撮影日記 2016年2月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2016.2.23 リアルとネット

 ホームページがあって、ブログがあって、ツイッターがあって、フェイスブックがあるものだから、
「いろいろなことをやってますよね!」
 と言われるし、インターネットが好きなのだと勘違いされがちなのだけど、実はインターネット自体にはほとんど興味がない。
 僕のフェイスブックには、ツイッターに記載したことが自動的に転送されるように設定してある。つまり、同じ文章や写真を見せるアプリが違うだけで、実は同じこと。ある一枚の画像を、ニコンのソフトで見るか、キヤノンのソフトで見るか程度の違いしかない。
 だからフェイスブックとツイッターをやっているのではなくて、1つのコンテンツを見せる1つの活動がある。
 たまにフェイスブックにだけ何かを投稿することもあるけど、同じ内容をツイッターに投稿しても別にいいし、やっぱり1つのことをやっているだけ。
 さらにツイッターの内容は、一日ごとにまとめてブログに自動的に転記されるように設定した。つまり、ツイッターとブログも同じもの。
 ただ、アプリによって仕様が異なり、どのアプリが使い易いかに好みがあって人が分かれているから、今人が集まっているアプリを使っているに過ぎない。
 役所なら、それらを違うものだと考えるだろう。
 だが僕は創作活動と呼ばれる類のことをする人間であり、どのアプリを使うのかではなく、コンテンツに本質があるのだから、それらは全部同じもの。
 僕にとってインターネットでの発表は、語弊を招く可能性がある言い方になるが、「ついで」や「補足」に過ぎない。
 基本はネットではなくて、あくまでもリアルの世界にある。
 ネットで僕を宣伝するのではなくて、その前にリアルの世界での活動があり、それを見た人が僕のホームページやその他を見るという流れを重視する。

 そういう意味で凄いのがオリンパスの田中博さんだ。田中さんのトンボ日記はとにかく大人気で、大きな影響力を持つ。
 その人気は、インターネットの検索やその他で広がった小手先のものではなくて、田中さんのリアルの世界での活動が先にあり、それに付随する副産物である点が田中さんの凄いところ。
 僕のみならず、非常に多くの写真家が田中さんを尊敬し一目置くのは、その重要性をみんな知っているからだと言える。
 昆虫写真家の海野先生からは、写真の団体に属したりパーティーに出るようにしなさいと何度も言われたことがあるが、それとて、リアルの世界こそが本流であり、それなしで一定以上の成果があがることはないからだろう。
 ネット上での画策では絶対に食い込めない一線がある。
 僕はとにかく一人が好きなので、そうしたことが得意ではない。
 が、ありがたいことにいろいろな方が無理やり引っ張りだしてくださるおかげで、こんな付き合いが悪い人間なのに、いつの間にか最低限、自然写真の業界に居場所がある。
 引っ張り出してくださる方々に感謝しなければ。
 いやいや、もうちょっと出ていくようにしなければいかんのやろうな。



● 2016.2.21〜22 本のこと



 秋田の加藤明見さんが撮影した写真の中でも、ツキノワグマが湖のそう岸から近くない場所を泳いでいる写真は、どうしても形がある状態で持っておきたくて、出て間もないこの本に飛びついた。
 写真集の中に他にツキノワグマの写真は3枚あり、泳いでいる写真と合わせて合計4枚。
 それらはすべて自然光での撮影で、センサーを仕掛けるタイプの撮影と違ってその瞬間、その場所に居合わせなければならないのだから、たった4枚?と感じる方もおられるだろうけど、非常にスゴイ。

