撮影日記 2012年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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12.5.29(火) 渓流

 スタジオでのアリの撮影は、一から全部やり直すことになった。 
 飼育兼撮影用の容器は、最初、工作のし易さを優先しアクリル製を使用したのだが、アクリルには反るという弱点があり、その結果生じるわずかな隙間から、アリがチョコチョコ、チョコチョコ、脱走をするのだ。
 全部逃げてしまうようなことはなかったけど、どうも気分が悪いし、減った分を補充するために何度も採集にでかけるのも馬鹿らしい。
 新たにガラス製の容器を準備し、その中にアリを入れ、巣を作るのを待つことになった。
 失敗から生じた時間だが、せっかくなので渓流に行ってみることにした。


NikonD800 Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD800 Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD800 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 まずは、風景の撮影から入る。
 僕は、自分の目に見えているように撮影したい気持ちが強い。
 それよりも劣るのは論外だけど、絵になり過ぎてもダメ。
 その印象通りの像を追い求めるには試行錯誤する時間が必要であり、撮影にはそれなりに時間がかかる。特に風景は時間がかかる。
 一言で渓流と言っても様々なタイプの沢があるが、この場所では一枚岩と木漏れ日の印象が強い。
 次にミヤマ川トンボ。最後にカジカガエルという順に撮影を進める予定だったが、トンボの撮影を終えたところで時間切れになった。
 この場所には、仕事の合間を縫い6月上旬中にできれば3〜4回行きたいが、これは仕事の進み具合次第。頑張るしかない。
 
 
 

12.5.27〜28(日〜月) 釣りと言えば・・・

 釣り師とか猟師とか山菜を採る人などは、しばしばマナーが悪い。狩猟や採集の本能が刺激されると我を失いがちになる。それから、食べるという行為に結び付いた時にもそうなりやすい。
 マナーが悪いのは褒められたことではないと思う。
 けど、そうしたことに夢中になったことがない人にそれを言われると、ちょっとカチンとくる。
 あんたはマナーがいいんじゃなくて、それに興味がないだけでしょう、と。
 そう言えば子供の頃、有名な先生が主催するキャンプに参加させられた際に、
「かごの中の虫を逃がしてあげなさい。虫のことを考えてあげなさい。」
 と虫嫌いなインストラクターのお姉さんにしつこく求められたことがあったが、子供心に、胡散臭い印象を受けたものだ。
 しかし、同じ言葉を虫が大好きな人から言われたなら、まったく意味合いが違ってくる。
 別に、釣り師のマナーの悪さを正当化するつもりはない。
 例えば禁漁区で釣りをしてみたり、持ち帰ってはならないサイズの魚を持ち帰るなど、欲望をどうしても抑えられなかった経験がある人が、その後経験を積み、考え、後悔しながら変わっていくことに、人が何かに夢中になる価値があるように僕は思う。
 だから、キャリアを積んでもなおマナーが悪い釣り師は一切認める気にはなれない。
 
 それとはケースが異なるが、釣り師のマナーの悪さを取り上げたテレビの報道番組を見たことがある。海の防波堤の立ち入り禁止の場所に、どんな柵をしたり鍵をかけても、それを掻い潜って釣り師が入ってくるというものだった。
 テレビ局の人が釣り師にインタビューをしたり、それに答えずに釣り場へと向かう人には、
「立ち入り禁止ですよ。危ないですよ。事故がおきたらどうするんですか?」
 などと呼びかける様子が報道された。
 僕は、くだらない番組だなと感じた。
 何の解決にもならないだろう。
「こんなむかつく人たちがいますよ。」
 という内容で人の怒りを煽り、テレビ局が視聴率を取ろうとするだけ。
 立ち入り禁止の場所が世に存在するのは当然だと思うが、自然、特に水辺に関して言えばそんな場所や発想が多過ぎではなかろうか。
 またそれが多過ぎるから、どこが本当に危ないのかが分かりにくくなる。
 そうなるのは、事故が起きた際に管理者が責任を問われるからだが、報道は、
「事故が起きたらどうするんですか!」
 ではなくて、
「何でもかんでも管理者の責任を問うのではなく、事故が起きた際には自己責任を求めましょう。」
 と主張すべきではなかろうか。
 自己責任だから事故が起きても助ける必要がないとまでは言わないが、救援に要した費用は自己負担にすべきだなどと。
 
 
 

