撮影日記 2011年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2011.1.30〜31(日〜月) 町の中の泉(中)

水と地球の研究ノート 1
『 町の中の泉 』
武田晋一=写真・文/ボコヤマクリタ=構成・絵
偕成社 

 企画を持ち込んだのは、もう数年前のこと。編集のOさんは、
「とても乗る気ですよ。」
 と言ってくださったが、
「編集者や作り手が納得できるだけでなく、営業の人が自信を持って売れるような何かが欲しい。」
 ともおっしゃった。そこで、
「それって、どんなものですか?」
 と具体例を聞いてみたら、その中に、学校と結びつきが強いものという例があり、それならできるんじゃないか?と思った。僕は、高校生に理科を教えた経験がある。

 さて、初めてその高校に行った日に、大変に驚かされたことがあった。
 授業の受け持ちを決める際に、問題が多いクラスの押し付け合いが、目の前で繰り広げられたのだった。どの先生も表面的には立派なことを言っておられたが、とにかく、そこに行きたくないことだけは、とても良くわかった。
 そして、詳しい状況が分からない僕が、上手に誘導されて、そこに行くことになる。
 後に子供たちと打ち解けてから話を聞いてみたら、僕に特に強く押しつけたその先生は、以前板書中に黒板消しを投げつけられるなど、大いに苦労をなさったようだ。
 就職を希望する生徒が大半だった。

 最初は、オーソドックスな授業を試みた。
 だがしかし、しばらくすると、進学をするわけでもないのに受験勉強みたいなことをしても仕方がないんじゃないか?と感じるようになり、教科書の中から、僕が好きなところだけを教えることにした。
 当時は少子化よりも前の時代であり、学校は大した努力なしでも生徒で溢れかえっていたし、学校の評判を良くするような努力もなされてなく、一部の進学のクラスをのぞいて、ただ生徒を在籍させているに近かった。だから、学生は仮の姿で、本業は夜の水商売でおじさんたちを手玉に取っているような生徒もいて、僕よりもある意味社会を知っている相手に、教科書に沿って理科を教えるなどというのは滑稽に思えた。
 ともあれ、僕が好きなところだけを教えてみたら、クラスによっては、たくさんの質問が飛び交うようになった。
 そんなやり方は先生としては、大いに失格なのだろうけど、
「自然スゲェ〜ね。」
 と言わせるのが楽しくなった。

 その時に、子供たちの受けが特に良かった内容と、僕が持ちこんだ企画には関連があり、そこを取り上げれば、学校教育と結びついた内容の本が作れるのではないかと思った。
 いや逆に、子供たちの受けが良かったので、写真を撮る際にもそこに目が行くようになったのかもしれない。
 教育と結びつければただ本が企画として成立するからではなく、そんなこと抜きにして、ここって絶対にオモシロいよね!商品価値があるよね!と日ごろ感じていたものを、本作りの中で試せる一石二鳥だと思った。
 相手が、進学の子やいい子ちゃんたちだったなら、僕はそんな風には思えなかった可能性が高い。学校や先生に上手に適応できる子供たちは、ある意味従順で洗脳されやすく、彼らの反応にはあまりあてにはならない面がある。
 それに対して、先生方が扱いにくいと感じるような子供たちが面白いというものは、大変に自発的なのであり、必ず通用するはず、という思いがあった。
 ただ、僕が教えていたのは高校生。そして、子供の本と言えば小学生向けが大半。
 そこで、日本で使用されている小学校のすべての理科の教科書を取り寄せてみたら、驚いたことに、高校の内容と大変に近いことがわかった。
 中学のものも見たがやはり同じ。日本の学校教育は、小、中、高とだいたい同じ分野を教え、ただそのレベルが異なるだけなのだ。
 本作りが具体的に動き始めた。

(お知らせ)

本作りに集中をするため、2011年1月分の今月の水辺は更新しません。
  
  
 

2011.1.28〜29(金〜土) 町の中の泉(前)



水と地球の研究ノート 1
『 町の中の泉 』
武田晋一=写真・文/ボコヤマクリタ=構成・絵
偕成社 

 全五巻中、ようやく第一巻が完成し、昨日届いた。
 本が届いてほっとする一方、まだまだ続けたいような、ちょっと複雑な気持ち。
 スポーツ選手の引退の様などを見ていると、スパッとやめる選手と、とことんまで続けようとする選手とに分かれるが、みなさんは、どちらが好みだろうか?
 僕は、どうもとことんまで続ける選手が好きだ。自分自身のことを考えてみても、延々と写真を撮りたいし、一冊の本という小さな局面で考えてみても、完成した本を手に取りたいというよりは、延々と作り続けたい気持ちがある。
 だから、本を手に取ることは寂しいことでもあって、昨日は、なんとなく落ち込んだ気分になった。
 
