撮影日記 2015年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2015.3.30〜31 編集者という仕事

 昨年に引き続き、そろそろ本格的なヤドカリの撮影に突入する。
 その前にヤドカリの写真をまとめた最終的なものを、本作りのパートナーであるボコヤマクリタさんに渡した。
 いつもは大雑把に整理して渡していたのを、今回は、出来上がる本のページ数なども考慮して、このまま出版しても並よりもいい本にはなるというくらいの状態で。
 今シーズン新たに撮影する予定のシーンは文章で書いておいて、そこにボコヤマさんからのリクエストがもしもあればそれを追加する。
 
 さて、以前にも書いたことがあるが、ボコヤマさんは、
「自分は自然や生き物は得意ではない。」
 と公言しておられる。
 自分が好きなのは、写真家をはじめ何かに取りつかれた人の目を通してみた世界であり、例えば僕といっしょに仕事をする場合は、生き物に興味を感じるのではなくて、武田の本の中の生き物が好きなのだと。
 僕の中では、魚釣りがそれに近いかな。
 僕は、たまにこの日記の中で釣りの記事を書くことがあるし、釣りには思い入れがあるけど、実は、自分の自由な時間とお金を使って、必要に迫られたわけでもないのに純粋に趣味として(=好きで)釣りに行くのは、せいぜい年に2〜3日であることを思うと、釣好きとは言えないだろう。
 僕が好きなのは現実の「釣り」ではなく、釣り雑誌の中の釣りや釣り道具から妄想できる釣りであり、自分の頭の中の空想の世界。僕は毎年、頭の中では釣り三昧なのだ。
 日常生活の中ではそれも「釣りが好き」の中に含めてもいいのだろうけど、出版の場合は、現実の何かを好きなことと、空想の中の何かを好きであることは、ちゃんと区別をする必要がある。それらは、ノンフィクションとフィクションくらい違うものであり、どんな作品を作るにせよ、作り手の側に立つ者はフィクションの部分とノンフィクションの部分とを区別できている必要があるから。
 怖いのは、自分が事実だと思っている物が、フィクションになってしまっているケースであり、フィクションの部分はちゃんとコントロールできていることが大切になってくる。

 僕の個人的な意見ではあるが、著者が生み出すコンテンツを好きになれるのなら、編集者は、仮に生き物の本を作る場合(一部の本を除いて)でも、必ずしもその生き物を好きである必要はないし、生き物を自分の目で見る必要もないと思う。
 一方で、本の中で文章を書いたりお話を決める立場、つまり著者は、自分で見て感動したことを表すに尽きる。



● 2015.3.29 写真展と刺激



 福田幸広さんが、東京都港区のキヤノンギャラリーで写真展を開催中。
 詳しくは→ 
http://cweb.canon.jp/newsrelease/2015-02/pr-fukuda.html

 福田幸広さんは、その生き方をよく参考にさせてもらう写真家の一人だ。
 とにかく、じっくり時間をかけて、常に心のこもった写真を撮る。
 福田さんの写真からは、仕事のにおいが一切しない。
 ノーハウとかテクニックで何とかするのではなく、もっと根源的なところで、単純にいいなぁと人の心を打てるだけの写真を撮ろうとする姿を常に見せてくださる。
 写真で生活しなければならないプロにはコスト意識も必要であり、プロは時間をかけられないというのが常識だが、福田さんの世界を見ると、それをも乗り越えられるのがプロなんじゃないかな、と思えてくる。
 そうして時間をかける原始的なスタイルを頑固に貫いておられるかと思えば、思い掛けないようなハイテクを試されたりするのもまた特徴。
 参考にさせてもらっているというのは、まるでそれを分析出来ているかのような響きがあっておこがましい感じがする。
 福田さんに刺激を受けて、単純に、よし俺も!という気持ちになる。
 僕が普段撮影しているような小さな生き物の本を作る場合には、必ずしもそうはできない面もあるのだが、例えば、安易にスタジオ内に自然を再現して撮影したり、作って撮影しているようじゃダメ!と気付けなければ、ウソだと思う。



