撮影日記 2014年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2014.1.31 今月の水辺

今月の水辺を更新しました。



● 2014.1.30 小型軽量のカメラ

 ある風景写真の達人が、僕が昔撮影した一枚の写真を今でも好きだと言ってくださった。その一枚は、渓流釣りの際に目にしたシーンを、撮影した写真だった。
 釣りの途中でカメラを取りに車まで戻るかどうか、散々迷った。
 渓流釣りは、大きな岩を乗り越えたり、水中を渡ったりしながらどんどん釣り場を変えていく釣りなので、通常の山歩きや撮影ではまず歩かない場所を歩くことになり、時にすばらしいシャッターチャンスにめぐり合うことがある。
 問題は、身軽な釣りならともかく、そこまで撮影機材を持っていけるかどうかだった。
 時間的にも、カメラを撮りに戻るなら、往復2〜3時間では足りないだろうと思われた。
 幸いその日は水量が多くなく、胸まで水に浸かったり泳いで川を渡るような箇所がなかったので、機材を撮りに帰る決断ができた。
 憧れの達人に褒めてもらえるのだから、チャレンジして良かったと今改めて思う。

 それを思い出すと、ソニーのα7Rというカメラが欲しくなる。このカメラは大変に高画質なのだが、同時に、とにかく小さくて軽い。防水をしてザックに詰め込み、小型の三脚と組み合わせれば、渓流釣りに持っていくことができるはず。
 触ってみると、メカとしては正直しょぼくて常用する気にはなれないのだが、釣りやハードな山登りや洞窟での撮影など限定なら・・・
 どうせたくさん持っていけないのだからレンズも1本か2本で十分。
 渓流釣りをしながら、ここぞ!という時に写真を撮るのは、僕の憧れの撮影スタイルなのだ。
 今は、釣りに行けば写真を撮りたくなる。カメラを持てば釣りをしたくなる。
 
 問題は、うちの中が物で溢れかえりつつあることだ。
 今ある機材の一部を処分しなければ、管理ができなくなりつつある。思いきって処分してしまおうかなぁ。
 
 

● 2014.1.29 Nikon1 AW1






Nikon1 AW1 1 NIKKOR AW 10mm f/2.8

 朝の冷え込みで、アカガエルの卵が産み付けられた水辺に氷が張った。
 一通りの撮影を終えたあと、お日様が当たり始めてもろくなった氷をそっと割って、隙間から、ニコンの水中カメラ・Nikon1 AW1 を沈めてみた。
 ニコンの水中カメラ・Nikon1 AW1 が予想以上によく写る。こんなによく写るのならもっとしっかりと氷が張っている時間帯に撮影すれば面白かったのに・・・、と次回の撮影が楽しみになる。
 
 Nikon1 AW1 に 1 NIKKOR AW 10mm f/2.8 の組み合わせがこれほどに良く写るのは、予想外だった。
 いい意味で予想を裏切ってくれた理由の1つはレンズにあると思う。単焦点レンズの切れ味は、やっぱりスゴイ。
 ニコン1のようなコンパクトなカメラには、僕はこれまでズームレンズを選択してきた。せっかくコンパクトなシステムなのだから、気楽に気軽に写真を撮りたいし、そのためにはズームがいいと思い込んでいた。
 AFは早くて正確。
 ボタンの配置やボタンを押し込んだ時の感触やカメラの手触りが良く、カメラはやっぱりニコンだと思う。
 元々僕は、操作性や手触りをとても重視する。
 いや、正確に言えば重視しているという意識はないのだけど、自分の行動を客観的に分析してみると、そうなっていることが多い。
 例えば、ノートパソコンのキーボードでは字を打つ気になれない。キーボードを使うのなら、文字を入力することに徹したキーボードが欲しい。
 まして、タブレットのキー入力など論外。
 携帯電話で話をする気にもなれない。音質が悪いし、ノイジーだし。
 カメラも、ボタンを押しにくい機種は、結局使わなくなる。

 ともあれ、これだけ良く写ると、欲がでてきて、なるべくいい構図で撮影したいと思う。
 水にカメラを沈めると構図を決めようにも液晶が見えなくなってしまうので、flip bac のミラーを使用しているのだが、所詮ミラーであり、光の状況や撮影ポジションなどが厳しいとよく見えない。
 液晶が可動なカメラだったなら・・・。
 液晶を動かすと防水が難しくなるのだろうけど、新しい機種を開発する際には、何とかクリアーして欲しい。


 
 

● 2014.1.28 頭痛

 先々週〜先週は、寒波の到来でグッと冷え込んだ。
 やや体調不良で体が重たかったのだけど、この機会を見送る手はないだろう、と阿蘇へ出かけた。冬は、寒ければ寒いほど面白い。
 帰宅後は見事な青空が出た。体調を整えるためにちょっと休みたかったのだけど、定点撮影をするのに絶好の日よりだったので頑張ることした。
 翌日は一転して暖かい雨が降った。
 冬の間にポツンと割り込む暖かい雨の日は、両生類を観察するのに絶好の日であり、それを逃すようなら両生類の観察なんてやめた方がいい、と意気込んで出かけた。
 がしかし、あまりに体が重くて、さすがにちょっとやばいなと感じた。一週間前は軽い頭痛程度だった不具合が、あまりに撮影日和の条件が続くので、今回まで、今回まで、と撮影を続けているうちに明らかに重症化してきた感があった。
 ここでインフルエンザウィルスを持った人とでも接しようものなら、確実にもらおうだろうなと感じた。
 そこで、一日思いっきり休むことにした。午前中に眠り、午後も眠り、夜も眠った。
 
 とにかく、気象条件を捉えること。自然の写真は、これに尽きるような気がする。
 その他の時は、ゴロゴロしていても別にいいかな。
 気象にとらわれ過ぎず、予定を立てて、計画通りにコンスタントに仕事をしたい気持ちもあるが、それをするとコンスタントに撮れるものばかりを被写体として選んでしまいがちであり、技術さえあれば確実に撮れる写真を量産してしまう傾向にある。
 仕事をする上で、手堅さは必要になるけど、自然の写真はやっぱり瞬間だと思うのだ。
  
  

● 2014.1.27 イルカ漁(後編)・・・心の起源

 僕は子供の頃から動物の心の存在が気になった。
 だから周囲の大人たちに、何度か、
「動物にも心があるのか?」
と聞いてみた記憶がある。大人たちの答えはみな、
「動物に、人間のような心はない。」
 というものであり、そんなもんだと思い込んでいた。

 しかし、武田家が屋外で飼っていた犬を室内で飼うようになってから、徐々にその思いが変わってきた。
 どう考えても心のような何かが犬に備わっているとしか思えない振る舞いをするのだ。
 一方で、僕が普段多く撮影しているような両生類や軟体動物や節足動物などの小動物の場合、どんなにたくさんそれを飼育しても、心の存在を感じることができない。
 飼えば飼うほど、それがないように感じる。
 魚は餌やりを覚えるが、お互いに心が通っているとは到底思えない。