 本の表紙の 『町の中の泉』 という文字は、最初に企画を持ち込んだ段階では、ボコヤマクリタさんによるとてもおしゃれな字の並びになっていたが、本格的な本作りの作業に入ってからすぐに、オーソドックスな書き方に直すことになった。
 理由は、読みやすさだ。
 偕成社という出版社は大変に硬派で、趣味的なおもしろさよりもまず第一に実を取る出版社だ。
 だが、最初にボコヤマさんがデザインしたものが無駄になったわけではないと思う。
 素敵にデザインしようと思えばできる人が、あえてオーソドックスに作ったことに意味がある。
 何かやろうと思えばやれる人が、状況に応じてやらない、というのと、最初からできないというのは、全く別のこと。最終的には全く同じデザインになったとしても、その結果に至るまでに、少しでも多くの選択肢をちゃんと検討することが大切だと僕は信じる。

 趣味の部分を取るのか実を取るのかは、作り手によって好みが分かれるところだが、僕の場合は、写真は仕事であり、まずは実を取りたい。
 生き物にかかわる仕事をするというのは、子供のころからの僕の夢であり、自然写真はそれを実現するための手段なのだから、趣味ではなくて、仕事でなければならないのだ。
 しかし、やっぱり趣味でもあって、僕の場合、この本にかかわる作業の半分くらいは、そのせめぎ合いであった。
 
 
 

2011.1.27(木) 運不運

 生き物の撮影の場合、どんなに努力をしても、何1つ結果が出ない場合が多々ある。目的とするシーンを写真に収めるどころか、目にすることさえできない場合も珍しくはない。
 だから、生まれて初めて、撮影の仕事を依頼された時には、内心返事に困ったものだった。いついつまでにこんな写真を、と求められたものの、それを撮れる保証などどこにもないのだ。
 なのに、
「はい、分かりました。」
 というのは無責任に思えたし、逆に、
「撮れない場合もあり得ます。」
 などと自分の側の事情を長々と説明するのも、めんどくさくて、相手が困るだろう。
 僕の日常は、その不安との戦いでもある。
 また、撮影の経費がかさみ、努力をすればするほど、どんどん赤字になることだって考えられる。いや、考えられるというか、現に、そうして随分たくさんのお金を無駄にしてきた。この道具さえあれば!と期待をして大枚をはたいても、それが全く使い物にならなかった場合の落胆は、体験したものでなければわからないだろう。
 趣味なら、何だかんだ言いながらもそれが楽しいのだとも言えるが、仕事の場合は切実だ。
 だがしかし、運が良ければ、あっという間に目的が達せられる場合もある。一週間の時間をみておいた撮影が、5分で終わる場合もある。
 ふと思い出すのは、大学時代のこと。
 原付を運転中に、目を掻いたら、コンタクトレンズが飛んで行った。
 そこで、目を掻いたあたりまで20〜30メートルを引き返し、最初に地面を見つめたその場所にコンタクトレンズがあった。
 コンタクトレンズを紛失したのは、初めての経験だったから、そんなものだと思い込んだ。
 ところがその後、何でもない時に、何でもない場所でコンタクトレンズが無くなり、2度と見つからないのを何度か体験した。
 初めての紛失〜発見の過程が、実は奇跡に近い出来事だったことを、随分後になってから驚いた。
 ともあれ、世の中に運不運がある。極端な場合、何かのついでに何の苦もなく撮影した写真をもう一度撮ろうとすると、何年間努力をしても撮れない場合もある。

 一方で本作りの場合は、努力をすれば、全く形にならないということはないだろう。
 だが、運よく5分ですべての文章が書けた!とか、すべてのイラストが描けたなどということもない。
 報われるが、大変に地道な作業だ。

 さて、その時の気分によって、撮影の方が気楽だと感じる場合もあるし、本作りの方が楽に感じられることもある。
  
  
 

2011.1.26(水) 楽しいかどうか



 第五巻・ゴミ水路水族館では、町の中のゴミだらけの水路に生息する生き物たちと、その水路の由来を取り上げる。
 先日出来上がったその第一稿は、外来種の問題についてたくさん触れていたのだが、大幅に変更をすることになった。
 理由はこうだ。
 外来種の問題に関する話を聞いて、子供たちは楽しいだろうか?
 いや、楽しくはないだろう。
 楽しくないものが、本当の意味で心にしみ込むだろうか?
 いや、しみ込まないだろう。
「教育においては、楽しくなくても大切なことがある。」
 と言う方もおられる。一理あるし、それが必要な場合もあるが、特殊なケースを除いては、長い目で見ると、面白くないものは、なかなか通用しない。

 楽しいことがきっかけになり、結果的に何かを知る。いや、知りたくなる。
 まず、生き物たちを見て彼らのことを知りたくなり、その上で初めて、それぞれの人がちゃんと考えることができる。
 見たり知ったりする上で一番大切な精神は、批判ではなくて興味であり、外来種であっても、まずはおもしろい生き物やなぁという興味の目で見ることができない人に、外来種の問題を語ることはできないだろう。
 その一番大切なところを指摘してもらった結果、本の改造を行うことになったのだ。
  
  
 

2011.1.24〜25(月〜火) なぜ写真を撮るのか?

