撮影日記 2012年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2012.12.29〜31(土〜月) 引っ越し

日記および今月の水辺を、別のサーバーへ移動中です。
それにともない、もしもどこかで不具合が生じていたら、是非教えてください。
 
 
 

2012.12.27〜28(木〜金) 性格



 僕は金魚にひどくのめり込んだことがあるが、昆虫写真家の尾園暁さんも、金魚に夢中になっておられる。
 尾園さんは、いろいろな種類の金魚に興味をもち、中でも、ちょっと変わった品種を好まれるように僕の目には映る。
 つまり、バリエーションを楽しんでおられる。
 なるほどなぁ。さすが!図鑑を出しているだけはある。
 図鑑を作ろうとすれば、多くの種類の生き物の写真が必要になる。図鑑作りはある意味カメラによるコレクションだと言える。
 僕の場合、金魚の撮影の仕事を多少引き受けたこともあり、その際に数種類の金魚を購入したが、本当に欲しくて買った金魚は琉金という一品種のみだ。
 それを繁殖させ稚魚を育成し、自分の好む形に育てることが喜びであった。
 僕は、種類を集めるよりも、1つのことを徹底して追求したい気持ちが強い。
 写真も、気軽にスナップ的にパッパッパッと撮るよりも、じっくり構えたくなる。一日に一種類の被写体しか撮影しない日も珍しくない。
 僕のような収集癖があまり強くないタイプの者が、図鑑を作るのは難しいだろうと思う。唯一、カタツムリの図鑑だけは、いずれ作ってみたいと思っているのだが。
 ともあれ、その人の性格が滲み出る。

 昨晩の夜景の撮影の待ち時間は、将棋ゲームで過ごした。
 が、早く撮影したいという気持ちが先立ち、少々集中力を欠き、機械に散々打ちのめされてしまった。
 将棋は面白いが、大変に頭を使うので気軽にできる遊びではない。
 将棋も、僕は構えたくなる。長考したいし、がっちり守りつつがっぷり組んで戦いたいし、手数は伸びるし、対戦が長くなる傾向がある。
 性格なんだろうな。
 この日記の文章も長くなる。
 写真に関して言えば、必ずしも自分の性格に合わせて撮影するわけではなく、逆に不得手と思われることに時間をかけ、克服しようと試みることも多い。
 が、最後の最後は自分の得意なところで勝負するのは言うまでもないし、今まさにそれをやろうとしているところであり、撮影に限らず、金魚や将棋や釣りや・・・いろいろな物事に打ち込んだ際に自分がどんな傾向にあるのかを分析し、整理しているところだ。
 
 
 

2012.12.26(水) 種親


古いフィルムよりスキャン

 お笑いの 欽ちゃん こと 萩本欽一 さんが、
「お笑い芸人は、面白いことをやっているようではダメ。何も面白いことをしなくても、その人がいるだけで笑いが取れるようでなければ。」
 と語るのを聞いたことがある。或いはご本人の言葉ではなく、お弟子さんが欽ちゃんの教えとしてしゃべったことだったかもしれない。

 さて、僕は、何か決定的な瞬間が写っている価値ある写真、いかにもスゴイ写真よりも、何でもないただ生き物が写っているだけなのに、何か妙に力があるというタイプの写真が好きだ。
 元々、そんな写真を目指していた。
 ただ、仕事の現場では、逆のタイプの写真が求められる。
 例えば、背景に季節を表すような何かが写っているけど、特別に力があるわけではない動物写真と、他に何も写ってないけど力がある動物の写真とては、ほぼ間違いなく前者が使われる。
 なぜ、みんなそんな写真ばかりを選ぶんだ?と一時期よく考えたものだが、ある編集者が、
「そうなるのは、本は初めにテキストありきで、そのテキストに合う写真を探すからですよ。」
 と教えてくださった。
 例えば、
「4月、冬眠していたアマガエルが目を覚ましました。」
 という文章が先にあるのなら、写真そのものの力の有無よりも、4月を象徴する何かが写っている写真を選ぶのは当然のことだと言える。
 出版社によって、多少の違いはある。ある社はテキストを徹底して重視するが、いい写真があれば、テキストの方を変えてしまうような社もあるにはある。
 が、本を売ることに関しては、テキストを重視している社の方が成功しているケースが多いように感じられる。
 だからテキスト重視であることは正解であり、僕の方に商才がないんだろうなと思う。
 ともあれ、そんな業界の中で仕事をするうちに、いつの間にか、元々自分が目指していた写真を見失い、あまりにもテキストにかなう写真を意識しすぎている嫌いがあるのでは、と最近感じるようになった。