 僕が知り得る範囲では、心の存在を思わせる生き物はすべて、親が子供を育てるタイプの生き物であり、心は、親が子供を育てるというシステムから発生したものではないかと予想する。
 親は子供を可愛いと思う。子供は親を慕う。
 そういう仕組みになっていれば親子がはぐれにくくなるから、その生き物の繁殖に都合がいい。
 さらに、親子関係が存在する生き物の中でも、群れを作る生き物の方が、より心の存在を強く感じさせる。
 野生の犬の類が、巣穴に帰ってきた仲間を出迎え、実に嬉しそうに挨拶をする映像を見たことがあるが、ペットの犬も飼い主が帰宅すると全く同じやり方で実に嬉しそうに挨拶する。
 仲間と一緒に過ごせて嬉しいと感じるように出来ていれば、群れで協力したり分業をする生き物にとっては実に都合がいい。
 元々は親子の間で始まった「心」を、今度は、仲間にまで応用したのではないかと想像する。

 では、イルカやクジラは、欧米の一部の人が考えるように、本当に、高い知能と人間でいう「心」のような高度な感情を持った特別な生き物なのだろうか?
 彼らの主張は、検討に値するのだろうか?
 僕は、イルカやクジラにあまり馴染みがないので、それを考える材料を持ち合わせていない。
 つまり、分からない。
 多くの人が、そうではないかと思う。
 イルカ漁の問題をきっかけに、イルカについてもっと知ろうとする動きや知りたいという声が社会の中に全く上がらないことが、日本人として僕は非常に残念。
 1つ気になるのは、イルカの問題が語られる時に、猟ではなく、漁という言葉が使われることだ。
(僕自身も、誤字だと言われないようにイルカ漁と記載しているが)
 漁だと対象は魚というイメージがあり、日本人は、イルカを魚としてみて、魚レベルの扱いをしていると受け取られかねない。
 イルカとは何者か?とこの機会に勉強してはどうかと思う。
 
 

● 2014.1.26 イルカ漁(前編)

 キャロライン・ケネディ駐日大使のイルカ漁に反対するツイートは、大変に興味深かかった。
 そう考えている人が、狂信的な人たち以外にもそれなりの数いるということであり、もっと多くの欧米人の感じ方を詳しく聞いてみたいと思った。
 生き物に危害を加えると、人間の社会では時に批判されたり、罰せられることさえあるが、それはなぜだろう?

 もしも、自分が人類最後の一人になったならと考えてみると、その答えがよく分かる。
 自分が人類最後の一人なら、そこには一切のタブーやルールは存在しない。天然記念物の生き物を殺してもいいし、希少な生物を絶滅させてもいい。
 逆に言うと人間社会の中のルールは、他の人が存在するから必要なのであり、他人に嫌な思いをさせないためにある。
 例えば天然記念物への指定は、その生き物のためではなく、その生き物を財産だと思う人たちのためだと言える。
 イルカやクジラの問題を、イルカやクジラのことを思いやれという問題だと思っている人は的外れであり、それは、イルカやクジラが殺されることで私が嫌な思いをしているという主張なのだ。

 イルカが殺されることで不快感を感じる人がそれなりの数いるとするならば、僕は、日本人は何か答えなければならないと思う。
 ちょうど、自分の家族や小さなコミュニティの中のしきたりが、より大きな社会の中では単純には通用しないのと同じように。
 相手を説得にかからなければならないと思う。
 よその国の文化に口を出すな、という思いもあるが、物流や交流を発達させるということは、そういうことであり、めんどくさいけど、今はそんな時代なのだと僕は考える。
 漁がおこなわれている太地の人たちにそれを求めるのは酷な話であり、国の仕事であるような気がする。

 生き物の命の重みに差があるのか?という議論がある。
 イルカやクジラはダメで、牛や豚はいいのか?というような。
 これは、理屈を唱えれば命の重みに差はないということになるが、感覚的には、どこの誰でも、生き物の種類やその他によって、それを区別していると思う。
 例えば、ネズミと犬とでは、同じ殺すでも相当に違う印象を受ける人が多いだろう。
 同じ犬を殺すでも、野良として生まれた犬と、飼われていて可愛がられていた犬とでもかなり印象が違ってくるだろう。
 野良とペットとで犬の命の質が違う訳ではないから、違うのは僕らの感じ方なのであり、何が残酷かは人の感じ方の問題であって必ずしも理屈で割り切れない。
 時代背景によっても、違ってくるだろう。
 例えば、飽食の時代と食べ物の確保に苦労している時代とでは、人の感じ方が違ってくる。



● 2014.1.25 棕櫚の日曜日



報道写真家・矢内靖史さんの 「棕櫚の日曜日/青蛙社」 棕櫚はシュロ

 昔、ある新聞の編集長から、
「新聞の場合、こうとしか読めない文章は、間違いなくいい文章です。」
 と聞いたことがある。
 これは、文章に含みが持たせる文学なとは180度逆の考え方だ。
 写真も、新聞ではきっと同じように撮るのだろうなと思う。
 
 さて、福島の報道写真家・矢内靖史さんの「棕櫚の日曜日」は、いわゆる報道写真ではなく、写真に含みが持たせてある。
 なぜだろう?
 これは、出来そうでなかなか出来ないことであり、僕は、いろいろな表現にチャレンジする矢内さんの姿勢にまず心を打たれた。

 そこで、そんな感想を矢内さんにぶつけてみたら、矢内さん自身が原発事故の被災者であり、客観的な立場からだけでは伝えられない思いがあったことを教えてくださった。
 自分のスタイルが確立されたプロ中のプロでさえ、立場が変われば写真が変わるのだから、表現の世界はやっぱり面白い。

 タイトルの中にある棕櫚は、植物のシュロ。
 シュロの景色が、南の島のどこかを切り取ったものかと思わえる写真が数点あり、自然写真屋の直観で言うと、
「福島の写真なのに、南国的なシュロなんかにカメラを向けんでもよかろうもん。」
 と違和感を感じるのだが、原発が作られた高度経済成長期に、シュロを植えるのが流行ったのだと言う。
 報道写真と言えば、なるべくそこに人を入れるというのがセオリーだと思うが、棕櫚の日曜日では人の気配がほとんど感じられず、実に不思議な、これまた違和感がそこに表されている。
 自然写真は、一般的にいうとなるべく違和感がないように、すっと心に馴染むように撮影していくのだが、逆に違和感で表現していく手法は報道のプロならばでのものであり、棕櫚の日曜日は、表現が多彩なだけで、基礎になっているのは報道であり、それが矢内さんなのだろうなと思わせる。
  
