撮影日記 2014年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2014.8.28〜31 雨、雨、雨

 梅雨時だって、こんなにコンスタントに雨は降らんぞ。
 ここ2〜3週間、見事なくらいに連日雨が降った。
 おかげで、カタツムリの観察がはかどった。雨が降ると、普段殻にこもっているカタツムリが出てきて、徘徊を始める。
 身近な場所に、何ヶ所かいい産地を見つけることができた。
 雨の日のカタツムリ探しは、釣りで言うなら、入れ食いの日に釣り針を垂らすようなもの。探し方が上手、下手にあまり関係なく成果が上がる。
 釣りの達人は、入れ食いの日は入れ食いの日で楽しみつつ、一方で食いが渋い日に、超絶技巧で何とか魚を釣ることを楽しむし、食いが渋ければ渋いほど、その技術の差がでる。
 カタツムリの採集も同様で、専門家は、条件が厳しくても知識と経験とで何とかしようとするのだが、僕のような素人は、まずは条件が整っている時に探すに限る。



 ただ、8月の間に幾つか、青空でなければならない、或いは青空が望ましい撮影があり、こちらは本当に参った。
 青空が望ましい撮影は、妥協して曇り空での撮影に変更した。
 青空でなければならない撮影は、内心、今年の気象条件では撮影ができないだろうと諦めた。
 大分県でのため池の定点撮影などは、昨年の9月から月に一度の撮影をはじめ、この8月が最後の月だっただけに、諦めるのは無念だった。

 ところが、週刊予報を見て、これは完全にダメやねと諦めた昨日の朝、突然に青空が広がった。
 当日朝の予報では曇りになっていたので我が目を疑ったが、ともあれ嬉しい誤算だ。
 その晴れが一時的なものかどうかを調べるには、気象の専門家による天気予報よりも、ヤフー天気の中にある、一般の人が投稿する各地の今の天気の方があてになる。
 北九州から範囲を広げ、大分県北部、山口県西部あたりの投稿を見ていくと晴れの報告が多く、うちの上空だけがスポット的に晴れているわけではないことが確認できた。
 風景を撮影する準備をして、急ぎ大分の池へ向かった。
 無事、定点撮影を済まして、次は山口へ。
 山口には、春夏秋冬年4回の予定で撮影をしてきたため池があり、こちらも撮影できた。

 さて、8月の写真が、実際には9月の上旬に撮影したものであったら、それは許されないのだろうか?
 8月31日と9月1日は、それほどに違うのだろうか?
 昔は、特にフィルムの時代は、出版の世界では、その程度の嘘はざらにあっただろうと思う。フィルムにラベルを貼り付ける時に、9月の上旬に撮影した写真でも、8月と記載すればいいのだ。
 当時、データなどというのはウソだらけであり、Aのカメラのカタログに載せられている写真がB社のカメラで撮影されたものであったり、C社のカタログに載せられている写真が、Dの特殊な大きくて高画質に撮影できるフィルムで撮影したものを35ミリ判と同じ縦横比にトリミングしたものであったりもしたそうだ。
 だがデジタルカメラになってからは、画像データには、撮影日やその他さまざまなデータも一緒に記録されるようになり、そうした嘘がつけなくなってきた。
 社会も、嘘やルーズであることを許さないようになってきた。
 それによって良くなった面もあれば、窮屈でつまらなくなった面もあり、それがいいことなのかどうかは僕には判断が出来ないのだが、社会の流れには逆らえないところがある。



● 2014.8.27 九州大学



 ある昆虫写真の第一人者が、
「今日本で一番すごい (上手いだったかな?) 昆虫写真家。」
 と評した小松貴さんの写真を見に、九州大学の博物館へ。
 小松さんは、僕らのような職業写真家ではなくて研究者であり、春から九州大学におられるのだそうだ。
 展示されている写真は、この3月以降に福岡県内で撮影されたものだったが、わずか数ヶ月の成果とは思えない。
 写真を見る時にはいろいろな角度からの見方があるけど、その人の自然を見る目の凄さが伝わってくることに関しては、すべてのジャンルのプロの写真家も含めて、僕が過去に見たことがある写真展の中で圧倒的に最強の展示だと思う。