 事務所で仕事をする日に、毎朝古いフィルムを数枚スキャンしてデジタル化していることは以前にも書いたが、古いフィルムを今眺めてみて思うのは、その写真が売れたか売れなかったかは、案外自分にとってどちらでもいいということだ。
 写真を売るとお金を得ることができる。が、使えば写真は古くなるし、写真を消費している感じがする。
 売れなかった写真は、自分のために残っていく感じがする。
 別に、必ずしも写真が使われなくてもいいじゃないか!
 金魚を育成するプロは、一番いい魚は売らずに自分の手元に置いておき、次の世代を得るための種親にするのだが、僕の写真にもそんな要素が必要であり、すべての写真が売れる必要もなければ、すべての写真を発表する必要もなく、種親になる写真があるべきだと思えてくるのだ。
  
  
 

2012.12.22〜25(土〜火) 旬

 来シーズンは、カタツムリの本が、新たに2冊出る予定になっている。
 カタツムリに関しては過去に数冊の本を作ってるが、当然新しいものを作るたびにより良いものを追及するのだから、段々敷居は高く、難しくなってくる。
 他に、過去に月刊誌として出版されたカタツムリの本が、来年単行本として出版される。そうして写真や本を使い捨てにしない出版社があることには、とにかく感謝したい。
 そちらは随分前に作った本だが、今見ても決して悪くないし通用する。
 ただ、過去に作った本が別に悪くなかったとしても、もしも新しい企画で新たに本を作る時には、同じようなものを作ろうとするようでは話にならないから、僕は、常に変わろうとする。

 一方で、変わらずやり抜かなければならないこともある。
 だから、ただ変わればいい訳ではないと思う。
 やり抜くことに関しては、どんな人の説教よりも、自分自身が過去に書いた文章を読むことがいい薬になる。
 自分が書いたものには、反論しようがない。僕が撮影日記を更新することには幾つかの動機があるが、その中の1つに、未来の自分に読ませるためという側面がある。
 日記には、その時ふっと感じたことを書いているのだが、最近は、ふっと感じたその余韻が残っている間にそれを文章化する時間のゆとりがないのが悩ましい。
 後から思い出してそれを書こうとしても、すでに旬を過ぎており、感じたことはサラリとどこかへ逃げて行った後なのだ。
 それは、メモを残すというようなやり方では、捉えることができない。
 自分が何を優先し、何を後回しにするのか、再度心を整理する必要があると感じている。
  
  
 

2012.12.21(金) 合併吸収の波

 自然写真と言っても、人それぞれ。
 ただ幾つかのタイプがあって、僕が見たところによると、日本の自然写真界は大きく3つに分けることができるように思う。

 1つ目は、僕らのような生き物オタク系。ある部分、生き物の研究者も兼ね、写真に何が写っているかで勝負をするタイプの写真であり、自然を観察する力や洞察力が求められる。
 この分野の写真家は、生き物の専門家として時として敬意を表され、尊敬される。
 2つ目は写真系。
 基本的に絵になる被写体にのみカメラを向け、絵画的な写真を撮り、写真雑誌などで活躍する。広く人を喜ばせるセンスが求められ、この分野で仕事をすれば名前が売れる。
 そして、上の2つの分野にまたがって評価された写真家は、しばしば一流と評される。
 3つ目は、教材系。
 学校の教材は、自然写真が使用される場としては大変に大きな場であり、そうした場で求められる資料価値の高い写真を撮る。
 求められるものを求められた通りに撮影する職人的な写真の技術が求められる。
 教材であるから、写真はあくまでも何かを説明するための材料に過ぎず、そこで写真が使用されても名前が売れることはない。が、上の2つの分野と比べると教材系の自然写真は実用の度合いが高く、稼ぎは大きい。
 
