撮影日記 2016年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2016.5.30〜31 釣り糸の話



 TORAYに銀鱗という釣り糸があるが、いいネーミングだなぁと思う。
 銀鱗という名前を聞いただけで、ギラギラ、ピカピカした魚の鱗が頭に浮かんできて、やらたに魚の姿を見たくなる。
 銀鱗は僕の釣りの用途には合わないので、あまり使ったことはないのだが・・・

 僕が子供の頃には、銀鱗ソフトという製品があって、そちらは良く使用した。
 銀鱗よりも柔らかいため、切れやすく絡みやすいという弱点はあるが、ルアーを投げる際にしなやかで糸の抵抗が少なくてコントロールをつけやすく、遠くまで正確に飛ばすことができた。
 渓流でのルアー釣りの場合、時には数十メートル先の、悪くても1メートル×1メートルくらいの範囲に針を落とさなければならないので、コントロールが付きやすいというのは非常に重要なことなのだ。
 それから、無色透明な銀鱗に対して、ソフトの方は紫色の蛍光色を発するため、糸がどこにあるかが良くわかり、水中を泳ぐルアーが非常に見つけやすく、障害物を避けたり、上手く流れに乗せるなどの操作がやりやすかった。
 ルアー用と言ってもいいような糸だったが、TORAYが特にそれを謳っているのは見聞きしたことがない。
 当時はデュポン社のストレーンという糸がルアー釣りのスタンダードだったが、銀鱗ソフトは多分、ストレーンを意識して作られた製品だったのではなかろうか?ストレーンと非常によく似た性質の糸だった。
 ストレーンの方は若干高価で、大きなお店に行かなければ取り扱いがなく、子供が使用するには敷居が高かった。
 その後、銀鱗ソフトが手に入りにくくなり、ユニチカのハイループを使用するようになった。
 ハイループには銀鱗ソフトやストレーンと違って色がついてないのだが、釣りが上手くなってくると、糸に色がついてなくてもどこに針があるかが感覚としてわかるようになり、色付きである必要はなくなった。
 ともあれ、渓流でのルアー釣りのような、投げてはリールを巻いてを繰り返す上に細密なコントロールが要求される釣りの場合、糸の性能は非常に重要であり、銘柄にこだわらなければならないアイテムなのだ。
 写真で言うなら、フィルムか画像処理ソフトに該当する。

 TORAYも、ユニチカも、いずれも当時日本が強かった繊維の会社。当時はバレーボールのチームを持ち名選手を次々と輩出するくらいの経済力があったのだが、繊維産業が弱くなり、ユニチカの方はその後廃部になった。
 TORAYやユニチカの製品を特別な思いを持って愛用した人間としては、その時代の変化に、ジーンと感傷的になってしまう。



● 2016.5.24〜29 連敗中

 つい先日、ある生き物の卵を撮影できるか?と依頼があった。与えられた期限は、長くない。
 そこで過去に撮影した画像を見直してみたら、依頼にこたえられるような品質のものはなかったものの、現場の記録写真が残っていて、日付から判断すると今の時期にも卵があることがわかり、探しに行ってみた。
 結果は、二日間探して、一匹だけ明らかに今年生まれの個体が見つかったのみで、卵を見つけることはできず。
 そこで詳しい人に、もしも見かけたらキープしてもらうようにお願いしたら、産卵の本番は8月以降ではないかと教えてもらい、すぐに撮影できる可能性は低いと判断。
 しかたなく、
「もしも卵が見つかったら撮影しますが・・・。」
 と前置きしつつ、当面依頼には応えられないことを先方に伝えた。

 クヨクヨしている暇なんてないぞ!と次はある生き物の産卵シーンの撮影に取り組む。
 こちらは万全の準備で、カメラを構える前から、撮影はほぼ100%成功と楽観。
 カメラマンは一枚でも写真が撮れると盛り上がって前向きになれるし、少々の失敗はすっきり忘れてしまう。したがって、何かが上手く行かなかったあとは、何でもいいので、きちんと写真を撮ることが重要。
 ところがその日に限って、どうしても目的のシーンがみられず、またも諦める。
「え〜なんで〜?」
 とドカッと疲れが押し寄せてくる。
 
