撮影日記 2013年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2013.12.31-2 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。


● 2013.12.31-1 原稿(後)

 初めてまとまった量の撮影の仕事が取れた時は、天にも昇る気分だった。しかし、「じゃあ次も」と次の仕事をリクエストしてもらった瞬間から、僕は逃げ出したくなった。
 絵コンテが書かれたファックスが送られてくるのが怖くなった。
 あんなに仕事が来るのを望んでいたのに・・・・
 仕事ってなんだ?と考えるようになった。

 写真の場合は、趣味で撮っておられる方も存在し、仕事しての写真と趣味としての写真を比較できるのが非常におもしろい。一般的な他の仕事では、なかなかできないことだ。
 例えば、ある時依頼された写真を撮るために早朝まだ暗いうちに目を覚めして現場へ向かうと、趣味で写真を撮っておられる方々と一緒になった。
 僕には早起きがとても辛くて、もっと寝ていたかったのに、それを好き好んでやっておられる方々がいることに、
「いや〜、みなさん変わってますね!」
 と驚きを感じた。
 仕事と趣味って何が違うんだ?という疑問がこみ上げてきて、仕事としての写真とは、趣味とはと整理する日々が始まった。
 さらに驚きだったのは、僕自身が仕事ではない時に、そうして好き好んで早起きをして写真を撮りに行くことだった。
 つまり、仕事で撮影している時は趣味で撮っている自分が、趣味で撮っている時には仕事として撮っている自分が理屈では理解できても、感覚的には理解できないのだ。
 自分って何?
 置かれている状況が違うことで、同じことをしても全く別のことになる。僕自身が別の人間になっていると言ってもいいのだろうと思う。
 自分探しなどという言葉があるけど、自分なんてあるのかな?
 
 一つ言い訳をしておくと、仕事が辛いからといって仕事で手を抜いているつもりはないし、実際に人の仕事と比べても丁寧な仕事をしているという自負はあるし、趣味でカメラを手にした時に、それを好き好んでやっているからと言って仕事よりも頑張れるわけでは決してないのだが・・・
 
 

● 2013.12.30 原稿(前)

「日頃これだけ日記に文章を書いているのだから、武田さんにとって仕事で原稿を書くなんて容易ことでしょう?」
 と言われて、ふと考えた。
 僕の場合、日記を書くのに苦労はないが、仕事の原稿はたとえ一行であっても非常に苦しいのだ。仮に、全く同じ文章を書くのだとしても、それらは完全に別物だと思う。
 これは、僕自身にとっても実に意外なことだった。
 多分、僕が追い求めているのは自由であり、何をするか?ではなくて、心の状態が大切なのだと思う。

 そんな風に自分で自分が理解できないケースに直面した時に、心の中にある思いを言語化して書くことで理解しようとする場が、この撮影日記だ。
 したがって、日記を読んでもらうことで自分を分かってもらいたいとか、人を喜ばせたいとか、ヒット数を伸ばしたいとか、人気を出したいなどという気持ちはさらさらない。
 ただ相手がいなければ言語化できないから、仮想の聞き手を想定して書いているのだと思う。

 自分のことなのに、「・・・・だと思う。」という書き方は、まるで他人事であり無責任な感じがするかもしれないが、自分で自分のことはなかなか分からないもの。
 それが分かるのなら、この日記は僕にとって不必要であり、最初から存在しないはずだ。
 仕事が完全に自由であることなどあり得ないのは重々分かっているつもりだが、僕が知り得る現実的な範囲で一番自由に見えたのが、フリーの自然写真家という仕事だったのだと思う。
 僕が、「フリーの自然写真家になりたい。」と昆虫写真家の海野和男先生のもとを訪ねたのが大学4年の時。それはより厳密に言えば、「フリーの自然写真家になりたい。」というよりは「可能な限りの自由を手に入れたい。」だったのだと思う。
 
 

● 2013.12.29 収納

 道具選びで一番難しいのが、収納だと思う。
 持ち物を入れてみなければ分からないし、さらに現場で使ってみなければ分からない部分が多い。
 収納に関しては、過去に一度も納得できた瞬間がない。

 収納で、写真用は僕にとって意外に使いにくく、釣り用品の方が好みに合う。撮影用品の中から散々に迷って物を買ったものの、何となく釣具屋に立ち寄った時にそれよりも気に入るものを見つけてしまうケースが非常に多い。
 先日立ち寄った釣具屋ではウエストポーチを1つ購入し、従来から使っていたものと入れ替えた。

 撮影用品の場合、1つの製品が割と長い期間継続して作られ、カタログなどにきちんと掲載されるのに対して、釣り用品では製品の入れ替わりが早く、カタログなども手薄で、あらかじめ資料を見て検討しておいてから買うというよりは、お店でたまたま置いてあったものを買うという感じが強い。
 従って釣り用品から収納を選ぶ場合、たくさんの製品を置いてある大きな釣具屋でなければ買いにくいかもしれない。
 大きな釣具屋は、都会か、或いは人気の釣りスポットの周辺に多い。
  
  

● 2013.12.28 物の魅力

 「どこに連れて行かれるかが分からないから、電車やバスに乗るのが怖い。」
とこの年になってと言うと笑われてしまうのだが、今まで公共交通機関を利用する機会がほどんどなかったのだから仕方がない。
 小中高は、遊びに行くと言えばもっぱら自転車だった。バスに乗るというのは横着者のすることというイメージがあった。
 大学時代を過ごした山口は田んぼの中に下宿が立っていたくらいで、そんな場所に電車やバスは走っておらず頼りにならなかった。
 移動はもっぱら、原付や車だった。
 だから、未だに電車やバスには乗りなれないし、怖いのだ。
 唯一の例外は、小学校の高学年〜中学生の頃、自宅がある直方市から北九州市の八幡まで電車に乗って出かける時だった。八幡には大きな釣具屋さんがあり、釣りの道具のことを考えると、一切の不安は消えてなくなった。
 いや厳密に言うと不安は同じように心の中にあるのだろうけど、釣り具を見たいという気持ちがそれを覆い隠して見えなくした。
 
 さて、先日、カタログをもらうために釣具屋に入った。
 カタログというものを勉強したかっただけで、商品を買うつもりはかかったのでお店に悪いなと少々気が咎めたのだが、何のことはない、カタログと共に、たくさんの物を買って店を出ることになった。
 写真の世界には、写真を撮る喜び以外に「物」を持つ喜びもあるが、それに関しては釣りが一枚上手だろうと思う。
 とにかく、釣りの世界は様々に工夫された道具が面白くて、上手に散財させるシステムが実に見事で心地いい。



