撮影日記 2015年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
・今現在の最新の情報は、トップページに表示されるツイッターをご覧ください。
 



● 2015.4.30 美術の先生

 僕が高校時代、鞍手高校は1学年8クラス。それを、一年生の時に履修する芸術科目によって、2,3、3の3つに分け、それぞれを美術クラス、書道クラス、音楽クラスと呼んだ。
 僕は、美術を選んだ。
 美術が好きだったわけではないけど、字は極めつけに下手糞な上に、子供の頃に書道教室で大暴れをして首になった経験があり書道にいいイメージはなし。また、授業としての音楽は大嫌いであり、消去法でそれが残ったのだった。
 確か、週一回の2時間授業。
 先生は、赤星月人先生だった。

 鯉のぼりを見ると、その美術の授業の一コマに、僕は今でも一気にタイムトリップする。
 ちょうど今頃、学校の外に出てみな思い思いにスケッチをして、翌週、その絵を教室で先生が評価した。
 安増君が描いた絵が、先生に大絶賛された。
「この屋根の描写なんか、非常に細密で素晴らしい!それから、鯉のぼりが描いてあって、季節感があっていい。」
 と。
 当時僕には、その鯉のぼりの話が、非常につまらないものであるように感じられた。この人、面白くない人だなと思った。
 鯉のぼり、季節が分かる、それがいい絵という一連の発想がノーハウだということはよく分かったけど、例えるならコンテストで入賞するためのコツみたいなものであり、型にはまった、小賢しい知識であるように感じられたのだった。
 鯉のぼりがいい、というのなら、俺にだって描けるよ。けど、絵の良し悪しって、もっと感覚的なものであり、人が真似をしようと思っても出来ないところにあるのではないのか?と。
 しかし考えてみれば、この時の一連の美術の授業は、僕が高校3年間で受けたすべての授業の中で最も鮮明な記憶であり、これほど考えさせられた授業はないし、現に未だにこんなことを書いている。
 僕は、人を尊敬するというのは、そんなことであるような気がする。誰かに自分の深いところにある思いをドロドロとした部分も含めて引き出されることであって、必ずしも、自分が好きな人に出会って感激したりそれに従うことではないように感じる。
「描かれた鯉のぼりが素晴らしい」
 と主張する先生の言葉には、
「俺は、こんなものを評価するよ」
 という自分の生活をかけた自己主張が込められており、ただの評価ではなく一種のとげがあった。そもそも、僕は授業なんてほとんど聞いていなかったのだから、もしもそれがただの評価なら、たとて全く同じ言葉でも、さらりと聞き流したと思う。
 赤星先生は学校の教諭ではなく画家であり、主たる収入源は、多分、主催する絵画教室の先生だと思うのだが、本職の学校の美術の先生なら、自分を前面に押し出した主張は、立場上、難しいのかもしれない。



● 2015.4.27〜29 先輩たち

 一人、また一人と身近な大人があの世へ旅立つ。
 ありがたいなと思うのは、病気や死に対処する姿を見せてもらえること。
 人の死亡率は100%なので、僕にもいずれその日がやってくるし、その時にどう振る舞うべきかは、先輩方を参考にさせてもらいながら長い時間をかけて考え、可能限りの納得を準備しておきたい気持ちがある。

 さて、ここ数日、フィールドで、町で、「トンボを愛する男」と「カメムシを愛する男」に会って話をする機会があった。
 生き物の話の前に、まず、神経痛や通風など、体の不具合に関する話が妙に盛り上がった感がある。
 生き物や写真の世界は、本格的に取り組むのなら、まだ人がやっていないことをする、或いは人にできないことをするのが大前提であり、その意味では全員がライバルであって、先輩・後輩や先生・生徒のような概念は成り立ちにくいし、僕は何かを創作する立場にある人間としてその手の概念をあまり持ち込みたくない気持ちがある。
 しかし体の老化に関しては、多少の前後はあっても大筋でだいたい順番通りであり、年上の人はまさに先輩であり、先生だと言える。
 先輩方の話は、いずれ自分にも降りかかることであり、先に物事を体験して話してもらえるのは本当にありがたいなぁと思う。
 特に、優れた自然観察者は、当然自分の体もよく感じておられるし、病気がひどく発病する前の兆候〜発病までの細やかな話は、生き物の生態のつぶさな観察記録となんら違いはなく、人の体もまさに自然であった。

 町からの帰りは、夜が遅くなってしまった。
 JRの便が少なくて待ち時間が長かったので、300円余計にだしてカッコイイ特急ツバメに乗って帰ることをホームで思いついたのだが、現金で特急券を買える自動販売機がなくて、断念。
 しばらく待って乗り込んだ普通電車は、最終電車に近い感じで人が多く、わずか30分程度の間にドカッと疲れが押し寄せてきた。



● 2015.4.25〜26 実は嫌いなこと

 一時期、人からパソコンに関する質問を結構たくさんされた時期があり、ある時、
「なんで僕に?」
 と質問者の一人に聞いてみたら、
「いろいろとやっておられるので、詳しいのかと思って」
 と返ってきたことがあった。
 僕は、自然写真を撮る人の中では、割と早い段階から仕事にパソコンやインターネットを活用してきたので、当時それが得意なのだとよく誤解されたのだが、実はITはあまり好きではないどころか、アレルギーを持ちだ。
 ただ、パソコンやインターネットが普及する以前は、こんなことができる、あんなことができると色々なことを試し、何かを確立することが楽しかった。例えば、ネットで画像を送るのが普及する以前に、仕事を依頼してくださった編集者にこうして画像を送りますからと送った時に、
「スゴイ、東京在住の人とやり取りするより地方に住んでいる武田さんお方が早い!」
 と驚かれることは喜びだった。
 したがって、今のようにパソコンが普及してしまえば、あとにはアレルギー反応のみが残る。
 元々パソコンが好きではないので、マックからウインドウズに変える時なども、ウインドウズの方が安上がりだからと実に容易く割り切ることができたし、その手のアイテムには何の執着もなく、ただひたすらに、合理性で物を選ぶ。