 ああ、研究者だなと思うのは、写真の解説に撮影日も記されていること。
 見る人が見れば、これが写真をより一層面白くする。
 どれくらいのペースで、どんな風に歩いているかが、そこを知っている者には手に取るように分かるからだ。
 小松さんのWEBページはこちら



 昔、父が九州大学に勤めていたので、子供の頃に何度か大学の廊下を歩いたことがある。
 僕の目当ては、実験用の犬だった。ある時は廊下に、またある時は、廊下を完全にふさぐことができる大きな両開きのドアの奥にある踊り場のようなスペースにケージが置いてあり、数匹の犬が入れられていた。
 僕の九州大学の一番新しい記憶は、多分、割と大きくなってから。と言っても、幼稚園くらいではないかと思う。
 過去に何度か、その時の思い出を詳しく書こうと思ったことがあるのだが、記憶が不確かである可能性もあるので、思いとどまった。
 しかし今日、40年ぶり以上に九大の廊下を歩いてみたら、廊下の広さ、高さ、暗さ、床の質感など、すべてが記憶の通りだった。



● 2014.8.26 イナバウワー


ニッポンマイマイ

 カタツムリは、木にくっ付く、草にくっ付く、落ち葉や朽木にくっ付き地べたで暮らすのだいたい3パターン。他に、岩にくっ付くタイプが存在するが、分布は極めて局所的で、一般的ではない種類が多い。
 基本は、落ち葉や朽木にくっ付き地べたで暮らすだ。 したがって、落ち葉や朽木にくっくいて暮らすカタツムリには、微小なものから特大のものまで様々なタイプのものが存在する。
 そして、一般的には中型のものの一部に木に登るタイプが存在し、小型のものの一部に草に登るタイプが見れる。
 大型のものは、地べたに近い場所で暮らす傾向が強い。
 これらは絶対的なことではなくて、地べたで暮らすカタツムリでも子供の時はよく木の登ったり、木に登るカタツムリでも小さなうちは草に登るなど、どこにくっ付くかは自身の体重の影響を受ける。
 貝のくせして、重たいものが高いところに登るとどんな悪いことが起きるのかを知っているのだ。
 木に登るタイプと草に登るタイプは、スタジオで撮影中に上体を起こして、高い場所に何か掴まることができる箇所がないかを探そうとする。
 このポーズは、カタツムリ写真の業界では、イナバウワーと呼ばれる。
 全然反ってないじゃないか!とクレームをつける方が結構おられるが、勉強が足りない。
 彼らは人間で言うなら腹這いの姿勢を基本としており、それを基準に考えると、かなり反っていることがわかる。
 少なくとも、荒川静香さんと同等であると言える。
 今日の画像を、左に90度回転させてみると、よく分かる。



● 2014.8.25 微小貝

 先月、東京都の奥多摩でケシガイという貝を探した。殻のサイズが2mm以下の小さなカタツムリだ。
 コンタクトレンズで近視を補正するとその代償として老眼が出る僕にとって、微小貝はなかなか手ごわい。通常の撮影用と、微小貝を探したり本を読んだりする時のために、度が違う2種類のコンタクトレンズが欲しくなる。
 落ち葉の中にようやくそれっぽいものを見つけて、一緒にカタツムリを探してくださった日原カタツムリ探検隊のみなさんに見せた。
「多分、これがケシガイ。」
「えっ、これカタツムリ?」
「ルーペで見たら、カタツムリの形なんですよ。」
「あっ、ホントだ。」「これを探すって、心が折れそう!」

 本来は、微小貝は見つかる場所ではまとまって見つかる事が多いが、その日は、なぜか一匹だった。
 そのたった一匹も、スタジオで撮影中にどこかに消し飛んでしまった。
「ケシガイが消し飛んだ。」
 などというつまらない親父ギャグを、一人延々と何度も唱える。
 消し飛んだのにはわけがあった。
 ケシガイがスタジオの白い板の上ではなかなか動いてくれず、それを動かすために、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を要し、その最中の出来事だった。
 動いても、カタツムリのチャームポイントである角を、白い板の上では伸ばしてくれない。恐らく微小貝にとってプラスチックの板の上は、広大な砂漠のようなものであり、乾燥を防ぐために体を引込めがちになるのだと思う。ケシガイのみならず、微小貝はどれも、板の上では閉じこもりがちになり、作業が長くなると、ミスが起きる確率が高くなる。
 ともあれ、微小貝の場合、一匹や二匹持ち帰ったところで、とても撮影はできそうもないことが分かった。
 ケシガイをたくさん採集できるように、身近な場所に産地を探しつつ、一方で、専門家の力を借りるべく、豊橋市自然史博物館の西浩孝さに助けを乞うた。 


