撮影日記 2015年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
・今現在の最新の情報は、トップページに表示されるツイッターをご覧ください。
 


● 2015.12.29〜31 初心

 なぜプロの写真家になろうと思ったのか?に関しては、自分の中に答えがたくさんあって、その都度違ったことを言ってしまうのだが、動機の1つに、プロが撮影したものを見て、この程度なら俺の方が上手いと思ったことがある。
 例えば一枚のカモの写真があった。
 俺ならもっときれいに撮れると思った。

 ところがその世界に飛び込んでみると、自分の写真が不思議なくらいに売れないので愕然とした。
 僕は、『ニーズ』を理解していなかった。
 写真は、きれいであれば売れると思い込んでいた。
 写真を撮る側の立場、つまり自分ならどんな写真を見たいかばかりを考えていて、写真を選んだり使う側の立場にはたっていなかった。
 写真を使う側の立場に立ってみると、例えば自分で本を作ろうとしてみると、自分が見たい写真や撮りたい写真と、本を作るのに必要な写真との間に大きなギャップがあった。
 カモの場合ならオスとメスとで色が異なるのだから、本を作るならまず雌雄がビシッと一枚の画面に収まっているような写真が欲しくなる。が、僕の写真の中にただきれいな写真ならたくさんあっても、雄と雌とがビシッと寄り添っている写真はなかった。


Nikon1V3 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF)

 そこで、そんな写真を自分でも撮ろうとしてみると、1つ条件が付加しただけなのに、撮影が格段に難しくなることを思い知らされた。
 まず、雄雌がきれいに画面に収まるように寄り添うような状況はあまりないし、それに加えて気象や光線状態なども撮影に適しているような状況は、滅多にないのだ。
 さらに、プロの市場ではとにかく明るい写真が要求されるなど、他にも満たさなければならない条件が幾つもあった。
 俺ならもっときれいに撮れると思ったそのプロの写真を、そんな目で改めて見直してみたら、なるほど!よく撮っているではないか!
 これがプロか・・・とようやく思い知らされたのだった。


Nikon1V3 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF)

 写真を借りる人は、なんとなく写真を探したりはしないものだ。
 この鳥とか、こんなシーンとか、ある程度のイメージや条件を固めて写真を探す。
 つまり、先に写真に添える文章の方が準備されており、その文章に合う写真を探しにくると言い換えてもいい。
 ヨシガモならヨシガモの特徴がちゃんと写っている写真を探すのだから、それにかなわない写真は、どんなにきれいでもなかなか売れないことになる。
 さて、ここ数年は、実はそうした「売れる売れない」をあまり考えないようにしていた。
 考えずに写真を撮ってみると、逆に、ニーズを理解することの大切さを再認識するようになってきた。
 来年はもう一度初心にかえって、けなげなくらいに基本に忠実に写真を撮ってみようかと思う。

 最近、子供の頃に夢中になった将棋を、なんとなくまた勉強しているのだが、囲碁や将棋の世界には、3手の読みという言葉がある。
 自分がこうする。
 すると相手はこうする。
 それに対して自分はこうすると頭の中で考えることを意味するが、自分の立場から物を考えた後に、今度は相手の立場から物を考えるない人はなかなか強くならないのだ。
 自分の立場を主張することも大切だし、相手の立場に立ってみることもまた大切なこと。ただ、なかなか両方同時にはできないものなので、年によって物の見方を変えてみるのだ。



● 2015.12.24〜28 2万円台で買ったカメラ


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR Capture NX-D


Nikon1V2 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF) Capture NX-D

Nikon1V2 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF) Capture NX-D

 僕が使用しているニコン1シリーズのカメラは、防水のAW-1、1V2、1V3の合計3台。
 中でも1V2は、未使用のボディーのみをオークションで2万円台で購入した激安のものだが、なかなか良く働いてくれる。
 ニコンの一眼レフ用の超望遠レンズにニコン1を取り付けると、遠くの鳥が実に簡単に撮影できる。
 従来の価値観や感覚に執着していたら、そう遠くないうちについていけなくなるのだろうな。多分、自分のちっぽけな好みや流儀に執着し過ぎないことが必要になるような気がする。

 一方で、どんなにカメラが進歩しても、その進歩ではカバーできないこともあり、そこが重要になってくる。
 例えば、光の使い方がそうだ。物がキレイに見える光線状態や角度をちゃんと知っていて、その光を使いこなせるかどうか。
 いい光で撮影された写真は、何倍もシャープに、何倍も鮮やかに見える。

