撮影日記 2013年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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● 2013.11.30 ツムガタモドキ



ツムガタモドキギセル

 写真の個体はブリードされたもの。東日本のカタツムリなので、僕はフィールドでこの貝を見たことがない。
 キセルガイはどれも良く似ているのだけど、ツム方モドキギセルは、一目見て、尖がった姿がカッコイイな!とビビッときた。
 当然、ツムガタギセルも存在するのだが、モドキというほどは似ていないように思う。
 殻の表面が微妙に荒れているような感じがするのは、ブリードだからだろうか、それともこのカタツムリの場合はこんなものなのだろうか。
 形が好きなカタツムリは、当然、少しでもきれいなものを撮影したいと思う。
 それから、地味で、ビジュアル時にこれというセールスポイントがないカタツムリも、だからこそ、せいぜい傷のないきれいな個体を撮影したいと思う。
 珍種は、せっかくなのだから、なるべくきれいな個体を撮影したいと思う。
 普遍種は、たくさん捕まえることが可能なのだから、どう考えてもきれいな個体を見つけ出して撮影しなければならないだろう。
 結局、何であろうが、どうしてもきれいな個体を探して撮影したい。
 
 ツムガタモドキギセルのフィールドでの姿を見てみたくなるが、そう簡単に東日本までいけるわけではないし、仕方がないのでインターネットで人の画像を検索してみる。
 するとこの貝の場合、いよいよボロボロのものを撮影した画像ばかりが出てくる。綺麗な個体が見つかりにくい種なのだろうか。
 それから、そうしてカタツムリを検索すると、9月の東北取材の際に青森でお世話になった大八木昭さんのブログが、不思議なくらいに高い確率でヒットする。
 興味が近いのかなぁ。青森に行った際に大八木さんに会ってみたくなったのは、やはり何となくではなく、必然だったのだと確信する。
 ともあれ、今日の画像のツム方モドキは、殻の表面が微妙に荒れているような感じがするなどと書いたが、多くのフィールド写真に比べると、かなりべっぴんの部類になるようだ。
 自分でも繁殖を試みている最中で、そろそろ生まれたんじゃないか?と毎日容器をあけてみるが、今のところその気配なし。
 
 

● 2013.11.29 真似


 シリボソギセルだと思う。
 今日もまた、カタツムリの撮影。

 随分前にニコンD2Xで撮影したカタツムリのスタジオ写真の中にいいものが多い、という事実に驚かされている。カタツムリに限らずダンゴムシもいいし、テントウムシもいい。
 今となっては古いカメラの画像だが、独特のムードがあるし画質もいい。
 当時のニコンは、高感度の画質が悪いと随分叩かれた。それに伴ってすべて否定された感があったが、光のコントロールが可能で低感度で撮影できるスタジオに関しては、今のカメラよりもある部分優れている箇所もあるように思う。

 カタツムリ図鑑は、過去に撮影したことがある種類でも新たに写真を撮り直したいと思っている。
 ところが写真は一期一会であり、型にはまったスタジオでさえ、最新の写真よりも昔の写真の方がいいなどという事態が生じるから、時に古い写真を引っ張り出すことになる。
 写真の技術面では確かに新しい写真の方がいいけど、カタツムリの表情、ポーズなどは偶然であり、昔の写真の方がいいとか、それを今再現しようと思っても出来ないケースは大いにある。
 そして写真は、自分が狙ってコントロールできる部分よりも偶然の部分が大切だ、と最近しみじみ思うようになってきた。

 狙って写真を撮るというとかっこいいけど、自分にその写真が狙って撮れるということは、他人にも撮れるということを意味する。
「いやそんなことはない、俺には俺の世界がある。」
 と思う人はなぜ著作権とか特許などという発想が生まれたのかを考えてみたらいいと思う。自分と同じようなことが他人にもできるからだ。アインシュタインの研究がどんなに独創的ですごくても、それを同じように理解できる人が他にそれなりの数存在しなかたら、その研究が評価されることはないだろう。
 逆に決して真似ができない世界もある。
 体を動かす世界だ。
 プロ野球のイチロー選手と同じプレーをしたくても、それができる人は存在しない。したがってスポーツの世界には特許のような、真似をしてはいけないという発想はない。
 ともあれ、狙って撮れる写真はせいぜい70点の写真。写真は、撮影者自身も予測していなかった何かが大切であるような気がしてきた。



● 2013.11.28 後ろ姿

 後ろ姿は、しばしばそのカタツムリの殻の形の特徴を良く表す。
 殻の入り口の形は、カタツムリの種類を判断する判断材料になるようだが、後ろ姿の場合、その入り口が写らないことで、純粋に殻のカーブや積み重なり方だけを見せることができる。
 一方で、カタツムリの全体像を見せることはできない。
 本はページが限られる。その限られたスペースに写真をたくさん使うと一枚一枚が小さくなり分かりにくくなってしまうから、カメラマンとしてはせつなくなるような写真の取捨選択が求められる。
 となると、どうしても一枚で全体像を見せることができる写真を使うことになり、後ろ姿の出番はあまりなくなる。
 撮影は、他のアングルよりも苦心させられる。
 カタツムリは殻を背負って歩くが、その時の気合の入り具合によって殻の背負い方が違ってくる。気合が入っている時は、しっかりと力強く殻を持ち上げて背負う。
 そんな気合満点の時でなければ後ろ姿は様にならない。くたびれて殻がずれ落ちそうな感じでは話にならない。殻の状態がよく分かるアングルだけに、カタツムリがだらけていると、より一層だらけているように強調されて写ってしまう。
 そして僕もそうであるように、なかなか気合は入らないのだ。
 

 関西を代表する大型のカタツムリは、ギュリキマイマイ(兵庫県有馬産)

 ナチマイマイ
 那智の滝の周辺のみに生息する大型のカタツムリ。ギュリキマイマイとは亜種の関係にあり、殻の丸みや巻き方などは非常に良く似ている。殻がきめが細かいなどと言われるが、ギュリキと比較をするとよく分かる。


 シゲオマイマイ
 小さく明るい色合いのものが多く、フィールドで一見するとギュリキマイマイとは似ても似つかぬカタツムリだが、ギュリキマイマイとは亜種同士の関係で、後ろ姿はギュリキやナチにそっくり。
 シゲオを関東のミスジマイマイのグループに分類する説もあるようだが、この後ろ姿を見ると、ギュリキマイマイの仲間だと確信させられる。


 イセノナミマイマイ?あるいはギュリキマイマイ?(滋賀県大津市産)
 イセノナミマイマイもギュリキマイマイとは亜種の関係だが、その境目ははっきりしないらしい。
 過去には、ある方が採集したカタツムリを巡って、これはギュリキだ、いやこれはイセノナミマイマイだと論争が繰り広げられたこともあったようだ。
 この個体は、少なくとも典型的なギュリキマイマイとは随分殻の形が異なるし、イセノナミマイマイと言いたくなるが、軟体の部分の印象などはギュリキマイマイに近い感じがする。


 人間でも、あまり似ていないと思っていた兄弟の後ろ姿が、びっくりするくらいにそっくりだったりすることがある。顔が見えないことで、純粋に体型だけが見えてくるのだと思う。



● 2013.11.27 人権教育

 学校に出向いて、生き物や写真の話をする機会がたまにある。
 元々学校にそんな枠があるわけではなく、例えば、芸術に関する枠など、他のジャンルの枠の中で話を依頼され、純粋に自然について語るわけにはいかない場合が多い。
 そういう意味で過去に一番苦心したのは、人権教育の枠の中で話をした時だった。何か人権について触れなければならないのである。