ヒダリマキゴマガイ

 板ではなく濡れた白い紙を上なら、微小貝だってよく動くので、やはり微小貝のヒダリマキゴマガイを紙の上に置き、紙から下りた直後を狙ってみることにした。
 が、紙から降ると、数秒以内につのを引込めてしまう。
 さらに、紙の上にとどまりがちであり、なかなか紙から下りてこないので、延々と時間がかかる。一匹撮影するのに一日は欲しいが、微小貝は図鑑をちらっと見ただけでも数十種類存在し、将来的にそれらを順に撮影していくことを考えると時間がかかり過ぎる。
 そこで紙の上で撮影し、紙の場合は板と違って繊維が写り込んでしまうので、画像処理で、カタツムリの部分だけを切り抜くことにした。
 昨日の画像のヒダリマキゴマガイは、それに近い処理をしたもので、キュウシュウゴマガイは、板の上で撮影したもの。
 濡れた紙の上のヒダリマキゴマガイの方が凛々しい。



● 2014.8.24 右巻き左巻き


キュウシュウゴマガイ

ヒダリマキゴマガイ

 両者の殻の巻き方を良く見れば、逆になっていることが分かる。
 殻の巻き方は、殻を頂点の側から見た時に、どちらに向かって巻いているかを見る。
 キュウシュウゴマガイは右巻き。ヒダリマキゴマガイは左巻き。
 カタツムリの基本は右巻きであり、左巻きは、右巻きから変異によって生じた少数派だ。
 途中話をザッと端折って、なぜ左巻きのカタツムリが登場したのか?に関しては、恐らく種類によってその事情は異なるのだろうが、京都大学の細将貴さんが1つのモデルを提唱しておられる。


 

 世界的にみると、左巻きのカタツムリはカタツムリを食べるヘビが生息する地域に多く、それらのヘビの口の骨格は、左右非対称になっており、右巻きのものを食べやすいように特化しているのだそうだ。
 それに気付いた細さんは、カタツムリがヘビに食べられないようにするために、左巻きになったと考えた。
 ゴマガイの場合は、わずか数ミリ程度の小さな陸貝なので、ヘビに食べられることはないだろうが、右巻きのゴマガイを食べるのに特化した捕食者が見つかる可能性はゼロではないだろう。
 そんなことを考えていると、ゴマガイが何かから食べられているところを、見てみたくなる。



● 2014.8.23 昆虫採集(後編)

「クジラを食べるな。クジラがかわいそうだ。」
 と言われた時に、多くの日本人が、
「それを言うなら牛や豚だってかわいそうだし、クジラを食べるなというのは感情論であり、矛盾しているし合理的ではない。」
 と反論し、僕もそう感じることがよくある。
 だがそう反論する人も、全く同じ質の矛盾を抱えている。
 例えばほんの一例だが、一匹の生き物が殺される時に、それが自分にとって可愛い生き物なのか、そうではい生き物なのかによって誰しも感じ方が違うし、僕らの行動は常にそれに影響されている。
 むしろ、それがないのは人間ではないだろうし、そもそも人の言動は、感情論と矛盾だらけだ。
 したがって他人に対して、
「あなたが言っていることは感情論であり、矛盾します。」
と指摘をする場合、まず自分のことを棚に上げる必要がある。
 自分を棚に上げていいのだろうか?
 自然科学の研究の場合は、それでいい。
 科学の世界には、客観的な第三者の立場から物を見るという大前提、つまり自分を棚に上げるという決まりごとがあり、それによってひたすらに合理性を追求することが可能になる。
 だが、人間社会の場合は、必ずしもそうではないだろう。
 合理性は、人が物事を考える際に重要な要素の1つではあるが、感情論よりも当然優先されるべきだと思っている人がいるならば、それはヒトという生き物をよく理解できていない人であるような気がする。
 合理性の追求、つまり科学的な物の見方ですべての問題が解決するわけではないからだ。

