撮影日記 2015年10月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2015.10.23〜31 車内泊と電源

 フィルムからデジタルへとカメラが移行する際に厄介だったのが、車内泊での取材の際の電源の確保だった。
 当時は今よりもカメラの電池の持ちが悪く、フルチャージした充電池を一日に2本も3本も使い切ることもあり、それらを翌日までに車の中で充電するのは骨が折れた。
 長距離の移動の日なら運転中にシガーライターから充電できるが、そうではない場合、電源の確保のために車のエンジンをかけアイドリングさせる必要があった。充電用に別にバッテリーを積んでも、今度はそのバッテリーをどこかで充電しなければならず、とにかく煩わしかった。
 その手の問題は今でも決して解決をしたわけではなく、カメラの電池の持ちは当時より良くなったけど、複数のカメラの複数の電池を同時に使い果たした日などは、やはり充電のためにエンジンをかける必要が生じる場合がある。
 1種類の電池を使いまわせるように、一時期最大で4社のデジタルカメラを使用したのを、今では特殊な撮影でない限りニコン1種類に減らし、一眼レフとミラーレスカメラとで合計2種類の充電池しか使わないようにした。
 日本の主なデジタルカメラのメーカーで、僕が唯一ちゃんと使ったことがないのがフジのカメラだが、カメラ屋さんで見たり触ったりするたびに、いいなぁと思う。欲しいなぁと思う。だが、自分の取材のスタイルでの電池の充電の問題を考えると、まぁ、買っても結局使わなくなってしまうかな、と欲しい気持ちを却下する。
 お金がかからないので、それも良しかな。
 
 高画素のカメラで大量の写真を撮影した日には、データをハードディスクにコピーするだけでかなりの時間がかかる。USB2.0の時代には、ひどい日には2時間を要したこともあった。
 僕は、取材にもっていくノートパソコンなんてデータのコピーさえできれば十分と思っているのだが、コピーに要する時間短縮のためにUSB3.0搭載のものに買い替えたりした。
 家庭用の電源って便利だなぁ、ありがたいなぁ、と車内泊での取材に出かけると、しみじみ思う。
 自然を大好きな人間として、「脱化石燃料」とか「脱原発」と大きな声で言えればカッコいいし旗印としてもわかりやすいと思うけど、一方で電源の確保に苦労をする状況に長くおかれ、そのありがたさを痛感する者として、そんなことは迂闊に言いたくない気持ちもある。
 照明器具やカメラをリモートコントロールするアクセサリーなどの電源に関しては、フィルムの時代には充電式の乾電池を使用していたが、とにかく充電しなければならないものが多い最近は、使い捨ての乾電池へと逆戻りした。
 使い捨ても決して好きではないのだが・・・

 僕の場合、連続30日の取材に耐えることを目途に、車内泊での装備を整える。したがって一か月間使い続けられないやり方は、基本的に却下する。
 2〜3日程度なら、例えば、フルチャージした電池をたくさん持っていけば、自宅での暮らしの延長が続けられるのだが、4〜5日間を超えてくると徐々に事情が違ってくる。
 電源がなければ夜は早い時間に真っ暗になってしまうため、夜間の探索でもしない限り、早く寝ることになる。
 その分、朝は早い時間帯に勝手に目が覚める。起床の時刻が、取材初日は6時だったものが、期間が長くなるにつれて、5時、4時と前にずれ込んでいく。
 産業革命以前の大昔の人って、何時頃に寝ていつ頃起きて、どんな日常生活を送っていたんだろうな?
 教科書に出てくるような歴史じゃなくて、何でもない日常を知りたい。