 先生や父兄の方が求めている話の内容は、だいたい理解できる。自然を大切にしましょう。命を大切にしましょう、人権を大切にしましょうという話だと思う。
 けれども、そんな話はしたくないと思った。
 人は誰しも、どこかで多少なりとも予定調和をして丸く収めることが必要になるけれども、それをしてもいいと思える場面とそれをしたくない場面があり、人前に直に立つのなら、正直でありたいと思った。

 それで、人権ってなんだろう?とその時に随分考えた。
 すると、僕の知り得る範囲では、自然界には人権に匹敵するようなシステムが存在しないことに気付いた。
 人権とは、一人の人間の存在を保証しようとする概念だと思うが、野生生物の世界では、不公平や不条理は別に悪いことではなく、当たり前なのだ。
 人権のような概念は、自然界には存在しない。つまり言い換えるなら、それが生き物の遺伝子には組み込まれていないということは、人権という考え方は放っておいたら身に付かないし、だから教育が不可欠なのだということになる。
 その場合の教育は、必ずしも人権教育の場ではないだろう。家庭かもしれないし、社会かもしれない。
 ともあれ、人権は、自然界には存在しない非常に不自然な概念なのだ。そして、それが人にとって素晴らしい考え方であっても、人が不自然な暮らしをすれば、その分、地球上のどこかに必ずしわ寄せがくることになる。

 僕は自然が大好きだけど、一方でどこの誰も完全に自然であることはできず、どんなに自然が素敵だと訴えても人はやっぱり人なのだという現実は、ある意味衝撃だった。
 人権教育のような既存の枠の中で話をしなければならないのは、時に手かせ足かせのように重荷に感じられるが、本来の自分の視点とは違う視点から物を見る機会を与えられるのは、やはりありがたいことであり、たまには引き受けなければならないのだろうな。
 
 

● 2013.11.26 僕の興味

 以前、金魚の写真を撮った時に、僕が興味を感じていたのは、金魚という文化や金魚の愛らしさではなく、遺伝の不思議だった。
 もちろん金魚の外観を面白いと思うし、もしも金魚がビジュアル的に面白くない生き物だったなら、おそらくのめり込むことはなかっただろうけど、その面白い外観によって自分の中にある何が刺激されているのか?と突き詰めていくと、それは遺伝に対する興味だった。
 遺伝のメカニズムを知りたいというよりは、地味なフナが、あれだけ色々な外見のものに化けうる生き物の潜在能力に魅せられた。
 自然写真家にもいろいろな観点があるけど、僕の場合、根っこにあるのは作家性やエンターテインメント性ではなく科学性であり、作家性やエンターテインメント性は科学性を伝えるための手段に過ぎないことを改めて感じた。
 生き物っていったい、何者なのよ?
 
 今取り組んでいるカタツムリ図鑑の場合は、進化や分化の不思議。これが僕にとって最大の関心事だ。
 カタツムリは移動能力が低く、あるカタツムリは他の地域のものと交わることが出来ないため、それぞれの土地に適したものが進化によって誕生する。
 うちの近所には、北九州のある山の一帯にしか棲まないナカヤママイマイというカタツムリが存在し、他の生き物であればそうした例は非常に珍しい事例になるが、カタツムリの場合は各地にそのレベルのものが生息する。
 したがってカタツムリを見れば進化の事例をたくさん見ることができるし、中には、ある生き物から別の生き物へと移り変わっている途中ではないか?と推測されるようなものが存在する。
 採集に許可を要するカナマルマイマイという特殊な形をした珍種が存在するのだが、それは遺伝子のレベルでは、ニッポンマイマイという実に平凡な形をした普遍種とほとんど違わないのだそうだ。


 許可を得て採集されたものを撮影させてもらったカナマルマイマイ

 僕は生物学の出身でありながら、自然写真の仕事を始めてカタツムリに出会うまで、カタツムリという生き物が進化を知る上で非常に面白い題材であることを知らなかった。
 生き物の研究は、その研究に適した材料が見つかった時に盛んになる。例えば遺伝の研究は、遺伝の実験材料としてのショウジョウバエの登場によって劇的に進んだ面がある。
 それから、研究を話題にすることが上手な、ショーマンシップに優れた研究者の存在も重要だと言える。
 そういう意味では、細将貴さんのカタツムリに関する研究はしばしば新聞やその他で取り上げられ、今や話題の研究の1つとなった感があるが、今後どう展開していくのかが大変に興味深い。





● 2013.11.25 キセルガイ


オオギセル

 普段よく撮影を依頼される小動物や虫との違いは、カタツムリの場合、寿命が長いということがあげられる。
 寿命が長いとそれだけ体に傷がつくので、撮影用に傷の少ないきれいな個体を採集するのが難しい。生まれつき持っている殻が少しずつ伸びていくことで大きくなる。したがって殻の古い箇所は擦れてつやも悪くなる。節足動物のように脱皮をしてピカピカの体にチェンジすることはない。
 中でもキセルガイの仲間は、きれいなものを探すのが難しい。
 聞いたところによると、キセルガイは寿命が長く、15年などという記録もあるのだそうだ。

 対策としては、殻を湿らせてから撮影する方法がある。湿らせると傷が目立ちにくくなる。
 ただしずぶ濡れはおかしいし適度に湿っている必要がある。すると、ちょうどいい感じに湿っている時にキセルガイが殻の中に閉じこもって撮影ができなかったり、逆にとてもいい顔をしている時に、殻が湿り過ぎていたり、乾きすぎていたり・・・。
 それで、何度も何度もやり直しをすることになる。
 その手の試行錯誤は、あまり楽しくない。やはりきれいな個体を採集し、カタツムリの表情のみに神経を集中して撮影するのが楽しい。 

 一方でキセルガイは成長自体は早く、種類によってはあっという間に成貝になる。したがって、きれいな個体を得るために繁殖させる選択肢もある。
 その場合に、自然条件下で育ったものと育成したものの違いがどうなるのかが問題になるが、野外で採集したものでも元々体型にかなりのばらつきがあり、育成をしてもそのばらつきの範囲の中に収まる印象を今のところ持っている。



● 2013.11.24 山を切り崩す

 スタジオで撮影したカタツムリの画像に採集場所などのデータを埋め込もうと思ったのだが、それを記載した紙が出てこない。
 どこにあるのか、場所は分かっている。机の脇の、近日中に目を通すべき書類置き場の中に決まっている。
 書類は高い山になっており、実質的には近日中に目を通そうにも通せる量ではないから、その隣に、新たに明日にでも目を通すべき書類置き場が作られている。
 するとそこもあっという間に山となり、手が付けられなくなった。二の岳の誕生だ。
 しかたがないので、今度は、今晩にでも目を通すべき至急の書類置き場を追加して作らざるを得なくなった。

 カタツムリのデータを探すためとは言え、その山を安易に崩したくない。
 山は自然とできた物であり、自然の摂理はそのままにしておいた方がいい場合が多い。
 例えば、領収書は古いものが下、新しいものが上に積まれており、いずれ整理をする時にはその順に並んでいた方が帳簿への記入など効率が良く、かき混ぜたくない。
 となると、山の高い箇所から一枚ずつ書類を整理しながら、カタツムリの資料が出てくるまで山を低くしていかざるを得ない。
 撮影〜画像処理と進んだところで、そうして書類の整理などが割り込んできて、たかだか数枚の画像にデータを埋め込むだけで数時間を要することになるのだ。
 
 本来であれば、面倒で実に間が悪い作業だが、今回に限っては、あまりに山の高さに、それが低くなっていくことにある種の快感を感じる。
 世の中には、こんな喜びもあるのかと思い知らされる。
 それにしてもカタツムリのデータが、なかなか出てこない。紛失したのではないか?という嫌なムードが漂い始める。
 結局、書類の山の大半を片づけたところで、ようやく目的の物が現れた。
「あった!」
 落ち葉の下に隠れ込んだ珍しいカタツムリを掘り出した時にも似た感動があった。
 
