撮影日記 2016年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
・今現在の最新の情報は、トップページに表示されるツイッターをご覧ください。
 


● 2016.4.27〜28 写真の記録性の話



 僕が物心ついて以降、武田家には常に柴犬が飼われていた。中でも、ユミという雌は、太郎との間に何度か子供を産んだ。
 子犬は元々可愛い存在ではあるけど、自分の家で生まれ、母犬の元にいる子犬たちの可愛さは桁違い。

 特によく記憶に残っているのが、この写真の仔犬たちだ。
 当時僕がコンパクトカメラで撮影した写真の中に、何枚か日付が入っているものがあり、この写真が撮られたのが1980年の夏だと分かった。
 僕が小学校の6年、妹が4年、弟が1年生。全員で同じ学校に通い、兄弟で一番良く遊んだ時期と重なっており、この頃の出来事の印象が特に深く、この時の仔犬の記憶が鮮明なのも自然なことだろう。
 日付が分かることで、写真を見る楽しさが何倍にも膨らんだ。
 実は、武田家では写真の中に露骨に数字が入ることが嫌われていたので、日付入りの写真は少ない。僕も当時日付は好きではなかったのだが、どうしたらオフにできるのか、分からなかったのだと思う。
 武田家で日付が好まれなかったのは、父が趣味として写真を撮っていたからだと思う。
 写真はキレイであるべきものであり、その中に数字や文字を記載するなど無神経でセンスがないということ。ある程度以上本格的に写真を撮る人で、日記的な作品作りをする人を除き、写真に日付を刻む人は少ない。

 デジタルカメラになってからは、画像が日付の情報も持つようになった。パソコンでファイル情報と呼ばれるものを見れば、撮影の日時が分かるようになった。
 ただ今の僕は、写真の上に無神経にも刻まれた日付にも、写真の持つ記録性という部分に関するある種の主張を感じ、それなりの良さがあるとも思う。
 無神経ではあるけど、無神経だからいいというのか・・・。





 この時に生まれた子犬は、確か4匹だったが、僕らは3人兄弟。
 3人が一頭ずつお気に入りを選んで遊ぶと、一頭余りが出る結果、3頭しか写真に写ってないのかな?

 この犬たちを連れて、車で30〜40分離れた母方の祖母のところに遊びに行き、その日いとこのかずちゃんに犬を見せて、あたりをぶらぶらと散歩した記憶がある。
 恐らく、お盆だったんじゃないかな。
 犬は上の写真に写っているよりもまだ小さかったけど、一応しっかりとした足取りで散歩ができるくらいだったので、少なくとも生後30日は過ぎ、35〜40日くらいだったのではないかと思う。
 仮にその日がお盆の最終日の8月15日だとして、80 8 28 と刻まれた上の写真はさらに2週間ほど過ぎていることになるので、生後48日から53日くらい。



● 2016.4.25〜26 フィールドに潜む危機

 魚の採集中に、特に何をしたというわけでもないのに、突然に腰が痛くなった。
 最初はちょっとじっとしておけば治ると思ったが、痛くなってきて、最後はまともな日常生活が送れないレベルになった。
 生まれて初めての体験。
 いわゆる「ぎっくり腰」の症状で、動こうとすると、ビリビリと電気が走るかのように痛む。かろうじて1人で帰宅できるレベルだったが、もうちょっと程度がひどかったなら、介助なしには動けなかった。
 もしも山の中などで単独行の最中にそうなったなら・・・今回は同行者もいて気楽な状態だったので、運が良かった。

 フィールドではいろいろなアクシデントが起きる。
 ただ、余程に運が悪くなければ、いきなり大きなトラブルには見舞われないもの。今回のような、そうなる前の小さな予兆は、有効に生かしたい。
 撮影中には通信の道具を持ち歩かないこともあるが、これからはちょっとそこらでの撮影でも必ず持ち歩くようにしようか。
 その数日前、磯で撮影中には、胴長と呼ばれる胸までの長さの長靴の片足が岩の隙間に入り込み、抜けなくなった。
 ちょうどアメフラシが4匹集まって交尾の真っ最中。抜けない足をそのままにして、まずは写真を撮った。
 撮影終了後、数分間、足をあらゆる方向に動かし続けたら、スポっと抜けた。
 その日は、まだ潮が引いている時間帯だったので恐怖を感じることはなかったけど、ギリギリの満ち潮の状況だったなら、岩にはさまったままの長靴を脱ぎ捨てて素足で退避するしかなかっただろう。
 下手をすると、靴が抜けないどころか、中の足も抜けないような状況だってあり得る。磯で写真を撮る時には、足をつく場所に要注意やなぁ。

