撮影日記 2014年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2014.12.26〜31 切り替え

お知らせ -----------------------------------------------------
迷いもあるのですが、今年から、年賀状を順次やめることにしました。
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 僕の理想は、一枚の写真を撮りそれをページの中にレイアウトし、それによって次にどんな写真を撮るべきかが決まり、今度はその一枚の写真を撮りに出かけるというスタイルだ。
 しかし現実的には、ページにレイアウトするような作業は、小さな生き物たちが冬の眠りに入り、撮影以外のことをする時間的なゆとりが多少できる初冬に入ってから。
 毎年、その際の気持ちの切り替えには苦労する。頭や体が写真を撮る態勢からまとめる態勢へとなかなか切り替わらないのだ。
 何でもないはずのことでもなかなかやる気になれず、ほとんど廃人のような暮らしをする期間が生じる。
 それでも何とかまとめたものを持って12月の上旬に上京し、出版社に出向いて見てもらう。
 まとめたから見てもらうというよりは、飛行機のチケットをとり、宿を予約することで、逃げられない状況ができ、そのプレッシャーが何とかことをやり遂げさせてくれるといった方がいい。 
 それが終わるとまた撮影を再開するのだが、今度は逆に、まとめる態勢から写真を撮る態勢へと身体が切り替わらず、やはり苦しむ。
 どんな風に苦しむかと言えば、世間で言われている鬱的な症状の一部が出る。
 
 その鬱的な症状を吹き飛ばすには、僕の場合、クタクタになって帰宅後に倒れ込むように眠ってしまうくらい体を動かすのがいい。
 中でも山登りはいい。
 そこで今年の年末は、山を歩くことにした。
 コースは、七重の滝と呼ばれる岩場を通り抜けて尾根に出るルートだ。


CanonEOS7D EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM SILKYPIX

CanonEOS7D EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM SILKYPIX

CanonEOS7D EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM SILKYPIX

 最初の2時間くらいは、足が重くて劇的にきつかった。
 油断をすると、帰宅をするための理由を、脳が探してしまう。
 だがそれを乗り越えると、フッと体が軽くなった。
 とにかくそこまで辛抱することが肝心。
 やがて鈍りきった足の筋肉が強張り、まるで生まれたての小鹿のように足取りが怪しくなる。最後は、まるで遭難者のような情けない足取りで車にたどり着くが、心は軽くなっている。

 車って楽チンだな。暖かいし、速いな。
 便利な世の中やな。
 恵まれているな。
 体を動かして苦しむと、日常に感謝ができる。
 いい気持で年末を迎えることができそうだし、足はガクガクで筋肉痛になったけど、山に行ってよかった。



● 2014.12.23〜25 熱い何か

 写真や本が売れたかどうかと、自分自身の評価は必ずしも一致しないことが、最近少しずつ分かってきた。
 いや、理屈では分かっていたのだが、経済的に成功しなかった仕事が、意外にも次の何かに強烈に結び付き、逆に経済的に上手くいった仕事が案外それっきりという経験を何度かさせてもらううちに、身に染みて分かってきた。
 二十数年前、初めて昆虫写真の海野先生のところに行った時にアドバイスしてもらったことを思い出す。
「自然写真の世界にも売れ筋が存在するから、まず売れ筋を撮ってお金を稼ぎ、そのお金で作品を言えるものを作って名前を売りなさい。」
 と。
 なるほど、こんなことを言っておられたのか。

 その人の名前を売り、その人の評価につながり得るようなタイプの写真や本のことを、当時海野先生は「作品」と定義しておられた。
 作品にもいろいろあり、時には、上手いところを突いたよね、というようなアイディア賞的なものもないわけではない。
 けれでも、その人の評価につながるのは、基本的に、同業者が見て「これはまねできない」と怖くなるような努力や執念と技術が合わさった超絶な世界であり、リスクを取ってなんぼの世界だ。
 最近の出版物の中では、福田幸広さんのオオサンショウウオなどは、紛れもない作品にカテゴライズされるだろう。



 売れ筋を何千枚撮影しても、それで評価してもらうことは難しい。いや、プロとしての評価なら得られるが、プロの中での評価は、なかなか得られない。
 つまり、評価という言葉をどう定義するかに、その人の価値観が現れる。
 プロとして認められれば、それで評価されたと受け止める人もえれば、それではまだ何も評価されてないと考える人もいる。
 僕の場合は、自分自身が自然の中で過ごせること=写真で生活ができることが最優先であり、プロの写真家の中での評価にはあまり興味がないはずなのだが、上京して海野先生やその他、独自の世界を確立しておられる方々と話をすると、予想以上に熱い何かがこみ上げてきて抑えがたくなる。
 何かが込み上げてくるということは、もうそれを表していく他ないのだが、一方で無かったことにしてこそっと逃げ出したくもなるので、それが出来ないように、僕も自分なりにチャレンジすることを、ここに書いておこうと思う。