● 2013.12.27 会話

 僕の場合、話をしていて楽しいなと感じるのは、まず共通の話題がある人。次にその共通の話題の中で自分とは違う発想や考えを持っている人、そしていい仕事をしている人である場合が多い。
 共通の話題がなければそもそも話ができないが、あまり意見が近過ぎると話をする必要がなくなってしまう。
 その違った発想や考えの持ち主が、日ごろからいい仕事をする人だなと思わせてくださる人だと、本来聞きにくい自分とは違う意見がすんなりと耳に入ってくる感じがして、そんな時間は楽しい。
 共感は共感で心地いいと思うけど、僕は、自分はこう思うという意見が好きだ。
 もっとも、全くそれに当てはまらないのに会話が楽しく感じられる相手もいるのも事実であり、それが人間という生き物の理屈では割り切れない面白いところだと思いますが・・・。
 
 

● 2013.12.26 書類

 子供の頃、親に渡さなければならない書類をカバンの中に大量に溜め込んでしまったりと、僕は書類が苦手だった。
 今でも、中に書類が入っていることが明白な封書はなかなか開封する気になれず、受け取ってからしばらくの間放ってしまう傾向がある。なぜか分からないのだけど、大して面倒ではない書類だと分かっている場合でも、拒絶反応が出てしまうのだ。

 さて、昨日そうして放っておいた書類を開けてみると、非常に丁寧に準備された返信用の封筒と送り返す際の注意点が書かれたメッセージが同封されており、すぐに開封しなかった自分がとても恥ずかしくなった。
 ここまで丁寧にしてくださっているのに、それをしばらく開封しなかったなんて、相手への裏切り行為だという嫌悪感がこみ上げてきた。
 大急ぎで郵便局へと向かい、返信用の封筒を投函する。
 書類を送ってくださった方は、普段から極めて丁寧で念入りな仕事をなさる方で、一緒に本を作らせてもらい教えられたというよりは、心を打たれた感じがした。
 念入りな仕事っていいな、としみじみ思った。
 いや、効率とかスピードを優先すべきだという意見も正しいと思うのだが、僕の場合は、じっくり腰を据えた丁寧な仕事に自分が心を打たれるし、そんなやり方ができる場所を求めていくべきだと改めて思った。
 人にはやっぱり、向き不向きがある。
 本というとじっくりと時間をかけて作るものというイメージを持っていたのだが、実は案外慌ただしくて大雑把であることを強いられるケースが多い。
 そして今となっていはそれに慣れてしまった感があるが、僕の場合は、丁寧でなければ本当の意味では仕事が面白くならないような気がする。



● 2013.12.25 ごくつぶしと呼ばれて

「いい大人が毎日生き物の写真なんて撮って、君、ごくつぶしだね。」
 などと言われることがある。
 特に、カタツムリ図鑑に取り組むようになってからは、短期間でその確率がグンと跳ね上がった。
 カタツムリを探す時間、気象条件、場所を考えると、夜、雨の日、湿ったやや不気味な場所とくるのだから、カタツムリ屋さんがいかにも怪しい存在に映るのも分からないでもない。
「頭のいい人のすることは分からんなぁ。生き物の研究も悪くはないし勉強も大切だと思うけど、その頭を人の役に立つことに使ってよ。」
 と先日もなかなか手厳しかった。
「自分がただ好きなことをしているくせに公共事業なんかの時に、ここはオオタカの巣があるから手を加えるななどと言い出すでしょう?私は自然や生き物は好きだけど、そんな人が大嫌いなんです。」
 と。

 僕は、19日の日記に書いた釣りの師匠との約束は特別な事情として、自分自身が生き物と接しながら暮らすことを何よりも重視しており、写真を撮ることで人から評価されたいというつもりはない。
 ところが、そんな風に言われるた時に、不思議と内心抵抗したくなる。自分がただ自然の中で暮らしたいだけなら別に人に評価される必要はないし、抵抗する必要もない。
 だから抵抗したくなるということは、心の中に認められたいという思いもあるのだろうな。
 僕の心の中に、「好きにしたい」と「認められたい」が両方ありそれが二者択一になった時に、僕の場合は好きにしたいがちょっと上回っているからそちらを選んでいるだけで、選ばなかった側の思いがなくなるわけではないのだろう。無くなったような気がしているだけで。

 ともあれ、
「ごくつぶしだね。」
 とその人の感じ方を率直に言ってくれる人を、僕は、結構好きだ。
 声をかけてくるということは、僕に何らかの興味をお持ちになったということ。恐らくその人の中に、「興味」と「嫌悪感」の両方があり、嫌悪感の方が上回っているのだと思う。
 意外とそんな人には、話し込んで嫌悪感の部分が取り除かれたときに、それなりの理解を示してくださる方も多く、ガブッと噛みつかれた時に、メンドクサイなとも思うけど、おもろい奴やなとも思う。
 一番の難敵は、興味も嫌悪感も示さない無関心な人です。
 


● 2013.12.24 センサークリーニング

 どんなに注意をしても防げないゴミがカメラ内に侵入し、センサーに付着して、画像にゴミの影が写り込むこともある。
 その時はセンサーを掃除する必要がある。センサーは高価でデリケートな部品なので、そこを拭く際には緊張を強いられるし、何度やっても気味が悪い作業だと思う。

 市販の清掃用具で一番本格的なのは、ニコンのセンサークリーニングキット。ニコンの技術者の方が使っているものとだいたい同じものなのだそうだ。
 非常にシンプルで、それゆえに説明書にも書いてあるのだが、それでセンサーを拭くのはそれなりに難しく、練習を要する。
 過去にちょっと練習をしてみたことがあるのだが、僕の技術は、上手いとは言えなかった。
 そこで、綿棒のようなタイプの清掃用具で極めて先が細いものを購入し、センサールーペと呼ばれる照明付きのセンサー専用ルーぺで見ながら、ゴミが付着している部分だけをなるべく狭くピンポイントで一拭きするやり方で、センサーを掃除してきた。
 この方法はお手軽だけど、ゴミの量が多いと、逆に非常に面倒になる。

 さて、先日大分県でため池を撮影した後、画像を確認してみると、センサーに結構な量のゴミが付着していることに気付いた。
 そこで、いつものやり方でセンサーを掃除するとゴミはなくなった。
 だがその後、センサールーペで用もないのにまじまじとセンサーを見つめていると、以前清掃した際の微妙な拭きむらがあることに気付いてしまった。
 拭きむらと言っても、その状態でこれまで撮影して何も問題はなかったのだから放っておけば良かった。
 しかし、見てしまうと何とかしたくなる。
 それで、そのあたりを上から拭いてみたのだが、今度は別の場所に新たな拭きむらが出来た。
 それを何とかしようとしてさらに拭くと、さらに別の拭きむらもできた。
 そして、さらにのさらが続き、僕は負の連鎖の真っただ中に吸い込まれていった。
 センサールーペは汚れを確認するのには劇的な効果がある便利な道具だけど、見え過ぎてしまう嫌いがある。
 ついに、買い置きで十分すぎる数があったはずの清掃用具を使い切ってしまった。
 仕方がないので、以前試しに買っておいた未経験の用具で続きの掃除を試みたら、どこから出てきたのか、山のような埃がセンサーの付着してどうにもならなくなった。
 やばいなぁ。この悪循環の流れは、下手をしたらセンサーを傷つけてしまうぞ。これはサービスセンターに持ち込んで、プロの方に掃除してもらった方がいいな。