 以前は、自分自身を写真好きだと思っていたのだが、やがて、僕が好きなのは自然の方であり、写真には、あまり興味がないのだと感じるようになった。
 というのも、自然以外の写真を見ても、特に面白いとは思わないのだ。
 自然以外の写真がつまらない、と言いたいのではなくて、僕にそれを理解するセンスがないのだ。
 ただ唯一、戦争の写真だけは、つい見てしまう。特に、自分が見たことはないものの聞いたことがある第二次世界転戦中に撮影されたものに関しては、ある意味、自然写真以上の興味を感じる。
 人はいったい何のために生きているのだろう?
 人間って何者なんだろう?
 戦争の写真の中でも、有名な写真家が撮影したものや、賞を受賞したようなものには、あまり心を打たれたことがない。おそらく、撮影者の主張が強過ぎるのだと思う。
 その強い主張が、写真家の名前を高めたり、受賞につながるのだろうが、僕が見入ってしまうのは、無名の人が撮影した、もっとさりげない、一般的には取るに足らない写真だ。
 
 人はいったい何のために生きているのだろう?
 僕の場合は、その答えを自然の中に求めたい。だから、僕にとっての自然写真と戦争の写真は、極めて近い存在だ。
 自然を観察して、
「人間は、もっと自然に還れ」
 などと言いたのではないし、むしろ、その手の、自然を通したイデオロギーの主張は、自分自身の暮らしを棚に上げなければできないのであり、あまり好きではない。
 僕は、自然を淡々と撮影して、自然と人間とを比較することで、人間とは何かを静かに考えたい。

 ところが、ただ自然をボウッと見ているだけでは、自然の中に踏み込むことができない。
 そこで、撮影という行為を通して、自然界への扉をコンコンとノックしてみる。撮影がなければ5分で終わる観察が、写真を撮ろうとすることで数時間、時には数日を要し、時間がかかった結果、初めて見えてくるものがある。
 例えるなら、自然科学の研究者がただ対象を見るのではなく、何か実験という名の操作をして、その際に返ってくる反応から、自然を知ろうとするのに近い。


 

2011.1.23(日) 融通

 本を作っていると、危うく間違えを書きそうになり、ヒヤッとすることがある。
 例えば、
「日本では6月になると梅雨といって雨が降り続くようになる。」
 と書いてみたものの、沖縄の梅雨入りはもっと早い時期になるし、北海道には梅雨がないことに気付かされる。
 そんな風につい書いてしまうのは、よく考えてみれば、日本とはどこのことを指すのか、その定義が僕にはよく理解できていないからだろう。小学生レベルの知識が、実は、僕にとって意外にあやふやであることを、何度となく思い知らされた。

 がしかし、一番の問題はそれに気付いてからのことであり、正確を期して、
「北海道や沖縄を除く日本では、6月になると梅雨といって・・・・」
 などと書くと、今度はなんだか言い訳がましく、まるでお役所が作成した文章のようになり、読みにくくなる。自然科学の専門書もまた大変に読みにくいものが多いが、その読みにくさは、同じような理由による場合が多い。
 一般に物事は、手堅く行けば行くとほど、円滑ではなくなっていく。
 人から突っ込まれないように、念には念を入れた文を書こうとすると、文章は言い訳がましくなり読みにくくなる。
 ネット上の掲示板に迷惑な書き込みをされないようにセキュリティーを上げれば上げるほど、掲示板は使いにくくなり、下手をするとほとんどだれも書き込みをできなくなり、利用者がいなくなってしまう。
 自然科学の研究者が失敗を恐れて手堅いことばかりやっていたら、いい研究はできなくなる。
 写真家にになろうとする人が、なれなかった場合のリスクを考え過ぎると、写真家になるのはより難しくなる。
 僕は、人と接する際に、その人が手堅さを好む人なのか、それとも融通を利かせるのを好む人なのかをまず第一に考えることが多い。
 手堅いのが好きな人に、リスクを取れといってもほとんど無駄であるし、リスクを取るのが好きな人に手堅くと主張しても、勇気のない人間か、融通の利かない人間と思われるのがおちだろう。
 
 さて、僕らの立場は、基本的には読みやすく一般向けに書くこと。
 その枠の中で可能な限り正確な文章を書こうとしているのだが、分かりやすい文章を書くのは、なんと難しいことか!
 