 先日、ある方が、うちの事務所がとても整理されている。整理好きな自分でさえ敵わないと信じられないような嬉しいことを言ってくださった。
 整理に関しても、パソコンに近いものがある。
 仕事場は散らかってはないけど、整理は好きではない。
 ただ、どうしたら物が散らからないですむのだろうなどと合理的なしくみややり方を確立することが大好きで、物が整理されているのはその結果に過ぎない。
 したがって、僕が何かを整理することはあまりない。
 撮影用に飼育している生き物の世話なども、それに近い。
 極めつけの横着ものである僕は、毎日生き物を世話するようなことが得意ではない。
 ところが、なるべく手がかからない世話のやり方を確立するなどというのは大好きで、例えば一ヶ月水換えをしなくても、水が汚れないシステムを作るなどとなると、俄然、力が入る。
 水を浄化するろ過装置などには、大変な興味を感じる。
 撮影用のカタツムリを、餌を入れる以外に特に世話をすることになしに、ほぼ勝手に繁殖させ、ほぼ勝手に成長させることができるような飼い方はないものだろうか?と、大きな水槽の中にカタツムリが好む自然な環境を再現し、試したこともあった。
 たまに水を撒くくらいで、餌の残りや糞は自然と分解され、僕は撮影に必要な時にその中から数匹適当にカタツムリをピックアップし・・・
 カタツムリの飼育の自動化は、結局は上手く行かなかったのだが、またやってみたいなという思いはある。
 というのは、ある方が、温室を利用してそれに近い飼育をやっておられ、改めて興味をそそられたのだ。



● 2015.4.24 要不要説

 思いがけない方が、自然科学出身でもないのに、カタツムリの最新の遺伝子による研究について詳しかったのでビックリさせられた。
「なんでカタツムリのそんなオタクな話を知っているんですか?」
「わりと最近新聞に載ってたじゃないですか!ネットでもニュースになったし・・・まあ、好きですからね。その手の記事が目の前にあるのに、ジャンルが違うし自分には不要だからと見ない人、というか見ないで済むような人に、面白い本は作れないと思いますよ。」
 と。
 ああ、ここにも要不要説を唱える人がいた!
 矛盾する言い方だが、「不要な知識が必要」という説を、僕は勝手に要不要説と名付けている。
 要不要説は、高校の生物で勉強するラマルクの用不用説をもじったものだ。

 なぜ不要な知識が必要なのか、自分の身の回りにいるそんな人たちの姿を思い浮かべながら、たまに何となく考えることもある。
 あの人、好奇心スゴイよなぁ。役に立つとか立たないとか関係なく面白がって取り組めるあの好奇心が、いい仕事をさせるのかな?
 あの人も、色々なことを知ってるよな。困った時に質問したら、何か返ってくるから頼れる。
 知らないことを、自分には関係ないからと放置しない態度が、あの知識やいい仕事に結び付くのかな?
 人は、これは自分の役に立つとか立たないとすぐに分別したがるけど、実は何が役に立つかは、そんなに簡単には分からないのだ、と僕は今のところ考える。
 生き物や写真に関わる仕事をしていて、何か一気に面白くなるのは、自分でも思いがけない何かがきっかけになるパターンが多いから。
 まさに、こんなものは役に立たないと思っていた知識が起点になったり鍵になったり、こんなものは面白くないとさえ思っていたものが面白かったり。



● 2015.4.22〜23 天トレ


カタツムリ箱

 カタツムリの採集に必要なものの写真を撮ったのだが、一応ちゃんと写ってはいるものの何となく楽しくないので、すべての写真を普段よりも凝ったやり方で撮影し直すことにした。
 今日の画像は、カタツムリを持ち帰る際に使用するカタツムリ箱と呼ばれるもの。
 ティシュにくるんだカタツムリを箱の中に入れて持ち帰る。
 カタツムリは箱の中で乾燥し休眠状態になるので、2週間くらいは何のメインテナンスもなしに生かしておくことができるのだと言う。
 カタツムリ箱の撮影は、商品撮影をする人たちの間で、天トレと呼ばれる手法で撮影した。



● 2015.4.20〜21 代わりに見る


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

 ある画家さんに、僕が撮影した写真を、ネット回線を使って送ることになった。
 その方は今体が指先のごくわずかな範囲しか動かない状態なので、非常に残念なことに絵を描くことができなくなった。
 しかし代わりに詩を書くために、自分の代わりに物を見てきてくれないだろうかという申し出があった。
 指先しか動かないので、日頃たくさん発信しておられるわけではないが、たまにフェイスブックを使って報告される近況に僕は多大な影響を受けており、喜んで参加させてもらうことに決めた。

 どんな画像を送ったらいいのだろうか?
 ボケを生かした写真は、不適ではなかろうかという結論になった。
 ボケを生かすと被写体が背景から浮かび上がる分、僕の意図が明確になり過ぎて、写真がある決まった見方しかできなくなる。それは僕が何かを見たのであり、誰かの代わりに物を見に行ったにはならないだろう。
 どんな形で送るのかは、多少試行錯誤をやってみた。
 最初、フェイスブックを使ってお互いにコミュニケーションを取りながら送ろうと考えたが、指先だけで操作できる端末は意外なことにガラケーと呼ばれる古いタイプの携帯電話のみらしく、ガラケー用のフェイスブックでは大きな画像が受け取れないことが分かった。
 ならば一層のこと、僕が携帯電話で撮影してそれを送ろうかと提案してみたら、携帯電話で画像を送ってくださる方が他におられるとのことなので、今度は大きな画像をパソコン宛に送ることにした。
 2400万画素や3600万画素の画像を送り、部分を拡大して全体を細かに見てもらえば、その場に行ったとは質が違うにしても、ある部分、それ以上の情報量がある。
 僕は、カメラの画素数は1600万画素くらいが使いやすいと思っていて高画素派ではないけど、高画素のカメラって素晴らしいなとじみじみ思った。
 どこでも拡大して見ることができるように、ピントは隅から隅まで合っていてほしい。
 綺麗に撮ろうとするのではない。
 何かを説明するための写真を撮る機会はこれまでもあったが、実際にカメラを構えてみると少々質が違っていて、送った画像はいずれも初めて経験する写真の撮り方になった。
 恐らく僕は、自分が死ぬ間際まで、その方の影響を受け続けるのだろうと思う。