 さて、故・星野道夫さんが写真集「ムース」に関して、
「本を完成させる上で、グリズリーとの絡みが必要だった」
と書いておられたのを読んだことがある。
 


 今、うちにあるムースを開いてみても僕が読んだ文章は見つからないので、雑誌アニマか何かに書かれた記事だったのだろう。
 件のグリズリーとの絡みは、星野さんの写真としては質が悪く、それをただ写すので精一杯だったことがうかがえる。
 確かに、写真集を一冊の本として完結させる上では、そうした欠かせないストーリーがある。けれども、ツキノワグマのように自然光で狙って撮影すること自体が難しい生き物の場合は、たとえ一冊の本として完結しなくても、ページ数さえ満たされれば十分すぎるくらいの価値があるのではないかと僕は考える。
 そういう意味では、加藤さんのツキノワグマの写真集も期待したい。
 因みに、今プロの写真の市場にあるツキノワグマの自然光での写真には、僕の記憶に間違いがなければ、飼いならされているものを放して撮影された写真が多く含まれていて、それゆえにハイクオリティーなのだが、撮影の手法に関しては発表当時に議論があったように記憶している。



● 2016.2.17〜20 本を作る

 本を作れとアドバイスをしてくださったのは、昆虫写真家の海野先生だった。
 以降、僕は何を撮影するにしても、どこかでそれを本にしようとするのが当たり前だと思ってやってきた。
 問題は、単行本は非常に敷居が高いこと。
 技術的には、撮影術に加えて本を作るための見識が必要になる。さらに長丁場になるし、それでいて儲かるか?と言えば本の制作自体は儲からないので、商売という観点から見れば、実に実に非合理的だと言える。
 それでも本を作ろうとし続けることができているのは、お手本になる人が存在したことが大きい。
 まずは、昆虫写真家の森上信夫さん
 森上さんは定職を持っておられるので写真の世界で苦労をする必要はないし、そういう意味では本を作る必要もないわけだが、そんな立場の人に愚直なまでに本を目指す姿勢でのぞまれると、僕が逃げるわけにはいかなくなる。
 それから、2/6の日記で紹介した「虫のしわざ」の新開孝さんも、そうするのがまるで当たり前であるかのような空気を生み出してくださる。

 さて、写真の世界は力の世界なので、実績がとても大切。そして本は、商売という観点から見れば割に合わないが、実績という観点で言えば最高の実績になる。
 僕は元々一人になりたい気持ちがとても強くて、人に褒められたいとか評価されたいなどとほとんど思わないし、実績自体には何の興味もないけど、この業界で写真のことや自然のことを何かをやろうと思うのならば、実績は非常に大切。
 そういう意味では、実績はお金に近い。決してお金が目的ではなくても、誰しもお金がないと生きていけない。
 自分が作った本が何冊かあれば、どんな場所に写真を持ち込んでも、とにかくまじめに話を聞いてもらうことができる。

 ここのところは、ある方からの勧めで「写真展」という発表の場について考えてみたり、手を動かしている。
 写真展は、随分前に新宿のニコンサロンで二度ほどやってそれっきりなので良くわからないのだが順序で言うならば本を出すことの方が先で、その次の何かを検討する際の選択肢に入ってくるのかな。
 本は、例えばカタツムリの本なら、主人公はカタツムリで僕はそれを語る立場。カタツムリという生き物に知名度があれば、それを語る僕は無名でも成り立つ。
 一方で写真展は写真家が主人公なので、その主人公に何らかの知名度や実績があり、その人を楽しみに見に来る感覚が必要なのかなという気がする。
 したがって例えば写真好きで知られる福山雅治さんが写真展を開催したら、凄い数の人が見に来るだろうし、写真展が1つのショーとして完結するに違いない。
 ただ開催しましたというのではただの形作りに過ぎずほとんど意味がないわけだから、それを超える何かが今の自分にできるのだろうか?という恐れもある。

 ともあれ、もしも自然写真の業界である程度以上のことをやりたいのならば、まず最初に本を作ろうとすることをお勧めしたい。
 もちろん、別に単行本ではなくても、それに匹敵するくらいの権威がある発表の場であれば、どこに写真を発表しても同等の実績になるのだが、生き物好きの人なら後に残る単行本が有意義だと思う。



● 2016.2.16 ぎょぶる 第3号



 先日、ぎょぶる(魚部る)3号を受け取りに、魚部基地へ立ち寄った。ぎょぶるには、僕も記事を書いています。
 魚部に関しては→ https://www.facebook.com/kitakyushu.gyobu.1044186?fref=photo