 さて、人間の社会は、成熟すると、「残酷」であることを排除しようとする。
 何が残酷かは人によって感じ方が異なるが、人が他種の生き物に対して取る態度に関しては、食糧事情の影響を大きく受けているように感じる。
 食べ物が乏しければ、人間にとって他の生き物は食べ物であり、それを殺すことに対して残酷だという意識が生じにくいが、豊かになると、人は、何でもは食べないようになってくる。
 とは言え、全く何も食べないわけにはいかないから、取捨選択がなされ、大雑把に言えば、少数派が排除される。
 少数派が排除されるのは、経済へのダメージが小さいからではないかと思う。
 したがって、あまり多くの人がクジラを食べるのは残酷だと感じるようになれば、僕は、それに従わざるを得ないと考える。
 何か別の事情が生じない限り、その規制が厳しい方向に向かうことはあっても、緩むことはないような気がする。社会が残酷であることを排除しようとするのには、クジラの問題のような弊害もあるが、トータルとして見ればいい面の方が大きいからだ。
 
 昆虫採集も同様で、
「昆虫採集は残酷。」
 という意見があまりに多くなると、従わざるを得なくなる。
 したがって、
「残酷じゃないか。」
 と指摘をされた時に、僕はそれを虫を知らない人の意見であり、感情論であり、合理的ではないと思うが、
「それは感情論であり、聞くに値しない。」
とか
「合理的ではない」
といった対決をする態度ではなく、残酷と指摘されかねないことをする側の人がみんなに理解してもらう努力が、必要なんだろうなと思う。



● 2014.8.19〜22 昆虫採集(前編)

 奥多摩で採集したカタツムリが、僕が思っていた種類ではなかったことが分かった。
 トウカイ・ビロウドマイマイを持ち帰ったつもりだったのが、図鑑の文章を担当される西浩孝さんが詳しく見た結果、キヌ・ビロウドマイマイであることが分かったのだ。
 カタツムリの場合、解剖して生殖器を見なければ、正確な名前を断定できない種類が存在する。
 
 沖縄のオキナワ・ヤマタカマイマイとシラユキ・ヤマタカマイマイもそうだった。
 しかも、オキナワヤマタカマイマイとシラユキヤマタカマイマイは同じ場所に生息し、一ヶ所で採集したものの中に両者が混ざっていた。
 もちろん外見に微妙な違いはあるのだが、どちらとも言い難い個体も存在し、確かなことを言うには解剖するしか手段がない。
 カタツムリに限らず、虫や小さな生き物を本当に知ろうと思えば、採集をし、時に解剖をして標本を残すことは不可欠。
 みんながそこまでする必要はないが、誰かそのレベルで知っている人が必要であり、昆虫採集は残酷だとやめさせようとする人は、虫や小さな生き物を知らない人だと言える。
 ただ・・・



● 2014.8.18 ハムシ ハンドブック


 
 尾園暁さんの「ハムシ」ハンドブック
 
 最近尾園暁さんのことをよく思い浮かべる。
 別に、僕にそんな気があるわけではない。
 尾園さんの撮影スタイルには、図鑑に特化しているようなところがあり、ちょうごカタツムリ図鑑を制作中の僕にとって、参考になることが多いのだ。
 尾園さんは、絵画性よりも、シャープに、コンスタントに撮影することに力を注いでおられる。

 本の版は小さいが、写真が大きく掲載されているので、とても見やすい。
 ハムシの写真には線が引かれ、その種類の特徴が記載されており、分かりやすい。
「これなら、自分にもハムシが同定できるのではないか?」
 とこの図鑑を見た時に自信が湧いてくる方は、多いのではなかろうと思うし、そうして自信が湧いてくるような図鑑には、なかなかお目にかかれない。
 図鑑だから同定できなければならないというような理屈っぽい理由で、そうなっているのではないと思う。
 尾園さんは、普段日常からからそんな性格の人なのであり、図鑑作りという役割を演じたのではなく、その人間性が現れているような気がする。
 別に、役割を演じるのが悪いとは思わないのだが、僕は、その人の人間性が素直に現れた本や写真が好きだ。



● 2014.8.14〜17 レンズ発見!