● 2015.4.19 表情の話

 生き物の種類を問わず、過去にほとんど写真が売れたことがないのが、このアングルだ。


NikonD7100 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 ほぼ真横から顔が少しだけ後ろを向いた写真は、自分で写真を選べるケースでは使用したことがあるが、他人に写真を選んでもらったケースで、売れた記憶がない。
 真横の写真ならニーズがある。特に図鑑のように説明しなければならない状況では、真横からの写真は不可欠であり絶対だと言える。
 それから、真横よりも少しでも前を向くと、急に売れるようになる。後ろを向いているのなら、一層のこと、後ろ姿に近い方が売れる。


NikonD7100 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 売れる売れないがすべてではないので、それにとらわれ過ぎないことは大切。
 一方で、他人の気持ちを理解できるようになることも大切であり、自分が理解できているかどうかを何らかの客観的な指標 - 売り上げはその1つ - で見ておくのも同様に大切なこと。
 真横よりも少しだけ後ろを向いた写真が受け入れられないことから分かるのは、生き物の写真の場合、表情が命だということ。だから、生き物が小さく写っていて一見風景のように見える写真でも、生き物が半端に後ろを向くと途端に売れなくなる。

 自分がどんな時に真横よりも少し後ろを向いた写真を撮ってしまうのか?と言えば、シャッターを押すタイミングが少しだけ遅い場合が多い。
 ではなぜ遅くなるのか?
 その場合、生き物の表情よりも写真術に気持ちを取られている場合が多い。例えば構図だとかピントだとか。
 その点写真術に興味がない人、いわゆる素人が撮影する写真の方が、被写体の表情が優れている場合が案外多い。素人は逆に「あの顔を撮りたい」などと、ほとんど相手の表情しか見ていない傾向がある。
 フィルムの時代は、写真をただちゃんと写すことが難しかったので、ちゃんと写っている写真には表情が悪くても、、「ピントが合っている、露出が合っている」というような価値があった。
 だがカメラの進歩で、今や素人でも携帯電話のカメラでもちゃんと写ることは当たり前のことになった。人から送られてくる携帯電話やスマホで撮影された写真に、
「おお〜」
 と感心させられたり、カメラマンである自分が刺激を受けるようになった。
 そうなると、フィルムの時代に重視されたちゃんと写っているということは、あまり価値を持たなくなる。写真術が決してどうでもよくなったわけではないけど、まずその前にいい表情があり、次に、写真術が要求される傾向が強くなった。
 そうした時代の変化に取り残されないようにするのも大切なことであり、そのためには、時代をどこかで感じる必要がある。
 ともあれ、芸能人は歯が命、生き物の写真は、たとえ風景的なシーンでも表情が命。


NikonD7100 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD7100 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD7100 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX


● 2015.4.17〜18 海藻


SONY α55 15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

 磯の写真は、パッと見て、「あ、これいける!」と思えた写真が、よく見るといつもピンボケでガッカリだ。
 今回もまたそう。
 海藻が一番凛々しい姿になるのは、押し寄せてきた波にフワッと持ち上げられた時なので、シャッターを押す時には常に波に激しく揺さぶられており、ピントが合わないのだ。
 左右に揺さぶられるのなら大した問題にはならないのだが、被写体が前後に数十センチ揺さぶられるとピント合わせが難しい。
 仮に飛んでいる鳥やトンボなら、ピントが合ってなくてもみな理解をしてくれるのだが、海藻だと、この被写体でピンボケはないやろうと受け止められてしまうのが辛いところ。

 僕は海に入り、カメラを沈め、海底に膝をついてそのタイミングを待つ。
 ザァという音と共に押し寄せる波で海藻がまるでダンスでもするかのように踊るのに合わせて数枚のシャッターを切ると、続いて今度は自分のお尻がフワッと浮かぶ上がって水中で何度かバウンドをして、最後に水しぶきが頭にピチャとかかる。
 波は毎回少しずつ違っていて、同じ写真は2枚と撮れない。これは決してカメラマンの大げさな話ではなく、海藻は毎回違う形になるので、修正をしながら何枚も何枚も写真を撮って、イメージする絵柄に近づけていくことはできない。
 一方で、地味で自らはほとんど動かない海藻が、毎回違ったポーズを取り、ピントが合っているかどうかは別にして、常に新しい写真が撮れる。
 写真を撮るのではなく、撮れてしまう感じがする。
 これが陸上の風景の写真などの場合は、何枚撮影してもまるで金太郎飴のように同じような写真ばかりが撮れてしまい、挙句にすべてボツなどということがある。

 経験的にいい写真が撮れる条件は幾つかあるが、同じ写真が2枚撮れない状況、つまり激しく変化する状況は、しばしばチャンスであり、いい状況だ。
 動いているから難しいのではなく、相手が勝手にポーズと取るので動いている方が簡単。ただし、ピントが合えばの話。



● 2015.4.15〜16 箱庭療法

 僕は、とにかく一人になりたい気持ちが強い。
 そんな一人になりたいという僕にとって、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』というこの本は、大変に面白い本だった。
 因みに、村上春樹さんの小説を読みたいとは、一切思わないのだが・・・。




 この本の中に登場する概念で、箱庭療法と呼ばれるものがある。
 詳しくは、インターネットを検索してもらいたいのだが、簡単に言うと、言葉にならない何かを抱えている人がそれを言語化するのではなく箱庭を作り、その箱庭に現れるものを通して理解しようとする一種の治療のようなものだと僕は理解している。
 僕にとって写真撮影は、多分その箱庭療法なんだろうなと思う。
 写真を撮ることで、自分が何を考えているのかを自分で知ろとしているのではなかろうか。

 しかし、それは極めてプライベートな写真であり、それを仕事の現場に持ち込めば、一緒に仕事をする人たちが大変な迷惑をこうむることになる。
 なぜなら、僕が撮った写真を見る人の大部分は、僕が何者かに興味があるわけではなく、そこに写っているものに興味を感じるのだから。
 したがって、僕の場合、仕事は仕事。