 ぎょぶるは魚部の会報だが、内向き(会員向き)ではなくて、外向き(「一般向け)に作られているので、水辺の生き物や自然との接し方に興味がある人なら、会員ではなくても楽しめるだろうと思う。
 会報を外向きに作ることで、この1冊が、会報の役割も、広報の役割も、会の活動のための資金を得る役割も同時に果たすし、記事を書く人だって、編集を担当する人だって、市販された方が当然やる気になるのは言うまでもないのだから、大変に理に適っている。
 特に、昨今のように不景気な場合は、どこかでコストカットをしなければならないのだから、なおさら。
 では、悪いことはないのか?と考えてみると、1つだけ考えられる。
 それは、その分、プレッシャーもかかること。
 会報なら、配ることが目的で済む。だが外向きに作る場合は、読者を喜ばせることが目的になり、そしてその差はむちゃくちゃに大きい。
 相手を喜ばせるには、本当の意味での情熱が必要になる。
 逆に言うと、魚部にはその自信があるということになるし、ぎょぶるは、胸を張ってそれを言えるだけの内容だと思う。

 それにしてもぎょぶるは、凄いメンツ、凄い内容になってきたものだなぁと思う。
 会に人を誘う時に、自分よりも力がある人を誘うのは難しいし、これだけのメンツが集まるところに代表の力量が現れている。
 生き物関係の団体や写真関連の団体などの場合、基本的に力の世界なので、どれだけ腰を低くしてホスピタリティーでもって接しても、ダメなんだよなぁ。
 それよりも、自分が力をつけ、誰の目にも明らかな実績でもって背中で引っ張ることが大切。代表の後ろ姿に、僕はそんなことを教えられる感じがする。
 何かが好きで好きでたまらない人は、一瞬で相手の力量を見抜いてしまう。



● 2016.2.15 何がキレイなのか?

 ニホンアカガエルの繁殖地に、以前はいなかったエビが放されて大繁殖していた。それからウィローモスという名前で販売されている水生のコケに、何とヒメダカの姿まである。
 なんてことをするのよ・・・と気を失いたくなる。

 その場所は、以前一冊の本にまとめたことがあって随分通ったものだけど、その間にも、生き物を放したり放そうとする方がおられた。
 ある時、
「ここをきれいにしたいんです。落ち葉を掻きだして、きれいな植物を植えて魚を放して・・・」
 というおじさんに、
「実はここは両生類の繁殖地になっていて、それをするとそうした生き物たちの暮らしに影響がでる可能性があるから・・・・」
 と話したら、
「それはいいことを教えてもらいました。」
 と喜ばれた。
 だがしばらくすると、またおじさんは観賞用の植物を植え始めた。
 おじさんとは、それ以前にもそこで何度も話したことがあり、悪意や我がままではないことはよく分かっていた。都市部に近い場所にゆっくりと散歩できる森林公園があることが大変にありがたいと、じみじみおっしゃった。
 とにかく、きれいにしたいという一念だったのだろうと思う。

 ふと思い出したのは、子供の頃の母の言葉だった。
 小学校の裏手に大変に手入れの悪い庭があり、たまった落ち葉が腐葉土状になっていて生き物がたくさん住み着いているのを見た僕は大変な感銘を受け、うちの庭もそうして欲しいとお願いしたのだが、
「汚い」
 とけんもほろろに断られた。
 その汚いと反対の状態、つまりきれいは、手入れが行き届いた園芸植物が植えられた人工的な場所であることは言うまでもない。
 うちは、父も生き物があまり好きではないから、中身は違えど同じようなことは頻繁にあり慣れているし、おじさんの言わんとすることも分からないでもない。
 そんな目で身の回りを改めて見直してみると、好きな植物を植えるとか、ソメイヨシノを植えて開花を社会全体で楽しみにするとか、鯉を放すとか、ペットのウサギが大繁殖した島が大人気になったりとか、自然物をライティングするとか、自然な状態よりも人工的なものを良しとする例はありふれていて、おじさんが、
「悪くないでしょう?良くしようとしているんじゃない。」
 と感じたとしても無理はないかな?
 その場所を、まるで自分の庭のように親身に感じれば感じるほど。
 だから、間違えていると言いたいのではなくて、人の社会の中にそれとは違った価値観もあるということを頭において欲しい。