 以前は、この3つの業界は、わりとしっかりと分かれていた。
 が、最近は自然写真業界でも合併吸収の動きが盛んになり、境界があいまいになる兆しが見え始めた。
 この先どう推移するかには多少の不安もあるが、時代の流れは止めることはできないし、それを考えても仕方がない。
 そんな心配をするくらいならば、変化を逆手に取る努力をした方がいい。僕は生き物オタク系の写真から、少々手を広げてみようかと考えている。
 教材系の写真に関しては、昨年から多少取り組んできた。
 1年間やってみて、資料価値がある写真とは、きちんとそろっている写真であることがわかってきた。
 例えば何でもない池の風景の写真でも、定点撮影で12ヶ月分揃えば、資料価値が生じる。
 がしかし、一つでも欠けると価値はがた落ちする。
 野球のチームを作る際に、メンバーが8人であるのと9人であるのとでは、人数の差以上の違いがあるのに似ている。
 
 
 

2012.12.20(木) スキャナー



 事務所で仕事をする日に、毎日数枚ずつフィルムをスキャンしてデジタル化するようになっておよそ二ヶ月になる。
 最初は、フィルムの良さがデジタルでは表現できないことに、とにかくジレンマを感じた。フィルムとデジタルとでは仕組みが違うのだから、性質が異なるのは当然のことだと言える。
 どんなにフィルムを一生懸命デジタル化しても、所詮元のフィルムよりも劣る妥協の産物ではないか!フィルムを使うのなら、一般向けに市販されているスキャナーではなく、印刷の現場で使用されていたドラムスキャナーを使用しなければ意味がないのではないか?と感じた。

 ところがその後、スキャナーの設定と画像処理の技術を高めることで、一般に市販されているフィルムスキャナーでも、かなりのところまでフィルムをコピーできるようになってきた。
 スキャナーの設定では、ニコンのフィルムスキャナーの場合、マルチサンプルスキャニングの16倍を使用して最高画質でフィルムを取り込むことが後の結果を左右する。
 マルチサンプルスキャニングを使うと時間がかかり、一枚の画像をスキャンするのに数十分を要する。しかも人によっては、それを使ってもあまり変わらないという方もおられる。
 が、一般に市販されているスキャナーでフィルムの調子をギリギリまでコピーしたいと望むのなら、これを使うのと使わないのとでは、その最後の一歩のところで大きな違いになることが分かった。
 これまでフィルムでしか出ないと思っていた色の多くが、画像処理技術を高めることで実はデジタルでも再現できることも分かってきた。
 時々、フィルムをスキャンした画像をWEBで見せ、この色はフィルムでしか出ないと言う方がおられるが、フィルムをスキャンした時点でそれはすでにデジタルであり、それで再現できている色については、デジタルカメラでも再現できるはずだ。
 もちろんどうしてもフィルムでしか出ない色もある。が、それはパソコンの画面上では表現することができない。
 色の他に、フィルムとデジタルには調子の違いがあり、例えばフィルムの粒状性などのように、フィルムをスキャンしてデジタル化することではある程度再現できても、デジタルカメラには最初から写らないものもある。
 ともあれ、フィルムをデジタル化する作業が面白くなり、少々趣味のようになってきた。
 
 
 

2012.12.17〜19(月〜水) 更新のお知らせ

11月分の今月の水辺を更新しました。
 
 
 

2012.12.15〜16(土〜日) 勇気



 カタツムリの卵の中に見える模様は、刻々と変化する。いったい中のカタツムリの何が見えているのだろう?
 模様の変化を観察しながら頭の中でいろいろと想像してみるが、しょせん想像であり、100%間違いないと自信を持って言えるような結論を導き出すことはできない。
 それを確かめるには、眺めているよりも、卵を割ってみるのが一番。
 けれども、どうしてもそうする気にはなれなかった。

 なぜだろう?
 なぜ卵を割って中を確認する気になれないのだろう?と自分自身に問いかけてみた。
 もしも僕がカタツムリについて、なるべく正確なことを知り、正確な本を作りたいのなら、卵を割り、何がどうなっているのかを確かめるだろう。
 でもそれをする気になれないということは、僕が求めているのは必ずしも正確さではないことになる。
 恐らく僕にとって大切なのは、何がより正確な知識か?ではなくて、自分の目にどう映ったかであり、その過程を本に著したいのだと思う。
 科学者なら、迷わず卵を割るだろうし、そこに科学者が求めるものと、僕が作りたい本の違いがあることにふと気付かされたのだった。