 東京都奥多摩町の日原でカタツムリを探した際に、応援に駆け付けてくれた日原カタツムリ探検隊のKOU隊員が、
「うわぁ、次々といろいろな道具が!スゴイですねぇ。」
 と撮影中の僕を見て一言。
「いや、道具がいろいろ出てくるのはスゴイんじゃなくて、だいたいあまりよくない時なんですよ。確立できてないということだから。」
 写真の被写体には、その材質によって写りやすいものと写りにくいものとがあるが、カタツムリの場合は光のコントロールが非常に難しく、いまだ試行錯誤の真っ最中であり、考えれば考えるほど、深みにはまる感じがする。
 ふと、尊敬する皆越ようせいさんが撮影した土壌生物たちの写真を見てみたくなった。
 皆越さんの土壌生物の写真の中には、カタツムリが含まれていた。
 今改めて見ると、別に特別に凝った光を駆使しているわけではなく、逆に、基本に忠実で非常にシンプルでオーソドックスだった。
 まとめてやろうとか、本を作ってやろうなどという意図も、強くは感じられない。
 そんなことよりも、そこにどっかと座り込んで生き物たちを見ることにこの上ない幸せを感じている皆越さんの姿が思い浮かんできて、自分がそこに強く共感させられていたことを思い出した。
 余談だが、 カタツムリは、貝なので本の中では水辺の生き物として扱われていたり、昆虫の中で扱われていたり、土壌生物として扱われていたりするが、土壌生物が一番よくあてはまると思う。



 神社の奥に、ちょっと手入れが悪い中庭的な広場があった。



 手前のかげになっている箇所は、カタツムリたちの楽園だった。
 草が生えていないのは、建物のかげになっていて日照時間が不足するからだと思うが、カタツムリは、こうしたひなたと日陰の際に多い。
 こんな場所では何時間でも過ごすことができる。



 多分、ハリマムシオイガイだと思う。
 ちょうど雨上がりで、無数にみられた。



 オカチョウジガイもチラホラ。



 小さなブツブツ状の毛が生えたフリイデルマイマイは、殻にこもったままお休み中。



 フリイデルマイマイの子供かと思ったら、珍しいレンズガイだった。


レンズガイ

 殻の周辺には強い角があり、レンズのような形状だ。
 分布はそこそこ広いようだが、産地は限られているとされている。
 この場所での密度は高く、点々と見つかった。なんだか嬉しい。



● 2014.8.13 量を捌くということ

 撮影した画像は、基本的にすぐに貸し出しができる状態まで画像処理をして、ハードディスクに保存する。また、一切画像処理を施さない生のデータも、同様に保存してある。
 以前は、さらにDVDにも書き込んでいた。
 DVDは事務所の火災などに備え、自宅に保管していた。
 だがDVDでの保管は、実質的にはほどんどなんの意味もない。
 というのは、DVDの遅い読み込み速度では、そこからデータを取りだして運用するなどというのは、仕事の現場では成立しないから、何もないのとあまり変わらない。
 そこで近年は自宅に古いパソコンとハードディスクを置き、持ち運び用のハードディスクで画像を運んでデータを移すようになった。それができるくらいにハードディスクが安くなった。
 画像の取り扱いは、僕の仕事の中でも大きな時間を占める。
 さらに年々その作業量は増えているので、常に新しい方法を編み出して効率化を心がけ、作業が増えてもこれまでと同じ時間で捌けるようにしておかなければ、生き物を見る時間を圧迫してしまう。
 ここのところの問題は、長期取材中に撮影した画像だ。
 帰宅すればその間に用事が溜まっており、過去にさかのぼってそれらの取材中の画像を処理する時間を得にくく、未処理のまま溜めざるを得ない。
 かと言って、現場で取材に持っていくノートパソコンでは、ちゃんとした画像処理は難しい。
 