 それから、そもそもカメラで何を撮るか?何を言うのか?という点は、より一層重要になるだろう。
 鳥にカメラを向けて、ただ良さそうな瞬間にシャッターを押すのではなく、その鳥の何を、どこを写そうとするのかの意思の強さみたいなものが問われてくるような気がする。



● 2015.12.20〜23 ヨシガモ


Nikon1V2 AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VR NX-D

 水鳥の表情や色彩や形態の魅力にこだわるのは当然のこととして、僕がこだわりたいのは、鳥と一緒に写り込む水の描写だ。
 たとえ用途が図鑑的で鳥の特徴さえ写っていればいい写真でも、僕の場合は、水の描写が悪い写真はすべてボツにする。
 水の描写にこだわると言っても、ドラマチックな表現ばかりを追い求めるわけではない。むしろ、何でもないシーンの場合に、何でもないシーンだからこそこだわる。
 したがって、鳥を探すのではなくてまず最初にいい水を探し、次にそこで撮影可能な被写体を探る。

 安いけどよく写るニコンの望遠ズーム・AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VRに、ニコン1を取り付けて野鳥を撮影してみた。ニコン1を使用すると、デジタル一眼レフよりも鳥を大きく撮影することができる。
 その反面、画像を大きく拡大すると、色ののりなどがやや浅かったり弱い感じがする。
 画質にゆとりがないので、例えばそれ以上のさらなる部分拡大には耐えられないし、最初から気合を入れてより厳密にしっかりと撮影する必要がある。
 また、これも画質にゆとりがないからだと思うのだけど、撮影後に画像処理が必要となるケースが多い。最近のデジタル一眼レフのように、ただ撮っただけの画像がそのまま通用するという感じではないし、ただ撮っただけの画像を見ると、「やっぱりこの程度か・・・」と感じてしまうjケースが多々あるが、コントラストやレベルを調整すると、「おいおい、意外といけるやん。」という感じになる。
 つまり、デジタル一眼レフと遜色ない画質を求める場合は、案外使いこなしが求められる。
 ニコン1を使用する場合は、仕事をしているというよりは、上手に使いこなしてデジタル一眼レフで撮影した画像と間違えさせるゲームでもしているかのように、撮影や画像処理を楽しむことにしている。



● 2015.12.18〜19 季節と自然のガイドブック



 今給黎靖夫さんの最新作は、季節と自然のガイドブック(ほおずき書籍)
 生き物や自然〜文化や風習や文学までもを、一年という切り口で解説した本。こんなことを知っておいたら、野山を散歩する時間がより豊かになるんじゃないかな?と思わせてくれる本。
 自然屋さん以外に、自然の写真に興味があるけど何を撮っていいかが分からない人とか、俳句を作る人とか、絵を描く人とか、本を作る人(編集者)にもおすすめです。

 僕の場合は、非常にルーズなところがあるから、多分このタイプの精密な知識が要求される本は作れないだろうなと思う。人には向き不向きがある。
 自然写真の世界は何かを好きで好きでたまらない人の集まりであり、並のものは最初から求められてないからなおさら。結局、自分に合っていることを選び、傍から見れば、何でそこまでするの?と思えてしまうような努力を好き好んでするしかないのだと近年思い知らされる。



● 2015.12.15〜17 少数派

 自然写真を撮る人に、比較的共通する特徴というのが幾つかある。
 例えば、自然写真家にはゴルフをする人が少ないし、僕もゴルフにはまったく興味がない。
 だがどうかすると、テレビで、同じ時間帯に、ゴルフが3局で中継されているような日があることを思うと、ゴルフは人気があるんやろうなぁ。

 自分が少数派であり、全体としてみると変わった存在なのだと思い知らされるのが、国政選挙の時だ。
 自然を争点に掲げて誰かが立候補しても、今の日本ではなかなか当選しないだろうし、そもそもそんな主張をする候補者さえ見たこともない。いや候補者はいるのかもしれないが、泡沫候補過ぎて知らないだけという可能性もある。
 昔、何の場だったか忘れてしまったのだが、自然が好きな人が力を合わせて誰かを国政に送り込むべきではないかという主張を聞いたことがある。その時に名前が挙がったその誰かの例は、亡くなられた日高敏隆先生だったように記憶している。
 スポーツの世界なんかでは、すでにそんなことが行われている。
 ともあれ、普段、自然が好きな人に囲まれて暮らしていると見えなくなりがちだが、選挙は、自分が少数派であることをガーンと突きつけてくる。
 