 ただ、本を作る際に何よりも怖いのは、嘘を書いてしまうことだ。
 本は後々まで残る。
 だからこれまでは、自分が見て撮影したものの中で、確かではないものについては封印をしてきた。
 けれどもそれを封印すると、ほとんど僕しか知らないような現象については触れることはできなくなる。
 科学の世界で何かを断言というのは非常に重たいことであり、断言しようとするならば、さまざまな論理的な実験が必要になる。一写真家の立場で観察という手法のみで、目の前で繰り広げられた自然現象について、「これはこのような現象です。」と断言することは、非常に難しいのだ。
 するとおのずと、すでに科学者によってお墨付きが与えられ十分に分かっている現象のみを本の中で取り上げることになる。
 つまり、新しい本を出したところで、変り栄えのしない、過去に作られたものと同じような本になってしまう。
 それが僕にとっての大きなジレンマであった。
 けれども、勇気を出そうじゃないか!
 先日、上京した際に、そんな自分の思いを正直に相談してみた。
「僕にはこう見えるのですが、科学者が言うようなレベルでは確実ではありません。でも、書いてもいいですか?」
 と。
 
 
 

2012.12.12〜14(水〜金) 餅は餅屋に

 現在、5ヶ所の水辺を定点撮影中だ。毎月撮影している場所もあれば、四季を意識して年に4回と決めている場所もある。
 1つは北九州市内の池。2つ目は大分県内の池。3つ目は広島県内の池。
 4つ目は山口県内の池。5つ目は山口県内の田んぼだ。
 5ヶ所の中には同日に回ることができる場所もあるが、広島県〜大分県にまで広範囲にわたっているので、すべて撮影するためには3日を要する。
 月にたった3日ではある。
 が、この3日を捻出するのは、やってみると意外と難しい。
 いずれも空が画面の中に入るから、気持ちがいい晴れの日に撮影することにしているのだけど、ちょっとばかり池の数を欲張り過ぎたようで、曇りの日が続いたりすると晴れの日が足りなくなりがちで日程のやりくりが厳しい。
 先週は、一週間ほど上京していたので、ただでさえ日にちが足りない上に、帰宅後の天候も悪い。
 さらに、その中での貴重な晴れの日の撮影に出かける直前に、画像処理用の重要なパソコンのハードディスクが突然に故障してしまい、何かとケチがつく。
 呪われているのではないかという気にさえなってくる。
 画像処理用のパソコンが動かなければ不自由する仕事も控えているから、パソコンは大急ぎで修理したい。予備のパソコンもあるけど、1ライセンスしか持たないソフトもあるし、手間がかかる仕事は、日頃使い慣れている道具で済ませたい。
 となると、故障したハードディスクの代わりを購入し、リカバリーして・・・・ああ、嫌になるなぁ。
 ふと、ある方がたまにおっしゃる言葉を思い出した。
「餅は餅屋に」
 そうだ。故障したパソコンの修理は業者にお任せして、僕は撮影に行こう!と。
 自分で修理をするのと比べると、工賃が8000円ほど余計にかかる。
 しかし、僕にカメラを持たせれば、8000円なんてあっとう間に稼ぐんだから・・・と言い聞かせて撮影に撮影に出かけた。
 無事池の写真を撮り終えて帰ってきてみれば、それで正解だったと思えた。
 分業ってスゴイな!

 撮影の帰りに、お店に立ち寄り、修理され出荷状態に戻ったパソコンを受け取る。
 パソコンを出荷状態に戻すためのリカバリーディスク以外に、普段使用しているソフトをインストールした状態でもバックアップを取っていたので、今度はそのバックアップを使うと、1時間ほどで普段使用していた状態へ。
 そのバックアップソフトの設定によっては、いったん出荷状態に戻さなくても、バックアップからいきなり普段使用している状態に戻すことができるはずですよ、とお店でアドバイスを受けた。
 とにかく、バックアップは絶対に取っておいた方がいい。
 
 
 