 そういう意味では、なるべく手付かずの自然をきれいに写真に撮って、この景観がいいよね。手つかずだからきれいだよね。これを失いたくないよなと感じてもらい、そういう価値観もあるということを知らしめるのは、とても意義があることではないかと思う。



● 2016.2.14 アカガエルの産卵


NikonD7100 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) SB600 NX-D

NikonD7100 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) SB600 NX-D

 気象条件や気温などから判断して、産卵の時間は22時30分〜遅くても24時の間と予測し、現場には22時に到着した。
 そして、23時30分にニホンアカガエルの産卵が始まった。
 ほんの数秒で一周できる程度の小さな水辺なので、ライトで照らした際に嫌がられて沖に移動され、岸から遠くて撮影しづらい場所で産卵が始まるような心配はないし、雨もほぼ上がっているので雨粒が水面をたたき過ぎて水中が見えなくなる恐れもなく、今日は失敗はまずあり得んやろう!と最初から勝ち戦の気分だ。

 ニホンアカガエル以外にも、ヒキガエルが十数匹とカスミサンショウウオがあちこちにユ〜ラユラと水辺は大繁盛。
 ところがカエルの密度が高いのと活性が高過ぎて大暴れをするものだから水が濁ってしまい、一番最初のつがいが産み落とした卵は、濁った水の中で何も見えず。
 まじか〜。こんなに確実そうに思える条件でも、下手をしたら何も写真が撮れないこともあり得るのか・・・。
 生き物相手の仕事は、最後の最後まで何が起きるかわからないと思っていた方がいい。


NikonD7100 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) SB600 NX-D

 運よく、2つがい目の産卵は、ある程度卵が見えた。
 被写体が十分に見えるのなら、水は濁っていた方が臨場感が増して写真として面白い場合が多い。
 カメラマンの性でなるべく水が澄んでいる状況で写真を撮ろうとしてしまうのだが、帰宅後に画像を確認する際にオオッとワクワクするのは、大抵、水が濁っていた日なのだ。
 それから水が濁ると光が拡散され、照明器具にありがちな汚い影が弱まり、被写体がきれいに見えるというのもある。
 カメラにごく普通に取り付けたストロボを、ポンと1つ光らせるだけで、割と見た目に近い感じに写る。もっと照明器具に凝る手もあるのだが、夜間のフィールドでの撮影に関しては、凝り過ぎるとスタジオのようになってしまう嫌いがある。



 そしてオスを一匹持って帰って、スタジオで撮影。
 ニホンアカガエルは、過去のスタジオで山ほど撮影したことがあるのだが、その時の画像がどうしても見つからず、撮影をやり直さなければならなかったのだ。
 多分、前回撮影した際には何かあわただしい仕事があって、撮影した画像を整理せずにそのままどこかへ保存してしまったのだろう。

 さて、記事をアップしようとして気が付いた。
 あっ、フィルムだ!
 そうか!以前ニホンアカガエルをたくさん撮影した際は、デジタルではなくてフィルムだったのだ。



● 2016.2.11〜13 撮影に入る直前のこと



 カメラのファインダーをのぞき込んでみて、第一印象で
「あっ、これはダメだな」
 と思う。
 画面の中のパッと目が行く場所に印象が強い椿があるために、肝心なカエルに目が行かない。脇役が主役を邪魔してしまっている。
 写真は原則として、パッと目が行く場所に主役がいて、それを脇役が盛り上げなければならないし、そういう風に被写体を配置するのが構図のイロハのイになる。

