撮影日記 2016年6月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2016.6.18〜23 心の中の引き出しに収める

 昆虫写真家の海野先生は、僕が大学生の時に会いに行って以来、いろいろなことを考えさせてくれる存在だ。初めて海野さんに会った時の後などは、話の大部分が生まれて初めての概念であり、それらが一通り心の中の引き出しに整理されるまでには、数年を要したものだった。
 海野さんの話のすべてが、「自分はこう思う」という哲学とメッセージに裏打ちされていて、何となく適当に語られた言葉は、僕が覚えている範囲では、それ以降およそ25年間で1つもなかった。

 学生生活を終え、プロの写真家を目指して修行をはじめてからしばらく経ったある時、海野先生から、
「少しは有名になってきた?」
 と聞かれて、はたと考えたことがあった。
 自分は有名になりたいわけではないよな・・・と直感的に思ったが、それで解決したわけではないことは明らであり、言葉が心の引き出しの中のどこにも収まらず、表にポンと置いたままになった。
 だがその後たくさんの仕事をこなすうちに、例外はあるものの、写真活動は「自分はこう思う」という自己主張をしてそれを分かってもらうのが第一。したがって、本人が有名になりたいかどうかとは無関係に自分を知ってもらうことが当たり前だと感じるようになった。
「少しは有名になってきた?」
 という言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。

 さて、組織には2つのタイプがある。
 一つ目は、まず組織があり規律があって、そこへ個人が割り当てられるようなケース。多くの業務を目的とする組織はこれに該当し、個は、歯車の一枚になる。
 二つ目は、個の集まりが組織であるようなケース。
 プロ野球のチームなどは、こちらに該当するだろう。
 チームに絶対的なホームランバッターが存在すればその人を核にした編成をし、小技が得意な選手が多ければ、小技でかき回すチーム作りを目指す。
 ホームランバッターにバントをせよと求めたり、小技が得意な選手に長打を求めるのは、まさに愚だと言える。
 組織は、組織に個をあてはめるのではなく、そこに存在する個を生かす努力をする。
 自然写真家のような仕事も、基本的に後者である。
 さて、昨日は編集者とプロデューサーがお越しになり、打ち合わせ。
 たった3人でもすでに組織であり、カメラマンである僕は自分の特性を前に出し、知ってもらい、そのうえで使ってもらうことが非常に重要になるが、昨日は、それがちゃんと伝わったような気がして一安心。
 いや、僕がちゃんと自己主張できたのではなく、相手がプロフェッショナルで聞き方が上手かったのかな?そんな気もしてくる。

 自然写真の世界にも例外は存在する。
 例えば学校教材向けの写真を撮るようなケースでは、カメラマンは組織の中の歯車の一枚になって、「こうせよ」と言われた通りの写真を撮る。
 なぜなら、そこで求められる写真は、誰かカメラマンの目線ではなく、こんなことを教えたいからそれがよくわかる写真を撮ってくれということだから。
 音楽で言うなら、タレントの後ろで求められた譜面通りに演奏をするセッションプレーヤー的な存在だと言える。
 今ミュージシャンとして認められている多くの演奏家も、大抵一度はセッションプレーヤーを経験しそこで技術を磨いているように、写真でも、言われた物を言われた通りに撮ることを経験するのは、大変に意味があると思う。
 ただ注意しなければならないのは、歯車の一枚になる癖がつくと、自分を前に出せなくなる。
 特に日本の社会は控え目で謙虚であることを美徳としており、いつでもそうあるべきだと人に思い込ませる傾向があるので注意が必要。



● 2016.6.17 生活をする

 絵コンテを受け取ってその通りのシーンを撮影する特撮が多いこの時期、恥ずかしい話だけど、つらいな〜と感じることも少なくない。
 しかしプロを目指して修行をしていた頃には、特撮の依頼を受けることに大変な憧れを感じたものだった。写真を撮る前からお金がもらえることが決まっているというのは、すでに持っている写真を貸し出してお金を得ることが多い自然写真の世界では少ないケースだし、いかにもプロっぽいから。
 だから初めて特撮の声がかかった時には、大感激をしたものだった。
 しかしその初めての依頼で、特撮の厳しさを思い知った。

 最初は、依頼された通りに撮るという制限が辛いのだと思った。
 だがやがて、そうではないことに気付いた。
 というのは、一旦カメラを手にすると、僕は決して誰かに撮らされているわけではなく、依頼された条件を満たすことに夢中になって撮影しているのだ。
 仮に編集者が熱心な人であろうが、なかろうが、
 乗せるのが上手い人であろうが、なかろうが、
 気が合うタイプの人であろうが、なかろうが、それで張り切ることもなければすねることもなく、僕の振る舞いが変わることはない。
 つまり誰かがどうのこうのではなく、自分がやりたいから写真を撮っているに過ぎないのだ。
 では、何が辛いのだろう?
 お金をもらうことに伴って生じる責任?
 いや、お金をもらっても辛くないケースもある。身の回りの人から、「ちょっと写真を撮ってくれない」と頼まれてお金をもらって写真を撮ったことなら何度もあるけど、もらうのがお小遣いならつらいと感じたことはない。
 結局のところは、それに身をゆだね、それで生活をするということが辛いのかな。
 野球の投手がブルペンや二軍では伸び伸びいい球を投げれても、一軍の公式戦のマウンドではそれができにくくなるのと同じように。
 15年くらい前だっただろうか?
 僕よりも一回り年上の憧れだった写真家が、生活できなくなるんじゃないかという恐怖に日々怯えながら暮らしている話を聞いて、
「何で?あれだけ実績があるやん。楽しそうにやってるやん。」
 とどうしても理解ができず、ずっと頭の片隅に引っかかっていたのだが、なるほどなぁ、こんなことなのかなと最近感じるようになってきた。
 自然写真に限らず、人が生活をする、生活をし続けるって甘くないですね。



