撮影日記 2015年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2015.8.28〜31 完品

 メダカは、春〜秋まで、同じ個体が毎日卵を産む。
 だがそんなメダカにとっても卵を産むという行為はやはり消耗することのようで、夏を過ぎるとうまく育たない卵が増えてくる。
 したがって、卵の発生の過程を多少詳しく撮影しようと思うなら、春が適する。

 だが春は撮影しなければならないものが多く、メダカの卵の撮影はどうしても後回しになる。そして今になって取り掛かってみれば、いい状態の卵が得にくくて、案外苦心する。
 夏以降に撮影する場合は、雄雌を分けて産卵させないようにした方がいいのかな?
 受精した卵が孵化をするまでの期間は5〜10日間くらいで、水温が高いほど早く孵る。ただし、同じ日に同じ親が同時に産み落とした複数の卵を同じ小さな容器に入れておいても、それらの卵が孵る日には案外ばらつきがあり、早いものと遅いものとでは2〜3日くらいのずれが生じることも珍しくない。
 ちゃんと実験をしたわけではないけど、卵の中で稚魚が育つペースは、同じ腹の同じ容器の中の卵どうしではほぼ同じになるが、最後の瞬間、つまり卵のどこかに穴が開いてそこから稚魚が外に飛び出すタイミングは割と偶然に左右され卵によってばらつきがあるような気がする。
 ともあれ、メダカの卵の撮影を始めると、10日間くらいは釘づけになる。

 卵が途中で死んでしまいやり直しになると、その期間が延びてきて、他のいろいろな物事との兼ね合いが難しくなるから、仕事ってしんどいなぁとか、俺の人生暗いなぁ、なんて愚痴りたくなってくる。
 上手くいかない時に、次は絶対に成功させたいからと妙な念を入れると、そのひと手間が余計なお世話になってしまい、逆に失敗してしまうことがよくある。
 狭い狭い迷路にはまってしまう。
 さて、ここのところ撮影中の卵の中の1つが実は一昨日死んでしまい、今朝、新たな卵を1つ、撮影台にセットした。
 今日は雨なのでカタツムリを探しに行きたかったのだが、9月に一日だけ仕事場を離れなければならない用事があり、その日から逆算すると、今日卵の撮影を開始せざるを得なかった。
 連続した数日を要する撮影の場合、たった1つの約束事がたいへんな邪魔ものになってしまうことがある。
 僕のような暇人でさえ、その期間を確保するのは案外難しい。

 何であるにせよ、コレクションの世界では、シリーズものが一通り全部揃うことで価値が増す傾向があるが、写真の仕事にも同じことが言える。
 メダカの卵が発生する様子の写真なら、受精から孵化までの様子が全部揃って完品になれば、それらの写真の価値が高まる。
 あるいは植物の写真だって、花や葉など部分のアップから環境写真や白バック写真まで一通りちゃんと揃えば、昆虫なら卵から成虫の全ステージと環境や餌などの写真が揃えば、それらの写真が使用される確率がグンと上がる。
 生き物のカメラマンは、時にコレクターのような完璧主義者にならなければならない場合がある。



● 2015.8.21〜27 レスキュー

 先週北九州市の平尾台で撮影した画像が、ハードディスク内にないことに気が付いた。
 同じカメラでその日以降に撮影した画像がちゃんと保存されていることから判断するに、画像をハードディスクにコピーする前に記録メディアを初期化してしまったのかな?
 なくなったのはカタツムリやカメムシの画像で、傑作や、売れそうな写真があったわけでもなく、まぁいいか、といったん忘れることにしたが、以前復元ソフトを購入してテストをしたことを思い出し、パソコンの中を探してみたらそのソフトが出てきた。
 復元を試みたら、見当たらなかった画像が無事、出てきた。
 復元をしなければならないような状況は、ずいぶん以前にデジタル機器の扱いに慣れる前に1〜2度、今回使用したものとは別のCFカードに付属していたソフトで試みたことがあった。当時は、JPG画像は復帰できたもののRAW画像の復元はうまくできず、所詮その程度か!とがっかりしたものだったが、今回はRAW画像の復元ができた。
 ちゃんと、使えるんですね!