 たまに、フィールドワークの最中に、見ず知らずの人にそれっぽいことを言われることもある。ある時は、
「私は自然自体は嫌いというわけではないけど、自然を好きな人が大嫌いなんです。道を作ろうとすると、すぐにオオタカの巣があるとかなんとか言い出すでしょう。みんなの生活のことを何も考えてない。」
 と。
 またある時は、
「研究みたいなことを否定するつもりはないけど、もっと人の役に立つことに頭を使ってよ。」
 と言われたこともある。
 あるいは、自分にとってワクワクするような素晴らしいため池が、多くの人にとっては汚い場所であるようなケースも多々ある。
 意外なことに、そうはっきり言われるのは不愉快ではなく、むしろ、表面だけ賛同してくれる方が楽しくない。
 昨日ふと、子供の頃に叔父から、
「人間の社会では経済が一番大切なんやから、お前の主張は通用せんよ。」
 と言われたことを思い出した。
 仮にその時小6で12歳だったとすると、35年近く叔父の言葉を考え続けてきたことになる。
 その叔父を、昨日病院で見舞った。



● 2015.12.7〜14 上京

 北九州空港から飛行機に乗って上京。
 瀬戸内の島々、大阪、名古屋・・・それぞれの地域にそれぞれの特徴があって、上空から見下ろす景色が楽しい。
 天気が良くてカメラがあれば、北九州〜羽田間はあっという間。どこかにカメラを向け、撮影を終えて座席の背もたれにもたれかかると、休む間もなくもう次の景色が近づいてくる。
 東京では、いくつか出版の打ち合わせと忘年会。


Nikon1 V3 1 NIKKOR VR 30-110mm f/3.8-5.6

 出版には、単なる金儲けとは異なる面がある。
 ただそれでも、出版も基本的に商売であることには違いない。
 商売は、違う言い方をすれば『世間』だと言える。
 世間はきびしい。
「あなたのお仕事は?」
 と聞かれ、
「自然や生き物の本を作っています。」
 と答えると、
「素晴らしい仕事ですね」
 と頻繁に言われるけど、ではそうした人たちが、こぞって本を買ってくれるか?と言えば、世にでた大部分の生き物の本の実売数から判断するに、答えはNO。
 生き物の本みたいなものに対して、労力に見合うお金を出してもらうのは、とても難しい。
 商売が世間だとするならば、写真撮影を極めようとしたり、生き物を調べるような行為、いわゆる研究は、『おのれ』の世界だと言える。
 そのおのれの世界に対して、
「何かを極めようとする姿勢が素晴らしいですね!」
 などと褒めてもらえることもあるけど、世間の厳しさに比べれば楽なものという側面も多分にあるし、僕などは恥ずかしい話、世間の厳しさから逃避するために、己の世界に隠れているという面もある。

 昔、政治家の亀井静香さんが、学者の意見に対して、「あなたの話は学者の机上の論理」といった発言をするのを何度も聞いたことがある。
 研究なんて、所詮己の世界であり、世間には通用しないという指摘である。
 だいたい武田家は学問を重視し、そんな環境で育った僕などは、亀井さんの発言を怪しからんと強く感じたものだが、近年、言わんとすることも徐々にわかるようになってきた。
 自分が絶対に面白いと思うことや正しいと思うことが、確かに、世間にはなかなか通用しない。

 ともあれ、
「そんなに己の世界を押し通したいのなら、自分の金でやればいいじゃん。」
 と言われると、僕はやはり困る。
 カメラマンの場合なら自費出版をするという選択肢があり、それならおのれを100%出せるし、近年はそうした環境も整ってきた。
 だが僕は、今のところ、自費出版の予定はない。
 普段結構おのれの世界に引き籠っているくせに、やっぱり、自分が作りたい本をただ作りたいわけではなくて、世間に分かってもらいたいのだと思う。



● 2015.12.6 ドローン講習会

 僕は基本的に一人が大好きで、普段、「一人が寂しい」などと感じることは滅多にない。むしろ、たくさんの人たちの中にいる時に、寂しいと感じる機会の方が断然多い。
 例えばパーティーで、くじとかゲームとかカラオケ大会などが始まると、何とも言えず寂しくて逃げたしたくなるし、現にヒョイと消えてしまうことも多々ある。
 そんなことがしたいのではなくて、話がしたいと思う。
 会話でも、世間話とか昔を懐かしむ話みたいなものは御免。型にはめられるくらいなら、その場にいない方がいい。
 要は集まっている人の人数や同所性や何となく何かをしているかどうかの問題ではなくて、どこで心がつながっているかの問題。
 