● 2014.12.22 新しいジャンル

 先月の末だったか、フェイスブックではチラッと書いたのだが、今年は新しいジャンルに参入するために、割と高価な道具を購入した。
 新品を買えば、軽く3桁のお金が飛んでいくジャンルなので、まずは中古品のセットを手に入れた。
 その時に、
「正直に言えば別の物が買いたい。」
 とも書いたが、お金を引き下ろしながら、これで野鳥撮影用の最新の超望遠レンズを買いたいなと内心思った。つまり僕は、そのジャンルにはあまり興味を持てていない。
 いや、一般の人が言うレベルでの興味は当然あるが、僕らに求められているのは人の心を打てるような次元での興味であり、そのレベルの興味は、今の僕にはない。
 先日、ある場で、ある方が、
「今日はこれを見てもらおうと思ったんですけど・・・」
 と言いつつ数個の石を取り出して石について熱く語り始め、話がとても面白くて感動ものだったのだが、同じセリフを石に同等の興味がない人が語っても、人の心を打つのは難しいだろう。
 人の心を打とうと思うのなら、目には見えないけどある一線があり、その一線を自分が越えなければならないのだ。

 その一線に自分が到達できてない時にどうしたらいいのだろうか?
 まずは何冊か本を読んでみる。
 それから、写真集的ないい作品をみてみる。
 次に、その世界に詳しくてその面白さを熱く語ってくれる人に会いに行き、話を聞いてみる。 そして、そのジャンルの専門家が専門家になる過程で通った道を、自分も試しに同じように歩いてみる。
 こんなところかなぁ。
 以前、それで一定の成果が上がったことがあった。
 ある時、金魚の企画を打診されたのだが、僕は人工的な金魚が大嫌いだった。
 しかし本を読み、超本格的な飼育と繁殖を試してみた結果、最終的には、逆に金魚マニアになった。
 マニアになり過ぎて、その後、逆の意味で困った。
 ギャラをはるかに超えた額投資をし、撮影が終わっても、金魚が欲しくてたまらなくて、その購買欲が収まったのは、ここ最近のことだ。
 少々やり過ぎた反省が残ったが、いいモデルケースになった。

 それでも、興味の有無はしばしば食べ物の好き嫌いみたいなもので、努力をしたからといって解決できない場合も多々ある。 
 そんな場合は、例えば自分が著者であっても専門家にアドバイスを受けるなど、何らかの別の方向からのアプローチをして、いい成果が上がるように支えていく必要があるだろう。



● 2014.12.21 撮影に伴う生き物への負担

 図鑑や知識の本を作るために虫を殺して標本にして撮影しても、批判でその人がダメージを受けることはない。
 僕の身の回りには生き物の採集や殺すことを基本的に認めない方が数名おられるが、そんな人たちも決して原理主義者ではなく、標本が多数掲載された図鑑を持っていて、その図鑑をちゃんと評価しておられる。

 けれども、「生き物って素敵だね。優しく見守ろうね」という人の心に訴えかけるシーンを作成するために虫を殺して撮影したら、その写真を撮ったカメラマンは信頼を失うことがある。殺すまではしなくても、ストレスがかかるような撮影をしただけで、あの人はお金のためには何でもやるからと言われかねない。
 そんなの写真からは分からないだろうと思う人もおられるだろうが、専門家が見ればほぼ確実に分かるし、専門家ではなくても人の能力はすごいもので、被写体に対する撮影者や著者や編集者の愛情を何となく感じ取ってしまう。
 例えば、僕が子供の頃に見ていた本の一部は今でも武田家に残っているが、当時好きだった写真やページを今改めて見てみると、実によく見抜いていることに我ながら驚かされる。

 撮影の時に何が許されて、何が許されないかは、実はそんなに難しいことではなくて、自分に聞いてみれば大抵わかる。撮影の様子を人に公開して見せても平気ならいいし、隠したいと思うのなら後ろめたいことをしているのだからダメ。
 ただ、そこに仕事と言う要素が加わると、案外難しくなる。
 依頼されたシーンを撮影する時に生き物への負担が生じ、それが後ろめたいものだったなら・・・
 仕事であるから自分が好きなようにばかりはできなのは当たり前だが、何をしてもいいわけではない。
 そこで、関係者で話をしたり打ち合わせたりして、現実を知り、正しい知識を共有した上で、再度判断をすることがとても大切ではないかと近年強く思うようになった。