2012.12.8〜11(土〜火) SSP48

 上京最後の夜は、日本自然科学写真協会(SSP)の集まりに参加した。
 会はちょうど世代交代のタイミング。
 その端境期に、引き継ぎ等が上手くいかずに正直に言えば少々だらしない時期があったが、世代交代が進んだ今は徐々に徐々に改善され、再び充実しつつある。
 インターネットの普及のおかげで「初めまして」という感覚はなかったのだが、芸術家の糸崎公朗さんとは、初めて顔を合わせた。なかなか面白いメンバーが揃いつつあり、数年うちに、極めて稀有な集まりになるような予感がした。
 人に自分のことを知ってもらい、
「ああ、武田さんこんにちは。」
 と声をかけてもらえるのは、極度の団体嫌いの僕であっても、ありがたいなと思う。
 
 僕は会のホームページ制作のお手伝いをしている関係で、ここ数年、会員の画像を毎年百数十枚取り扱っている。
 作業は多少面倒である反面、みなさんの作品は時代を反映し面白いし、僕の役にも立つ。
 ここ数年は、作品のレベルが上がっているように感じていたし、それは過去にもこの日記の中に書いたことがある。
 レベルが上がった理由の1つは、デジタルカメラの普及だと思う。
 が、今年は、逆にレベルが下がったようにも感じられた。
 デジカメ他の新しい機材や新しい手法に踊らされてしまい、写真の基本的な部分が疎かになり過ぎ、
「いくらなんでも、ちょっと雑過ぎないか?」
 と。

 別に批判したいわけではない。
 いわゆる質の高い優等生の写真を見ることができる場所ならいくらでもあるし、それをさらけ出してしまうところが、この会の良さでもあり、
「いくらなんでも、ちょっと雑過ぎないか?」
 と思うことも、楽しさの1つ。
 流行のAKB48などは、完成品ではないところに面白さがあるように感じるのだが、それに通じるものがある。
 そのうちちょっとパクッてSSP48などと称して、ネイチャーフォト総選挙を開催してはどうかと思う。果たして誰がセンターの座を獲得するのか?
 
 
 

2012.12.6〜7(木〜金) 東京の人

 『九州男児』という言葉がある。
 実際に九州に住んでいると、
「これだけ物流が発達した時代に、そんなものあるか!今は全国どこでも同じじゃないか」
 などと思うのだが、東京に出てくると、九州が特殊な土地だと気づかさされる。
 九州は男尊女卑だ、などと指摘されることもあるが、なるほどなと思い知らされる。
 それが厳密に言って、男尊であり、女卑なのかどうかは別にして、男とはこんなもの、女とはこんなものという固定観念が確かに強く、男性にも女性にも同じことをする権利があると考える人にとっては、男尊女卑だと感じられるに違いない。
 
 以前、初めて福島県で撮影した際に、超片田舎だと思っていた福島に、予想以上に都会の文化や物が流入していることに驚かされたことがあった。
 有名な撮影スポットにいくと、九州ではまず見かけないような高価な特殊な機材を持った人がたくさんおられた。
 車のナンバーから、大半は、首都圏の人であることがわかった。
 そこで改めて地図を眺めてみると、新潟県や宮城県の仙台あたりでもそんなに大して遠くない。首都圏には2時間近くかけて毎日通勤している人がいることを思えば、そこら辺りまでは、十分に普段遊びに行ける圏内に収まるだろう。
 その点、九州は遠い。
 
 生き物の出版は東京がスタンダードであり、ほとんど東京でしか成り立たない。
 したがって東京の人の感覚を知っておくことは不可欠。
 編集者が当たり前だと思って求めるシーンや感覚が、九州ではそうではないことは、珍しいことではない。
 子供のころ、生き物の本はしばしばピンと来なかったのが、その原因は、そこらあたりにあったのだと思う。
 また、編集者と顔を合わせることは非常に重要なことであり、仮に仕事の話をしなくても、相手の顔、話し方、しぐさを知っているかどうかだって、結果を左右するように感じる。
 したがって、そこから遠いことは基本的には不利なことだと思う。
 それに対してどうするのかは、いずれ方針を定めようと思っていたのだが、僕の場合は、頻繁に上京する気にはなれないので、スタンダードに合わせるのではなく、影響を受けすぎないように、あえて距離を置くことにした。
 ある方の言葉を借りると、オーストラリアの生き物みたいに隔離された環境で独自の進化を遂げようと。
 