● 2015.4.14  のぞき専用のライト

 何にやられたんだろう?カラスかな?
 たまにフィールドで、何かに食べられてしまったカタツムリの貝殻を拾う。



 さて、今日は撮影機材を自作した。
 上の画像は、極々標準的な撮り方をした、カタツムリの殻の標本写真。



 そしてこちらが、今日自作した照明器具を使った写真。
 殻の中の狭い範囲だけを照らすことができる。
 発光する部分は円形で、直径がおよそ4mm。
 殻の左側には、照明器具の発光部が小さく写っている。



 やや弱めに発光させた標本撮影時の標準的な照明と自作照明を組み合わせたもの。
 自作の照明はこの写真を撮るために作ったわけではなく、これから別の生き物の撮影にチャレンジする。
 穴の中に突っ込んで中をのぞき見る、覗き専用の照明器具であり、水にも浸けることができる。



● 2015.4.13  アプリ


「パソコン嫌いやなぁ。」
 と思っていても、いまやパソコンなしでは写真活動ができない時代になった。
 昆虫写真家の海野先生などは、パソコンやインターネットが普及する前から、そう遠くないうちに今のような時代になると予言しておられ、実際にそんな時代になった今、先見の明がスゴイなと改めて思う。
 もう25年近く前のことになるが、海野先生の事務所に行くと、先生が電話とファックスと格闘しておられた。電話の向こうで編集者が、
「切り抜きができるテントウムシの写真はありませんか?」
 と求めていて、それに対して海野先生が緑の葉っぱの上にとまっているテントウムシの画像をファックスで送っているのだが、絵柄がつぶれて相手には見えないという状況だった。
 その時に、
「もうしばらくしたらこんなバカな作業をしなくても、パソコンと電話回線を使って・・・・・」
 と海野先生がおっしゃった。
「・・・・・・」
 となっているのは、当時の僕には意味が全く理解ができなかったのでよく覚えてないからだが、話は、言うまでもなくインターネットのことだ。
「海野さんはね、写真雑誌を発売日に買わないことはあっても、パソコン雑誌だけは何があっても発売日に買うのよ。」
とスタッフの方が笑いながら話してくださった。

 さて、スマホのアプリの中には、カメラマンにとって実にありがたいものが多い。
 例えば、ニコンのアプリには、デジタルカメラのライブビュー画像(デジカメのモニターに映し出される画像)を、スマホの画面に転送した上で、スマホ上でピントを合わせたり、シャッターを切ることができるものがある。そして無料。
 それから、上の画像のサン・サーベイヤーというソフトは、太陽と月の位置を教えてくれる。
 無料版は太陽の動きのみ。
 有料版は太陽と月。
 有料版の料金は、確か数百円程度。なぜ正確な料金がここに書けないのかと言うと、このソフトは多分何台の端末にでもインストールできるようで、一度購入すると、価格の代わに、「購入済み」と表記されるため、今となっては自分が幾ら支払ったのかが分からないのだ。
 僕はだいたいパソコン関連は好きではないのと、世間があまりにスマホ、スマホと連呼するものだから反発を感じ、
「俺はスマホなんて要らんわい。」
 と思っていたのだが、スマホも今や重要な撮影機材の一部になった。
 因みに、サン・サーベイヤーは、インターネット接続なしに使用することができるので、スマホの端末さえあれば、通信契約をしなくても使用できる。
 ソフトを購入する際にだけはインターネットに接続する必要があるが、それは自宅の無線ランを介して接続すればいい。
 僕はこのソフトを使用するためだけに中古のスマホを安く購入したのだが、どうせならやっぱり通信もできた方がいいと言うことで、DMMモバイルの月々約700円(1G/通話は不可)の契約をしてみた。

 ところで、今日の画像はどうやって撮影したか分かるだろうか?
 難しいポイントは2つ。
 1つは、スマホの画面と外形の部分とでは明るさに違いがあり過ぎ、画面を写すと、スマホの外形が写らなくなり、外形を写すと画面が写らなくなること。
 あとの1つは、写真を撮ろうとすると、スマホの画面に自分やカメラが写ってしまうこと。
 答えは、スマホの画面だけを写した画像と、外形だけを写した画像を、パソコン上で合成。
 それから、スマホを真正面から撮影すると画面に自分が写ってしまうから、斜めから撮影した。斜めから撮影すると、スマホの手前が大きく、後ろが小さく変形するので、それをソフト(無料)で直してみた。
 今回はためしに適当にやってみただけなので、スマホの形が完全に正確ではないけど、ちょっとした機会にいろいろな新しい技術を試しておくことは、今や必須になったと言える。
 インターネットの普及以前は、分からないことがあっても、分からないで済ませることができたが、ネット普及後は調べれば大抵のことが分かるようになり、調べて当たり前、調べないのは横着者のレッテルを貼られてしまう感さえある。


● 2015.4.11〜12  特撮

 撮影の際に手段を選ばず、何をしてもいいのが、コマーシャル写真の世界だ。
 ある先輩は、青空を飛ぶ鳩を撮影するのに、スタジオに青い幕を張り、大きな扇風機が風を起こして鳩を何度も何度もそれに向けて放り投げて撮影することがあると教えてくださった。
 それとは真逆に、人が手を加えてはならないのが報道写真。
 厳密に言うと、報道写真でも人が手を加えることはあり得る。例えば野生生物を撮影する際に、餌付けをすることだって有り得るだろう。
 しかしその場合はそのことをちゃんと説明しなければならない。嶋田忠さんの写真集「カワセミ」には、捕食のシーンを撮影するために餌付けをしたことやその餌付けのやり方が記されているが、それは1カメラマンの青春を綴ったエッセーであると同時に、報道的な要素や科学写真的な要素も満たす枠割をしている。