(画像処理の話)
 さて、ニコンの新しい画像処理ソフト・Capture NX-Dを試してみることにした。
 まずは、ニコンD610で撮影した画像を、従来のソフト・Capture NX 2と新しい方のCapture NX-Dとで何もパラメーターを扱わずに現像し比較をした結果、同じ画像が得られた。
 NX-Dの操作性はシルキーピクスにそっくりだが、出てくる画像はシルキーピクス的な絵ではなく、あくまでもニコンの絵だ。
 となると、その場合の新旧のソフトの違いはインターフェイスの違いになるが、次々に画像を見て、多少画像の明るさやコントラストを整える程度で、次々に処理をしていくような場合の手返しの良さはNX-Dの方が断然に優れている。
 一方で、NX2の代名詞的な機能であったカラーコントロールポイントが、NX-Dではなくなってしまった。また、僕は白バック画像の処理の際に、ホワイトコントロールポイントという機能使って白のレベルを整えており、大変に重宝していたのだが、これもなくなった。
 さらに、NX2のゴミ消しの方式は、状況によって重宝していたのだが、これもなくなってしまった。
 果たして新しいソフトは良くなったのだろうか?それとも堕落してしまったのだろうか?
 大雑把に言えば、時間を短縮することに関しては新しい方のソフトがすぐれているように思う。
 でも、画像の細かな調整には古いソフトの方が優れていると感じる。
 現実的にトータルとしてみれば、僕の場合は、便利になっただろうな。
 無くなってしまったカラーコントロールポイントやホワイトコントロールポイントやゴミ消しだが、NX2はTIFF画像も扱うことが可能なので、一旦NX-DでTIFFに変換した上で使うことができる。

 因みに、Capture NX 2は有料だったが、NX-Dは無料。また、Capture NX 2は、今後新しいカメラには対応しないだろうと予測されている。
 その他、記載しておくべきこととしては、僕の画像処理用のPCでは、NX-Dが正常に動かなかった。
 画像がサムネルでは表示されるが、大きくは表示されないトラブルが発生した。
 ニコンに連絡をした結果、同様の症状の報告は初めてであるとのことだった。
 ニコンからの指示に従ってこちら側のPCに関するデータを送ったところ、原因が判明した。
 まだその症状に対応した新しいバージョンは出ていないのだが、当面PCの設定を変えれば使えるようになった。



● 2014.8.7〜12 夜の公衆便所

 子供連れで、夜の洞窟へ向う。目的地に車が近づき、車道が細くなってくると、
「えぇ〜、ここ行くん?怖い」
 と言い出した。
 洞窟の近辺には確かに不気味な場所が多いが、洞窟はしばしば石灰岩地帯に形成され、カルシウム分を多く含む石灰岩はカタツムリの殻の材料になるため、あたりは大抵、陸産貝類の大産地になる。
 細道を登り詰めた場所にある広場に車を止め、懐中電灯の明かりをたよりにカタツムリを探す。
 直方の自宅から車で15分くらいの近所だが、数年前に洞窟性の生き物の採集で一度行ったことがあるだけで、周辺の森を歩くのは初めてだ。
 したがって、まずは、ポイントを探す。
 歩き始めてすぐに場所にある、古びた今は使われてないトイレは、絶好の場所だった。
「ここ、無理。怖すぎる。何かでるんやない?」
「カタツムリがおるかもしれんよ。」
 確かに、自殺者などを見つけてしまう可能性はゼロではないが、カタツムリは、トイレとか、野外に放置されたトタンや廃材、神社などが大好きなのだ。
 すぐに、次々とカタツムリが見つかる。
 トイレの周りをぐるりとまわり、中をのぞいた後は歩道を奥へ奥へと歩き、あっという間に、1時間、2時間と経過。
「最初怖かったけど、いろいろ生き物が見つかるからもう全然怖くなくなった。これ楽しいね。」


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

 翌日、明るい時間帯に、もう一度同じ場所を歩いてみた。
 僕はなるべく本当のことを伝えたいと思うのだが、こうしたトイレを取り上げることは、出版では無理かなぁ。
 無理だろうなぁ。 
 こうした場所に何らかの生き物がいることを知っていて、それを見つけた経験がある人にとっては期待できる場所だが、知らない人にとっては嫌な場所でしかない。


NikonD610 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD800 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) ストロボ

