撮影日記 2010年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2010.12.28〜31(火〜金) 更新のお知らせ
 
 今月の水辺を更新しました。
 
 
 

2010.12.25〜27(土〜月) 熊

 ふと気付けば年末。 
 今年こそはあそこに行こう、あれを見たい、と思っていたのに、放置されたままのことがたくさんあって、あぁぁぁっ、っと叫びたくなった。
 中でも、四国には是非とも行ってみたかった。日本最大のカタツムリ、殻の直径は普通に60ミリを超え、中には70ミリクラスが存在するとも言われるアワマイマイを探しに行きたかったのだ。
 そしてなぜか今、滝の写真を撮りたい。特に、新しい落ち葉を踏みしめながら、サクッサクッサクッと山道を歩き、紅葉の季節の滝をめぐってみたかった。以前は、645判のカメラを持って滝廻りをして、趣味的に写真を撮ったこともあったが、ここ数年は、そんな時間が取れていない。
 行く気だけは満々で、今年の場合は、熊が出没したらどうしよう?とかなり真剣に頭の中でシュミレーションも繰り返していた。

 熊と言えば、山に熊の食料がない、とある団体が大量のドングリやその他をヘリコプターで運んでいることが話題になった。
 僕は、ヘリで大量の餌をまくというその行為には全く賛同できないが、自分たちはこう思うとオープンな場に出てきて意見を言っていることは、少しは評価されてもいいことだと感じる。
 別に熊の話題に限ったことではなく、多くの人が、ネット上で自分は誰かや自分の実績を明かさずクローズな議論をしていることを思うと、大変に勇気がある。
 ネット上の不特定多数の人が閲覧できる場で語れば、それがオープンな場での議論だと勘違いしておられる人が時々おられるが、オープンな場というのは、逃げも隠れもできないということであり、自分が名乗らないのは論外であろう。自分がいい意見を言っていると本当に思うのなら、自分の名前を明かして主張すべきだと思う。
 もちろん、匿名で構わない場合だってあるだろう。
 例えば、相手が権力を持っていて自分が不利益を被りかねない場合や、相手が極度に粘着質だったり意地が悪い人の場合は、その限りではないだろう。
 ネット上で議論する場合、その人が誰で、どんなことをしてきた人なのかが分からなければ、その人の主張が嘘かも知れないことを思うと、そこは所詮バーチャルな空間に過ぎない。
 また、その人が誰かによって、全く同じ意見でも、時にはイチャモンになり、時にはありがたい意見にもなる。

 ともあれ、山に熊の餌をまくのなら、僕は、ヘリを使うのではなく、せいぜい行ける所まで車で行き、あとは自分の足で運んで欲しい気持ちが強い。
 自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の肌で感じる。それが自然を考えること、であるような気がしてならない。
 
 
 

2010.12.24(金) 郵便受け

 危ない危ない。事務所の郵便受けがあと少しで溢れだし、それ以上物が入らなくなるところだった。重要な郵便物は自宅に送ることになっているので、事務所のものは大して重要ではないが、溢れだすとやっぱり困る。
 慌てて中の物を掻き出して、必要なものと不要なものとに分ける。
 必要なものは、事務所の光熱費の領収証の類で、その流れで一気に会計処理を終わらせた。
 不要なものの大半は広告の類なので、それらを入れないようにしてもらおうかと思うこともある。
 だが、世の中にどんなものがあるのかは、ありがたいものも迷惑なものも全部含めて知っておくこともまた大切であり、最終的にはいつも放っておいて、むしろ、自分を純粋培養してしまわないようにしている。 
  パソコンに送られてくる迷惑メールなどにも言えることだが、一番アホらしくて損なのは、潔癖症になり過ぎて、それが気になって気になって仕方なく、イライラした生活を送ることだろう。ある一部分に執着し過ぎて、大きなところで損をするような暮らしは送りたくない。
 それに、仮にその手の迷惑が世の中から消えてなくなれば、その人がイライラすることなく暮らせるか?と言えば、おそらくNOだ。今そんなことでイライラしている人は、なくなったらなくなったで、やはり何かにイライラして過ごすのではなかろうか?
 イライラは一種の八つ当たりであり、その本当の原因は、大抵は自分の中にあるものだ。

 郵便受けくらいは毎日見ればいいじゃないか!、と感じる方もおられるだろうが、何かに集中したい時には、その、たったそれだけ、ができなくなる。
 自分が集中しているその作業以外の面では、ほとんど引き籠りのような状態になる。
 もっとも、こんなことを書いたって、そんな経験がない人にはまず理解されないだろうが・・・。
 そう言えば、以前は、その引き籠りが不気味で怖かった。こんなんで大丈夫か?としばしば不安になった。
 
 
 

2010.12.23(木) 手作りと既製品


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

 画像に写っているのは、水中撮影用のカメラと僕の右手だ。
 この画像の撮影に使用したカメラはオリンパスのE-PL1sで、自分の右手がモデルになっているので、左手の親指と人差し指ではさむようにしてカメラを持ち、その人差し指で何とかシャッターを押した。
 ちょっと何かを説明したい時に、オリンパスのE-PL1sはとても便利なカメラだ。
 今回はスタジオ用のストロボを光らせて撮影したのだが、見かけはコンパクトカメラみたいなのに、スタジオでもちゃんと使用できる。
 便利過ぎるし、手軽過ぎる。
 値段も安い。
 画質をギリギリまで追求しなければならないケースでは、よりゴージャスなカメラを手に取るだろうが、ごく普通の被写体の場合は、うちにある一番高価なカメラと比較しても、印刷レベルでは、それほど差はでないだろう。
 もっと言えば、その差よりも、印刷の際のばらつきの方がはるかにでかい。
 E-PL1sは既製品なのに、手作りっぽい雰囲気もいい。
「わっ、このカメラかわいいね。」
 とすでに何度も言われたが、その次に来るセリフは、
「綾瀬はるかが宣伝しているやつでしょう?」
 だ。
「違う違う、あれはパナソニック!」
 