 コマーシャルと報道はどちらが正しいわけでもなく、見る人との合意があるかどうかが重要になる。
 例えば、僕らは報道写真を見る時に、そこには人の手が加わっていないものとして見る。したがってそこで人手が加わった写真を見せるのは裏切り行為になるし、やらせになる。
 一方でコマーシャルの写真や映像を見る場合には、それはあくまでもイメージであり、コマーシャルだと最初からわかった上で見る。したがって、仮にカメラマンが撮影の際に何らかの手を加えていたとしても、それはやらせではなく、楽しい演出ということになる。
 その嘘と事実の境目を楽しむ世界もある。芸人さんが熱湯に浸かる熱湯コマーシャルなどは、本当はそこまで熱くないんでしょう、演出でしょう?と思いつつも、あえて騙されて笑うのである。
 プロレスだってそうだろう。
 相撲にも、少しだけそんな要素があった。すべての取り組みがガチンコではないことは暗黙の了解だった。
 ちょっと前までは、食品だって、○○牛だ、魚沼産コシヒカリだと記されていても、さてどうかな? まあ、食べてみたら分かるでしょうと緩く構えていた。
 だが近年は、世間がそんなことを嫌うようになり、相撲で八百長が叩かれたり、食品偽装が厳しく取り上げられるようになった。

 さて、コマーシャル写真的な仕事を依頼され、それが撮影できるだけの気象条件がようやく整ったため、ここ数日で何日か写真を撮った。
 コマーシャル的な依頼と言えども、生き物の撮影の場合は何をやってもいいわけではなく、許される嘘と嫌われる嘘とがあるから、専門家としての見識や知識が求められる。
 時には依頼者に、
「このシーンを求められたとおりに作って撮影すれば間違えになるけどいいですか?」
と言うこともある。
 意見を言うと、僕が写真を撮るのを嫌がっているのだと受け止める方もおられるが、そうではない。確かに作るのは決して好きな撮影ではないけど、仕事が辛いのは当たり前の話だ。
 問題は、間違えたシーンを撮影すれば批判されるということ。批判されるということは、誰かが不愉快な思いをしているということであり、僕が意見を言うのは、それを放置してもいいのかをみんなで検討する必要があると考えるからだ。
「この手の撮影は他の人に頼んで。」
 とお断りするのも、ちょっと違うなと思う。
 他の人が撮影したのだとしても、誰かが不愉快な思いをするという問題は解決しないから。
 コマーシャル的な撮影の場合は、読者を喜ばせることができ、同時に世間の人に不愉快な思いをさせない絵コンテをまず描く必要があり、そうした事前の打ち合わせが非常に重要になる。



● 2015.4.10 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。


● 2015.4.9 お金の話

 写真を撮ってお金をもらう。写真を貸し出してお金をもらう。
 これは僕にとって当たり前のことだが、それが当たり前ではないというのを、以前コマーシャルフォトの世界で名の知れたある先輩に教わったことがある。
「写真館で写真を撮ってもらったら、撮られた側がお金を払いますよね。でもモデルさんを撮影したら撮影した側がお金を払うんですよ。それから町で適当に人物のスナップ写真を撮った場合は、お金のやり取りは生じませんね。」
 写真のモデルに限らず、誰がお金を払うのかは決して決まっているわけではなく、カメラマンがお金をもらうかどうかも時によって違うのだ、と。

 自然写真の世界では、大抵の場合、写真が使用されるとカメラマンはお金をもらうが、確かに逆のケースがないわけではない。
 例えば、以前ある新聞社から電話がかかってきたことがあった。
「あなたの写真は素晴らしい。」
「ありがとうございます。」
「そこで、うちの芸術欄にどうでしょう?」
「ほう。」
「つきましては、掲載料が○○○○○○円かかるのですが・・・・」
 と。
 厚かましいことを言う会社だなぁと一瞬感じたものだが、いやいや、と先輩の話を思い出した。有料でも写真が掲載されることでそれが広告になり、僕が儲かればいいという考え方もある。
 写真の使用料をカメラマンがもらうこともあれば、掲載料を支払うこともあるのだから、その中間の無償というのもあり得るのだろう。
 自分でお金を出して本を作る自費出版というものもある。自費出版に比べれば、印刷などの費用は持ってもらえる無償の方がまだましだと考える方もおられるだろう。
 僕は、自費出版をする気にはなれないのだが、キャプション以外のテキストがない写真集を作れるのなら、無償でもいいと思う。
 仕事でも、撮影にかかるコストまでもを加味すれば、赤字である場合も珍しくない。
 今準備中のカタツムリ図鑑なども、図鑑の売り上げだけでは、黒字になることはないのではなかろうか?
 でもそれでも、本人がいいと思えばいいということになる。先日、ずっと以前から加わりたかったある団体に参加できることになり、団体が新たに発行するマガジンに自己紹介を投稿したのだが、趣味の欄には「カタツムリ」と書いたくらいなのだから。
 ただし、それが当たり前になることでギャラの相場が暴落して、プロのカメラマンが存在できなくならないように気を配る義務はある。
 プロがいなくなれば、出版社が負担するコストは安く抑えられるかもしれないが、そのうち質が落ちてきて、出版自体がつまらないものになり、業界は小さくなっていくだろう。

 ともあれ、お金に関しては交渉事であり、お互いの合意があるかどうかが大切だと言える。
 写真の不正使用がなぜダメなのか?と言えば、お金を払わずに写真を使うからではなくて、相手の合意がないからなのだ。



● 2015.4.7〜8 キセルガイ

 カタツムリの中でもキセルガイと呼ばれる細長いタイプは、名前を調べるのが難しく、仮に同定できなくてもガッカリする必要はない。むしろスパッと同定できた時に、俺ってスゲーやんと自信を持つくらいでいいだろう。
 識別のポイントはいくつかある。
 例えば、殻の入り口の形状がそれ。



 一般人が手に入れることができる、それに関する資料は少ないが、これかな?と思える種名のあたりが付くのなら、その名前でウエッブを検索すれば、微小貝データベースと呼ばれるサイトに多数の標本の画像がある。

 他に、殻の内側にあるプリカと呼ばれる箇所は、同定の際の重要なポイントになる。



 殻の内側の構造であるから、殻を光に透かして見る。すると、種類ごとに特徴のある形が浮かび上がる。
 ただ、カタツムリが生きていると軟体が邪魔をしてプリカが透けにくいので、確実に見ようと思えばカタツムリを殺して軟体を取り出さなければならず、手軽ではない。

