撮影日記 2012年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2012.3.31(土) プロカメラマン殺し

「一緒に仕事をしませんか?」
 と声をかけられた時に、
「なぜ僕に?」
 と聞いてみると、
「写真うんぬんもあるけど、生物学を勉強しておられる。」
 と返ってきたことが過去に何度かあった。
 自然写真家といっても色々なスタイルがあるから生物学は必須ではないし、むしろエンターテインメントにこだわるのなら邪魔でさえあるが、科学性にこだわるのなら、勉強しておいても損はないだろう。
 大学や仮に大学院に進学してもわずか数年の期間ではあるが、その間に研究室で当たり前に交わされる会話を通して染みつく何かは、他ではなかなか得ることができない。
 
 さて、生き物の標本の写真などをスタジオで撮影することもあるが、ある方が
「白バック写真は、こう撮影した方がよく売れますよ。理由は・・・ 」
 とアドバイスをしてくださったので、練習もかねてレンズの写真を撮ってみた。
 なるほど!スタジオの専門家にしてみればイロハのイであろう。
 だが自分も含めて独学で写真を身に付けた多くの自然写真家が、そのことを理解していない。
 具体的に言うと、写真を撮ることに関しては独学でそこそこできても、写真をどう使うのかというところまで考えが及んでいない。
 ワークフローの中の一部分しか見えておらず、そこに我流の弱さが見え隠れする。


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM SILKYPIX

 試しに撮影した水中専用のUWニッコール15/2.8Nは、誰が使ってもスゴイ写真が撮れてしまうという理由で、『プロカメラマン殺し』と呼ばれた伝説のレンズだ。
 僕は乱暴に扱っていたから、ガラスに小さな傷がたくさん入っていたので、修理に出すことにした。
 とっくの昔に製造中止になったシステムなので、まだ修理が可能かどうか問い合わせてみたところ、修理できるタイプとできないタイプがあり、製造番号から判断するに修理可能だと思われるが、とにかく物を見せて欲しいとのこと。
 そしてレンズを送ってからしばらくすると、修理可能という連絡が入った。
 フィルム用の水中カメラ専用のレンズだが、このレンズを取り付けることが可能なソニーのNEXシリーズ用の水中ハウジングが販売されているからそれを買ってみようか!
 或いはもしも可能なら、特注でより僕の撮影に適したソニーのNEX用の水中ハウジングを作ってもらい、同じ仕組みでこのレンズを取り付けることができるようにしてもらうのが理想だ。
 構造の関係でこのレンズを取り付けられるデジタルカメラは、ミラーレスと呼ばれるタイプのみ。
 そして15ミリという画角をなるべく損なわないのは、ソニーのNEXシリーズだ。
 もっとも、その前に別の水中撮影用のシステムの導入を検討しており、UWニッコール15/2.8Nが活躍するのは一年以上先のことになる予定だが・・・
 
 
 

2012.3.29〜30(木〜金) 光合成


NikonD800
AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 随分前に、熱帯魚と水草の育成に夢中になったことがある。撮影そっちのけだったから、こんなことで大丈夫か?と我ながら心配になったものだった。
 夢中になったと書いたが、生き物飼育のコツは構い過ぎないことであり、最初に上手いやり方を確立するまでは徹底して手を入れることが重要であるが、あとは放っておくのが良い。
 しかし手法の確立後も、水槽をただ眺めているだけでどんどん時間は過ぎ去り、水槽の前にひたすらに座っておくことで当時は実に忙しかった。
 皮肉なもので、その際に身に付けたことが、今大変に役に立っている。
 当時投資した分くらいは、十分に取り戻した感じがする。
 どんな生き物の飼育にも共通するのは、詰め込み過ぎは万病も元だということ。
 生き物を飼う際には、過密にならないように、控えめにしておく方がいい。
 魚なら、詰め込み過ぎは有害であろう、と多くの人がわかるだろうけど、水草でも同じことが言える。
 水草は水に溶けた二酸化炭素を吸収し、光合成をして成長するから詰め込みすぎると、二酸化炭素が不足をして成長ができなくなる。
 水道水には、多くの二酸化炭素が含まれる。だから、水槽に水道水を注いで水草を入れると光合成が始まり、その二酸化炭素が消費されるまでは、葉っぱに酸素の気泡がつく。
 光も必要である。できれば、20Wの蛍光灯が4本くらいは欲しい。
 ともあれ、どんな生き物であろうがその生き物が成長をするということは、それに伴い必ず物質の移動があり、必ず収支が釣り合っている。
 生き物がたくさん成長するためには、たくさん物質が動くことになる。

 さて、
「不景気で、自然保護に必要なお金が集まらない。」
 という嘆きを、最近たまに耳にする。
 しかし、景気がいいということは、物流が盛んになり、たくさんのエネルギーが消費され、それだけ自然が失われるということではないのだろうか?
 自然保護活動って、いったい何なのだろう。
  
  
 

2012.3.27〜28(火〜水) 生と死と


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s
M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s
M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX

 2月末の雨上がり。畑の水たまりにアカガエルの卵を見つけ、その日は胸からオリンパスの小さなカメラをぶら下げていたから、とにかく数枚シャッターを押した。アカガエルは、魚が住めないような浅い水辺に好んで卵を産み落とす。
 あらゆるタイプの環境に、そこを好んで巧みに利用する者が存在する。
 生き物って、したたかななぁ!