  

● 2014.1.24 やめようと思った途端に

 毎月一度の、ため池の定点撮影。
 一昨年に幾つかの池を選んで撮影をはじめ、昨年の1月に多くの池の撮影が終わり、一ヶ所だけ撮影中の場所が残った。
 定点撮影はやってみると案外束縛されるので、少々疲れた感がある。
 おまけに、この1月はなかなか撮影に適した晴れの日が確保できず、下手をしたら撮影ができないまま2月になってしまいそうな気配だったので、いっそうのこと、最後に残った池は撮影をやめてしまおうかと思った。
 すると、そう思った途端に今日は青空が出た。
 続けろ、ということなんでしょうね。行ってきました。
 今日は本来は、一昨日〜昨日に阿蘇の周辺で撮影した画像の処理をするつもりだったのだけど、予定変更。



● 2014.1.23 湧水

 魚は、流れと流れが合流する場所で良く釣れる。だから釣り師は、「そこに合流点がある」と聞くと、胸が高まる。
 合流点では餌が両方から流れてくるので、魚にとっては絶好の採餌場所になる。
 両方からの餌が一番よく集まるそのスポットに、一番大きな強い魚が陣取る。
 
 それから、餌の存在以外にも、2つの異なる水が混ざり合うことにも意味があるだろう。
 例えば、一方が湧水で12度、他方が18度とすると、合流点ではその異なる温度の水の混ざり具合で様々な水温の場所ができ、魚は自分が好きな温度の場所を選ぶことができる。
 夏の特に暑い時などは、温度が低い沢に魚が入ってくる現象が知られている。
 あるいは一方が大きな流れで一方が小さな流れの場合は、大雨が降って大きな流れがひどい激流になった時に、小さな流れが避難場所になる。
 僕は、個別の生き物よりは、そうした地質がらみの生き物の生態に興味がある。
 生き物の「適応」という言葉が、僕の興味を表現する最も適当な言葉だろうと思う。

 以前、何度か大きなヤマメを釣ったことがある沢と沢の合流点で、湧水の支流に向かってカメラを構えた。









 風景写真の撮影スポットとして人気がある場所だが、僕はいわゆる風景の写真よりも、生き物の住処としての風景写真に興味がある。
 この場所なら、生き物は、サルオガセやコケやシダなどの植物。
 湧水の沢の水温は年中ほぼ一定なので、冬は外気よりも水温が高く、夏は低い。冬でも暖かいその流れの周辺では、緑が青々としている。
 その温度差で辺りには霧が発生しやすく、あたりには細かいスプレーのような水滴がただよい、そうした水気を必要とする植物たちの絶好の住処になる。
  
  

● 2014.1.21〜22 パンク



 熊本へ向かう。
 福岡を発つのが少し遅くなり昼近くになった。
 一層のこと昼まで待って自宅で昼食を食べてから出ようか、と一瞬考えたが、やっぱりちょっとでも早く出ておいた方がいいだろう、とそのまま出発。
 これが、結果的にいうと良かった。 
 高速道路にのってすぐにパーキングエリアで昼食を食べ、車に乗り込もうとした際に、左の前輪の空気圧が低くなっていることに気付いたのだ。
 レストランの位置からは、左の前後輪が目につく位置に車を止めたのだが、パンクしたのが右の後輪だったなら気付かなかったかもしれない。
 これまた運よくガソリンスタンドがあるパーキングだったため、わずか数十メートル走るだけで修理できた。タイヤのバルブが破損していることが判明した。
 もしも自宅で食事をとっていたならパーキングに立ち寄ることはなかったはずなので、道路上でパンクをしたはずだ。
 高速道路上の車のトラブルはごめんだ。
 そう言えば、昨年の10月だったか、高速道路にのる直前に燃料を満タンにしておこうとガソリンスタンドに入ったら、
「何かがタイヤに刺さってますよ。」
 と店員さんから指摘してもらい、それがとても太いネジだったので、修理ではなく、念のために新しいタイヤを購入したことを思い出した。
 500キロくらい走る予定の日だったので、そこで気付くことができたのは大変に幸運だった。
「車に乗る前には毎回点検をしましょう。」
 と自動車学校で教わり、内心、
「おらんやろう。そんなやつ。」
 と思ったものだが、先生の言うことは聞いた方がいい。

 阿蘇では、霜柱ができる様子を撮影する予定だったのだが、予想以上に気温が低くて地面が凍ってしまったので撮影は中止。
 霜柱ができる場所は福岡でもたくさんあるが、一晩中車を置きっぱなしにしてピカピカとフラッシュを光らせても誰にも怪しまれない場所となると、案外みあたらない。
 僕はなるべく放っておいて欲しいタイプなので、人目がとても気になるのだ。
 昨年も同様の撮影を試みたのだが、4日徹夜して、上手く霜柱が形成されたのは1度だけだった。
 その一度は、車の中で将棋に夢中になっているうちに撮影し損ねるという体たらく。
 失敗したものの、それが一番最初のチャレンジだったため、ああ、これは簡単だと思ったし、すぐにまた霜柱はできると思ったのだが、結局それっきりだった。
 しかたがないので、別々のシーンをつなぎ合わせて、まるで霜柱ができる過程の連続写真のように見せたが、後味の悪さが残った。
 霜柱は土の中でできるので、それを分かりやすく見せようとすると色々と手を加えなければならないのだが、手を加えるとと上手く形成されなくなるようだ。
 撮り損ねたものの、一番最初にすんなり成功したのはなぜだったのだろう?
 
 

● 2014.1.20 もう一度、趣味の写真をはじめる

 仕事以外で写真を撮る時間、つまり趣味としてカメラを持つ時間が、とても大切だと近年感じるようになってきた。
 仕事として撮る写真と、そうではない写真とは、やっぱり質が違うと感じるのだ。

 と言いながらも、現実には、いつも仕事に追われてしまう。四六時中、仕事をしている感がある。
 自然写真の場合、仕事は仕事で打ち込めばきりがないし、打ち込みたくなってしまう。また僕の場合、自然写真以外の仕事をしていないので、それだけで生活をしなければならない面もあるし、もしかしたらそれが当たり前の姿なのかもしれない。

 だが毎年この時期に本を作ったり画像を整理したりする時に、やっぱり仕事写真だけではダメだとしみじみ思う。
 仕事として撮る写真とそうではない写真とに違いがあるのは、当然のことだと言える。
 仕事の場合、時間やコストに制限があるから、それでできる範囲のものを撮影することになる。すると義務に応えるために、手堅く、手堅く計算できるものばかりを撮影するようになり、スケールが小さくなっていく。
 よく撮れているまでは行けても、心を打つところまではいかないし、いい写真は撮れても、すごい写真が撮れないのだ。