● 2014.12.20 ある本

 先日上京した際に、ある方が、
「武田さんたちが作った本を褒めている人がいますよ。」
 と教えてくださった。
 生き物の本の世界には、出版社の枠を超えた勉強会やその他、幾つかの場が存在するのだそうだ。
「こんな本を作らないといけないんだ!と大絶賛しておられました。」
 と。

 褒めてもらったのは、実は、あまり売れていない本だった。一方で、非常に思い入れが深い本でもあり、一気に報われる感じがした。
 過去にはその本に関して、「これじゃあダメ」、とダメ出しをしてくださる方もおられた。
 そして、それらのダメ出しは僕にとって、涙が出るほどありがたかったし、僕はその恩は、絶対に忘れないつもりでいる。
 僕は、少しでもいい本を作りたいと思う。だから悪いところを変え、足りないところを補いたいし、せっかくの指摘は無駄にしないと常々思っているのだが、理解をしてくれる人もいたことは、さらなる勇気を与えてくれた。
 
 大雑把に言えば、コンセプトは悪くなかったと思う。そして、大絶賛してくださった人は、そのコンセプトの部分を見てくださったのではなかろうか。
 本を作る際の僕らの情熱も、こだわりの人間の坩堝である出版の世界の中に入ったって、間違いなく国内トップクラスのものだったと今でも胸を張って言える。
 しかし、経験不足や技術的な問題は確かにあった。
  
 昨日は、「本を見て武田さんのことを知りました。」とある方が連絡をくださった。
 その本とは、その売れなかった本だった。



● 2014.12.18〜19 さばを読む社会


Nikon1 V2 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6 PD-ZOOM Capture NX-D

 以前は、電波を発信しない電子機器は、離陸後しばらくして許可が下りてからようやく使用が可能になったが、今回搭乗した飛行機では、最初から最後までいつでも使用することができ、離着陸の一番ビジュアル的に面白い間で撮影をすることができた。
 規制が緩和された。
 常識的に考えれば、ウォークマンやデジカメに飛行機を惑わす能力があるとは到底思えないし、電波を発信する携帯電話だって電源を切り忘れている人がたくさんいるだろうなぁと思う。
 そうした電源の切り忘れを厳密になくそうとする取り組みを航空会社がしないところから判断するに、電波を出す機器でさえまず問題はおきないと見ているのだろし、その通りなんだろう。
 携帯電話に関しては、以前は、飛行機がゲートに到着するまで電源を入れることが許可されなかったが、今回は、その遥か手前、着陸した直後に電源を入れることが許可された。
 飛行機の場合は、国際的な決め事もあるのかもしれないが、日本の社会は、さば読んでかなり大目に規制するケースが多いように感じる。
 制限速度40キロの道路を50キロで走っても捕まらないし、そんなものという暗黙の了解で成り立つ部分が多分にある。

 僕は、もうちょっとそれを厳密にするべきではないかと個人的には思う。
 50キロで走行してもつかまらない道路は、50キロにしてほしいのだ。
 集団的自衛権の問題などが語られる場合にも、そうした日本の社会の特性が話を難しくしているような気がする。
 従来よりもちょっと枠を広げることで、それが安倍総理の言うとおりの範囲なら戦争に巻き込まれるとは僕には思えないのだが、40キロのところを50キロで走っても日本の社会ではつかまらないように、そこからさらに解釈が広がることが怖いと感じる。

 さて、上京をして電車に乗った際に、優先席の付近で携帯電話を扱っている人に対してペースメーカーを入れている人が電源を切ってくださいと求め揉め事になるケースを、2度ほど見たことがある。
 僕は年にせいぜい1〜2度、多くても正味10日くらいしか上京しないことから判断するに、その手の揉め事は、結構あるのではないかと思う。
 今使用されている携帯電話は、ペースメーカーにまず影響を与えないとされているし、ペースメーカーを使用している人なら、僕なんかよりももっとよくそれを知っているのだろう。
 つまり、ペースメーカー云々ではなく、決まりを守らないという態度が許せないのだと思うが、さばを設けると、そこに解釈の違いから生じる揉め事が起きやすい。

 飛行機からの写真は、合同写真展をしている仲間たちと運営しているフェイスブックページ、ネイチャーフォーにも空からみた夕暮れの画像を1点投稿しています。フェイスブックを使っていない人でも見ることができるので、興味があれば見てください。