 さて、トンボ探検隊のみなさんは、そんな人付き合いが極めて悪い僕がいつの間にか長いことお付き合いしている、数少ない大切な大切な仲間。
 隊長の西本晋也さんがドローンを購入したので、昨日は見学に行ってきた。
 西本さんに限らず、みんな、こんなことやってみたいと思うことをドンドン実行する。
 失敗したらどうしよう、などと言うようなことは言わない。
 無謀とは全く違う。
 例えば車の運転で下手なはずの初心者が案外大事故を起こさないのと同じで、自己責任でちゃんとアンテナを立て、小さな失敗を見過ごさないようにすることで失敗しながら覚えて自己管理をする大人の態度だと言える。
 たまに、団体で仲間を信用できずに管理しようとする役人のような方もおられ、何度かそうしたいざこざを見せられたことがあるが、アホらしいと思う。
 面白いかどうかにひたすらにこだわり、形だけのことはしないという筋を通す。
 それから、俺ってこんなに凄いんだぞ的な窮屈な何かに捉われることなく、ただただ無心になって遊ぶ。
 ある方がトンボ合宿に参加した際に、トンボに関する情報を何1つ隠すことなく、恩着せられることなく教えてもらい心の底から楽しめたと大変に喜んでおられたことが、忘れられない。



 西本さんが購入したのは、ファントム3という機種。
 西本さん曰く、
「初めて買ってぶっつけ本番でも、多分仕事ができるくらい簡単だと思いますよ。」
 とのこと。
 唯一、説明書によると送信機からの電波が届かなくなると自動的に帰還する設計になっているようだけど、実際には見失う怖さがあり、遠くに飛ばすのだけは慣れが必要ではないかとのこと。




音は結構大きいが、その分、飛んでるという臨場感がある。
車が好きな人には、静かな車よりも心地いいいエンジン音の車が好きという人が多いが、わかる気がする。



ドローンにカメラを向けてみて思ったのは、物を撮っているというよりは、虫や鳥みたいなものを撮っている感じがした。



「プロペラをガードするカバーが売っとるんで、つけようかと思うちょるんですよ。カバー、何の役に立つんかなぁ。ぶつけた時は絶対あった方がいいよなぁ。カバーあった方が飛んじょるときにカッコいいでしょう。」



「おもろいでしょう〜。」



● 2015.12.6 社交性

 研究や外来生物の駆除で生き物が殺されることがどうしても納得できないという知人を、ちょっと前に、ある生き物好きの集まりに誘っておいた。
 人がそうした目的で生き物を殺していいかどうかには答えなんてないし、経験豊富であろうが、拙かろうが、人それぞれが自分で考えるべきことだと思う。
  だがそれはあくまでも理屈であり、自然科学出身者としては、研究者や駆除をする人たちが、自分の目的のためになら平気で生き物を殺す人だと思われるのは正直言えば心外であるのもまた事実。
 考えを翻してほしいのではなくて、正しいことが幾つもあることを理解して欲しい。
 あるいは、生き物が殺されることで誰が納得できない思いを持っているのも、楽しいことではない。
 ところが残念ながら、僕には自分の言葉でそれを伝えられるだけの能力や経験がない。そこで、研究者の話を聞いてみたら、わかってもらえるのではないかと考えたのだった。
 例えば、生き物のDNAを調べて一体何になるのか?
 あるいは、なぜ標本が必要なのか?
 なぜ、外来生物を駆除するのか?
 などなど。
 その日語られた中島淳さんのドジョウや水生昆虫の話は、研究者嫌いの人が聞いても、スッと心に入ってくる話だったのではなかろうか。
 より細かく見ていくことで、初めてわかること、見てみなければ分からないことがたくさんある。



 講演が終わって中島さんの著作の販売があり、知人も列に並んで一冊購入をしてサインをしてもらった。あとで、
「どうでした?」
 と聞いたら、
「武田さんと違って、すっごい社交的な人じゃった。」
 だと。