 件のぎっくり腰は、発症翌日には「ギャー」と発狂したくなるようなビリビリする痛みはなくなったものの、とにかく姿勢を変えようとするたびに痛む状態。
 たかが車に乗り降りするのに数分を要し、最低限の用事を済ませた後はひたすらに寝て過ごした。
 そして今日、発症翌々日は、この日記を更新できる程度に改善。
 面白いなと思ったのは、昼間にどれだけ眠っても症状は改善しないのに、夜眠った後は確実に良くなっていること。
 僕は学生時代に、生き物と光の関係、生き物の体内時計をテーマにしており、生き物にとって昼と夜は体の中が生理的に異なる状態にあり、夜は単なる地球の日陰ではないこと。つまり例えば同じように寝ても、昼と夜とでは中身は違うことをいろいろな論文で読んだことがあったけど、まさにその通り。
 ともあれ、そんな中でのささやかな喜びは、朝目を覚まし、「お〜多少良くなっとるやん。」と症状の改善を実感することで、明日の朝がまた楽しみだ。



● 2016.4.19〜24 タイトル

「本のタイトルを先に決めようよ。」
 と先輩がアドバイスをしてくださった。
 なるほどなぁ、と思い当る節があった。僕は過去に本作りで、タイトルに納得できたことがないのだ。
 そうなってしまう理由は、先に写真を撮ってからタイトル決めようとしていたからで、先にタイトルを決め、それに向かった本作りをするというやり方があるのではなかろうか?

 本作りの過程で、パートナーがいい言葉を選んでくれたことならあった。町のゴミだらけの水路を取り上げた本に、構成を担当したボコヤマクリタさんが、「ゴミ水路水族館」と名付けてくれた。



 上手い言葉を選んでくれたものだな、と喜んだ。
 だがその言葉が写真を撮っている段階で先にあったなら、もっとゴミ水路水族館な本が作れたのではなかろうか?

 実は言葉に関しては、一時期、考えたことがあった。今森光彦さんの「里山」とか三好和義さんの「楽園」と言った言葉に触発されたのだった。
 当時は、それによって自分をより知ってもらえる、と考えた。
 結局上手い言葉が見当たらず、放置してしまった。
 僕は元々一人でいたい気持ちが非常に強くて、人に自分のことを知られたくないので、その自分の性格に反して自分のことを知ってもらうための言葉を最後まで探し続けることはできなかった。
 だが言葉には、自分を知ってもらう役割り以外に、先に言葉があることで出来てくる本が違ってくる、つまり本作りをする自分を変える力がある。
 その一番重要なところが、理解できていなかった。
 昨日またも、タイトルを指摘された。
 某所にプレゼンして採用されたなかった資料に関して、僕がタイトルにつかった言葉がピンと来ないと指摘をされた。
 ス、スルドイ!
 確かに僕は写真を先に決め、最後に「まあ、こんなもんでいいかぁ」とタイトルを決めた。

 タイトルを重視しないのは、多分、父の影響ではないかと思う。
 僕の父は、本を買うと、カバーや帯を取り外し、そんなものがあっては読みにくい、と何の躊躇もなく捨ててしまう。
 父にとって大切なのは、中身の文章のみで、その本のタイトルはほとんど覚えてないだろう。
 それをずっと見ていた僕が本作りに関わって最初に驚いたのは、表紙やタイトルや帯が大変に重視されることだった。



● 2016.4.15〜18 可もなく不可もなく



 すべての写真の仕事がそうというわけではないけど・・・
 自然写真のようなジャンルの場合、生き物を説明できているかどうかよりも、その写真に説明以上のワクワクがあるかどうかが肝心。