 それにしても、カタツムリという生き物の写真に写りにくいこと。
 だいたい、薄暗くて最新のカメラの高感度でも撮影できないような場所にいることが多い。
 それから、不気味な場所は、やはり絵になりにくい。
 意外と動きが早く、ぶれやすい。特に、目玉は激しく動く。
 ぶれにくくするためには照明器具を使用するのがセオリーだが、照明を使用すると、軟体の部分がギラギラとギラついてしまう。
 それを防ぐには、スタジオで使用するような大きな照明が必要になるが、大きな照明はフットワークを悪くする。
 まともに写真に写るのは、撮影可能な好条件な場所で見つかるごくごく一部のカタツムリのみで、機材にいろいろな改良を施すも、いまだやり方を確立できない。
 これまで、いろいろな生き物を撮影する間に確立してきた自分のスタイルが、カタツムリには通用しない。
 絵にするというような次元の話ではなく、まともに写すことでさえ苦心させられる。
 カタツムリを撮影すると、とにかく、カメラマンとしての自信を喪失する。



● 2014.8.5〜6 柵



 うちの犬はあまり高い場所が好きではなく、以前は、高さ30センチの柵があれば、それを乗り越えるようなことはほとんどなかった。
 したがって洗濯物を干す場所や風呂など、いたずらをされたら困る場所にはその程度の柵を設置した。30センチなら、人が通る時にわざわざ開け閉めせずとも、簡単に跨ぐことができる。
 スタジオを兼ねた玄関だけは、撮影機材や飼育用具を壊されては困るので、念を入れて、高さを60センチとした。

 ところがある雷が激しい日に、恐怖のあまりに隠れる場所を探してさまよったのだろう。高さ60センチの柵に登ってそれを乗り越えた。犬は一般に雷が大の苦手なのだ。
 撮影から帰宅すると、いないはずの場所に犬がいて驚かされた。普段の様子からすると、垂直の柵を登ったのは信じられないことだった。

 一度乗り越えると、当たり前のように乗り越えるようになった。
 なるほどなぁ。動物って、怯えた時にいわゆる火事場の馬鹿力を出して、それがきっかけで、出来ることの範囲が広がったりするんだ!
 仕方がないので、柵の高さを90センチにした。
 すると今度は、柵を口で開けた。
 柵は、素人が工作した自作の引き戸なので、滑車が埋め込んであるとは言えかなり重く、それを犬が開けることができるとは思わなかったのだが、いとも短時間で空けた。
 
 開けられないように鍵を付けたら、格子を壊して穴をあけて出てきた。
 風通しをよくするために格子にこだわりたかったのだが、しかたなく上からアクリル板を貼り付けたら、アクリル板を砕いて破って出てきた。
 廊下がなるべく暗くならないようにアクリル板を選んだのだが、透明で奥が見えると犬もやる気を出すので、今度は、厚めの木の板に変更したら、今のところ、3日間持ちこたえた。
 こんなことは、冬場の暇な時にやりたいところだが、ちょうどスタジオに、いつでも撮影可能な状態でカメラを放置しなければならない仕事があり、今対応せざるを得なかった。

 ともあれ、犬くらいの知能をもった生き物が一旦何かをしようと意志を働かせたら、なかなか止めることはできない。



● 2014.8.4 経験則



 関東に広く分布するミスジマイマイ(埼玉県飯能市産)

 山地に生息するカタツムリは、スタジオで撮影する際に、敏感で殻にこもりやすい傾向がある。したがって、撮影に時間を要する。
 一方で里に多くみられる種類は、殻から胴体を出してよく歩く。
 里にもいろいろな自然度の場所があるが、自然度が低い場所で見かける種類であればあるほど、よりよく歩く傾向がある。
 自然度が低い場所では、逃げ足が速くないと、生きていけないのかなぁ。
 中国地方のセトウチマイマイ、関西のクチベニマイマイ、関東のミスジマイマイなどは、中型〜大型のカタツムリの中では割と自然度が低い場所にも生息し、たまに、え?こんな場所で命を繋いでいけるの?と驚かされることがあるが、いずれもスタジオでよく這いまわる。



