撮影日記 2013年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2013.1.27〜29(日〜火) 幻の滝

 仲間と一緒に幻の滝を目指すことになった。約束の時間は、麓の駅に9時。遅刻をしないように朝は早めに事務所を出る。
 免許書入りの財布がないことに気付いたのはそれからしばらくしてから。
 事務所にそれを取りに戻って15分のロス。免許書を忘れたことに気付いた場所までまた到達するのに15分。随分時間をロスしてしまった。

 本来の予定では、途中で自宅に寄って登山用に購入してある軽いカーボンの三脚を車に積み込む予定だったのだが、30分のロスでその時間がなくなった。よりによって険しい斜面を登る日に重たい三脚を担がなければならないとは、自分の不甲斐なさに腹が立って仕方がない。
 まあ、良かろう。世の中には、好き好んで重たいものを持ち上げるトレーニングに励む殊勝な人がおられるのだから、今回は筋トレも兼ねていると考えることにしようか!
 僕は、とにかくうっかりが多い。
 僕のようなうっかり者はきちんとパターンを決めなければならない。財布は絶対にこの籠の中に入れる。出かける時はその籠ごと車に積み込む。今日は籠は不要と思っても、ロボットのようにそのパターンを守る頑なさが必要だ。
 今回はそれをちょいと崩したら、このざまだ。


NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD800 TAMRON SP 70-300mm F/4-5.6 Di VC USD SILKYPIX

NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

 冬の景色の撮影に関しては、北日本や雪国には絶対に勝てないと思い込んでいた。が、西日本には西日本の冬景色がある。
 それを教えてくださったのは、ある編集者だった。
 名作と誉れ高い写真集を何冊もプロデュースしてきたその方に写真を見てもらった時のこと。パッ、パッ、パッと写真を見ていくその手が、冬の渓谷で氷漬けになった椿の葉っぱの写真のところでハタと止まった。
「これはいい写真ですね・・・。こんなの初めて見たなぁ。」
 と。
 その一言は、写真のテキストに書いてあるどんなすごいテクニックよりも、僕にとってはありがたかった。
 常緑の木が写らない方が冬らしいと思っていたのが、ありのままでいいんだと思うようになった。

 何をするにせよ、技術は独学で身に付ければいいというのが、僕の考え方だ。
 人からは、物の見方、考え方を学びたい。
 写真家と接するにしても、僕は、尊敬する写真家のテクニックや作風ほど真似たくない。それよりも、その人の精神を学びたい。
 一目で、あっ、これは誰々さんの影響を受けているなとわかるような写真は絶対に撮りたくない。僕が尊敬する写真家の作品は決して誰々風ではないし、その姿勢こそを真似たいのだ。
 とは言え、武田風を確立するには程遠いのだけど。
 
 
 

2013.1.24〜26(木〜土) 夜の撮影


NikonD800 Ai AF Nikkor 28mm F1.4D SILKYPIX

 月明かりをたよりに夜の風景にピントを合わせるのも不可能ではないが、やっぱり暗くて不正確になりがちなので、できれば明るい時間帯にカメラをセットしておきたい。
 だから夜景を撮影する際には、日暮れ前には現場に到着するようにしている。

 月明かりで写真を撮るのだから、月の大きさが重要になる。
 月がなるべく大きい方がいい場合もあれば、半月くらいの方が適する場合もある。
 月明かりが小さい方が、空が暗くなるので星が良く写る。しかし同時に、光量が少なくなるのでシャッターを開けなければならない時間が長くなってしまう。谷の場合は暗いので、満月に近い日を選ぶ。
 いずれにしても月齢表を見て、だいたいこの日〜この日の間と撮影の日を決める。

 明るいうちにカメラをセットしたあとは月が理想の位置にやってくるのを待つが、その時間が長いと、夜の谷は正直に言えば怖いのでつらい。
 僕の場合、待ち時間はせいぜい3時間くらいにおさまってほしい。夕方18時頃にカメラをセットしたなら、その3時間後の21時くらいまでには撮影を始めたい。写真を撮り始めると、不思議と恐怖感はなくなる。