 やがて、そうして計算できるものばかり撮影している自分に気付けなくさえなり、人からそれを指摘されても、ピンと来なくなる。
 毎月、これぞと思う気象条件の日を4〜5日でいいから、仕事以外の撮影のために確保できたらなぁ。
 今年はそれにチャレンジしてみようと思う。



● 2014.1.19 難しい仕事

 難しい本の依頼が2つ。
 1つは、繁殖の様子の観察が非常に難しいとされている生き物。
 正直に言えば、やってみなければ分からない面があり、逃げたい気持ちがある。
 がしかし、今の僕に手堅くできるような撮影は、所詮他の誰かにもできる撮影であり、それをどれだけ数重ねたところで現状維持をしているに過ぎないだろう。
 この世界は、時に見通しが立たないことにチャレンジしなければならない場合もある。
 それが分かっていてもやっぱり逃げ出したくなるので、ここに書いてみる。
 書くと、もう逃げられないな、と諦めがつくことが多い。
 
 あとの1つは、過去に何度か同じテーマで撮影を打診されたことがあるものの、これ、というアイディアが思い浮かばず、引き受けることができなかった。
 写真を撮りページを埋めること自体は決して難しくはないのだけど、それを読んで誰かが面白いと感じるように作れる自信がなく、撮影自体が難しいケースとは怖さの質が違う。
 今回は、ある方と会話をしながら本を作る予定なのだが、先日ちょっと話をしてみたら、一気にイメージが具体化してきて、やれるんじゃないかな?と初めて思えた。
 怖い撮影が楽しみにも感じられるようになってきた。
 会話って、大切なんだなぁ。



● 2014.1.18 冬

 スポーツ選手が、シーズン中にはフォームをなかなか修正できないように、自然写真も、生き物が活発な時期には目先の仕事に追われてしまい、こうしたらよりいい写真が撮れるのに!とか、こうした効率が上がるのにと分かっていても、それに手を付けられないケースが多々ある。
 その点、冬はいいなぁ。
 いろいろなアイディアを試したり、実験をしたり、丁寧に資料を見たり・・・。
 生き物が活発な季節はエキサイティングで楽しいのだけど、一方で、春が来るのが怖い。
 少なくとも、春よ来い、という気分には、僕はなかなかなれないのだ。
 
 

● 2014.1.17 遷移



 針葉樹から広葉樹へと遷移しつつある森。
 この一帯の景色は、あたりを通るたびに何となく気になる。だから過去に何度も撮影したことがあるのだが、昨年の7月に撮影した画像を整理したら、やはり同じ場所で撮影された写真が出てきた。
 また撮影してしまったのか。
 樹木に特に興味があるわけではない。また、この写真を使って本を作るつもりもないので、なぜこのシーンに魅かれるのかは自分でもよく分からないところがある。
 がおそらく、僕が普段見ている水辺の将来を、このシーンを通じて空想しているのではないかと思う。
 今水辺がある場所は、永遠に水辺であり続けるわけではない。
 水辺は徐々に土が堆積して浅くなって湿地になり、湿地は徐々に乾いて陸地になる。
 陸地になるとさまざまな植物が生える。
 その植物もずっと同じものが生えているわけではなく、徐々に遷移していく。
 木が生えると、木は年々大きくなる。
 地球は、年のサイクルで同じような状態を繰り返しているようでいて、実際には、少しずつ少しずつ変化しており、今日と同じ瞬間は2度とない。
 人の寿命に比べると、それはずっと長い期間の話であり、その過程を自分で見ることはできないだけで。
 そこで、現存するいろいろな段階の風景をつなぎ合わせることで、僕はそれを想像したがっているのではなかろうか?
 この場所が、全く別の森になっていく姿を自分の目で見たいと思うのだが、その前に僕は死んでしまうのだろうな。

 参考までに、この一帯は、数十年前に牧場だったのだそうだ。
  
 

● 2014.1.16 ゆめみるカワガラス

 プロの世界に入った時に最もギャップを感じたのは、
「○○さんは、この本の中の写真をわずか一ヶ月で撮影してしまったらしいよ。すごいよね!」
 といった風に、いかに短時間で結果を出したが重視されることだった。
 趣味の写真なら、
「この一枚の写真を撮るのに○年かかったんだよ。」
といかに時間がかかったかが誇られたのに。
 自分自身のことを考えても、 以前、一枚撮影するのに一ヶ月かかったシーンを、やがて1時間たらずで撮影できるようになる。
 そしてそれによって、仕事が可能になる。
 
 でも僕はやっぱり、時間をかけることができるってすごいなと思う。
 同じ場所に何度も通って究極の観察をするとか、待つとか。
 近年、特にその思いが強くなってきた。



 昨年、購入した和田剛一さんの本・ゆめみるカワガラス。
 和田さんの写真はいつも、テクニックさえあれば撮れるような写真ではない。当たり前に言えば撮影不可能なシーンがそこに写っていて、しかもそれがきわめて高い絵画性で描かれている。
 うちにはたくさんの本があるので、お越しになった人にお見せすることがあるが、写真が好きな人、自然が好きな人ともに、和田さんの写真を見るとあまりのすごさに無口になる。
 僕も、和田さんの写真の前では、ただの1写真ファンになることができ、それは実に心地いい。
 僕の偏見かもしれないのだけど、和田さんが見せようとしているのは、本というよりは、写真なのかなという印象を受け、もっと大きく高精細のプリントや印刷を見たいと思った。
 
 

● 2014.1.15 風景写真

 昆虫写真家の海野和男先生が
「おい、年をとると本当に目が見えなくなって、全くピント合わせができなくなるぞ!」
 とおっしゃった。小さな生き物の撮影では、ピント合わせがとても難しいのだ。
 目の劣化の程度は人によってかなり差があるようだけど、僕はおそらく目はあまり強くない。
「大丈夫です。僕は年取ったら、風景写真家になります!」
 と答えてみたものの、急にそうなれるわけではないから、少しずつ修行を積みたい。
 


 この切り取り方では、手前の赤っぽい木は、テーマになり得ないだろうと思う。もしもこの木をテーマにするのであれば、もっと木に迫った別の切り取り方をしなければならないだろう。
 この場合、テーマになり得るのは、木立の奥に見える湿原だ。
 
 しかしそうだとするならば、赤っぽい木に存在感があり過ぎて、そこに目が行ってしまう。
 つまり、奥を見せたいのか手前を見せたいのかが曖昧な、何が言いたいのかが分からない写真だと言える。
 生き物の写真の場合は、何が主題なのかを考える必要がない。虫の写真なら虫、鳥の写真なら鳥が主題であることは自動的に決まる。
 その結果、生き物のカメラマンは、撮影の際に主題の設定を意識する機会がなく、それが上手くない。
 したがって生き物のカメラマンが風景の写真を撮ると、何が主題なのかが分からない、何となくの写真になる傾向が強い。
 