 昨日は、編集者が福岡にお越しになり、ある生き物の撮影にチャレンジ。
 ところがこれまたどうも季節があるようで、目的のシーンは撮影できず。
 いや、撮影できずというよりは、ちゃんと見ることもできなかった。
 こうなると、永遠に何も撮影できないような気がしてくる。
 どうも、流れが悪いぜぇ〜。



● 2016.5.21〜23 セマルハコガメ



 今回の西表島取材は、日数とノルマの量から判断して、そんなに困難ではないはずだったのだけど、ゴロゴロいるはずのセマルハコガメが最初見つからず時間を取られてしまった結果、決してゆとりがあるとは言えない取材になった。
 難しい生き物が見つからないのなら焦ったりはしないものだが、たくさんいるはずのものが見つからないのは、さすがに焦る。
 下手したらぼうずか?と内心覚悟をしつつも、セマルハコガメは見つからないでは許されない生き物だよなぁ〜と思う。
 最初の一匹は、車の助手席に座って一緒に探してくれた西表在住の吉崎雄一君が、
「これは完璧な天気。」
 と表現した、雨上がりに急激に日差しが挿してきたタイミングで見つかった。
 すぐに、さらに一匹。
 翌日も数匹、さらに翌日も数匹見かけたことを思うと、見つからなかった最初の数日は何だったんだろうな?
 まあ、生き物って、元々そんなものなんですが。



● 2016.5.18〜20 物

 北九州出身の魚部仲間で、今は西表島に住んでいる吉崎雄一君に、島のフィールドを案内してもらった。
 吉崎君の仕事が一段落する13時に待ち合わせをして、夜は24時ころまで。
 魚部出身らしく、スケールの大きな水辺以外に、
「ここに小さな湿地があるんですよね。」
 と小さな水辺まで案内してもらう。
 白バック撮影用の生き物を入れておくバケツが欲しかったので、蓋つきのものを1つ貸してもらう。 バツは嵩張るので現地で買おうと思っていたら、予想以上に島には物が乏しく、バケツが売られてなかったのだ。
 バケツが売ってないくらいだから、船で石垣島へと渡り一泊をして買い物をするのは、島の人たちの大きな喜びらしい。
「吉崎君も石垣へ行って買い物するの?」
 と聞いてみたら、
「いえ、僕はこの島にあるものだけで十分です。」
 と返ってきた。
 カメラは、ある部分物欲の世界でもあり、一方で人の物欲が自然を損なわせることに結び付いていることを思った時に物との付き合い方に関しては考えさせられるだけに、吉崎君の言葉はたいへんに印象的だった。
 僕は、ずいぶん機材は買った方だと思うが、最近は物を減らす方向へと向かっている。
 決して物欲を否定するつもりはないけど、金や物でブイブイ言わせた撮影はしたくないなと思いが強くなってきた。



● 2016.5.10〜17 入り口としてのカタツムリ

 16日〜21日は、離島での取材。
 今回の取材の目的はカタツムリではないが、初めての場所では、まずはカタツムリ探し方始めることにしている。
 僕にとってカタツムリは見慣れた生き物であり、スッと観察に入っていけるし、いったん心が観察をする態勢に入れば、いろいろな生き物が目に飛び込んできやすくなる。観察の入り口のようなものだと思ってもらえればいい。
 滅多に行けない場所での撮影では、集中するまでの時間をいかに短くするかは重要。
 
 そうした観察の入り口としては、適する生き物とそうでない生き物とがあるが、カタツムリは身近な場所から自然度が高い場所まで、種類を問わなければどこででも見られるため、非常に適する。
 それから、かたつむり探しは、他の生き物を探すことを妨げない。
 たとえば野鳥などの場合だと、基本的に数メートル以上先を探すので近くが見えなくなってしまうし、大多数の生き物を見落としてしまうので、入り口としては適さない。
 そして何よりも、カタツムリは地域が変われば種類が違うので、どこで探しても刺激があるのもいい。
 どれくらい地域差があるか?と言えば、隣の隣の県まで行けば、しばしばガラリと種類が変わるくらいに違う。
 逆に、全国のカタツムリを、それを目的にざつと探そうとすると、あまりに膨大過ぎて敷居が高く感じられる。
 カタツムリの楽しみ方のコツは、あまり肩ひじ張らずに、狭い地域をまったり見ることだと思う。
 ともあれ、カタツムリを趣味にすると、幸せになれますよ。
 昔知人から、小さくて確かな幸せを意味する「小確幸」という村上春樹さんの造語があると教わったことがあるのだが、カタツムリは自然界の「小確幸」だと思う。