● 2015.10.21〜22 子供という存在

 尾木ママとか夜回り先生とか、いつも子供たちの味方で、子供に優しいなぁと思う。
 一方で、大人に対してはなかなか厳しい。
 でもその大人も以前は子供だったのであり、大人と子供は連続していることを思えば、子供にやさしくその分大人に厳しいことに対して、何となく違和感を感じることもある。
 どこからが子供で、どこからが大人なのか?
 法の上で杓子定規に決めることなら簡単。だが、彼らが普段主張していることは、法の問題とか、そんな杓子定規な話ではないはず。
 子供が何か問題を起こした時に怒るのではなく、「どうしたの?」と聞くのが尾木ママ流ならば、大人にも「どうしたの?」 と聞くのが筋なんじゃないか?と感じる。
 今「どうしたの?」と声をかけてもらえる子供も、ほんの数年後にはむしろ厳しく接される立場になることを思うと、子供にだけ優しいというのは、どこか引っかかるのだ。
 そんな風に思うのは、多分、僕自身、年齢は大人でも、大人になりきれてないからであり、自分自身を見つめた時に大人と子供の線引きなんてできないからかな。なかなか大人になれないなぁと感じる瞬間は多い。
 「子供向けの本」という本の分類にも、違和感を感じることがある。
 大人でも読むに値する本を、子供にも読める表記で作るというのならわかるのだが、子供の姿だけを思い浮かべながら作る気には、なれない。
 ただ、言うこと、考えること・・・、子供って面白いな〜としばしば思う。
 僕は撮影中に人から話しかけられるのはあまり好きではないのに、子供なら全く気にならないどころか楽しく感じることが多いのは、以前から自分でも不思議に感じていた。
 なぜかな?と考えてみると、決して相手が子供だから手加減をしているのではなく、子供の話が面白いのだ。
 大人の話は、退屈である場合が多い。
 だいたい何を言うかは決まっているし、どこかで聞いたことがある話が多くて、閉塞感を感じてしまう。多分僕は、カメラを構えている時に話しかけられること自体が嫌なのではなく、その面白くなさが嫌なのかな。

 さて、先日の取材中に、近所の子供が何度もマスの様子を見に来た。
 のべ7日間の取材期間中に、いったい何度見に来ただろう。学校が休みの日には、早朝、僕よりも先に川に到着している日もあった。
 少しだけ、網を持って一緒に水辺の生き物を採集してみたりもしたのだが、本当の意味で夢中になって生き物を探す姿に心を動かされる感じがした。
 とにかく見たいというあの思い。あの集中力って何なのだろうな?
 大人は、仮に、
「私は生き物が好き。」
 という人でも、それは大抵、ごくごく常識的な範囲で好きなのに過ぎず、体ごと、心ごと、それが好きという人にはなかなか出会えない。
 大人が面白くないことが決して悪いわけではなく、それが大切であるケースもたくさんあり、僕が書いているのはあくまでも、写真を撮るとか、生き物を研究するとか、生き物の本を作るなどという行為の場合の話に過ぎないのだが。



● 2015.10.20 マスの産卵(後編)

 たしか山と渓谷社のムックのような本だったと思うのだが、何人かのプロの自然写真家が集まった上で対談をするという企画があり、その中で誰かが、
「プロはアマチュアには勝てない。」
 と発言しておられるのを読んだことがある。
 他のメンバーから異論が出るに違いなと即座に感じたのだが、意外にも、誰もその発言を否定することはなかった。
 僕が大学生の頃の話で、正確に書くと、対談というよりは語らいのような雰囲気だったように記憶している。
 当時の僕には、「プロはアマチュアに勝てない」 がどうしても理解できなかった。プロなんだから、そんなことあっていいはずはない、と。
 ところが自分が自然写真の仕事をしてみると、言わんとすることが痛いくらいによくわかる。
 例えば鹿児島県の桜島で火山の噴火にカメラを向けるとする。その時に、地元の方々がこれまでに撮影してこられた傑作写真を超える写真を僕が撮るのは難しい。
 何年にもわたって日常的に何度も何度も同じ場所に通い詰め、それを中心に撮影しておられる方を超えるのは、時間やコストに制限があるプロには、ほぼ不可能だと言える。
 桜島に限らず、全国どこで何を撮影しても、たいてい同じことが言える。
 ただしその場合のアマチュアとは、いわゆるただの趣味として写真を撮ったり自然を観察しているアマチュアではなく、それを生活費にしようとしていないだけで、生き物の観察や写真をライフワークにし、自分の世界を確立しておられる方のこと。
 僕はそうした方々を、勝手に「達人」と呼んでいる。ある特定の分野に関しては、達人はプロよりも明らかにスゴイのだ。