 月の出の時刻は、一日につき約1時間遅くなっていく。
 今日月がある程度の高さまでのぼり、明かりが谷に挿し込むのが20時だとすると、明日は21時、明後日は22時頃になる。
 夕刻17時にカメラをセットしたとするならば、今日の待ち時間は3時間、明日は4時間、明後日は5時間と待機しなければならない時間は日に日に長くなっていく。
 したがって、満月に近い日の中で、なるべく早い日に撮影したい。
 今月の場合は、22日、23日、24日あたりがその日であった。
 谷での撮影終了後、月の周りに発生した光冠が美しかったので、そのままカメラを上に向けて数枚写真を撮った。


NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX
 
 僕は朝型人間なので夜は集中力がひどく落ちるし、夜車を走らせて事故など起こさないように、夜景の撮影終了後は、近くの道の駅に車をとめて眠る。
 翌朝は、付近をうろうろしてみる。
 カーナビに表示された池を見に行ってみたら、ヤマアカガエルの卵が大量に産み落とされていた。
 こういうついでは非常にうれしい。
 カエルの産卵はしばしば雨の日になり、機材の管理が難しいが、この場所はすぐ近くまで車を入れることが可能なので理想的だ。
 唯一の難点は、ひどくぬかるむこと。ここで撮影すると、下半身は泥だらけになる。
 しかし、付近に水道がある。
 
 
 

2013.1.22〜23(火〜水) 氷とデジタル

 氷がデジタルカメラではどうしても写らない。画像がべたっと平坦になってしまう。
 氷のような輪郭がはっきりしない被写体は、デジタルカメラでは写りにくい。一方で輪郭が分かりやすい被写体の場合は、デジタルカメラが強い。


PENTAX645N A645マクロ 120mmF4 Fuji RVP よりスキャン

 大昔にフィルムで撮影した氷の写真を数枚、スキャナーでデジタル化してみた。
 残念ながら、民生用のスキャナーでは、デジタル化をした途端に絵はやはり平たんになってしまう。特に35ミリ判のフィルムは厳しく、これなら最初からデジカメで撮ればいいや、という気持ちになる。
 がしかし645判のフイルムなら、民生用のスキャナーでも後の画像処理さえ良ければ、デジタルカメラよりも優れた絵が得られる。
 仕舞い込んでいた645判のフィルムカメラとレンズを数本引っ張り出した。久しぶりにそのファインダーをのぞきこんでみると、広くて実に気持ちがいい。
 ブローニー判のポジフィルムって、今そこらのカメラ屋さんで売っているのかな?

 フィルムと言えども印刷の際にはデジタル化することになる。そしてフィルムの良さを引き出すためには、民生用のスキャナーではなくドラムスキャナーを使用する必要がある。
 が現実的なことを言えば、ドラムスキャンを依頼するとフィルム一枚につき数千円単位のお金がかかるので、仮に今フィルムを使うとするならば、ここぞ!という時だけになる。
 
 昨年末にある集まりで教えてもらったのだが、最近では、印刷所でフィルムを印刷する時でさえ、ドラムスキャナーは使われなくなったのだそうだ。
 スキャンするフィルムをずらりと並べて、フラットベッドスキャナーで一気にスキャンしてしまうらしい。
 どうりで、ここのところ、フィルムを印刷に回すと結果が悪いはずだ。
 
 
 

2013.1.20〜21(日〜月) 新しいもの


昨年12月/携帯電話のカメラより

 左下が、有名な昆虫少年の宮田紀英君。画面上部、茶色いシャツの青年が、やはり有名な昆虫青年の工藤誠也君。
 画像は、昆虫写真家の海野和男先生の作りかけの本に誤りがないか、二人がチェックしている様子で、怪しい記載を見つけると、アイフォンを使ってインターネットで検索をして真偽を確かめるのが今の若者流だ。
 僕は、携帯電話やスマートフォンは基本的に嫌いだけど、この日はカッコイイな!と思った。
 ある程度以上の知識があり検索のためのキーワードが分かる人にとっては、スマートフォンは大抵のことをその場で調べられる強力なアイテムになる。
 ついにそんな時代になったのか・・・