 画像の中で、僕の親指が押しているレバーを、今回新たに取り付けてもらった。
 レバーをたどると、オートフォーカスをコントロールするボタンにたどり着く。
 ぼくの場合、手動でのピント合わせとカメラ任せのピント合わせが半々くらいだが、僕のような使い方をする場合、そのボタンの操作性が非常に重要なのだ。
 それを、以前は直接上から押すような単純な方法で操作していたのだが、若干扱いにくかったので、改造をしてもらった。
 プルーフの水元さんさんの工作は、手作りなのにまるで既製品のような確からしい仕上がりだ。
 不思議なことに、手作りのものには既製品のような精密さを、既製品には手作りのような雰囲気を求めたくなる。
 つまり、別に手作りなのか既製品なのかが重要なのではなくて、大切なことは、いい意味で予想を裏切られる何かがあること。そう言えば、美術とか芸術も、人の予想を、基本的にはいい意味で裏切ろうとする行為であるように思える。
 人は、たまにびっくりしたい生き物のようだ。
 人がまだ野生の生き物だった頃に、外部からの刺激を受け取っていたアンテナが、安心して暮らせるようになった今、どこかで退屈をして刺激を求めているのだろうか?
 ふと思い出すのは、ウォーキングやランニングをする人たちの姿だ。
 車や洗濯機など、体力を使わないで済む道具を発明しておきながら、やっぱり疲れることを人はしたがる。
  
  
 

2010.12.22(水) 飼育

  

 幼馴染のところの小さな子供たちが生きものが好きだという話を聞いて、ビオトープやため池に連れて行ったのは、ちょっと前のことだ。次は、越冬中のコウモリの観察に連れていく約束をしているので、冬の間に一度時間を作ろうと思う。
 子供たちのことは、母から聞いたことがあった。おばあちゃんに連れられて武田家に立ち寄った時も、僕のカタツムリの飼育施設を、実に熱心に眺めていくらしい。
 そこで、彼らを連れて初めて出かけることになった時に、最初にどれくらい生き物に関する知識があるのか探りを入れてみたら、僕が思っていたよりも知っているし、行動力もありそうだ。
 それだけ知っているのなら、飼育された生き物をそこまで真剣に見ることもないだろう、と一瞬思ったのだが、すぐにそれは間違えだと思い直した。
 ふと思い出したのは、以前南米に行った際のこと。ジャングルの中で、実に不思議に思ったことがあった。
 森の中に住んでいる人々が、庭で植物を育ていたのである。わざわざそんなことせんでも、周囲の森の中にたくさん植物があるんやから、よかろうもん!と感じたものだ。
  しかし、おそらく、生き物を育てるのは人間の本能、あるいはその本能から生まれた文化なのではないだろうか。
 僕が想像するに、家畜なども最初から食べる目的で飼われたわけではなく、人が生き物を好奇心から飼ったことが始まりだったのではないか?と思えてならない。そして、そうした本能をもっていたからこそ、今ほどの人口を養えるようになったのではなかろうか。
 ここ最近は、外来種の問題や生き物の分布の乱れの問題があり、生き物を移動させることに嫌悪感を感じる方が増えているように感じる。そして、採集や飼育に対して、研究目的など何か特別な理由がある場合を除いて、あまりいい目で見ない方が、自然愛好家の中に増えているように感じる。
 だが、僕は、どうもそちらの方が、無理があるような気がする。
 もちろん、生き物を無神経に移動させてもいいとは思わない。
 しかし、移動させるのが人間のエゴという上から目線の偉そうな論理では、それらの問題は決して解決しないように思えてならない。生き物を動かしてはならない、と主張する人が偉そうで攻撃的な人間ではなくて、自然を良く知っているからかっこいい、憧れの人でなければならないような気がする。
 テレビに出演しておられる野口健さんなどは、男が見ても、カッコいいなぁと思う。その野口さんがゴミを拾うと、ゴミを拾うことがカッコいい。そのためには、自分がリスクをおかして、時には生活をかけて掴み取った実績も必要になるだろう。
 
 さて、ため池から子供たちを連れて帰ったら、家族の方から交通費と称して封筒を渡された。お返ししようかと思ったのだが、それもどうもみっともない。時々、町の中で、
「ここは私に払わせて。」
「いいえ、私に。」
 などとお札を押し付け合いこするおば様を見かけることがあるが、あまりのみっともなさに、僕などはおもわず、それなら代わりに僕がいただいておきましょう、と申し出たくなる。
 しかし、帰宅してみると、もらい過ぎでもあったので、代わりに飼育の本を買って子供たちへのプレゼントとすることにしたのだった。
 ため池の生き物を採集してきたのだから、まずは水辺の生き物の巻。
 それから、子供たちはバッタに夢中だったので、バッタの仲間の巻。
 そして、やっぱり身近な昆虫の巻でしょう。
(他にも、カブトムシなどを含む雑木林の巻もある)
 著者の一人の筒井さんは、飼育のプロフェショナルだと聞いて知っていたのだが、確かに昆虫に限らず、生き物を飼育するためのノーハウやヒントが満載。ハウツー本なのに、想像をかきたてる何かがある。
 ただ単に交通費をもらい過ぎただけでなく、僕自身が、この本を、この本の魅力が分かる人に見せたかったという面もある。
 
 
 