● 2016.6.12〜16 1勝、数敗。

 アブラムシを食べるところを撮影しようとテントウムシを近くに止まらせたら、アブラムシの周りにたむろしていたアリがテントウムシに襲いかかった。
 あっという間に集まってきたアリ、凄いね。でも今日は特に忙しいんやから邪魔せんでくれぇ。
 いやちょっと待てよ・・・。これ面白いし、予定を変更して、まずはこっちを撮影しようか。後先のことは考えんようにしよう。



 あの時思いついた時にパッとやっておけば良かった、と思えることが、ここのところ幾つか立て続いた。
 その時にパッとやればできるけど、同じことをあとでやろうとすると技術的に難しかったり、時間が取れなかったりというケースは、少なくない。
 気持ちの問題もある。その時にやれば楽しくやれるのに、間を置くと義務や業務っぽくなるような。
 一方で、パッと何かに飛びつくかのように取り組むのではなく、きちんとスケジュールを立ててじっくり積み重ねることも大切。
 つまり、相反することが両方大切。

 僕の場合は、自分のここしばらくの実績をかえりみて、新しいことに取り組めていて現状維持で十分良しと思える時は計画通りにじっくり動くことを選び、逆に新しいことに取り組めてないと思える時は、計画にこだわらず目の前にあるチャンスに飛びつくことで現状を打破する選択肢を選ぶと決めている。
 が、基本的には現状を打破する選択肢を選ぶように仕向けることが多い。
 というのは、現状を打破することの方が維持するよりはるかに難しく、常にそのつもりでいなければ、新しいことに取り組むのはなかなかできないから。
 それから、自然写真という仕事の特性もある。
 新しいことがそんなに必要なの?と聞かれることもあるけど、自然写真のような世界では、現状維持はすでに新鮮さを失っているのであり、実質後退しているのと同じこと。
 それはともあれ、ここ数日で、あの時やっておけば・・・と思えたことが複数。
 あの時やっておいて良かった、と思えたことはたった1つ。
 自然写真の場合に難しいなと思うのは、あの時やっておけばよかったのあの時が、5年前とか10年前というケースも珍しくなく、長いスパンで物を見なければならないことだと感じる。
 今回のたった1つのやっておいて良かったことも、4〜5年前にある生き物の撮影で大苦戦し、次こそはと特殊な撮影セットを作成しておいたことだった。



● 2016.6.6〜11 mm単位の世界

 1〜2mm程度の小さな生き物の撮影。
 今回依頼されたのは生態写真ではなくイメージ写真なので、スタジオにセットを組んで撮影する。
 自信は一応あった。というのは、過去に撮影したことがあるシーンだったから。
 ただし、その時には簡単ではなかった。連日ひたすらに取り組んで、ようやく数枚の写真がかろうじて残った感じ。
 したがって、それなりの覚悟を決めて撮影に臨んだ。

 ところが、肝心なその生き物の姿が、僕の目にはよく見えない。老眼の影響で、苦労するだろうとは思っていたけど、想像をはるかに超えて見えない。
 小さな生き物を楊枝の先で拾って、撮影セットの中の微小な植物に止まらせることができない。
 上手くいかずに楊枝の先からポロッと零れ落ち、どこへ行ったのかわからなくなり、また別の個体を選ぶ。
 そうこうするうちに、準備をしたモデルが底をつきかける。
 難しいというようなレベルではなく、不可能かなというレベルで上手くいかない。
 前回撮影した時はフィルムだったから、あれから10年くらい経つのかな。前回は、まだ老眼の影響を感じる年齢ではなかった。
 今の僕には無理かな・・・、と仕事を引き受けたことを後悔する。いや、正確に書くと、後悔ではなくて悲しくなる。
 今からでも、なかったことにしてもらいたいなぁ。だが今更そんなことを言ったら、迷惑をかけてしまうよなぁ。
 福岡まで打ち合わせに来てくださったもんな。
 これから仕事を引き受ける前には必ず絵コンテを見せてもらい、小さなものの撮影が含まれている場合はもう引き受けられないかな、としばしクヨクヨ。