 しかしそのためには、博多の町までいかなければならない。クリスマスの日の博多の町は人でごった返しているのだろうなぁと喧騒を想像しただけで、人ごみ嫌いの僕としては気分が悪くなってきて寝込みたくなった。
 何とかして、自分で穏便に解決できないものだろうか。
 町に行きたくないことに加え、わざと汚そうと思っても汚せないくらいにセンサーがひどく汚れてしまったので、サービスセンターの人に見せるのが恥ずかしいのもあった。
 そうだ、ニコンのクリーニングキットを使ってみようか。熟練を要する道具で難しいとは言え、今よりはましになるだろう。
 
 ニコンのセンサークリーニングキットには、動画の説明書がついていたのを思い出した。
 それを引っ張り出して見てみると、簡単ではないので、まずはレンズなどを拭いて練習した方がいいと勧められていた。
 でもね、棒に紙巻いて、液で濡らして円を描くように拭くだけでしょう?練習の必要もなかろうと、ぶっつけ本番でやってみると、汚れは取れたが、今度は見たこともないようなひどい拭きむらができた。
 破れかぶれやん。やっぱり博多行かな・・・。行きたくないなぁ。
 深い深い井戸の底から空を眺めているかのような気分だった。
 そうだ!素直に説明書通りにレンズで拭き方を練習してみるか・・・。
 試しにまずレンズを拭いてみると、やっぱり酷い拭きむらができた。
 なるほどなぁ。これだけ拭きむらができるということは、やっぱり拭き方に問題があるんだ!
 何が悪いんやろう?と色々と試してみたところ、速く拭きすぎている可能性が高いことが分かってきた。
 そこでゆっくりと手を動かしてみると、今度は割ときれいに拭けるではないか。
 が、焦る気持ちから、気付くと掃除の途中でどうしても手の動きが速くなり、そうなると途中から拭きむらが生じる。
 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり。それが手に染みつくまで何度も何度も練習を重ねると、ようやく、レンズなら完ぺきに拭けるようになった。
 次に、使っていないカメラのセンサーを拭いてみたら、まあまあ上手く行った。
 最後は本番。ついに拭けました。きれいになりました。掃除を始めて4時間。
 疲れたなぁ。
 デジタルカメラのセンサーのクリーニングに関して、これぞ!という決定的なやり方を確立しておられない方には、ニコンのクリーニングキットをお勧めします。使いこなせば、一番きれいにふけるのと、一拭きのコストが非常に安いのが特徴です。
 練習がメンドクサイなではなくて、練習して上手くなっていく自分が好きというような心持ちで、拭き方の練習をしたらいいと思う。




● 2013.12.23 定点撮影



 意外に知られていないのだけど、福岡県や大分県の北部くらいまでは裏日本的な気候であり、この時期青空が出にくい。巡り合わせが悪い時には、青空の元でたった一枚の写真を撮るのに苦心させられることがある。
 今月の場合は、ため池の定点撮影だ。12月中に一枚撮影できればいいのだからまあ何とかなるだろうと思っていたのに、天気予報を見ると連日曇りの予報のまま下旬に突入だ。
 たまに晴れるとその日に約束が入っていたりして、下手をしたら、12月分はついに撮影できないのではないか?とやきもきさせられた。
 
 さて、朝目を覚ますと見事な青空。
 現地の天気予報を確認してみると、10時までは晴れでその後雨。
 この場所で定点撮影をするのに理想の時間は11時だし、往復4時間なので少々迷うが、行ってみるしかない。
 果たして、現地の到着すると見事な快晴の青空が広がっていた。
 ただ、この場所は急激に雲が出ることがあるので、油断してはならない。
 撮影する写真は3枚。それらを雲が出やすい場所から順に撮影していく。
 まずは池にカメラを向けて、アングルを整える。
 過去に撮影した時と完全に同じアングルにしたいのでそこそこ時間がかかるし、5分、10分と時が流れていく。
 ようやくアングルが整ったかと思えば、画面左側の山の端に雲が現れた。
 大慌てで2枚目の写真を撮りに向かう。
 2枚目は、一番最初に撮影した際に目印を設定せずに開けたところに何となく三脚を立ててしまったので、以前とまったく同じアングルにするのに毎回大変に時間がかかる。
 このアングルじゃない、このアングルでもないと苦戦していると、あっとう間に重たい鉛色の雲が広がり始めた。
 速い!もう間に合わない。
 完ぺきなアングルにカメラを設置することをあきらめ大雑把なところで妥協して、次の3か所目の撮影に挑むのだが、雲がお日様の前を次々と通過してなかなか光がこない。
 やばいぞ、やばいぞ、と空とのにらめっこ。
 3か所目のアングルはダメかなと覚悟をしたところで、ようやく一瞬雲が切れた。
 カシャカシャカシャと3回シャッターを切った。

 以前、映像作家の腰高直樹さんが学生時代に卒業制作か何かで撮影した定点撮影の作品をどこかで見たことがある(探したのだけど見つからず)。
 今僕が撮影しているような、自然を紹介するための素材としての写真ではなく、それを撮影することそのものが目的の、まさに作品という印象を受けた。
 どうやってそれを撮影したかも紹介されていた。カメラはどうも固定したまま置きっぱなしのようだった。アクセスも簡単な場所ではなく、冬場はスノーモービルを使ったと書かれていたように記憶している。
 天候も、青空あり、かすんだ空あり、重たい冬の空ありで、それらの表情に美術性、芸術性、作家性が兼ね備えられており、写真が好きなわけでも自然が好きなわけでもない一般の人が見ても、おやっと興味を感じるような究極を目指した作品だと感じた。
 それを見た時に心を揺さぶられる僕は、いったい何をしたいんだ?と考えさせれた。
  
  

● 2013.12.22 色



 フィルムの場合、仮にカメラ内部に侵入したゴミが付着しても、一枚撮影したら巻き上げて新しい面が出てくるので、写真にゴミが写ってしまうようなトラブルはあまりなかった。
 その点デジタルカメラは画像を記録するセンサーが動かないので、一旦センサーにゴミが付着すると、それが自然と取れるまでの間、画像に延々とゴミの影が写り込んでしまう。
 それを防ぐには、レンズを交換する際に、ブロワーを使用して、カメラとレンズのホコリをまめに吹き飛ばすのがいい。目視で確認できるホコリを必ず吹き飛ばすようにすれば、ゴミの写り込みのトラブルはかなり防げる。
 そのブロワーには、黒っぽいものが多くて、見失い易い。気付くとどこかに置き忘れていたり、別のカメラバッグに入っていたり、バッグの中に入っているのにパッと目に飛び込んでこなかったり・・・・
 そこで、色つきの物を探して買ってみたら、実に安心できていい。
 あとは耐久性が気になるところだが、こればかりはそれなりの期間使ってみるしかない。
 色を付けることでゴミが劣化しやすくなる可能性もある。劣化して空気を吹き出した時に粉が出てくるようなことがなければいいのだが・・・。

 ブロワーとあと1つ、見失い易いのがレンズキャップだ。
 意外にも、失くしたことは過去にたった一度だけしかないが、
「あれ?どこに行った」
と探し回るのは日常茶飯事。
 レンズキャップもやはり黒系の色が多いのだが、色を付けたらいいのになと思う。
 純正でなければ色つきの物も売られているのだが、現在販売されているものはちょっと重たく野暮ったくて、何となく使いにくい。
 色を付けることでそうなるのかな?
 