2010.12.21(火) スヌート

 観光鍾乳洞ならともかく、一般の人が立ち入らない洞窟での撮影は、大変に厳しい。1〜2時間も歩くと、ずぶぬれ、泥だらけは確実。時には服が岩に擦れてボロボロになる。
 どこだったか忘れてしまったのだが、比較的最近、
「私もガイドさんに連れられて洞窟に入ったことがあるのですが、高価なゴアテックスの雨具が、たった一度の入洞でボロボロになってしまい、ガッカリしたことがありました。」
 と話しかけられたことがあった。
 そんな場所へ、デリケートな撮影機材を持って入るのは体力に加えて神経も使う。洞窟での撮影が終わり外に出たら、しばらく動くことができず、仮眠を取って帰宅したこともあった。
 がしかし、自分が苦しいのは大したことではないと思う今日この頃。今は、一緒に本を作っている凹山栗太さんがハードなスケジュールを送っておられ、それを傍で傍観しておくことの方が、洞窟での撮影よりも大ごとなのだ。
 そう言えば、今年の春、家に勉強を習いにやってくる中学生が受験をしたのだが、これも辛かった。
 僕は、すぐに人の応援に回ろうとするのは好きではない。まず自分がやろうとすることを重視するし、自分の主張をするために誰かを担ぐことを真っ先に考えるのは、好みではない。
 しかし、自分が当事者になることが不可能な場合もあるから、そんな時には応援をするしかない。そして、そんなケースで人を応援をするのは、一転して、自分が頑張ることよりもしんどいようだ。
 それが例えば、親の苦労なのではなかろうか。

 さて、洞窟で使用する機材の改良を進めつつあるが、今日紹介するのは、照明器具の光の質を変えるアクセサリー(右)と、そのアクセサリーをニコンのストロボに取り付ける特注のアダプター(左)だ。
 アクセサリーは、スヌートと呼ばれるもので、光が照射される範囲を狭くする働きがある。
 洞窟の中では、被写体を均一に照らすと、洞窟の雰囲気が損なわれてしまうので、わざと光をスポットライトのように細くして、光に照らされない部分を残す。
 これまでは自作の物を使っていたが、自分の足場もままならず悪条件がオンパレードの洞窟内ではちょっとでもスマートな物が望ましく、特注で作ってもらうことにした。
 作ってくださったのは、僕の水中撮影用の機材を担当してくださるプルーフの水元さんだ。小さな工作を何度もお願いしているが、今回も、想像を上回る見事な作りだ。
 

NikonD700 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D

NikonD700 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D

(撮影機材の話・・・ストロボ・ワイヤレスリモートスピードライトSB-R200)

 普通ストロボと言えば、カメラの頭の所に取り付ける。
 ところがそうすると、物が均一に明るくなり、不自然な見え方になったり、洞窟の雰囲気が損なわれる。
 そこで、右手でカメラ、左手でストロボを持ち、ストロボは自分が望む場所からワイヤレスで発光させる。
 ただ、まっ暗な洞窟の中では、その前にまず生き物を懐中電灯で照らして、構図を決めたりピントを合わせなければならず、あと一本手が欲しくなる。理想を言うなら、左手が2本欲しい。
 そこで、ストロボに懐中電灯を固定するなどの方法があるが、状況が厳しい洞窟の中ではそれも使いつらい。
 その点、ニコンのストロボ・ワイヤレスリモートスピードライトSB-R200には、LEDライトが搭載されていて、光は弱いものの懐中電灯としても使用できる。
 このLEDライトの光が弱いのと、LEDライトのスイッチが洞窟のようなギリギリの環境では片手では押しにくい位置にあるのがが少々残念であり、次はより光量の大きいLEDライトを搭載し、光量の調整を可能にして欲しいが、現在のものでも大変にありがたい。
 特注のアダプターを介してスヌートを取り付けてLEDライトを点灯させると、スヌートの管を通って光が細く照射される。
 その具合を見ながらストロボの位置を決め、最後にカメラのシャッターを押せば、LEDに照らし出されたものとほぼ同じように、今度はストロボのより強い光によって被写体が照らし出され、写真が撮れる。


 

2010.12.19〜20(日〜月) 世間は広いようで狭い

 このホームページや日記は、見知らぬ誰かに自分を宣伝する、というよりは、多少なりとも知っている人への近況報告だ。
 だから、アクセス数を気にすることはないし、アクセスを増やすような努力もしていない。
 傾向を分析することは好きなのでアクセス解析だけはしているが、見るのは数字の推移と検索の際のキーワードくらいで、ホストをまじまじと見たことはなかった。
 ところがふとしたことがきっかけで、昨晩初めてホストを見てみれば、いろいろなことが分かることを実感させれらた。
 例えば、誰かが僕にメールを送る時に、その人は、僕のホームページを見る可能性が高いということ。送られてきたメールのヘッダとホームページのアクセス解析の結果を照らし合わせると、大抵まったく同一の文字が記されている。
 多くの人が、メールを送るたびに、武田はどうしているのかな?と日記を読んでくださっているようだ。
 何度かメールを取りしすると、同一人物でもホスト名として記されている数字の一部は日によって変わる。だが、僕のホームページ程度のアクセス数であれば同一のアクセスポイントを複数の人が利用しているケースはほとんどないから、細かいところが変わっても、大きなところで人物を特定することが可能な場合が多い。
 また、そうして特定可能な誰かが今日僕のホームページを見た後で、どこか別のところで匿名で書き込みをしても、書き込み先に記録されるIPが分かれば、それが同一人物だと僕には特定できることになる。意外に匿名ではなく、世間は広いようで狭いようだ。

 さて、アクセス解析をしたついでに、自分の名前でグーグルで検索してみた。まめな人は、そうして自分がどう取り上げられているのかを調査するらしいことを、思い出したのだ。
 すると、複数のホームページを介して、知人のブログにたどり着いた。以前、写真家になりたい、と僕のところにやってきた若者がいて、彼がホームページを完成させ、ブログをはじめて間もないようなのだ。
 今は焼鳥屋さんでアルバイトをしながら写真を撮っているようだが、そこのお客さんや仲間の店員さんと会話が、自然写真の話につながっていくところなどがおもしろい。
 写真は、大変にいい線を行っている。間違いなく、自然写真の世界で、いずれ飯が食えそうなので、ホッとさせられた。
 写真からは、自己顕示欲が感じられず、無心に撮っていることが伝わってくる。
 写真家になるような人は、自己顕示欲が強い人が多いが、多少なりとも成功する人の場合、不思議なことにその作品からは、自己顕示欲が感じられないことが多い。
 生き物の写真を撮っている人なら、「これが俺の世界だ。」「俺がこんなに正しい。」ではなくて、「これが自然なんですよ。」と語りかけてくる場合が多いように思う。


