撮影日記 2015年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2015.11.29 誰に何を伝えたいのか

 10月中旬に、あこがれだった水中写真の達人・中島賢友さんの撮影の様子を少し見せてもらうことができた。おまけに中島さんがあらかじめ話しておいてくださったおかげで、キャリア30年を誇る中島さんの先生にも話をきけた。
 淡水魚の水中写真は、非常に特殊なジャンル。カメラマンの数も情報も少なく、その撮影スタイルは、全員がある意味自分で編み出した我流。人の数だけ独自の工夫があり、
「なるほど、こう来たか!」
 とその頭の中をのぞき込むのは、まるで小さな島で独自の進化を遂げた特殊な生き物たちを見るかのような感覚で楽しい。



  僕の場合は、特殊な撮影でも、陸上でのごく普通の写真と同じように撮ろうと試みることを重視している。
 まず何よりも先に、自然光の状態の見極めから入る。

 それから、自分は誰に何を見せたくて、そのためには写真をどう撮る必要があるのかを整理する。具体的には自然について紹介したいのか、生き物たちにかかわる武田の内面を伝えたいのかを明確にする。そのいずれかによって、写真の撮り方も文章の書き方も違ってくる。
 例えば僕が本のレビューを書くときに、本の詳細を説明するのと、僕の本の見方や感じ方を書くのとでは、似て非なる作業だと言える。
 その点が不明瞭な文章は、主体がない文であり、非常に読みにくい。
 日本人は一般にそこが弱い、とある方が指摘をしておられるのを読んだことがある。
 例えばある芸能人が、「私は子育てを通して、大人になれた」と言うと、「じゃあ、子供がいない人は大人になれないのか」とまるで自分を否定されたかのように受け取った他人が、突っ込みを入れる。
 芸能人はあくまでも「私」のケースを書いているわけだが、日本人にとっての私はしばしば漠然としており、「私たち」というような受け止め方をする人が多く、少なくとも英語で言う「I」とはかなり違ったものなのだと。
 僕もその日本人であり、主語や主体を明確にすることがあまり得意ではないので、意識をする必要がある。
 
 最後に、どうしたそれらの写真を人に見てもらえるのかを、少し考える。
 テレビの番組は、しばしばいいところでコマーシャルに入り、そうすることでチャンネルを変えられずに続きを見てもらうことができるわけだが、その手の作業を業界では「事務作業」と呼ぶのだと以前、コマーシャル写真の専門家から教わったことがある。
 営業的なものの見方と言ってもいいのかもしれない。
 ただし、事務作業が制作よりも先に来たりウエィトが大きくなると大抵失敗するし、恥ずかしながらそれで非常に痛い失敗をした経験がある。
 それは、営業マンがどんなに「こうしたら売れる」と知っていても、「じゃあ、あなたのその知識で自分で売れるものを作ってみてよ」と言われると、手も足も出ないのと同じこと。営業マンは自分が属する組織の利益を追求するわけだが、読者はそれ自体には興味がないのだから、当然だと言える。
 あくまでも、自分が何を誰に伝えたいのかが表現されたコンテンツがなければ始まらないし、そこに「面白い」が生まれるのだと思う。



● 2015.11.28 講演を聞く





 生き物を撮影すると、もっと突っ込んで知りたいなとか見たいなと思う。
 だが、そうした突っ込んだシーンに対する写真のニーズは少ない。例えばカタツムリの写真が売れるとするならば、大抵は人がよく見かける種類であり、特殊な種類や特殊なシーンに対するニーズはほとんどない。
 したがってカメラを仕事にする場合は、ある一線で線を引かざるを得ないのだが、やっぱりもっと見たいなというジレンマに苦しむことになる。1つの対象を延々と追及する研究者のみなさんがうらやましくなる。
 どうしたらそのジレンマから逃れられるのだろうか?
 専門家の講演を聞くのは、とても有効だ。
 講演を聞くと、まるで自分も見たかのような気になれる。自分の代わりに見てきてもらうのだと考えればいい。僕の場合、講演を聞くのは知識や見識を得るためより、そうした理由の方が大きい。
 先日は、魚部(https://www.facebook.com/kitakyushu.gyobu.1044186/?fref=photo)主催の埼玉県立川の博物館学芸員・藤田宏之さんの話を聞きに行った。
 期待通り、自分ではなかなか見に行く機会がないだろうと思われる生き物が紹介され、大満足だ。