 
 ともあれ、少し左によってみる。
 赤い木が少し横にずれと存在感が和らぎ、奥が見えてくるからテーマがより明確になる。少なくとも、赤い木が主役ではないことが分かる。
 だが今度は、赤い木が一本隣の木と重なりあり、手前の木立のシルエットが見苦しくなった。シルエットは、とにかく重なり合いが命であり、それがキレイでなければ話にならない。
 僕は左に寄り過ぎてしまったことになる。
 ということは、この2枚の写真の中間に、答えがあったのだろうな。
 
 

● 2014.1.14 過ぎたるは及ばざるがごとし



 定点撮影中のため池の付近には湿原があって、シーズンになると、ため池の撮影のついでにトンボやカエルを撮影できる。
 そのついでというやつは、自由で、実に楽しい。
 
 しかし現実的にはシーズン中は色々な仕事に追われ、肝心な定点撮影をする時間さえなかなか捻出できず、車で片道3時間以上を要するこの場所の取材は途中でやめてしまおうか?と真面目に検討したこともある。
 だがやめると、それまで通った分が無駄になるので、必死に自分を諌める。
 その結果、とにかくため池だけを撮影して、大急ぎで帰宅をするケースが何度もあった。
 忙しかった月には画像処理もままならず、それを今頃片づけることになる。そうした未処理のデータを適当に放り込んでおいたフォルダーがパソコンの中から見つかり、紛失してしまったと思い込んでいた2013年7月10日の写真が出てきた。
 ああ、ここにあったのか。

 今は冷静なので、今になって考えてみると、ため池だけを撮影して帰るなんてもったいない取材をしているな、と思う。
 ため池の撮影のついでに撮影するプラスアルファーこそが、この仕事のうま味なのに・・・
 仕事を詰めこみ過ぎかな。過ぎたるは及ばざるがごとし、の状況に陥っている自分に気付かされる。
 
 

● 2014.1.13 憧れ

 昔、うちに遊びに来たあるカメラマンが、僕のカメラを見て、
「うわぁ〜。スゴイ!」
 と感嘆の声を上げた。
 しかし実は、その方も同じものを使っておられたのだから、クスッと笑いたくなった。
 そう言えば僕もカメラ屋さんに行って、自分がすでに持っている物を見て、
「わぁ〜これ欲しい。」
 とか
「すご〜い。」
 と憧れを感じることがある。
 憧れは、それを手に入れたからといって、なくなるわけではない。

 もちろん、憧れの何かを手に入れた際に、満たされる場合もある。
 だがそんな場合でも、人の心は憧れの気持ちをフォーマットして消してしまうわけではないように感じる。
 憧れの気持ちの上に、手に入れたという満足感が上書きされ、元からあった気持ちに自分で気付けなくなるだけで。
 というのも、ふとした拍子に、隠れてしまった思いが姿を現すことがあるからだ。

 ある先輩が、カレンダーを送ってくださった。
 僕が、フリーのプロカメラマンいなりたいと思い立った時に、すでに第一線で活躍しておられた方であり、サイン入りだ。
 自分が自然写真の業界で生活をするようになった今でも、そんな時の嬉しさは変わらないように思う。フリーのカメラマンとして自然写真の仕事をすることは、今でも僕の憧れであり、先輩からの贈り物にその気持ちを再認識させられた。
 
 

● 2014.1.12 Nikon 1

 ニコンの水中カメラ・Nikon 1 AW1を購入して試し撮りをしてみたら、写りがいいのに驚いた。
 Nikon 1というシステムは、なんとなく際物的な印象があって、システムの開発発表直後に多少興味をもったものの、その後は購入を検討したことさえなかったのだけど、水中カメラの使用をきっかけに、水中のみならずシステムそのものに興味が湧いていた。
 そこで、陸上用のNIKON 1 V2 を購入してみた。
 するととてもよく手になじむし、ボタンの配置が良くて、一瞬にして好きになった。
 小さなカメラの場合、スペースの関係でどうしてもボタンの配置が分かりにくくなり、特に慣れるまでは使っていて楽しくない何かを感じてしまうのだが、V2は最初に触った直後からそれを感じさせない。
 これは使えるし、おそらくあっという間に元を取るな、という印象を持った。

 残念なのは、ストロボのシステムが特殊で、しかも充実していないこと。
 こんなによくできたカメラを開発するグループが、なんでこんなストロボのシステムを採用したのかなぁ。
 たまにメーカーの人からカメラの開発秘話を聞く際にいつも感じるのは、メーカー内では保守的な意見が強く、なかなか思い切ったことは出来ないという印象なのだが、何でこんな突飛なストロボを採用できてしまったのだろう?
 Nikon 1に限らず、ストロボに関しては、ニコンはもうちょっとユーザーの声を集めて欲しいように感じる。開発者のロマンは大切なものだと思うが、ロマンが先行し過ぎているような気がしてならない。
 
 Nikon 1では、ニコンの一眼レフ用のレンズも使用できる。焦点距離が2.7倍相当になる。
 その場合に、手振れ補正が働く。
 さらにAFも動く。
 AFは中央の一点だけになるが、もしも今後フォーカスポイントを動かせるようになり、ストロボで従来の規格のものを使えるようにしてくれれば、このシステムは、仕事をする上でスゴイ武器になる!
 
 

● 2014.1.11 

 フォトショップによる画像処理の教科書を読むと、白は飛ばさないように、黒は潰さないようにと書いてあることが多い。それから印刷に回す画像には、カメラマンの側でシャープ(アンシャープマスク)はかけないように、と。
 一度コントラストを上げたりシャープをかけた画像は元の状態に戻すことができないので、コントラストやシャープは緩めにしておき、印刷の段階でデイレクターの適切な指示にしたがって調整するのが理想なのだという。
 しかし現実的には、ディレクターが存在して丁寧に見てくれるのはよほどにお金をかけたちゃんとした印刷の場合のみであって、適切な指示できる人間が存在しないケースが圧倒的に多い。
 したがって、画像を印刷に回す場合には、豪華な印刷の写真集を作るようなケースでもない限り、コントラストは適当に上げ、シャープはかけておくのが手堅い。
 教科書はおそらく、一流企業の商品の写真を印刷するようなケースを想定しているのではないかと思う。
 

普段の僕の画像処理 
コントラストを上げ、シャープをかけた画像

 それでも僕は、コントラストは低めに、シャープはかけないことにしている。
 手の込んだ印刷で出力された写真集を作りたいという思いがあって、その実現するかしないかさえ分からない稀なケースに合わせた画像処理をしているのだ。
 印刷に関してはカリスマディレクターと呼ばれている方が業界には何人かおられるが、そうした達人にお願いしてみたいのだ。
 滅多にない機会に合わせるのは非合理的だと思うが、僕のロマンであり、それは自分が写真を頑張る動機の1つでもある。