 

2010.12.18(土) この時期の悩み(後)

 随分前に、パソコンをマックからウインドウズに変えた時には、実に寂しい気分になった。起動の際の画面からして洗練されてないとでも言おうか。
 だが、ウインドウズの方が断然に安上がりなので、そうすることにしたし、今では正解だったと思う。どうせお別れするのなら、早い方がいい。

 そのウインドウズを自動にアップデートする機能が、上手く働かなくなった。
 そこで手動でのアップデートを試みると、アップデートの開始の前の復元ポイントの作成に30分くらいの時間を要する。そう言えば、他のソフトをインストールする際にも、インストールが始まるまでに大変に長い時間がかかることがある。同じことが起きているのではなかろうか。
 ならば、と付属のDVDで検査をしてみたら、ハードディスクが壊れていることがわかった。
 重要な画像処理用のパソコンの、である。

 がしかし、その他の面には問題はない。
 また、昨日も書いたように、ちょうど今は先行投資の時期であり、すでにその先行投資を終え、お金を使ってしまった後なのだ。
 当面、今の状態でしのぐ決断をしたのだが、実に気持ちが悪い。
 今使用しているものと同程度のスペックの物を買えばいいのなら、大したお金はかからないし、すぐにでもそうするのだが、今後動画などを扱う可能性を考えると、買い替えの機会にそこそこのものを買っておいた方が、結局安く上がるだろう。
 実に悩ましい。
 僕にとってパソコンは、カメラと違って新しいものを買っても何も嬉しくないし、むしろ、ソフトのインストールその他、面倒でしかないのも、じゃあ、最新のものを買おうか!と張り切れない理由の1つだ。お金の使い方は、実に難しい。


 

2010.12.17(金) この時期の悩み(前)

 何事も、上達しなければ面白くない。そして上達するということは、今の自分のダメなところを見つけて、そこを改善することだ。
 したがって、楽しくなるためには、最初に自分のダメなところに気付くという一般的に言えば苦痛な過程を伴うが、何度もそれを繰り返していたら苦痛の次には楽しみがくることが条件反射のように染み付き、苦痛はただの苦痛ではなくなる。
 何をするにせよ、自分の向き不向きはいったんおいておき、まずはそこまでやってみることが大切ではなかろうか。
 その、自分のダメなところの見つけ方はいろいろある。
 人と議論をしてその中で気付くという武者修行的なやり方もあるが、逆に徹底して一人になる、まるで瞑想するかのようなやり方もある。受験勉強に例えるなら、何度も模試を受けるやり方もあれば、徹底して教科書を読みこむやり方もあるのに良く似ており、僕は、教科書を読み込むタイプだった。
 

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

 さて、今の自分のやり方を改善することが大切。
 だが改善は、その作業がまさに進行中には難しい。そこで僕の場合、生き物の活動が活発な時期には改善点をひたすらにリストアップするにとどめ、秋〜冬の生き物が不活発な間に作業をする。
 改善には出費を伴うことが多く、お金は有限なのでどれを優先すべきか、毎年今の時期には大変に悩む。
 今年の場合は、本作りの際の表現の幅を広げるために、まずはスナップ撮影用のカメラとして、 オリンパスのE-PL1sを買った。これで、とにかく何でも撮る。
 さらに、水中撮影用の機材、洞窟の中で使用する幾つかの道具にも改良を加えつつある。
 他にもその程度の改良が幾つかあって、1つ1つの出費は大したことがないものの、合わさるとそれなりの額になる。
 さらに、今年は狭い山道を走るための車を買ったのが大きくて、もう打ち止め!
 本当なら他にも、ダイビング用の空気のボンベなどは極小のものを入手して身軽にしたいし、洞窟の中で使う照明器具は、水中撮影用の超小型ストロボを入手し、洞窟での撮影後、泥まみれになったストロボをじゃぶじゃぶ水で洗えるようにしたいが、どうも、そこまではお金が回りそうもない。
 それら、まだ手をつけてない部分に関しては、先送りすることにし、来年は現状のままで辛抱することになりそうだ。
 と、そんな矢先に、画像処理用の重要なパソコンが壊れかかっていることがわかった。こいつは参った。


 

2010.12.16(木) クニマス

 秋田県に唯一生息し、その後絶滅したと考えられていたクニマス。それが、山梨県の西湖で発見されたというニュースには、大変に心を揺さぶられた。西湖には以前クニマスの卵が放流されたことがあって、その末裔だと考えられているようだ。
 生き物を本来の生息地以外の場所に放すことには慎重であるべきだと思うし、少なくとも個人がすべきことではないと思うが、その反面、まるで何とかの一つ覚えみたいに、
「そんなことをしたら生態系がおかしくなる。間違えだ。」
 と口にする人が多いのには閉口させられる。
 確かに、理論だけを取り上げればそうなり、理論も大切なのだけど、現実に目を向けてみたらどうだろう?
 例えば、誰しも重病にかかれば病院で治療を受ける。本来は、死んでしまうはずの人が生き伸びる。それとて、大変に自然に反することである。
 しかし、医療によって命が救われたら、みんなその自然に反することを、ありがたいと思う。自然に反することだから間違えている、という単純な公式は、人間社会の中では現実的ではないし、今の人の暮らしを考えると、むしろ思考停止に近いような気がしてならない。
 家畜や野菜だってそうだ。
 誰かが野生の生き物を飼い始め、品種改良を加え、別の土地へと移動させ・・・・、自然に反することだらけなのだ。
 自然に反するからダメというのなら、その人は、まず自分が現代人をやめる必要がある。

 そもそも、今自分が信じている自然が、ほんとうに自然だとは限らない。
 例えば先日、日本に生息するクサガメは、遺伝子を検査してみたら外国から移入されたものだった、というニュースを見た。
 途端に、従来から日本に生息するイシガメの生態に悪影響があるかもしれない、などと言い出す人が現れ、クサガメは守られるべき存在から駆除されるべき存在に、仮に駆除まではいかなくても、どうでもいい存在になり下がってしまう可能性だってある。
 まるで第二次世界大戦の終戦の日のように、それまで信じていたものが、ある日を境に180度変わるようなことが起こりうる。
 人が今思い描いている生態系という概念は、最初から、その程度の曖昧さをはらんでいることを、知っておくべきだと思う。一部の島など特殊な場所をのぞき、日本の自然を考える際には、原理主義者になり過ぎないことが大切ではなかろうか?
 日本の生態系が変えられてしまうという理由で外来種の駆除をしている方々は、今後クサガメをどう取り扱うのだろうか?
  