 プリカは、光に透かさなければ見難い構造物であるから、撮影も手軽ではない。したがって、キセルガイの殻のプリカが分かる画像となると、いよいよ目にする機会がない。
 プリカがよく見えるほどの強い光で殻を透かすと、殻の輪郭などは明るくなり過ぎて白飛びと呼ばれる現象を起こし、写真に写らなくなってしまう。
 だからそうならないように必要な箇所のみに光を当て、そうではないところには光が当たらないように、丁寧な丁寧な撮影が求められる。
 上の画像は、画面の下側でほんの少しだけ余計な光が漏れてしまっているのだが、まあ、この程度なら愛嬌でしょう。

 今回プリカを透かすために使用した照明器具は、普段僕が水中撮影の際に使用しているイノンのD-2000に、光を細くする専用のスヌートと呼ばれるアクセサリーを取り付けた物だ。
 スヌートとは細い筒状の構造物で、取り付けると光の束が細くなり、狭い範囲のみを照らすことができる。

 

 通常フラッシュとかストロボと呼ばれる写真用の照明器具は、カメラのシャッターが押された瞬間にピカッと一瞬しか光らないので撮影前の段階ではどこに光が当たるのかが分からない難しさがある。特にスヌートを取り付けて狭い範囲にしか光が届かないようにすると、いよいよ難しい。
 その点D-2000は結構明るいLEDライトを内蔵しており、それを点灯しておけば、ストロボの光がどんな風に照射されるかを大まかにシミュレートすることができる。
 したがって、キセルガイのプリカの部分のみに光をあて、そこだけきれいに光で透かして浮かぶ上がらせたいようなケースでは非常に便利だ。
 水中では元々別のメーカーの照明器具を使用していたので、D-2000を最初に購入する際には不要か?とも考えたのだが、人気商品でもありオークションで高値が付く傾向があり、不要なら出品すれば大して損はないと買ってみた結果、水に陸に活躍する僕の主戦力となった。



 D-2000を水中で使用する際には通常専用のアームに取り付けるが、シューベースセットを使えば、スタジオで使用する場合に三脚に固定することも可能になる。
 陸上で使用する場合は重たいことと多少高価であることを除けば、言うまでもなく完全防水であり雨の中での撮影にも使用でき、非常に優れたストロボだ。
 イノンというメーカーは、ホームページの製品を見ているだけで、その工夫が楽しい。
 大好きで〜すと大声で叫んでみたくなる。



 ちなみに、プリカを浮かび上がらせるD-2000による照明のみを消すと、こんな感じになる。



● 2015.4.6 カメラマンはカメラマンでも

 趣味で写真を撮っていた頃は、雑誌や本の中で物凄い写真を見た時に、感動と同時に、嫉妬心のような感情が込み上げてきて苦しくなったものだった。
 これは、真剣に写真に取り組んでいる人なら、誰しも多少なりとも経験があることだろうと思う。写真に限らず、それがない人が何かを上手になるはずがないし、そう感じることこそが何かを好きということでもある。
 最近は、そうした状況はほとんどなくなってしまったものの、たまに近い何かを感じるのが、プロ、アマ問わず、生き物の研究者でありながら並行して写真活動もしてもられる方々の世界を垣間見た時だ。
 この人の世界スゴイなぁという尊敬の思いと同時に、自分がすごくつまらなく思えて、少し複雑な心境になる。
 ただし、僕が心を揺さぶられるのは、研究者は研究者でもその写真が美術的に優れているケースであり、研究は面白いけど写真はあくまでも説明という場合には、心にゆとりを持って、それらの業績を純粋に楽しめる。
 生き物のカメラマンはカメラマンでも、自分がどんなカメラマンになりたいのかがそこに現れているんだろうな。
 そう言えば昨年、在野でのカタツムリ研究の第一人者・湊宏先生のお宅にお邪魔した際に、
「武田カメラマン」
 と呼ばれ、自分がカメラマンであることが非常に残念に感じられた。
 研究者のみなさんが調べたことを一般の人により分かり易く楽しく伝えるカメラマンとしてではなく、自分自身がカタツムリについて語れる立場として先生にお会い出来たらどんなに誇らしいだろうと思えたのだった。
 僕の場合は、 生き物を自分の目で見て、まだ知られていないことを1つでもたくさん見つけ、それを人に伝えたい思いが強い。

 今制作中のカタツムリ図鑑は、カタツムリという生き物の性質上、相当な労力になることはあらかじめ分かっていたのだが、その困難さをよく理解できるある方から、
「何でカタツムリ図鑑をやろうと思ったの?」
 と聞かれたことがある。
「1つくらい、割に合わない馬鹿なことをやってもいいんじゃないかと思って」
 と答えたのだが、よく考えてみれば、誰か他のカメラマンがカタツムリ図鑑を作ることを想像した時に、それを受け入れがたい自分が存在することが大きい。



● 2015.4.5 さようなら、ミノルタさん



 ハクバのストロボ用のディフューザーが、小さな生き物の撮影に非常に使いやすいのでビックリ。これまで、なんとなく取り付けが煩わしそうで使ったことがなかったのだが、買ってみると、実に合理的で簡単だった。
 カメラは、絞りもシャッター速度も普段自然光で撮影する際と全く同じ設定にしておき(ストロボの同調速度のみ注意)、内蔵ストロボをポップアップさせこのディフューザーを取り付けTTLオートで光らせると、ストロボなしでは影になる部分が、まるでレフ板を当てたかのように明るくなる。
 光が強すぎると感じた場合は、TTLで光らせる内蔵ストロボの光量をマイナス側に補正。
 反射できる光がある場合はレフ板の方がきれいに写ることが多いが、レフ板の場合は、光が拾えない状況も多々ある。
 その点ストロボ+ディフューザーなら、どんな条件でも影をおこすことができる。
 サイズはS,M,Lの3種類。取り付け可能なカメラがニコン用、キヤノン用の2種類とあり、3×2の計6種類の製品がラインアップされていたはずだが、アマゾンで現在表示されるのがニコン用のMのみであり、Lはメーカーのホームページにもないことから判断すると、もしかしたら製造が中止されているのかな?