 藤田さんの話に続いて、北九州市水環境館・川原二郎さんによるサンショウウオの話。
 九州には、まだ名前がついてそんなに時間がたっていない特殊なサンショウウオが分布し、その中の一種を探しにいったのだそうだ。
 当然、「見つけた!」と話がまとめられるのだろうと思っていたら、見つかりませんでしたという話で一同大爆笑。
 自分が見にいけば、見つかることもあれば見つからないこともあるのは当然であり、見つからなかったという話もまたいいのだ。



● 2015.11.25〜27 議論

 3人の息子を東大理科Vに入学させた教育ママと教育評論家・尾木ママの議論が面白かった。
 受験生に彼女なんていらない、とママが言う。
 理由を簡単に書くと、彼女はどんなに尽くしたところで逃げていく可能性があるけど、大学は逃げないし努力が確実に報われるということ。恋愛なんて大学に入ってからすればいいのだと。
 ふと思い出されたのは、今から20年くらい前の会話だった。
 当時僕はある高校で講師として理科を教えていたのだが、受け持っていた3年生の進学クラスの担任の先生から、
「武田先生!うちのクラスの○○なのですが、受験生だというのに彼女なんか作っていたので、さっき叱りつけてやりました。」
と話しかけられたのだった。
 僕にそう話したということは、先生にとってそれが紛れもなく正しいことだったのだろう。大変な好人物で、人間も大きく、さまざまな価値観が存在するケースで自分の価値観を他人に押し付けるような人ではなかったので、、それ以外に考えられなかった。
 真逆の価値観を実践してきた僕には、大変な衝撃だった。
 あまりに価値観が違い過ぎて面白く、先生をさらに好きになった。
 そう言えば先生の出身校はN高校だったなぁ。
 新設校にありがちな傾向だが、追い付け追い越せの精神で非常に厳しいことで有名であり、戦時中に人を虐待したことで知られる某施設の名前をもじった不名誉なニックネームが付けられていた。当然受験生に彼女は、許されなかっただろう。
 僕が通ったK高校は、逆に緩いので有名だった。
 入学時のレベルや定員がほぼ同等の他の地区の高校で、だいたい大学に現役で一学年200人進学するのに対して、わが母校は50人。
 200人が予備校に進学するという実質4年生を採用しており、学校では一切の詰め込みをしないため学生たちは大きな伸びしろを持ち、予備校では
「うちの予備校に来てこれだけ成績が上がったという実績を示すのに、K高校出身の学生は最適」
 と好まれたのだそうだ。
 ともあれ、こうした議論に答えなどあるはずはなく、価値観の問題に過ぎないが、僕なら、大学は金があれば行けるけど、彼女はお金では買えないと考える。損得よりも、もっと違った何かを求める。
 そしてその同じ路線に、生き物のカメラマンという仕事があったと言える。 



● 2015.11.24 技術屋さん

 経営と技術は、まったく別のこと。
 経営は経営、技術は技術であるというのはよくわかっているつもりだし、技術屋が技術を持っているからという理由で始めた会社が、しばしば経営という視点の欠落から潰れてしまうのも知っているつもりだけど、僕は、技術屋さんがトップを務める組織を好きになる傾向が強い。
 例えば自分の車を整備してもらうのなら、社長自ら整備士であるようなところに持ち込みたいし、機械を買うのなら、技術屋出身の人がトップであるようなメーカーのものをできれば買いたい。
 そうあるべきだ、と言いたいのではなくて、あくまでも僕の好みの話。