● 2015.12.4〜5 更新のお知らせ

 さて、今月の水辺を更新しました。今月は痛いミスの話です。



● 2015.12.2〜3 政治や経済のこと

 デモって、どう思う?と思いがけず聞かれた。全く想定外の質問にただ戸惑うばかりで、まともに答えることができなかった。
 正直に言えば、僕は政治にほとんど興味が持つことができない。そんなんじゃダメと言われても、興味が持てないのだから仕方がない。
 ただそれでも、自分はこう思うと答えられなかった時には、後味が悪いというのか、気になるものだ。
 
 あとで考えてみると、まず団体行動が苦手な僕が、デモに参加することはないだろうな、と思えた。
 だけど、「デモなんかじゃ変わらない。」という意見には、違うと思う。急に変わるようなことはなくても、人に伝わるような大きさで声を上げる人がいるから、時間をかけて社会が変わるのだと思う。
 一方で、物事は選挙で決まるのであり、デモで政治家が方針を変えるようなことがあれば、つまりデモをしている一部の人の意見で物事が決まるようなら、もっと問題があると思う。
 したがって、デモは政治家に向かってするのではなく、選挙民に向かってするべきではないかと思う。
 いや、もしかしたら、政治家に向かってやっているのはパフォーマンスで、実は選挙民に向かってやっているのかもしれないが、僕にはそうしたことはよく分からない。

「選挙で決めると言っても、国民はバカだからなぁ。」
 という意見もある。
 実に偉そうな上から目線の言い分だけど、分からないでもない。
 例えば、自然を争点に掲げて誰かが選挙に立候補しても、今の日本の社会ではまず当選することはないだろうし、どうせみんな分からないよという思いが、僕の心の中にもある。
 だけどそれでも、一部の人だけが権限を持つ独裁的な社会よりも、ずっとマシなのだと思う。例えその一部の人が専門家であっても、みんなで決めるべきだと。

 時々、自分とは違うことに興味を持っている人と話をするのも、必要なのかなと最近よく思う。
 経済に興味があり経済ことが大切だと考える人からすれば、自然うんぬんなどというのは、取るに足らないこととして扱われることがよくある。
 そう言えば昔、亡くなられた日高敏隆先生の著作を読んだ父が、
「そうなんよ。まさにこれなんよ。」
 と声を上げたことがあった。
 子供の頃の日高先生が生き物の研究をしたいと言うと、あれは天皇陛下のすることだ、そんなものでは飯は食えないよと返ってきたというくだりだった。
 写真にしても、生き物を調べることにしても、基本的に豊かな経済があって初めて成り立つことで、現に、自然写真家などという仕事は、経済力に恵まれたごくごく一部の国でしか成立していない。
 それを思うと、僕も、大変に豊かな経済の恩恵を受けていることになる。
 いや、そんなことを気にしていたら何も言えなくなるから、自分のすべきことに集中するために、自分と違う興味の人は完全に遠ざけてしまった方がいいのかな、とも思うこともある。
 いずれにしても、多分みんな一生懸命なんだろうな。



● 2015.12.1 道具とメインテナンス

 昨日の夕刻、水槽用のフィルター(ろ過装置)を手入れしたら、動かなくなった。
 パーツの買い置きがなく、続きは今朝に。
 これまでちゃんと動いていたものでも、分解手入れをしたときに逆に動かなくなってしまうことがあるのは、車なんかでも同じだ。

 カメラは言うまでもなく、山登りの道具、道具を作るための工具、生き物を飼うための飼育用品などなど、仕事柄いろいろな道具を扱うことになるが、このメーカーは凄いなぁと最も強く感じるのが、ドイツのエーハイム。水槽用品を作っている会社だ。
 20数年前に購入した水槽用のフィルターが合計3つ、今でもちゃんと動き続けている。
 パーツを自分で交換することができて、新製品が出る場合でも規格は統一されている。
 パーツは、物の割には多少高価だけど、仕方がないよと納得させられる。
 日本製が、誰でも何も考えなくても使えるけど使い捨てに近いコンセプトで作られているのに対して、エーハイムの製品は、そこまで扱いやすくはないけどとにかく長く使える。
 多少本格的に魚を飼ってみようかなと思ったら、エーハイムを使ってみることをお勧めしたい。
 そしてもしも動かなくなった時には、壊れたと捨てるのではなく部品を交換してみて欲しい。

 撮影用品の中では、三脚のジッツオがそれに近いと思う。ジッツオも、1つの製品を長く長く使うことができる。
 イタリアの三脚マンフロットも、設計図が公開してあり、基本的にどのパーツでもインターネットで注文することがが可能だが、ジッツオに比べると少々構造が複雑で、分解や組み立てには多少苦労することがある。


   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年12月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