● 2015.3.23〜28 カワニナ

 プランターで育てているレンゲが、どんなにたっぷり水をやってもすぐに萎びてしまうので、根腐れするかな?と思いつつプランターごと水に浸けっぱなしにしたら、実に調子がいい。
 レンゲは、うちの近辺では田んぼに多く、公園や畑などの乾いた場所では見かけないが、なるほど!ちょっとジメジメした場所を好む植物なんだろうなぁ。
 ダンゴムシ(オカダンゴムシ)は湿ったところを好むと言われることがあるけど、厳密に言うとこれは間違えで、連中が好むのは、庭とか公園とか畑とか基本的に乾いた環境の中にある少し湿った場所だ。
 飼育をしてみると、比較的乾いた容器でも飼えるが、ベチャベチャした容器で飼うと弱ってしまう。


NikonD7100 TAMRON SP 70-300mm F/4-5.6 Di VC USD SILKYPIX

NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

 カワニナは、基本的には水の中に生息する巻貝だが、水から出ることもある。
 何をしているのかな?食べているのかな?

 今日はムカシトンボの羽化を探しに行ったのだが、まだ羽化しようとするヤゴの姿はなし。羽化殻もないので、まだシーズンが始まっていないのだろう。
 目的のものが見つからなかった時は、ある意味とても楽しい。普段なら時間をかけないようなシーンの撮影に、じっくりと時間をかけて取り組むことができる。



● 2015.3.19〜22 アメフラシ


SONY α55 15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE ストロボ

 ソニーのデジタルカメラは実に斬新で、初めて使ってみた時には、将来の可能性を強く感じた。僕の場合なら、当面水中撮影の道具などは、そう遠くないうちに全部ソニーになってしまうのではなかろうかと。
 一方で使い込んでいくと、今の時点ではまだ未成熟な箇所もあり、ニコンやキヤノンの伝統ってやっぱり伊達じゃないなぁと改めてその凄さを感じることも多い。ソニーがAV機器なら、ニコンやキヤノンは現場で戦う武器という感じがする。
 ともあれ、ジャンルによっては、将来的にソニーのシェアーがニコンやキヤノンを食ってしまうケースも出てくるのではなかろうか?
 斬新な発想に加えて、最も重要なポイントである画質は、今の段階でも間違いなく悪くない。
 ただし、量を捌くのに不適な画像処理ソフトは、一刻も早く何とかしてほしい。時間を要するレンズの品揃えなどは仕方がないにしても、ソフトのお粗末は、斬新なカメラがもったいないなぁと思う。
 ソフトが使いにくい場合、たくさんの写真は撮りたくないから、どうしても代打の切り札的なピンポイントの使用になってしまう。

 さて、今日の画像は、磯のアメフラシ。
 体の細部を見ると不思議な形状をしているので、白バック写真で描写すればとても面白い被写体だと思うのだが、生き物の写真の基本はフィールド写真であり、白バックが面白ければ面白いほどさらにレベルが高いフィールド写真が要求されるし、まずはそこに取り組みたい。
 スタジオでの写真は満点を撮っても90点だが、フィールド写真には120点や200点がある。
 その反面、フィールド写真では0点、いや交通費などを加味するとマイナス点もありえ膨大な無駄が付きまとうが、その無駄がロマンの源なのだ。



● 2015.3.17〜18 インタビュー

 カタツムリの進化に関して、昨年の夏にある研究者にインタビューをした際の内容を、ちょっと前にようやくまとめ終えた。
 インタビューみたいなものはその直後にまとめてしまうのが当たり前であり、当然そうしようと思ったのだが、聞き手でなければならない僕の方がしゃべりまくっていて、相手のセリフが非常に少なくて、どうまとめていいか途方に暮れていたのだ。
 カメラマンは普段自分が発信する側にいるので、自分の方がしゃべってしまう癖が出てしまったのだった。

