撮影日記 2015年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2015.5.31 個性



 これは昨日の日記の画像。
 昨日試し撮りをした画像を見て、レンズキャップのNIKONの文字が逆さまになっていたり、レンズの銘柄が見ないような置き方になっていることに気付いた。
 撮り直そうかと思ったのだが、ふと思い出したことがあって、そのままにしておくことにした。
 大学4年の時、教員免許を取得するために母校で教育実習をさせてもらったら、実習生にも出勤簿が準備されていた。
 ある日、教頭先生に呼ばれた。
「何か気付かない?」
「さあ」
「君だけ、出勤簿の印鑑の名前が逆さまになっているよ。考えられない」
 と。
 武田家は、そんなことは全く言われない家庭だった。
 社会に出た時に困るとか、そんな配慮もなし。
 そんなことよりも、何かを切り開いたり、独創性のある仕事が出来るようになることが重視された。
 今風に言えば、社会の型にはめるのではなく個性を大切にするということなるのだろうけど、実は、
「個性を大切にしましょう。」
 などと言われたことは一度もなかった。
 そんなことは、わざわざ上の者が言うことではなく、その方が当たり前のことだったから。



● 2015.5.29〜30 完ぺき主義

 ある方がその著作の中で、
「宗教家や科学者は、対話ができにくい相手だ。」
 と書いておられるのを読んで、ふと学生時代の恩師の話を思い出した。
 たしか、生き物の体内時計に関する講義の時間だったと思うのだが、
「研究者はこだわりますよ。君たちは研究者のそのこだわりをカッコイイと思っているかもしれませんが、一般社会の中ではそんな人はとても付き合いにくい人間です。些細なことに、いちいちそれは違うとか執着するわけですから。」
 と話してくださった。
 先生がおっしゃった通り、僕も研究者のこだわりをカッコイイと思っていた。生物学の学生時代に自分の考えやイメージを覆された話は、他にもいくつか大変に印象深く僕の心に残った。
「完ぺき主義になるな」
 という話もそうだ。
「宇宙の中で地球の動きに関して研究する時に、研究者は地球を球だとして考えるんです。実際には地球には凸凹がありますよ。でも、そんな厳密なことを言っていたら何も調べられない。完ぺき主義にならずに、まずできることをやりなさい。それでできることがたくさんある」
 と。
 僕は、研究者は完ぺきでなければならないと思っていたので、やはり意外に感じた話だった。
 もちろん、完璧でなければ意味がないケースもあるだろうけど、それがすべてではない。



 さて、小さなカメラバッグが1つ。
 僕が普段仕事に使用するメインのカメラなら、レンズ付きのカメラが一台しか入らないようなサイズだが、ニコンのミラーレスシステムなら、レンズが4本入る。



 それらのレンズが、フィルム時代の換算で、28mm相当、50mm相当、100-300mm相当、200-800mm相当をカバーするのだから、これで大抵のものが撮影できる。
 僕は性格的にどっしり構えてギリギリの画質を追求したくなるのだが、それに適した大きなカメラは常に持ち歩けるわけではないのに対して、このサイズならほぼ常に持ち歩くことが可能だ。
 それによって初めて可能になる撮影もあるに違いない。
 完ぺきを求めるよりも、とにかく写真がなければ始まらないというケースは多々ある。
 普段の僕は手ぶらが大好きで腕時計1つが煩わしいと感じるタイプなので、これまで小型のカメラを持ち歩く試みが長続きした試しがなかったのだが、ニコン1V3にはなぜか愛着を感じる。
 正直に言えば不満も多々ある。
 けれども、スゲー時代になったなと武者震いさせるような突き抜けた側面が、僕を楽しくさせる。次に登場するであろう1V4が非常に楽しみだ。
 特に200-800mm相当の 1 NIKKOR VR 70-300mm f/4.5-5.6を取り付けると、1V3が生きる。カメラというよりは、武器と呼んだ方がふさわしい。
 ニコン1シリーズの気に入らないところとしては、大半のレンズにピントリングがないことがあげられるが、このレンズにはそれがある。
 カメラを構えた時に親指の位置にあるボタンにピント合わせ(オートフォーカス)の機能を割り当てておき、オートフォーカスを使いたい時には親指を使い、手動でピントを合わせたい時には左手でピントリングを回す。