 
 

2012.12.5(水) 水と地球の研究ノートで学んだこと

 人の著作を見て、
「ああ、うらやましいな。こんなのやってみたいな。」
 と感じることがある。
 僕の場合は、よくこんな本が出せたよな、というようなタイプの本を手にしたときに、そんな気持ちになりやすい。
 例えばミミズの本とか、糞虫の本とか・・・、一般的な常識では企画しにくい本に対してそう感じることが多い。。
 逆に、桜の本とか富士山の本のように、いかにも受けそうな本を手にしても、うらやましいという気持ちに苛まれることはない。
 つまり、僕が好きな世界は、企画を持ち込んだ際に、
「うん、これやれそうだね。」
 とはならず、
「これ難しいなぁ。」
 と断られるような世界なのだから、そんな性格だなと思う。

 断れることが続くと、誰しも後ろ向きになる。
 次第に、パッと通るような企画ばかりを考えることになる。
 それはそれでいいことに気づく。
 ただ、それだけではダメだという気持ちが年々強くなってきたのだが、また断れるわけだから、手詰まりで次の一手が思い浮かばない。
 そんな時にどうしたらいいのかを教えてくださったのは、『水と地球の研究ノート』(偕成社・全五巻)の編集者であるOさんだった。
『水と地球の研究ノート』は、他社の複数の編集者から、
「よくこの本を偕成社は出したよな。偕成社はやっぱりすごい出版社ですね。」
 と言われたものだ。
 つまり、定番ではない、非常に出にくいタイプの本だが、最初に企画を持ち込んだ際にOさんが、
「今日、武田さんからプレゼンを受け取ったというよりは、どうしたらこれがプレゼンできるようになるのかを一緒に考えることになったことにしましょう。」
 とおっしゃったのだった。
 ああ、そうしたらいいのか!

 さて、昨日はある出版社で、プレゼンをするのではなく、プレゼンをするためにはどうしたらいいのかを相談してきた。
 新しいことにチャレンジするのは面白い分、非常に疲れることなので、夜はすでによく知っている世界のみなさんと食事をして、張り詰めた緊張をほぐしてもらう。
 上京した際に、そうして心が帰宅する場所があるのは、非常にありがたい。
 人間にはいろいろな要素が必要なんだと改めて感じた一日になった。
 
 
 

2012.12.3〜12.4(月〜火) 将棋

 もしも才能に恵まれていたなら、プロの将棋指しになりたいと望んだ可能性がある。子供のころ、将棋に夢中になったことがある。
 がしかし、囲碁や将棋の世界はまさに才能の世界であり、強くなるような者は覚えてまもなく、あっという間に周囲には敵う者がいなくなるほど突出したものを発揮するのだという。
 勝負事であるから、はっきりする。
 写真の仕事のように、
「僕はこの写真がいいと思うな。
「へぇ、私はこっちのほうがいいと思うな。」
 というような曖昧さはない。
 写真の世界にも
「俺が一番うまい。」
 と豪語する人は存在するが、物事を解決する能力が低い人だと思う。それをどれだけ主張しても、永遠に証明することができない。
 写真のコンテストなどは、審査員が選んでいるに過ぎない。
 俺が一番と主張したいのなら、勝負事を選ぶべきだ。
 囲碁や将棋の世界には、努力などというものでは埋められないものがある。僕の場合、将棋は同級生のイタキチといい勝負であり、その才能がないことは一目瞭然であった。
 
 出版社でのプレゼン用に購入したiPadに将棋ソフトをインストールしておいた。
 普段は待ち時間が耐えられない僕が、それを始めると別人になる。空港で、
「搭乗の案内を・・・・」
 とアナウンスが流れても、もうちょっと待ってよと思えてくる。北九州〜羽田間の飛行時間も短すぎる。
 