 これからの時代は、好き嫌いや今それを自分が必要としているかどうかにかかわらず、新しいものは一通り取り入れざるを得ないと思う。パソコンが嫌いな人でも、デジタルカメラを使おうと思うのならパソコンを持たざるを得なくなったように、何と何がリンクしてくるかがわからないからだ。



 さて、動物病院から、犬の予防注射の時期を知らせるはがきが届いた。
 そのはがきの前に置かれた丸い物体は、ウェブカメラと呼ばれている小型のカメラで、通常は、スカイプなどのサービスを利用して、インターネットに接続されたパソコン同士でテレビ電話のようにやり取りをする際に使用する。
 価格は、びっくりするくらい安い。
 この手のカメラを使うためには、だれか相手が必要になるのだが、複数のパソコンを持っているのなら、それぞれ別のIDでスカイプにログインすれば自分のパソコンどうしで通信をすることができる。
 今回は事務用のデスクトップパソコンに接続されたカメラの映像を、タブレットPCの画面に表示させてみた。



 スタジオで動物の脱皮や羽化や孵化を待つ際にこの仕組みを使えば、スタジオに釘付けで待つ必要が無くなる。タブレットPCの画面でスタジオの様子をチェックしながら、別の部屋で別の作業をすることが可能になる。
 うちの場合スタジオとパソコン類が置いてある部屋は別になっているのだが、5MのUSBの延長コードを連結すれば、スタジオに設置されたカメラの映像をパソコンの部屋まで届けることができる。
 或いは、スタジオにノートパソコンを持ち込んでもいい。
 
 
 

2013.1.18〜19(日) コントラスト


LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8

AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

TAMRON SP AF90mmF/2.8 Di MACRO1:1

 スタジオで、3本のマクロレンズをテストしてみた。
 一番上がライカの APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8で撮影した画像。
 真中がニコンの AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)。
 下がタムロンの SP AF90mmF/2.8 Di MACRO1:1。
 タムロンは焦点距離が違い過ぎるので、あくまでも参考として掲載。

 ライカは100ミリ、ニコンは105ミリなので、同じ位置から撮影した場合ニコンの方がやや大きく写るはずだが、実際にはライカの方がやや大きく写る。
 カタログに記載されているレンズの焦点距離は無限遠の時の状態であり、実際にはピント合わせの際に焦点距離は多少変化する。その変動が大きなレンズもあれば小さなレンズもあって、カタログ上でより望遠のレンズの方が必ずしも大きく写るわけではない。
 最近ではニコンの AF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VR IIでその焦点距離の変動が大きく、200mmにセットしていていも、撮影距離によっては実測で135mmよりも短くなっていることが問題になったりもした。
 
 描写に関しては、WEBで、しかもこんなに小さな画像ではほとんど何も分からないと思いつつ、遠目に見たときには、ニコンの方がライカよりもややくっきりコントラストが高く見える。元になった画像をフォトショップで開き大きな画面に映し出せばそれがより顕著になり、おそらく多くの人がニコンの方がシャープだと感じるだろう。
 

LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8

AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

TAMRON SP AF90mmF/2.8 Di MACRO1:1

 ところが部分をアップにしてみると、ライカの方がハイライトからの描写が豊かで、ややコントラストが高い。微妙な差ではあるが、より被写体の丸みがよく再現できており、よりリアルで力がある。

 つまり、全体のコントラスト(見かけのコントラスト)はニコンの方が高く、部分のコントラストはライカの方が高い。
 どちらがより優れているのかは使用目的によりケースバイケースであり一概には言えないが、ライカの画像とニコンの画像のコントラストを同じように上げていった場合に、すでに全体のコントラストが高いニコンの方が先に破綻をはじめ、それ以上コントラストを上げられなくなる。
 つまり、ニコンの方が飽和しやすく、ライカの画像の方がよりポテンシャルが高い。
 例えるなら、ライカは素肌がきれいだけどまだメイクをしていない女性。ニコンは素肌は並みだがバッチリメークを決めた女性。
 とはいえ描写の違いは極々小さな差であり、操作性の部分を加味すれば、ニコンの方が断然に扱い易い。
 