 僕は基本的には高級機志向ではないのだが、小型のセンサーを積んだミラーレスのデジタルカメラは一眼レフよりもずっと安価なので、なるべく高級機を買って、撮影のみならずその手触りの良さを楽しむことをお勧めしたい。
 さらに詰めればレンズがあと一本入るので、いずれ超広角を加えたい。


● 2015.5.26〜28 プラグ



 日本語では、疑似餌と呼ばれるルアー。
 こいつを水中に放り込みリール付の釣竿で糸を巻き取ると、水圧でルアーがトリッキーな動きをして、それに魚が食らいつく。
 ルアーにはいくつかのタイプがある。
 上の金属片はスピナー、下の魚の形をしたプラスチックはプラグと呼ばれる。
 僕が釣りを覚えた時代は、渓流ではスピナーがセオリーであり、したがって以降ずっとスピナーでの釣りに磨きをかけてきた。
 スピナーは、流れが複雑で距離が短い日本の渓流に合うとされていた。
 その後、比較的近年になってプラグが使用されるようになった。
 従来のプラグは渓流の複雑な流れには対応できない場合が多かったが、渓流専用のプラグが次々と発売され、渓流でのルアー釣りを最近覚えた人には、プラグが当たり前となった。

 さて、先週、渓流の撮影のロケハンを兼ねて、ヤマメ釣りをした。
 傾斜が厳しく沢登りの愛好家でも単独行は避けるべきとされている難所に入渓し、仮にカメラや三脚をザックに背負って入るとするとどこまで行けそうなのかなどを見極めながら釣りをして、約6時間沢を登った。
 最初、ほどんと釣果があがらなかった。ヤマメはルアーを追いかけては来るもののなかなか針にかかるところまでいたらずず、そのまま行けば半日釣りをして2〜3匹くらいかなというムードだった。
 半日で2〜3匹というのは、釣ったというよりは、慌て者がたまたま釣れてしまった感じであり、そんな釣りをしても仕方がない。そこで、釣果ゼロでいいや!と割り切り、使い慣れたスピーナをあえて仕舞い込み、僕としては馴染みのない近年流行りのプラグのみで以降を通すことにした。
 すると、ある瞬間にプラグの使い方のコツがわかった。
 以降、釣れるは釣れる!
 なるほど!プラグが流行る理由が分かった。
 恐らくだが、スピナーは餌だと思ってい食ってるのかな?したがって、あまり食い気が立ってない時には釣れにくい。後ろから追いかけてはくるものの、噛みついてはくれない。
 その点プラグに対しては攻撃をしてくる感じで、食い気に関係なく噛みついてくる。



 今となっては、釣りは年にほぼ一度。
 そのたった一度の釣りが僕の中で一番盛り上がるのは、実は釣りからの帰宅直後であり、来年のためにおよそ10000円分道具を買う。
 今回は言うまでもなくプラグをまとめて数個購入だ。
 年に一度でも、不思議なことに、確実に釣りが上手くなる。
 釣竿を自在に操ることは、さすがにその程度の頻度では上達しないものの、状況判断や読み、考え方はなどは生き物の写真撮影と共通なのだ。

 ヤマメ釣りでそんなことがあったので、昨日、ため池で写真撮影をする際に、使い慣れた道具を車に仕舞い込み、近年流行りのミラーレスのカメラのみでその日の撮影を通してみた。
 使い慣れた道具をもっているとどうしてもそちらを使ってしまい、新しいものを使いこなすところまでは覚えることができにくい。
 使用したレンズは、フィルム時代でいう800mm相当をカバーできる超望遠ズームレンズで、考えられないような距離から、小さな生き物を撮影することができる。
 なるほどな!
 これは、目的によっては非常に有効な道具だ。


Nikon1 V3 1 NIKKOR VR 70-300mm f/4.5-5.6



● 2015.5.22〜25 梅チン

 同級生の梅チンの家に遊びに行ったら、庭に鳥かごが吊るしてあって、ペットショップでは見たことがない鳥が飼われていたので驚いた。ホオジロやヒバリだった。
 あとでどうしてもそれをまた見たくなり、梅チンの家は遠かったけど、何度か梅チンの家の前を通るふりをして見に行ったことがある。
 僕が小学生の時の話で、今では、ヒバリは、飼育が許可されていない。