 

● 2013.12.21 むしむしたんけんたい

 個人情報保護法案 とか 原発問題 とか 特定秘密保護法 などに関する議論があって、そんな議論のふとした拍子に人の本音に触れることがある。
 ある時、思いがけない人が、
「自分は実は原発はあった方がいいと思っている。ただ、言えないけどね。」
 とプライベートな場ではあったが表明され、大変に驚かされたことがあった。
 自分が思っている以上に人の意見は多様であり、自分が絶対に正しいと思うことが必ずしもそうではなく、正しいことがたくさんあるのだろうなと思い知らされる感じがした。
 ふと思い出したのは、
「絶対という言葉は、『絶対と言えるものは絶対にない。』という時以外は使ってはならない」
 という学生時代の恩師の言葉だった。
 実に科学者らしい。
 厳密に言うと恩師から直接聞いたわけではなく、先輩が「絶対」という言葉を使った時に、恩師にそう怒られたのだそうだ。







 さて、以前、僕の写真に文章をつけてくださった西沢杏子さんのお話
むしむしたんけんたい@〜B / 大月書店

 西沢さんは、いろいろな賞を取られている大変に実績のある作家さん。佐賀県の出身で、同じ九州人だという理由で、何となく僕をひいき目で大甘に見てくださった感じがする。
 今は東京にお住まいで、東京のカタツムリを送ってくださったこともある。
 西沢さんのホームページはこちら
 今月の出会いを見ると、西沢さんがご覧になった生き物とその感想が記されているが、それは僕とは違った一人の作家の目線であり、人のいろいろな感じ方に気付かされる。

     
 
 

● 2013.12.20 11月分の今月の水辺を更新しました。
 
 

● 2013.12.19 師匠との約束

 自然写真の仕事をしたいと僕が言い出した時に、大反対をしたのが、釣りの師匠だった。
「君が不安定な仕事をすることでご両親に与える不安を考えなさい。」
「・・・・・・・・」
「それから、わしが君に釣りを教えたことがきっかけで君が自然を好きになったのは結構だけど、それで君が写真を目指してご両親に不安を与えるなら、わしの立場もない。」
「・・・・・・・・」
「そもそも、そんなことでいったい日本で何人飯が食えるか?」
「・・・・・・・・」
「まだあるぞ、・・・・・。」
 と師匠はあらゆる角度から、僕の決断を戒めようとなさった。
 それでも僕の思いは変わらなかった。すると師匠は最後に、
「よし、なら、もしも写真で飯が食えるようになったなら、その時は認めてやろう。飯が食えたなら、それは社会が君を必要としているということ。ただしそれまでは、それに関してわしの言うことに一言でも意見をするなよ。」
 とおっしゃった。
「わしはお金を稼げることが正しいとは思わんが、稼ぎはその人がどれだけ人に必要とされているか、最も客観的な指標の1つだから。」
 と。
 師匠は、僕に多大な影響を与えた人物の一人であり、考え方の相違という言葉で片付ける気にはなれなかった。とにかく、師匠に納得してもらうためにはどうなったらいいのかを考えなかった日は一日たりともないと思う。
 
 師匠がただの堅物で生活のことばかり考えておられるのなら話は簡単だが、そうではなかった。
 そもそも、釣りという道楽の師匠なのである。文学や音楽も好まれたし、写真も含めてそれらを全否定しておられるわけではないのは明らかだった。
 ただ、釣りにしても文学にしても音楽にしても、ある程度の豊かさがあって初めて楽しめることであり、あくまでも豊かな経済のお蔭だと考えておられた。だから、芸術家みたいな人が、
「経済ばかり優先して・・・。」
 と社会を批判したような時には、
「そのおかげで自分が好きなことをできとるんやろうが。」
 と腹を立てられた。
 
 そんな師匠に納得してもらうのだから、僕にとって写真で飯が食えるというのは、いくら稼いだからもういいでしょう、というような型にはまったものではなかった。
 活躍の質もあるだろうと思う。
 ある短期間のみ写真を撮って暮らすことができればいいわけでもない。すると、人が一人が暮らしていける金額だって年齢とともに変化するし、20代の写真家と40代の写真家とでは、食えていると言える額が違ってくる。
 また勤めと自由業とでは、そもそも生活に要するコストも違う。先日ある方は、非常に厳しく、勤めの3倍が妥当とおっしゃった。
 ここ数年、時々師匠と釣りに出かけるが、今でも完全に納得してもらっている感じはない。したがって僕は、仕事としての写真って何なのかな?趣味との何が違うのかな、などなど・・・ふと気付くと、仕事っていったい何なのかな?と考えさせられていることが多い。
 ああそうか、結局、仕事って何?と投げかけられたのか。
 
 

● 2013.12.18 リスク

 僕の場合、フリーの自然写真家になった動機はとても簡単で、とにかく自然の中で過ごす時間を確保したいというものだから、仕事で評価されることにはあまり興味がない。
 けどれも、この世界は、完全に評価と無縁ではいられない。評価されなければ仕事が来なくなってしまうから、自然の中で過ごすこともできなくなる。
 そして評価されようと思うのなら、結局結果的にどれだけリスクを取っているかであり、それがこの世界の本質なんだな、と最近しみじみ感じるようになった。

 例えばフリーの写真家はそれで飯が食えるようになれば、アマチュア写真家や兼業写真家よりもいい待遇を受ける傾向にある。フリーになるというリスクを取った人に対する敬意が表される。
 では、そのリスクを取らないアマチュアは評価されないのか?と言えば、そんなことはない。
 アマチュアにはアマチュアにしか取れないリスクがある。
 一枚の写真を撮るのに正味数ヶ月かけるとか、正味数年かけるというのは、よそで生活費を稼いでいるアマチュアにしか取れないリスクであり、そのリスクを取り、狙った作品をゲットしたアマチュアはプロと同等の評価を受けるし、写真コンテストなどの上位入賞作などを見ていると、そのタイプのものスゴイ作品に唸らされることがある。
 結局、何らかの形で、尋常ではないリスクを取ることに尽きる。
 それが好きで好きでたまらないから、普通の人が考えたら尋常ではないレベルのことが情熱の名の元に出来てしまい、結果的にリスクを取っているように見え、それで評価されるというのが、『好きなことをする』の本質なのだろうと思う。
 当たり前と言えば当たり前で、何を今さらですが・・・