「それを逆手に取る手もあるよなぁ。」
 多くの生き物は実に見事な保護色になっていて、フィールドでは目が慣れるまで、近くにいても見えてこないことが多いが、そうした観察者の感覚を、主役の生き物よりも強い何かを画面に入れることで、そこにカエルがいるのに何となく見えてこないという風に表現する手もある。
 その場合、基本から外れた表現のしかただけに、それで何をするのか?その写真を最終的にどんな形で見せるかが重要になる。
 ニホンアカガエルを紹介するのに、
「これがニホンアカガエルですよ。」
 以外に、
「おや?何がいるのかな?」
 という前振りが1つ余計に入るくどい言い方は、図鑑のように単刀直入に表現しなければならない物を作る人には向かないが、僕のようにお話としての本を作るカメラマンには、選択肢の1つになり、検討の余地がある。
 ともあれ、
「さて、ならば今日はどう撮影しようかな」
 とその場の状況判断をすることから、僕の撮影は始まる。



● 2016.2.9〜10 ビジネスモデル



 よくぞこんな本が出せたものだと思う。今となっては笑いが出るくらいに信じられない。
 うちにある本は、1984年2月17日発行の初版第一刷。
 内容は大変に素晴らしいのだが、フナなどという地味で人気が出ない生き物の写真集が出たなんて、いくら当時はバブルだったとはいえ、やっぱり信じられない。

 それを可能にしたのは、雑誌アニマの存在だった。
 生き物好きがアニマに噛り付き、アニマで活躍している写真家たちが写真集を出す。
 アニマの読者は、今度は誰がどんな写真集を出すのだろうと期待して待っていて、その待っているところへ本を放り込むことによって本が売れ、ビジネスが成り立つ。

 そう言えば、僕がカタツムリハンドブック/文一総合出版を出版した際に、



「あの文一のハンドブックシリーズだから嬉しい。」
 という方が何人もおられたことに驚かされた。
 最初は、
「おい、カタツムリ図鑑に感激というよりは、そこか!」
 と思った。が、なるほどな〜と面白くなった。
 つまり、多くの人が文一のハンドブックから新しい巻が出るのを待っておられて、そこに本が放り込まれることによってビジネスが成立している。

 そのハンドブックシリーズに火をつけたのは、安田守さんの「イモムシ」。大ヒットしたイモムシは、2巻、3巻と続いた。
 以前安田さんにお会いした際に、
「それができたのは、自分がいわゆる虫の専門家や虫屋ではなかったから・・・」
 と話してもらった。
 人に生き物を愛してもらうためには、専門的な知識の追求、つまり何が正しいかではできないことがあり、そこに写真家の役割があるのだろうなぁ。
 ともあれ、ハンドブックシリーズに関わってみて、ビジネスモデルの重要性を思い知らされた感じがした。

 日本の自然を考える時に僕がイメージするモデルは、道の駅だ。
 今から25年くらい前は、車内泊による取材は、どこへ車を止めて眠るのかがなかなか煩わしかった。下手をすると通報されるし、どこもかしこも公衆トイレは汚いし・・・
 だから、初めて道の駅なる存在を知った時には大感激で、これが広まってくれれば!と期待した。
 そして、道の駅は、僕の想像以上のスピードで広がった。
 中には、車内泊禁止の道の駅も少数ながら存在するが、基本的に閉鎖的、排他的ではなく、くつろげるところが大きいと思う。
 自然を楽しめる公共の場所が市に1つとか、地域に1つとか存在して、そこで人が楽しむことができて、道の駅がそうだったように、人が来るのならならばうちでも・・・と試みが広がっていくようなモデルを、僕はつい空想してしまう。
 そうなるためには、そこで食事が出来たり野菜が買えたりとか営業マンが車をとめて仮眠ができたりとか、何か人の日常に必須のビジネスと結びついていなければならないだろう。
 役に立たないものは、普及しないから。
 採集禁止にしたら、人は集まらないだろう。
 土地の半分くらいは採集禁止でも、残りの半分は逆に、誰でも採っていいし、たくさん遊んでちょうだいと自由な空気があることが大切ではないかと考える。
 腹の底から楽しいことが大切で、楽しくなければ、普及しないから。
 専門家がよく主張する、「これが正しい」とか「こうあるべきだ。」という概念は、必要な提言ではあるが、たくさんの人を相手にして社会を動かすことは、なかなかできないような気がする。