 求められたものがちゃんと写ってはいるものの、その写真をパッと見た時に、ハッと人の心を動かす何か写っているわけではなく、言うならば可もなく不可もなくという写真は、時に最悪。
 そんな写真なら、悪い写真の方がまだまし。
 悪い写真なら、写真を誰かにプレゼンした際に、「ここが悪い」と拒絶してもらえる。そして拒絶してもらえれば、カメラマンの側から見ると次の局面が開ける。
「ピントが悪い」と指摘されれば、ピントの精度を上げればいい。
「暗い」と言われれば、明るい要素を加えていけばいい。
 ところが可もなく不可もなくの写真の場合、相手も単純に拒絶することができず、「では企画会議にかけてみます」などと受け取ってはくれるものの、結局、「企画が通りませんでした」と忘れた頃に作品が返却されるだけ。
 そんな返され方をした企画は、どこが悪いという箇所を見いだせないから次の一手の打ちようがないし、そこで宙に浮いてしまう。宙に浮くと、それまで撮影した時間や労力が無駄になる。

 一般に、真面目に取り組もうとすると、可もなく不可もなくのものを量産しやすい。
 真面目というのは世間の常識に反しないということであり、みんなに想像できやすいということ。みんなに想像できるということは、新鮮さがないということで、可もなく不可もなくになりがち。
 逆に言うと、写真や生き物の世界で人に感動を与えるような成果を上げる人は、みんなどこか常識が欠如した変わり者だし、その中には一般的に言うと付き合いにくいと言われるような人も少なくない。
 だが僕にとっては、写真や生き物さえ好きであれば、その人が常識的かどうかなんて関係なし。自然写真のような世界には、そうした変わり者の居場所という役割もあり、そうした役割は小さくないと考える。
 
 その変わり者の居場所、変わり者の楽園に常識を持ち込もうとする人の方が、むしろ危ない。常識は正論なだに、相手は自分が正義だと信じ込んでいるからめんどくさい。
 真面目であることが悪いと言いたいのではなく、役所に勤めるのなら、むしろそうした人が適すると思うし、あくまでもTPOの話。
 面白いなと思うのは、一見変な人で「俺は破天荒だ」と自ら主張する人でも、実はくそ真面目な人もおられるし、その逆もあるということ。



● 2016.4.14 外来の生き物

 外来の生き物を駆除する際に、可愛そうだという意見がある。
 だが放っておけば日本在来の生き物がダメージを受ける。だから、外来種の駆除をかわいそうだと主張する人は、ある一面だけしか見ていないという批判があり、僕も基本的にはそう思う。
 厳密に言うと、「外来の生物の駆除はかわいそうだ」という意見と、「それを放っておくと日本在来の生き物がダメージを受ける」という意見は全く別の問題であり、どちらが正しいなどと決められる問題ではない。
 だが、人は本来比較できないものどうしを比べ、どちらかを選ばなければならないこともある。
 
 僕は外来の生き物の駆除に抵抗はない。
 けれども、それを「可愛そうだ」と主張する人も、人間の社会の中には必要なんだろうなと思わせられる機会はある。
 例えば、僕の身の回りのそう主張する人には、弱い立場の人に共感する気持ちが大変に強くて、つらい状況に立たされている人を放っておけない人が多い。そして、そうした感性の人が果たしている役割も、社会の中では決して小さくない。
 外来の生き物を論じる際の、生態系などという概念や、科学の目で見てこうあるべきだという考え方は、あくまでも科学の世界において正しいということであり、それが即=人間社会の中で正しいというわけではない。
 その証拠に、現代社会では、必ずしも科学的な主張をしているとは言えない宗教の自由が認められている。
 平均して言えば、科学的な意見には多くの人が賛同しやすいのでより多くの人が納得できるケースが多いと思うけど、科学的だから、あるいは専門家がそういうから正しいのではなく、そうした情報を参考にしながら、最後はみんなで決めることになる。
 軍事の専門家の意見などを聞いていると、多くの人が、日本も核武装の検討はすべきと主張するが、専門家がそう言うのだから、多分正しいのだろうと思う。
 だがそれは軍事の立場から物を見た時の話しで、専門家とはそういうものであり、最終的にどうするかはみんなで決めるべきこと。自然の問題も同じこと。
 みんなで決める時には、判断の材料が必要になる。
 だから、生き物が好きで自分の主張がある人は、判断の材料を提供することが大事。でも、それはあくまでも他人が判断をする材料であり、絶対的に正しいと思い込まないことも大事。