 さて、矢口高雄さんの漫画・釣りキチ三平の平成版の中に、今回のクニマスの発見を予言していたかのような巻がある。見事としか言いようがない。
 また矢口さんの著作の中には、さまざまな釣魚に関するエピソードがでてくるが、その中に、「移し岩魚」のお話がある。
 移し岩魚とは、、猟師が万が一の時のための食料として山の中の魚が住まない渓流に放した岩魚のことを指すようだ。
 そのエピソードが事実かどうかは不明だが、人が生き物を移したり、飼ったり、改良したりするのには文化に近い側面があり、原理主義者の理屈だけでは語れるはずもないのだ。
 
 
 

 

2010.12.15(水) 撮影機材の話(後)

 三脚は、重たければ重たいほど、安定する。1キロよりも2キロの物が、2キロよりも3キロの物の安定性がいい。
 だが、それは理論上の話にすぎず、もしも三脚に乗せる機材が数百グラム程度のごく軽いものなら、2キロの三脚であろうが3キロの三脚であろうが、極論を言えば10キロの三脚であろうが、写真の仕上がり(ぶれ具合)に全く差が出ないこともおおいにありうる。
 そして差がないのなら、三脚は、軽い方が扱いやすい。
 自分にはどこまでの道具が必要なのかを見極めることは、機材選びの際に大切なことだが、意外に難しいことだと思う。

 さて、デジタルカメラの画像を記録するセンサーの大きさには、さまざまな規格があるが、大雑把に言ってしまえば、センサーが大きいほど画質がいい。
 しかし、これも三脚の例と同じで、センサーはただより大きければいいわけでもなく、自分が撮りたい被写体を表現するのに十分なサイズであればいい。
 広い風景の写真を撮ろうと思うのなら、木や草や花や・・・・そこにはたくさんのものが写り込むことになり、画像に記録される情報の量が多くなる。そしてそんな場合は、画質がいい大きなセンサーのカメラを使用すると、格段に画質が良くなる。
 一方で、小さな昆虫に近づいて、その虫を大きく撮りたい場合などは、写真に写り込む範囲が狭くなり、画像に記録されるの情報量は少なくなる。その場合は、画質の善し悪しということに関して言えば、カメラのセンサーが大きなものである必要は、あまりない。
 例えば、オリンパスのデジタルカメラは、ニコンやキヤノンよりも小さなセンサーを採用しているが、オリンパスを使って実に高画質な写真を撮る方はたくさんおられ、それらの写真を良く見てみると、比較的情報量が少ない写真を撮っておられる方が多い。
 そこのところは、フィルムの時代も同じで、大きなフィルムを使う人には、大きなフィルムを使う人向きの被写体があったし、小さなフィルムを使う人には、小さなフィルムを使う人向けの被写体があった。
 そう言えば、随分前のことになるが、昆虫写真家の海野和男先生に苔むした岩の写真を見せたら、
「この手の写真は、もっと大きなフィルムで撮る人の世界じゃないかなぁ。」
 という言葉が返ってきたことがある。
 自分はこう撮りたい、という思いはもちろん大切ではあるが、持っている道具によって撮り方が違ってくる、という側面もあるだろう。
 さて、前回の更新の際に書いたリコーのコンパクトカメラ・Caplio GX100のことだが、今回本の表紙に使うことになった画像に関しては、印刷レベルで高画質なデジタル一眼レフで撮影されたものと大差はない。だが、もちろん使い方によっては、大きな差が出てしまうこともある。
 

 

2010.12.12〜14(日〜火) 撮影機材の話(前)



 全5巻分の表紙が届いたが、どれも印刷の出来は悪くない。
 中でも、右下の赤い花が浮かんでいる水中写真は、リコーのコンパクトカメラ・Caplio GX100で撮影したものだが、高価で高画質なデジタル一眼レフカメラで撮影した写真の中に紛れても、印刷レベルでは全く違和感はない。
 これは、僕の予想以上のできだった。
 「消えない水たまり」と名付けられたこの巻は、大きなカメラでの撮影が不可能な水深数センチの浅い水の中が舞台であり、小さいけどれどもキラリキラリと光るこのカメラが存在したからこそできた本だと言える。
 
 本のコンセプトは、重箱の隅をつつくような内容やマニアックな世界ではなく、多くの人が共有するに値する知識をテーマにした、オーソドックスな本であること。
 でも、それと同時に、まだ人に知られていない場所だけを取り上げること。まだ人に知られていない、というのは人によって受け止め方がさまざまだろうが、少なくともプロの自然写真家によって、写真が発表されていない場所だとした。
 五巻の中でどれが好きか?と言われれば、そんな区別はないけれども、どれがあなたに影響を与えたか?と問われれば、「消えない水たまり」と答えたい。
 というのも、この場所は四畳半の部屋よりも小さな、一般的には撮るに足らないしがない水たまりなのだ。
 だから最初、この巻は一冊の本としてはボリューム不足の、やや無理筋になる可能性もあると思った。
 ところが、通うたびに新しいものがあった。そして、新しい写真が撮れた。 
 アマチュアも含めて誰一人カメラマンが来ない、撮るに足らない場所を、全国の人が見るに値する本に仕上げる。
 というよりは、何かに導かれるようにそんな風に仕上がってしまったと書いた方がよさそうだ。
 その結果、物の見方、テーマ設定、まとめ方、執念・・・この場所での撮影から学んだものは大変に多い。
 