 いったん自分が指した手を取り消すことを、「待った」というが、アプリケーションに、「待った」のボタンがあるのが、僕を悩ませる。
 言うまでもなく、待ったは正式な将棋のルールにはない。素人のヘボ将棋で、下手な手を打ってしまったときに、
「あっ、しまった。今のなかったことにして。」
 という無理やりに相手に頼み込む、質の悪い慣習のようなものだ。 
 しかし機械が相手だと、待ったをしたくなる。
 というのも、飛行機に搭乗中の対戦では、旗色が悪かった。
 やがて飛行機は高度を下げ始め、
「すべての電子機器は、電源をお切りください。」
 とアナウンスが流れる。
「これは仕方ないよな」
 とゲームを途中で終わらせ電源を落としすが、内心やれやれ、負けずにすんだと思う。
 負けるのは、気分が悪い。
 負けると気分が悪いからこそ、面白いのだと言える。待ったは、一切ためにならない。
 その面白さを知らないのは、損な人生だと思う。
 
 
   

2012.11.28〜12.02(水〜日) ハウツー

 小学生の頃、
「武田君がこんな悪いことをするので、やめてほしいとおもいます。」
 と僕の行動が、道徳の時間の話し合いのテーマになったことが、覚えているだけでも数度ある。
 また、当時僕の学年を担当しておられた先生のお一人から、
「クラス替えの時に、君を誰が受け持つかでひと悶着あったんだよ。」
 とわりと最近になってから聞かされたこともある。
 僕は問題児だったようだ。

 ただ、生き物の写真撮影のような仕事をしようと思うのなら、必ずしも品行方正である必要はないし、むしろ、学校で先生に褒められているようではつまらないといった面もある。
 例えば、
「チャイムがなったら席につきましょう。」
 と言われて、素直にハイと従い、それが正しいと信じ込めるようでは、自然写真のような仕事は難しいかもしれない。
 何か1つのことにひたすらに打ち込むタイプの仕事には、これ!と決めたら、どこの誰も止めることができないある意味非常識とも言える情熱が不可欠だからだ。
 それが好きで好きでたまらない人の集まりであるから、一般的な会社の感覚で、「この人ヤル気あるよね」というレベルが当たり前であり、その上にさらにどれだけ積み重ねることができるかという部分で勝負をすることになる。
 その積み重ねる部分は、大半の人の感覚で言えば、しばしば、
「この人狂ってるよね。」
 とか
「行き過ぎだよね。」
 と言ったレベルになる。
 日本の小中学校は、均一で立派なサラリーマンを育てるためのシステムだと言える。
 先日、ある学校のPTAの集まりで話をする機会があった。
 僕はそんな機会には、基本は自然や生き物の話であるが、あと1つ、小学生の頃の僕のようなタイプの者の立場にたって話をすることが多い。

 ただ、それはそんな人間もいるという話であり、僕は日本の教育システムが悪いとは思わない。
 日本の教育の良さは、格差が小さく、みんながある一定以上のレベルを持っていることであり、それは日本の社会にはよく合っていると感じる。
「日本の教育は個性を殺す。」
 などと批判される時、なぜ教育関係者は、その良い部分を主張しないのだろうといつも感じる。
 さて、日本人が好きなスタイルの1つに、ハウツー物がある。
 例えば写真雑誌を開いてみれば、ハウツーのページが非常に多く、それが多い本がよく売れ、それを拒否したものをやがて消えゆく場合が多い。
 何であるにせよ、ハウツー物は、人を一定のレベルに導くにはいいが、そこからずば抜けた写真家はなかなか登場しないだろう。
 日本人は、それが好きなんだろうなぁ。
 先日中国の写真雑誌から依頼をされて写真を送った。
 気を利かせたつもりで、ハウツー的な写真を多く選んで送ったら、
「先生、もっと個性的な写真を送ってくださいl。」
 と返事が返ってきて、とても恥ずかしかった。

 明日から一週間は、東京です。
 例によって人ごみにやられてしまい、頭がクラクラして、本物の地震と区別がつかなくなり、その間は、日記を更新しない可能性もあります。
 
 
(写真展のお知らせ)
武田晋一 西本晋也 野村芳宏 の三人展 (一人10点)
 場所   北九州市小倉北区山田町 山田緑地公園
開催期間 2012年11月3日(土)〜12月2日(日)  休園日 毎週火曜日
その他   駐車料 300円 (入館料 無料)
 
 
 
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2012年11月分


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