 クジラやイルカ絡みの国際的な揉め事が生じた時に、
「欧米人は何でクジラやイルカばかりを問題視するのか。矛盾するじゃないか。」
 と腹を立てる方がおられるが、よく考えてみれば、日本の社会の中にも同じような矛盾はたくさんある。
 ヤマドリは銃で撃って食べてもいいが、ツグミを食べると罰せられる。
 飼育することが可能な鳥と、可能ではない鳥もいる。
 さらに飼育が禁じられている鳥でも、それが渡り鳥で、外国滞在中に採集され輸入されたものなら飼うことができる(鳥インフルエンザの影響など別の理由でそれらが外国産の野鳥が輸入できなくなるケースならある)。
 変な話だなと思う。
 そもそも、日本国内で大半の野鳥を採集してはならないのなら、それが許されないのと同じ理由で外国産の鳥の大半の輸入を禁じられなければ筋が通らないような気がする。
メジロの愛好家の中には、
「なんで採ってはいかんのだ?自分らが飼育できる程度の数でメジロの生息数にダメージがあるはずはないし、メジロの鳴き合わせは文化だ。」
 と感じておられる方もおられるだろう。
 が、愛好家がどんなにそう主張しても、メジロの飼育に関する規制が緩やかになる方向に向うことはまずないだろう。クジラを獲っていいじゃないかと主張する人だって、クジラがメジロや他の生き物に置き換わると反対に回る方がたくさんおられるのではなかろうか。
 この手の問題に対する結論は、「科学性」や「論理性」によってではなく、基本的に社会のムードで決まる。僕自身は、個人的にはクジラを食べればいいし、水族館で飼育すればいいと思うが、日本人がどんなに「科学性」や「論理性」という角度からその正当性を主張しても、今の流れを変えることはできないだろうし、早く手を引いた方が得策のような気がする。

 そもそも、人が何を食べていいか?
 つまり、何を殺していいか?を考えるのに、クジラの問題で日本人が主張している科学性とか論理性という物の見方は、基本的に適さないような気がする。
 こうした問題は人の感情で決まる。科学性とか論理性が、その人の感情を多少左右することはあるけど。
 例えば、人が何を殺していいのか?の中には、究極のところでは、人はなぜ人を殺してはならないのか?という問題も含まれるが、それが科学性や論理性で説明できるだろうか?
 仮に説明できたとしても、それにはあまり意味がない。
 自分がなぜ死ぬのかを科学が説明してくれても、それがあまり自分の救いにならないのと同じことだ。



● 2015.5.19〜20 武器



 カエルのジャンプは大変なスピードであり、到底、人の手で撮影することはできないので、カエルの動きを捉えるためにセンサーを使用する。
 ところがセンサーを使用しても、今度はカメラが反応するまでの時間が長過ぎてこれまた上手く瞬間を捉えられないので、カメラのシャッターは使用せずに開けっ放しにして、レンズの先端に高速応答レンズシャッターと呼ばれる反応が早いシャッターを取り付けて、そのシャッターの開閉で写真を撮る。
 さらに高速応答レンズシャッターにディレイタイマーと呼ばれるパーツと取り付け、カエルがセンサーを通過してからシャッターが切れるまでの時間を少しずつ遅らせて、カエルが踏み切る瞬間、飛び出していったところ・・・と違う瞬間を一枚ずつ順に撮影していく。
 これらの写真はスタジオ内でストロボと呼ばれる照明器具を使用して撮影したもので、ストロボを上手く使いこなすと、ブレのないシャープな写真が撮れる。
 問題は、こうしてあたかも一連の動作のように並べた複数の写真が、実際には別々のジャンプを並べたものであり、ひとつながりの動作ではないということだ。
 