 ともあれ、なぜ、そんな撮るに足らない場所に何度も通ったのかといえば、リコーのそのカメラが、斬新なアイディアと果敢なチャレンジ精神で作られた革新的なカメラであったと同時に、挑戦的であるがゆえに未完成であり、不器用なところもたくさんあって、撮影が一度や二度では思い通りにいかなかったからだ。
 Caplio GX100を手にしての撮影は、ゴールに手が届きそうで届かないことの繰り返しで、僕にとっては、ちょうど目の前にニンジンがぶら下がっているような状態だった。
 撮影は、そんなときが一番面白いのかもしれない。
 
 
 

2010.12.11(土) 平尾台の洞窟

 現在制作中の本の中の第二巻の舞台は、洞窟で有名な福岡県の平尾台。本のタイトルは、『とける岩の洞くつ』だ。
 今日は、ちょうど作りかけの本を平尾台にある博物館に持ち込んで、博物館の方に読んでもらった。

 本は、必ずしも、事実を記載すればいいわけではない。
 時には、嘘をつく必要もある。
 そこのところは、学校の授業に似てなくはない。例えば、円の面積を求める際に用いる円周率は3.14と教わるが、厳密に言えば小数点第三位以下にも数字は続くのだから、3.14では間違えになる。
 がしかし、そこで本当のことにこだわると、何もできなくなる。そして、何もできなくなるくらいなら、3.14という妥協した数字でもわかる範囲のことを知った方が前向きでいい。
 学校の授業のみならず、人は時には大雑把にならなければならない。
 ただし、本を作る際に嘘をつくと言っても、質のいい嘘でなければならない。嘘も方便という見事な言葉がある。
 ともあれ、質のいい嘘をつくのは時に真実にこだわることもよりも難しく、やはり不安になるので第三者の目で本を読んでみてもらいたかったのだ。
 その場合その第三者は、原理主義者ではない、バランス感覚に優れた人が望ましい。
 

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

浦田健作氏の写真展の様子

 博物館ではちょうど、洞窟博士・浦田健作氏の写真展が開催中だ。
 浦田さんの写真を見たら分かる通り、洞窟は写真撮影に適した場所ではないし、僕が過去に撮影したことがある場所の中では、唯一、完全に辛い場所でもあった。たった1つの小さなデイパックやウエストポーチでさえ邪魔になって仕方がないような難所に、三脚や照明器具やカメラを持ち込むのは大変に骨が折れるのである。
 本作りのための撮影も終わったことだし、次回洞窟に行く際には、カメラを持たずに、洞窟探検そのものを楽しみたい。


 

2010.12.10(金) 甲虫


 
 デジタルカメラは、今のところ、フィルムでは与えられなかった感動を与えられる道具ではなく、これまで大変に苦労して撮っていた写真を、より簡単に、効率的に撮れるようにするための道具である。
 野球に例えるなら、デジタルカメラの登場で、ボール球でもヒットにできるようになった。
 だが、ホームランを打とうと思うのなら、やっぱりボール球ではなくてストライクゾーンに来る球を狙わなければならず、そうなるとデジタルもフィルムも大した違いはない。
 デジタルだからと言って、より簡単に人の心を打てるわけではない。

 その楽なデジタルカメラを使ってどこまで楽をするかは、人それぞれだが、僕は、あまり楽をし過ぎないようにしている。
 だから、高感度の画質に優れたデジタルカメラでも可能な限りISO100で撮ろうとするし、三脚は欠かさない。その他、今やレンズとセットで500グラムくらいのデジタルカメラでもちゃんと通用するのだが、仕事では、重たくて苦痛でも、やっぱりより高画質な大きなカメラを使う。
 なぜ、自分がそんな風に思うのかは、自分でも不明だが、これまで見てきた本の影響があるのかもしれない。
 例えば、山と渓谷社・野外ハンドブックの『甲虫』を初めて手に取った時の驚き。
 栗林さんのシャープでシンプルで、力強くてわかりやすい写真。とにかく、画質が良くて、今見たって全然悪くない。
 生き物の本の中には、数十年たっても内容が古くならない本はたくさんあるが、数十年後も通じる画質の写真は、ほとんどない。
  僕は当時17歳だったようだが、おもわず本の価格を確認したことを今でもよく覚えている。これだけ高画質な写真なのだから、他の巻よりも値段が高いのではないか?と思ったのだ。
 だが、定価は他の巻と同じだった。
 たくさん持っていた図鑑の中でも、この本は特別扱いしてきた。だから、自分もそんなものを作りたいと思うのではなかろうか。 
 今では絶版になっているようだが、古本なら、版が違う2種類のものが手に入るようだ。

  

 

2010.12.9(木) 大空のサムライ

 つい、本を後ろからめくりたくなる。後ろからめくると、その本が最初に刷られた年の他に、何度刷られたかが記されている。つまり、何度売り切れになったのかがわかる。
 近頃、これが気になって仕方がない。
「営業のことは出版社の人に任せておけばいい。」
 というのは昔の話であり、今は、写真家もちゃんとマーケティング等を勉強する必要がある、と思う。
 でなければ、いい本や売れる本はできても、いい本で売れる本はできないような気がする。
 もっとも、これは凡才の話であり、天才は別。何も考えないでも、売れる本を作れる人だったおられることだろう。
 ともあれ、どうせ取り組むのなら、いい本で売れる本を目指したい。
 