 
 

2013.1.18〜19(金〜土) 予算

 ここ2週間で、3つほど新しい企画を準備した。パソコン上で本の見本を作る時間は、一番楽しい時間の1つだと言える。
 そうした作業を、もう20年以上前になるが、昆虫写真家の海野和男先生に見せてもらった。
 タムロン社製のフォトビジョンという製品でフィルムから作成したデジタルデータを、マッキントッシュのパフォーマー630にプリインストールされていたクラリスワークスというソフト上でレイアウトするやり方だった。
 ここ数年、そうした作業を楽しむゆとりがなかった。
 原因は、普段の計画の中に、企画のための時間を特に割り当てていなかったことだった。空き時間にやればいいと思っていた。
 しかし、そんなに空き時間などあるわけではないし、ゆっくり構想を練ることから遠ざかってしまった。
 つまり、時間配分ができていなかった。
 今年になってから、本作りをする日を週に一度定め、「企画の日」と名付けることにした。
 僕はのめり込みやすいタイプなので何か一点に偏りがちであり、時間、体力、お金・・・あらゆる面でペース配分というやつが上手くない。
 
 中でも、一番適当にあつかっていたのがお金だった。
 例えばスタジオでの仕事が続くと、僕はそれにどんどん設備投資をしたくなりお金を使い果たし、次の仕事、例えば水中撮影に取り掛かった時には、すでに金欠で全く投資ができないなどということが頻繁に起きた。
 そのお金も、しっかり管理することにした。自分の仕事を、一般の撮影、スタジオ、水中などとジャンルに分け、それぞれ幾ら予算を分配するかを先に決めた。
 機材にどれだけお金をかけるかについては、人それぞれの考え方があり、コストがかさむことを嫌うかたもおられるが、僕は、放っておくと、とことんお金をかけたくなる。
 
 さて、水中撮影の道具を改造しようとしたら改造が難しく、その結果、予想以上にコストがかさむことがわかった。本来の予定では、その改造後に、新たに別の水中撮影用の道具を一台特注することにしており、発注直前の具体的な検討段階に入っていたのだが、そちらは先延ばしになった。
 これまではそんな場合は、武田王国の国債発行と称して予算を拡大し、改造も、新しい水中カメラの準備も両方やっていたのだが、今度はしばらくは、徹底して自己管理をしてみようと思う。
 
 
 

2013.1.14〜17(月〜木) 規格外のクオリティー

「すごい。誰の写真だ?こんなすごい写真を撮るやつがいるのか!」
 インターネットを利用した調べ事の最中に、一枚の画像が目に留まった。
http://www.stephendalton.co.uk/photo_1235748.html
 写真家の名前を見て安心した。
 スティーブン・ダルトン氏の写真だった。

 まあ、ダルトンなら・・・
 現状ではダルトン以外でこのクオリティーは考えられないだろう。技術的な面で僕が最も衝撃を受けたのが、スティーブン・ダルトン氏の写真だ。
 本当は影響を受けたと書きたいが、影響すら受けることができないくらいに、まさに桁外れであり、規格外。
 ダルトンの写真を見て一目瞭然なのは、写真の照明の基礎は絵心だということ。
 それを重視しない人がどれだけ照明技術を磨いても、伸びしろは大きくないことは最初から見えているし、そんな人が下手に技術を駆使すれば逆にその写真は浮いてしまう。