 さて、以前にも書いたことがあるが、自分が住んでいる地域で何かをしたい、というのは昔から望んでいたことで、過去には、地域の方々から声をかけてもらった際に、多少一緒にやってみたこともある。
 だがやってみるうちに、そうした場で求められることが、僕が伝えたいこととはかなり違っていると感じるようになり、やがて参加する機会はめっきり少なくなった。
 きっかけになったのは、ある時、「川の水をきれいにしたい」と言われ、きれいって何だろう?と考えさせられたことだった。
 相手の話を素直に受け止めると、きれいな川の水とは清流のような水をイメージしておられるように思えたのだが、生き物の中にはきれいな水を好む生き物もいれば、人間にとって汚い水を好む生き物もいるというのが僕の主張であり、人間にとって素敵な自然の側面だけをピックアップして美しい話にまとめる気にはなれなかった。
 僕らが生きているのは人間の社会なのだから、人の暮らしを考えること自体はとても大切なことだと思うし、敬意を感じているつもりだけど、僕が興味を持っているのは自然であるのに対し、みなさんがやろうとしておられることは、市民による政治に近い概念であると感じたのだった。
 ただ、僕の視点とは違っていたけれども、話を聞いてみて、それはそれでとても面白いと思った。なので、「僕にそれを言わせるのではなくて、自分でそれを話してみては?」 と切り出してみたら、「自分にはその技術がないから。自分なんか・・・」と返ってきた。
 講演の商売をするのなら話は別だが、そうではない場で講演のスペシャリストみたいに上手に話せる必要はないし、プロの写真家みたいな写真を見せる必要なんてないのでは?と感じたものだった。せっかく自分の意見を持っている人は、その意見を誰かに語らせるのではなく、自分の言葉で語ろうとすることが大切ではないかと感じたのだった。
 逆に言うと、技術屋も、経営やマネージメントを多少は勉強すべきではないかとも思う。

 ともあれ、それ以降、仮に人と一緒に何かをするならば、僕の場合は技術屋さんと共にするようになった。生き物が好きで自分で生き物を見ている人とか、研究している人とか、写真に夢中になっている人とか。
 今でも、仕事以外でそうして人と共同作業をすることはあるけど、ご一緒させてもらっている人はみんな技術屋さんであり、普段から、自分で取ったデータで自分の主張をしている人なのだ。
 コーディネーターとかプロの経営者などという、技術者を使う存在を決して否定するつもりはないし、これはあくまでも僕にとっての合う合わないの話に過ぎない。
 今日は、これから、そうした技術屋さんの集まりに参加してみる。



● 2015.11.18〜23 編集の話



 カタツムリハンドブックで取り上げたカタツムリが、約150種類。もっと撮影して、より本格的なものも作りたいなと思う。
 が、そんな本を作っても黒字になる確率は極めて低い。いや、低いどころか、おそらく黒字はあり得ない話であり、やるとするならば道楽になるので、費用の問題がある。
 さて、どうしたらいいのかな?

 滝や地形の写真を撮っていると、糞や食痕や殻など、カタツムリの痕跡が目立つ。地形が面白い場所にはカタツムリが多いので、それらの写真を撮りながら、ついでにカタツムリを探すという手はあり得なくはないなぁ。
 本当の意味で好きではないものを何か別の事情で撮影して通用するほどこの世界は甘くないけど、幸い僕は地形には大変に興味がある。元々、地球〜小さな生き物までがきちんとつながっている世界を表現したいという思いは強い。
 ただし、それらの滝や地形の写真が、大カタツムリ図鑑を可能にするほど売れるかどうか・・・。

 仮に多少なりとも売れるとするならば、写真の使い道は、ガイドブック的な用途になるだろう。
 ガイドブックの場合は、求められるのは美術的にキレイな写真ではなく、その場を訪れる人にとって欲しい情報がきちんと写っている写真になる。カメラマンはよく、「きれいなところだけを切り取れ」というけれども、ガイドブック的な用途の写真なら滝なら周囲の雰囲気も含めて全体像がよくわかるということが第一で、それを満たす範囲で、なるべくきれいにということになるのかな。
 少なくとも、洒落た光や切り取り方で武田晋一ワールドを表現しても、その手の写真にほとんどニーズはないだろう。
 説明的な写真も自由な写真も両方撮ればいい、という方もおられるが、両者は頭の使い方がまったく違っており、これまたそんなに甘いものではない。
 ともあれ、大カタツムリ図鑑を作るためには、目の前の景色をどう撮影すべきか・・・。
 写真をどこでどんな風に使うのかを考えるのは『編集』と呼ばれる作業になるが、編集は非常に重要な作業であり、編集をしながら写真を撮り、編集をしながら写真を整理する。