 父の愛読書、「大空のサムライ」は、昭和42年に初版が出版され、翻訳されたものはヨーロッパでもベストセラーになり、全世界での売り上げが100万部以上だという。
 売れ筋のテーマならともかく、第二次世界大戦中を生きたある戦闘機乗りの自伝だ。
 しかもこの本は、涙腺が弱い人の涙を安易に誘うタイプのベタな本ではない。激戦を生き抜いたパイロットのリアルな、大変に率直な語り口の本なのだから受け付けない方もおられるだろうし、いくらなんでも100万部は大げさだろうと最初思った。
 だが、昭和54年に刷られた家にあるものが第92刷というから決して大げさではない。
 そう言えば、大空のサムライの中に出てくるある作戦の名前を、大学時代の実験中に同級生のJ君が口にしたことに驚かされたことあった。
 思わず、
「えっ、大空のサムライでしょう?なんでそんな本読んでるの?」
 とつい聞き返した。
 だが、昭和54年の時点で92回も刷り直された本なら、僕の世代の人間だって、誰かが読んでいても全く不思議ではないだろう。
 二十歳前後の日本人が、遠くラバウルの空で戦闘機に乗って戦っていたのがほんの数十年前の出来事だとは、信じられない感じがする。



 ところどころ赤の色鉛筆で引かれている線は、意味がわからない言葉に僕が引いたもので、中学生の夏休みの課題として父から与えられたのではなかろうか。
 さすがにこれだけ理解できない単語が多いと、本読みは面白くない。が、本の中身は、今でもたまに思い出すことがある。
 著者の坂井三郎さんは、第二次世界大戦で戦死しなかった人の中で、一番たくさんの敵機を落とした撃墜王だ。
 自らが死ななかっただけでなく、一機の飛行機も壊さず、また戦闘は通常3機ひと組で、部下を二機従えて飛ぶらしいが、その二人の部下を一人も死なせなかったのだという。たった一度だけ、よその隊から来た隊長さんのお供に、気が進まないものの自分の部下をつけたら隊長の不注意から戦死させてしまい、部下を行かせたことを大変に後悔されたようだ。
 戦闘機乗りのマイナス頭という言葉が出てくる。
 気圧が低い上空では思考能力が随分落ちるらしいが、普段からその前提で用心深く、ちゃんと備えておく。どんな環境におかれても、投げやりにならず全力を尽くして生きる話は、大変に印象に残った。
  平和な時代に平和を叫ぶことは難しくないが、個人の意思など全く通用しない時に、はたして自分はどんな風に生きたらいいのだろう?
 今改めて読み直してみると、そんな思いが込み上げてくる。
  
 

 

2010.12.8(水) イントロ名人を目指せ



 編集のOさんは、本の出だしにこだわる。
 ところがそれに応えようとしても、目的にかなう写真がなくて、自分がそんな前提では写真を撮ってないことに気付かされた。話の本筋にはこだわっているものの、その周辺にある物語が切り捨てられていた。
 音楽で例えるなら、イントロがおろそかになっていることがよくわかった。
 ならば一層のこと、今回の本作りを機会にして、本の出だしを常に意識するようにして、イントロ名人になろうではないか!と先日オリンパスの小型のカメラを買ってみた。
 このサイズなら、大した負担にはなるまい。小さなカメラを常に胸からぶら下げておき、これが今日のメインの撮影だ!となる一寸前から早くも写真を撮り始めるのだ。
 全5巻の本作りが、1巻から2巻、3巻、4巻と進み、同じ過程を繰り返すうちに、何をどう撮るべきだったのかが次第にわかってきた。
 1冊目は、オオ、なんと難しいんだ!と頭を悩ませた。
 2冊目は、やっぱり難しいじゃないか!と感じた。
 3冊目は、それでも難しいなぁとなった。
 4冊目は、結構面白いぞ!となってきた。
 どうせなら、中途半端やその場しのぎで取り組むのではなく、物事が面白くなるまでやってみたい。
 
 
 

2010.12.7(火) 像


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

 弟が小学校の授業で作った像は、父にそっくりだと当時武田家では絶賛された。中でも、唇に塗られた赤の絵の具の垂れていることが、一般的に言えば下手糞なところなのだろうし、本物の父は決して口から血を流しているわけではないけど、父の雰囲気を演出するのに不可欠な味を出していると評されたものだ。
 父には、大変にせっかちで強引でちょっと無茶苦茶なところがあるが、そんな父の性格が、垂れた赤い絵の具によって見事に表現されているように感じる。
 もちろん、弟はそんなつもりで絵の具を垂らしたわけではないと思う。

 その左にある石膏の像は僕が作ったものだが、全体のバランスが全く考えられてない。今みれば、視野が狭く、無計画な感じがする。先生の話をよく聞きもせず、思いついたところから手当たり次第に作る少年の姿が目に浮かぶ。


 

2010.12.6(月) グレーカード


NikonD700 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D

 被写体を誇張することなく、見た目の通りに撮影しなければならないことがある。カタログの中に掲載する商品の写真や、生き物の写真の場合なら、図鑑の中の標本写真などが時としてそうした写真になる。
 写真を撮る人の中には、
「そんな平凡な写真なら誰でも撮れるね。」
 、という方もおられる。
 だがよく考えてみれば、写真が上手い人なんて狭い日本の中でさえ掃いて捨てるくらいいるのだし、洒落た写真だって、ほとんど誰にでも撮れると言ってもいい。
 ところが、ある一枚の写真をどう撮影すべきか、ここはおしゃれに行かなければならないのか、あるいは控え目に行くべきかを考えられる人は意外に少ないし、実はそこが僕らの仕事の一番難しいところでもある。
 それはおそらく、何だって同じではなかろうか?プロ野球の試合などをテレビで観戦していても、状況判断ができる選手は、野球を知っていると高く評価される。
 
