撮影日記 2010年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2010.4.29〜30(木〜金) 撮影機材の話


OLYMPUS E-620 ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) 水中ハウジング
 広角レンズを水中で使用する場合は、カメラを防水するケース(水中ハウジング)のレンズ部分(ポート)の性能が肝心だ。
 だから、水中で広角レンズで撮影してみたい人は、ポートを準備する際には、絶対にケチらない方がいい。 


OLYMPUS E-620 ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) 水中ハウジング
 とくに、小さな被写体に接近し、広角レンズで撮影する場合は、画質の良し悪しの半分以上が、ポートの性能で決まると言っても言い過ぎではないかもしれない。
 その際の接近とは、被写体とポートとの距離が数センチ程度の状態だと考えてもらえばいい。
 海の場合、被写体が大きいのでそこまで相手に近づいて撮影されたような写真は、ほとんど見かけることがない。したがって、海での撮影の場合は、それほど神経質になる必要はないかもしれないが、生き物が小さい淡水の場合は、とにかくポートの性能が重要になる。
 魚眼レンズの場合はドームポートと呼ばれる球状のガラスが、20ミリ(35ミリ換算で)くらいのレンズの場合はセミドームと呼ばれるやや球になったガラスが必須。
 そして意外に難しいのが24〜28ミリくらいのレンズを使う場合で、そのクラスのレンズにピシャリ合うポートは、僕が知り得る範囲ではない。


OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro 水中ハウジング
 一方で、望遠レンズの場合は、ポートの性能にそれほど神経質になる必要はない。

 オリンパスのデジタルカメラ・E-620が、今僕の仕事で、大変に役に立っている。
 まずはカメラのサイズが小さいので、大きなカメラでは撮影不可能な、ごく浅い水の中にだって沈めることができる。
 また、カメラはそのメカニズム上、暗い場所ではぶれやすいが、E-620に備わっている手ぶれ補正機構は大変に優秀で、薄暗い森の水たまりの中だって、シャープな写真が撮れる。
 そして肝心な画質だが、これも、使い方を間違えなければ大変にいい。
 使い方を間違えなければ、と書いたが、オリンパスのEシリーズのカメラが苦手な条件もあり、いよいよどんよりと曇った日にオリンパスのカメラを使用すると、写真がベタッとした、いわゆる塗り絵と言われているような質感の乏しい感じになってしまう。
 だが、お日様の光がある程度でも見られる場合は、より大きく、重たくて高価なニコンやキヤノンを使用することがアホらしくなるほど、オリンパスが簡単に良く写る。特に、小さな被写体を拡大するためのマクロレンズを使う場合に、それが顕著になる。
 昆虫写真家の中には、オリンパスがあれば、キヤノンやニコンはほとんど必要がないという方もおられるが、確かにその通り!
  
 オリンパスのカメラは、その構造上、明るい部分が白く飛んでしまいやすいはずで、明暗差が大きな被写体の撮影には向かないのではないか?と僕は心配していた。だから、最初はむしろ明暗差が小さな曇りの日にオリンパスを使っていた。
 ところが、いろいろな条件の元でオリンパスを試してみると、僕の予測とは逆に、むしろ画面の中に明暗差がある状況の方が、よく写ることが多い。
 いや正確には、良く写るというよりは、巧みな画像処理で実にうまい絵作りをすると書いた方がいいのかもしれない。
 特に、明暗差がある被写体の暗部の部分、例えば木漏れ日の森の中の日陰の緑の描写などが大変にいいと思う。恐らく、暗部のシャーネスや彩度を高くするような画像処理の設定になっているのだと思う。
 一方で、そうすると、その副作用で暗部のノイズが目立つようになる。
 だが僕は、ノイズをやたらに消そうとすることよりも、むしろ多少ノイズが出ても、生き生きしたビビッドな画像が好きだ。
   
  
 