 

● 2013.11.23 昼寝



 異常に車が多いぞ、と思ったら祭日だった。
 定点撮影中の大分県中津市のため池へ向かう。九州の東側(瀬戸内側)は道路事情が悪く、車の数は大したことがなくても、時に渋滞に見舞われる。
 したがって休日に出ていくのは避けたいところだが、自然の旬や気象条件の関係で、出て行かざるを得ないこともある。
 僕は、人ごみとか渋滞に巻き込まれると、生きていても仕方がないような気持ちに取りつかれてしまうから、ある時、どんなに付き合いが悪いと非難されようがそうした状況は徹底的に避けることに決めてしまった。
 
 夜は、カタツムリのスタジオ撮影。本来夜行性のカタツムリは、やはり夜の方が動きがいい。
 それに合わせて、ここのところ昼間に睡眠を取ることが多いが、一日に二度眠る生活リズムが予想外に合理的で能率が上がるので驚いている。
 今までなら、午後の仕事は午前の疲れから能率が落ちていたのが、一旦眠ってそのあとに仕事をすると、午前並みに集中力を維持できる。
 熱帯では昼間に長い睡眠を取る生活リズムは珍しくない、と聞いたことがある。
 起きて寝て、また起きて寝るそうしたリズムは、一日に二度活動のピークがあることから、双峰性の活動と呼ばれる。
 熱帯の場合は、昼間の暑さを避けるために寝ていると言われているが、仕方なく寝ているというより双峰性のリズムが馴染む生理的な下地が、元々人の体に備わっているのではないかという気がしてくる。
 
 野生生物でも、一日に2度活動するものは珍しくない。
 特に、朝と夕方活発になるパターンは多く、蚊は朝と夕方によく動く。
 魚も朝夕に活発になる種類が多く、釣り師はそのタイミングを、朝まずめ、夕まずめと呼んで重視する。
 サケの仲間では、冬期に日長が短くなると、その朝の活動が日の出よりも次第に遅くなり、夕方の活動が日の出よりも前倒しになり、最終的には昼間の活動としてひとまとまりになることが知られている。
 これは、冬になって寒いから昼間にしか活動が出来なくなるのではなく、実験条件下で温度を高く設定しても、日長を短くすると活動が昼間になってしまうのだそうだ。
 つまり、サケの仲間の場合、冬期昼間に一度だけ活動をしていたとしても、それは実は別々の2つの活動が合わさったものなのだそうだ。
 逆に、自然条件下では一日に一度しか活動しない生き物でも、実験室で特殊な条件下に置かれると、2つの違った活動の成分が現れることがある。
 
 

● 2013.11.22 気象

 スタジオで撮影をする日に関しては、普段はあまり天気を気にしないのだが、たまたま天気予報を見たら、晴れのマークが目に飛び込んできた。
 晴れと聞けば、カメラマンの性で、何か青空を生かした撮影ができないものかと習慣的に考える。
 それで、11月分のため池の定点撮影を終えていないことに気付いた。カタツムリの撮影やその他で慌ただしく、うっかり定点撮影を忘れてしまうところだった。

 天気予報をさらに熟読してみる。
 晴れと言っても多少不安定な面があるようだ。翌日の方がより安定した晴れの予報になっている。
 こんな時は一番迷う。
 予報を信じるなら、定点撮影は翌日に回した方がいい。
 しかし予報は外れることがあるから、明日になるとガラリと曇りになっていることも考えられる。冬になると、九州北部は裏日本的な気象になり、スカッと晴れる日が少なくなるし、晴れの日は逃したくない。
 考えても仕方がないのだけど、毎年冬になると、これで迷いに迷う。
 結局、定点撮影に向うことにした。

 空は、晴れどころか、時々小雨がぱらつく。
 目的地である大分県との県境付近まで走ってみたが、どう見ても曇り。
 しかしもう少し進めば、突然に晴れるのではないかという淡い期待が僕を先へ進ませる。
 一方で冷静な自分が、これは晴れるわけがないと意見し、何度も路肩に車を止めて天気予報を見直す。
 詐欺に引っかかってしまい、おかしいと感じつつ騙される人の気持ちがよく分かる。僕はあまりそんな騙され方をするタイプではないと思うが、それでも僕の中にも、そうして騙されてしまう要素があることを痛感する。
 こんな時のうじうじした姿は、絶対に人には見せられない。
 
 目的地がそう遠くない途中で、結局引き返すことになった。
 傍から見れば、まあ、そんなこともあるでしょうという程度のことであるのは重々分かっているつもりだが、こんな日は、何もしなくても情けないくらいに疲れる。
 帰り道で昼食を食べ、帰宅をして、何となく横になり再び目を開けたら、もう夕刻だった。


 昼間休んだ分、夜はせっせとスタジオ撮影に励む。
 気温が低く、カタツムリが不活発なので、スタジオに暖房を焚く。
 キセルガイは地味でなかなか絵にならないのだが、こいつは間抜けな顔をしていて何となく愛らしい。
 
 

● 2013.11.21 説明

 写真を貸し出す際には、相手が写真を選べるように、1つのシーンに対して数枚を準備するが、多分、これが使われるだろうなとだいたい分かる。
 その写真と僕が使って欲しい写真は、しばしば異なる。自分で貸し出しておいて変な話だけど
「なんでこっちを使わないんだ。」
 と思うことがよくある。

 大抵は、説明力がある分かりやすい写真、つまり、言葉になりやすい写真が選ばれる。挿絵と言ってもいいのかもしれない。
 そもそも写真が使われる際には通常先に言葉があり、その言葉に当てはまる写真が探されるようだが、とは言え、そこまで露骨に説明しなければならないのか?と思う。
 説明をすればするほど、ワクワク感が損なわれていく。学術的な用途でもない限り、写真は言葉では表現できない何かが写っていることが大切なのではないか?と思う。

 ところがそんな僕が自分で本を作ってみると、今度は僕が説明力のある写真を選びたくなり、みなさんの気持ちがよく分かる。
 きちんと説明ができれば、作り手の立場からすると落ち度がないので安心できるし、どうしても、作り手目線になってしまう。
 
 

● 2013.11.20 暗い写真

 カタツムリが活発に活動するのは雨の日か夜であり、カタツムリの本というと、どうしても写真が暗くなる。
 暗い写真は嫌いではないどころか、むしろ暗い写真が大好きなのだけど、本の体裁に写真を組んでみると、さすがの僕も、
「こりゃあイカン、暗すぎる。これでは本として成り立たない」
 と気付く。
 暗い写真を使おうと思うと今度は明るい写真が必要になり、明るい写真を持っているかどうかが暗い写真を使えるかどうかのカギになる。

 まだ学生時代に、初めて昆虫写真家の海野和男先生に写真を見てもらった際に、
「どんな写真が売れるんですか?」
 と聞いたら、
「あなたの写真と正反対の写真。」 
 という答えが返ってきた。
 僕が先生に見せた写真は暗い写真ばかりだったが、暗い写真は売れないのだという。
 それで、僕は明るい写真を猛烈に勉強した。数年後には、明るすぎるんじゃないか?と海野先生に言われたこともあった。
 暗い写真が好きだという好みは今でも全く変わらないし、明るいことがいいことだとか正しいことだと思い込んでいる人には、強烈な反発を感じる。しかし、海野先生の指摘は実に的確で、暗い写真を使うためにも明るい写真は必要であり、いずれにせよ身に付けなければならない表現だった。
「自分が好きな表現とは正反対の描写を勉強したのはなぜだったのですか?」
 と以前ある場で聞かれたことがあるのだが、僕は、どうしても自然写真をやりたかった。
 その思いに比べれば、明るいとか暗いなどというのは少なくとも大したことではないし、些細ないことだ。
 