 さて、僕が初めてダルトンの写真を見たのは、大学の3年生の時だった。
 すぐに真似をしてみた。
 昆虫や鳥の瞬間写真にチャレンジした。
 当時撮影したフィルムを一枚スキャンしてみたが、残念ながらというか、当然というか、まあ、鳥が写っているだけです。
 照明の基礎を全く知らないのだから、真似ようがなかった。
 また、ずっと後になってようやく理解できたのだが、撮影の規模、費用、費やす時間など、すべてが一大学生に再現できるような規模ではなかった。
 ダルトンの写真の中にトカゲの仲間が水面を走っているシーンがあるのだが、その一枚の写真を撮影するのに10匹のモデルを死なせたのだという。
 そこまでして写真を撮ることの是非はまた別の問題だが、究極の仕事には、しばしばそんな側面が付きまとう。
 究極を目指す料理人なら、これは自分の目指す味じゃないと思えばその失敗作は捨ててしまうだろう。また、メニューを確立する段階でたくさんの捨てられた素材、つまり殺された捨てられた生き物が存在するはず。
 そうした犠牲の上に作られた料理を、多くの人がそれを美味い美味いと食べ、これぞプロの姿勢と褒めたたえる。
 理屈を言えばそれと同じことになる。
 ともあれ正直に言えば、いくら相手がダルトンと言えども、いやむしろ相手がすごい人であればあるほど、写真家は他人を手放しで褒めているようではダメだと思うが・・・
 
 
 

2013.1.11〜13(金〜日) 定点撮影で見えてくるもの


NikonD800 AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR SILKYPIX

NikonD800 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

「人を批判する時は、その人のところへ行って直接言いなさい。WEBを使うのは良くない。」
 と数年前に昆虫写真家の海野和男先生に諌めてもらったことがある。
 WEBを使った何かを批判する運動のすべてが否定されるものではないし、海野先生もそんなことは百も承知だと思う。例えば、公権力に立ち向かわなければならない時にはWEBは武器になる。
 また政治家の場合は例外だと思う。
 政治家が議論をするのは格闘技のようなものであり、そこにはリングがありルールが存在し、批判をした人もみなの審判を受け、自分の主張の責任を取るしくみになっている。
 しかし個人が相手の批判の場合は、全く別次元の話であり、海野先生の指摘はまさにその通りであった。
 僕には闘争的なところがあるので、これは非常にありがたい指摘だった。
 公の場で他人を批判する時は、自分こそが正しいと思っているからそんなことができるわけだが、人は自分が絶対正しいと思っている時が一番危険だ。その結果は何かをより良い方向へと導くのではなく、俺が正しい!といった自己顕示欲を満たすことに留まってしまう。

 さて以前にも書いたことがあるが、定点撮影は、いつも予想以上に難しい。
 この池の場合は、太陽の位置の問題がある。
 撮影を始めた夏場には特に問題がなかったのだが、冬場は池の右側に大きな影ができ、特に先月が厳しかった。
 別の池では工事が始まり水が抜かれた。撮影は水が再び貯められてからのやり直しになる。
 さらに別の池では、大量のゴミが捨てられていたりして、ゴミの掃除から撮影が始まった。
 僕は思うところあり、普段は撮影の現場でゴミ拾いはしないのだが、定点撮影の場合は仕方がない。
 周囲の開拓がはじまり、池の周囲の木の伐採が始まった場所もあり、そんな時には悲しい怒りが込み上げてくる。
 人間って自分の都合ばっかりだ!と。
 定点撮影をすると自然以上に人間のことが良く見えるし、そこには愉快なことよりも不愉快なことが多いが、そんな時ほど冷静でありたい。
 僕はこれまでそうしたことには基本的に触れずにきたが、自然写真家はそんな時どうすべきなのか、定点撮影を始めて以降少々考えさせられている。
 まあ、それが定点撮影をすることの意味なのかもしれないが・・・。
 
 
 

2013.1.8〜10(火〜木) 明日できることを今日するな

 大学のわずか4年間で何ができる?ほとんど何もできやしない、という気持ちになることもあるが、人と出会えたことは大きかった。
 指導教官であった千葉喜彦先生の影響は言うまでもなく、当時助手で若手であった富岡憲治先生や、大学院の博士課程に属しておられたY先輩の影響も強く受けた。