 さて、自分が写真を撮りたい光線(天候と時間帯)状況の間に、目の前でマスに卵を産んでもらうにはどんな撮影の方法がベストなのか?
 先日の取材の際には、達人たちにそれぞれのやり方を見せてもらうことができ、大変に教えられることが多かった。


博士・T村さん

魚の写真がムチャウマなK友さん

ワイルドだろう〜としか言いようがないN野さん

 画像の3人の他に、水中の動画を撮って見せてくださったK川さんも現場におられたのだが、別の場所で撮影しておられた時間が長かったので、画像がないのが残念。

 近々取材を控えているにも拘わらず、数日前から、肩がとても痛くて困っている。
 症状は、巷で耳にする四十肩とか五十肩に一致する。痛くないのは横になっている時だけで、他の時間帯には常にかなりの痛みがあるのだから、面白くない。
 最初に本格的にそれを発症したのは三十代の時で、水中撮影のあとだった。水温12度の渓流に長時間潜ったあとで車の中で昼寝をして、目を覚ましたら痛くなっていた。
 その時は、耐えがたい痛みが二か月くらい続いた。以降、たまに発病するようになった。
 ひどく発症する前には予兆があるので、その時にはまずはパソコンに触る時間を最低限にする。パソコンは、とにかく良くない。
 それから、無理な姿勢をなるべく取らないようにして、まめにストレッチ運動をするように心掛ける。
 首や上体を後ろ側にそらせると痛みが増す。
 困ったことに、カメラを持って水に潜り匍匐前進で生き物に近づく際に、首や上体がその痛い姿勢に近くなる。
 今では水中撮影用の機材にさまざまなオプションが増え、より楽な姿勢でカメラを構えることが可能になったが、僕が痛みを発症した当時はそうした用品が一切存在せず、水中での撮影は肩痛を発症した僕にとって苦行になった。
 より楽に構えることができる水中用の機材を特注しようかと思ったのだが、ちょうど世の中がフィルムからデジタルへと移行をする時期であり、デジタルで特注するには早過ぎ、フィルムで特注するには遅すぎた。
 やがて比較的安くてコンパクトながら高画質なキヤノンのEOS5Dが登場し、その画質はかなり長く通用するだろうと思えたので、EOS5Dをベースに、水中撮影用の機材を特注することになった。
 ところで、肩を痛めたのは、僕の潜り方が間違えていたのかな?という疑問があった。
 というのは、僕は海でダイビングをしたことがないので、ダイバーの方々が一般的にどんな風にやっておられるのかをよく知らないのだ。
 今回の取材では、N野さんが川に潜って写真を撮って見せてくださったのだが、意外にも、僕がやっていたのとほぼ同じスタイルだった。
 ただ違いは、N野さんはむちゃくちゃに体が強いということ。
 同じことをやっても、それを苦とも感じておられないようだった。



● 2015.10.14〜19 マスの産卵(前編)



 まだフィルムの時代に撮影した一枚の水中写真。
 当時水中用として使用していたニコンf801Sは名作と言っても言い過ぎではない素晴らしいカメラだったが、防水ケースに収めた上でケースの外から操作をすることに関しては操作性が悪く、水中ではストレスを感じるカメラだった。
 白泡の中を泳いでいるのはヤマメ。この日撮影した他のフィルムを拡大してみると、淵の隅っこにはイワナの仲間のゴギも写っていた。
 こうした情景の中でイワナやヤマメなどのマスの仲間が産卵をしているシーンを撮りたくて、今回は、合計で7日ほどロケハンやさまざまなテストをしてきた。
 冬の間に機材に工夫を施し、本番の撮影は来年以降になる。