 

● 2013.11.19 好きなこと

 2日間ほど作業をしてみると、本の見本づくりが楽しくなってきた。
 僕の場合は、正直なところを言えば、生き物を見ている時が一番楽しい。次に楽しいのが撮影であり、それらを形にする作業に関しては、楽しい時もあるが苦痛な時もあって、特に仕事で何かを制作する場合に限ると9割方は苦しい。
 向いてないのかなぁ・・・。フィールドと撮影に徹するやり方もあるだろう。
 ただ、それが楽しい時もあることもある点が重要だ。
 その楽しい時をよく分析してみると、型にはまらない新しい本にチャレンジしている時であり、今はまさにちょうどそんな本にチャレンジしているのだ。

 写真の世界にも定番の売れ筋があり、まず仕事をしたいのなら、その定番から入っていくのが近道だと言える。
 定番は型であり、自分がそれを好きかどうかなんて関係ないのだから、型を身に付けるには辛抱が必要になる。
 才能があれば、型なんて不要なのだと思う。
 問題は、自分に才能があるかどうかが分からないことだ。
 だが、才能の有無を見分ける簡単な方法があり、それはまず好きにやってみること。才能がある人の場合はせいぜい4〜5年もやれば、いい媒体が向こうからやってきてくれるに違いない。
 特に声がかからなかった場合は、型から入ればいいのではないかと思う。

 ただ、その先何をするかに関しては、この世界は、好きでやっている人には絶対に勝てない。
 したがって最低限生活ができるのなら、今度は自分が楽しく感じるものを楽しく感じている人にしかできないレベルでやり遂げることが、大切ではないかと思うようになってきた。
 
 

● 2013.11.18 懐中電灯の世界



 カタツムリが多く生息する場所の1つに、石垣やがれ場がある。岩の隙間はカタツムリにとって、絶好の隠れ家なのだ。
 がれ場の岩が、鍾乳洞の周辺で石灰岩であれば、言うことはない。
 カルシウムを含む石灰岩はカタツムリの殻の材料になるし、そうした場所では大抵、鍾乳洞から噴き出してくる冷気と外気がぶつかり合い、暖かい空気が急激に冷やされることで結露して湿っぽく、岩には多くのコケや地衣類が生え、それがカタツムリの食べ物にもなる。
 そうしたがれ場の岩の隙間の中を観察するために、スネークカメラを1つ注文してみた。
 同じものはホームセンターでも売られており、パイプの中などを見るために使われるようだ。
 価格が安いし、カメラの部分は防水なので、水中の生き物を探すのにも使えるのではなかろうか。



 ただ、僕は隠れている生き物を探すのよりも、その生き物が活動する条件が整った一番いい日に自分が出ていくことの方が、やり方としては好みだ。
 野球で言うなら、ストライクゾーンに球が来るのを待つタイプであり、工夫をしてボール球を打つタイプではない。
 カタツムリの場合なら、雨の日と夜がそのいい条件であり、雨の日の夜がストライクゾーンのど真ん中になる。
 また夜は、ライトが照らし出す範囲しか見えないので、カタツムリを見つけやすい利点もある。昼間の場合は周囲が見え過ぎて、カタツムリが背景に溶け込んでしまう。
 夜カタツムリを探す際に重要なのは、ライトの性能。ライトがいいか悪いかで、探索の能率が違い過ぎるくらいに違う。
 僕が今使用しているものは、Wolf-Eyes社の製品をベースにして特注で作られたもので、LED球が4つ組み込まれていることで斑なくきれいに照射され、痺れるくらいに見やすいし、本来の明るさ以上に明るく感じられる。
 色温度が5000K前後なので、写真撮影に使用するつもりで購入したのだが、夜のカタツムリの探索で大活躍。
 明るく感じられると夜道があまり怖くないのもいいし、写真屋の性で、撮影する時のみならず、探すときにもきれいに見えて欲しいこともあるが、きれいなライティングで写真を撮ると被写体がポンと浮かび上がってくるのと同じ仕組みで、このライトで照らすとカタツムリがよく目に飛び込んでくるの。
 電池は専用の充電池を使い、50%の力で照射すると、一晩数時間の探索で1本半くらい消耗する。
 実は、このライトを購入するのは、大変に苦労した。
 どうも、懐中電灯の世界は非常にマニアックな世界のようで、ショップのホームページを見ても僕にはなかなか理解ができなかったのだl。
 しかし、数ヶ月の間暇な時に眺め続けていると何となくわかってきて、ようやく1本を選び、注文したのだった。
 僕が購入したものは、現在では売り切れとなっており、他にはより青い色の球を使用したものが販売されている。
 ともあれ、店のオーナーのブログが面白く感じられてきて、懐中電灯の世界にはまりそうで怖い。
 
 

● 2013.11.17 サル

 本格的に寒くなる前にカタツムリのスタジオ撮影を終えておきたいところだが、今日からは並行して、売り込み用の本の見本づくりを進める。
 今シーズンは、撮影をしたものの未整理の画像があまりに多く、見本を作る前に画像を探し、見つけたシーンを正式に画像処理しなければならず、今日はなかなか本質的な作業へと進むことができなかった。
 画像を探しの最中に、何かのついでに気軽にカメラを向けたものの、それを自分でもすっかり忘れていた写真が時々出てきて、その意外性が面白い。
 カタツムリの撮影のついでにカメラを向けたニホンザルの画像は、ほんの数分の撮影でありどれもあと一歩。
 全部目を通したものの結局一枚も最低限納得できる画像がなかったのだが、出来とは無関係に、予想外の物にカメラを向けたいきさつが楽しい。
 一般的には、それを「思い出」というのだろう。
 仕事として狙ったものを撮影している場合、常に先を見ているので、過去に撮影した画像を振り返って思い出という感覚にはなかなかならないのだ。
 

 使えない写真ではないが、もうちょっと力感が欲しい。
 獣を撮りなれている人が見たら、この一連の流れでもうちょっといい瞬間があったはず、と感じるのではなかろか。
 

 こういう写真は表情が命。もうちょっと表情が欲しい。目線が高いなぁ。


 これも、表情が少し弱い。 
 もっと真上から撮影すれば寝転んでいるサルの表情が良くなる。毛づくろいをしている側のサルの顔は、この場合不要。上から撮影して頭だけで良かったような気がする。
 ともあれ、サルは面白くて、サルにカメラを向ける人の気持ちがよく分かった。

 いい写真を撮ろうと思うのなら、やっぱり時間をかける必要がある。
 ある一枚の写真が別に悪い写真ではなくても、或いは仮に人に感動を与えられる写真であっても、こう撮ればもっとよくなるのに・・・という何かが残る写真は、あまり使いたくない写真だと言える。
 
 

● 2013.11.16 カタツムリの槍


ツルガマイマイの恋矢

でんでん むしむし かたつむり
お前のめだまは どこにある
つの出せ やり出せ めだま出せ

 カタツムリの頭部には4本の触角があり、そのうちの2本は大触覚と言って先端に目玉をもち、残りの2本は小触角といって匂いや味を感じる役割がある。
 童謡 「カタツムリ」 の歌詞に出てくる目玉は、言うまでもなくその大触覚。
 やりは小触角だというのが一般的なところだが、恋矢(れんし)ではないか?という説もある。
 恋矢は、交尾の際に出てきて相手を刺激するのに使われるとされ、交尾後に抜け落ちる。
 今日の画像は、その恋矢が抜け落ちる際に撮影したものだ。

 もしも、歌詞の中のやり=恋矢なら、作詞者は非常によくカタツムリを見ていたことになる。
 或いは、作詞に際してカタツムリの研究をしている人にカタツムリに関してリサーチしたのかもしれない。
 いずれにしても、もしもそうなら、尊敬に値すると思う。
 いや、作詞をしたり文章を書く人としては、全力で相手を知ろうとするのは、当たり前なのかもしれない。
 童謡かたつむりは、文部省唱歌であり、作詞者は明かされていない。