 千葉先生は、大きな目で物を見ることをいつも重視された。
「君ら学生は小さなことに執着して結局何も前へ進まない。宇宙の中で地球がどんな運動をしているのかを調べるときに、研究者は地球は球だと考えるんですよ。実際には地球には山あり谷ありで球じゃありませんね。でもそんなことを言っていたら計算が複雑過ぎて何もできないし、球として計算してそれでわかることもたくさんあるんです。それが大切なんです。」
 と。
 富岡先生は敬虔なクリスチャンだった。誠実としかいいようがない姿勢でいつも研究をしておられた。
 僕は学生生活を終え写真家を目指す際に、富岡先生が研究をする時のように写真に取り組もうとその姿をよくイメージした。
 Y先輩は、進路を決める過程を見せてくださった。ある時Y先輩が、
「研究してお金がもらえるのならやる気になるけど、そうじゃないしなぁ。」
 とぼやいたところ、富岡先生は、
「そんなもんじゃない。研究は、したいからするんだよ!」
 とおっしゃった。
 僕はY先輩の気持ちが分かるような気がした。
 富岡先生がおっしゃるように、研究はしたいからするのだと思う。だがそれとは別に、Y先輩には、大人になりたい、自立したい、人の役に立ちたいという思いが強く、その証が収入だったのではなかろうか?
 僕は、もしも誰かがパトロンになってくれて、
「人から求められた写真なんて撮らなくていい。あなたが自ら撮りたい写真だけを撮りなさい。」
 と言ってくれても、その道は選ばないような気がする。それよりも、それが自分が本来撮りたいというよりは人から求められたものだったとしても、仕事として写真を撮りたい気持ちが強い。
 ともあれ、ある日Y先輩は大学院をやめ、水族館へ就職された。
 そう言えば、ある時富岡先生が、
「今日できることを、明日に伸ばすな。」
 とおっしゃったところ、洞くつ探検隊のメンバーとしてトルコを探検したことがあったY先輩が、
「明日できることを今日するな、という格言がトルコにあります。」
 と少しおちゃらけて反論したことがあった。
 人は、死ぬまでにここまで達成できなければ生まれてきた意味がないなどということはないし、僕は、人間はみんな道半ばで死ぬのだと思う。
 したがって、今日できることを明日に先延ばしにしても、しなくても、死ぬときはどうせ道半ばであり、究極のところでは同じだと思っている。
 だから心情的にはY先輩の主張に強くひかれるのだが、自分が自然写真の仕事をするにあたっては富岡先生のように取り組んでいる。
 日本の社会の場合、「今日できることを、明日に伸ばすな。」の方が、ちょっとだけ得をするようになっている気がするから。
 千葉先生は、そんなY先輩のことを非常に高く買っておられた。
「あいつは、どんな時でも深刻にならず、明るいところが非常にいい。」
 と。
 Y先輩褒めた言葉だが、僕にとっても意味がある言葉だった。
 
 
 

2013.1.6〜7(日〜月) 老眼

 昨年、生まれて間もないカタツムリが糞をするシーンを撮影しようと試みたことがあるのだが、これが思いがけず難しくて時間がかかり、結局写真が撮れた頃には、カタツムリが多少大きくなってしまった。
 極小のカタツムリが糞をする兆候が、どうしてもつかめなかった。
 原因は老眼だった。
 それにしてもこの年でこの老眼はひどいのではないか?こんなに見えないものなのか?と感じた。
 そもそも、老眼という名前が良くない!と腹立たしさがこみ上げてきた。
 ところがある日、近くが見難い原因は老眼だけではないことに気付いた。
 それはある晩、コンタクトレンズを外した状態で本を読んでいる時に、近くが非常によく見えたのだ。
 おや?今日はえらい良く見えるなぁ・・・
 ああ、そうか!
 コンタクトレンズを付け近視を補正すると、遠くは良く見えるが、近くは見にくくなるんだ!
 実は僕は、遠くの生き物を見つけやすいように、やや過補正気味のレンズを使用してきた。
 そしてこれまでは、それでも近くを見ることに不自由を感じたことはなかったのだが、徐々に老眼になり、ついにそれでは差し障るようになってきたのだった。
 今日は新しいコンタクトレンズを作った。
 度を弱め、近くと遠くの見やすさのバランスを取った。
 