 さて、高校時代の生物の教科書の中では、進化は、非常に取っ付きやすかった。聞いたこともない物質の名前が出てくるわけではないし、お話みたいな感じでスッと頭に入ってきた。
 しかしそれは研究の結果として導き出された結論だけを勉強した場合の話であり、なぜそうなるのかの論理に触れようとすると、進化は非常に理屈っぽくて恐ろしく難しい。
 その難しさは、数学の統計学の難しさに近い。いや、もしかしたら、統計学そのものと言えるのかもしれない。
 僕が高校時代は、文系の人は確率統計、理系の人は微分積分を選択することになっていて、文系に進んだ連中から、
「確率統計は簡単で面白いよ。」
という話を聞いた記憶があるのだが、大学で、実験の際に必要になる統計学を勉強した際の、こいつは難しい!という衝撃は今でも忘れることができない。
 例えば、サイコロを転がすと、6つの各目が出る確率はそれぞれ1/6だと教わる。
 しかし、実際にサイコロを転がしてみると、厳密に言うとそうはならないのであり、統計学で教わることは常に数学らしからぬ曖昧さを常に含んでいる。
 そして、
「実際には、物事には誤差があります。」
 と話は続き、今度はその誤差というやつを、さらに理屈で理解しようとするわけだが、それまたすっきりと割り切ることができず、最後の最後まで不確定な要素が付きまとうのだ。



● 2015.3.15〜16 オークション



 昨年、釣竿を一本買ったので、その分の置き場所を作るために、代わりに古い物を一本オークションに出品した。
 古いものも手放したくはないのだが、置き場に限度があるので仕方がない。
 また、今となっては手に入らないものをオークションで見つけた時の自分自身の感激を思うと、誰かに同じように喜んでもらうのも悪くないかなと一応納得できる。

 しかし自分が出品した物を見て、自分で入札したくなるのもまた事実。手に入れても、憧れは憧れのまま。
 僕にとって自然写真の仕事も同じだ。その世界にいても、やっぱり憧れの仕事であることに変わりなし。
 先日、ある先輩とのやり取りの中で、その方がやはり今でも自然写真の仕事に憧れを持ち続けておられることを感じたのだが、僕が好きな写真家はみんなそうであるような気がする。
 ただし、それは手に入れてみなければ分からないので、それを言えるのは手に入れた人だけであり、そこに手に入れた人と入れてない人の違いがあり、またそれを分かるために手に入れようとするのだとも言える。
 
 僕が子供の頃は国産の釣り具の性能が悪くて、明らかに舶来のものが良かった。
 しかし言うまでもなく舶来品は高価で、当然舶来の中でも安いものから選ぶことになる。
 一番安いのが、アメリカのガルシアだった。
 値段は国産の倍。
 ただし、性能は、国産よりはましと言う程度。
 いや、物自体は当時すでに一部の国産の方が上回っていたのだが、キャリアの差のようなものがあり、ガルシアにかろうじて一日の長があるような状態だった。
 もうちょっとお金を出せば、国産の3倍出せば、アメリカのフェンウィックが買えた。
 当時のフェンウィックは、当時の釣り方をするのなら今でも十分通用するが、今最新の釣り方をするには少々物足りない。
 当然その頃フェンウィックには何の不満もなかったのだが、大学生の時には、アメリカのブローニングやイギリスのハーディーの竿も買ってみた。
 外見がカッコいいこと。それから、まとまった量輸入されなかったのか、俗にプロショップと呼ばれるような専門店でも滅多に見かけることがなく、新鮮だったのが動機。 
 当時すでにカーボンロッドが主流になりつつあったが、ブローニングのグラスロッドのデザインは素晴らしく、あえてブローニングのグラスを探したものだった。
 ブローニングのグラスロッドは、グラスとしては割高だったけど、当時まだカーボンが高価で、そのカーボンよりは安かった。
 ハーディーは、英国の紳士が使う道具であり、デザインから性能まですべてにおいて別格。いや、別格のはず。ハーディーはカーボンとグラスを一本ずつ買ったのだが、特にカーボンは非常に美しく、買ったもののほとんど使う勇気がなかったため、僕には性能を論じることはできない。



● 2015.3.11〜14 ポジション



 昨年の早春に撮影したものの、その時はどう扱うべきかの結論が出ず、「未整理」というフォルダーの中に放り込んでおいた画像を、先日数枚整理した。
 そうして未整理の状態で放っておくのは、長くても一年以内にとどめたい。