● 2014.12.17 続・幼児の本

 昨日も書いた通り、幼児向けの自然のページは、実は非常に難しい。
 それは自然について伝える幼児の科学であり、一方ではファンタジーであり、さらに写真機を使った絵画であり、エンターテインメントであり、教育であり・・・・、最後に僕らの商売でもあって、たくさんの要素を一枚の写真で満たさなければならないからだ。
 カメラマンは、しばしば板挟みになる。
 例えば、カエルが葉っぱにぶら下がっている絵コンテがあったとする。
 カエルに多少なりとも詳しい人なら誰でも知っているように、野外でそんなシーンを見ることはない。
 そこで、カエルを葉っぱにぶら下げることになる。
 しかしカエルはあっという間に葉っぱにのぼり、写真を撮る暇など滅多にない。
 しかたがないので何度もそれを繰り返している間に、カエルが疲れていて動きが鈍くなり、ようやく写真が撮れる。
 そんなややこしいシーンではなくただカエルが白い紙の上にじっとしているスタジオでの白バックの写真でさえ、同じことがおきる。
 カエルは、なかなか白の紙の上でじっとしてはくれないので、何度も何度も僕はそこにカエルを置き直すことになる。
 紙に直接触れるカエルの指先が痛んでくる。
 あるいは、カエルを動けなくするテクニックを駆使するはめになる。
 カエルのように、多少ではあるが、自分の意思を示す生き物が相手の場合は、かわいそうだな、と辛くなる。
 単なる絵画やエンターテインメントならそれでもいいと思うが、幼児の本の場合それだけではないのだから、作り物のシーンを見せてもいいのだろうか?という思いや、生き物って素敵だねという写真を撮るのに生き物を苦しめている矛盾に悩まされる。
 どこまでそれをしても許されるのだろうか?
 僕は今、人に撮影過程を見せれるかどうかを、1つの判断の基準にしている。
 人に堂々と見せられることならよし。だが、隠さなければならないことはNO。

 そうした自分が感じることを編集者に伝えるのは、カメラマンの義務だと思う。
 それを伝えたからと言って、編集者が会社の意向で動いている場合なかなか状況を変えられるわけではないが、それを知っていて、いつも悩んでいることが大切なんじゃないかと思う。
 あるベテラン編集者は、
「会社ってなかなか変えられないよ。でもね、戦わない人はダメだと思う。うちにいるいい編集者はみんな戦うんだよね」
 と表現された。
 また同世代のある編集者は、常に前向きな心で、隙あらば変えてやろう、という密かに狙う姿勢で、少しずつ少しずつ状況を変えてこられた。
 すると、少しずつしか変わらないけど、付き合いが長くなる間に、気付けば結構変わっていることを見せつけられる。
 そういう編集者の姿勢は、その人の言葉の端々に必ず滲み出るし、今度は逆に、自分がどんな姿勢で撮影しなければならないかを、編集者から教えられることもある。
 戦わない人が怠けているとかダメなわけではないと思う。
 時に自分の意思を押し殺してでも、社の意向に従うのは、社員としては立派だし、それはそれでいい仕事だと思うのだが、何か会社員としての仕事以外に、それができるだけの能力を持っている人には、自分なりの何かを表そうとすることを僕は求めたくなる。



● 2014.12.16 幼児の本

 同じように生き物の写真を使用する子供の本でも、幼児の本と小学生向けとでは、大きな違いがある。
 幼児の本は一般書や教育書になるが、小学生向け以上になると、科学ものという感じになる。
 幼児の本は一般向けであるから、生き物をあまりどぎつくすることはできない。それを見て気持ち悪いとか嫌だと感じる人がなるべく出ないように、差し障りないように手堅く作る。
 一方で科学もの場合は、時に、生き物をオブラートで包んで好印象に仕立てあげることより、生き物自体の面白さが優先される。
 僕の場合は、幼児物に数多くかかわってきた。
 その中で、幼児物の手枷足枷の多さには苦しめられてきたし、満たされない思いも多く抱えてきたけど、やはりその業界や業界の人たちが好きでもあり、強い思い入れもある。
 
 さて、幼児の本では、生き物の本質よりも写真を絵にすることが常に要求されるが、写真を絵作りする意識は、小学生向け以上の本を作る時にも、自分の武器になる。
 科学ものが得意な編集者と本を作る場合でも、写真をきちんと絵にしておけばちゃんと反応してもられるし、評価してくもらえる。
 例えば、これから取り上げようとする生き物の生息環境を写した環境写真は、状況をきちんと説明できているのならばそれで事足りるが、それがさらに、ムードのある絵画性に優れた写真に仕上がっていれば、理屈抜きに楽しいのだ。