2012.5.24〜26(木〜土) 約束の日

 弟と釣りの師匠と3人で、熊本県の山間部へ渓流釣りに出かけた。
 一時期釣りからは遠ざかっていたのが、弟が釣りをしたいというので、年に2〜3回のペースで行くようになった。
 たった一泊ではあるけど、その日が進行中の撮影の重大なシャッターチャンスと重なれば好機を逃す可能性もある。だから約束をするのは気が気ではない面もあるが、腹をくくってこの日と決める。
 だが渓流を歩くと毎回発見があり、それがしばしば新たな撮影のテーマを生み出してくれるから、この時期人と宴会をする約束をする気にはなれぬが、自然の中で何かをするのなら長い目で見れば悪くないとも思う。
 仲間とは、フィールドで会いたい。
 今回はカゲロウの群飛が凄かった。長く渓流釣りをしている僕でも、初めて見る大規模なものだった。
 釣竿ではなくて、カメラが欲しかった。

 僕は、釣りそのものには興味がない。
 僕が好きなのは自然であり、釣りはその表現の手段の1つに過ぎない。
 だから、人の手によって魚が放たれたり釣り場が作られるワカサギやヘラブナを釣りたいとは思わない。
 また渓流釣りでも、人工的なダムや堰などの水たまりで釣りをする気にはなれない。
 別にそれが正しいと思っているわけではない。
 自然という視点から物を見る見方もあれば、それは物の見方の1つに過ぎないし、そうではない見方もある。釣り文化は、それはそれで面白いと思う。
 だからワカサギやヘラブナファンを否定するつもりは毛頭ない。
 或いは外来のブラックバスでも、自分のセンスには合わないし、いろいろな価値観を持つ人が一緒に暮らしていく上で議論の対象にはなると思うが、どちらが絶対的に善とか悪という話ではないし、そういう価値観もあるだろうなとは思う。
 自分とは価値観を異にする誰かを攻撃することに熱心になるより、自分が素敵だと思うものを素敵だと思ってもらえるように訴えたい気持ちが強い。
 少なくとも、俺がルールブックだ、というような振る舞いはしたくない。

 以前、ある場所で写真展を開催したら、そのあたりでは有名な野鳥博士が僕の鳥の巣の写真を見て、
「これは、邪魔な枝をはさみで切ったんじゃあるまいな。」
 と疑っておっしゃったことがあった。
 ふと思い出したのは、小学生の時の記憶。
 近所のマルショクというスーパーの3階にあった文具店で買い物をして帰ろうと思ったら、禿げ頭のおじちゃんに呼び止められた。
「おい、ポケットの中を調べさせろ。」
 と。
 訳が分からずなすがままになっていたら、一通り調べてやがて、
「よし、行っていい。」
 とおっさんが言う。万引きと間違えたのだろう。
 万引きは迷惑な行為だが、自分の権利を超越して人に理不尽に嫌な思いをさせるという意味では、そのおじさんも、野鳥博士も同じこと。
 そうはなりたくないなと思う。
 
 
 

2012.5.22〜23(火〜水) 日常

 春に出版される号の場合、必ずと言ってもいいくらい季節感が求められる。画面の中に春の花が写っている並の写真と、春を象徴するようなものは写ってないが非常に完成度が高い写真とでは、十中八、九、前者が使用される。
 僕はいつも、そこに疑問を感じる。
 春だからと言って、別に春を象徴する物が写っていなくてもいいじゃないかと。
 そう言えば、高校一年の美術の時間。野外でスケッチをした絵をみんなで鑑賞する際に、友人のY君の作品が大変に褒められた。
 先生曰く、
「ここに鯉のぼりが描かれていて、季節感があるのが実にいい。」
 と。
 僕には、その説明が良く分からなかった。今でさえ分からないのだから、当時分からなかったのは当然だと言える。
 何かが描いてあるかどうかよりも、その絵が心を打つかどうかの方が重要であるような気がしてならないのだ。
 一方で、やっぱり季節ってスゴイなとも思う。
 自然は刻々と変化し、今日と明日とではもう違うのである。