● 2014.1.10 写真選びの難しさ



 7月に撮影したまま、なんとなく画像処理をする気になれず、放っておいた画像。
 そんな画像が少しずつ溜まりハードディスクの中で大きな容量を占めるようになると、次第に仕事の邪魔になってくる。
 冬の間に、溜めてしまった画像の整理は終えておきたい。

 溜め込んでしまう画像には、共通の特徴がある。
 まず気に入った写真は、溜め込むことはない。画像処理をするのが楽しいから。逆に、話にならないようなひどい写真も、なかったことにしてしまうから、これまた溜め込む心配はない。
 溜まるのは、中途半端な写真だ。
 逆光や夕刻の写真には、そうした中途半端な写真が多くなりがちな傾向がある。
 逆光や夕刻は、光がドラマチックなので、ただそれだけでなんとなく絵に出来てしまう。そして、本来ならそこからスタートしなければならないのに、何となく絵にできてしまう分、そこをゴールにしてしまう。
 数ヶ月たった今改めて画像を見てみると、やっぱり溜まる画像は中途半端に終わっているなと思う。
 この場合、カエルが醸し出す雰囲気こそが命なのに、光の方にばかり気を取られている。時々カエルが微妙に座り方を変えるその一瞬を逃してしまっていてとても残念。
 生き物の写真は、どんなに生き物が小さく、あるいはシルエットとして写っていても、その生き物の表情が命だと思う。

 ただ面白いのは、自分が中途半端だと思っている写真が、本の中の1ページにはまった時に、非常に生きてくるケースがあることだ。
 だから写真選びは難しい。
 
 

● 2014.1.9 中田一真氏

 生き物の生態を記録した写真は、見る人が見れば、いかなる写真にも価値がある。どちらが上とか、どれが優れているなどという概念は馴染まないように思う。
 ただしこれは、写真を理屈っぽく見た時の話。

 一方で写真を直感的に見れば、どこの誰でも、そんなことを書いている僕だって、誰かの写真を見た時に、「おっ」と心を打たれることもあれば、何も感じることがなくてさらりと流れていくこともある。つまり、目の前にある写真の良し悪しやそれに相当するようなことを内心評価しているというのもまた事実。
 自分自身が写真を撮る時のことを考えてみればよく分かる。被写体にカメラを向けてシャッターを押すと今ならカメラはデジタルなので、撮影した画像がモニターに浮かびあがる。
 それを見て「この写真はいい」「この写真は悪い」と何らかの評価をして、悪いと思うならば、それをよりよいものにしようとする。
 そして、いい写真を撮りたいと思う気持ちが強い人であればあるほど、厳しい良し悪しの判断基準を持っていることになる。

 つまり、一人の人間の中に矛盾する2つの価値観が同居している。
 


 中田一真さんが写真と文章を担当した「中央公園のなかまたち」
 まずページをめくって真っ先に感じたのは、これは、どこの誰が撮影しても容易には追随できないということ。
 僕が人の写真を見る時の1つの基準は、その写真が、他の誰かでも撮れるかどうかだが、他の人には容易には撮れない写真であり、かつ人の心を打つ絵は、文句なしにスゴイ写真だと思う。
 別に他の人に出来ないことをするのが写真撮影の目的ではないのだけど、この世界は、結果的にそうなるものなのだろう。
 それから、俺は俺は、というような自己顕示欲みたいなものが中田さんの写真からは一切感じられず、ああ、この人好きなんだなとシンプルに伝わってくる。
 でもこれは僕の偏見なのかな?と書きかけの文章を削除しようとしてふと思い出した。
 昔、僕を通じして中田さんの活動を知っているある編集者が
「武田さんの知り合いの中田さんと言う人・・・、ああいう人のことを、何かが好きな人っていうのでしょうね。」
 とおっしゃったのだ。だから、やっぱり何かが滲み出ているのではないかと思う。

 表現の世界なのだから決して自己顕示欲が悪いわけではないと思う。
 その人のキャラクターの問題であり、人のよっては自己顕示欲もいいテーマになり得るし、プライドをむき出しにした誰かの作品もみたいと僕は思う。

中田さんのホームページは、http://www.asahi-net.or.jp/~jx7k-nkt/



● 2014.1.8 復活

 一週間程度上京してホテルで過ごすと、帰宅後は疲れがひどくて、2〜3週間くらいはほとんど何も仕事が手に付かなくなる。
 毎度のことなので今となっては大きな不安はないが、最初の頃は、もう2度と元気が出ないような気がして、とても怖かった。
 今回は12月の中旬に帰宅をしたのち、ここ3〜4日でようやく回復の兆しが見え始め、一昨日は、半日だけだったけれどもひさしぶりにまともに仕事ができた。
 昨日〜今日は、ほぼ一日体が動いた。ドツボから抜け出すことができたようだ。
 何なのだろうな?あの疲れは。
 人ごみなのか、町のビルの景色なのか、案外大きな音なのかなという気がする。視覚的なものは、見たくなければ見なければ済むが、音は聞きたくなくても勝手に耳に入ってくる。

 中央線の満員電車なんてやってられんぞ!そうだ!タクシー使ってみようか、と先日上京した時にタクシーに乗ってみたら、実に快適だった。
 そのあと、食事会に行ったら、例年の何倍も食べ物がおいしく感じた。
 今都内では、タクシーの運転手さんが非常に礼儀正しいことに驚かされた。

 ちょっと後ろめたくもあった。
 ある方が以前語ってくださった話を思い出した。
 両生類や爬虫類に詳しかった故・千石正一さんは、テレビ番組に出演の際に局が車で送り迎えをすると言っても、決してそれを受けず、少しでも自然に優しくと必ず公共の交通機関を利用なさったのだそうだ。
 そう思えるようになれたらなぁと思った。千石さんのように振る舞うことは簡単だけど、千石さんのように心の底から思えるようになることはなかなか難しい。
 その話をしてくださった方も、昨年亡くなられた。町で似たシルエットの人を見かけると、ハッとさせられる。
 
 

● 2014.1.7 進化

 僕の父は、学生時代に生物学が嫌いだったのだそうだ。
 根拠は、大学の教養部時代に受けた分類学の授業。 高校時代に物理と化学を選択し、物理が何よりもの得意科目だった父にとって、初めて受けた生物学の授業では、生き物の名前を覚えるのがとにかく苦痛でたまらなかったようだ。
 先生は、蝶の第一人者として有名だった白水隆さんだったそうだ。