 約一か月後、水は涸れ、干からびた卵があった。
 元々浅い水辺に産み落とされる卵だけあって、これだけ乾いてもまだ卵の中で動いているオタマジャクシの姿もあった。
 が、時間の問題である。
 厳しいな、自然って。


NikonD800
TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO SILKYPIX

OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造)ストロボ 水中ハウジング SILKYPIX

 今度は、水に沈んだまま動かないカエルを見つけた。
 死んでいるのかな?それとも、越冬中なのかな?
 死んでいるのなら死んでいるなりの撮り方があるし、越冬中なら越冬中の撮り方がある。
 だが、それを確認するために手を触れると、生きている場合には目を覚まして逃げ去ってしまうケースもある。
 だから、まずは生きているものと信じて写真を撮る。

 水中写真を撮るには、陸からちと遠い。
 水に入ると濁ってしまうので、岸辺に腹ばいになり手を伸ばしてカメラをそっと水に沈めるが、撮影可能な距離に達するには、下手をしたらそのまま水中に倒れ込んでしまうくらい陸からせり出さなければならない。
 腹筋と背筋に力を入れ、体を棒のように固くする。
 数枚シャッターを切る。
 が、耐えられなくなった。
 そのままで上半身ごと水に突っ込んでしまうから、カメラを手放し、その手を水中について体を支えた。
 危ない危ない。
 カエルは、ゆっくりと動いて物陰に消え去った。
  
  
 

2012.3.25〜26(日〜月) センサーのサイズと描写





 一番上の画像に、ある処理を施すと、2番目の画像になる。
 施した処理とは、白をより白く、黒をより黒くすること。つまり明暗をはっきりさせた。
 画像は、明暗をはっきりさせることによって鮮明に見えるようになる。



 一方で、明暗をはっきりさせることで、描写できなくなるものもある。
 例えば、3番目の画像の、水に沈んだ椿の背景になっている水の部分は、明と暗だけでなく微妙な濃さの部分があるからこそ立体的に見え、質感が感じられるのであり、明暗をはっきりさせてしまうと画像が平たんになる。
 
 つまり被写体によって、明暗をはっきりさせたい場合もあれば、逆にさせない方がいい場合もある。
 昆虫のような形がはっきりしたもの、線で描写できるものは、明暗をはっきりさせた方がよく写る。一方で、カエルの卵や水みたいに、はっきりした輪郭を持たないものは、明暗を細かく出した方がいい。
 そして、前者を重視する人と後者を重視する人が存在し、前者を重視する場合に適したカメラと後者を重視する場合に適したカメラがある。

 前者を重視する場合、カメラのセンサーは必ずしも大きい方がいいわけではない。
 場合によっては、35ミリ判フルサイズセンサーのカメラよりも、マイクロフォーサーズのカメラの方がよく写るし、現に、昆虫の写真家には、オリンパスのフォーサーズやマイクロフォーサーズがよく写るという人が多い。
 しかし後者を重視する場合、カメラのセンサーは大きい方がいい。

 さて、水中撮影の機材に関して試したいことがあり、35ミリ判フルサイズセンサーを搭載したキヤノンのEOS5Dを持ち出してみたのだが、素晴らしい質感描写に改めて感激させられた。
 もしも椿の花の形をただ説明したいのならマイクロフォーサーズでいいが、水の質感までもを被写体と考えるのなら、最新のマイクロフォーサーズであっても、二世代前のEOS5Dの足元にも及ばない。
 さすがに高感度の画質は新しいカメラには劣るが、EOS5Dの低感度での画質は、今でも一級品だ。
 EOS5Dを初めて使用した時の感激は、今でも忘れることができない。
 当時、35ミリ判フルサイズセンサーなんてナンセンスだという人も多かったし、EOS5Dにしても話題にはなっていても数はそんなに売れてないしメーカーは儲かってないという人も結構おられたが、僕はEOS5Dで撮影した画像を最初に見た瞬間に、これは主流になると感じた。
 いや、そう思わざるを得なかった。
  
  
 

2012.3.24(土) SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM

 以前は、インフルエンザで高熱を発している時にでも、撮影に出かけたものだった。
 今にして思えば、どうしてもプロの写真家になりたい若者の気合だったのかなぁ。
 カメラを構え撮影の段階に入りスッと集中すると、熱が出ていることを忘れることができるから、布団の中でうなされるよりも楽でさえあった。