 さて、
「イベントをするからと参加しない?」
 と誘われた時に、
「撮影があるから」
 とお断りをしたら、
「撮影は毎日のようにやっているんだからいいじゃない。このイベントは滅多にない機会なんだ。」
 と言われることがしばしばある。
 しかし、自然は毎日変わるし、同じ瞬間は2度とない。
 そんな風におっしゃる方の目には、僕が毎日のように撮影という1つのことを続けているように映るのだろうが、実際は毎日違うものにカメラを向けているのであり、違うことをやっているのであって、言うならば毎日が2度とない特別なイベントだ。
 別に自然写真に限ったことではなく、撮影に伴う工作でも、デスクワークでも、さらには仕事以外の普通の生活でも同じことが言える。
 或いはお子さんがおられる家庭なら、たとえ昨日親子の会話がたくさんあったとしても、今日また話しをすることが何よりもの幸せという方がおられるだろうと思う。
 僕は、非日常よりも日常に価値を感じるし、日常を大切にしたい。
 珍しい生き物よりも、そこらにたくさん生息する生き物を、丁寧に丁寧に見たい気持ちが強い。
 日常を大切にするには、非日常のイベントに参加したり、イベントを開催する以上の地道な努力がしばしば必要になる。
 それは、既婚者が不倫相手と楽しくやるよりも、奥さんや旦那さんと本当の意味で仲良しであり続けることの方にエネルギーが必要なのに近い。
 
 
 

2012.5.20〜21(日〜月) 仕切り直し

「5月中旬までに・・・」
 と依頼されていた撮影の一部が予想以上に難しい。
 5月中旬って、いつのことやろうな?
 15日?あるいは10〜20日の間?
 最初は15日のつもりだったが、間に合わないので勝手に20日までと解釈することにした。
 しかしそれでも間に合わないことは確かなので、期限を延ばしてもらった。
 すべての時間を撮影に打ち込んでいるし、これ以上ない努力をしているので、後ろめたさはなかった。

 最初から難易度が高いことは分かっていたのだが、予想をはるかに超える難しさ。
 子供の本の世界ではよく使用される定番のシーンだが、いつもある人が撮影したものばかりが使用されている。
 なるほどなぁ。難しくて手間がかかるから、他の人が撮影していないんだな。
 特撮を依頼されるのは、10中8、9、撮影が辛いシーンだ。撮影を楽しめる特撮など、僕は経験したことがない。
 ただ、季節がない撮影なので、その点は気楽だ。
 そんなケースでは、まずは当たって砕けろで真っ当に撮影にトライしてみるが、それでダメな場合は、仕切り直して手厚く構え直すのが結局早い。
 今回の難題でも、撮影を仕切り直すことにした。

 犬を散歩させる時間くらいは確保したい。
 それくらいのゆとりをもった上で、まるでそれだけが一生の仕事であるかのように、じっくりと腰をすえて取り組みたい。
 

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 カニの穴を掘る、掘る、掘る。
 掘った穴に顔を突っ込んだら、砂が目に入り、目が痛くなった。


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 難しい絵を要求されると、ある1つの撮影が1日で片付くかもしれないし、2週間かかるかもしれない。やってみなければ分からないのだから、特に撮影の依頼が多いこの時期は、仕事以外の約束ができにくい。
 正直に言えば、時間的な自由がないのはさすがに辛いから、この手の特撮の仕事を止めようか?と考え、講演をしたりなど別のお金の稼ぎ方を検討してみたこともある。
 しかしやっぱり、僕には職人として生きるのが性に合っていると近頃改めて決意を固め、迷いは吹き飛んだ。
 僕は、活動家ではなく、技術屋なのだ。
 
 
 

2012.5.17〜19(木〜土) 少年の日の思い出


NikonD800 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD800 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 高校3年の4月、いよいよ進路を決めなければならず理学部の生物学を選んだのはいいが、高3の理科で僕が選んでいたのは物理であり、生物を受講していなかったのだから困った。
 慌てて先生に相談した。
 2年生の時に選択科目を決める際には、理科系では物理の希望者が多く、1クラスの人数の関係上、
「誰か物理から生物へ変更するものはいないか?」
 と先生の側から生徒への呼びかけが何度もあったのだそうだ。担当の先生は、
「今頃になって天邪鬼やなぁ。あんなに誰かおらんか?っち、何度も聞いたやんか。」
 と言いつつも、変更を認めてくださった。
 物理を選んでいた理由は今は何となく想像ができるのだが、実は、自分が物理を選んだ記憶も、先生方から何度も生物への変更を募られた記憶もなかった。
 高校でもっとも重要なこととされる人生を決める『進路』には、まったく興味が持てなかったし、先生方の話はすべて右の耳から入り、左の耳から抜けて行った。
 いや、最初から耳に入っていなかった可能性が高い。僕は大変に意識が低い学生だったと言えるだろう。
 ただ、死ぬまで生き物にかかわり続けたいという気持ちは、物心ついた時からすでにあった。
 小学生の頃にすでに、就職したくないと真剣に悩んでいた。
 仕事がしたくないのではなく、就職して組織の一員になったら、自然の中で暮らす時間が無くなってしまう。
 できれば、漫画・釣りキチ三平に出てくる魚紳さんのように暮らせたらな、と思ったが、具体的にはどうしたらいいのか分からなかった。
 自然写真家という仕事について知ったのは、大学生の時のことだ。