 さて、ニコンのミラーレスカメラ・ニコン1V3にはパスト(past/過去)撮影という機能がある。
 パスト撮影を使用すると、カメラを構えるとその瞬間から一秒間に40枚という猛速の撮影がはじまり、シャッターを押せば撮影が終わり、過去2秒間にカメラが撮影した画像が保存される。
 例えば葉っぱの上のカエルにピントを合わせた状態でカメラを固定しておき、カエルがジャンプをしてどこかに着地する頃にシャッターを押せば、そこから2秒前までの出来事、つまりカエルが飛び立っていくところが写っているという寸法だ。
 これを使えば、カエルの一度のジャンプの様子を連続写真で捉えることができる。
 画質はスタジオでセンサーとストロボを使用した写真に比べるとかなり落ちるが、小さな連続写真をたくさん使用するような場合や、瞬間をとにかく捉えなければならないケースでは非常に有効な手段だ。
 
 パスト撮影を最初に搭載したのはカシオのコンパクトカメラで、当時噂を耳にしてすぐに一台手に入れた。カシオとはなんてすごいメーカー何だろうとその発想に心を打たれたものだった。
 その後、ニコン1にもこの機能が採用された。
 ニコン1とカシオとの違いは、ニコン1はレンズ交換ができること。それから、RAWで撮影ができ、ニコンユーザーの僕にとっては使い慣れたニコンのソフトで画像処理ができることだ。
 ニコン1にはアダプターを介して一眼レフ用のレンズも取り付けられるのだが、アダプターを使用するとパスト撮影はできなくなる。
 ともあれ、今シーズン撮影を予定しているシーン用にニコン1の専用レンズを2本購入(一本は注文中)し、さらにあと一本追加購入することを現在検討中だ。
 こういう一芸に秀でたカメラは、代打の切り札として持っておけば心強いことこの上ない。
 従来なら、引き受けて大丈夫か?と不安になるような難しいシーンでも、
「大丈夫ですよ。」
 と涼しい顔をして引き受けられる。



● 2015.5.16〜18 きれい

 写真は、真を写すと書くが、実際にはなかなか真は写らないもので、僕は自分の写真に対して、現物はこんなんじゃないんだけどな、とよく嘆く。
 例えば、本の表紙を写真に写してみれば分かる。
 撮影した画像の上に画像処理ソフトで方眼を重ねてみると、四角の表紙がきちんと四角には写らないものだ。
 どんな世界的な写真家でも、こればっかりは物と準備と経験がなければ、感性では決して写らない。
 仮に方眼のますにきちんとはまったとしても、四角の一辺が膨らんでいたり、それとは逆向きに歪んでいたりして、たかが本の表紙一枚の撮影が極めて難しく、結局スキャナーを使用した方が断然に早い。
 さらに、立体的な被写体の場合には違った難しさが加わる。人が見ている3次元の物体を2次元で表現するためには、3次元を2次元に翻訳するそれなりのノーハウが必要になる。
 きれいな写真というと、多くの人が華やかなものやムードがあるものを思い浮かべるのではなかろうか?言葉は、多くの人が共有できて初めて意味を持つものなので、それはそれでいいとして、僕は、人の見た目の通りに写っている写真も、ある種、きれいな写真だと感じる。


イシマキガイ
 近年は、ペットショップでよく販売されており、ガラス面に付着する苔を食べさせるために水槽に入れられるようになったイシマキガイ。
 ややきれいな水に生息する生き物だとされているが、基本的には汽水域に生息し、汽水域なら水の良し悪しにあまり関係なく比較的どこででもみられるのに対してそれよりも上流では見つからないので、ややきれいな水の生き物という分類はあまり適当ではないような気もする。



● 2015.5.12〜15 汽水

 僕は普段、ストレスが少ない方がだろうと思う。他人がどれだけのストレスを抱えているかを客観的に知ることは難しいので想像でしかないけど、もしかしたら、極端にストレスが少ない方になるかもしれない。
 子供の頃から「自分はこうしたい!」というのが明確にあって、いつもそれを考えたりするのに忙しくて、他人がすることがあまり気にならないのだ。
 ただし、それはストレスが少ないということであり、ストレスに強いというわけではない。他人を気にせざるを得ない状況に置かれると、とにかく弱い。
 例えば、人が集まるところに行くとあっという間に弱る。
 だから繁華街はダメ。取材で一か月間車に寝泊まりして、その間ほとんど誰とも会話がなくても全く平気だが、一週間東京に滞在すると心身ともに具合が悪くなり、完全に元に戻るのにはひと月くらいかかる。
 僕がギリギリ耐えられる町は、北九州市くらい。北九州は一応元100万都市で、政令指定都市だが、それくらいが限界だ。