 しかし年を経るにつれて、少しずつ勝手が違ってきた。
 ある年の冬、それを思い知らされる出来事が起きた。
 北海道へと向かう車の中で39℃台の高熱を発したのだが、発熱がピークに達した3日間くらいは、撮影どころかほとんど動くことができなかった。道の駅に止めた車の中で横になったまま、出発時に車に積み込んだ一箱のみかんを食べてただひたすらに耐えた。
 ようやく熱が下がり、北海道に上陸してからも、調子が上がらなかった。
 いや、僕としては見事復活を遂げたつもりであったが、帰宅後に画像を見ると出来が悪く、本調子とは程遠かったことに遅ればせながら気付いた。
 一ヶ月の取材期間中、まともな結果が出たのは発熱するまでの数日だけ。そう言えば九州へと帰る際も、数時間車を走らせては仮眠を取りの繰り返しで今にして思えばクタクタだった。
 確かその年を最後に、冬の北海道には出かけてない。が、来年あたりは、また行ってみたいと思う。 

 長期取材の場合、病気の他にも、さまざまなアクシンデントがあり得る。
 例えば車の故障。これは何度か経験をしたことがある。
 それから機材の故障。
 道具に関しては、メインのものが壊れても別のものでカバーできるように揃えていくのだが、野鳥撮影用の大きなレンズだけは気軽に買える値段ではないから、いつも一抹の不安を感じつつも、仕方なく予備を持たずに出かけていた。
 何と言っても、ニコンやキヤノンの大きな望遠レンズを買うと100万円コースになる。
 ところが、SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM は10万円台前半で、描写も悪くないというので買ってみることにした。
 手にしてみると、500ミリのレンズとしては大変に小さく軽いのと、手ブレ補正の利きが素晴らしくて、一瞬にして気に入り、思わずニヤリとしてしまった。

 あとは、描写次第。
 そこで、犬を散歩に連れて行く際に、試し撮りをしてみることにした。
 結果は、100万円コースのレンズのような感動的な描写ではないものの、十分に実用レベルであり、値段や大きさを考慮すると、100万円コースのレンズ以上の感動があった。
 野鳥を狙う時以外でも、普段から持ち歩きたくなったし、それが可能なサイズ。
 シグマにしてもタムロンにしても、レンズ専門メーカーの製品には純正にはない魅力がある。
 

NikonD3X SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM

NikonD3X SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM

NikonD3X SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM

NikonD3X SIGMA APO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM
  
  
 

2012.3.22〜23(木〜金) D800


NikonD800 TAMRON SP AF90mmF/2.8 Di MACRO1:1 NX2

(撮影機材の話)

 新しいカメラが届いた。
 ニコンのD800 をさっそく使ってみたが、地べたに這いつくばって撮影をしたものだから、いきなり泥だらけになってしまった。
 カメラの世界では中古の流通が盛んだが、早くも、中古・並品と呼ばれる、外観はきれいではないものの、使用上問題ないお買い得な中古品のような風貌だ。

 それはともあれ、D800は
、非常に完成度が高いカメラだと感じた。
 第一印象でこれほどの衝撃を受けたのは、キヤノンのEOS5D以来だ。
 5Dの時には、デジタルカメラが出だしの頃であったからまだ不満点もあったが、D800にはこれと言って気になるところが見当たらない。
 このカメラは、おそらく簡単には古くならず長く使えるだろう。迷っている人で、高速の連写を必要としない人なら、買っても、後悔をする可能性は極めて低いように思う。
 そんなパーフェクトな製品が、これまで僕がメインで使用してきた同じくニコンのD3Xの1/3の価格なのだから、ちょっと怖い感じもする。
 あまりに完成度が高過ぎて、その次の製品は何を目指すのだろう?と心配したくなる。人はそんなに急いでどこに行くのだろう?
 
 ライバルのキヤノンと比べると、ニコンはメカが優れ、画像処理が劣る傾向にあった。
 しかし、D800に関して言うと、画像処理もいい。
 僕は、ニコンの画像処理の弱さを補うために、ニコン純正ではないソフト・シルキーピクスを使用していたのだが、D800に関して言えば、ニコンの純正ソフトでもいいと思う。
 シルキーピクスとの比較では、ニコンのソフトNX2の方が実にいい感じに力強く、シルキーピクスの方が繊細な画像が得られる。
 デザインは、以前はニコンの方がキヤノンよりも好きだったのだけど、近頃は、キヤノンの方がかっこいいように思う。が、そんなことは、どうでも良いこと。
 D700との比較では若干軽くなっているのだが、その若干が、こんなに違うものか!と感じた。これまで使用してきたD700の方は、バッテリーグリップを取り付け、高速連写専用のカメラとして使う予定だ。

 なぜ、もうしばらくしたら発売されるD800Eの方にしなかったのか?と聞かれたりもしたのだが、ローパスフィルターの効果が弱いカメラを使用すると昆虫の複眼などにモアレが出やすいという話を聞いたことがあるし、他にも、野鳥の胸のあたりの模様にもモアレが出るような気がするものだから、D800Eの方が避けることにした。
  
  
 

2012.3.20〜21(火〜水) 幕切れ

 先週の土曜日〜日曜日にかけての両生類の観察会は、随分前から楽しみにしていたイベントだった。
 しかし、それに確実に参加するためには、他の仕事をきちんと片づけておく必要があった。
 人から誘ってもらってありがたいなと思うのは、それに参加している時だけでなく、そのための時間を作り出す段階で誘いががんばる動機になることだ。
 フリーの仕事をする人は自由だと思われがちだが、平均して言えば、サラリーマンよりも忙しいだろう。
 それは、実は当たり前のことだと言える。もしも同じ額を稼ごうと思うのなら、個人よりも組織の方が効率がいいのは言うまでもない。
 フリーで仕事をしてみれば、組織というものがいかに凄くて、楽ができるようになっているか思い知らされる。