● 2014.12.15 撮影技術を知ろう

 先日、日本自然科学写真協会の集まりに参加した際に、小檜山賢二さんから、
「若い人はもっと自分を売り込まないと。」
 とアドバイスをされた。
「今日の林明輝さんの技術講習会なんてとても良かったよね。ラジコンヘリにカメラを取り付けて空撮をするのに、ラジコンの組み立ての勉強や操作の練習から始めないとできないような難しいことやっているんだから、すごくいい話だった。」
 と。
 小檜山さんは、日本の誰か若い自然写真家が世界に自分を売り込むことを期待しておられるのだそうだが、もしもそんな気持ちを持てば、その人はおのずと今よりももっと勉強することになる。
 大雑把に言えば、質のいい自己顕示欲を持ち、それを実現するために簡単にはできない超絶な世界にチャレンジして自分を高めなさいという意見なのだと僕は理解したのだが、ほぼ同じことを昆虫写真の海野先生にも度々指摘されるし、二人の巨匠に同じことを言われると、目立つことが嫌いでなるべく引っ込んでいたい僕も、自分の立ち位置を一から見直さざるを得ない。

 日本自然科学写真協会のホームページhttp://ssp-japan.net/)の中に、撮影技術を知ろうという箇所があるので、興味がある人はご覧ください。記事のすべてが一般公開されているわけではなく、途中から会員限定のページになりますが、一般公開の範囲でも相当に深いところまで突っ込んでいます。

 小檜山さんはこの企画のリーダーで、僕は多少お手伝いをしているのだが、その過程でいろいろな人に接する機会があり、みなさんの影響を受け、自分が当初の予想以上に変わることに驚かされている。
 つまり参加することで、僕はさまざまに役得をする。
 何かに参加すれば時間や労力を取られて疲れるけど、役得をするし、それはとても重要だというのも、小檜山さんも海野先生も共に主張される共通の言い分だ。
 小檜山さんは特に、慶応大学の先生として若い人にたくさん接してきておられ、若い人が何をすべきか?を常に考えているように日頃感じられるし、大変に説得力がある。



● 2014.12.14 空港



 僕が上京の際に利用するのは、北九州空港から飛ぶスターフライヤーの飛行機だ。
 北九州空港なら、福岡空港よりも駐車場の代金が安く、数日程度なら車を放置できるし、スターフライヤーのシートはなぜか他社おりも気持ちがいい。
 北九州空港は比較的新しくて、僕のカーナビにはまだ載っていない。
 いや、僕のカーナビが古いと言った方がいい。

 北九州空港ができる以前は、JRと地下鉄で福岡空港まで行って、そこから飛行機に乗った。
 そしてある時、そのJRで、不愉快な出来事があった。
 博多から北九州の列車は、通勤時間帯を過ぎると基本的にはあまり混まないのだが、急行や最終便には人が多く、その日も博多が始発の列車でありながら、並んでかろうじて座れる混み合い方だった。
 そんな状況の中で、隣に座った酒臭い親父が食べるおつまみのイカが臭くて、気分が悪くなってしまったのだ。
 東京の人ごみでクタクタになっていたこともあり、目が回りはじめて、頭がおかしくなりそうになった。
 おまけにその親父は、今で言うクチャラーというやつで、クチャクチャ音を立てながらスルメを食べた。
 それを境に、公共の交通機関が決定的に大嫌いになり、しばらく上京しない年が続いた。
 しかし車で行き来ができる北九州空港が開業してからは、また上京しようかと思えるようになった。
 それでも、あのスルメ親父に対する腹立ちは、まだまだ当分収まることはないだろう。



 東京の楽しみの1つに、青空がある。
 福岡県は裏日本気候なので、冬の間は重苦しい空が続く。
 イメージ的には汚れている東京の空だが、僕はきれいだと感じることが多い。
 東京で撮影された夜景写真などを見ても、少なくとも北九州よりは見通しがいい。




 無数に立ち並ぶビルの中のオフィス。
 何の仕事をしているんだろうな?
 これだけの数の生活が存在するんだ!
 人間の社会ってスゴイな。
 上京当日の夜は、日本自然科学写真協会の技術講習会と忘年会に参加した。
 そこにおられるのは、もしも生き物や写真に興味を持たなければ、まず出会うことはなかった方々であり、人間の縁って、不思議なものだな。



● 2014.12.13 上京

 今日から数日上京のため、事務所を留守にします。



● 2014.12.11〜12 言葉の定義

 ひたすらに上京の準備。
 作成した資料をプリントし、データはUSBメモリーに入れ、さらに何かあった時のために、クラウドなどと呼ばれるがネット上にも保存しておく。
 資料の作成は、やり出したらきりがないので、どこかで区切りをつけなければならず、上京の際には必ず悔いというか不満も残る。これは撮影にも言える。
 