復元した画像の中の一枚は、ナカヤママイマイ

 ナカヤママイマイは、北九州のある一帯にのみ分布するカタツムリ。
 全国に比較的広く分布するシメクチマイマイに近い種類だが、シメクチマイマイが非常に見つけにくいのに対して、ナカヤママイマイはたくさん見つかる。
 生息数が違う?
 それもあるかもしれないけど、シメクチマイマイが非常に臆病で慎重で、まるで隠密行動でもしているかのような感じがするのに対して、ナカヤママイマイは明るい時間帯から開けば場所によく出てくるなど大胆で、性格に違いがあるような印象を受ける。

 さて、7月末からとにかく何もやる気になれず調子が悪くて、すべてが後手後手に回る苦しい状況が続いていた。
 とにかく一人になってボヤッとしていたい。
 画像を紛失しそうになったのも、その一連の出来事だと言える。いつもなら、撮影したら最低限複数のハードディスクに画像のコピーを作るのを、まあ、次回にまとめてなどという気持ちになっていた。



● 2015.8.20 上手くなりたい瞬間







 僕の身の回りだけで、チスイビルが少なく見積もっても30匹。
 網なんかを入れたりしたら、50匹から下手をすると100匹くらい採れるのではないか?と思う。
 そのものすごさを、何とかして伝えたいと思う。
 が、写らない。
 悔しい!写真上手くなりたいなぁと思う。



● 2015.8.19 敵を好きになる

 敵を好きになってしまう、というのは、僕が何かに夢中になる時の1つのパターンだ。
 例えば・・・
 僕は普段、生き物の撮影の際に、さまざまな物理現象に悩まされる。光の屈折の具合で被写体がシャープに写らなかったり、振動で写真がぶれてしまったり・・・。金属が膨張して思いがけない失敗を招くこともある。それらは僕にとって敵だと言える。
 敵に阻まれた時には畜生〜と思う。
 が一方で、それらの現象を面白いなとも感じ、いつの間にか興味を持ってしまう。したがって物理現象の撮影を依頼されると、実はひそかに嬉しくて、よくぞ僕に依頼してくれた!と無性に張り切る。


レールの隙間(2014年冬と2015年夏)

 先日は、夏の線路の継ぎ目を撮影した。
 線路の継ぎ目は、レールの膨張の結果、夏は冬よりも狭くなる。
 晴れの日には強い影が出て被写体が見にくくなるので、曇りの日の光で撮影しようと考えたのだが、一方で晴れの日の方が温度が高くレールの膨張の現象が顕著に表れるに違いないと期待をして、日差しがむちゃくちゃに強くて劇的に暑い日の、一時的な曇りの時間帯を狙うことにした。
 ところがそうして待ってみると、案外なかなか曇らないものだ。
 設定したポイントは全部で6箇所で、すべてのポイントで日が陰る時間帯を待つのは、生き物を探して山の中を歩き回るのよりも実はハードだとあとで気付いたのだが、家を出る段階では所詮町の中だと心の準備が不足しており、次第に我慢が出来なくなってきた。
 元々たくさん汗をかく体質でもあってシャツはずぶ濡れだが、人通りがある場所なので山の中と違って脱いで裸になって絞ることができない。
 飲料水がもっとたくさん欲しくて近くのコンビニで買いたいけど、あまりに汗が凄すぎて服がスケスケなので、店に入る勇気がない。
 しかたがないので、小さな水路沿いの日陰に一時的に避難をして涼む。
 クラクラするなぁとただひたすらにボウっと耐えていたら、三脚やカメラを見かけた人たちが、何かめぼしいものがいるのかと集まってきた。
 みんな何かを期待しており、ただ涼んでいるだけとは言い出すことができない。
 困ったなぁ。
 しかしふと水路をのぞき込めば、コイが一匹泳いできたではないか。
「ほら、そこにコイが!」
 と水路でバシャバシャやっているコイにレンズを向けてみせる。
 線路の撮影が終わり、あとで水路をゆっくりのぞいてみたら、この日はコイとナマズが大フィーバーだった。







● 2015.8.13〜18 コハクオナジマイマイ

 山口県下関市豊田町にある「豊田ホタルの里ミュージアム」は、知る人ぞ知る、すごい展示の博物館だ。
 いや、もはやすごいなどというレベルではなく、独創性、工夫、丁寧な作業、努力・・・すべてが一線を越えていて、驚きのあまり脳の中が崩壊しそうになる。
 さらに信じられないことに、学芸員はたった一人だという。
 先日立ち寄ってみたら、光る生き物のコーナーに、紫外線を発するブラックライトと、紫外線で蛍光を発するコハクオナジマイマイが展示されていたので、真似をして撮影してみた。
 この蛍光を発する物質はビタミンB2で、ビタミンB2には紫外線を吸収する働きがあり、紫外線から身を守る働きをしていると考えられているようだ。