 僕の身近なところでは、山口県下関市在住の徳永浩之さんが、自宅の使っていない田んぼに水を引いて、生き物の楽園を楽しんでおられる活動が大変に興味深い。
 実にいろいろな生き物がやってくるようで、場所さえあればこれだけポテンシャルがあるのか!と驚きであり、同じようなものがあちこちにあって、採集したりしても後ろめたい空気がなければ、子供を連れて遊びに来る人がいっぱいいるんじゃないかな?と。



● 2016.2.7〜8 知らせ

 思いがけない方からのメッセージに、嫌な予感がした。
 そして残念ながら、悪い予感は的中した。
 もしも自分が彼と同じ立場だったなら、ああして前向きに過ごすことができただろうか?
 僕には、全く自信がない。

 写真を撮る動機は人それぞれだけど、僕の場合は、人間っていったい何者なんだろう?という思いを、自然を見るたり記録したり調べることを通して考えようとしているのだと思う。
 例えば、仕事って何なの?とか人が死ぬってどんなことなのか?とか。
 よく日本の社会の中では「命の大切さを伝える」というようなフレーズが使われるが、僕にはあまりよく分からない。
 それよりも、「そもそも命っていったい何なのだ?」という思いが強い。
「もういよいよダメかな」というようなことを呟く彼に、彼にしかわからないことをいろいろと聞いてみたかったけど、タブーなのかもしれないし、ついに聞くことができなかった。

 社会の中で自然がもっと大切にされたくさん残って欲しいという思いも強烈にあるけど、それ以上に、人間という生き物のすることをじっくり見せてもらおうかという気持ちが強い。
 人間ってこうあるべきだよりも、人間っていったい何者よ?と。
 そういう意味では、僕にとっての自然写真は、社会を変えようという政治活動よりも宗教に近い存在だと思う。
 ただし、それはあくまでも個人的な世界なので、仕事としては、「生き物のことを社会に伝える」となるのだが。
 仕事だからといって、本当にそれだけでいいのかな?と、今みたいな時に思う。
 彼が考えていたことや彼の意識は、どこへ行ったのだろうか?凄い人だったな。



● 2016.2.6 虫のしわざ



 新開孝さんの新しい著作は 『 虫のしわざ / 文一総合出版 』。
 葉っぱや樹木に開けられた穴など、昆虫が残した痕跡の正体がわかる本。
 本の構成は評価が高い同じ文一総合出版のハンドブックシリーズに似ており、多くの人にとって慣れた見やすいものだと思う。ハンドブックよりもやや版が大きいので、より見やすい。
 単なる虫の本というよりは、もっと身の回りの物事に興味を持ってじっくり腰を据えて生きようぜ!という社会に対するメッセージが伝わってくるような本であるように思う。
 1958年生まれの新開さんは僕よりも一回り年上で、写真の技術、生き方、考え方・・・いろいろな面で参考にさせてもらうことが多い大先輩。
 さて、世の中には、あまり眠らずに済む人が存在するのだという。
 著名人では、みのもんたさんがそうだと言われているし、作家の畑正憲さんことムツゴロウさんなども、そのお陰で学研に勤めながら帰宅後に連日明け方まで小説を書いて作家デビューを果たしたのだと、と著作の中で振り返っておられる。
 そんな人と同じやり方をしても、僕のように早い日には9時に寝ているような人間がかなうわけがないし、僕の参考にはならない場合が多い。
 その点新開さんは、きっちりと睡眠時間を確保した上で極めて緻密な写真を撮っておられるし、昆虫の羽化や孵化など不規則な時間帯に長時間待たなければならない撮影の際にどうするのかなどを参考にさせてもらったりする。
 年齢も重要。一回り上の人の話は、そう遠くないうちに自分も同じ年になるのだから、直接的に役に立つことが多い。
 それから価値観や物の考え方は、言うまでもなく大切。首都圏に住んでいる人と地方に住んでいる人とでは、当然やり方も考え方も違ってくる。

 つまらない自分の大偏見を書くと、僕が大学時代、研究室には新開さんと同じく愛媛県出身の先輩が二人おられ、揃って穏やかで芯が強くて人間臭い魅力に満ち溢れた人であったため、僕の中での愛媛県出身の男性のイメージは非常に良い。
 一方で、研究室に一人おられた愛媛出身の女性が、先輩を呼び捨てして自分の実験を代わりにやらせるなどきわめて凶暴な人物であったため、愛媛県ではそんな風にバランスが取れているに違いないという思い込みがある。
 何と短絡的な!