 実は、僕が普段撮影しているツクシマイマイでは、交尾の際に恋矢がでているのは見たことはあるが、交尾後にその恋矢が抜け落ちているのを過去に一度もみたことがない。
 
 

● 2013.11.15 順序

 自分が撮影した画像を後で見て、それが何という生き物かが分からなくなるようなお粗末は、その時はあり得ないと思うのだが、実際にはそれがあり得るのだ。
 僕の場合、確実に覚えているのはだいたい翌日まで。
 3〜4日経つと少々怪しくなってきて、しばらく考えると、ああ、そっだったと思い出す。
 一週間もたつと全く思い出せなくなり、撮影が無駄になってしまったと冷や汗が出てくる。
 どうも、何を撮影したかだけは、どんなに忙しい時にでも、撮影直後にちゃんと分かるようにしておくことが肝心なようだ。
 それから、大雑把に画像を選び出すのも、やはり撮影直後がいい。
 撮影の感触が残っている時の方が、選ぶのに時間がかからない。
 写真はいずれ選ばなければならないのだから、先に選ぼうが後に選ぼうがトータルとしての作業量は同じなのだけど、先に選んだ方が早く終わる。
 僕は、そうした順序を非常に重視するし、手順前後で余計な時間がかかるのが大嫌いだ。
 順序を変えることなら、どこの誰にでもできるし、僕のような特別に何かの能力があるわけではないタイプの場合、それが日ごろできる工夫のほぼすべてだと言える。
 
 

● 2013.11.14 場所

 場所が欲しいな。
 工作をするための場所。
 今制作中の本に関する大量の資料を置いておくための場所。
 今なら、カタツムリを飼育をするための場所。
 僕の仕事は何を撮影するかによって作業の内容が大きく変わるから、その時々の仕事に応じて臨機応変に使える、普段は遊ばせているような空スペースが欲しい。

 カメラバッグでも物をいっぱいいっぱいに詰め込むと、いつもとはちょっと違う撮影で一つ物が増えただけで中身が溢れだし、重なり合い、非常に使いにくくなり作業の効率が悪くなる。
 普段から、場所は目いっぱい使うのではなく、少しゆとりを持たせるのが理想だと思う。
 この冬の間に、仕事場をそうなるように改良したい。
 そうして改良をしている時間は非常に楽しい時間だ。

 そのためには、溜め込んでいる事務所の仕事を早く終えたい。
 ところが、カタツムリ取材に夢中になり過ぎた反動なのか、ここのところ、どうも無気力気味で作業が全く進まない。
 フィールドでの取材がハードな時よりも、僕は、そんな時が一番つらい。

 妄想だけは、膨らんでいく。 
 小糸製作所のコイトトロンがあったらなぁ。
 http://www.koito-ind.co.jp/eco/koito-environ/S.html
 http://www.koito-ind.co.jp/eco/koito-environ/EA.html
 カタツムリに限らず、小さな生き物の飼育は温度管理ができれば死亡率を大幅に減らすことができる。次に湿度の管理ができれば言うことはない。
 コイトトロンは大学の研究室レベルの設備であり、自然写真で稼げるお金でこんなものは到底買うことができない。
 だが、もうちょっと金銭面で評価されたらなぁ。
 高級なものを食べたり、いい暮らしをしたいわけではない。
 もっと仕事に打ち込みたいのだ。
 
 

● 2013.11.13 スピード

 買いたい道具が幾つかあるのだが、カタツムリ図鑑制作に要する取材費を確保しなけらばならないので、ぐっと堪える。
 来年は離島の取材がある。もしも合理的に取材を進めることができるのなら必要なコストをあらかじめ算出できるが、他の仕事との兼ね合いで、福岡から南下しては帰宅し、また南下しては帰宅するを繰り返さざるを得なくなり、交通費がかさむ可能性もある。
 ちょっと前にカードで支払いをしていた北海道取材の際のガソリン代が引き落とされたのだが、やはりそれなりの額になる。
 東北〜北海道取材では、一日平均で400キロ以上を運転した。中には、800キロ以上車を走らせた運転した日も何日かあった。
 ハイブリッド車が欲しくなる。ヤマト運輸のトラックの中にはハイブリッドのものがあるが、取材用のトヨタハイエースがハイブリッドだったらなぁなどとつい考えてしまう。

 ある場所で僕の車に入り込んだ虫や靴の裏側に付着した植物の種は、わずか数時間後には、本来その生き物の能力では移動しえない遠く離れた別の場所へと運ばれることになる。
 そう言えば、カタツムリ取材でも、関東のミスジマイマイが岩手県で見つかった。
 最初、東北に産するアオモリマイマイだと思って大喜びで撮影〜採取をしたのだが、翌日に何だかおかしいぞと気がついた。
 人為的な要因による生き物の分布の乱れが問題となっているが、物流を発達させれば、起きて当たり前の現象だ。
 物流の発達は、言い換えるならスピードアップだと言える。

 地球上で人が引き起こす環境問題の多くは、元をたどれば、大抵は人が多過ぎることか人のスピードが速すぎて他の生き物がそれについていけないことに由来する。
 人が多いのは、人類が栄えているからであり否定しにくい。
 バーゲンセールの人の多さにイライラさせられたとしても、一人一人は何も悪くない。
 またスピードアップは、先進国の社会では悪いことではなく、むしろ努力の証なのだから、これまた否定しにくい。
 僕だって、撮影、画像処理・・・とすべてにおいて、常により上手になり、より無駄なく作業を進められるように心がけている。
 それを思うと、環境問題は誰かが悪いといった性質の問題ではなく、人を責めたり社会を批判するのではなく、工夫をすべき問題のような気がする。
 スピードアップをすると、人類が滅ぶのも恐らく早まるのではないかと思う。
 それが本質的にいいことなのか悪いことなのか、或いは、人間とはそもそもそんな生き物なのかについては、僕には判断ができない。
 10年後に人類が滅ぶと言われると、それは大問題だと思うけど、人類が今後1000年続くのと10000年続くのとではどちらがいいことですか?と聞かれると分からなくなる。
 
 

● 2013.11.12 遺伝と環境


 ムツヒダリマキマイマイは東北を代表するカタツムリ。

 こちらは、青森の大八木昭さんが採集して送ってくださったナンブマイマイと呼ばれる稀産のカタツムリ。
 良く似ているのは当然。保育社の原色日本陸産貝類図鑑によると、ナンブは、ムツヒダリマキマイマイの小型のタイプと考えられており生物学的には同種になるが、外見と分布が異なるため、それぞれに違う名前が付けられている。
 カタツムリは変異に富んでいるので、そうしたケースが非常に多い。
 同種の生き物に別の名前が付けられていることには、当初非常に違和感があった。
 しかし、カタツムリ取材を進めるうちに、外見がコンスタントに違うということは何かが違うということだから、名前が違う方が自然だと感じるようになってきた。

 ムツヒダリマキをナンブの産地に放すと、その子孫は、ナンブのように小型化するのだろうか?或いは逆に、ナンブをムツヒダリマキの産地に放すと、大型化するのだろうか?
 つまりナンブが全体として小さいのは、生息環境の影響なのだろうか?
 他のカタツムリを飼育した経験から言うと、両者を同じ環境で飼育しても、ムツヒダリマキの子孫はムツヒダリマキのサイズに、ナンブの子孫はナンブのサイズになるような、サイズの違いは当然環境の影響も受けはするが、基本は遺伝ではないかという気がする。
 

 こちらは、兵庫県で採集したナミマイマイ。
 同じ場所で採集した2匹を比較してみると、殻の模様の位置がよく似ていることに気が付いた。
 似ているのは、この2匹が兄弟だからなのか、つまり遺伝なのか?
 それとも、カタツムリの殻は成長に伴って伸びていくのだが、模様は温度や雨の降り方でカタツムリのコンディションが変わることで生じるもので、近くで暮らしていた2匹が同じような環境の影響を受けた結果なのだろうか?