 小学校の思い出は、友達の他は、ひたすらに生き物。
 2時限目と3時限目の間の休み時間は、10時〜10時20分までと少々長く、20分休みと呼ばれ男子はみな外に出て遊んだものだが、その時に見た校庭の隅っこを歩くクロオオアリの姿は、今でも鮮明に思い出される。
 そんな思い出があって、クロオオアリを撮影することになった場合は、求められる写真が撮れればいいというような撮り方はしたくない。たとえ依頼された撮影であっても、まるで趣味のようにカメラを向けたい。
 そのクロオオアリを探しにいったら、思いの他、その姿が見つからずに苦心させられた。
 がしかし、数日後、まったく同じ場所で大量のクロオオアリを見かけた。
 鍵はどうも、時間帯のようだ。
 観察を重ねる必要があるが、クロオオアリが活発になる時間帯は、午前9時〜10時30分くらい?
 これは、小学生の頃、僕が校庭でクロオオアリを見つめていた20分休みの時間帯と一致する。
 
 
 

2012.5.16(水) 流れ



 依頼された特撮の仕事がうまくいかず、後ろへ後ろへとずれ込んでいる。
 一方で、今シーズン制作する単行本のための撮影をそろそろ始めなければ間に合わなくなるから、焦りを感じつつある。
 単行本の主人公は雨に同調して産卵をする生き物だから、晴れの日が続けば撮影の開始が遅れ日程にゆとりが生まれるが、雨が続けば今すぐにでも一気に動き出す可能性がある。
 そして一昨日〜昨日と、福岡は雨。
 その雨に刺激されドカッと産卵がまとまってはじまり、一気に終わってしまうと、あとでどんなに足掻いても手の打ちようがないのだから気が気ではない。
 特撮の写真を早く納めなければならない立場ではあるが、雨音を耳にしてどうしても気持ちが入らない。
 ウジウジしても仕方ない。開き直ろう、と特撮の仕事を中止し、予定変更で単行本の撮影を進めることにした。

 しかし単行本の方は、いまだカメラを手にする前の準備の段階。本来ならとっくの昔に終わっているはずの準備の時間も、すべて長引いている特撮の方に費やしてしまったのだった。
 今にも産卵をはじめるかもしれない生き物たちを目の前に今さら準備を整えるのでは、すでに手遅れの可能性もあり、これまた集中ができない。
 グングン視野が狭くなっていく。
 熱くもないのに、体が火照ってカッカする。
 孤独やなぁ。
 僕は別に苦しくてもいいと思うのだけど、苦しさにもさまざまな質があり、この苦しさは好きじゃない。
 よし、もう一度開き直ろう!
 今日は、特撮も単行本の撮影もなし。単行本の撮影のための準備だけを、間に合わなくてもいいから一日かけてしっかりやろうじゃないか。

 まずは、焦りを終息させるために数時間眠ることにした。
 目が覚め冷静になってからは、予定通りじっくりと準備。
 冷静になってもそれなりに時間がかかる作業だったが、今日の撮影をあきらめたことで腰が据わり、夜の間に作業を終えることができた。
 すべては明日以降。さあ、寝ようか。
 その前にもう一度、と被写体の観察をしてみたら、なんと目の前で産卵が始まった。
 おそらく徹夜の撮影になるだろうが、昼間に数時間眠っているので、体力、気力ともにこれ以上のコンディションはない。
 ついてるなぁ。
 撮影開始から9時間経過した今でも、産卵はなお継続中である。
 ここ一ヶ月くらい、ほとんどの撮影が、ギリギリの中のギリギリでかろうじてクリアーできている。
  
  
 

2012.5.15(火) 更新のお知らせ

 4月分の今月の水辺を更新しました。
  
 
 