 しかし、生き物の名前を覚えるのは生物学ではないし、まして分類学でもない。それは英語の勉強で言うならば、英単語を覚えるようなもの。
 分類学の本質は、分類という手段を通して、進化とは何かを考えることであり、父が知ったのは、分類学の本質ではないある一面に過ぎなかった。
 英単語と生き物の名前が異なる点は、英単語が、語源に関する知識でも持たない限りただの文字の羅列であるのに対して、生き物はそれぞれがタレントであり、生き物好きはそこにのめり込んでいく。
 ただし生き物にタレント性を感じない人にとっては、次々と紹介される生き物たちは、授業のたびに出てくる新しい英単語と対して違わないことは容易に想像できる。生き物図鑑という存在だって、和英辞典か英和辞典のようなものなのだろうと思う。
 ともあれ、ある時、BBCが制作した番組を見た父が、
「生き物の進化って面白いねぇ。」
 としみじみ言うのを聞いたことがある。
 父は、生き物は好きではないけれども、生物学は嫌いではないのだと思う。「生き物が好き」と「生物学が好き」というのは、必ずしも同じではないのだ。

 僕が生物学の学生時代にも、先生から、
「生き物が好きと生物学が好きは違うことだ」
 と指摘されたことがあった。
 今になって思えば別に自分を否定されたわけではないく、ただ、生き物が好きと生物学が好きの違いを教わったに過ぎないのだが、当時は、自分が生き物を好きであることを否定されたような気がして、楽しくなかった記憶がある。
 そうした誤解をさせたのは、自信のなさやコンプレックスだったのだろう。ともあれ、僕は、生物学以外の進路を考えるようになった。

 さて、カタツムリ図鑑の制作に取り掛かったのが去年の初夏。
 いろいろなカタツムリを見て、手にして、撮影をしたのだが、僕が最も興味を感じるのはカタツムリの個別情報ではなく、なんとカタツムリの進化、いや生き物の進化だった。
  
  

● 2014.1.6 コンプレックス

 正月に、高校時代の同級生のみなさんと会った。今年は、僕らの学年が、母校の同窓会の幹事を担当することになっているのだ。
 僕は元々組織嫌いだし母校愛とか同窓会には全く興味がなくて、そこを巣立てばその団体での結びつきには頼らないことにしているのだが、同級生には会いたいなと思う。
 そして同級生に会うためには、人が集まるための理由が必要であり、同窓会というものが存在していずれ一度当番幹事の年が回ってくるというのは、よくできたシステムなのだろうなぁ。

 高校時代、楽しかったのは2年生までだった。
 3年になると受験が学校の中心になり、勉強が大嫌いで成績が悪かった僕には、学校は過酷な場所だった。
 僕の母校は、自由な校風の学校だった。
 以前にも一度書いたことがあるが、ある年苦手な古典の課外に申し込んだら、
「なんでそんなに嫌いな古典の課外を受けるんだ?」
 と先生から驚かれた。
「苦手だからです。」
「君は見上げたもんだ!」
 課外は、勉強をしなければならない人ではなくて、勉強をしたい人が受けるものだったようだ。

 しかし、その自由が、重く重くのしかかった。
 7科目で赤点を取った年もあった。
 指導者の強烈な強制力で、僕を引っ張り上げてもらいたかった。
 普段行動を共にしていた数人の友人以外のみんなが、全員超エリートに見えた。自分の精神力の弱さをいつも意識させられたし、人の顔をちゃんと見れないような気がしていた。
 コンプレックスというやつを、嫌というほど味わった。
 ところが、今になってみんなに会ってみると、僕と同じように感じていた同級生が、何人もいることが分かった。
 中には、当時僕がスイスイ生きていたと思い込んでいた者までもがいた。
  
  

● 2014.1.5 視点入力



 僕が写真を始めた頃は、写真撮影の際のピント合わせは手動が当たり前だった。
 その後、オートフォーカスという技術が登場し、当初は、機械にピントを合わせてもらうなんて外道的な手法だと蔑視されたものだが、今では、オートフォーカスは完全に普及をした。
 やがてキヤノンが視点入力というオートフォーカスのシステムを開発し、それが搭載されたカメラが発売された。
 ファインダーを覗いたら幾つかの小さなポイントがあり、そこを見つめるととそこにピントが合うというシステムだった。
 EOS5が第一号であり、その後、幾つかの機種で採用されたと記憶している。
 うちにはEOS7sというカメラがあるが、7sにも視点入力が採用されており、今で試してみてもなかなか面白い。
 しかしやがて、視点入力のカメラはなくなってしまった。

 キヤノンはなぜ視点入力を捨ててしまったのだろうか?
 今僕はニコンのカメラを主に使用しているが、もしもキヤノンが視点入力を採用したカメラを開発すればキヤノンのカメラをまた使ってみたい気持ちもあり、そのために以前使用していたキヤノンのレンズやその他は一式すべて取ってある。
 真っ直ぐに決まったコースを走る犬を決まった位置で撮影するのであれば、視点入力は不必要だと思うが、離れたり、近づいたり、気ままに走り回る犬を撮影してみると、こんな時に視点入力が出来たらなぁと感じる。
 先日犬を撮影したカメラはニコンのD700だが、次回はニコンのD800で3Dトラッキングというオートフォーカスのシステムを試してみたい。
  
  

● 2014.1.4 続・ドッグラン
 
 もしも、「投げられたボールを追いかけて近づいてくる犬の写真を撮れ」と仕事で求められたら、僕はおそらくよく訓練された犬を調達してきて、これぞと言える写真が撮れるまで同じコースを何度も何度も走らせるだろうと思う。
 その場合、写真がうまく撮れるパターンは、経験的には2つ考えられる。
 1つ目は、第一投目かそれに近い状況だ。
 第一投目は犬もワクワクしているし、表情や躍動感や力感において、いい写真が撮れる可能性が高い。
 2つ目は、それとは逆に、犬が少し疲れを感じるようになってからだ。
 犬がまだ疲れてない時は、動きが激し過ぎてうまく絵作りができないケースもあるだろう。そして、少し疲れて動きが鈍くなり出した頃に、犬の表情もそこそこよし、写真の絵画性もそこそこよしというバランスのいい写真が撮れる可能性が高いと予測する。
 いずれにしても、犬が走るコースの中のこの位置でシャッターを押すと決めた上での決め打ちになる。
 僕は仕事としての写真と趣味の写真を割とはっきり分けて考えるのだが、これがまさに、僕が定義する仕事としての写真の撮り方になる。
 楽しいか?と言われれば、楽しくないことはないが、楽しいとも言い難くて、少なくともドッグランに遊びに行った時に自ら進んでそんな写真を撮りたいとは思わない。
 自分が写真を撮ることよりも、誰かがその写真を使えることがうれしいと思う。つまり、仕事なのだ。