 うちにはニコン用のL、M、Sがある。
 マクロレンズとの組み合わせではLがベストだが、広角レンズを使うとLではレンズの画角にディフューザーの一部が入ってしまうのでMがベスト。どれくらい光が柔らかくなるかに関しては、LとMはそんなに差はなく、Mにしておけば手堅い。
 ともあれ、この製品はなくならないでほしいなぁ。

Sサイズは改造して、マクロストロボに取り付けた。


 それに伴い、これまで使っていたミノルタの古いディフューザーはついに引退。
 ミノルタのディフューザーはお気に入りの道具の1つだったが、こういう用途には少し重いのと、踏んで割ってしまったりした時に、現場ではどうにも修理ができないことが気になっていた。
 その点ハクバは、軽くて割れにくい素材で作られているし、破れても現場でテープで補修できる。





 ミノルタのディフューザーを最後に記念撮影してみてふと気が付いた。
 乳白のアクリル板の上に白やシルバーの紙を貼っておけば、こいつは、スタジオで小さなものを撮影する際のレフ板に適する。

 マクロストロボと内蔵ストロボを、いずれもハクバのディフューザーで拡散させると、絶大な威力がある。


 これはスゴイっすよ。
 あまりの凄さに中島みゆきが歌いだすに違いない。
「まわる、まわるよ、光はまわる。」
 と。
 上の画像の内蔵ストロボに取り付けられているのはMサイズだが、これをLに変えると、ディフューザーがもう少し前に出てくる。



● 2015.4.4 ムカシトンボの羽



 「ムカシトンボは生きた化石である」
 と図鑑で紹介されているのを子供の時に読んで、特殊な生き物であること以外はよく分からなかったけど、とにかくスゲー奴だと憧れた。
 見たい、というよりは、凄すぎて自分には手の届かない存在であるに違いないと思えた。
 自分の目で見たいなと思ったのは、大学生の時。
 車で宮崎から山口の下宿まで帰宅をする際に疲れがひどくてどうしても運転が辛くなり、急遽どこか泊まれるところはないかと探して泊った大分県は直川村のバンガローで、「ここにはムカシトンボの生息地です」という案内板を見かけたのだった。
 直川村に一人の虫好きのお巡りさんが赴任したのをきっかけに、虫による村おこしが始まったのだそうだが、その狙いは的中して、僕は今でも直川村と聞いただけでワクワクする。
 通常、この形のトンボは羽を広げて止まるが、ムカシトンボは羽を閉じて止まる。日本国内には広く分布するものの、世界的にみると極めて特殊なトンボなのだという。
 マニアの世界には詳しくないけど、どう考えても、世界のトンボマニアの憧れの存在であろうと思う。

 重ねて閉じられた羽は、合計4枚。
 常識的に考えれば、羽は飛翔の道具であるので常に左右対称になるのが自然に思えるのだが、ムカシトンボは羽を閉じて休む際に、4枚の羽を体の半身に寄せて背負う。
 少々イメージができにくいだろうから、羽を人が背負うリックサックに例えて説明すると、背中の真ん中に背負うのではなく、片方の半身側ににずらして背負うような感じになる。
 上の画像で、4枚の羽根と胴体の位置関係を書くと、手前から、胴体、羽、羽、羽、羽の順に並び、4枚の羽はすべて体の右半身側にある。
 したがって、右半身側から見ると羽の後ろに胴体が透けて見え、左半身側から見ると羽の前に胴体がある。
 とにかく、普通の感覚で考えると自然な、羽、羽、胴体、羽、羽の順にはならないのだ。
 なぜ、そんな羽の背負い方をするのだろうか?
 このトンボはよほどに右半身を羽で隠したいのか、あるいは、女優さんには自分の顔を自信がある角度からしか撮影させない方がおられると聞いたことがあるが、同様に左半身に自信があり、左半身を見せつけたくて羽で隠さないようにしているのか。



 枝にとまって一晩を過ごしたムカシトンボは、朝日が差し込むと体を朝日の方に傾けて温める。
 その場合、体の半身のうち、羽がない側をお日様の方向に向ける。上の画像の場合なら朝日は左側から射していて、4枚の翅はすべて光とは反対側、この場合なら右側にある。
 羽が無い方が胴体にお日様がよく当たり暖まりやすいのだと思うが、そうしたムカシトンボが日光浴をする際の行動から、ムカシトンボが羽を片方に寄せて背負う理由が推測される。
 地面にシルバーシートを敷いてその上に寝転ぶと、シートが太陽光の熱を放射して暖かいが、ムカシトンボも、胴体の後ろ側に羽があることで羽がシルバーシートの役割を果たして体が暖まりやすくなる可能性も考えられる。
 因みに、まだ体温が上がらず飛ぶことができない上のトンボを、指先でクルリと回して向きを変えても、このトンボは再度向きを変え羽がない側の半身をお日様に向けた。
 ただし、この枝の形の関係で、そちらに体を向けた方がとまり易かったからという可能性もあり、別の個体で別の状況で同様の観察をする必要がある。
 ムカシトンボが枝に止まっているところを観察できる機会は少ないので、どなたかチャンスがあれば試して、是非結果を教えて欲しい。



● 2015.4.3 10年かかって増刷

 都会にすみついたセミたちの増刷分が、先日手元に届いた。
 編集のOさんとは、他にも合計6冊の本を一緒に作ったが、その際にOさんから教わったことを今でも頻繁に思い出すことを考えると、僕の本作りはまだ続いていると言った方がいいのかもしれない。
 だいたい僕は頭が悪いので、物事がすぐに理解できず何をしてもそんな傾向にある。人との会話が、心の中で何年間も続くことが珍しくない。

 編集という作業をどう理解するかには、著者ごとにさまざまな考え方があるが、僕は、自分の意見を言ってくれる人が好きだし、それが自分の職業観に良く合う。
 今はカタツムリ図鑑の真っ最中だが、編集者が
「編集の立場から・・・」
 と意見を言ってくださると、非常に嬉しい。
 映画に主役や脇役などの立場があっても、それは単なる役割分担であり、決して主役の人のための映画ではないのと同じこと。本を作る際に著者が主役であることには間違いないし、著者にしか担えないことがあり、著者は絶対にそこから逃げてはならないというのは、近年しみじみ感じることだが、それは役割分担であり、仮に僕の著作であっても、それは決して僕の本ではなく、かかわったみんなの仕事だと思う。