 羽化をして間もないヒメクロサナエ。この日は強風で、上空から山桜の花びらが紙吹雪のように降ってきた。
 この写真、どこに使えるかな?
 図鑑用の写真としては、ピンと来ないなぁ。季節が分かるのと羽化後間もない羽の色が分かるのはいいけど、何か違和感がある。
 露骨に被写体を説明する図鑑の画像の中に、このタイプの写真が混ざった場合のイメージが想像できないのが、多分その違和感の正体だと思う。
 かと言って一枚の絵画的な写真として見た場合に、ヒメクロサナエというトンボは、見る人に「これ何という生き物だろう?」と思わせてしまい絵に集中させない感じがあって、中途半端ではないかと思えた。
 したがって、まあ、ボツかなと、生き物をただ分類ごとに整理したフォルダーに送ることにした。
 しかしいざそうしてみると、今度はその小さなサムネイル画像が、妙に存在感を示す。
 そこで、フェイスブックページ・ネイチャーフォーに投稿してみたら、大変に褒めてくださる方がおられ、ならばと、お気に入りの画像ばかりを集めた、「お気に入り」フォルダーの中で画像を保存しておくことにした。

 昔、業界のベテランの方から、
「幾つもの用途に使用できる写真は、間違いなくいい写真です。」
 と、教わったことがある。
 その方は僕の写真の中から一枚を選び出し、
「この写真は、図鑑にも使えるしポスターにも使えますね。これ、いい写真です。」
 と。
 それは、自分にとって自信がある写真ではなく、一方で、自信作は当たり前のように素通りされてしまい、専門家の見方に衝撃を感じたものだった。
 どんなにきれいな写真でも、使い道が見えなければ、業界の関係者はなかなか認めてくれない。そして僕が未整理のまま放置してしまう画像は、大抵の場合、その使い道が見えない画像だ。
 自分が撮影した写真が、世間の枠組みの中のどこかにピシャリとはまらなければ、写真の出番がないのだ。

 人間にも、似たようなところがあるなと思う。
 例えば、生き物について何か発信したいとすると、その人のポジションが重要になる。
 博物館の学芸員とか、自然写真家とか、ネイチャーガイドとか、大学の先生などという世間に認められたポジションをその人が持っていれば、話を聞いてもらい易くなる。
 肩書きなんてくだらねぇと思うが、昔僕に対して、「好きじゃなくても肩書きは大切にした方がいい」とアドバイスをしてくださった方々の意図が、なるほどと分かる。
 一方でそんなポジションなどほとんど不要で、誰でも発言できるのがSNSだ。
 それがSNSのいいところでもあり、逆にSNSで評価されたからといって実社会で通用するか?と言えば、必ずしもそうではないという限界もある。
 ともあれ、上でも紹介した、フェイスブックページ・ネイチャーフォーは、一緒に合同写真展をする仲間4人で、普段の活動を紹介するために作成したものだ。



● 2015.3.8〜10 平等

 野生生物を見ていると、自然って厳しいな、不条理だなと思う。
 それに対して人間の社会は、そうした不条理さや不公平さをなるべく小さくする方向へと働きかける。
 福祉、保険、医療・・・は、不運な人をなるべくそうではなくするためにある。
 科学が重視されるのも、人が公平であることを重視する例の1つだと思う。
 科学の世界では、例えば霊魂のように、ある人には感じられてもある人には感じられないというような物事は相手にされない。みんなが同じように分かる、同じように理解できる、同じように感じられることが重要であり、科学はそういう意味で、公平であり平等であることを目指している。
 したがって、何かを決める時に科学性に則って決めると平等感があるし、逆に、霊のお告げなんかで決められると、現代社会なら人々の不満が爆発するだろう。

 幼児向けの本の世界では、生き物の記事に関しては編集者が絵コンテや文章を書くが、生き物の専門家ではない編集者になぜそんなことが可能か?と言えば、生物学の知識が誰にでも同じように理解でき、扱える方向性を目指しているからだと言える。
 幼児の本の中で取り上げられるコンテンツの中でも、絵やお話を編集者が事細かに決めるというのは、多分あり得ないだろう。編集者が大きな方向性を示した後は、選ばれた作家さんだけが取り扱うことができる才能の世界になる。