 自ら進んで犬の写真を撮るなら、人のセッティングなしに何が起きるか分からない状況で犬が遊んでいる姿にカメラを向けたい。
 これが僕にとっての趣味の写真だ。
 どちらがより質の高い写真が撮れるのか?と言えば、仕事的な写真の撮り方の方が確率は高い。だが、どちらの写真が好きか?或いはどちらの写真に感動するか?と言えば、趣味的な写真の撮り方だと言える。
 これは、僕だけの感じ方ではなくて、おそらく多くの人に共通することだろうと思う。
 例えば、人の子供の写真を撮る時にも同じことが当てはまる。
 子供の写真のプロがきちんとセッティングをして仕事として写真を撮れば質の高い写真が撮れ人を喜ばせることまではできるが、人の心を心を打つのは、セッティングがなされていない状況で、一瞬を捉えた写真だろう。
 そんなの君の偏見だと思う人は、梅佳代さんが撮影した子供やおじいちゃんの写真をたくさん見てみたらいいと思う。技術うんぬんを超えた感動がある。
 梅佳代さんという存在は、写真のプロとかアマといった言葉ではカテゴライズできないし、そんな枠には収まらない。
 そんな時に、社会は、芸術家という言葉を使うのかな。

 僕のように仕事に徹してきた人間が、実に変な話なのだけど、自然写真の世界で梅佳代さんみたいにできたらなぁと思う。
 犬の写真を撮りながら、今年の正月はそんなことを考えました。
 犬に限らず身近な動物を梅佳代さんのように撮影したらどうなるのかな?と想像してみたら、真っ先に思い浮かんだのが、岩合光昭さんのネコの写真だった。
 ああ、そうかぁ。岩合さんの写真は、だから心を打つのか。
 本来多くの人が趣味として撮っている写真が、仕事としても認められている。昔、作家の開高健さんが、「腕はプロ級だけど心はアマ」という言葉を使われたのを聞いたことがある。
 ともあれ、自分の身の程ということもありますが、写真表現の面白さはやはり捨てがたい。
  
  

● 2014.1.3 ドッグラン



 僕は、屋外では犬には100%リードをつける主義だ。
 理由は、リードなしの犬が怖いと感じる人が結構おられるからだ。
 ただ、リードを外してあげたいなと思うことも多々あり、生まれて初めてドッグランというやつに行ってみた。
 うちの犬は、自由にできる状況下で他の犬と一度も接したことがないので、どうなることかと不安もあったが、子犬ならともなく、2歳を超えた成犬が少しずつみごとに適応していく姿には感動すら覚えた。
 やっぱり群れを作る生き物の本能なんですね。
 犬の魅力はいろいろあると思うけど、その1つが、群れを作る生き物のかわいさであることは間違いないだろう。
 最初は怯えて一匹で佇んでいたのだが、少しずつ他の犬に近くようになり、追いかけられて大慌てで逃げるのだが、怯えつつも楽しそうだった。
 そして、一人ずつよその飼い主さんに近づき、挨拶を試みる。
 


 大きなラブラドールを連れた飼い主さんとその方がお持ちの青いボールが、なぜかとても気に入ったようだった。


 
 ボールを投げてもらうと楽しそうに追いかけるのだが、自分のものではないことはちゃんと分かっているようで、ついに最後まで一度も触れなかった。
 

● 2014.1.2 写真のオリジナリティー

「オリジナリティにあふれる写真」
 と言った時に、それに対して、
「すべて写真は類型であり、写真にオリジナリティーなんてない。」
 という考え方がある。
 分かるような気もするし、分からないような気もする。絵画なんかにも、おそらく同じような議論があるのではなかろうかと思う。

 写真のルーツをたどれば、全くのオリジナルなどあり得ないのだから、すべての写真は類型であると言える。
 しかし一方で、ある1枚の写真を見せられた時に、感覚的に、それに匹敵するようなものが他の誰かにも撮れるなと思わせる写真と、その人にしか撮れないと思わせる写真とがある。
 例えば、栗林慧さんが若い頃に次々と新しい写真を発表しておられた当時、それを見た多くの人が、この写真は栗林さん以外ではあり得ない!と感じておられたようだ。
 栗林さんの技術と言えども一つ一つは真似の積み重ねでありオリジナルではない。しかしそれらの積み重ねの結果何が生み出されるかにはオリジナリティーが存在する。

 厳密なことを言えば、その人にしか撮れないと思わせる写真が、本当にその人にしか撮れなかったかどうかは分からないし、一枚の写真を見た時の感じ方も人によってさまざまだが、栗林さんに限らず人にそう思わせる一流と呼ばれる人たちが存在し、大衆がそれを求めていることだけは確かだ。
 つまるところは、「写真のオリジナリティー」という言葉をどう定義するか?の問題であり、それは人のよってさまざまだし、正しいことがたくさんあるのだと思うが、一般的に人が『写真のオリジナリティー』と言うときにその人が何に注目しているのか?と言えば、少なくとも一枚の写真のルーツの問題ではないはずだ。
 ともあれ、僕は子供向けの生き物の本を作ってきたが、その中の写真で、僕以外では撮れない写真なんて正直に言えばないような気がするし、もうちょっと頑張りたいなと思うわけです。
 
 

● 2014.1.1 写真はやっぱり面白い

 僕は元々、何かを制作するための素材として写真を撮る、例えば生き物の本を作るために写真を撮るのではなく、写真撮影そのものを目的として写真を撮り始めた。
 僕にとっての最終形は、本ではなく、写真そのものだった。
 写真集を作りたいという憧れは写真を始めた当初からあったが、それは写真を形として残す手段であり、本を作りたいわけではなかった。

 ところがそんな考え方は、仕事の現場では、悲しいくらいに全く通用しなかった。
 今になっては当たり前のことだけど、写真そのものに興味を持っているのは写真ファンだけであり、写真ファンの数はたかが知れているのだから、そんな小さな市場で写真が仕事として成立するはずはなかった。
 
 そこで、素材としての写真、何かの役に立つ写真、実用の写真を撮ることを磨いてきた。
 カメラマンの中には、「写真は手段であり、自分は写真撮影そのものが好きなわけではない。」という方が結構おられ、僕もそう思えるように一生懸命に仕事に徹し、努力をしてきた。

 でもやっぱり、写真撮影そのものの喜びを忘れることはできない、とここ数年強く感じるようになってきた。仕事の現場では使い道がないような写真を撮る時間が、他のどんな時間よりも楽しいのだ。
 写真を撮ることそのものが好きな人の写真とそうではない人の写真とには違いがあり、仕事を滞りなくこなすのは後者だが、人に感動を与えるのは前者であり、僕が撮りたい写真は、前者であるとよりはっきりと感じるようになった。
 今年は、その節目にしたいと思う。
 素直に、写真を撮ることそのものにもっと打ち込んでみようと思う。写真はやっぱり面白いのだ。
  
  
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2014年1月分


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