2012.5.12〜14(土〜月) ほんのちょっとしたこと



 モンシロチョウの幼虫のような見慣れた定番の生き物でも、いい場所が見つかれば撮影は楽しい。
 この場合のいい場所とは、農薬が使用されていない畑のこと。
 山裾の畑には、見事にボロボロに食い荒らされたキャベツが、3列ほど植わっていた。
 畑の向きや周囲の山の具合がまた良くて、時間帯によってさまざまな質の光が差し込んでくるから、その光に応じていろいろなムードの写真を撮ることができる。
 昨日は、柔らかい写真を心掛けた。
 僕は水辺が好きなので、陸の生き物を自分から進んで撮影することは滅多にないが、この場所なら、年に4〜5回来てのんびりとモンシロチョウのライフサイクルを撮影してみるのも悪くないな、などと感じた。

 撮影が楽しいかどうかや相手が求めている以上の写真が撮れるかどうかは、些細な、ほんのちょっとした場所の良し悪しや季節の具合でほぼ決まる。
 ちょっとでもいい場所を探す努力をすること。
 ちょっとでもいい季節や時間帯を捉えられるように備えること。
 場所や季節以外でも、撮影の結果はいつも、最後はほんのちょっとしたことに左右される。
 ちょっとした準備。
 ちょっと考えること。
 大半の人が、「よしこれでいい!」と機材を仕舞い込むよりも、もうちょっと続けること。
 人よりもがんばることが目的ではないけど、一生懸命に夢中になって写真を撮っていたら、結果的に人よりもがんばっていた、というのが理想である。
 
 
 

2012.5.8〜11(火〜金) 先輩ってスゴイな

 澄んだ水の泉があると知れば行って泳いでみたり、畑を持ってみたり、ミツバチを飼育してみたり、自分で発見をしてそれを本のページの中に付け加えたりと遊び心満載。
 そんなタイプの人が僕にとっての自然関係の本作りに携わる編集者のイメージだったのだが、実はむしろ例外的な存在であることが様々な機会に次第に分かってきた。

 昨年だったか、ある編集者が、
「武田さんの日記って、よく続くよね。」
 とおっしゃった。
「自分もツイッターとかフェイスブックとか一応試してみるんだけど続かない。」
 と。
 すると、別の編集者は、
「だって書くことがない。」
 とおっしゃった。
「会社と自宅の往復だからね。」

 ああ、そうなのか!
 依頼を受けて写真を撮る際に、これはマズイなと感じることがある。
 それは、求められる自然の写真がひたすらに作ることやバーチャルな方向へと向かっていること。
 しかし、編集者が自然やその他を体験する機会がないなら、そちらへ向かうのは当然のことだと言える。
 なぜなら、編集者は自分の体験ではなく、すでにある本を見て企画を立てることになり、その本に作り物のシーンが含まれていた場合、それがどんどん広まっていくことになるから。
 作り物は、インパクトがあるものを当然作るのだから、人の目を引き付けやすい。
 本物が作り物に淘汰されていく。
 が、もしもそれが作り物だと分かったならば、そんなものを読者は求めるだろうか?
 自然に考えれば、求める訳がない。

 現場の者にしか分からないことは、ちゃんと伝えなければならないんだな、と最近考えるようになってきた。
 そういえば、ある著名な写真家のところへ仕事で打ち合わせに行くと、里山での労働の手伝いをさせられる、と実際にお手伝いした人から聞いたことがある。
 僕は最初、手伝わせるなんて威張り過ぎじゃないかと感じたのだが、今思うのは、手伝わせるために手伝わせているのではなく、現場を知ってもらうためなんだ、ということ。
 先輩たちって、やっぱりスゴイな。
 ただ、いい写真を撮るだけでは、何かが足りない。
 
 
 

2012.5.3〜7(木〜月) 結果と過程

 写真の撮り方には、大きく分けて2つの方向性がある。
 1つは、どんなことをしてでも撮るという方向性。例えば、コマーシャルフォトの世界が、基本的にそんな世界だ。
 青空をバックに飛んでいる白いハトの写真が欲しければ、スタジオ内に青のバックを準備し、大型の扇風機で風を起こし、その風に乗せてハトを飛ばせてでもそんな写真を撮る。
 お花畑の撮影で邪魔な植物があれば、邪魔な箇所を刈り取ってでも狙った通りの写真を撮る。
 狙った植物がなかったり足りなければ、植えたり挿してでも撮る。
 つまり、結果にのみこだわる。
 一方で、それを是としない別な世界もある。
 代表的なのは報道写真。基本的にありのままを撮り、作らない。結果だけでなく、写真を撮る過程にもこだわる。
 自然写真の場合は、絵画的な要素が要求されるケースと、知識や報道的な要素が要求されるケースとがありコマーシャルフォト的な世界と報道的な世界が混在しているが、何でも作っていいわけではないから、基本は報道世界に近い。