● 2013.11.11 今月の水辺

10月分の今月の水辺を更新しました。今回のテーマは雨の日です。


● 2013.11.10 分布


 採集したカタツムリは、スタジオで撮影後、図鑑の文章を担当される西浩孝さんに送り、標本にしてもらう。
 同定が難しい種類を送った際に、自分の同定が正しかった場合はうれしいが、そうではなかった場合に西さんに教えてもらえるのはもっとうれしい。
 どんなにインターネットが発達して知識が積み上げられても、専門家の見識には絶対に敵わない部分がある。
 個の力、専門家ってすごいなと思う。

 さて、宮崎県北部で採集した、おそらくセトウチマイマイ。
 分布やサイズや暮らしぶりが重なるタカチホマイマイとは、厳密には解剖をして生殖器を見なければ区別ができないそうだが、今回採集したものは改めてまじまじと見つめた結果、中には非常に紛らわしいのも含まれているのだが、すべてセトウチだろうという結論に達した。
 カタツムリの場合、大きな分布は重なっていても、ある狭い範囲に、お互いに似た2種類のカタツムリが生息するケースはあまりない。
 なぜ、そうなるのだろう?
 似た者どうしの分布が重なった場合、一方が他方を追い出してしまうのだろうか?
 ところがカタツムリの場合、僕は2匹が争うのを見たことがない。
 同じ容器の中で飼育をしても、特にトラブルが起きた経験はなく、何でもなく同居できる。
 いったいどんな力が働いて分布が決まっているのだろう?
 僕は生き物の分布、なぜそこにいるのかに大変に興味があるのだ。
  
  

● 2013.11.9 人生いろいろ

 前日撮影した雑木林の写真の中に、少し強めの画像処理を施せばかろうじてOKを出せるものが、1枚だけあった。連続して数枚撮影したその前後の写真は使えなかったから、ギリギリセーフの1枚だ。
 わぁ〜救われた。
 これで雑木林の定点撮影は、春、夏、秋と揃った。前日の状況を思うと地獄から天国だ。超気持ちイイ。
 
 ところが、天国気分は長くは続かなかった。
 そのご機嫌のあいだに春と夏に撮影した画像も含めてちゃんと画像処理をして整理をしておこうと思ったら、夏の画像がどうしても見つからない。
 撮影日は7月11日のはずだが、当日のフォルダー自体が存在しない。
 その日は雑木林だけでなく、ため池の定点撮影もあった。ため池の方は割とまめに画像処理をして整理をしているので、整理先のフォルダーを探してみたのだが、ため池の画像も見つからず。
 ということは、その日撮影した画像が完全に消失している。

 雑木林はついでだったのでともかく、ため池は重要な撮影であり、すでにその前年の秋、冬、その年の春と撮影していただけにあまりにも痛すぎる。
 7月11日と言えば直後に北陸〜東北取材が迫っており、おそらくその慌ただしさから、画像をハードディスクに保存するのを忘れてしまったのだと思う。
 夏の画像がなければ、秋の画像は何の意味もない。ということは、昨日も無駄だったことになる。
 今日は天国だと思ったのだけど、また一気に地獄だ。
 僕は、画像を消してしまった経験は、それ以前には1度だけ。ただその一度はあまり重要ではなく自分で撮影したことさえ忘れていた写真だった。したがって今回が初めての画像消失のトラブルだが、よりによって非常に手間がかかっている画像の消失だ。
 目の前が真っ暗になる。
 
 でもちょっと待てよ。
 定点撮影に使用しているニコンのD800にはCFカードとSDカードを一枚ずつ挿すことができ、CFカードは定点撮影の際にも普段から使用しているものを使っているのだが、SDカードは、ある特殊な理由から、定点撮影している場所の数だけ専用のものを準備して使っている。
 つまり、広島の雑木林用のSDカード、ため池用のSDカードが一枚ずつ存在する。
 それらは他の目的には使っていないので、初期化されていてもレスキューソフトで中にあった画像を復活させられるのではないか?
 そこでさっそく試してみたら、出てきた出てきた。夏の定点撮影の画像が出てきた。
 今回使用したレスキューソフトは、これ
 今日はやっぱり天国だったようだ。
 ただ、疲れました。
 
 

● 2013.11.8 定点撮影

 さて、無理をして強行した雑木林の定点撮影だが、天気が予想外に悪い。どんよりと重たい雲が空を覆い尽くしている。
 そこで天気予報を見直してみるが、ある予報では晴れ、ある予報では雲がかかることになっていて何の判断の材料にもならない。
 空しいなぁ。

 太陽の光の向きの関係で、雑木林の定点撮影が可能なのは、遅くとも午前11時くらいまでの時間帯。それをすぎると、林が逆光になってしまう。
 仕方がないのでカメラを設置して、一応11時まで待つことにした。
 何でもない場所なのだが、車を止め三脚を立てたままにしていると、次々と付近に車が止まり、さりげなく様子を見ていく。
 時々小さな青空が通過し、そのたびに状況に不満を抱えながらもとにかく写真を撮る。
 が、ついに最後まで満足できる条件にはならなかった。
 疲れるなぁ。
 僕はあんまり落ち込むタイプではないけど、今回は非常に打ちのめされた感があり、気力が湧かず、北九州まで運転して帰れる気がしない。
 しかも午後になると、見事な青空。
 このまま一週間くらい、その場で眠り続けたいくらいだ。



 そう言えば、付近で撮影したススキの群落の写真を、以前ある方から、
「ああ、いいですね。」
 と褒められ、
「ついでに、ススキの花ののぎがわかる写真も撮っておいたくださいよ。」
 と言われたことがあったけ。
 広島県というと、比較的安定した瀬戸内の天気のイメージがあるのだが、山間部は裏日本の気候なので、特に冬が近づくと晴れにくく、また晴れの予報の日でも崩れることも多々あり、非常に判断が難しいのだ。
 
 

● 2013.11.7 見捨てるか、続けるか

 カタツムリ図鑑の制作に打ち込む結果、犠牲になったものもある。
 例えば、定点撮影していた場所のうちの何ヶ所かは、どうしても手が回らなくなり、見捨てざるを得なくなった。
 捨てるかあるいは続けるか、ここのところ迷っていたのが、広島県の雑木林だ。
 この春、ため池の定点撮影からの帰りがけに、あまりの新緑の美しさに車を止めて雑木林を撮影したことがあったのだが、その際に、どうせだから四季を定点撮影しようと思い付き、今のところ、春、夏の2回撮影したのだった。
 しかし、カタツムリの標本撮影に予想以上の時間がかかり、わずかな暇も惜しい状況になった。
 さて、どうしたものか?
 広島まで行くべきか、やめるべきか・・・・
 雑木林を撮影したのはまだわずか2回だし、それもため池の撮影のついでだったので、捨ててもダメージはあまり大きくない。
 しかし、過去の経験からすると、そうしてやり始めたことをやり遂げないことは、だいたい仕事全体の停滞や衰退に結び付く。
 明日を逃すとしばらく天気が崩れる予報になっているから、紅葉の進み具合から判断すると、秋の雑木林の撮影は明日の晴れの日が最後のチャンスになるだろう。
 こんな時は、自分の優柔不断さが本当に嫌になる。なかなか結論を出すことができない。
 が、ふと広島へ向かう途中に島根県の山地でイワミマイマイの夜間採集をしてみようか、そうすれば、定点撮影に加えてカタツムリの探索もでき一石二鳥だと思いついた。
 イワミマイマイは、大型のカタツムリだが、大きさの割にはあまりよく知られていない特殊な存在だ。
 したがって、現在制作中の図鑑の目録には入っていない。
 けれども、イワミマイマイの生息地は僕が一番たくさん通った場所の1つであり、是非とも見てみたいと思うカタツムリの1つ。
 詳しい生息地に関する情報は持ってないが、北海道〜東北〜東海〜近畿とカタツムリを探す旅をして多少は要領が分かったので、今なら見つけることができるのではなかろうか?