 リスクがあるからチャンスである。リスクがある時に怖いなと思うようでは話にならない。
 逆に、見通しがつくことをやっている時に、やばいな、現状維持しかできてないと一種の不安を感じなければならないのだろうな。
 昔、長嶋茂雄さんが登場して、
「プレッシャーはありますよ。緊張しちゃダメですね。プレッシャーを楽しむことが出来れば、その人は強いですよ。」
 と語るテレビのコマーシャルがあったが、きっとそんなことを言っておられるのでしょうね。
 最近、それが少しだけ肌感覚として分かるようになってきた。
 
 

● 2013.12.17 虫の呼び名事典

 子供の頃、プロのヤマメ釣り師になれたらなぁ、と思っていたことがある。
 そしたら釣りの師匠が、
「今は養殖ができるからヤマメ釣りのプロはなんかおらんくなったけど、昔はおったよ。でも、わしらの釣りとは全然違うよ。」
 と教えてくださった。
「わしらは大物を釣りたいやろうが。でもプロは、一番食べごろでおいしい20センチくらいの奴を20匹なら20匹ときっちりサイズを揃えて釣って、山の旅館のお客さんなんかに出すわけよ。」
 
 写真のプロとアマにも似たような面があるように思う。
 プロは、こういう写真を撮って欲しい、という相手のニーズに応えられなければならない。求められるのは、必ずしもスゴイ写真ではなくて、使える写真なのだ。
 これは、今後時代の変化に伴って、自然関係の出版に関しては少々変わってくるのではないか?と僕は予測しているのだが、それはまたの機会に書こうと思う。


虫の呼び名事典 森上信夫 世界文化社
 
 昆虫写真家・森上信夫さんの著作は、「オオカマキリ」を以前に紹介したことがある。
 その時にも書いたが、森上さんは写真以外に本職があり、いわゆるサンデーカメラマンだ。
 つまり、それで生活をしているわけではないのだが、その撮影スタイルは、まるで写真で生活をしている人のようで、職業カメラマンに近い。
 釣りで言うなら、何の制限もなく好きに釣りをできる立場なのに、大物というロマンを追求するのでなく、ニーズに合わせて数を揃えていくようなスタイルなのだ。
『 虫の呼び名事典 / 世界文化社 』 も非常に森上さんらしい。
 この本の中に使用されている写真で、趣味で写真を撮っている人に、
「わぁ〜、こんな写真を撮りたいな。」
 と言わせるような写真は一枚もなく、全カットが本を作るために必要な素材に徹されている。
 多くの職業写真家が仕事として作るタイプの本を、まるで趣味のように作っておられるのだ。

 森上さんが追及しておられるのは、虫でもなく、写真でもなく、プロの写真家に対するあこがれなのかなと感じることがある。
 以前、深夜の番組でクイーンのコピーバンドの演奏を見て、ある部分、本物のクイーンのライブ映像を見た時よりもおもしろく感じた経験がある。
 クイーンに対する強烈な憧れがそう感じさせるのだが、森上さんの著作を眺めていると、音楽のコピーバンドの面白さを思い出す。
 僕は子供の頃に岸田功さんの虫の本をよく見たものだが、岸田さんの本職は学校の先生であり職業写真家ではない点は森上さんと類似するにも関わらず、その質は全く異なり、岸田さんの著作からプロに対する憧れのようなものを感じたことはない。


  
  

● 2013.12.16 本作りの本質

 人の仕事に、ガツンと衝撃を受けることがある。
 こいつ天才だなぁとか、この人粘り強いねとか・・・。
 ああ、こんな夢の実現のしかたがあるのか、と思い知らされたのが飯田市美術博物館の学芸員・四方圭一郎さんの仕事だ。学芸員って、その人にアイディアとやる気があれば、こんなことまでできちゃうのか!という驚きを感じたのだった。



 四方圭一郎さん制作の写真絵本 「かたつむりの いろいろ 色ウンチ」。
資料価値のある出版物を制作するのなら十分にイメージができるのだが、これは絵本であり、しかも絵本の本質を見事に捉えているように思う。
 本職の編集者で、これを見て密かに冷や汗が流す人は多いのではなかろうか。いや、焦らない人がいたとするならば、その人は編集者として鈍いと思う。

 本職の仕事は、細かいところはちゃんとしているけど、意外に、本質を捉えていないものが多いように思う。テクニックで作り上げていると言い換えてもいい。
 それは僕自身にも当てはまることで、四方さんの発信には随分考えさせられるものがあった。
 どうしても表したいものがある、どうしても伝えたい面白いことがある、というのが、制作の側の人間に求められる本質ではないかと思う。
 何かいいネタないかな?とネタを探さなければならないような暮らしをしているようでは、多分話にならないのだと思う。
 過去の出版物やネット上の情報にネタを求めているようではダメなんだと思う。
 ネタが溢れだしてくるような暮らしをしなければならないのだと思う。カメラマンなら撮りたいものがあり過ぎて、体が幾つあっても足りたいと言いたくなるような。
  
 

 こちらも、飯田市美術博物館編の本。
 写真の撮り方(いや選び方かな?)が、写真家の目線とは違うから面白い。
  
 

● 2013.12.15 おじゃべり
 この人天才だな、と人の作品に唸らされることがある。ある若手自然写真家のブログを初めて見た時にも、そんな感想を持った。
 何でもない身近なシーンを撮影した3枚の写真が、見事にお話になっていた。ブログの1ページが、そのままほとんど手を入れずに本の1ページとして通用するレベルだった。
 きれいな写真を撮る若手はたくさんいるが、お話作りがうまい人=編集能力が高い人には滅多にお目にかかることはできない。
 そしてその編集能力の有無が、プロとアマとの境目でもある。
 何よりも驚かされたのは、その方には、その段階で一冊の著作もなかったことだ。それは僕にとって信じられないことだった。
 写真は自分で勉強できるが、編集は、本作りの機会が与えられなければ本来勉強する機会すらないはずで、みな仕事をしながら磨いていくものだなのだ。
 ところがそれを最初から身に付けているのだから、天才としか言いようがなかった。
 一方で僕にはそんな才能が備わっていないので、まずは人が描いた絵コンテ通りに写真を撮り、人の編集をなぞることから始めた。
 書道の練習をする際に、まずはお手本に忠実に描こうとするのと同じことだ。
 さらにその次の段階として、今度は自分で絵コンテを描こうとすることで、ようやく初めて編集という要素にぶち当たった。

 さて、誰だったか忘れてしまったのだけど、本作りをするのなら、カメラマンも編集者も、おしゃべりができなければならないという意見を聞いたことがある。
 その時にはそんなものかな、と思ったのだけど、今となってはなるほどな、と思う。
 例えば、先日上京した際に、編集のSさんとプロデューサーのAさんの3人で打ち合わせをしたのだが、僕が見た自然についてAさんと話をするうちに、僕の中にあるものが引き出され、次々と本のページが見えてきたのだ。
 時に天才が圧倒的なセンスを発揮するこの世界で、凡人がどうやって生きていくのか?
 会話は、その答えの1つになるだろう。
 