 さて、生き物の標本の写真を撮る場合など、写真を被写体に忠実な色に仕上げたい場合は、カラーチャートと呼ばれる色の見本を標本と一緒に撮影しておくといい。 
 しかしカラーチャートは、厳密な色の基準なのだからそれなりに高価であり、僕なんぞははじめてそれを購入した際には、ぼったくられているのではないか?と何か合点がいかなかったものだ。
 ましてそんな高価なものを、時には泥だらけになる野外での撮影に持っていく気にはならず、カラーチャートはスタジオでしか使ったことがない。
 代わりに野外では、グレーカードとよばれる灰色の基準を使う。
 グレーカードは、カラーチャートの比べると随分安価で、半分くらいの値段で10倍以上の面積を買える。
 だた、それとてただではないのだから、痛まないように大切に使いたい。
 そこで、防水式のメディアケースの中にグレーカードを張り付けてみた。
 光の条件が難しい時などは、こいつを被写体と一緒に撮影しておくか、被写体の代わりに撮影しておけばいい。


 

2010.12.4〜5(土〜日) E-PL1s


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

 下から見ればとても見通しがいいのに、高いところから見下ろしてみると、地表付近にガスがたまっていて画像の切れが悪い。
 先日は、そのガスが僕の許容範囲を超えて濃かった。そこで今日は、再度同じ山へと登り、同じ場所からの景色を撮影した。
 今日は前回よりも幾分ましだったが、もっと条件がいい日があるのではないか?と期待したくなる。 
 本番の撮影に使うニコンのカメラとは別に、昨日届いたばかりの・OLYMPUS PEN Lite E-PL1sを試してみた。
 このカメラは、取材に出かける際に常に胸からぶら下げておき、普段、アッと思うものの撮影するまでには至らないものを、気軽に撮影する。
 以前はそんな目的に RICHO Caplio GX100 や RICHO GX200 を使用していたが、すべての面において、もうちょっと贅沢に作られたカメラがあったらなぁとよく感じたものだ。
 そこで、オリンパスのE-P1やビューファインダーが取り付けられるE-P2を購入したのだが、若干でかかった。
 その点、E-PL1sならなんとかいい。
 

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U


 

2010.12.3(金) イラスト

 物語性がある本を作ろうとすると、写真は時に具体的、限定的過ぎて人の想像を奪ってしまう。だから、物語の中で「この場所は」と言いたい時に写真はとても有効だけど、「ある場所は」と言いたい時には少々困る。
 かと言ってあえて抽象的な写真を撮ると、今度は芸術的になってしまい、思わせぶりになり過ぎる。
 僕には自然科学にこだわる気持ちがあって、想像は大切にしたいが、思わせぶりは排除したい気持ちが強い。
 そんな時に威力を発揮するのがイラストであり、今回の本作りでは、凹山栗太さんによるイラストの威力、面白さ、可能性を痛感しているところだ。できれば、絵が好きな人にも見てもらいたいと望んでいる。
 そのイラストを自分で描ければいいのだろうが、絵を描くことには写真を撮ること以上に才能が求められる。
 
 写真を撮る動機の中で比較的よく耳にするのが、本当は絵を書きたいのだけど、絵が描けないので写真を撮っている、というもの。僕も大雑把に分類すれば、そのタイプに属するのかもしれない。
 絵描きというと文化人というイメージがあるけど、筆記用具を手にして描くという行為自体は手先の運動なのだから、自分が思い描いた通りに描けるかどうかは運動能力の問題であり、むしろスポーツに近いのではなかろうか?
 楽器の演奏などにも似たようなことが言えるだろう。
 そして、運動の世界では、頭を使う世界以上に才能が物事を大きく左右する。
 学歴社会を不平等だという方がおられるが、もしも体で勝負する社会だったら、おそらくもっともっと不平等な社会になるに違いない。


 

2010.12.1〜2(水〜木) 興味



 スロープカーの窓から、遠くに北九州の町が見える。
 ならば写真を撮ろうか、と思うのだが、めんどくさくもあって、過去の似たような機会を振り返ってみれば、結局写真を撮らないことの方が多い。
 以前は、自分は写真が好きなのだと思い込んでいたが、この業界に入りいろいろな人に出会ううちに、僕なんぞは写真好きの部類には入らないことを思い知らせれた。
 僕が好きなのは自然であって、写真そのものには大した興味がない。だから、撮影は時にめんどくさくもある。
 つまり、僕にはカメラマンとして不向きな面がある。
 だが、不向きなら不向きで、そのことをちゃんと自覚しておけばいい。僕の場合は、心がけとして、めんどくさいときついは言わないことにしている。心の底から好きなことをやっているのなら自分に鞭を打つ必要はないのだろうが、悲しいかな、僕の場合、自分をしっかりと戒めておかねばならない。。
 そして、写真撮影がきつく感じられたり、めんどくさくならないように、普段から可能な限りの工夫をする。
 例えば機材はカメラバッグに詰めたまま。一々バッグから出していると、次に出かける時に準備が面倒で、腰が重たくなる。ただバッグの中では機材にカビが生えやすくなるから、除湿機を年中24時間稼働さえ、部屋ごと湿度を低く保つ。機材が置いていある部屋の壁には穴があいていて、その穴から除湿された水分を屋外に排出する。
 スタジオも、撮影台に物さえおけばすぐに写真が撮れるようにしておき、決して物が収納されたり仕舞われることはない。
 写真が好きな人なら、まるで大相撲の力士が仕切りを繰り返すうちに闘志をみなぎらせていくみたいに、機材の準備をしながらムードを高めていくようなことが可能かもしれない。
 現に、準備が楽しいという方がおられる。
 
 さて、近々新しいカメラ・オリンパスPEN Lite E-PL1sが届く予定だ。
 小さなカメラなので、取材の際に常に胸からぶら下げておいても大した負担にはならないだろうし、いつでも手に取れる場所にカメラがあれば、僕だってまめに写真を撮るに違いない。
 オリンパスPENのようなミラーレスと呼ばれるタイプのカメラは、パナソニックやソニーからも発売されており、まだ未完成な分野だけにいずれの製品にも未完成な魅力があってどれも欲しいのだが、今回はレンズを含めて考えた際に小型軽量のものが良かったので、オリンパスを選んだ。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2010年12月分


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