左)通常の光 右)紫外線を当てた場合



 言われてみれば、カタツムリというと日陰の印象が強いが、確かに、コハクオナジは畑の周辺など開けて直射光が当たるような場所でよく見かける。
 一般に畑の周囲などに分布するカタツムリは、どこででもある程度の数が見つかる傾向が強いが、コハクオナジマイマイの場合は、いる場所にはいるけど、いない場所ではまったく見つからず、何となく他の種類とは分布のしかたが違う感じがする。
 日本産ということになっているが、そうした分布の特徴からもしかしたら作物などにくっついて日本に入ってきた外来種の可能性は本当にないのかな?と感じ、カタツムリハンドブック解説の西さんに聞いてみたら、海外には分布しないらしいので、外来種であるはずはない。
 殻は大きく分けると2タイプあり、グルグルとラインが入るものと入らないものとがある。
 殻の中央付近がレモン色になるのが特徴。レモン色は殻の色ではなく、殻の中に入っている軟体の色。このレモン色の部分がブラックライトで蛍光を発する。

 本来の分布は、九州や四国ということになっているけど、おそらく人の物流に乗っかっているのだと思うが、東日本へも分布を広げつつある国内外来種だ。




(お知らせ)
 恒例の合同写真展が開催されます。
 今回は、僕はマンネリから脱するために少し離れた場所から客観視したくて、作品を出品していませんが、野村さんが鳥、西本さんがトンボ、大田さんが天体の写真を展示しています。
 詳しくは、https://www.facebook.com/Naturefour4 をクリックしてください。



● 2015.8.4〜12 教育の話

 数年前に、学校の先生方の前で頻繁に話をした時期があった。
 ある先生に、
「生き物の写真を撮るような作業の場合、アクセルを思いっきり踏み込めることが大切だ。」
 と話をしたところ、その先生がアクセルという言葉に大変に興味をしめしてくださり、講演の場を何度もコーディネートしてくださったのだった。
 日本の学校教育は、基本的にブレーキの踏み方を教え、アクセルを踏み込むことは教えない。いい子=ブレーキをちゃんと踏める子だと思っておけば、だいたい差しさわりない。
 誰かが何か独創的なことをやろうとしてアクセルを踏むと、そのいい子が、
「先生先生、○○君が困ったことをやろうとしていますよ。」
 と言いつける。中には味方のふりをして相談を受けてくれている子が、実は先生に報告している「いい子」だったりもした。

 僕は幼いころから結構好き勝手にアクセルを踏むタイプだったと思うのだが、それでも、大学時代に指導教官から、
「君たちは、私がこんな風にやってみたら・・・と提案したら、それにはこんな問題があるとか、問題探しばかりに夢中になる。何でだ?アドバイスがむなしい!」
 とよく怒られたっけ。
 具体的に思い出せるだけで、先生が真っ赤な顔をして机をバンバン叩きながら腹を立てられた記憶が3度ある。教授の部屋を出て、たまたま通りかかった助手の富岡先生とすれ違う際に、その怒られ方が、
「今日は激しかったなぁ。」
 と笑われたりしたこともあった。
 元々僕はアクセルの踏み過ぎで怒られるタイプだったので、当時は、自分がそんなに否定的な態度を取っているとは思えず、先生の話がよく理解できなかったのだが、今は、なるほどなぁと思う。
 多くのサラリーマンや役所の仕事なら、ブレーキが一番重要なのだろうと思うが、研究したり、写真を撮るなど、独創性によってしか成り立たない作業をする場合は、どれだけアクセルを踏めるかが命だといえる。

 先日、2015.7.24〜27の日記に、ぎょぶに入会したことを書いたが、ぎょぶの魅力もアクセルがすごいという点。
 そのものすごいアクセルをもったぎょぶが、学校の部活動の中から出てきたというのが、僕にとっては非常に興味を惹かれる部分だったし、率いてきた井上大輔先生に大変に興味を感じたのだった。