 これは、逆の立場に立ってみるとよく分かる。例えば、
「君は意見なんて言わなくていい。ただ言われた通りに写真を撮ればいいんだ。」
 と求められたとしても、その写真にウソがあったり問題があれば、批判を受けるのはカメラマンになるし、お金が支払われるからいいという問題ではない。
 だからみんな自分の立場から意見を言えるような、逆に相手の意見を聞けるだけのやり方や時間的なゆとりを設ける必要があると思う。
 話を聞かなければならないじゃなくて、相手の話を聞きたいなと思える状況が、いい仕事の環境なんじゃないかなと思う。
 とは言え、あらゆる物事には例外もあり、
「君は意見なんて言わなくていい。ただ言われた通りにすればいいんだ。」
 というような作り方を一切否定するつもりは毛頭ないし、それが成果を上げることもあると思うが、その場合は、リードをする人にそれだけの力と知識と見識と責任が求められる。
 そして、相手にそれだけの並外れた気概が感じられれば、僕だってついて行ってみようかなと思えることももちろんある。

「都会にすみついたセミたち」のアマゾンへのリンクはこちら http://amzn.to/1Iu5ffM



● 2015.4.2 ムカシトンボ


NikonD610 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) ストロボ SILKYPIX

 トンボの羽化の連続写真を撮影する際に何が難しいかと言えば、羽化を始める前のヤゴを見つけることだ。羽化が始まりトンボが姿を現すと急に目につきやすくなるのだが、それでは連続写真の場合は手遅れ。

 ムカシトンボの生息地を見つけたというので、トンボ愛好家の西本晋也さんに連れられて最初にこの場所で写真を撮ったのが2006年のこと。
 だがその年西本さんが散々探しても、羽化はなかなか見つからなかった。
 おかしいなぁ。おかしいなぁという西本さんのつぶやきが、いまだに僕の耳に残っている感じがする。
 ならばと西本さんの師匠の堀田さんが遠路やってきて探してみたら、次々と目的のものが見つかった。スペシャリストの知識と見識に、みな、ひたすらに唸らされた。
 その後、さらに西本さんが調べつくした結果、今では、いつ、何時頃、どこら辺りからムカシトンボのヤゴが出てきて羽化をするのかが大まかに分かって箇所もあるのだが、それでもヤゴが木に登っている段階で見つけるのはなかなか骨が折れる。
 気が付くとすでに羽化が始まっていたというようなケースが過去に何度かあり、ついには木の皮が定位したヤゴに見えてドキッとする。


NikonD610 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 3月末から4月上旬のムカシトンボの羽化探しを皮切りに、トンボが僕の被写体になる。
 ムカシトンボの羽化が終わりかなという頃、今度はヒメクロサナエが出てくる。

 トンボ愛好家のみなさんは冬の間何をしているのかな?とKokoroさんのトンボのブログ・ODONATA PHOTO を覗いてみると、成虫越冬をするホソミオツネントンボの独断場だ。
 とにかくいろいろな時間帯や気象条件下で撮影されている。
 うちの近所にも、同じような観察ができる場所ってあるのかな?



● 2015.4.1 図鑑

 制作中のカタツムリ図鑑に、西浩孝さんの解説文が入り始めた。
 それを、一番最初に読める喜び!
 以前ある方から、
「編集者は一番最初の読者なんです。一番最初の読者になれることがこの上ない幸せ!」
 と聞かせてもらったことがあるのだが、なるほど、なるほど。
 しかも、
「ここ、もうちょっと詳しく知りたいのに・・・」
 などと思えば、それをリクエストすることもできる。
 僕がカタツムリを採集する時にこの図鑑があったならなぁと思う。

 小さなサイズの図鑑なので、西さんが解説を書き込めるスペースは狭い。
 その程度の文字数なら、素人である僕が書いても大して違わない?などと一瞬考えたこともあったのだが、西さんがお書きになったものを読むと、専門家の凄さを思い知らされる。
 文字数が少ないからこそ、何を書き、何を捨てるかの取捨選択の能力が求められる。
 実は僕は、理屈をこねる割には感覚人間であり、カタツムリの名前を同定する際にはなんとなくの感覚に頼っていた部分が多く、ここが同定のポイントと書かれたものを読むと、今更ながら、ああ、そうだったのかぁと感激が込み上げてくる。
 編集のSさんは空間恐怖症であり、誌面に空きスペースが多いと具合が悪くなるのだそうだ。したがってSさんから、
「この空間を埋めてくれませんか。発病しそうです。」
 とリクエストがあると、西さんの解説を読んだ上でその解説にあった画像を選んで追加するのだが、そうした作業は非常に楽しい。

 僕は、物の名前などは右から左に忘れていくタイプなので、図鑑の文章を書くのは無理だなあと痛感。
 例外的に忘れなかった数少ない物の名前と言えば、子供の頃に覚えたルアーやリールの名前であり、ルアーの名前などは、20年近く一度も触らなかったものでも、まるでついさっき覚えたかのようにスイスイ出てくるのだが、今にして思うと、釣り具の名前を覚え過ぎて、脳が満タンになったかな?
 学校の勉強の中でも、暗記物は常に僕を苦しめた。
 当時、雑誌に掲載されていた、寝ている間にテープを聞いただけで暗記物が覚えられる「睡眠学習」の広告は、「そんなもの、効くわけがない」と思いつつ、でももしかしたら・・・ と常に僕の心の片隅に気になる存在としてあった。
 その気になる存在から解放されたのは、割と最近のことだ。テレビで相棒を見ようといつも思うのだが、番組開始から15分もたたずに寝入ってしまい、そして重要なのは、一切内容は覚えてないということ。
 今は、睡眠学習よりも、聞き流すだけでマスターできるという英会話の方が気にある存在になった。こちらは、起きているのだから、効果がある可能性も・・・


   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年4月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