 さて、カメラマンが何らかの依頼を受けて写真を撮る場合、出版社によって、だいたい2つのパターンに分けられる。
 1つは、先に絵コンテがあって何が何でもその通りに作ろうとする社。
 2つ目は、大まかな方向性だけがあり、あとはカメラマンにお任せの社。
 別にどちらが正しいわけでもなく一長一短だが、前者の場合はしばしば、求められた通りのものを撮ろうとすれば、自然写真というよりはコマーシャルフォトになる。
 僕は自然写真家なので、どんなことでもするわけではないし自分なりに決めた線があるから、求められたものがそれを超えている場合は、別の方法を提案してみることもある。
 例えば合成写真というとイカガワシイ感じがするが、あるシーンを撮影するために大規模に自然に手を加えるくらいなら、合成写真で求められたページを作った方がすっきりする。
 合成の場合、見る人が見ればわかるが、むしろその方が正直でいいように思う。
 

NikonD800
TAMRON SP 70-300mm F/4-5.6 Di VC USD SILKYPIX

 カタツムリが枝に止まっているシーンなどは、理想的な位置にカタツムリを止まらせて撮影することもできるし、正直に言えばそうする場合もある。
 だが、一切手を加えないありのままの写真は、チャンスがあれば可能な限り撮影しておくことにしているし、そんな撮影の時間はたとえ取り留めのないシーンであっても一期一会であり、作り上げる撮影よりもずっと楽しい。
  
  
 

2012.5.1〜2(火〜水) 年度と見本

 4月中旬から梅雨入りくらいまでは撮影の依頼が多く、決して大げさではなく、わずか1時間がおしい状況になる。僕はお風呂が嫌いなわけではないが、この時期はその時間さえも取れないことがある。
 そこまで忙しくなる原因の1つに、撮影の依頼の時期が遅いことがあげられる。
 依頼が4月半ばよりも遅くなるのは、世の年度の関係であろうか。

 3月はじめに依頼してもらい3月から4月上旬くらいまでの撮影なら、より品質のいい写真を提供できるのだが、現状ではその生き物のシーズンが終わりそうな、或いは終わってからの依頼の方が多い。
 それでも全力を尽くすのがプロだから標高が高い場所へ行ってみたり、さまざまな手を講じる。
 が、季節が遅れると、どんなに頑張ったところでベストなシーズンに撮影された写真にかなうはずがない。
 例えば、低地では季節が終わった花を丸一日探して、ようやく見つけたものをわずかな時間撮影するよりも、ベストなシーズンに丸一日花の写真を撮った方が結果がいいのは言うまでもない。
 ちょうど今の時期に撮影する写真はこの夏あたりに本になり、それを出版社の人が見本誌として持ち歩き、売り込み、注文を取る。そして新年度が始まれば、4月号として読者の手に渡る。
 その結果を見て、会議をして次の年の企画を決めるとなると、この時期の撮影依頼になるのだろう。

 この時期にそうして依頼され撮影する写真は、営業の人が売り込みの際に見本として使う『見本誌』の中で使用される。
 見本であるから、その出来不出来は売れる売れないに直結するし、依頼の内容も大変にシビアだし、辛い撮影も多い反面、そこに自分を指名してもらえた喜びもあり、もっとこうしたら!という気持ちもある。
 前年度の売り上げの結果が出た時点で可能な限り早く、撮影の依頼をしてもられたらなぁ。
 どうせ努力をするのなら、同じ時間をかけるなら、ベストなシーズンに信じられないくらいにイイ写真を撮って、人が「うわ〜」というくらいのページを一緒に作りましょうよ・・・という思いは、常に心の片隅にある。
  実はそこで写真のクオリティーの7〜8割が、つまりその写真を使用するページの良し悪しが7〜8割が決まると言っても言い過ぎではなく、まさにその一点が何よりも肝心なことであるように思うのである。

 依頼を出すのが早すぎて、その後会社や大人の事情でその企画がなくなり写真が使われなくなりお金がもらえなくても、僕は別に構わないと思う。
 無駄は付き物。
 ただその無駄が、前向きな無駄かどうかが重要だと思うのだ。
  
  
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2012年5月分


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