 残念ながら、行ってみると気温が低く、夜間のカタツムリ探しは断念。
 もうすでに10度を割っており、シーズンの終了を宣言されたかのようで、ちょっとさみしい。
 早々に寝袋に潜り込み、翌日の定点撮影に備えて眠る。
 
 

● 2013.11.6 知りたい


ダコスタマイマイ

 もうずいぶん前のことになるが、大分県での滝の撮影の際に、一匹のカタツムリを捕まえた。
 殻の直径が1センチ前後の小さな貝。
 チョコレート色の殻に白い帯。図鑑を見てもそれに匹敵するものが見当たらなかったのでカタツムリを研究している人に聞いてみたら、ダコスタマイマイだと教わった。
 カタツムリは、生きている時と、殺して軟体を取り出した殻のみの標本とでは色が異なるので、殻だけが掲載された図鑑では同定できなかったのだ。

 現在準備中のカタツムリ図鑑の目録には、そのダコスタマイマイがある。
 ふと気になったのは、以前大分県で見かけた際に、雨降りでカタツムリが活動しやすい状況だったにも関わらず、一匹しか見かけなかったことだ。
 生息密度が低い可能性があり、密度が低い生き物を見つけ出すのには苦労させられる。
 果たして、先日宮崎県北部の取材ではダコスタマイマイを数匹見たが、やはり、それなりの距離を歩いた結果ポツリポツリという感じで、まとまった数を見ることは出来なかった。

 実は、10月上旬から、ずっと考えていることがある。詳しくは10/11の日記を見てもらいたいのだが、カタツムリのような移動能力に乏しい生き物が、低い密度でしか生息しないなんて、あり得るのだろうか?
 理論的に考えると、もしも一匹そこで見つかるのなら、あたりにはそれと交配できるものが数匹、さらにまだ繁殖年齢に達しないものがその数倍いなければ、成り立たないはずだ。
 本当のところはどうなのだろう?
 密度が低いのではなくて見かけにくい暮らしをしているのか、本当に密度が低いのか、知りたいなと思う。

 カタツムリがポツンと一匹だけ見つかった時に探索の範囲を広げると、少し離れた場所にいい環境があり、そこでまとまった数が見つかる場合がある。
 その場合は、そのいい場所から分散しようとしている個体がポツンと1匹だけ見つかることがあるが、それだけでは説明ができないケースが、ちょいちょいある。 
 
 

● 2013.11.5 土下座します



 図鑑作りのためにカタツムリを撮影したり採集することは、ある部分、僕がカタツムリを研究したり調査するのに近い行為になる。
 したがってその過程で、それまで知らなかったことをたくさん知ることになる。

 知ってみて感じるのは、本を作る際には、知識はよりたくさんあるに越したことはないということ。僕は過去にカタツムリの本を数冊出しているけど、その時に今の知識があれば、もっともっと面白くできただろう。
 時々、知識が本作りの邪魔をするなどという話を耳にすることがある。例えば、研究者が本を書くと、知識があり過ぎる結果一般の人にとっては面白くない本になるなどと言われ、僕はそれを信じていたのだが大間違い。それが面白くないとするならば、知識が邪魔をしているのではなく、見せるという意識や技術が欠落しているからに過ぎない。
 知識はあるに越したことはない。

 研究者がカタツムリを研究する場合は、何が正しいかが重要なのであり、そこに見せる意識はあまり必要ない。一方で僕らの本作りの場合には、何が正しいかというよりは、何が面白いかが重要になり、それが見せる意識なのだ。
 かと言って、面白ければ何をしてもいいのかと言えばそれも大間違いで、正しいことの中から面白いことを抜き出すのがセンスなのだと言える。
 一方でたくさん知ろうとして、一方ですでに知っていることの中に面白いことが埋もれていないか探す意識を持つ。
 そんなことに今ごろ気付く僕は、やっぱり素人だな。

 さて、カタツムリの撮影は、元々幼児向けの月刊誌からの依頼で始めた。
 幼児向けの月刊誌は、幼稚園や保育園を通しての年間購読の制度を採用しており、生き物が好きな人もそうでない人も買うことになるため、誰にも当たり障りない作りが求められる。
 当たり障りがない本は、言い換えるなら、面白くない本だとも言える。
 ところがそれが小学生向けになると、幼児向けとは似て非なるものになる。こちらは仮に学校の図書館に置かれていてもそれが好きな人が自主的に見るものであり、子供向けであるのは文字などの記載だけだと言える。
 いやむしろ内容的には、大人向けのものよりも生き物度が濃い傾向にある。
 生き物の本を作るのであれば、最低限既存の生き物関係の出版物には、図鑑〜幼児向けまで一通り目を通す必要がある。どんな見せ方があり得るのか、どんな編集があり得るのか、その知識もあるに越したことはない。
 一時期、独自路線を切り開くために、僕はあえて人の本を見ないようにしていたのだが、今にして思えば愚策だったように思う。

 さて、今日の画像はベッコウガイの仲間。分布とサイズから判断すると、タカハシベッコウが一番近い。
 軟体の部分がビヨーンと伸びて、殻の一部に覆いかぶさっている。今日はこれから、この殻に覆いかぶさった軟体をよりビジュアル的に面白く見せる方法を探る。
 極端な種類としては、軟体の中に殻が埋もれたり、殻が出てきたりして、ナメクジのようなカタツムリのような形態の種類も存在するようで、僕は今、それをこらえきれないくらいに見たい。
 現実的には、ヒラコウラベッコウガイという種類が見れると思うのだが、これは外来生物なので、出来れば八重山のマサキベッコウが見たい。
 ただマサキベッコウは、貝類レッドリストによると2000年、2007年ともに情報不足。劇レアなんだろうなぁ。もしも俺は結構知っているよという方がおられましたら、土下座しますのでどうか教えてください。
 捕まえたから送ってやるよという方は、僕が衝撃で心臓麻痺を起さないように、必ず最初は遠まわしにその旨を伝えてください。
 
 

● 2013.11.4 誰かたくさんお金くれんかなぁ。

 小岩をひっくり返すと、直径数ミリの小さなカタツムリがくっついていて、すごい勢いで逃げ始めた。サイズに似合わず、逃げ足がむちゃくちゃ早い。
 今日の画像は、カタツムリの動きに合わせてカメラを動かして追いかけながら撮影している。これをマクロレンズや望遠系のレンズで撮影することなど、ほぼ不可能だと言っていい。
 そんな場合は、ピントがより深く合う広角系のレンズを使用する。
 ただし広角系のレンズは接写能力があまり高くないので、大半の製品は小さな生き物の撮影には使えない。
 その点、シグマの15mm魚眼レンズは最短撮影距離が短いのとレンズ自体の描写も優れているので、非常に非常に扱い易い。
 1.4倍のテレコンバーターとニコンD800の組み合わせでは、殻の直径が5mmくらいのカタツムリの撮影でも十分に行ける。
 D800をFXフォーマットで使用すれば周囲の雰囲気も分かる写真が、DXフォーマットに切り替えて中心部だけを切り抜けば図鑑的な写真が撮れる。僕は、3600万画素をそんな風に使用する。
 