 プロとは何か?という議論がある。
 ごくごく一般的には、それで食っている人のことをプロと呼ぶので僕はその定義を採用して物を書くけど、個人的には、「編集」の有無がプロとアマの最大の違いであり、「編集」をしながら写真を撮っている人がプロであると考えている。
 うちの本棚には滝のガイドブックが何冊かあり、それらをただの写真として見ると、
「ただ写ってるだけじゃん。」
 と内心感じたりもするのだが、ガイドブックとしてみると、
「よく説明できてるなぁ。むちゃくちゃ写真上手い!」 
 と痺れさせられる。



● 2015.11.16〜17 アカミミガメの話

 以前は、例えばライオンがシマウマを食べるシーンをテレビの番組などで見ても、それが当たり前なんだと思った。
 かわいそうなどと感情移入をする人はどちらかと言えば嫌いだったし、そんなことを言う人は、知識が足りなかったり、間違えている人だと固く信じていた。
 ところが近年は、違った感じ方をするようになってきた。
 ライオンがシマウマを食べるのが当たり前だという気持ちは、以前から寸分も変わってないと思うのだが、同時に、やっぱり悲しいなという思いが無性に込み上げてきて、自分の中に矛盾する2つの思いが混在するようになってきた。
 シマウマがかわいそうという人が間違えていたのではなく、自分にその気持ちが理解できなかっただけだった。
 ライオンが獲物を食べるのが人にとって本当に当たり前ならば、言い換えると人がそれほど理屈通りに生きることができるならば、宗教なんていらないだろうし、信教の自由を保障する必要もないだろう。

 さて、この時期、冬を迎えるための準備が案外忙しい。
 カタツムリやカエルは、完全には冬眠をさせないようにして、少量の餌を与えて冬をやり過ごす。
 魚は、冬越しの際の水があまり新しすぎない方がいいので、適当なタイミングで水換えをして、ほどほどに水が汚れた状態にした上で、あとは餌を与えないようにして春まで放っておく。
 亀も魚同様、適当な時期に水を換え、あとは放置する。
 先日は、その亀の冬越し前の最後の水換えをした。
 中でもアカミミガメは、決して飼いたくて飼っているわけではなく、確か17〜18年前だったと思うが、撮影に必要でしかたなく買ったもの。
 しかしよく考えてみれば、その時もらったはずのギャラよりも、その後の亀の維持費の方が高くついているはずなので、何とバカな仕事を引き受けてしまったのだろうと思う。
 川や池に放たれて問題化しつつあるアカミミガメだが、川に捨ている人の気持ちが、なるほどなぁ〜ととてもよくわかった。17〜18年と言えば、実に、いろいろなことが起きる。飼えなくなる人もたくさん出てくるだろうし、それを買う段階で正しく認識できる人の方が少数派ではなかろうかと思う。
 野に放つくらいならば殺処分せよという意見や、野生化したもの駆除することを、僕は今でも基本的には支持するけれども、僕のように考える人ばかりだったなら、多分人の社会は成り立たないんだろうなぁと思い知らされることが、近年多くなってきた。



● 2015.11.13〜15 講演会

魚部主催の講演会に参加した。
まずは、魚部副代表・上野さんの挨拶。


Nikon1 V3 1 NIKKOR 18.5mm f/1.8 Capture NX-D

続いて、湿地帯中毒の著者・中島淳さんによる、魚の研究の最新の部分のお話。
個人的には、ドジョウの遺伝子の研究が、大変に興味深かった。


Nikon1 V3 1 NIKKOR 18.5mm f/1.8 Capture NX-D



途中、投網の指導があり、


Nikon1 V3 1 NIKKOR 18.5mm f/1.8 Capture NX-D

Nikon1 V3 1 NIKKOR 18.5mm f/1.8 Capture NX-D

Nikon1 V3 1 NIKKOR 18.5mm f/1.8 Capture NX-D

 講演終了後は、魚部基地と呼ばれるあじとで食事とお話。

Nikon1 V3 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6 PD-ZOOM Capture NX-D

 以前、入部したらと誘った知人に、今度はせっかく入部したんだから講演会に参加してみたらと案内しておいたら、
「とても楽しかった。」
 と喜んでおられたので一安心。とにかく、楽しかった!