 その楽しみにしていたイベントの幕切れは、実に呆気なかった。
 ある生き物の撮影で水辺を歩いている最中。植物の茎が目元にあたってコンタクトレンズが吹き飛んでしまったのだった。
 水の中に立ち込んでいたのだから、即アウト。
 ただ、失くしたのはカメラのファインダーを覗きこむ際に効き目となる右ではなくて左だったから、まだ運がいいと思った。
 そして、残った右目で数枚写真を撮ってみた。
 ところが、片側の目だけよく見えるものだから、頭がクラクラしてきた。足元が不安定な水辺を歩くにはやはり不適だった。
 その前に、そんな状態で長距離車を運転して帰宅をすることはできないだろう。
 さて、どうしたものか?と途方に暮れた。
 平日ならなぁ。近くの病院で診察を受け新しいコンタクトレンズを買うことができる。が、その日は日曜日だった。
 そんなこともあり得る、と僕は古いコンタクトレンズを予備として取っているし、保存液も2週間に一度くらい交換しているのだが、果たして今回それを持ってきているか?
  とにかく車に戻った。
 そしてバッグの中を調べてみたら、運よく予備のコンタクトレンズが入っていた。
 ただ、古いレンズだけにやはり大変に見づらい。
 楽しみにしていたイベントが終わった。
 予備のレンズを持っていて、そのまま帰宅ができるだけでも運が良かったと考えることにした。


 

2012.3.15〜19(木〜月) 多様な自然とは?

 僕が特に水辺にこだわるのには、子供の頃、父の友人のTさんに連れて行ってもらった渓流釣りの影響が大きい。
 Tさんは獣医師だが、獣医師の資格を持つ多くの人がそうであるように動物のお医者者になるのではなく、血液検査センターを設立し、人間の医療にかかわっておられる。
 元が獣医師であるだけに、Tさんの渓流釣りは、単に魚を釣るだけではなった。
 釣った魚は基本的に食べるというルールがあり、腹わたをさばき、臓器の名前を覚え、消化器にどんな食べ物が入っているのかを見たりするのも重要なことであった。
 料理の前にはそうして必ず解剖の時間があり、さらに、ヤマメの味噌汁にヤマメの肝臓を入れると、味噌汁がどう風に変わり、そこから肝臓という器官がどんな器官であるかの話などもあった。

 釣りを習うにあたって乱獲を慎むように教えられた。
 だが一方で、生き物に触れてはならない、採ってはならないという自然保護派の風潮を嫌っておられた。
 僕らは、他の生き物を食べる。だが大抵の場合、その生き物を自分で殺すことはない。牛や豚を殺した経験がある人がどの程度いるだろうか?
 しかしそれを食べるのなら、自分が直接手を下さなくても、殺したのと同じこと。
 ところがいつも他人に委託しているものだから、自分が生き物を殺していることをすっかり忘れてしまう。
 そしてきれいごとばかり並べる。
 その前に、自分の手で殺してみろ、というのがTさんの思いだった。

 以降渓流釣りは、ずっと僕の趣味であり続けている。
 年を取るにつれて、いったん、野生の生き物を殺すことと食用にされる家畜を殺すことは違うんじゃないか?と感じるようになった。大学生の頃の話だ。
 だがさらに時間が経った今は、違う面もあるが、基本は同じだと思うようになった。
 例えば牛を飼育するには、飼料を与えなければならない。
 その飼料を作るためには畑が必要であり、原野が畑に変われば、本来そこに住む野生の生き物たちはいなくなってしまう。
 人が食べる野菜だって、それらを作っている場所には、農地として開拓される以前は別の生き物が住んでいたはず。
 生き物を食べるということは、どこかでそれに相当するものが必ず自然から失われ、収支がちゃんと合っているということだ。
 ともあれ、渓流には特別な思い入れがある。


NikonD700
Ai Nikkor 20mm F2.8S SILKYPIX

OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) 水中ハウジング SILKYPIX

NikonD700
TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO SILKYPIX

 さて、まだ雪が残る山の中。
 自然を維持する活動をしておられる方々に同行させてもらうことになった。
 場所の保全のため、地域やメンバーに関しては、書かずにおく。


OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) 水中ハウジング SILKYPIX

 オオサンショウウオの幼生が見つかった。
 生き物を自分の手で殺して食べてみることは大切なことだと思うが、そっとしておくべきものもある。

 生き物は多様なのだから、生き物との接し方も多様である必要がある。
 触れてはならないものも、捕まえて飼育してみるべきものも、解剖してみるべきものも、標本を作るべきものも、捕まえて印をつけてまた放すべきものもある。
 このやり方しか認めないというのは、その時点で、生き物の多様性を認めていないことでもある。
 そういう意味で、もっといろいろな考え方の人を見てみたいと思うし、それはある意味、生き物の観察以上に僕にとって興味深い。
 オオサンショウウオの調査を様子をまじまじと見ていたら、参加者のお一人が、
「撮影をするのかと思ったらまったく写真を撮らんで、じっと活動の方を見ておられたので、何でかな?と思ったんですよ。」
 とおっしゃった。