NikonD800 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X

 ソニーから、35ミリフルサイズセンサーを搭載した小型軽量のカメラが登場する。
 山登りを伴う撮影、釣りのついでの撮影など、機材を極力軽くしたいけれども写真の画質を犠牲にしたくない場合に備えて欲しいなと思うが、レンズがまだあまり充実していない。
 照明器具がかさばる夜間の撮影にも、小型軽量でも画質を一切妥協しないカメラが欲しい。
 雨の日の撮影に備えて高い防水性のオリンパスのE-M1も欲しいが、こちらも、シグマの15mm魚眼レンズに相当するレンズやテレコンバーターなど、僕の目的に適うレンズがないので、手を出すことができない。
 カメラメーカーはなぜあんなにカメラばっかり、或いは同じような用途の新製品のレンズばっかり作るのだろう?
 オリンパスの製品ではむしろ、こちらが欲しい。今までなら邪魔になるとカメラを持ち歩かなかった採集の時などに、このカメラを使ってみたい。
 一番期待をしたのは
ニコンの防水カメラだが、この手のカメラはリニューアルが頻繁に行われるとは思わないから、どうせならもうちょっといろいろな用途や可能性を考えてほしかった。
 使えそうで使えそうもない感がして、残念。
 残念というよりは、クヤシイ感じがする。何とかして可動式の液晶と防水性を両立させる。或いは上からのぞくことができるファインダーが欲しかった。
 もっとも、少なくともカタツムリ図鑑が完成するまでは、自由になるお金はすべて取材費・交通費に回すことにしており、機材には手を出すことができない。
 幸い、いずれも今の段階では帯に短したすきに長しの製品なのでなんとか辛抱できるだろうと思うが、当面、僕がどうしても欲しくなるような製品は売り出さないで欲しい。
 
 

● 2013.11.3 ここはセトウチ?タカチホ?


タカチホマイマイ?

 朝、夜の間に確認しておいたカタツムリのポイントに行ってみると、まだ活動中のものが数匹いて、さっそくカメラを向ける。
 あたりは、過去に風景の撮影で何度となく通った一番好きな場所の1つだ。
 やがて工事でいつ来ても川が濁るようになり足が遠のいたが、それから数年が経過してその工事は終了したのか、今回は水が澄みきっていて、風景を撮影したくなる。
 しかし二兎を追う者は一とも得ず。今回はカタツムリじゃあ!とその思いを振り払おうとするのだが、川が気になって仕方がない。
 そこで、わずかな時間ではあったが、川の写真を撮ってみた。釣り師の性で、川の写真を撮っているというよりは、釣りのポイントの写真を撮っているかのようだ。
 大きなサクラマスが点々とみられた。







 セトウチマイマイは、その名の通り分布の中心はセトウチであり、中国地方が代表的な産地。九州ではごく限られたポイントでしか見ることができないようだ。
 ただ九州産のセトウチマイマイは、中国地方のものとはかなり外見が異なる。
 僕は以前この場所で、その九州産セトウチマイマイと思われる典型的な外見の個体を数匹採集したことがあるのだが、今回見かけたものは、外見から判断すると、よく似たタカチホマイマイに見える。
 両者の区別は、厳密には解剖して生殖器を見る必要があるようだ。
 カタツムリの場合、サイズが似通っていて同じタイプのものが同じ場所で見られることはあまりないように思う。その点、以前僕が見かけた物がセトウチで、今回のものがタカチホなら、この場所にはそれらが両方住むのかどうかが非常に興味深い。
 いずれにせよ、セトウチマイマイを探しに、もう一度宮崎北部には行ってみたい。

 午後は、昨晩諦めた山の中のポイントへ向かう。
 行ってみると、昼間の下見なしで行ける場所ではなく、昨日は諦めて正解だった。
 下見をしてもなお、果たして夜単独行で大丈夫だろうか?という不安が残ったが、予定通り夜の探索へ向かう。
 目的は、オオヒュウガマイマイだ。
 オオヒュウガマイマイは、前日の夜別の場所でたくさん見つけたのだが、地形の関係なのか、大ヒュウガマイマイというにはやや小さく、殻がきれいなものを見つけることができなかった。
 その点、今日の場所では、昼間の探索で、死んだ貝ではあるが殻がきれいなものがたくさん見つかり、いいやつが住んでいることだけは分かっていたので、最終的には不安は振り切れた。
 写真はビジュアルが大切であり、図鑑と言えども、目的のが写っていて分かるからいいだろうという訳にはいかないのだ。
 
 

● 2013.11.2 宮崎へ

 雨の予報に反応して、宮崎県北部へ移動する。
 普段は北九州から南に下り飯塚市、飯塚市から山を越えて佐賀県へと入りそこから高速道路を使って熊本県の御船ICで降りるのだが、今回は北九州市内から高速道路を利用することにした。
 北九州から高速道路に乗ると、九州の周辺をぐるりと回るルートになりかなり大回りになるけど、ここ数日の深夜までのカタツムリのスタジオ撮影での疲労を考慮した結果だった。
 高速道路なら、きついと思えば仮眠できる駐車場がたくさんある。
 果たして、1時間も運転しないうちに集中力が低下してきた。すぐに車を止めて横になって一眠り。一眠りのつもりが、目が覚めるとすでに夕刻だった。
 そんな時には、僕は一切眠気に逆らわないことに決めている。安全のためというよりは、あれほど気持ちがいい時間はない。

 ただ、本来なら明るい時間帯に到着してカタツムリを探す場所を下見しておく予定が、真っ暗になってからの到着になった。
 カタツムリを探すのにいい条件は雨と夜であり、さっそく山に入ろうと試みるが、何分完全な暗闇に包まれており初めての場所は道が分からずに断念。それで、付近のよく知っている場所へ行ってみることにした。
 すると、今回探したかったカタツムリのうちの3種類、さらに、他に楽しい外道を2種類見つけることができた。
 
 

● 2013.11.1 キセル



イトカケギセル
 
 細長いキセルガイの仲間の同定は非常に難しい。
 その産地に何が生息しているのかが頭にあらかじめ入っている場合は、図鑑による絵合わせでも同定可能だが、厳密には、殻の入り口の形状、殻を光に透かした際に浮かぶ上がる殻の内側の形状などで判断するのだという。
 殻の入り口や内側の形状は、軟体の部分を取り出して殻の標本を作らなければ完ぺきには見ることができないようなので敷居が高い。

 僕が最初に撮影したのはナミギセルだった。この種類は割と見つけやすい。
 次がシイボルトコギセル。
 シイボルトコギセルを見かけた時には、何となくナミギセルとは違うぞと思って持ち帰り撮影した。
 図鑑による絵合わせで自分で名前を調べた上で鑑定してもらうと、確かにシイボルトコギセルだったようだ。
 うん、キセルガイもわかるじゃないか!と自信になった。
 しかし、数を見ていくうちにナミギセルならナミギセルで個体差があり、逆に全く分からなくなってきた。
 
 今日の画像のキセルガイは、素性が確かなものを送ってもらったもの。
 他にもそうして数種類を撮影したのだが、スタジオで撮影をすると、ただひたすらに難解だったキセルガイにも興味や愛着や思い入れが湧いてくる。
 それもそのはず。
 キセルガイを一種撮影するのに、だいたい1時間くらいを要しているのだが、一時間も同じ貝を真剣に見つめ、
「顔出せ!」
「動き悪いぞ!」
「向きが違うだろう!」
「はい、水分補給。」
 と向かい合えば、誰でも何らかの感情は湧いてくるだろうと思う。
 写真撮影は非常にメンドクサイのだが、その面倒で時間がかかることが僕にとって大切であり、写真は生き物を見つめるための儀式なのだ。
  
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2013年11月分


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