 ついでに書くと、写真業界で年下の人のすることも、実は非常に参考になるということが最近分かってきた。
 年上の人が「こうして成功したよ」という話は、すでに過去の出来事であり、時代遅れになっている可能性もあるが、年下の人が、今まさに何かをやり遂げ結果を出す姿は、確かに勉強になる。
 例えば自分が這いつくばって通ってきた道をスイスイ通り抜けてくる若者がいたりした時に、自分のやり方や考え方と比べてみる。 
 総じていえば、人生の大きな局面でリスクを取れる人間は強い。それがその人の伸びしろの大きさを決めがちだ。
 そこには、リスクが苦になる性格かそうではない性格の違いももちろんあるけど、それ以上に、どれくらい強い思いで自然写真をやりたいか=どこまでリスクを取れるかなのだと思う。
 そして世間の人は、どれくらいリスクを取っているかを見てくることが多い。確かに、自分を安全圏において物を主張しても、説得力や臨場感はないだろう。
 つまりその写真を撮った人がどんな生き方をしている人で、誰が物を言っているかが大切。
 実は僕は長い間、誰が言うかよりも、何を言うかが大切だと固く信じていたのだが。




● 2016.2.2〜5 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。



● 2016.1.28〜2.1 ヤマアカガエル





 F君が見つけたヤマアカガエルの極秘の繁殖地に張り付いた。
 ここの何がいいかと言えば、産卵をする場所から数メートルのところまで車が入ること。
 ヤマアカガエルの産卵を狙って撮影しようと思えば雨の日の夜になり、機材を長時間維持するのに神経を使うだけに、ここは非常に撮影に有利な場所だと言える。
 この水留でヤマアカガエルが卵を産むのは、水の流れ込みの側と堰の側の主に2か所。
 そのうち、堰の側には滅多に見れない数のつがいが集まり大集団で産卵をするようで、ごく狭い範囲に大量の卵が産み落とされているのだが、残念ながら水深が深いのとやや水の濁りがあって水中の被写体をクリアーに撮影するには適さない。
 一方で流れ込みの側は、水深が浅くて陸上から水の中を写すような撮影には言うことなし。しかも、地面が割と硬くて、歩いてもあまり水が濁らない。
 よく似たニホンアカガエルとの産卵の様子の違いは、ニホンアカガエルが1つがいで卵を産む場合が多いのに対して、ヤマアカガエルは一ヶ所に何つがいもが集まって卵を産むこと。
 ならば両者の区別ができるようにそれを撮影したいし、できれば10つがい以上が一ヶ所にひしめている中で、そのうちの2〜3つがいがまさに産卵中というシーンを撮影したかったのだが、それは来年の課題となった。
 今回は、少々現場でウロウロし過ぎてカエルが集まってくるのを自らばらけさせてしまったきらいがあったので、次回は周到に準備をして目標の一枚のにみ的を絞り、確実に狙い撃ちしたい。
 照明をつけたり消したりすると警戒心を煽るので、ライトはポイントに向けて固定をしてカエルたちを慣らし、事前に雨よけのパラソルと座り心地がいい椅子を準備しておいて、そこでじっくり待機する・・・・。
 産卵のピークと言えるような日はおそらく2日間。
 そのうちの2日目は、1日目に産み落とされた卵がすでにあるため、今どのつがいがどの卵を産んでいるのかがわかりにくくなるため、初日のしかも最初の方に産み落とされる卵を狙いたい。
 考えただけで楽しくなってくるが、一年待たなければならないし、その間にいろいろな困難な撮影があるであろうことを想像すると、プレッシャーでちょっと気が重くなってもくるので考えるのは止して、目先のことを一生懸命やっていこうかな。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2016年2月分


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