 
 

2011.1.22(土) 突っ込み

 意見というやつは、全く同じ内容でも、誰が言うかによって違った意味合いを持つ。
 例えば、意見を言う人の『立場』がある。
 もしも写真家が、自分がやろうともしないことを他の写真家に求めるのなら、僕は、
「お前が自分でやれよ!」
 と言葉を返すかもしれない。
 だが、相手が評論家なら、話は違ってくるだろう。
 そこに、自分が相手のことをどんな存在だと見ているかが現れる。
 
 また、意見を言う側と言われる側の人間関係だってある。
 今僕が制作中の本に関して、制作にかかわっている人から何らかの指摘をされても、それで僕が傷つくことはないだろうし、それどころか、指摘は糧になるに違いない。
 それは、その指摘に一種の愛情が込められているのと、運命を共にしているからであり、決して外野の雑言ではないからだ。
 今回の本作りで、僕がしみじみ思うのは、もっと無駄のない作業をして、効率を上げなければならないということ。
「ここは後でも直せますから、今は先に進みましょう」
 とか、
「ここは、こんな風にしなければ時間が無くなってしまい、結局思い通りの物ができなくなりますよ」
 と何度も教えられた。
 僕は以前、効率と仕事の丁寧さは反比例するような印象を持っていたのだが、最近は、むしろ逆ではないか?と感じるようになった。
 効率がいいと時間にゆとりが生まれ、時間が生まれると丁寧な仕事ができる。
 
 話はそれてしまったが、そうした立場は、ありとあらゆるところに付きまとう。
 例えば、本を読む時。
 普段、読書をする時には、大抵の人が、相手の言わんとすることを理解しようと読むだろう。
 がしかし、自分たちが作った本を自分たちで読んでみる際には、立場が違うのだから、それでは困る。
 本を好意的に読むのではなくて、警戒心を持って、時には突っ込みを入れなければならない。
 ところが、それは一種の自傷行為でもあり、案外難しくて、なかなかそんな風に読むことができない。
 
 
 

2011.1.18〜21(火〜金) 縦走


NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

 ずっと文字を眺めていると、次第に頭の働きが悪くなり、能率が落ちてくる。
 そこで、カメラを持って撮影に出かけると、今度は、一日の中で時間が足りなくなり、苦しくなる。


NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

  さて、普通、山登りと言えば、麓から山頂目指して歩くことをイメージするが、一旦山頂にたどり着いた後、そこから尾根伝いに、さらに別の山頂に向かって歩くことを縦走という。
 子供頃、父に連れられて、その縦走に出かけたことがあった。
 まず直方の町から良く見える標高およそ900メートルの福智山に登り、そこから牛斬山まで歩いた。
 小さな山頂を乗り越えても乗り越えても、まだ先があるものだから、最後には弟が遅れだし、やがて癇癪を起した。
 先に牛斬山の山の頂に立った僕らに、
「まだあると。」
 と聞いてくるので、
「こりぁ、まだまだ先があるぞ。」
 と答えたら、ついには泣き出してしまった。
「うそうそ、牛斬に着いたぞ!」
「ほんと?嘘やない??」
 今にして思えば、よくぞ、あんな距離を歩いたものだと思う。
 本作りも、小さな山を乗り越えても乗り越えてもまだ先があり、まるで縦走でもしているかのようだ。
 がしかし、その長丁場の中でしか覚えられないこともあるだろう。それを、この機会に、しっかりと身につけておきたい。
 
 
 

2011.1.16〜17(日〜月) 隠したいこと

 1巻から2巻、3巻、4巻と本作りは進んだ。
 そして、4巻に関して知識の面で教わりたいことがあり、それについて詳しい人を訪ねた際に、ついでに別の巻にも目を通してもらったら、2巻の言葉の使い方に関して指摘を受けた。
 がしかし、今は4巻を作っている段階だ。2巻についてはいよいよ印刷間近であり、本来は、言葉を直しているような段階ではない。
 だから正直に言えば、それらの指摘された部分に関しては、うやむやにしたい。
 さて、どうしたものか・・・。
 とにかく訂正を申し出て、そこから先、それを本当に修正するかどうかは期限の問題もあるからは編集のOさんの意見を仰ごう。
 間違えたとか、知識が及ばなかったとか、うっかりしていたとか、気付かなかったとか、預かったものを無くしてしまったとか、自分に都合が悪い何かが起きてしまった場合は、隠したり、誤魔化すよりも、一刻も早く正直にさらけ出す、と決めておいた方が10中8、9いい。
 