 まずは、目指すシーンになるべく近いイメージの状況を探した。
 これから産卵をするために産卵床に構えているペアーが、もしももう少し前に産卵床を掘ってくれれば、目指すイメージにそれなりに近い感じになったことだろう。
 問題は、スポットライトのような光が心地よく水の中に差し込んでいる時間帯に、マスが産卵をしてくれるかどうか。
 この場所ではその可能性もゼロではないことが、今回確かめられたが、カメラを水に沈めると魚が嫌がり、本来の時刻よりも産卵が後ろにずれ込みがちであり、そうなると、僕が欲しい光ではなくなってしまう。



 マスは産卵を終えると卵に砂利をかけるが、その際に巻き上げられ卵が見える。
 産卵のシーンもいいけど平凡とも言えるので、産卵後に尾びれを使ってメスが卵を埋め戻す際に卵が水中を舞っているようなシーンで絵にできれば、一枚で見せる写真としては、よりお話として面白いかな。



● 2015.10.13 みんなが見ているものは何?


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR NX-D

NikonD800 Ai AF-S Nikkor ED 600mm F4DII(IF) Capture NX-D

 みんなが見ているのは、これから産卵をしようとしているサツキマスのつがい。
 このあと、夕刻まじかに産卵行動が始まった。

 もうずいぶん前のことになるが、ある時期マスの撮影に夢中になったことがあり、ちょうど今頃の季節に、毎週のように山に入っては渓流に潜ったものだった。
 当時は、週に3〜4日ほど高校で理科を教える講師として仕事をしていたので、その週の最後の授業が終わると、熊本県の五家荘や宮崎県の椎葉まで、毎週毎週車を走らせたものだった。
 何年くらいのことだったかな?と記録を探してみたのだが、パソコンの普及でデータの整理方法が変わってしまい、当時紙に打ち出したものを挟んだファイルを短時間では見つけ出すことができなかった。
 ただ、その頃高校で教えていた学生が僕のフェイスブックの友達の中に数名いて、みんな今やおっさん、おばさんになっていることから判断するに、20年近く前の話になる。
 五家荘にしても椎葉にしても、谷がとても深かったり潜りたい場所に降りることができる小道がなかったりして、空気のタンクや体を沈めるためのおもりなど、重たい潜水道具をポイントまで持ち込むのには大変に苦労した。
 が、その分、抜群の水の透明度と魚の濃さとで、僕にとっては特別な場所だった。

 悪いことも起きた。
 取材からの帰りに熊本県で信号待ちをしていたら、一台の車が突っ込んできて正面衝突。車の修理には時間がかかり、その後数週間を代車でしのぐことになった。
 今で言う道の駅みたいな場所があれば、代車でも大きな問題はないのだが、僕が入っていた沢は、道の駅どころか、車で一時間近く走らなければ小さな売店さえもなく、車内泊の装備も工夫もない車ではなかなかしんどかった。
 その後、道路や河川の工事で何となく水が濁っていることが増えたり、九州には本来生息しないイワナが放たれ大繁殖をして、特別な場所は何となく楽しくない場所へと様変わりをはじめた。
 そんなある日、長時間の水中撮影で体が冷え切り、おそらく頭は朦朧とし足取りが怪しくなっていたのだと思うが、転んで手に持っていた水中撮影用の高価なレンズが粉々になった。
 おそらくというのは、ふと気付いた時には、僕はすでに川辺に這いつくばっていて、それまでの記憶がないのだ。
 ともあれ、水辺の環境の変化に加え、壊してしまった道具の代わりを買うお金がなく当分水中での撮影ができなくなったこともあって、しばらくマスの撮影からは遠ざかっていた。