NikonD7100 AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED 接写リング NX-D

NikonD7100 AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED 接写リング NX-D

 さて、その北九州の中心街・小倉の町を通り、紫川の汽水域に近い域に向かうが、途中、妙にイライラする。
 ああ、こういうのをイライラって言うんやろうな。普段、滅多に経験することがない感覚だ。
 そもそも信号が多いこともあるけど、ちょっとした信号待ちが、ひどく間が悪いように感じられるというか、妙に気に障る。
 楽しくないなぁ。
 ちょっと限界だな、と急遽行先を変更。紫川をやめて、10キロほど離れた名も知らぬ小さな川の汽水域に向かうことにした。
 繁華街を抜けると、ハッと気が付いた。イライラの原因が、トイレに行きたいことがったことに。
 朝、お茶を飲み過ぎた。
 コンビニでトイレを借りると、これまでのイライラが嘘みたい。
 町の車の量の多さから、とにかくその流れに乗って走らざるを得ない精神状態になり、頭の中からトイレに行くという選択肢が失われていたようだ。
 汽水域の生き物にはあまりなじみがない。
 特に意識をしていたわけではないけど、川の河口付近にはだいたい町が発達するし、汽水域に行こうとすると町を通らなければならないので、自然と敬遠してそうなったのかな。



● 2015.5.10〜11 嫌われ者の弱み


ブユの幼虫

ブユの幼虫

 渓流で釣り師を悩ませるのがブユだ。
 蚊が細い針で遠慮がちに血を吸うのに対して、ブユは齧りついてくる。ブユに比べれば、蚊なんてかわいいもの、と主張する方もおられる。
 ブユは水生生物で、幼虫は、急流の岩場に付着する。

 嫌われ者の生き物だが、実に弱い。
 岩に付着した幼虫の後ろに網を構え、スポイトの先端でそっとつついて流されたところを捕獲し、バットに入れてほんの10分も置いておくと、あっとう間に弱ってしまう。
 酸素不足にも、水温の上昇にも極めて弱い。
 弱いにもほどがある。
 よくぞ、こんなデリケートな生き物が生き残っていけるものだと不思議にさえ感じてくる。
 
 岩にへばりついた幼虫の姿をたくさん撮影したいのだが、水の中の被写体は水面のうねりで像が歪み、シャープに描写することができない。
 特に流れが強いところでは、水の動きが大きく像が大きく歪み、幼虫がいればどこでも撮影できるわけではなく、場所を選ぶ。
 そんな場合は水中カメラでレンズそのものを水に沈めるといいのだが、ブユの幼虫が付着している箇所はたいてい水深1センチ以下なので、沈めることができない。 
 これでもか!というくらいに幼虫がくっついてる場所があれば、水流のうねり具合や光の反射の具合で比較的シャープに写る箇所を選んで撮影できるだろうから、ブユの巣窟みたいな場所に行ってみたいと思う。
 渓流釣りの際に何度かブユにひどくやられることがあるので、そこを思い出したいのだが、思い浮かぶのはブユにたかられ、
「こりゃ、限度を超えとるわ!」
 と這う這うの体で逃げ出す自分の姿ばかりで、周囲の渓相を思い出すことができない。



● 2015.5.7〜9 更新のお知らせ

自分が変われば景色が変わる。
4月分の今月の水辺を更新しました。



● 2015.5.4〜6 キュウシュウシロマイマイ


NikonD610 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX

 カタツムリは乾燥すると殻にこもって動かなくなるが、その際に、一般に白っぽい殻の色のものは目立つ場所にくっ付いた状態で殻にこもり、黒っぽいものは物陰に隠れ込んだ上で殻にこもる傾向がある。
 したがって、白っぽいものの方が、色で目立つということ以外に、休む場所の面からも見つけやすい。
 キュウシュウシロマイマイの場合は、その名の通り殻が白く前者に相当し、木の枝や葉っぱなど人の目につきやすい場所で休んでいる姿をよく見け、うちの近辺では探しやすい種類の1つであり、実数は別にして、数が多い印象を受ける種類だ。
 ところが、いない場所には全くいないカタツムリでもある。キュウシュウシロマイマイに限らず、白マイマイの仲間は石灰岩地帯に多く、そこから離れると森の状態などはよく似ていても、とたんに姿を見なくなる傾向がある。
 飼育をしてみると、急に死んでしまうようなことはないけど、少しずつ少しずつ弱ってしまうことが多く、どこかデリケートなところがある。