 お店で店員として働いている知人などに聞いてみると、みな口をそろえて、お客さんに対して
「分かりません。」
 と言ってはならない、と言うが本当にそうだろうか?
 確かに、撮影機材や家電などを買いに行き、店員さんに質問をして、それを店員さんがよくご存じなくても、
「わかりません。」
 という返事を返ってくることは、滅多にない。大抵は、適当に誤魔化された曖昧な返事が返ってくる。
 が、ぼくなら、分からないことは、「分からない」と。だから、「メーカーに問い合わせて調べてみます」、とか、「一般的にはこう言われています」などと教えてくださる店員さんを信用する。
 自然科学の知識に関しても、本当に詳しい人は、分からない時には、
「私には分かりません。」
 と答えてくださるものだ。
 特に撮影機材に関しては、自分自身がある程度知っているので、少しでも話をしてみれば、相手が本当に知っているかどうかはすぐに分かる。例えば、プロだってまず分からないような微細なことを、分かったように言う人のなんと多いことか!
 時には、相手が詐欺師に見えてくる。
 ともあれ、分からないことは「分からない」、間違えたら「間違えました」と明かし、嘘の上塗りをしないで済むようにしておきたいものだ。
 
 
 

2011.1.14〜15(金〜土) 山を楽しむ


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

 カメラは、胸にぶら下げた小さなオリンパスペンが一台だけ。
 すると、山の中や雪の中を歩くことが、とても楽しい。ああ、こんなに楽しいことだったのか。そうだ、そうだ!と。
 山歩きを楽しむことに関して言えば、カメラや三脚などという重たくてかさばる道具がいかに妨げになっているかを改めて感じた。
 その点、ミラーレスと呼ばれるタイプのカメラは、小型軽量なので大変に都合がいい。
 オリンパスぺンは、僕が主に使用しているニコンやキヤノンのカメラに比べるとセンサーのサイズが小さく、一般的に言えば、センサーが小さいほど画質は悪くなる。
 だがしかし、オリンパスの画像処理は実に巧みで、良く見れば粗があるにも関わらず、それをあまり感じさせないし、時には、より大きなセンサーのカメラの画質を上回っているように感じさせることさえある。
 小さなセンサーをあえて採用したメーカーの覚悟のようなものが伝わってくる。
 
 一方で、撮影そのものを楽しむということに関して言えば、液晶の画面を見ながら写真を撮る新しいタイプのカメラよりも、光学ファインダーをのぞいて写真を撮る従来のカメラの方がいい。
 いい写真が撮れる時には、カメラのファインダーをのぞいた段階ですでに、「あっ、これはイイ」というオーラを感じるものだが、そのオーラは高性能で大きな光学ファインダーでのみ感じることができ、液晶の画面では感じられないのだ。
 もちろん、液晶だって慣れれば、「このシーンはビシッと決まるはずだ」という確信は持てるようになるだろうと思うが、それがダイレクトに伝わってくる光学ファインダーの方が撮影は楽しい。
 
 
 

2011.1.12〜13(水〜木) 山へ


NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX
 
 実はここ数年、毎年、この時期が心苦しい。
 というのも、今の時期、幼児向けの本の中で使用する写真のリクエストが多数寄せられるのに、ここ数年はそれらの本向けの新しい写真を撮る時間がなく、気がきいた写真がないからだ。
 がしかし、今年はたくさんの時間を確保する予定。
 写真が実際に使われるかどうかは別にして、こんな写真撮っておいてよ!というリクエストがあれば、お知らせください。
 それらの定番写真は、もう飽きるほど撮影したつもりだったのに、しばらく他の物を撮ってみると、そこからフィードバックできることがたくさんあって、また新鮮な気持ちで取り組める感じがするのだ。
  
 さて、ちょっと山に行ってきた。
 そこまでは良かったのだが、帰宅後に仕事が満載で、体も頭も、もうクタクタ。
 いや、そうなることは分かっていたが、たまにはそんな日も送ってみたくなる。
 
 
 

2011.1.10〜11(月〜火) お年寄りの記憶



 時々、
「どこどこの出版社は自分の作品を認めてくれなかったけど、別の社に持ちこんでみたらちゃんと認めてくれて、企画を通してくれた。見る人が見れば俺の作品の価値は分かる。」
 というような話になる。
 だがしかし、それはそれだけで、本当に認められたと言えるのだろうか?
 大切なのは出版社が受け入れてくれるかどうかではなく、読者が、社会が認めてくれるかどうか。本を出すことではなく、その本をちゃんと人が手に取ってくれるかどうか。
 つまり、本が何冊売れるかであり、僕はお金持ちになりたいわけではないが、本を売りたい。
 さて、僕の次回の本はどうなることだろう?