● 2016.4.12〜13 恩師の言葉

 生物学の学生時代、大学3年から4年に上がる時に、僕らの学科では毎年ひと悶着あることが知られていた。研究室を選ぶ際に、各研究室の受け入れ可能な人数の関係で希望がかなわない人もいて、いかにそれを決めるかでドロドロの話し合いになるのだった。
 そうした話し合いの担当教授だった僕の恩師は、
「どこの研究室だって同じ」 
 と主張しておられた。理由は、どの研究室に属しても生物学をやることには違いなく、したがってなるべく学生の意見は聞きつつも、希望がかなわない人がでることに教員の側がそれ以上の配慮する必要はないと主張しておられた。

 僕はそれに対して、当時、「違う」と感じた。だから話し合いの場で、
「僕が興味を感じている動物の行動の研究と生化学とでは、生物学と化学くらい違うように思います。」
 と意見を述べた。
 先生の返事は思いがけなかった。
「今発言したの誰だ!その通りなんだ!生化学は化学だよ」
 と。
 だが、
「でもうちの大学の生化学は、生化学という看板になっていますけど、内容は生理学ですよ。生物学です。」
 と話は続いた。
 それから、25年以上の月日が流れ、あの時先生がおっしゃったことを「なるほどな。」と感じる機会が増えた。
 例えば、僕は海の生き物にはほとんど興味がなくむしろ海では撮影したくないと思っていたのに、撮影の依頼が寄せられそれを引き受けてやってみるうちに、面白いと感じるようになってきた。
 海であろうが淡水であろうが陸であろうが、どれも「生き物の撮影」であり、何でも面白いじゃないかと感じるようになった。
 自分はこれが好きとか嫌いに執着し過ぎるより、目の前にあるものの面白さを素直な気持ちで見出せることの方が大切であるような気がしてきた。
 多分恩師は、そんなことをおっしゃっていたのではなかろうか?

 恩師の言葉で他にとても印象深いのは、
「生き物が好きと生物学が好きは別のことです。」
 というものだったが、これも近年非常によく意味が分かるようになった。
 大学時代の仲間で今でも研究を続けている連中とたまに話をすると、その違いを痛感させられるのだ。
 連中が執念を燃やすのは、生き物に関するまだ未知のメカニズムを解明する研究であり、それと例えば生き物を見に行きたい=生き物が好きは、全く別のことなのだ。
 生物学の研究者でも、全体の数から言えば、野外に出て生き物を見つめて、「あ〜おもしろい!」
 と心底感じる人は、むしろ稀な少数派の変わり者。
 また、生き物が好きでかつ生物学が好きという数少ない研究者だって、両者の区別はしっかりとつけているものだ。
 先日生物系に進学したある若者が、
「同級生の中で、生き物を見に行くことを趣味にしているのは自分だけ。」
 と話してくれたのだが、僕も学生時代同様であった。入学してから卒業するまでの間、毎日のように開けても暮れても生き物を見ていたのは、学年で僕だけ。
 ともあれ、生物学が好きと生き物を混同していると、生物学の学生が研究室を選ぶ際に僕の恩師が言った、「どこの研究室だって同じ」 という言葉の意味は理解できないだろう。
 そういう意味では、何の被写体であろうが、生き物を撮影している限り楽しいと感じられる僕は、虫屋とか鳥屋といったジャンルにカテゴライズされる虫好き、鳥好きではなく、自然写真が好きなんだろうな。