 魚部基地では、若いメンバーからカメラについて聞かれた。
 一人は、僕が持っていたニコン1に興味を示し、その特徴や一眼レフとの違いを説明したら一生懸命メモを取っていた。あとの一人は、「今は受験生だけど来年高校生になったらカメラを始めたくて・・・」と生き物に限らずきれいに撮りたいのだそうだ。
 そんなことを聞かれると、楽しみだなと思う。
 すごい「場」が、できかかっている。
 魚部はこちら



● 2015.11.11〜12 虎の子の一匹

 昨日のアゲハの幼虫は、実は捕まえるのに苦労した。時期的にすでに蛹になって越冬に入っているようで、思い当る場所を散々探して、ようやくたった2匹見つかった。
 持ち帰って庭のみかんの樹に止まらせてネットをかけておいたら、口の縛り方が悪かったようで一匹逃げ出した。蛹になるにはほんのちょっと小さかったので、幼虫が葉っぱに止まっているはずだと思ったのだが、どうしても見つけ出すことはできなかった。
 あるいは、鳥に持ち去られたのか。
 残った虎の子の一匹は、昨日の午前中に、蛹になる直前の前蛹と呼ばれる段階になった。
 代わりにナガサキアゲハの幼虫なら、まだかなりの数が見つかった。中には11月の産卵としか思えないような若齢のものも見つかった。
 見つけても見つけても、アゲハではなくナガサキアゲハだった。
 最初、うちの近所ではアゲハが減ってナガサキアゲハが増えているのかな?と思ったのだが、普段アゲハが優勢な場所でも、今の時期に限ってはナガサキアゲハの幼虫ばかりが採れることから、おそらくナガサキアゲハの幼虫の方が遅い時期まで存在するのだと思う。
 春一番最初に見るのはナガサキアゲハではなくアゲハなので、アゲハの方が全体に前にずれているのかな?
 季節外れの撮影リクエストの結果、いままで気付かなかったことに気付くことができた。
 出版社の企画の時期の関係で、たまに季節外れのものを要求されることがあるが、やってみると、それによってはじめて気づくことが多い。普段の自分なら絶対にやらないことをやらせられ、それによって自分の世界が広がるというのが、僕にとっての仕事の面白さだと言える。

 ただし、季節外れの撮影を成し遂げるには、時には無理をしなければならない場合もあり、その無理の質次第では、仕事を引き受けることにためらいも感じる場合もある。
 近年は、「やらせ」という言葉がよくつかわれるが、シーンを作らなければ撮れないケースもある。
 以前、そうした撮影で、一生懸命頑張ったものの、ギャラをもらった後であとでお断りするべきだったと後悔したことがあった。
 元々、お金が欲しかったわけではなかった。
 僕は普段、「適当である」というのをとても重視していて融通が利かない人が好きではないので、逆に自分がリクエストされた時には融通を利かせて相手のリクエストに応えてあげたいと込み上げてしまうのだ。
 しかし作り物の度が過ぎると、読者をだますことになると感じた。以降、仮にシーンを作る場合でも、読者の人に対してこうやって撮影したんですよと隠さず説明することができ、その説明をわぁ〜と楽しんだり喜んでもらえそうな範囲というのを、自分の基準とすることにした。
 何が許される演出で何が騙すことに該当するのかは、現場で何をしなけらばならないか、その全貌をわかっているカメラマンにしか判断できないので、カメラマンがそれを放棄すると、自然に関する出版の世界の信頼性が損なわれてしまう可能性があるから。
 ただしコマーシャルやエンターテインメントなら話は別になる。
 したがって、無理をしなければ撮れないシーンの絵コンテをもらった時に、僕は一番最初に、それがコマーシャルやエンターテインメントなのか、何か具体的なことを伝えようとしているのかを最初に判断する。