 言葉で簡単に説明するならば、地域の自然を取り上げた本。生物学と地質学をつなぐ本。
 もしもその売り上げがひどく悪かったなら、それが悪しき前例となり、同タイプの本は、少なくとも同じ出版社からは出にくくなるだろう。そして、自然の本を本格的に手掛けている出版社は少ないことを思うと、その1つでもが及び腰になる影響はそれなりに大きい。
 だから、本が売れるかどうかは、僕や僕らだけの問題ではない。
 逆に多少なりとも成功すれば、似た着眼の本が、今後別の誰かの手によってでる可能性もある。僕は、熊本県〜島根県の水辺を舞台に取り上げたが、別の地域に住む人や別のタイプの環境を取り上げた本が。
「物事はお金や売れ行きではない。」
 と言う方もおられるが、本当にそうだろうか?
 ある狭い局面を見れば、僕だってそう思うこともあるが、何かを継続してずっと続けていくためには、ちゃんと経済的に成り立っていることが肝心だ。

 さて、次の春、偕成社から出版される5冊組みの本のうち、第五巻の舞台は、僕の事務所の近所にある小さな町の水路だ。
 誰も注目しない場所であり、当然、インターネットで調べても、欲しい情報は得られない。
 そこで、古くから住んでおられる方に話を聞いてみた。
 すると、人間の記憶というもの凄さを改めて思い知らされた。相手が、僕から見て年が離れた人であればあるほど、それを強く感じた。おじいちゃんやおばあちゃんは、若者が知り得ないことを知っていることを思い知らされた。
 調べごとをするために役所にも何度も足を運んだが、担当者が若い人の場合、残念ながらほぼ絶望だった。
 一方で、すでに役所を定年されたOBの方の記憶の中に、欲しい情報がたくさんあった。
 それがそのまま誰にも引き継がれることなく消えてしまうなら勿体ないなぁと感じる機会が、何度もあった。
 小学校の理科の教科書には自由研究のページがあり、いろいろな調べ方が書かれているが、お年寄りに聞きましょう、という方法があってもいいのではなかろうか。
 
 
 

2011.1.9(日) リスクを取ること
 
 写真を撮ることそのものは競争ではないが、プロの世界は競争だ。なぜなら、仕事の絶対数が決まっていて、その決められた枠を誰が取るかの問題だから。
 つまり、自分がどれだけ頑張っても、他人がそれ以上に成果を上げれば、食えないことになる。
 厳しいなあと思う。ふと、社会主義や共産主義を主張した人の気持ちが理解できるような気がしてくる。
 そして、他人がどれだけ頑張っているのかは、完全な私生活であり伺い知ることができないので、果たして自分がどれだけ頑張ればその他人を上回れるのかも分からない。よほどにマイペースな人は別にして、そこがプロを志す人にとって、もっとも悩ましいところではなかろうか?
 もしかしたら、自分は最大限に頑張ったつもりなのに山の1〜2合目あたりをうろうろしており、その延長線上に成功はないかもしれないし、あるいは、9合目に到達しており、あと一歩かもしれないのだ。
 一方で自分はどんどん年を取っていく行くのだ。
 
 さて、自分自身の感じ方を書けば、リスクを取ってでもチャレンジをする人、切り開こうとする人は、自然写真業界の中にだって、僕が最初に思っていたよりもずっと少ない。
 フリーの写真家の世界は多くの人にとって特殊過ぎる世界だろうから、一般的な会社や組織を思い浮かべてみてもいい。
 その組織が生き生きとしていれば、そこで頑張りたいという人が集まってくるに違いない。
 だが、組織が機能不全になっていれば、人は去っていくだろう。そして去り際に、しばしばこんなことを言う。
「俺は意気に感じて頑張るタイプなのだから、こんなところではやっていけない。」
 と。その手の話をこれまでいったい何度聞かされたことか。
 上手い言い方があるものだなぁと思う。粋に感じて、と言えばカッコいいが、それは言い換えれば、みんなが頑張るのなら自分も頑張るということであり、受け身なのだ。
 そこで自分が先頭に立って組織を変えようとする人、切り開こうとする人は、会社にだって少ないことだろう。
 
 出版の場合、企画がすでに成立していれば、つまりお膳立てがしてあれば、その企画のために写真を撮ってもいいと手を上げる人間が必ず見つかるだろう。
 だが、これから企画を通したいから、企画を通せるような写真を撮ってとか、企画を通せるような絵を描いて、と言われたなら、企画が通らずに無駄働きになる可能性も十分にあるのだから、多くの人が尻込みするに違いない。
 しかし、そこにチャンスがあるのではなかろうか?
 