 

● 2013.12.14 軽いカメラ

 照明器具がかさばる夜の撮影用に検討していた軽めのカメラは、上京の際にあらゆるものを手に取って触った結果、ニコンのD5300に決まった。
 僕は今ニコンを主に使用しているので、すでに持っているストロボやレンズも使えるニコンが一番安上がりだし、別のメーカーのシステムを持つよりは車に積み込む荷物の量も少なくできる。
 やっぱりなぁという感じがして、いっそうのことその場で買おうかとも思ったのだけど、他に大きなものを買ってそれ以上スーツケースに入りそうもなかったので、帰宅後に通販で注文することにした。
 ところが上京最後の日、もう一度だけ現物を触ってみようとした時に1つ重大な不都合があることに気付いた。ニコンD5300では、僕が今使用しているSB-R200というストロボをコントロールできないことが分かったのだ。
 そこを省略するかなぁ。
 別売りの道具を使えばSB-R200を光らせることは可能だが、重くなってしまう。一般に軽いカメラ=初心者用であり機能が省略される傾向にあるが、軽いということが時に極めて重要な性能の1つであることをもうちょっとカメラメーカーには理解して欲しい。

 さて、代わりをどうしようか?悩ましいなぁ。
 まあ、しばらく放っておきましょう。
 そうして放っておく気になるのも今使用しているニコンのD800がオールラウンドでしかも非常に完成度が高く、重たいことを除いては特に不満がないからだと言える。
 D800以前は、カメラの操作性はニコン、画質はキヤノンがいいと感じていたが、D800になってからは画質もニコンの方がいいように感じる。
 画質の良し悪しといっても幾つかの指標があり、同格の製品を比較した際にあるメーカーの製品が他社の製品をすべての面で上回っているというようなことはあり得ないので、僕がよく撮影するタイプの画像の場合と付け加えておこうと思う。
 
 

● 2013.12.13 帰宅

 僕はチョコチョコチョコチョコ体調が悪くなる半面、ひどい不具合は滅多にないのだが、今日は朝からどうにもならない。
 上京して東京の町で数日過ごして帰宅をすると、疲労で帰宅後はだいたい一週間くらい引きこもり状態になり、本当に何もできなくなる。
 頭痛、腹痛、吐き気と気持ち悪い症状のオンパレードで、心も悪くしてしまいそうな気がするのだが、都会の人の暮らしや立場も分かった方がいいから、年に1度か2度くらいならそんな経験も悪くないのかな。
 ある写真家が、都会から山へ通っていた時には、山のことはよく分かったが都会のことが見えていなかった。山に移り住んでからは、都会のことが良く見えるようになり、山と町の両方が見えて初めて山の写真が撮れるようになったと言ったことを書いておられたのを思い出した。
 ともあれ、数日引きこもりましょう。
 メールの返信溜めてしまっていますが、お許しを。
 
 

● 2013.12.12 さらけ出す

 普段使われている打ち合わせのためのスペースが使用中で、大きな会議室に通される。
「ちょっと待っててくださいね。」
 と一人にされたので本棚をのぞいてみると、その社の古い出版物がずらりと並んでいた。
 その手の本の価値が分かる人なら、クラッと倒れそうになるようなものばかりだ。
「すごいでしょう。私もこの社に入社して初めてこの本棚を見た時には感激しました。」
 と本作りのための打ち合わせの前に、本棚の中の書物を少し見せてもらう。
 『結核の生態』や『回虫の生態』には時代背景を感じたが、回虫の生態は、案外今リニューアルしたら話題になるような気もする。研究者が著者にならなければ作れない本だろうけど、カメラマンを務めてみたい気がする。
 生き物の本以外では、人の権利に触れた左寄りの出版物が多かったが、そうかと思うと右の親玉のような人の著書もあった。
 恐竜の本の表紙に描かれていた絵には見覚えがあった。
 しかし僕はその本自体は持たなかったので、おそらく当時は、何かの本を作る時に描かれた絵が、まるで写真のように何度も流用されて使われたのではないかと思う。
 
 一時間ほど打ち合わせをしたあとは、空港に向かう。
 最初にスゴイ本を見せられて興奮してハイになってしまい、打ち合わせの最中に僕ばかりたくさんしゃべってしまったことを後悔する。
  
  

● 2013.12.11 さらけ出す

 東京の町にはゆっくり休めるような場所はほとんどないし、人がくつろげないようになっている。逆にくつろげて、一人の人間に長居されると僕としても困るのだが、とにかく密度が高くて狭く、そんな用途に使える土地はねぇ、という感じがする。
 喫茶店に入ってもなんとなく慌しい。
 一人になって休める場所が欲しくなる。
 インターネットカフェを利用してみようか?と時々考えるのだが、一度も入ったことがない。システムが分からず、今更、なんとなく入りにくい。 
 そんな時、女性のほうがたくましい感じがする。
 普段生き物の記事を作る際には僕にいろいろと指摘されている女性編集者に、今度はここぞとばかりに
「何をはずかしかっているんですか?そんなの入ればいいじゃないですか!何にも難しくありませんよ」
 と怒られてしまう。
 今更人に聞きにくくなったことでも、恥ずかしいなどと感じることなくたずねられるのが、僕の場合、自然や写真の仲間だ。自然や写真が好きな人の前では、見栄を張らずに自分をさらけ出すことができる。
 さて、図鑑制作のための打ち合わせ。
 打ち合わせの際に見栄をはり、その大上段に振りかぶった自分に後から現実の自分を追いつかせて帳尻を合わせるのも悪くないが、相手に自分の弱みもさらけ出せることも、案外大切だったりするように思う。
 
 

● 2013.12.10 いい写真

 午前中はカメラ屋さんで撮影機材を見る。
 僕は普段機材を通販で買うことが多く、それなりに上手に買っているつもりではあるが、上京した際に大量に品揃えされた現物を見た時に、三脚とカメラバッグ類に関しては、自分が通販で買って使っている商品に後悔させられるケースが多い。
 したがって、何かを買うお金のあるなしに関係なく、三脚とバッグは何度も何度も繰り返し見る。
 ついでに昼食を食べて、あとはホテルに帰って部屋で休む。せっかく上京したのだから時間がもったいないような気もするけど、東京の町に出て僕が耐えられる時間はせいぜい2〜3時間といったところだろう。
 夕方はある方とお会いした。
 駅から徒歩で10分のところへ行くのに、なんと道に迷って1時間。いつも通る道とは違う道を試してみたのが原因。
 死にました!