● 2014.8.3 スタジオにて

 今日もまたダメだろうな、と内心、最初から諦めていた。
 ある生き物が主にリラックスした時に見せるシーンなのだが、スタジオのカメラの前で再現できず、のべ一ヶ月以上機会を待ちながらも、写真が撮れなかった。
 それを、昨晩遅く、思いがけず、なんとか一応撮影できた。
 同じスタジオでの撮影でも、例えば生き物が敵を威嚇をするポーズをとっているシーンなら、人がその生き物を刺激して怒らせれば狙って撮影できるし、食べるシーンなら、食べ物を入れてやればいい。
 その点リラックスした時に見せるシーンとなると、相手の気分次第なので、どれだけ時間がかかるかの目処がたたないのだ。
 過去にそのシーンを撮影したことはあった。
 だがそれは、他の撮影の際のついでであり、全くの偶然だった。

 ところが昨晩、ふとあることを試してみたら、そのシーンを誘発できることが分かった。
 誘発できると言っても、確実ではなく、もっといい写真を撮ろうとさらに繰り返したその後は一度も完全には上手くいってないのだが、無策よりは多少なりとも確率が高まり、遥かにマシな方法を見つけたのだ。
 スタジオで生き物を撮影する際には、思いつく限りのことを試すが、そこから、その生き物の生態に関するさまざまな知識を得ることができる。
 今回は、撮影に一ヶ月の期間を要したが、次回からは、
「いつまでに撮影できますか?」
 と聞かれれば、
「一週間ください。」
 と返事ができる。
 その間に、楽しみにしていた講演など、幾つの誘いを断らざるを得なかった。
 生き物の生態や行動の撮影を引き受けると、束縛されるので、なかなか人と約束が出来なくなる。
「当日の気象条件や仕事の進展具合によって、行ければ行きます。」
 と答えなければならないことが多くなる。

 ともあれ、すべてを縛っていたその1つの撮影に目処が立ったことで、他の撮影の予定を立てられる状況になった。 



● 2014.8.1〜2 キセルガイ



 キセルガイの仲間の名前を調べる際には、殻の入り口の形が大きな手掛かりになる。
 しかし殻の入り口の形に関する資料はあまり多くない。



 また、殻の内側にあるプリカと呼ばれる箇所を透かしてみれば、大きな手掛かりになる。
 だが、プリカは、その貝の軟体を取り出して殻の標本にしなければあまりよく見えないので、手軽ではない。
 先日、兵庫県で採集したキセルガイを生きたままの状態で撮影してみたが、貝が生きている場合、プリカは見えたり一部しか見えなかったりで、あまりよく写真には写らなかった。

 おまけに、キセルガイには種類が多く、日本国内に200種類も分布すると言われている。
 殻の入り口やプリカのような無機質な形を200種類も覚えるのは、よほどに記憶力に優れた人でなければ難しいだろう。
 特に僕のように、学生時代に常に暗記ものに苦しめられ、暗記ものはどんなに悪い点を取っても気にしないようにしようと捨ててしまった者には敷居が高い。
 となると、キセルガイも、他の生き物の名前を調べる時と同じように、全体の形、色、分布などを手掛かりにして同定を試みるのだが、それにはやっぱり限界がある。
 ただ、この貝に限っては、殻の入り口とプリカの形状を覚えておいた方がいいという種類が存在することも、なんとなくわかってきた。
 例えば、ナミギセルがそうだ。

 一般にカタツムリは分布が狭く、隣の県くらいまでならかなり共通の種類が見つかるものの、隣の隣の県になるとその数がぐっと少なくなるのだが、ナミギセルに関しては分布が広く、九州北部から本州まで、あちこちで見つかる。
 したがって、出会いの確率は高く、まず目の前のものがナミギセルがどうかを確認するのは、キセルガイを同定する際の第一歩となる。

 さて、今後は殻の入り口とプリカについても少しずつ勉強していこうかと決意をした翌日、残念な知らせが届いた。
 先日の長期取材の際に、あるキセルガイのつもりで捕まえたものは僕の同定の間違えで、実はナミギセルだ、と図鑑の文章を担当される西浩孝さんから報告があった。
 図鑑に掲載したい種類を獲り損ね、そこらにたくさんいる種類をわざわざ遠くまで運転して捕まえたのだからガッカリだ。
 ナミギセルは、里から山まで色々な場所で見つかる上に、サイズにかなり幅があるため、並と呼ばれる割にはやっかいだ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2014年8月分


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