● 2015.10.12 カタツムリの飼育



 生き物を飼うには、容器が大きい方が有利。だが容器が大きいと場所を取る。
 そこで、狭い場所を上手に広く使いたい。そんな動機でカタツムリの飼育容器の中に波板を入れてみたことは、以前書いた。
 波板を入れなければ、カタツムリが利用できるのは容器の四方の側面と床と蓋だけであり、中央の空間は無駄になるが、そこに波板を立てることでカタツムリが這いまわることが可能な面積が広くなり、カタツムリにとって容器が大きくなったのと同じ効果が得られるのではないかと考えたのだった。
 その効果の有無を正式に主張しようと思うのなら、不要な要素を徹底してそぎ落とした実験が必要になる。
 例えば画像のように波板を置けば、這いまわれる面積が広くなることの他に、波板の隙間になる部分の湿度も変わってくるだろうし、仮にカタツムリの成長が良くなったとしても、その理由が面積が広くなったからなのか、湿度が変わったからなのかを確かめることができない。
 したがって実験をする場合は、例えば湿度に影響を与えないようにもっと違ったやり方で容器内の面積を広くする必要がある。
 が、それは間違いなく味気ない飼い方になるはずで、僕の場合はそこまでするつもりはない。
 ただ多分、カタツムリにとってよりよい環境になるのはほぼ間違いないことで、波板を立ててみた翌日にもすぐに実感できた。
 カタツムリが這いまわる時や休む時に、波板をよく利用するのだ。
 波板があることで、容器内にいろいろな明るさの場所、いろいろな湿度の場所ができるため、カタツムリが自分が過ごしやすい部分を多少選べるようになり、その効果もあるのではないかと期待している。
「ああ、カタツムリってこんな生き物だよな。」
 、と飼育容器の中を見て実感できる機会が激増した。



 次なる飼育の改善点は、多くのカタツムリにとって実は結構重要とされている空気の入れ替わり。ファンまたはエアーポンプを使って容器の中に新しい空気が流れ込むようにする。
 さらに照明器具はあった方がいい。
 照明器具があることで、珪藻が生え、それがカタツムリのいい餌になるはず。
 珪藻を生やすには水分があった方がいいので、容器の一部にチョロチョロっと水を流すことができれば・・・。4つの側面の中の一面だけ、ごく少量の水でいいので、滝のようにできればと思う。
 しかし水を流すのは、工作が少々面倒かな。
 昔、オオクワガタの菌糸瓶による飼い方が確立される以前、浜田式と呼ばれる飼い方があったが、波板を利用した飼育法は武田式と称して特許を取得する予定だ(嘘)。



● 2015.10.8〜11 ノーベル賞

 ノーベル賞の受賞者へのインタビューがつまらないという意見をいくつか見聞きしたが、同感。インタビューをする側が引き出そうとするのが、ひたすらにべたな感動の物語であることには、毎回ガッカリ。
 受賞内容よりもその人がキャラクターの方に興味が集まり、しかもそこで求められるのは、謙虚でいい人という人物像である場合が多い。
 日本の社会は、謙虚さや自分犠牲みたいなものをひたすらに好む。
 写真の世界の場合は、一般に日本の社会で良しとされる人間性とは逆のものが、しばしば大切になる。
 日本の社会では、控えめに、言いたいことは押さえて、はっきりものを言わずにぼかして伝えることが良しとされるが、写真の場合は自己主張の世界であり、はっきり意見を言えることが大切であり、そんな人が大抵いい写真を撮る。
 別にどちらが正しいわけでもなく、人がどうあるべきかは、時と場合によって違ってくる。