2010.4.28(水) 植物写真は一期一会

「花の写真は難しい。なぜなら、花は美しいから。」
 とどこかに誰かが書いておられるのを読んだことがある。確か、有名な写真家の言葉だったように思う。
 僕は、普段あまり花にカメラを向けることはないし、それを最初に読んだときにはキザな人やなぁと思った。
 だが、確かに花の写真は難しい。
 大抵の花は数日間鑑賞できるにもかかわらず、花が最も美しいのはわずか1日だけであり、その花を一番きれいに撮ろうと思うのなら、その一日の旬をとらえなければならない。
 
 さて、ある花を探して今日は大苦戦。
 その花は巷にあまりにありふれているのだが、ちょっと時期が遅すぎることと、撮影となると時期以外にもいろいろな条件が付きまとい、実は今日に限らず、ここ数日その花を探して散々歩き回っていたものの、今回の撮影に適した花がなかなか見つからなかったのだ。
 そして、今シーズンはもう駄目かな・・・とあきらめかけた時に、とある民家の庭先に、撮影できそうなその花の株を見つけた。
 ただ、そこは私有地であり、ちょっと敷居が高い。
 そこで、その周辺をロケハンしてみるが、撮影ができそうな場所は他には見当たらなかった。
 僕はその民家の前を何度も何度もウロウロした揚句、はずかしいが、撮影の許可を取ることを試みた。
「こんにちは。ちょっとそこの庭先で植物の写真を撮らせてもらえませんか?」
「はいはい、どうぞ。」
 
 花は、どちらかというとややピークを過ぎており理想とまではいかなかったが、決して悪くない。
 天気もいい。
 ただ、今日は撮影に適したその場所も、おそらく明日はもう遅いに違いない。
 そう思うと、逃げない植物の撮影であるにも関わらず、気が急いてしまう。
 まさかありふれた植物の撮影で、落ち付け、落ち付けと自分をなだめることになろうとは!
 植物の撮影と言えば、のんびりしたイメージをつい描いてしまうのだが、動物の撮影以上に一期一会なのだ。
 
 
 

2010.4.26〜27(月〜火) 開き直り

 もしも仕事として写真を撮るのなら、自分が望まない撮影をしなければならないこともある。いや、そんな時間の方が長いと書いた方が正確だろう。
 そしてそんな時にいったい何が難しいかと言えば、やります!と引き受けるからにはとことんまでやり遂げる責任があり、その望まない撮影に、まるで自分が大好きな撮影をする時のような情熱で取り組まなければならないことだ。
 なぜなら、それが嫌なのなら、僕にはその仕事を断る自由があるのだから。
 会社員の場合は、会社に従わなければならないからそもそも断る自由がないし、断れないということは、時には最初から最後まで嫌々ながら仕事をすることだってあり得るだろう。そこが、自然写真のようなタイプの自由業と一般的なお勤めとの違いだと言える。

 もちろん時には、他の仕事との兼ね合いで、目下の仕事に十分なエネルギーを注げない場合もあるが、僕はそんな時は、正直にそれを伝えることにしている。
「あまり時間をかけられないですけど、それでもいいですか?」
 などと。
「とことんまでやります!」
 などと威勢良く返事をしておきながら、いざやり始めると、やれ時間がないだとか、やれ体調が悪いなどと言い訳ばかりをすることほど相手にとって迷惑なことはない。依頼をする側にだって、それならば別のカメラマンを探す自由があったはずで、
「とことんまでやります!」
 などという口先だけの返事は、その相手の権利を奪うことになりかねない。