 
 

2013.1.2〜5(水〜土) 企画の日
 
 以前は、自作の本をよく作ったものだ。
 本を作るといっても製本するような作業は不得手であり好きではないので、ただ紙の上に写真をレイアウトし、それに簡単な文字をつけるだけのものだが、とにかく、自分の写真をよく見て、並べたものだった。
 当時はフィルムスキャナーを買うお金がなかったので、タムロン社製のフォトビジョンという製品を使ってフィルムをデジタル化した。
 フォトビジョンで作成したデジタルデータは、印刷物に使えるようなレベルではなかったが、とにかく楽しかった。
 1ページ作っては次のページを作るための撮影にでかけるような、写真の撮り方だった。

 フォトビジョンじゃなくて高性能なフィルムをスキャナーが欲しいなぁ・・・と何度となく思った。
 その高性能なフィルムスキャナーを仕事に使いたいわけではなかった。
 そんなことよりも、高品位な自作の本を作りたかった。
 その自作の本も別に人に見せたいわけではなく、最終的な目標は出版社からの出版だったのだから、単なる通過点に過ぎなかった。
 だがそれでも、自分を唸らせるような高品位なものであってほしかった。
 いかにも趣味的、道楽的な発想の一人遊びだが、今年は、そうした作業を復活させる予定だ。
 写真にはそんな要素が必要だと感じるようになってきた。
 生き物の活動が活発な時期には難しいかもしれないが、冬場は、1〜2週間に一度くらい、そんな時間を作りたい。
 なんとなく、『企画の日』と名付けて、そっそく計画表に記入してみた。
 
 
 

2013.1.1(火) 年末年始

 子供の頃(時に小学生の頃)、僕は学校でよく怒られた。先生の話をほとんど聞いていなかったから、怒られるのは当然だったと言える。
 僕はストーリー派で単なる暗記は大の苦手だが、脈絡のあることに関しては、たいてい同級生よりもはるかによく覚えている。しかしその中に、先生の話の記憶はほとんどない。

 厳密に言うと聞いていなかったというよりは、ちょうど難しい本を読んだ際に字面を追うことはできても何も頭に入らないのと同様に、解ができなかったし、頭に入らなかった。
 同級生のみんなに全くついていくことができなかったし、同級生全員が、自分よりもずっと大人に感じられた。
 話が聞けないものだから、自分が何をすればいいのか学校ですぐに分からなくなるし、いつも友達にたずねた。そして教えてもらえれば、
「ああ、ありがたいな。こいつがいなければ、僕は暮らしていくことができない。」
 と友に感謝したが、たまに自分も分からないというような返事が返ってきた時には、
「ああ良かった、僕だけじゃない」
 と何とも言えない安心感があった。
  
 さて、年末年始でみなさんがあちこちで挨拶を交わしているのを見聞きすると、その子供の頃の感覚が蘇る。
「よいお年を・・・」
 とか
「明けましておめでとうございます。」
 などと言われても、世間の人の感覚が僕には全くピンと来ないのだ。
 みんなが大人に感じられ、自分だけがついていけない感じがする。
 だから、人と距離を取りたくなる。人に会わなければ、最初からそれを感じることもない。

 一方で、社会人としては、世間の風習に合わせなければならないこともたくさんある。
 だから仕事の現場では、自分なりに、世間に精一杯合わせようとした。
 まずは写真家というよりは一社会人として受け入れてもらえるように、自分の自然写真がビジネスとしての体をなすように努力をしてきた。
 子供の頃からそれが不得手であり、その自覚が強くあったからこそ、その努力ができた面があると思う。
 同時に、それでは最初から世の中のことがよくわかるタイプの人には敵わないな、とも感じる面もある。
 ともあれ、今年は必ずしも世間の風習に合わせようとするのではなく、自分を分かってもらうための努力をやってみようかと思う。
 
(お知らせ)
2012年12月分の「今月の水辺」を更新しました。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2013年1月分


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