 控えめが好まれるから、と言って多くの日本人に意見がないのか?と言えば、そんなことはないように感じる。
 僕は今では大変に付き合いが悪くて、滅多に人との共同作業にはかかわらないけど、以前は、声をかけられればいろいろなことを試したもので、中には何度か、
「何かお手伝いをしたい。一緒にやらせて欲しい。」
 と申し出てくださる方がおられ、共に手を動かしたことがあった。
 すると、お手伝いをしたいと言う方が、お手伝いというよりは、自分の意見を持っておられることに気付かされる。
 そこで、
 「僕のお手伝いじゃなくて、あなたが自分の名前で先頭に立って何か活動をやってはいかがですか?」
 と提案する。
 だがそう提案すると、
「私なんかには・・・・」
 とみんな引っ込んでしまう。
 ふと思い浮かぶのは、政治家と官僚の関係だった。
 政治家が表立って活動をしていても、考えたり決めているのは官僚だとよく言われるが、お手伝いをしたいと申し出てくださった方が求めておられるのは、その官僚的なポジションに思えるのだ。
 政治の場合はそれでいいのかもしれない。
 が、写真の場合は、そもそも自己主張を目的とした活動であり、自分の意見を、自分の名前を出して自分が責任者として主張することが不可欠。後ろから物を言うのは卑怯であるような気がする。
 難しいのは、写真を撮るという行為に関しては自己主張が大切だけど、それで仕事をする場合、相手は日本の社会であるということであり、その体質を理解しておく必要があることかな。



● 2015.10.6〜7 ろ過装置の話



 このタイプのろ過装置は、ホームセンターなどで安く売られている水槽セットに付属していることが多い。安物の中の安物であって、本格的に生き物を飼いたい人には見向きもされない場合も多いけど、実はなかなか高性能な名品。
 水槽の中で場所を取って目障りなので、観賞用に生き物を飼うには適さないけど、僕のように撮影用の生き物をなるべくお金と手間をかけずに維持しておく目的にはいい。
 先日、中のフィルターを交換したら、買い置きがすべてなくなった。
 アマゾンで注文しようと思ったのだが、この製品のフィルターに関しては送料がかかることがわかった。
 ならば地元のショップで買おうかと考えたのだけど、在庫がなかった時の店に行く時間の無駄をしたくない。
 そう言えば最近、ヨドバシカメラが、カメラや家電以外にも様々なものを取り扱っているのを思い出しヨドバシのサイトで検索してみたら、取り寄せではあるが、送料が無料で届けられることがわかった。
 なぜヨドバシが、こんなものまで扱うのか?と言えば、すでに送料を無料で物を運ぶ物流システムを確立しているヨドバシカメラにとって、商売になるからだと思う。
 現代の商売をする人たちにとっての物流の重要性はよく耳にするけど、なるほど!物流を押さえれば、こんなことが可能になるだぁ。

 物流が発達すれば、どんなことが起きるだろうか?
 僕の興味があるジャンルに関して例を挙げれば、野生の生き物が、故意であれ、無意識であれ、簡単に運ばれてしまうようになるから、本来の分布が乱れやすくなる。
 野生生物の分布が乱れていることに関して、人のモラルの欠如うんぬんとよく耳にするが、人が生き物を動かすのは昔からやっていたことであり、金魚あたりでも室町時代にはすでに中国から日本に入ってきたとされている。
 そこに現代の発達した物流が加わったことが、分布の乱れの最大の原因であることを思えば、モラルうんぬんで片づけられるわけがない。モラル欠如の悪いやつが問題と言った、誰が悪いという姿勢ではなく、物流が発達したらこんなことが当たり前に起きてしまうから、それが起きにくい仕組み作りに頭を使いましょう、という態度が必要ではないかと思う。

 ともあれ、上のろ過装置の中に専用の綿ではなくセラミックでできた炉材を入れると、一段と水の浄化力が増す。
 この手のろ過装置による水の浄化の内容は、2種類。
 1つはゴミを取る。あとの1つは、生き物の糞などを分解するだが、重要なのは後者の方で、セラミックの炉材を入れると、ゴミを取る働きはなくなるけど、糞などを分解する能力は格段に高まる。
 セラミックの炉材は、リング状に穴が開いているものを選び、穴に釣り糸を通して数珠状にしておくと、中に収納しやすい。





● 2015.10.5 外国からやってきたカタツムリ?