● 2015.8.2〜3 専門家

 僕らが作る生き物の本は、ざっくり言ってしまえば、一般の人向けになる。
 取り上げるのが何の生き物であるにせよ、専門家や愛好家の数はごく少数であり、一般の人を相手にしなければ、仕事としては成立しないから。
 そこが感覚的に分かるかどうかが、この世界で仕事ができるかどうかの大きな分かれ目になる。

 ところが、では一般の人向けに単純に本を作ればいいのか?と言えば、答えはNO。
 単行本であれ雑誌であれ、過去に出版された自然関係の本で一定以上の評価を受け、使い捨てではなく社会の中にその居場所を確保できた本は、例外なくその道の専門家が見ても楽しい本であって、専門家の心に響かないような本で評価されたものを、僕はただの一冊も知らない。
 その本が専門家の役に立つかどうか?で言えば、一般書には専門家に役立つ知識は載ってないのだが、本が心に響くかどうかは、また別の話なのだ。

 カメラの世界にも、一般向けのカメラと専門家向けのカメラとがあるが、一般向けで高い評価を得ているカメラは、専門家が見てもやはりいいカメラであると断言しても、決して言い過ぎではないだろう。
 一般の人にはここまでしなくてもいいでしょう、とか、一般の人には分からないでしょう、とか、これは一般向けだから、という気持ちで作られたものは、一般の人にとっても愚作か、せいぜい使い捨ての通りすがりのカメラになってしまうのだ。
 ただし、逆は十分に考えられる。
 つまり、専門家が見たらいいのだが、一般の人が見たらつまらないということは大いにあり得る。
 したがって、専門家の意見がすべてではないのだが。

 さて、カタツムリハンドブックが、詳しい人の目にどう映るかは非常に怖かったのだが、あちこちで専門家に高く評価していただき、胸をなでおろした。





● 2015.8.2〜3 理科と社会

 昔、脳死は人の死か?ということがよく議論された時期があった。
 人の体はたくさんの細胞の集まりであり、大抵の場合、それらが同時に死んでしまうわけではなく、部分部分が徐々に損なわれていくのであり、その過程のどこから先が死で、どこから先が生なのかは、人によって感じ方が異なる。
 つまり、いつが死か?には答えがたくさんある。
 だが、人によって死の定義が異なると社会が混乱するため、何か1つに決めざるを得ないので、しかたなく決めることになる。
 人間の社会の中には、そうした仕方なく、が山ほどある。

 人が人のことをどう決めるか?の問題は、学校の教科で言うならば、社会の問題になる。
 一方で理科(科学)は、結論が一点に収束しうること=答えが存在しうることだけを取り扱う。
 社会の問題を決める際に、理科の意見が参考にされることがある。例えば、クジラを食べてもいいのかどうかは、これが正しいと言える絶対的な答えはそもそも存在しない社会の問題だが、その結論を出すのに、科学が参考にされることはあり得る。
 ただしあくまでも参考であって、科学で物事が決まるるわけではない。もしも科学で物事が決まるのなら日本国憲法など不要であり、日本の憲法は科学にしておけばいいし、科学者が政治家になればいい。
 科学がほとんど役に立たない場合もある。科学の世界では、人が死ぬのはいたって当たり前のことだが、死を意識した人に科学者がどれだけ、
「死ぬのが当たり前なんです。」
 と主張したところで何の救いにもならないだろう。

 科学は、しばしば言葉の定義から始まる。例えば、こういうものを生物と定義します、とか。
 なぜ定義するのか?と言えば、ある人が主張する生物とまたある人が主張する生物の概念が異なっていては、議論ができないから。
 ニワトリが先か?卵が先か?という議論があるが、科学の世界ではあり得ない議論だ。
 なぜなら科学の場合、「ニワトリが産んだ卵=ニワトリの卵」と定義するのか、或いは、「ニワトリが産まれてくる卵=ニワトリの卵」と定義するのかを先に決めるから。

 だがそれは、あくまでも話が噛み合うように言葉を定義しているのであり、人の死などが問題になる場合は、仮に、「人の死とはこういうものだと定義します。」と科学の世界で定義をしたとしても、そこで定義された死と、各々の人にとっての死は必ずしも一致しない。
 理科と社会とは、良く分けたもんだな、と思う。



● 2015.8.1 更新のお知らせ

今月の水辺を更新しました。今月は、曽根干潟の河口です。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年8月分


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