 大雪が降る可能性もあるようなので、フィールドで使用するには物足りなくて、結局ほとんど履いたことがないソレルの冬用の靴を、倉庫から引っ張り出した。
 東京の町の中を、雪でびしょ濡れになった靴で歩くのは、想像しただけで辛くなる。
 しかしいざ手に取ってみると、確かにフィールドでは心もとないが、町ではやはり大げさなので、ためらいも感じる。
 ん〜どうしたもんか・・・。
 ふと、トンボの写真のTさんが九州で撮影した帰りに、長靴を履いたまま飛行機に乗って、その足で今度は都内の電車に乗るんだと話しておられたのを思い出し、そんな人もいるのだから、まあ、いいかと納得。



● 2014.12.9〜10 言葉の定義




 僕の父は、大学の教養部の時に、蝶研究の第一人者・白水隆先生の分類学の授業を受け、それが極めつけにおもしろくなかったのだそうだ。そのそも、元々生物はあまり好きではなかったらしいが、分類学のイメージは、とにかく面白くない、と非常に悪いようだ。
 その癖に、何かのテレビの番組を見て、「生き物の進化って面白いね」と言ったこともある。
 その癖にというのは、分類学は、生き物を進化してきた順番にならべる学問なので、まさに進化の研究と言ってもいいからだ。
 つまり、分類学が面白くない訳ではなく、普段生き物を好いてない人には、生き物の姿形がイメージできなかったり生き物の見方が分からず、最初の障害が高い分野なのだと言える。
 その参入障壁が高い分野を、この本は、とてもよく伝えているように思う。
 生き物の「種」とは何か、「分類学」とはどんなものなのか、「科学」とは何なのか、あとはそれに加えて、なぜ自分はその研究をするのか、著者の定義や考え方や経験が冷静に書き記されている。
 そう言えば、生物学の学生時代に受けた植物形態学の授業では、胞子ができるまでの過程の説明があり、「この中でここからここまでが厳密に言うと胞子です。」などと、1つの言葉をキチンと定義するに費やす時間が、妙に長かった。
 自然科学の世界は、しばしば言葉の定義から始まる。
 そういうところにまで触れられているという面でも、この本を読む価値はあると思う。

 それから、昆虫(虫に限らず)採集は悪だと考えている人には、是非、この本を読んでほしい。
 標本の存在意義について、とてもよく分かるのではなかろうか。
 それらのことを知らずに昆虫採集NOと言うのは単なる無知であり、NOと言えば言うほど恥ずかしいことだと思う。
 NOと言いたければ、知った上でそれを主張すべきだ。



● 2014.12.7〜8 フェイスブックページ



 フェイスブックの他にフェイスブックページなる物があることを知り、一緒に合同写真展を開催している4人(元は3人)でアカウントを取得してみた。
 フェイスブックは個人が登録することになっているが、フェイスブックページは団体も可。
 フェイスブックはフェイスブックをやっている人しかみることができないが、フェイスブックページは誰でも見ることができる。
 フェイスブックはネット検索には引っかからないけど、フェイスブックページは引っかかる。
 などの違いがある。
 僕らの団体の名前は、団長の野村さんの発案で、ネイチャーフォー。
 フェイスブックページ・ネイチャーフォーはこちら
 フェイスブックページにはフェイスブックのような友達制度はないが、フェイスブックページ・ネイチャーフォーに「いいね!」とすると、すでにフェイスブックをやっている人なら、その人のタイムラインに僕らの記事が表示されるようになり、友達になったのと同じような状態になる。
 興味を感じたら、いいねをしてみてください。

 なぜ、フェイスブックページを作ったか?と言うと、ただ毎年恒例で写真展をしても、多分、それを知っている人の数は、ある程度から先はあまり増えないだろうなと思うから。
 そこで何か知ってもらう手段をと考えた。
 不思議なもので、人に知ってもえないと、どんなに写真を撮っても、なかなか上達しない。
 つまり、人に見てもらうという緊張感やプレッシャーやあるいは人からの指摘などのストレスが、写真から隙を失くし、技術を向上させる。
 ストレスと言うと悪い印象があるが、質のいいストレスと質が悪いストレスがある。
 また、見てくれる人の数が頭打ちになっていて増えないと思っているのに、何も手を打たず延々と同じペースを保つのは、いわゆるお役所仕事であり、写真みたいな活動をする上では、最悪の態度だと言ってもいい。
 今、ネイチャーフォーの写真展は3会場を巡回しているが、準備と撤収で合計6日、それからプリントの作成などにさらに数日費やしていることを思うと、改善する努力をしないのならやめた方がいいのだ。