 一方で、科学の知識は、誰もが同じように理解できることに目的があるから、それを担保するために正確性が重視される。
 相手は子供だからとか、ここのところはちょっと適当でいいでしょう、という曖昧さを許さない厳しさもある。幼稚園向けであろうが、小学生向けであろうが、大人向けであろうが、同じように正確であるから、それが存在する価値があるのだと言える。
 僕は幼いころから科学物が好きだったのだが、その理由は、お話や絵が時に意味すら理解できずに僕を不安にさせるのに対して、科学物は、好き嫌いは別にして、僕にだって意味くらいは理解でき、努力すれば報われる感があったからだった。



● 2015.3.7 本は読むべきか?

 原発問題とか秘密保護法とか経済のことなど、ジャンルが多岐にまたがり自分ひとりの見識では判断できないことに関しては、僕は尊敬できる人たちの意見に耳を傾けてみることにしているが、大抵僕が参考にさせてもらう人の中にも賛否両論があり、スパッと割り切れることなどない。
 本という存在に関しても、僕が尊敬する人の中に、「本を読まないのは論外」と主張される方と、「本は読まない」という方の両方がおられる。
 僕の場合、本をむさぼり読んだ時期と全く手に取らなかった時期とがあるが、サイエンスと名のつく分野に関しては、本を読まないのはあり得ないだろう。
 なぜなら、まだ知られていない現象を、すでに知られている知識を用いて説明するのがサイエンスであり、体系的に積み重ねられた知識がサイエンスの命だからだ。

 自然写真は必ずしも自然科学ではないが、では、自然写真を撮る場合に、サイエンスの知識はいったいどんな存在だろうか?これは言うまでもなく人によって異なり、世界的な写真家の中にも、サイエンス的な知識を重視する人としない人とがおられる。
 今森光彦さんは、
「自分以上に知っている人はいないというほどにその対象を知り尽くす。」
 と主張しておられる。
 一方で、岩合光昭さんは、
「サイエンスは不要。」
 と主張しておられる。
 ただし、岩合さんの写真が非科学的か?と言えば、そうではないから、言葉の上っ面に騙されないようにしなければならない。それは、机の上だけの知識、読み齧っただけの知識、体系化されていない知識は不要と言っておられるのに過ぎない。
 僕の場合は、生物学から写真の世界に転向したくらいだから、実は知識にこだわりたくないという思いがあるが、悔しいけど、日本の出版業界の中で高く評価される本を作り続けている人で、知識が一流ではない人を僕は知らない。

 知識が邪魔をするという意見もある。
 例えば、研究者が本を書くと、たしかに正しいかもしれないが、知識が邪魔をして面白くないと。
 だがそれは知識が邪魔をしているのではなく、しばしば編集するという意識に欠けるだけであって、知識がある人が編集の意識を持てば、知識がない人が太刀打ちするのは難しい。
 今森光彦さんは、
 「被写体への情熱をもって知り尽くす。」
 とも主張しておられるが、そこに書いてある被写体を好きであることと知り尽くすことというのは、実はほぼ同じことであり、何かを好きならば当然それについて知っているし、逆に、それを好きかどうかは、知識の方向性や質は別にして、その人にどの程度の知識があるかという話でもある。

 さて、先週のヒキガエルの撮影の際に、僕と同じため池にほぼ毎日お越しになった方がおられた。
 仕事が終わってから。そして時間給を取ってから。休日は車内泊で池の近くに待機しておられたが、僕の車のように、寝るための備えが特にあるわけではない。
 しかもそれが趣味なのだから、僕としては参った。どんなに悪くても、趣味に努力の面で負けるわけにもいかず、それがプレッシャーにも、いい刺激にもなった。
 よく、成長するためにはライバルが必要と言われるが、なるほど!負けられない時には頑張ってしまう。
 本にはあまり興味がないらしく、ご本人もよく言われるのだが、生物学的な知識は乏しいのだが、フィールドで観察して身に付けた知識の凄まじいこと。
 その方が、カメラを買うと言っておられるのだから、どんな写真を撮られるのか恐ろしい。