● 2016.5.9 更新のお知らせ

今月の水辺を更新しました。



● 2016.5.6〜8 少年の日の思い出


カゼトゲタナゴ

 子供の頃、うちの近所で採れたタナゴは、バラタナゴとカゼトゲタナゴ。
 そのうち採りたかったのは、チンダイと呼ばれていたバラタナゴだった。鮮やかな繁殖期の体色。ラクダのように盛り上がった背中と平たい体は、憧れの存在だった。
 カゼトゲタナゴの方は、地味目で、小さくて、こいつじゃない、と言った感じのついでに採れる奴。
 ところがそのカゼトゲタナゴを今スタジオで撮影してみると、実に美しいのでビックリ。
 とくに地肌がきれいな感じがする。
 写真撮影には時間がかかるが、その分物をじっくり見る機会になるし、じっくり見て初めて気づくことが多々ある。
 写真って、面白いな。

 ところで、僕が子供の頃に見ていたバラタナゴは、従来から日本に住んでいるニッポンバラタナゴだったのだろうか?
 それとも、移入種のタイリクバラタナゴだったのだろうか?
 僕の記憶の中では、背中の盛り上がりが非常に大きく、それはタイリクバラタナゴの特徴だと思い込んでいたのだが、先日、魚類の研究者である中島淳さんから、必ずしもそうではないことを教わった。
 体高がより低いと記載されることがあるニッポンバラタナゴでも、遺伝的な多様性が高い場所では、見事な体高の個体が見られるのだそうだ。
「それってどこで採れます?」
 と聞いて教わった地域に行ってみたら、確かに、見事な体高のニッポンバラタナゴが採れた。



● 2016.5.1〜5 生きている被写体、死んでいる被写体




 たとえ図鑑的な用途の写真であっても、僕は、標本ではなく、生きている生き物を撮影することにしている。あるいは麻酔で動けない生き物より、撮影は厄介でも動く生き物がまさに動いているところを撮影する。
 標本や麻酔を否定するつもりはないし、場合によっては自分もそうすることだってあり得る。
 例えば魚の写真を撮ってみると、標本化したり麻酔をかける理由がよくわかる。すべてのヒレやヒゲなどが一枚の写真でしっかりわかるように撮影するには、そうせざるを得ない。
 ドジョウみたいな地面に横たわる魚なら、普通に写真を撮ると、地面と接するヒレはよく見えなくなってしまうし、ヒゲが5対10本あると言われても、すべてのヒゲが見えるわけではない。
 だけど、その手の写真は、基本的には研究者に任せておけばいいし、自分が積極的にすることではないと思う。
 ヒレをしっかり見せたいなぁとウズウズしつつ、ドジョウでも、宙を泳いでいるところを撮影すれば、標本ほどではないにしても、そこそこヒレの形が分かるので、それで良しとしている。

 標本にしたら魚がかわいそうだから?
 それもないわけではないけど、じゃあ麻酔なら死なないからいいじゃないと言われると、麻酔にも抵抗がある。
 標本や麻酔がいやな一番大きな理由は、読者を裏切りたくないということ。
 随分前の話だが、知人の写真展を見に行ったら、鳥のはく製をまるで生きているかのようにおいて撮影した写真があり、そう思い込ませる解説が書いてあって心底ガッカリしたことがあった。
 逆に、写真を見る側の人が標本にカメラを向けることを受け入れてくれ、そうした前提で写真を見てくれる状況なら、別に標本にしてもいいと思う。
 さらに標本が求められる状況、例えばいよいよ本格的な図鑑を作る場合なら、むしろ標本の写真がないのはガッカリだ。

 おのずと撮り方が違ってくる。
 僕は、生き物が生き生きと見えるように撮影するが、これは生きている生き物を相手にしているからであり、標本でそれをやると、見る人をだます行為になる。だからもしも標本を撮影する場合は、形や色がより一層よくわかるように、説明的に写真を撮ることになる。


   
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