 
 

2011.1.7〜8(金〜土) プロの世界とは
 
 自然写真の世界だけでなく、写真業界全体が、以前よりもずっと厳しくなっているようだ。
 不景気だからだろうか?僕がプロを目指して活動を始めた頃には、すでにその兆候があったから、そんな状況に対応するためにプロに徹してきた。
 例えば、僕が撮影を担当したカタツムリの本が一般に市販されているものでは3冊あるが、それらの写真はあくまでもカタツムリの本を作るための「素材」であり、写真を「作品」として見せたい多くの写真好きにとっては、全く興味をひかれる世界ではないだろう。
 プロが撮影する写真にだって趣味の側面と仕事の側面の2面があるが、それらのカタツムリの本は、趣味の側面をばっさり切り落とした大変に職業的な写真であり、趣味的な面白みがない分、それを志す人も少なく、代わりになる人があまりいない世界だと言える。
 
 ただ10年や20年ならともかく、下手をしたら50年写真を撮り続けることになるのを思うと、面白みがない仕事だけでは、情熱を維持することが難しくなる。
 そこでその次の段階として、今度は自分が好きなものにカメラを向け、ちょうど今本作りをしていることは、これまでにも何度も書いたことがある。
 だがそれはそれなりに、やっぱり、プロにしかできないことを模索してきた。
 具体的には、自分が大好きな自然写真と社会との接点を常に見出そうとしてきた。今制作中の本に関して言えば、僕が小学校〜高校までの理科の教科書を熟読したうえで、小学生の副教材になり得るように作ったものだ。
 つまり本は、一方で僕の趣味、一方で教材であり実用の本なのだ。

 ただし、教材にありがちな味気ないものなら、仕事としては成立しても、自分が好きなものにカメラを向けるてみた僕にとっては、本末転倒になる。
 だからそうならないように苦心したし、そこが今回の本作りで一番難しかった部分だ。
 本の構成を担当している凹山さんは、それができる数少ない、場合によっては今の日本で唯一の存在だろう。
 そういう才能を持った人との出会いを見逃さないようにし、その才能と自分の仕事と結びつけるのもまたプロの仕事。スポーツに例えるならスカウトだ。
 それを思うと僕が考えるプロの仕事とは、写真を撮ることそのものよりも、その周辺のことの中に多いように思う。
   
   
 

2011.1.6(木) 3手先を読む

 本作りは、全五巻中、いよいよ5巻目に突入。5巻は自然科学とよりは社会の要素が強く、僕にはどうしたらいいのか具体的なことが分からないので、構成の凹山さんの作業を見守るしかない。
 自然科学の内容なら具体的な自分の意見があるし、その意見にどれくらいの商品価値があるか判断ができるが、社会の内容に関しては、それができにくく、仕事としては、手を出しにくい。
 一方で凹山さんは本作りのプロなので、凹山さんが扱えば、紛れもないプロの仕業になる。
 
 同時進行している4巻は、一場面一場面を厳しい目で見直していく段階だ。自分が何となく知っていることを、何となくのまま放ってないか、自問自答していく。
 すると、一ヶ所、そんな箇所があった。
 おそらく傍から見れば、みんな何の違和感なく読んでくださるだろうが、内心なんとなく自信が持てずに、見て見ぬふりをしていた箇所が。
 何となく自信がない、というのは実は非常に厄介で、大抵は、全く自信がないことの方が対処しやすい。人の病気に例えるなら、前者が原因不明の病気、後者が手術が必要な病気という感じになるだろう。
 がしかし、ギリギリのところで、自分がどこにひっかかっているのかが分かった。そしてそれが分かれば、人に教わることができる。
 昨日は、さっそく詳しく教わるために、博物館の学芸員の方にお会いしてきた。
 学芸員の方の話を聞いた際の僕のワクワクは、短い言葉では言い表せないので、いずれまた。
 
 科学的な内容の本を作る場合、囲碁や将棋で例えるなら、次の1手をどうしたらいいのかが分かるだけでなく、3手先くらいまでがちゃんと読めている必要がある。
 例えば、次の一手として、「カタツムリはコンクリートを食べる」と本の中に書く場合を考える。
 そのためには、コンクリートが石灰岩からできていることを知っている必要がある。
 さらに、石灰岩はサンゴや貝などの死骸からでき、同じ殻を持つカタツムリがそれを欲しがることが決しておかしなことではないことを知っている必要がある。
 知識はしばしば、1つでは単なる情報に過ぎず、幾つかがまとまって初めて意味を持つのでそこまで勉強しておく必要がある。
 その2手目、3手目を本の中に書くかどうかは、本の性質によるが、今回僕らが作っている本は、それを書くことのよって連続した知識の面白さを表した本、いや、知識の面白さというよりは知識と知識のつながりの面白さを表した本なのだ。
 なのに、その2手目3手目が読めていない箇所があることに、僕は不安を感じていたようだ。
 
 
 