● 2013.12.9 勉強すること

 自然写真に自然科学の知識は必要ないという意見がある。世界の自然写真の第一人者である岩合光昭さんは、むしろ科学は邪魔になると著作の中に書いておられる。
 では、岩合さんの写真が非科学的か?というと、とんでもない。岩合さんが否定しておられるのは先入観であり、自分が見たわけでもない知識を信じ込むのではなく、自分の目で自然を見よと主張しておられるのに過ぎない。
 科学の知識が先入観に結びつくか、逆にもっと知りたいという好奇心に結びつくかには人のタイプがあり、一概には言うことはできない。

 僕は自然科学の出身だが、科学を勉強して良かったと思うこともある。それはしばしば、科学の知識そのものよりも、その過程にある。
 例えば、科学の世界である現象を調べる時に何らかの道具が必要なら、その道具を作るところから研究が始まる。
 電気の知識が必要ならそれを勉強する。工作が必要ならその技術を身につける。
 解析に統計学が必要なら統計を勉強する。統計の本が読めなければ、高校の数学の教科書を開いてみる。
 報告に表現力が必要なら、語学を学ぶ。
 これは自分の専門だとか専門外だとか、それが好きだとか嫌いだとか、得意だとか苦手だなどという壁を設けない。目的のために必要なことがあるなら、まずその分野の面白さが分かるところまでは徹底的に勉強するし、その間に関してはそのジャンルの専門家になろうとする。
 僕は、そうした科学者の姿勢に、大いに影響を受けた。

 さて、某出版社へ出向き、今年一緒に仕事をしたみなさんとの食事会。
 幼児の本を作っている編集者の中には、生き物をフィールドで探したことがないとか、そもそも生き物があまり好きではないという方も少なくない。
 確かに、幼児の本の場合、幼児を喜ばせることが目的であり、自然について伝えることが目的ではない。
 だから、仮に生き物を取り上げても、その生き物そのものの面白さで喜ばせる必要はない。
 ページが飛び出すようなしかけで喜ばせてもいいし、デザインで喜ばせてもいいし結果オーライの世界なのだから、本の編集に自然の知識が絶対に必要というわけではない。
 ただそれでも、やっぱり生き物を知ろうとして欲しいなと思う。
 編集者は好奇心の塊でなければならないように思う。物事を愛することが得意な人間といってもいいだろう。
 自分が作るページに載せられている写真の被写体に自分が興味を持てないようでは話にならないような気がするからだ。
 その時に、何かを愛する手段として、フィールドを歩いて見るという方法もあるし、本を読むという方法もある。 

 みなさんとお会いしたり話をする機会があったときにそんな思いを伝えておいたら、今日お会いした方の中のお一人は、9月の僕のカタツムリ取材の際に合流してくださり、一緒にフィールドを歩いた。
「楽しかったですよ。」
 と言って下さったけど、おそらく旅が楽しかったのであり、自然そのものに興味が湧き帰宅後に身近な自然の観察が楽しくなったわけではないと思うから、できれば、自分で生き物をある程度自在に見つけることができて、生き物の観察が趣味に近いものになるまでは見続けたり、知ろうとすることを続けて欲しいなと思う。
 人には好みがあるが、ある一線を超えるところまで知れば、大抵のことはある程度以上面白くなるからだ。
 
 

● 2013.12.8 撮影機材

 新宿に出かけて撮影機材を見て回る。通販が便利な時代だが、現物を見なければ自分に合う合わないが分からないものも少なくない。
 夜の撮影用にいずれ軽いカメラを一台買う予定なので、それっぽいものには片っ端から触ってみる。夜はカメラよりも照明器具が重要であり、カメラは可能な限り軽くして、照明はなるべく妥協したくない。
 ミラーレスと呼ばれる液晶ファインダーのカメラはどれも軽いけど、現段階では、その液晶の見え方には満足できなかった。特に、ソニーのα7Rには期待をしていたのだが、このカメラは最新のものを追いかけて夢を語りたい人が持つカメラであり、道具としてはまだまだ未完成であるような印象を受けた。
 あるいは、ソニーというメーカーはそんなメーカーなのかもしれない。
 となると、従来から使用している一眼レフタイプのカメラの中の軽いものを選ぶことになる。

 人ごみに揉まれて途中でめまいがひどくなってきたので、慌ててホテルに引き返した。
 ホテルは秋葉原に取った。秋葉原は中央線にも山手線にも乗れるので便利だし、近年は撮影機材の品揃えが多いお店ができたので都合がいい。
 部屋でしばらく一人になった後、夕食に出かけたついでに、今度は秋葉原で撮影機材のチェックをの続き。新宿よりは多少品揃えでは劣るのだが、通路が広くて物が見やすいので疲れにくし、むしろ品揃えが豊富であるような印象さえ感じさせる。
 雨の中での撮影の際に使用する道具で、あっと驚くものがあったのがあったが、ちょっと高かったのと1つだけ僕の使い方では都合が悪い箇所があったので、同じようなものが自作できないかどうかその場で案を巡らせつつ迷ったが、結局そのアイディアに一票というつもりで購入した。
 まずはそれを使いながら、より自分に合うものを自作していくことになるだろう。
 来シーズンはカタツムリの撮影と平行して雨をテーマにした撮影を進める予定だ。



● 2013.12.7 日本自然科学写真協会

 恒例の、日本自然写真家協会の忘年会に参加した。
 同業者どうし、話はまず尽きないし、阿吽で通じる部分が多いから、年が近いみなさんなどは、時々小学校くらいからの知り合いであるかのような錯覚に陥ることがある。
 本来、縁もゆかりもない人たちなのだから、なんと素敵な偶然!と運命の不思議を思う。
 仮に必然の部分があるとするならば、日本自然写真家協会というシステムが確立されていたことだろう。この会がなければ、おそらく出会うことがなかった方々も少なくない。
 会の本来の目的は、一般の人に自然科学写真について知ってもらう普及だろうと思う。
 が、僕の場合は、だいたい世話焼きではなし、怒られてしまいそうだけど、正直に言えばその部分にはあまり興味がない。したがって、自然科学写真の発展よりも人と出会えることが僕にとっては重要であり、普及に関するお手伝いは人との出会いの場を与えてもらうことに伴う税金みたいなものだと思っている。
 そうして考えてみると、僕は自分中心だなぁ。
 税金という人聞きが悪いから、出会いの場を与えてもらったことに対する感謝の気持ちを、普及のお手伝いという形で表現するという美談にしておいてください。


  (写真展のお知らせ)
武田晋一 西本晋也 野村芳宏 大田利教 の4人展 (計35点)
 場所   北九州市小倉北区山田町 山田緑地公園
開催期間 2013年12月4日(水)〜12月19日(木)  休園日 毎週火曜日
その他   駐車料 300円 (入館料 無料)



● 2013.12.6 上京

 明日からしばらく上京です。
 
 