 さらに、フェイスブックを使うことを発案したのは僕だが、最近メンバーの西本晋也さんが、
「パソコンやSNSなど新しいものに興味が持てなくなり、ついていけなくなった。」
 とおっしゃっていたのも大きい。
 新しいものに対する好き嫌いは別にして、現役(写真活動に限らず)でいようと思うのならついていかざるを得ないので、一番年下の僕が新しい物を持ち込む文化の輸入元になることを考えたのだ。



● 2014.12.6 芸事のコツ


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

 毎日30分〜一時間くらいと決めて、長期取材の際の画像処理の整理を進めており、昨日は、四国の石灰岩地帯で撮影した画像を整理した。
 石灰岩の露頭があって、岩のくぼみやその他に落ち葉が降り積もっていて、ある一定の時間帯のみ柔らかい木漏れ日があたるような場所にはカタツムリが多い。
 当時の写真をあらためて見て感じるのは、疲れてるなぁということ。
 その前月の沖縄取材の疲れ、直前の北陸〜関東〜東海取材の疲れが、ありありと写真に現れていた。そんな中でも頑張っているとは思うのだが、何でここで撮影を止めたかなというケースが今見ると非常に多い。

 さて、長期取材中に撮影した画像は大量なので、一日30分程度の整理でいったいいつ終わるんだ?と自分のやり方に疑問も感じるが、時間がたってみるとそれでもそれなりの量が捌けていて嬉しくなる。
 毎日少しずつ、と子供の頃に先生が教えてくださったことは嘘ではなかったと今更ながら思う。
 ただ、写真のような活動に関していうと、僕はそのようなやり方には、基本的には否定的だ。
 というのは、毎日負担にならない程度に地道に少しずつというやり方で、写真や芸事が上手くなった人に出会ったことがないからだ。
 それで到達できるのは、あくまでも並。
 上手くなる人は必ずと言ってもいいくらい、何かをテーマに決めて撮影を始めたらもう誰も止められない勢いだし、ホームページを作りはじめたら今度はWEBデザインの専門家にでもなるつもりなのか?と思えてくるほどそれに打ち込む。
 学校の手習いや教養レベルのことなら毎日少しずつでいいのだが、芸事の場合は、尋常ではない何かが要求され、尋常ではないから人の心を打つのだ。
 多分、スポーツの選手が、疲れるまで練習をするのと同じことなんだろうと思う。




● 2014.12.5 ストロボの話

 普段はなるべく誰にでも分かるように書こうとするのだが、今日は撮影機材の話なので、あまりそれに配慮せずに適当に書こうと思う。

 スタジオでは、ストロボと呼ばれる照明器具を使用する。
 ストロボの仕組みはこうだ。
 まずは、カメラのシャッターボタンを押すと、シャッターが開く。
 シャッターが開いている間にストロボがピカッと光り、その光で像が写る。
 シャッター速度を早くし過ぎると、ストロボがまだ光っているうちにシャッターが閉まりはじめ、シャッターの影が写ってしまう。
 実際にテストしてみた。


f22
1/125

f22
1/160

f22
1/200

f22 1/250
使用したカメラはニコンのD7100
僕の設備の場合、シャッタースピードが1/250になると、シャッターの影が写りはじめた。



カメラとストロボの同調は、上の器具(トランスミッターを記載することにする)を使用した。
右側の道具をカメラに、左側の道具をストロボに取り付ける。
カメラのシャッターを押すと右側の道具から信号が出て、それを左側の道具が受信してストロボを光らせる。

同じテストを、別の方法でやってみた。


f22
1/125

f22
1/160

f22
1/200

f22 1/250

f22
1/320
最初のテストでは、シャッタースピードが1/250になるとシャッターの影が写り始めたが、今度は1/320で影が写った。
2つのテストの1/250の画像を、比較のために下記に並べるが、全然違う。


最初のテスト

次のテスト

言うまでもなく、後のテストの結果がいい。

何が違うのかと言えば、ストロボの光らせ方だ。
最初のテストで使用した道具は、再度掲載するが、トランスミッター。


次のテストで使用した道具はこれ


 ニコンのストロボSB-300をカメラに取り付け、被写体の方向ではない別の方向に発光させ、その光にスタジオ用のストロボを反応させて光らせた。

 では、いずれの方法でもシャッターの影が写らなかった、1/125の画像は同じものなのだろうか?
下に並べてみる


トランスミッターを使用した最初のテスト

SB300に同調させた次のテスト

上の2枚の画像に少し画像処理を施す。具体的には、左隅の明るさと色(RGBがそれぞれ240になるように)が2枚の画像で同一になるようにする。


トランスミッター使用のテストの1/125の画像

SB-300使用のテストの1/125の画像

 トランスミッターを使用すると、画面下に向かうにつれて微妙に暗くなっているのに対して、SB-300に同調させると画面が均一な明るさになっている。
 これは何を意味するんだろう。なぜそんな違いが生じるのか?
 僕には、原理が思い浮かばない。