NikonD700
SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX

NikonD700
SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX

 友人の野田司君も、お子さんを連れて一緒に参加した。
 繁殖期のヒキガエルの雄が、お子さんの手をメスだと思って抱きついた。


 

2012.3.14(水) 1%


NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S SILKYPIX

 アカガエルが卵を産む水辺。


NikonD700 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 この場所の今年の卵は、ほぼ全部、抜け殻になった。


NikonD700 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 卵から抜け出して間もないオタマジャクシとそれを狙うヤブヤンマのヤゴ。
 厳しいな。自然って。
 このシーンを、自分や自分の身内に置き換えてみると、辛いなと思う。より確実に生きたいと感じる。

『人は自然の一部』 という言葉を耳にすることがある。
 中学の時の数学の集合の授業を思い出してそれを図に表すと、こうなる。



 僕は、嘘だなと思う。
 もしも本当に人が自然の一部だと思うのなら、病気をした時や困っている人がいる時に自然に任せておけばいい。
 だが実際には、人は医療や福祉と言った自然界には存在しないサービスに頼る。
 その結果、自然状態なら死んでしまうはずだった人が生き延びることが可能になり、人は人口を増やした。
 だが、自然界は生き物たちが適正な数に保たれることによってバランスを取っているのであり、それが崩れるとおかしなことがおきる。
 環境問題と言われている問題は、よくよく考えてみれば個々の人間が与えるダメージは微々たるものであり、大半は人が多過ぎることによって引き起こされている。つまり、最も自然に対して悪いことは、人が死ににくくなり繁栄することだと言える。
 一方で医療や福祉の充実を訴え、一方で自然を大切にと訴えることは、実はこれ以上ないというくらいに厚かましく、矛盾することだ。
 そう書くと、
「じゃあ、死ねというのか!」
 と誰かが言い出しかねないが、そんなことを言っているのではなく、それが事実じゃないのかと思うのである。 

 原発事故にしても、なぜ原発なんか作ってしまったのだろう?と考えてみれば、最大の理由は、それが必要になりかねないくらいに人が多くなり、繁栄し、大量のエネルギーを必要としていること。
 エイズという病気が世に知られるようになったときに、アメリカのある都市で調査をしたら大変に高い%の人がウィルスをもっており、このままいけば近いうちに人の平均寿命が10歳短くなると言われたことがあった。
 そして仮にそうなった場合、計算をしてみれば当面のエネルギー問題などは、逆に解決してしまうとも言われた。
「いや、電力は足りているのだ。」
 、という方がおられる。原発の問題は、一部の人間が引き起こしたのだと。
 だが今どきの若い人ならともかく、僕と同世代か年上の人がそう言うのは、あまりに日和見が過ぎるような気がしてならない。
「化石燃料はいずれなくなる、だから代替えのエネルギーを。」
 と僕が子供の頃にはすでに叫ばれてきたことを、まさか忘れてしまったのだろうか?
 エネルギー問題は解決したというのだろうか。
 僕が小学生の時にはすでに原子力発電がおこなわれていた。当時の教科書には、確か、日本の全電力の1%を占めると書かれていたように記憶しているが、当時他にどんな選択肢があったのだろう? 
 太陽光発電という概念は当時すでに知られていたが、夢のまた夢の話であった。
 自然エネルギーの活用が現実的になってきた今なら別の選択があり得るのだろうが、原発は、人が今くらい確実に生きたいと望むのであれば、通らなければならない道だったように僕には感じられる。
 原発なんてない方がいいと思う。
 また反原発が悪いとは思わないのだが、反原発の立場の人には、自分は無関係だと思っている人があまりにも多いような気がする。
 だが、無関係だと思っていることが、一番恐ろしく、それが原発問題や環境問題の本質であるように感じる。
 

 ともあれ、かといって、人は完全に自然から独立しているわけでもない。
 図に表すならば、せいぜい、こんな感じではなかろうか。


 人が自然からはみ出している部分には、原子力発電も含まれているかもしれないが、高度な医療や福祉だってある。
 人は自然の一部とばかり唱えていていいのだろうか?人間とは何か、もっと直視する時期が来ているような気がする。
 その場合に、自然をありのままにちゃんと見てみることは、大変に意味があることではなかろうか?
 