● 2013.12.5 趣味





 アワジギセル、アワジウツミギセル、アワジオトメマイマイ、アワジマイマイ

 カタツムリ図鑑のページ数は約100。その中で取り上げる種類が約100種類で、大まかに、1種類を1ページで紹介することになる。
 100種のうち今年一年でとにかく撮影できたのが約70種類で、残りの30は来年だ。
 来年は沖縄などの離島と四国がある。
 沖縄は本土では見かけないようなビジュアル的に面白い種類が多いし、四国には、日本最大のカタツムリであるアワマイマイが生息する。
 アワマイマイをただ採集するのは難しくないようだが、どうせなら大型個体を産する産地に行って、特大のものを見つけたい。
 図鑑で取り上げる予定にはなっていなかったけれども撮影したのが約40種。今日の画像の4種類も、今回のカタツムリ図鑑の目録には入っていない。
 カタツムリ図鑑は、仕事というよりは、趣味という感じになってきた。

 趣味と言えば僕には渓流釣りがあるのだけど、釣りをすると渓流の写真を撮りたくなるし、写真を撮ると釣りをしたくなるので、どうにももどかしい。
 釣りをしながら写真が撮れれば申し分ないが、撮影機材は重たすぎるのが難。
 その点ソニーのα7Rは超高画質で小型軽量なので、比較的軽量の三脚でも支えられるはずだし、釣りと撮影とが両立できるのではないかという気がして気になってならない。
 撮影機材はなるべく減らす方向を考えているけど、釣りと撮影が両立できるとするならば、その場合は何でもありなのだ。
 α7Rは他にもいろいろな用途に使えるだろうと思う。ただ、数十万円コースになるのが悩ましい。釣りと撮影を両立させるためには、どうも非常にお金がかかるようだ。
 
  

● 2013.12.4 お腹の急降下

 撮影中に、急にカタツムリの動きが悪くなる。
「どうした?」
「は、腹具合が・・・」


 11月22日に淡路島で採集されたアワジマイマイが送られたきた。
 採集されてから約10日がたっているから、10日前くらいに食べた物が出てきたのだと思う。今頃糞をするということは、その間休眠状態で保管されていたことが分かる。
 或いは飼育下で、休眠をさせずに土をしいて飼われていて、土を食べた可能性もある。
 カタツムリは、しばらく殻に籠った後に目を覚ますと、直後に糞をすることが多い。糞は、体内に置いておくと有害であり、早く出したいのだと思う。



 カタツムリも犬も、糞をする姿を見られたとしても、恥ずかしくはないだろう。恥ずかしいという感情は、恐らく人間以外の生き物には存在しないのではなかろうか。
 その人間も、元々は野生の生き物だったわけだから、大昔は大便をしている姿を仲間にみられたところで恥ずかしくはなかったはずだ。
 少なくとも今の日本人や先進国と呼ばれている国の人たちはその姿は見せたくないわけだが、それがいつ、どんなふうにして、どんな理由で恥ずかしいと感じるように変化したのだろうか?
 それを見せたい変態さんがおられるではないか、という指摘もあるだろうけど、それは羞恥プレイという言葉があるように、あくまでも羞恥なのであり、恥ずかしいから成立するのだ。

 想像するに、人がうんこを汚いものと考えるようになって以来ではなかろうか。
 野生の生き物は、糞を本能的に有害なものと知っている節があり、ねぐらから糞をする場所を遠ざけたりするが、自分の糞を食べてしまう場合も多々あり、糞=汚いとか汚らわしいものとは考えていないだろう。
 つばは、人間にとって口の中にある時は汚いものではないが、吐き出した途端に汚いものになるとされ、それは、人が自分の内と外、自他を区別するようになった結果であるとどこかで読んだことがある。
 同じ道理が成り立つなら、人がうんこを汚いと考えるようになったのは、人が自他を区別するようになった結果だということになる。
 逆に言えば、野性の生き物は自他を区別していないことになる。
 人間の世界には環境という言葉があり、これは自分と自分を取り巻く周囲を分けてみている証になるが、野生生物は自分と環境とを一体のものとして見ているように感じる。少なくとも環境などという概念は持たないだろう。
 生き物の撮影中に何を考えているのですか?と聞かれることがあるが、僕の場合、そうして撮影とは関係がないこと、結局人間ってなんだ?と考えていることが多い。 

 犬の糞を取っている道具はこれ↓
 ちゃんと糞を持ち帰るにしても、公園などでは一旦地面に落とすのは気が引けるので、袋にキャッチ。


 
 

● 2013.12.3 変化



 カタツムリの撮影のコツは、とにかくカタツムリが本当に歩きたくて歩いている時に撮影すること。仕方なく歩いている時とご機嫌で歩いている時とでは、凛々しさが全く違う。
 カタツムリさえご機嫌で歩いてくれればスタジオでの撮影はあっという間に終わるのだが、カタツムリはなかなか本気を出さない。
 そこで、いろいろと作戦を練ることになる。

 撮影はなるべく、本来彼らが活発になる夜に。
 それでもカタツムリがスタジオで動きださない時は、ご機嫌になるまで電気を消して待つ。
 熱い季節なら、冷やしておいて常温に戻すと良く歩く。これは、採集時に氷入りのクーラーボックスに入れて保管しておいたカタツムリを帰宅後に常温に出した際に、彼らが非常に活発になることで気がついた。
 好きな温度があって何度になったら活発になるというのではなく、カタツムリは変化に敏感で、温度、湿度、気圧・・・何かの変わり目がきっかけで活発になる生き物なのだと思う。
 これは良く考えてみれば当たり前で、普段殻に籠って休んでいる時間が長いのだから、籠っていながらにして外で起きていることを敏感に感じ取り、それに反応しなければならない。
 気温が低い季節には、今度は暖めてみる。
 それでも動かない時は、暖まったら暖房を止めて冷まし、温度を動かしてみる。すると、温度が下がり出すと活発に動き始めるような場合もある。
 スタジオで待機中に、ふと後ろを振り向くと、いつの間にか犬がストーブの前でくつろいでいた。



● 2013.12.2 写真展のお知らせ



「カモ〜ン、かかってこいや、こりゃ〜。」
 といさかいでも起きているように見えるが、本当はとても楽しく話している瞬間。
 今日は恒例の写真展の準備。
 
(写真展のお知らせ)
武田晋一 西本晋也 野村芳宏 大田利教 の4人展 (計35点)
 場所   北九州市小倉北区山田町 山田緑地公園
開催期間 2013年12月4日(水)〜12月19日(木)  休園日 毎週火曜日
その他   駐車料 300円 (入館料 無料)
 
 

● 2013.12.1 戦々恐々

 理想を言えば、撮影と本作りを同時進行で進めたい。
 写真を撮る。その写真で1ページを作る。また写真を撮り、また1ページ作るような進行ができれば理想だ。
 本の場合、写真は組んでみなければ分からない部分があるし、どんどん組んでいくことで、撮り忘れなどを防げる。
 しかし現実的には、生き物が活発な時期は撮影が忙しく、デスクワークをする時間的なゆとりがあまりない。
 
 さて、カタツムリ図鑑用に撮影した画像を使って、少しだけページを作成してみた。
 これから毎日少しだけ作業を進める。
 撮影したつもりで撮影していないカタツムリや、撮影したものの見つからない画像などがどれくらい出てくるか、戦々恐々。
  
  
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2013年11月分


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