● 2015.3.6 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。
 春よ来いではなくて、春よ来るな!という心境を綴ってみました。



● 2015.3.5 少年新聞社

 本の世界には書評というシステムがあり、自社の本以外の本であっても、それを取り上げて評価したり宣伝する仕組みがある。
 これは、他の業界では考えられないことであり、例えば日産がトヨタの自動車を宣伝するなどというのはあり得ないどころではない。
 そこに、本が何たるかが現れていると思う。
 出版社にとって本が仕事であるからには利潤を求めるのは当然だが、一方で、それは単なる金儲けでもない。
 中でも、少年出版社の本は、変に媚びないのが特徴。
 ページをめくるたびに、これが本の本来の姿だよなという思いが強くなるし、見識を感じるし、作り手として勇気をもらえる感じがする。
 やっぱり本って、やりがいがあるよなぁ。





 津波のあと何もいなくなったかと思われた海辺に、次々と生き物たちが姿を現す。一方で、復興が始まり、防災対策により、そうした生き物たちが姿を消していく。
 編集者がいじくりまわすことなく、シンプルに、ストレートに、著者の思いを表した本。
 並の編集者には、もしかしたら、もっとこうしたらとか、ああしたらなどと感じられるかもしれないが、多分それをやったら、この本は台無しになる。
 先日、ある編集者が、
「本が面白くない。ブログの方が面白い。」
 とおっしゃったことが思い出された。
 編集者のいじり過ぎを指摘しておられるのだと思うが、これが、本の本来の姿なんじゃないか?という思いが、強く込み上げてくる。






 ジュズダマという穀物の実で作られた東南アジアのネックレスが紹介されていて、そのメインの飾りはカタツムリの殻だ。
 イラストで描かれたカタツムリの殻は、日本では多くない左巻き。
 カタツムリにとって、殻の巻き方の右左は非常に重要なことだが、一般に書籍の中にカタツムリが登場する場合に、殻の巻き方の右か左かは、知識不足からしばしばおろそかにされる。
 写真でも、本のレイアウトの関係で、逆版(左右をひっくり返して)で使用されることがあるし、ましてイラストの場合は、かなり間違えが多い。自然に関する描写に定評がある白土三平さんの漫画でさえ、ある一匹のカタツムリの殻が右巻きから左巻きに突然変わってしまうケースがある。
 しかし、ゲッチョ先生のイラストに限っては、その知識と見識から、そうした間違えはあり得ないだろうと言う安心感がある。



● 2015.3.2〜4 4月号(後)



 チャイルド本社の月刊誌・チャイルドブックゴールド「みんなともだち」は、総合誌と呼ばれる。
 何か1つのテーマを取り上げるのではなく、写真を使った生き物の記事もあれば、画家さんが描いた絵や作家さんのお話もある。
 生き物がテーマの本ではないだけに、生き物の記事と言っても広く一般向けでなければならないし、そんな写真を撮ることが総合誌の難しさであり、辛さと言える。
 みんなが嫌いではない生き物をみんなが気持ち悪いと感じない写真で紹介すること。
 みんなが実際に見て経験することができる身近な生き物を取り上げること、生き物云々の前に読者を喜ばせることなど、総合誌向けの撮影には手かせ足かせが非常に多い。

 ふと思い出されるのは、ちょっと前に話題になったジャポニカ学習帳の表紙から昆虫が消えたという話題だ。
 ネット上に掲載された社長へのインタビューでは、単に虫が表紙になると気持ち悪いという苦情が寄せられるからとのことだったが、テレビで放送された担当者のインタビューでは、
「虫が気持ち悪いから、そんなものを配らないで欲しい。」
 という要望が寄せられるとのことだった。
 配る?
 なるほど、希望者が自分で好き好んでノートを買う以外に、配布されるような仕組みがどこかにあるのだろう。その場合、虫が大嫌いな人もノートを手にすることになり、それに対して配慮が必要になり、幼児向けの総合誌にもそうれに近い構造がある。
 ともあれ、総合誌ではおのずと取り上げることが可能な生き物は決まってくるので、毎年同じような内容になりがちだ。
 それをビジネスと割り切れば、例年通り同じようなものを作っておけばいいのだから楽チンだろうが、そんな風に割り切れなければ、また同じなの?同じような本ばかり作ってという批判もあり、実に悩ましい仕事になる。