● 2015.11.10 芋虫の思い出



 小学校の同級生だったT君とK君は、クラスの中の別格な存在だった。
 T君は、スポーツも学業も万能。
 リーダーシップに優れ包容力があり、だらしない僕にとっては、困った時に守ってもらわなければならない保護者に近いほどの存在。県下の公立高校で最も難しい進学校へと進み、そこで野球部のキャプテンになり、甲子園に出場するなど活躍もした。
 いっしょに生き物の話をした記憶はない。何か1つのことに一時的にのめり込むようなタイプではなく、もっと先を見て、広くバランスよく物事に関心を持つ、大人の正統派エリートだった。
 毎年1学期の一番最初の学級委員になるのは、T君だった。T君に匹敵するほどの誰もが認めるパーフェクトなリーダーには、僕のその後の人生でまだ出会ってない。
 K君の方は、中学校に上がる時に、日本で最も難しい私立中学の1つに進学した。
 穏やかでやさしい性格の持ち主だった。
 生き物に狂っていたわけではないけど、決して嫌いではなく、何度か一緒に採集に行った記憶がある。
 そのK君が、ある時、アゲハの幼虫を学校に持ってきて先生に褒められた。
「図書館のみかんの樹で捕まえたって。みんなも見に行ってごらん。みかんの樹を探したところが立派、さすがK君やね。」
 と。
 K君がうらやましかった。褒められたからではなく、アゲハの幼虫を見つけたから。自分も見たいと思っていたのに、見たことがなかった。
 当時僕の身の回りには生き物について実地で教えてくれる大人がおらず、図鑑がすべてだった。そして本の世界しか知らない者にとって、みかんの樹などと言われても、見分けがつくわけないと最初から諦めていた。
 半信半疑で図書館に行ってみたら、やっぱりみかんは分からなかったけど、門のところの樹に確かにアゲハの幼虫がついていた。
 死ぬほど幼虫が欲しくなり、持って帰らざるを得ない心持になって手に取ろうとしたら、黄色い角が出てきて嗅いだことがない臭いがしたのでビックリした。
 アゲハの件に限らず、K君は、先生に褒められるような生き物、つまり教科書に出てくる生き物を見つけるのが上手かった。
 いや、生き物に限らず、同じように先生に褒められることが多く、ある時、身近なお店について どこでもいいから 何か調べてくるという宿題が出た時には、公設市場を取り上げ、公設であったことがやはり評価された。
 僕はそれを聞いて、
「先生、どこでもいいって言ったやん。」
 と強く感じ、それ故にいまだにその日のことを覚えているのだが、日本人が使う「どこでもいい」は、決してどこでもいいわけではなく、ものをはっきり言わずに相手の方に自分の意図を悟れと求める人が多いことは、今ならよくわかる。
 ともあれ、K君は大人の話をよく聞き、素直で、加えてセンスが良かったんだろうなぁ。ただよくできるというのではなく、人の心を打つ何かがあった。



 モンシロチョウの幼虫を初めて見せてくれたのも、K君だった。
「前に、ここにいたよ」
 と連れて行ってくれたのは、キャベツ畑。
 キャベツにくっついた幼虫を見て夢中になった。そして蛹を見つけた時には、そのあまりのカッコよさと神聖さで、卒倒しそうになった。
 一方で僕が普段見つける芋虫は、仮に先生に名前を聞いても、決して名前が分からないようなものばかりだった。

(更新のお知らせ)
今月の水辺を更新しました。



● 2015.11.9 湿地帯中毒

 今月の水辺を更新しました。



● 2015.11.7〜8 湿地帯中毒



 中島淳さんの著作
 僕がよく知っている川が出てきたり、共通の知人が登場したりということもあるけど、それを差し引いても、とても面白い本だと思う。
 なぜ生き物を採集するのか?とか、 なぜ採集を禁止するのか?とか、なぜ生き物を分類し名前をつけるのか?そんなに分ける必要があるのか?とか、長年生き物に触れている人でも案外答えにくいことが、感覚的にとてもよく書かれているように感じる。

 それから、文章がとても読みやすい。
 研究者は、自分の言いたいことが間違って伝わることや曲解されることを大変に嫌う。したがって、こうとしか読めないように書くのが原則であり、だいたい文章にうるさい。
 一方で、絶対に誤解されないように書くと、普通に読む文章としては読みにくくなる。
 こうとしか読めない文章が読みにくいのか?それはむしろ読みやすいのではないか?と感じる方もおられるだろう。
 論文がこうとしか読めないように書いてあって、その結果読みにくいのだが、論文なんて読んだことがない方もおられるだろうから、新聞を思い出してもらえればいいと思う。
 新聞は、案外読みにくい。
 その点、中島さんの文章は、絶妙な落としどころに落ちていて、生き物は好きだけど本を読む気にはなれない、自らを「労働者系」と称しているような人にも、もしかしたら楽しく読めるのではないかという気がする。




● 2015.11.3〜6 ぎょぶる 第2号

 前にも書いたことがあるが、僕は極めつけの団体嫌い。
 その僕が、唯一、入りたいと思ったのがぎょぶ(魚部)で、そのぎょぶの雑誌が「ぎょぶる(魚部る)」。ぎょぶるに「自然写真家の仕事」を連載中です。