2011.1.3〜5(月〜水) 大切なこと

「おい武田、大切なことを知りたいか?」
「もちろん。」
「あのな、先生に論文を見せたらたくさん書き直しをさせられると思うけど、書き直しをさせられる前のものを絶対に捨てたらいかんぞ。」
「なんでですか?」
「昔なぁ、何度見せにいっても書き直しをさせられてきりがないからさぁ、腹がたって一番最初に見せたものをもう一度持っていったことがあるんや。」
「そしたら?」
「先生がこういうんや。君、これすごくいいじゃないか!と」
 僕が大学の4年生の時に、研究室の先輩が教えてくれたことだ。
 その話を聞いて、当時の僕は、先生は適当なんだな、と思っていたのだが、ちょうど今取り組んでいる本作りでも、良く似たことが何度も起きた。
 修正をして、うん良くなった、と納得する。
 さらにまた修正をして、うんまた良くなったと、うなづく。
 しかしある時突然に、やっぱり最初のやつが良かったんじゃないか?と感じ始める。
 昨晩も、そんなことがおきた。
 構成を担当している凹山さんにそれを話してみたら、
「最初から、気に入らないものなんて作ってないですからね。」
 と返ってきた。
 頭の中が、大学4年の時まで一気にタイムトリップする。そうか、先生が気まぐれなんじゃなくて、僕に大切なことを教えてくれたその先輩が、最初の段階でちゃんと納得できるような論文を出していたんだ!
 先輩の名前で調べてみたら、大学の准教授として活躍しておられるようだ。

 では、納得できるものができれば、もう何もしなくていいのか?と言えば、そうではないだろう。
 たとえ気に入っていても一通りのことを試し、今の状態がベストであることを確かめなければならない。
 だから結局、何をするにせよ、最後までもがかなければならなくなり、いつもバタバタする。
 しかし、それが、何かを制作するということなのではなかろうか?
 それともいつか、スイスイと余裕を持って、こなせる日がくるのだろうか?
  
  
 

2011.1.1〜2(土〜日) 続けること

 人は、その立場によって何が正しいかが違ってくるし、絶対的な正論など、世の中にはあり得ないのではなかろうか?
 例えば、一緒に本を作っていても、編集者に求められる態度と写真家に求められる態度とは、しばしば異なる。
 制作中の本がイマイチだと感じられた時に、編集者なら、どこがどう良くないのか具体的に伝えるよりも、「話にすんなり入っていけない感じがする。」とか、その人が感じているイメージをイメージのままに伝えることが大切になるだろう。
 だが写真家や著者はイメージではなくて、どこをどうしたらいいのか、具体的でなければならない。
 ある本のお話の中に読者がすんなり入って行けるようにするためには、どんな写真を準備したらいいのだろうか?昨年末から意識していることではあるが、それを写真で実現できるようになることを、今年の第一の課題として掲げたい。
 まずは、目的地に着いてから撮影を始めるのではなく、目的地に着く過程を、ちゃんと写真に撮っておくことから始めてみることにした。


NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

 1つのことを長く続けていると、それが当たり前になってきて、良くも悪くも形骸化してしまう。例えば、この日記だって、それが言えるのかもしれない。
 僕は初め、一緒に仕事をする人に自分のことを知ってもらうことを、この日記の目的としていたが、長く続けている間に、それを意識することがなくなっていた。意識しないでも、できるようになっていた。
 ところが先日、今一緒に本を作っている凹山さんから、日記を読んでいけば僕がことがたくさん分かると言われて、当初の日記の目的が思い出されてハッとさせられた。確かに、凹山さんとは、本来ならそれなりに打ち合わせをしなければできないようなことが、あうんの呼吸で、しかも一般的な打ち合わせをするよりも、ずっと高いレベルでできる。
 ふと冷静になって自分自身のことを考えてみると、僕も人のブログや日記をよく見るが、それらの人のことは、しばらく会ってなくても、まるで頻繁に会話を交わしているかのように伝わってくる。
 それは大変に凄いことなのだけど、長期間続けて当たり前になることで、その大変に凄いことに、僕は、気付けなくなっていたようだ。
 続けることの大切さを、改めて思った。
 
 学生時代に、恩師からよく指摘されていたことを思い出す。研究や新たな実験の話の際に、恩師の提案に対して、その実験の問題点などマイナス志向なことばかりを僕が答えるという指摘だ。
「君は、なんでそんなにケチばかりをつけるんだ!」
 とよく怒られたものだった。
「意見を言うんなら、それはやめた方がいいじゃなくてそれが実現できるようにする意見を言いなさい。」
 と。
 恩師の言うことが必ず正しいわけではないだろうが、確かに、今自分が知りうる範囲で人様の仕事を眺めてみると、何かに対して止めた方がいいとばかり意見する人は、大概、自分は結果が出せない、結果が続かない人なのだ。
 恩師の話にしても、もう20年近く前の話なのだから、たった一つの話の意味を多少理解するのに時には20年以上かかることがある。続けなければ、分からないことがある。
  
  
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2011年1月分


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