 前にも書いたことがあるが、僕は、その場合の同じような本の「同じ」とは何か?という点が気になる。
 毎年同じような生き物を取り上げたら、それは同じような本になるのだろうか?
 僕の答えはNOだ。
 なぜなら、自分自身、好き好んで毎年同じ場所で同じ生き物を撮影するケースが多々あるが、その場合に僕の目には毎年違うものが映るし、同じなんてあり得ないから。むしろ、もう何も新しいお話が出てこないというところまで見ることの方が不可能なのだ。
 いや、出かける前は、同じ場所に行っても同じものを見てもいいかげん仕方がないよなと内心思うし、現場についても最初緊張感が得られない場合も多々ある。ところが、ドッカと腰を下し一日じっくりと生き物を見つめれば、必ず何か新しい世界が見える。
 同じような生き物ばかりを取り上げることの問題点は、どうせ同じだから、とフィールドで観察することなしに、机上でイメージを決めてしまうことにある。
 自然が好きな人とは、自然を飽きるくらい見ても、それでも飽きることができない人なのだ。



● 2015.3.1 4月号(前)



 先月紹介したチャイルド本社の月刊誌・サンチャイルドのミツバチ(3月号)に続いて、4月号のザリガニ。

 ミツバチの号の時にも書いたが、幼児向けの月刊誌の生き物の記事の場合、編集者が絵コンテや文章を書く、つまり編集者が著者を兼ねる場合が多い。
 では、著者ってどんな人だろう?編集者とどこが違うのだろう?
 まずは言うまでもなく、著者は、生き物を自分の眼で見ている人。
 それを見たことがない人が書いた本は、既存の情報のコピー&ペーストであり、それが商売として成り立つことはあっても、本として評価されることはまずない。
 それから、生き物について独自の見解を有する専門家。生き物が好きで好きでたまらなくて、生き物を見ることに命をかけているような人。生き物について、何時間でも語りたい人。
  ・・・・・・・・

 しかし現実的なこと言えば、誰でもが、そうなれるわけではない。
 例えば、嫌いな食べ物を好きになれと言われても無理であるように、物事の好き嫌いは努力ではどうにもできない場合も多い。
 ちょっと知っているくらいにはなれても、著者に求められるような次元で何かを好きになることは難しい。
 そもそも、努力でそうなれるなら、誰でもバラ色の人生を送ることができる。
 努力をして勉強を好きになれば、つらい学校の授業がハッピーになる。努力をしてお互いに目の前の異性を好きになれば、パートナー選びにも何の苦労もない。
 つまり、編集者が、著者という尋常ではないレベルに何かを好きな人にならなければならないのは、ある意味非常に過酷なことでもある。
 いや、生き物を専門にしているカメラマンにだって好みがあり、自分がすでに好きな生き物や関心を持っている生き物の撮影ばかりを依頼されるわけではない。

 では、そんな場合に、いったいどうしたらいいのだろうか?僕は、その対応こそが、仕事の本質ではなかろうかと思う。
 ザリガニの号を担当された編集者は、大まかに絵コンテを描いた上でわざわざ僕の話を聞きに家までお越しになった。
 なるほどなぁ。自分が実際に体験できないことを本に書く場合に、誰かそれについて詳しい人の話を聞く、例えば戦争について語りたい時に戦争経験者の話を聞いた上でまとめるという作り方が確かにある。無理をして自分が著者になるのではなく、著者になり得る人間を探すというやり方だ。
 おそらく多くの人が、それって当たり前じゃないの?と感じるに違いない。或いは昔の編集者は、
「みんなそうやって作っていたよ。」
 とおっしゃるのだが、情報が溢れるコピー&ペーストの時代である今、これができる人は、実は非常に少ない。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2015年3月分


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