 
 

2012.3.13(火) 更新のお知らせ

 2月分の今月の水辺を更新しました。
 
 
 

2012.3.10〜12(土〜月) 手ブレ補正


NikonD700
TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO SILKYPIX

 池の手前の黒い部分はすべてヒキガエルの卵。おそらく、100個は超えていると思う。
 来シーズンの2〜3月上旬は、雨の降り方にもよるが、この場所でのヒキガエルの繁殖を中心に撮影したい。


OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造)ストロボ 水中ハウジング SILKYPIX

 僕が普段よく撮影しているせいぜい2〜3センチ程度の被写体に比べると、今回の被写体は比較的大きい。
 ヒキガエルの卵くらいの大きさがあれば、水中撮影も比較的易しく、陸上と水中を同時に写し込む半水中写真も決まりやすい。
 だがそれでも、陸上での撮影よりは神経を使うことは確かだ。
 
 腕を伸ばしてカメラをそっと水に沈める。
 カメラは、ブレを防ぐために地面に置く、或いは肘や手の平の小指側を地面につくなどして何かに固定したいところだが、この手の水中写真の場合、そうして水中で地面に物が触れると泥を巻き上げてしまうので、それができない。
 カメラだけでなく、体勢自体も無理を強いられるので、どうしてもカメラがぶれやすい。
 とにかく、少しも安定させるために、なるべく動きたくない。
 ピント合わせはオートフォーカスが望ましい。手動でのピント合わせで指を動かす動作でさえも、なくしてしまいたい。
 そんな撮影だから、カメラの手ブレ補正機構は、強力であってほしい。
 オリンパスのペンシリーズが発売された時、僕の水中撮影にはペンがぴったりだなと感じたし、自分が使用している道具が古く感じられたのだが、その後、やっぱり古いE-620 が捨てがたいと思うようになった。
 E-620 の方が手ブレ補正がよく強力であることは、その理由の1つだ。
 他にも、本気でじっくりと使いこなそうとした場合、現段階ではまだ、一眼レフがいい。便利なカメラで気軽に写真を撮ることを否定するつもりはないが、僕の場合、本気であることが生命線なのだ。
 
 
 

2012.3.8〜9(木〜金) ライカのレンズ


NikonD700 LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8 SILKYPIX

 2〜3年1度でいいから馬鹿げた買い物をしてみたいものだ、と昨年購入した目玉が飛び出るくらいに高価なレンズ。
 ライカのRシリーズはカメラのデジタル化に伴い製造中止になり、それを使用できるカメラがもう作られなくなったから、中古の価格がガクンと下がった。
 僕が買ったものはその安くなった中古だが、それでも国産の新品よりもずっと高かった。
 それを、ニコンのカメラで使用できるように改造。ライカのレンズに取り付けてあったマウントと呼ばれる部品を取り外し、代わりにニコン用の部品を取り付ける。
 部品はスペインから取り寄せた。
 最初、国産のレンズとそんなに変わらんやん、と感じた。しかし、特定の条件になると、独特の描写をすることが分かった。
 その癖がでる条件を見つけ出すことが、レンズを評価する際に一番肝心なことだと言える。 
 普通、写真は明るく撮影すると質感が悪くなり、スカスカ軽い感じになるが、ライカの100ミリマクロレンズはハイライトの描写が素晴らしく、明るく撮影しても軽くない。
 逆に言うと、そうした特徴を生かすには、明るめの写真でなければならない。
 が、僕の作風ではないな、と思う。

 幼児向けの本で、身近な生き物たちを明るく、愛らしく撮影したい時には威力を発揮しそうだから、このレンズは代打の切り札的な存在になるだろう。
 しかしそうして仕事用に使うとなると、これに代わる描写をするレンズは他にはないし、今後も出てこないだろうから、自分の仕事の継続性を考えるとあと一本くらい持っておきたくなる。デッドストック物というやつを。
 普段、レンズの寿命など考えたこともないけど、何年くらい持つんだろうなぁ。
 描写の傾向から言えば、使ったことはないけど、コシナが製造販売しているカールツァイスのマクロプラナー100ミリの方が僕には合うのではないかな。
 こちらは、ライカの中古と同じくらいの値段で新品が買える。
 次は来年か再来年くらいに、そちらを買ってみようか。
 
 
 

2012.3.7(水) 重圧


OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造)ストロボ 水中ハウジング SILKYPIX

 孵化してまもないニホンアカガエルのオタマジャクシ。


OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造)ストロボ 水中ハウジング SILKYPIX

 一か所に産み付けられたカスミサンショウウオの卵だが、孵化間近なものから産み付けられて間もないものまで様々な段階の卵が見られる。
 この水辺ではあちこちにカスミサンショウウオの卵が産みつけられるが、毎年一カ所だけ、このような大きな卵の塊ができる。


OLYMPUS E-620
ED 9-18mm F4.0-5.6(改造)ストロボ 水中ハウジング SILKYPIX

 水中にカメラを沈め両生類の卵を撮影していると、ポチャンと何かが落ちる音が聞こえた。
 どこかの悪ガキが石でも投げ込んだかな?と顔を上げてみたのだが人の姿はなく、そこには椿の花が一輪浮かんでいた。
 こんな型にはまらないシーンの撮影は新鮮で時間が経つのが早いし、帰宅をしてからも画像を確認するのが楽しい。


NikonD700
AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) ストロボ SILKYPIX
 
 春がきた。
 ちょっと嫌だな。
 今年は、ある生き物の繁殖に突っ込んだ本を作る。
 その生き物の撮影に関して言えば、日本で僕よりも経験があるのは一人だけ。
 その方はいよいよベテランなので、現役バリバリの立場では僕が一番詳しくて、僕よりも楽に撮れる人はいないはず。
 だが、それでも生き物の世界は何が起こるか分からないから、シーズンが近づいてくるとプレッシャーがかかる。
 
