時にどんな思い出が蘇るのかを分析すれば、自分が何に興味をもち、何に共感しながら生きているのかが多少わかる。
 今回は、大学院の博士課程に属していたY先輩がつぶやいた、
「大学院をやめようかな。研究に打ち込んでもお金がもらえるわけではない。」
 という言葉が思い出された。
 助手のT先生は、
「それは違うだろう。研究というものはだな・・・」
 とおっしゃった。
 僕はT先生の言うことを正しいと思ったし、今でもそう思うけど、なぜかY先輩の言葉が胸に響いた。
 その言葉のどこが胸に響いたのか?とさらに考えてみると、多分、正直さではないかと思う。
 世の中には、そういうことが分からない人が存在する。お金がもらえるかどうかでしか、物事を判断しない人が。
 でも、Y先輩はそういう人ではなかった。それどころか、お金じゃないだろう!と真っ先に言い出しそうな生き方をしておられた方がそう発言したのだから、考えさせられた。
 大学院をやめて名古屋港水族館に勤めたY先輩には、近くを通った時に、その後一度会いに行ったことがある。先輩はお休みで会えなかったけど。
 僕がそうして人に会いに行くのは、実は、非常に珍しい。
 決して誰かと会いたくないわけではないけど、恥ずかしいとでも書いておこうかと思う。
 でもたまに、その恥ずかしさを通り越して、会いに行ってしまう特別な相手もいるのもまた事実。
 大抵は、正直な人だ。
 正直な人が相手なら、こちらも気張る必要がない。



● 2017.1.6〜7 お勉強の話

 今年最初の打ち合わせ。
 あらかじめ絵コンテを受けてとっていたことを思えば、本来なら大まかに画像を選んでおくべきだったが、机に向かうとなぜか気分が落ち込んでしまい何もできなくなり、大した準備ができないままお客さんを迎える。
 ここ2〜3年、デスクワークが極端にできなくなってしまった。
 子供の頃、学校の勉強がとても辛かった。それに対して、
「今なら同じ内容が楽しく感じらるし、今の自分のまま子供の頃に戻って勉強をやり直したい。」
 と主張する方が僕の身の回りには何人かおられるが、僕は、むしろ学生時代に勉強が辛かったことに今頃妙に納得してしまう。
 当時は、みんなが努力をしているのに対して自分は怠けていると思っていたけど、今になって分かったのは、怠けていたというよりは、お勉強やデスクワークが向かないということ。
 さらに僕は早寝であり、もしも眠ることができるのなら夕刻7時や8時くらいでも寝てしまいたいのだから、学校に通ってさらに家に帰って勉強するなんて、ほぼ不可能な体質だと言える。
 なぜデスクワークが辛いのか?と問われれば、自分が生きているという実感が得にくいことがあげられる。本当は、デスクワークも生きていく上で必要なことだから、僕の気のせいなのだろうけど。

 それはともあれ、準備をしようと思うと辛くなってくるので、画像をあらかじめ選んでおかないことに何かいい点はないか?と考えてみたところ、画像をあらかじめ選ぶとどうしてもその筋書きに沿った展開に持ち込みたくなるのに対して、選んでおかなければ、柔軟に対応できることがあげられる。
 よし、ヤケクソだ。今回はそれで行こう!と。



● 2017.1.1〜5 客観的な第三者の目

 昨年は春から年末まで、延々とスクランブル体制。飲食店で言うなら人が殺到する食事時の戦場のような慌ただしさが、続いた。
 慌ただしさのあまりに、いくつかの撮影が後手に回る。すると、季節さえ外さなければ簡単に見つかる生き物が後手に回ることによってなかなか見つからなくなり、いっそうの時間がかかってしまう。
 本来の予定では夏過ぎには多少楽になるはずだったのに、楽になるどころか、季節が進むにつれてドンドン追い詰められた。
 一日に回らなければならない場所が尋常ではなく多くなり、焦って車を置いて生き物を探しに行っている間に、今度は駐車違反の切符を切られるという悪循環。
 その日は目的の生き物が見つからなかったこともあり、駐車違反の切符は堪えた。ついには、「人間やめたいな」という気持ちに支配され始めた。
 そんなある日、僕の撮影予定のリストを見た水辺のスペシャリストから、
「これを今シーズン中に全部撮ってしまうんですか!てっきり、2〜3年で撮影するのかと思いました。」
 と言われて、ハッと我に返った。
 確かに、これはなかなかの量だし、出来なかったからと言って落ち込む必要はないよな。大切なことは全力で取り組むこと。
 自分を追い込むことは時に必要だし、負荷をかけなければ出来ることも出来なくなってしまうのだが、負荷をかけ過ぎると自滅してしまうところが難しい。スポーツの世界ならコーチという存在がいて、どこまで負荷をかけるのがベストなのかを客観的な第三者の目で判断してくれるわけだが、自然写真家にはコーチはいないのだから、冷静であることが大切なんやろうな。
 ただ仲間は、その一言がフッと自分を我に返らせてくれることがあり、よく考えてみるとしばしばコーチの役割を果たしてくれる。
 ともあれ、今年は、苦しい時、慌ただしい時であればあるほど、小憎らしいくらいに冷静でありたい。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2017年1月分


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