ぎょぶるについては、https://www.facebook.com/kitakyushu.gyobu.1044186/ をご覧ください。会に興味を感じる方は、上記URLの10/30の 「入会申込書をすこしシンプルに改訂しました。」という記載をご覧ください。

 極めつけの団体嫌いの僕が、ぎょぶなら入りたいと思った理由は、多くの団体が集うことが目的になったり、多少なりとも組織の論理で動くのに対して、ぎょぶは、あくまでも、水辺の生き物がたまらなく好きということが唯一無二の動機になっていて、ただひたすらに面白そうだったこと。
 ぎょぶるにしても、作ることが目的ではなく面白いが動機になっているのは、読んでみれば、大半の人に伝わるのではなかろうか、と思う。
 面白いは、おそらく心が本当の意味で自由でなければ表現できにくいものなので、単純なようで、なかなか難しい。
 邪念があると、よくできているくらいまでなら行けても、面白いには到達できにくい。
 あるいは 「面白い」に比べると、世間で評価される「真面目」などというのは遥かに楽ちんなことで、むしろ手抜きであるという気さえしてくる。



● 2015.11.1〜2 車内泊と水平

 車の中で眠る際に寝床の水平がとれていないと、体のどこか一点に体重がかかり、睡眠中に体が痛くなりやすい。
 車内泊での取材の際に、電源以上に得難いのが、水平だ。
 せいぜい4〜5日の取材であれば大したことはないのだが、1週間、2週間と長くなってくると苦になり始める。
 そこで過去にはいろいろなマットレスを試したものだが、結局車を水平な場所に止めること意外に有効な解決方法はなかった。
 ただ、車に水準器を積みなるべく水平な場所に止めようとはするのだが、一般に駐車場は水はけをよくするために水平にはならないように作ってある。車のサスペンションを利用して、ボタン1つで車内の水平をとれるような仕組みがあれば・・・などと妄想をしてしまう。
 僕がよく車を止めるのは高速道路のPAか道の駅で、いずれもトイレがあり車内泊をする人がそこそこ存在するため職務質問などを受けにくい。特に高速道路は有料である分、浮浪者狩りなどのターゲットになる確率が低くより安全だと言えるし、そこそこの間隔でPAやSAがあり眠たくなったらすぐに運転をやめられるので居眠り運転をしてしまう危険も下がる。
 が、その高速道路の駐車場には傾きが大きい場合が多い。
 上下(頭から足の方向)の傾きに関してはあまり気にならないものなので、左右だけ水平を確保すればいいと考えれば、車を止める向きを考えることで基本的にどんな駐車場にもそれが可能な向きは存在するのだが、問題は駐車場に引かれたラインで、ラインを無視して車を止めた結果怪しいやつだと見なされると、職務質問などをされると面倒になる。
 職務質問の頻度に関しては地域によって差があり、非常に職質に熱心な県や地域が存在し、深夜の1時2時に起こされる場合もある。
 ともあれ、車内泊での取材から帰宅をすると、ベッドが水平であることに感激させられる。
「気持ちいい〜、超気持ちいい。」
 と叫びたくなるほどだ。

 車内泊をする場合は、絶対に油断しないことが肝心。
 昔、熊本県の山の中で、車の中に寝ている最中に
「お〜い武田く〜ん。」
 と名前を呼ばれた。偶然にも知り合いのお巡りさんが通りかかったのだった。
 暑い日だったので窓を開け、網戸を取り付けて寝ていたのだが、
「あんた、窓を開けて車の中で寝るような真似は絶対にしたらいかんばい。俺たちはそんなことしようってトラブルに巻き込まれた人を何人も見てきとんるやから。」
 と注意を受けた。
 以降、車に外気温を測定できる温度計を取り付け、気温が高い日には山間の谷沿いの駐車場など、気温が低い場所を探して眠るように改めた。
 探してみるとそうした場所は結構あるもので、平地の道の駅で、夏の夜車内の温度が30度を下らないような日でも、探せば25度くらいの場所が見つかる場合が多い。
 外気温は、冬場の運転の際にも役に立つ。
 雪がある環境で0度前後の日は、特に滑りやすいので要注意だ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年11月分


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