 
 

2012.3.6(火) リサイクル

 自然の水の中では撮影できないようなシーンを撮影するために、自然を再現した水槽にカメラを向けることがある。水槽撮影などと呼ばれている撮影の手法だ。
 使用する水槽は、どんなに丁寧に扱ってもガラスに付着したコケを削り落とすような際に傷が入ってしまから、数年に一度、新しいものに入れ替える。
 今年は、その入れ替えの年であり、先ほど、古い水槽を撤去し、新しいものを設置した。

 僕が水槽撮影に使用している水槽のサイズは珍しいサイズなので、あまり売られていない。恐らく、国産の市販品では一社しか作っていないサイズだと思う。
 おのずと、水槽の入れ替えの際には毎回同じメーカーのものを買うことになるが、今回買い直した新しい水槽には、その水槽が古くなったときにリサイクルを勧めるカードが同封されていた。
 この水槽を処分したくなった時には当社に送って欲しい、と。それから、ガラスの張り替えも引き受けるとも書かれていた。
 買ったばかりの新品をリサイクルしたり、ガラスを張り替える必要は当分ないが、これまで使用していた傷の入った古い水槽も同じメーカーの同じ型番の製品だから引き取ってもらえるのではなかろうか?
 そこで先日メーカーに電話をしてみたら、輸送の費用が高くつくので自分で処分をした方が・・・と勧められた。輸送の費用までは負担してもらえないようだ。
 ならば、ガラスの張り替えは?とたずねてみると、ガラスを2面交換して送料込みで新品を買うよりは安かったので、張り替えてもらうことにした。
 新品の水槽が送られてきた梱包に古い水槽を収めヤマト運輸に持っていったら、破損の可能性があるためこの手のガラス製品は送ることができないと断わられた。しかし、新品の水槽が送られてくる際には、その梱包に収められ、ヤマト運輸のトラックで僕の元へ運ばれてきたのだから変な話だ。
 しかたがないので、佐川急便にもっていったら、こちらはOK。
 東京にお住いの方には、ヤマト運輸の評価が高く、佐川急便はトラブルが多いとおっしゃる方が多いが、僕は北九州で特にそのようなトラブルにあったことはないし、ヤマトと佐川の差を感じたことはない。
 ともあれ、新しいガラスに張り替えられた水槽が送り返されてきた。なるべくなら、リサイクルしたいと思う。 
 
 
 

2012.3.5(月) 立ち位置

 多くの生き物が絶滅してきたことを思うと、おそらく人類もいずれ絶滅するに違いない。その際に最後の一人になる誰かは気の毒だなぁと思う。
 退屈だろうし、不安だろうな。
 今のところ人類が即座に絶滅しそうな気配はないから、僕らの世代の誰かがそうなる確率は限りなく低いだろうけど、もしも自分が人類最後の一人になったとしたら・・・

 まずそこには、一切の決まりがない。
 自分の意思=全人類の意思であり、道徳であり、常識であって、まさに、「俺がルールブックだ」の世界。
 自然との接し方に関して言えば、何かの生き物を絶滅させてもいいし、希少な生き物を捕まえて食べたっていい。
 何をしようがそれをとがめ、悪だと感じる誰かがいないのだから。
 逆に言うと、希少な生き物を殺してはならないのは、その生き物の未来を案じているのではなく、その生き物に値打ちを感じる誰かが存在し、その人が不愉快な思いをするからだと言える。「自然を大切に・・・」と叫ばれる時、実はそれは自然のためではなく、自然を大切に思う誰か人間への配慮なのだ。
 だから、どんなに生き物を殺しても、それを不愉快だと感じる人がいなければ、それは問題ではない。例えば金魚の飼育水を水替えのために抜き、庭にザッと流せば飼育水の中の微生物が大量に死んでしまうだろうけど何の問題もない。
 長崎県の諫早湾が閉め切られた時に、ある政治家が、
「ムツゴロウがかわいそうだって?何を言っているんだ。ムツゴロウと人の命とどっちが大切なんだ。」
 とおっしゃったのだが、これなどは政治家の勉強不足であり、諫早湾の問題はムツゴロウが可哀そうなのではなくて、ムツゴロウを大切だと思っている人がかわいそうなのだ。
 逆に、ムツゴロウを原告にして裁判を起こそうと試みた方々がおられたが、僕は愚策だなと思う。
 おれが悲しいんだ!と主張すべきだと思う。
 人はなぜ自然を大切にしなければならないのだろうか?
 現状を言い表すなら、自然が人類にとっての財産であり、それを大切に思う人が存在するからという理屈が矛盾がないように思う。

 しかし、すべての人が自然を財産だと感じるわけではない。
 だから僕の仕事は、自然を財産だと思う人を増やすこと。
 それを増やすためには、
「武田晋一の写真っていいね。」
 ではなくて、
「ああ、自然っていいな。」
 と感じてもらえる写真を撮る必要があり、それが僕の立ち位置だ。
 自然っていいねの「いいね」は、必ずしも快感である必要はないし、怖さや不気味さなども含まれていたっていい。
 ともあれ、生き物がただちゃんと説明できていることの他に、人の心を動かす何かが必要なのだが、これが実にむづかしい。 
 