 世界7大陸の植物を集めたイベントを見に行ったら、植物が生えている岩の隙間にカタツムリを見つけた。
 直径が13ミリ、殻の高さが8ミリ。パッと見、サイズや色合いは種子島で見たツバキカドマイマイに類似するが、よく見ると毛が生えていて、これに該当する日本産は思い当らない。
 岩にくっついたまま、外国産が運ばれてきたのだと思う。
 同様に何かにくっついて日本に入ってくる外来の生き物が、そのまま住み着いてしまう可能性は否定できない。


 植物の展示会場で、岩に目を凝らすおっさんの姿は、スタッフの方からみれば間違いなく怪しい存在であり、声掛けをされるのではないかと警戒しつつ、カタツムリを探す。
 子供の頃、僕は学校の先生から、何かしでかすのではないかと常に警戒された存在だった。
 遠足や見学旅行に出かけても、先生が見せたいものには興味を示さず、自分が好きなものを見つけだしてそれには夢中になるのだから、先生にとっては扱いにくい子供だったに違いない。
 今でいう、アスペルガーなのだと思う。
 小学生の頃にはすでに生き物に関しては先生よりも詳しかったので、先生の話を聞いても、実にちっぽけに感じられた。
「ああ、これは、実際には見たことがないのに知っているかのように話しているなぁ。」
 などと内心厚かましくも感じたものだった。
 そんな子供を相手にしなければならなかったのだから、先生には気の毒だったぁと思う。







● 2015.10.3〜4 更新のお知らせ


9月分の今月の水辺を更新しました。
今回は、アマガエルが葉っぱに着地をする瞬間の画像を選びました。



 月に一度、犬をお店で洗ってもらう。
 家の犬はお店に行くことが大好きで、車から降りると一目散に入り口へと走る。
 専門家ってスゴイなと思う。なかなか敏感な性格で、自宅で洗うなど不可能なレベルに難しい犬を、ひたすらに喜ばせて洗ってしまうのだから。
 2〜3時間の待ち時間の間に、金魚の水換えと今月の水辺を更新する。
 いずれも、以前滞りがちな時期があったが、犬のシャンプーと組み合わせてからは、それはない。
 インターネットの日記が継続できていることを、よく、
「まねですね。」
 などと言われる。つまり続くことが、僕の性格だと思こ込まれるのだが、僕はまめとは程遠い究極の横着者。
 人はよく性格の問題で物事を片づけようとするけど、しばしばやり方の問題であり、やり方は、意外と大切だと思う。
 そもそも、自分の性格を自分で変えることなどほぼ不可能。
 それよりも、うまくいくやり方を考えた方がいい。



● 2015.9.29〜10.2 カタツムリにとって広さとは何か?



 カタツムリを飼育する場合には、大抵、容器が大きければ大きいほど、順調に育つ。逆に容器が狭いと、殻がキレイにならなかったり、大きくなりきれない場合が多い。
 その場合に、カタツムリにとって大きな容器とは、いったいどんな容器なのだろうか?
 四角い容器の中でカタツムリが利用できるのは、床と四つの側面と蓋の部分だけであり、容器中央に存在する空間は利用することができない。
 そこでその空間の部分に、何か物をおいてやる。
 するとカタツムリは、おかれた物を伝って今まで這えなかった場所を利用できるようになる。
 これは、カタツムリにとって広くなったと言えるのだろうか?
 ともあれ、物を置くことでカタツムリにとって広くなるのなら、今までと同じ体積の容器でカタツムリをよりよく育てることができることになる。
 飼育容器の中に波板のきれっぱしを立ててみた。



 ツクシマイマイは、僕が最もよく知っているカタツムリ。したがってずいぶんたくさん見てきたけど、この色合いのものは初めて見た。
 まだ成貝ではないので、持って帰って育てたうえで写真を撮ることにしたのだが、飼育には手間がかかるので、なるべく早く大きくして飼育から解放されたいのだ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年10月分


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