● 2016.4.8〜11 一番撮影が難しかった生き物



 アメフラシの実物を見ると「なんと不思議な生き物!」と何度でも嬉しくなる。ところがカメラを水に沈めて写真に撮ると、アメフラシは背景に溶け込む能力に長けていて、その不思議な姿の魅力は写りにくい。
 そうしたタイプの生き物は、白バック写真が面白い。
 今回は、その白バック写真を現場で撮ってしまおうと、大きな水槽と撮影セットを車に積み込んだ。
 現場で撮影してしまえば、、生き物を持ち帰りまた元の場所へと返しに行く手間が省けるし、途中で死んでしまうのではないか?などと心配する必要もない。

 水槽を使った撮影の場合、水を大量に汲む必要があるので、海辺のすぐそばまで車が行ける場所がいい。かつ、アメフラシが大量にすんでいる場所はどこかな?と検討していると、知人が「いい場所がある」と案内してくださった。
 陸上の生き物ならたまに現場で白バック写真を撮るが、水槽での白バック写真は初めて。
 したがっていきなり動く生き物の撮影はしんどいだろうと、岩にくっついていたウニを剥がして試し撮りを試みる。
 すると、納得できる写真とは程遠く、やり方にかなりの改良が必要であることが判明。現場での撮影は諦め、生き物を採集して持ち帰ることにした。
 ウニならチョロイと思っていただけに、出鼻をくじかれた感じだ。



 帰宅後に、スタジオでまずは件のウニの写真を撮ってみると、設備が整ったスタジオでもなかなか写らないことが分かった。
 とにかく黒が潰れてしまい、真っ黒い丸い部分に棘だけが生えている写真になる。
 思いつく限りのあらゆるライトを試すが、黒が上手く描写できない。黒のディテールを出すと、全体のバランスが崩れる。
 なるほどなぁ〜。現場で白バック写真が上手く撮れなかったのは、ノーハウの問題もあるけど、ウニが難しい被写体だという面が大きかったかな?僕が過去にスタジオで撮影したことがある生き物の中では、ムラサキウニは、頭一つ抜けて難しい。
 陸に挙げると撮影は簡単で、きれいに描写できるし、多分そちらの写真の方が売れるだろう。
 だが陸では、ウニは、棘とは別にある細い触手を隠してしまう。
 標本的な写真であっても、原則として生きているものにカメラを向けることにしている僕としては、水中で、細い触手を伸ばしているところを撮りたいのだ。



● 2016.4.2〜6 最近興味を感じたニュース-1

 どこかの中学の校長先生が、卒業する学生に向かって、
「女子は将来子供を二人以上産むように。仕事は子供を産んでからでもできる」
 といった趣旨の発言をして、非難された。
 非難の理由は、子供を持つかどうかは個人の自由であり、そうしたことに関して校長という公の立場にある人がとやかく指示をするべきではない、と言ったところか。
 くだらねぇなぁと思う。
 発言の内容にかんする是非は別にして、校長先生が話すことなんて、あくまでもその先生個人の考えに決まっているじゃないかと思う。
 校長先生の話に限らず、人の話はあくまでもその人の考え。そう思って話を聞くことを、普段から教えておくべきじゃないかな?
 先生が言うことは、あくまでもその先生の考え。
 親が言うことも、あくまでも親の考え。
 そうした意見を、参考にすることは大切だと思うけど。

 個人の考えを述べてはならないのなら、校長先生の話の代わりに、国家が定めた指導要領を録音して流したり、印刷して配布すればいい。
 でも、そんな話は恐ろしく退屈だろうな。
 実際、自分が学生時代、それからその後講師として高校で理科を教えていた頃のことを思い出してみると、校長と言えば何の当たり障りもない話をする人が大部分であり、全校集会の時の話は退屈なこと。
 あれは、先生の話ではなくて、役人の話であったように思う。
 その手の話は結局何も生み出さないから、せいぜい退屈に耐える練習になるくらいで、学生にとっても校長先生にとってもただの時間の無駄。
 誰かの暮らしに実害がない限り、自分の好みに合おうが合うまいが「私はこう思う。」という本気のいろいろなタイプの意見に触れておくことは大切なことではないかと思う。自分と違う考えを持つ人と接することは、物事をより深く考える貴重な機会になる。相手が本気であればあるほど。



● 2016.4.1 お知らせ

今月の水辺を更新しました。
今月は、「ムカシトンボの羽化」です。


   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2016年4月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