 
 

2012.3.3〜4(土〜日) メッセージを込める



 誇張や癖のない穏やかな写真。丁寧な丁寧な仕事。亀田龍吉さんは、大好きな写真家の一人だ。
 『雑草』という言葉には、人間のおごりと自然への無関心が現れているようであまり好きではない、と書かれている。
 あとがきによると、この本の企画〜編集は編集者がすべて準備し実行されたのだそうだ。編集者の仕事には、企画を立てたり、出版物に商品価値を持たせるように手を尽くすことの他にも、思いを共にする著者と一緒になり、編集者自らのメッセージを発信するという側面もある。
 『雑草の呼び名事典』は、おそらくは、そんなタイプの本なのだと思う。
 編集者と著者は必ずしも共感をしている必要はないし、共感できればいいものができる、とは限らないだろう。
 だが共感して本を作ることができるのなら、それは著者にとっても、編集者にとっても幸せなこと。 この本は、僕に、そんな風に感じさせてくれる。

 身近な植物 (正確に数えたわけではないけど80種くらい) とその名前の由来が紹介されており覚えやすく、植物に興味があり名前や性質を知りたいけどあまりに種類が多すぎて何から始めていいかが分からない人に、大変にお勧めできる。
 或いは、植物写真を志す人にも。
 僕は植物写真はあまり得意ではないが、撮影したものをたまに専門家に見てもらった際に、複数の人からまったく同じアドバイスをもらったことがあるのだが、この本を眺めてみると、そのアドバイスの意味がよくわかる。
 つまり、写真の使い方が大変にオーソドックスなので、この本を真似てみれば、植物写真の基本が身につくことだろう。
 ただし、ここで僕が意味する植物写真の基本とは、植物の写真で仕事をする際の基本であり、写真表現の基本ではないことを断わっておかなければならないだろう。植物を見せたいというよりは、自分の世界を見せたい人には、より適した本があるに違いない。
 
 
 

2012.2.29〜3.2(水〜金) 編集

 昨年末から、以前フィルムで撮影した写真の貸し出しの依頼が続いているのだが、どうにも心臓に悪い。
 まずは、そのフィルムがちゃんと出てくるかどうかが怪しい。
 決して怠慢をしていたわけではないが、フィルムの整理はいかにあるべきか、試行錯誤をしている間にいろいろなやり方が入り混じってしまい、ついに訳が分からなくなったのだった。
 以前、ある編集者から、
「武田さんって、私と物の失くし方が違いますね!私は雑に扱って失くすのですが・・・」
 と言われたことがあった。
 僕の場合、大切なものを特別に保管しようとして、むしろその場所を忘れてしまうパターンが多い。これは、大切なものから出てこなくなるのだから、実に性質が悪い。
 運よくフィルムが出てきたとしても、今度はそのフィルムをスキャンする作業に時間がかかる。
 時間がかかるだけならいいのだが、スキャナーが、これは買った当初からなのだが、時々パソコンに上手く認識されなくなる。
 そこで手当たり次第にコードを抜き差ししてみたり、電源を入れ直してみるなど試みるが、場当たり的で論理的ではない試行錯誤は、何度やっても好きになれない。
 ともあれ、先日、そのフィルムに貼られたラベルを読んでみたら、10年以上前に撮影した写真であった。10年間売れ続けているのだから、ありがたいことだと思う。
 あるシーンなどは、これまでに10回以上使用されたはずだ。

 なぜ、10年も売れ続けたのか?
 それらの写真は、編集者からのリクエストにしたがって撮影したものであった。
 写真の撮り方に関して言えば、僕らは編集者よりも知っているのだが、その写真の使い方に関しては多くの写真家はほぼ無知であり、編集者から教わることは多い。
 僕は近年、編集という作業に興味を感じる。
 別に、使える写真がいい写真というわけではない。が、それがプロの世界だと言える。
 自然の写真はそもそも市場が小さく、飛ぶように売れるものではないが、世のニーズにきちんと合った使える写真に関しては、やはり動きはいいし速い。


 
 『デジタルカメラ野鳥撮影術
』は、この出版不況の時代になかなか売れ行きが良いようだが、この本の成功などは、まさに編集者の企画力の勝利だと言えよう。
 野鳥撮影の際の、ちょっとした裏技、工夫、道具の組み合わせなどの紹介が実に楽しくて試してみたくなるし、大枚をはたかなくても、ギリギリお小遣いで試すことができる範囲で書かれている。
 第四章の『スコープやミレーレス一眼で撮ろう』は、実は僕もやってみようかと検討していたところだが、どうも編集者自身が、そうした撮影を楽しんでおられるようだ。
 アストロアーツという出版社は、オタクな世界を実に楽しそうに、上手に取り上げる出版社だと思う。アストロアーツの出版物は、以前にも宇宙に関するムックをこの日記で紹介したことがある。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2012年3月分


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