 まず考えられるのは、トランスミッターの問題。
 それを確かめるためには、カメラとストロボを例えばコード接続してみる方法があるのだが、実は試していない。
 理由は、僕はカメラのテクニカルライターではないので、問題がない方法さえ知っていれば、そこまで調べる必要がないから。
 したがって実験として厳密に比較をしたことはないのだが、今使用中のD7100に関していうと、普段の経験では、コードで接続してもトランスミッターと結果は変わらない印象がある。

 では次に考えられるのは、カメラの仕様だ。
 例えば、ニコンのカメラにニコンの純正ストロボを取り付けて電源を入れると、カメラがストロボを発光させるのに適した状態になり、同じ1/125に設定されていても、ストロボなしの時とは状態が違っている可能性。
 それを確かめるのは、ニコン純正ではないストロボをカメラに取り付け、その光に反応させてみればいいのかな。
 
 そんな現象がおきることありますよ、という情報提供です。
 今回テストに使用したD7100以外のカメラでも、多少なりとも似た傾向があるような気がするし、そのうち暇な時に、ちゃんとテストする予定です。



● 2014.12.4 好きと嫌い

「理学部の生物学科などというロクに就職が保障されない学部を、ただ生き物が好きだからという理由で好き好んで選ぶ学生が昔から常に一定程度いるんです。これは理屈ではないんです。そんなものなんです。」
 と、昆虫の研究室に属していた大学時代に、恩師から言われたことがある。
 自分が何者なのかがスッと心に落ちた瞬間だった。
 僕は今でも、時々その恩師の言葉を頭の中に繰り返す。その話を聞くためだけでも大学に行った価値があったと思う。
 それは逆に言うと、例えば、虫がどうしようもなく嫌いという人も必ず一定程度いて、そんなものであることを意味している。
 そういう意味では、虫が大好きな人と大嫌いな人とは、本質的に同じなのだろうと思う。
 虫が嫌いな人に、「虫に興味を持て」というのは、僕に、「虫を嫌いになれ」というのと同義なのだ。
 では、生き物の写真家は何をすべきなのか?
 虫が好きか嫌いかは、虫について知らなければ判断することができない。
 したがって僕は、自然写真家の仕事は、その機会を作ることにあると考える。
 それを知り人がどう変わるかは、無責任なようだがその人の自由であり、僕にはかかわりのない話。
 唯一そこに何かがあるとするならば、自分の技術が拙くて生き物の魅力が伝わらなかった結果、生き物を嫌いだと誤解させる恐れだ。

 さて、先日、ジャポニカ学習帳の表紙の虫の写真に対して父兄や教員から苦情がよせられるようになり、ついに表紙から虫の写真が消えたという記事をネット上のニュースで読んだ。
 それに対するSNS上の自然愛好家の反応には、
「父兄や教員が怪しからん。」
 というものが僕の知り得る範囲では多かった。
 その場合、怪しからんには2種類ある。
 1つ目は、虫の写真が嫌だと思っても、やめよと抗議するものではないという意見。
 2つ目は、特に先生に対して向けられたもので、虫が気持ち悪いということが怪しからんという意見。
 僕は前者を理解できるが、後者は、自然愛好家のおごりであるような気がする。
 なぜなら、虫が好きなのは立派なことであり、それが正しいし、俺が正しいという大前提に立ってしまっているから。
 だが、好きな人もいれば、嫌いな人もいるのが自然なこと。
 実は僕は、生き物が大嫌いと言う人が嫌いではないし、ノートのメーカーに抗議をした人にも会ってみたい気がする。
 逆に苦手なのは、無反応な人、無関心な人だ。
 以前、学校の先生方の前で講演をした際に、ある先生から、
「自分は実に自然豊かな場所にある小学校に勤務しているのですが、生き物が大嫌いなんです。子供たちが生き物を捕まえて持ってくると倒れそうになるんです。どうしたらいいですか?」
 と質問されたことがある。
 その先生は、僕の話を聞くのは初めてではないとおっしゃったので、わざわざ選んで話を聞きにきてくださったようだが、自分は生き物が嫌いという大変な興味をもっておられるのだと思う。



● 2014.12.1〜3 更新のお知らせ

今月の水辺を更新しました。


   
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