 さて、どうしたものか?
 まずはコンタクトレンズを変えてみることにした。
 コンタクトレンズで近視を補正すればするほど、老眼がひどくなる。そこで、以前買ったものの度が弱くて使わなかったレンズを入れてみたら、確かに近くが見やすくなるが、1〜2mmの物体を自在に操るには焼け石に水というレベル。
 次に、コンタクトレンズを外してみた。
 そして小さな生き物を見てみると、非常によく見える。
 しかし今度は近視の影響で、カメラのファインダーを覗いてもボケボケ。
 カメラの視度調整ダイヤルを回してみるが、近視が強過ぎて対応できない。
 しかたがないのでぼやけたままピントを合わせてみたのだが、mm単位の動き回る物体にピントを合わせることができない。
 そうだ!昔、カメラのファインダーの取り付けるタイプの視度調整レンズを買ったよな。
 最近のカメラは、ファインダーに視度を調整する機能が組み込まれていて、多少の近視や老眼ならそこで見え方を調整できるのだが、昔は補正レンズを取り付けていて、僕はそうしたレンズを一通り揃えていたのだ。
 カメラに備わっている視度調整機構とあいつを組み合わせれば!
 早速取り付けてみると、カメラの像はクックリで問題解決。もう使わないだろうと思っていたのだが、捨てなくて良かった。
 今僕が主に使用しているニコンには昔からそうしたアクセサリーが充実していて、その蓄積が今になって、ここぞ!という時に物を言うケースがたまにある。
 やっぱ、ニコンいいわぁ。
 ちなみに、最近のミラーレスカメラでは、プロ用の機種にもその手のアクセサリーは準備されていないし、それが僕がニコンのデジタル一眼レフをメインに使う大きな理由の1つだ。

 ともあれ、コンタクトレンズを外すと、10年前のまだ老眼が気になりだす前にコンタクトレンズを入れた目でその生き物を撮影した時よりも良く見える。
 なるほどねぇ。
 老眼が苦になるような年齢じゃなくても、コンタクトレンズを使うことで小さなものを見ることに関しては損してるんだ。知らなかった。
 裸眼ってスゴイね。
 見えると、微細な生き物を楊枝の先端でちょっとずらしてみたり、向きを変えてみたりの作業が楽しい。
 このやり方なら、あと10年くらいは問題なくミリ単位の生き物に対応できるかな。とにかく、一安心。
 スゲーやり方を編み出したぞ!



● 2016.6.4 更新のお知らせ

5月分の今月の水辺を更新しました。



● 2016.6.2〜3 いろいろな上手いがあるけど



 昔、ナショナルジオグラフィック誌で、ある一枚の優れた写真が本編では使用されなかった理由が紹介されていて、カメラマンとして、編集者の意見に大変に興味を感じながら読んだ。
 使われなかったのは、雪の中のキツネの写真だった。
 編集者もお気に入りの大変に雰囲気のある一枚だが、他の写真と似通っているという理由で、使用しなかっただそうだ。
 似通っているってどの程度なのかな?と指摘されたページを開いてみると、色の傾向は似ているものの、僕の目にはかなり違う写真に見え、厳しいなぁと痺れるような思いがした。
 僕がそのカメラマンなら、理解ができないだろうと思った。
 本の場合、ページを開くことに違う印象の写真が出てきて変化があるのは、とても重要なこと。
 一言で「写真が上手い」と言っても、いろいろな上手いがあるけど、一枚一枚の写真を似通わないように撮れる人は、引き出しが多い、上手い人だと思う。
 その点、最近何となく苦しんでいるのが、新しい写真を撮影しても、過去に自分が撮影した写真と似通ってしまうこと。
 そこで今試みているのは、自分が独力で撮ろうと思えば撮れる被写体でも、その生き物をよく見ている人に案内してもらうやり方だ。
 そして、黙ってその人の話を聞いて、お話の通りに撮影してみる。
 知っていることでも、ああ、そうなんだ〜と黙って聞く。
 すると、生き物を見る切り口がやはり自分とは違うものだから、自然と自分が過去に撮影した写真とは違った写真が撮れる。
 大切なのは、とにかく黙って相手の話を聞くこと。
 カメラマンは自己主張しなければならない仕事なので、習慣上、つい自分がたくさんしゃべってしまうのだが、そうなるとその場が自分のリズムになり、過去に撮影したものと同じような写真を量産しやすい。
 さて、生き物たちのために手入れされた田んぼにお邪魔して、イモリの話をしてもらった。



● 2016.6.1 人生ゲーム



「ねぇ、人生ゲームしよう。」
 というので、勝負してきた。
 序盤は僕の借金だらけで大敗ムードであったが、後半、次々と高額なお宝を手に入れ、見事に逆転。」
 悔いが残るのは、証券マンになるチャンスがあったのに、もっと給料が高い仕事にと欲を出した結果職に就くチャンスを逃し、最後までフリーターで過ごしたこと。
 それはともあれ、今年はなんだかプレッシャーに押しつぶされそうで、ここのところ非常に苦しい感じがしていたのが、ゲームに夢中になり、やがて気が付くと随分心が楽になっていて救われた。誘ってくれてありがとう〜。
 サンダルに水を汲んで、田んぼの水路でじゃぶじゃぶ水を浴びる少年は、どんな大人になるんやろうなぁ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2016年6月分


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