● 2015.5.2〜3 スタジオにて


ケアシホンヤドカリ  NikonD7100 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D NX-D

 先日、評判がいいラーメン店に行ってみたのだが、あまり好みではなかった。
 ラーメンは、それでもいいと思う。手ごろな価格でたくさんお店があるのだから、外れることも楽しみたい。それよりも、個性がある味を食わせて欲しい。
 味はあまり好みではなかったけど、店主の動きが見事だった。
 調理器具や器や調味料を置く位置や手順が極限まで考え抜かれていて、無駄な動きがない。ラーメンを作っているというよりは、スポーツの選手が鏡の前で自分のフォームをチェックするかのような精密で丁寧に動きだった。
 もっと理にかなった方法はないか、と1つ1つの作業を毎日毎日吟味しては改良しているんだろうな。

 写真撮影の中でもスタジオ撮影のような作業は、手順の確立や準備が非常に大切。
 早く写真を撮りたいとか、とにかく写るからこれでいいや、と作業を進めるのではなく、最初にあらゆる可能性を試した上で本番の作業に移ることが肝心。
 現実的には時間の都合上すべての撮影でそれができるわけではないけど、節目節目で、自分がすることを1〜10まですべて再検討して見直し、少しでも無駄がある箇所や何となくやっている箇所を減らす。
 それを怠ると、あとでどこかでパタッと上達が止まってしまう。

 最近は時に、一日で撮影できる場合でも、わざと二日かけることもある。
 一日目はいろいろなやり方を研究する日。二日目は本番の日。
 一日で終わらせようとすると、研究は当面その日の写真を撮るのに絶対に必要なことではないから、どうしても雑になる。



● 2015.5.1 続・美術の先生

 昨日の日記の高校時代の季節感の話は、今の僕を暗示していたのかなと思うことがある。
 というのは、僕は普段自然にカメラを向ける際に、季節感を求められると、時に抵抗したくなることがあるのだ。
 心を動かされてカメラを向けた何かが、結果的に季節を表しているのならいいのだが、例えばこの花を写せば季節が表現できるよ、という発想は、順序が違うように感じられてしかたがない。
 不思議なことに、自分で撮影するシーンを決めるのではなく人から求められた通りに僕が写真を撮る場合でも、絵コンテを描いた人が実際に物を見て何かに感激した上で描いた絵を写真に撮るのと、頭の中で作られた絵を写真に撮るのとでは、何かが違う。
 言うまでも、前者の方がいい結果になる。
 それはともあれ、今にして思うと、赤星先生が安増君の絵を評価したかったのは、当時僕が感じたような、鯉のぼりが描かれていてそれが季節を表しているから良いという意味ではなく、鯉のぼりを素敵だなと感じ、そこを切り取った安増君の心だったのかな。
 数年前、父から、
「高校時代に赤星先生に美術を習った?」
 と聞かれた。
「習ったよ。」
「お前が写真の仕事をしていることをよく御存じで、会いたがっているような口ぶりだったよ。」
 と。
 それから間もなく、赤星先生は亡くなられた。
 
 その授業の日、僕は、こんもりとした小さな森を描いた記憶がある。
 鯉のぼりや花のようなタレント性がある主題になり得る何かが描かれているわけではなく、一切評価のポイントがない、取り留めのない絵であった。
 良いとか悪いとか人に見せる作品というよりは、僕の心象風景だった。
 したがって、 学生が描いた絵を一枚ずつ絵をみんなに見せながら話をする際に、先生は、評価しづらそうだった。
 評価の後で、「この絵が好きな人?」と先生が問いかける。
 僕の絵には、一人だけ手を挙げてくれた同級生がいた。ほとんどしゃべったことがない美術部の女性で、顔はよく覚えているのだが、名前を思い出すことができない。
 その絵のイメージは、もしも今写真が仕事ではないのなら、僕が撮りたくなる写真のイメージに近い。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年5月分


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