 さて、本来なら敬遠したい撮影を引き受けると、結果を出すのにいつも大変に時間がかかる。
 まずは、カメラを構えてシャッターを押してみるのだが、敬遠したい撮影の場合、ちょっとシャッターを押したくらいでは結果は出るものではない。
 実はそれは最初からわかりきっていることで、簡単に結果が出そうもないからこそ、敬遠したい、望まない撮影なのだと言える。
 そこで一通りの試行錯誤をするが、大抵の場合は、それでもやっぱりどうにもならずに手詰まりになる。
 すると、だんだん被害妄想が頭をもたげてくる。
「こんな撮影って、物理的に不可能なんじゃないか?」
 とか、
「何でこんなに苦しまなければならないんだ?」
 などと、自分が引き受けた仕事にも関わらず、とてもひどいことを無理やりにやらされているような気持ちになり、カッカカッカ、イライライライラしてくる。
 ところが、カッカすればするほど、結果は思わしくない。
 そして益々世の中に対して腹が立つのだ。
 がしかし、それでもなお撮影を続けていると、やがていつの間にか集中し、心が穏やかになり、次第に結果が出始める。
 そうなると今度は、さっきまではつらかったその撮影を、一転して中途半端では止めたいくない強い思いが込み上げてきて、そうなるともう趣味の写真も仕事の写真も区別はない。
 俗に言う、開き直った状態なのだと思う。
 それはともあれ、開き直れるまでに、いつも大変に時間がかかってしまう。 
 僕は人と一緒に仕事の撮影に行くのがあまり好きではないのだが、それは、開き直れるまでのあのみっともない姿を見せられないのだ。
 
 
 

2010.4.23〜25(金〜日) 情熱と打算と


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 テントウムシとタンポポを組み合わせた写真について、誰かが撮影した写真を参考にしようとネット上の画像を検索してみたら、思いがけない人がその手の写真を撮影しておられたことがわかり驚いた。
 昆虫の形態や生態の面白さをいつも見せてくださる硬派な方が、まさか、この手の軟弱なイメージの写真を撮っておられたとは!
 プロは求められれば、自分の作風にかかわらず、それに応えなければならないことがある。

 テントウムシは、タンポポの綿毛の上に止まる道理はないし、それどころか、足を動かすたびに綿毛の中に埋もれてしまい、時には脱出できなくなるのだから、これは自然状態ではあり得ないシーンだと思う。
 だから今日の画像は、嫌がるテントウムシを僕が無理やりに綿毛の上にとまらせて撮影したイメージ写真だ。
 このような作り物のシーンについては、絶体に認めないという方もおられるが、僕は、是でもないし非でもないし、これが絶体的に正しいという答えなど世の中にあるはずもないのだから、とにかくやってみるという立場を取っている。
 ただ、楽しいか?と言われれば、自然状態での撮影の方がずっと楽しいことだけは確かだ。

 そんな場合に、やってみるといっても、ただやってみるのはプロとしては失格であり、やるからには本気でやらなければならない。そして、本来自分の好みではないことを、本気でやることは、大変に難しい。
 だから僕は、何か自分で課題を設ける。たとえば、テントウムシの表情にこだわるとか、テントウムシの発色にこだわるなど、この手のイメージ写真を撮る時以外にも普段から自分がこだわっている点に関しては、イメージ通りの写真が撮れるまでは絶対に妥協しない、という気持ちで写真を撮る。
 つまり、自分の好みではないタイプの撮影だからといっても、そのすべてが好みに反するわけではないのだから、全体としてみれば好みではないことの中に、部分的に好みを見つけ出し、そこにこだわる。
 それは、自分が好きではない人の中にだって、感心させられる点や尊敬に値する点がみるかるのによく似ている。

 それはともあれ、自然条件下での撮影の場合、カメラマンがどこまででもこだわりたくても、自然の方が撮影を終わらせてしまう。例えば、テントウムシがアブラムシを食べるシーンを撮影する場合に、僕はもっと写真を撮りたくても、テントウムシは満腹になったらどこかへと消え去ってしまうし、そうなったら、もう撮影をやめるしかない。
 大概の撮影は、こちらはもっと撮り続けたいのに、自然の方から撮影の終わりを突きつけられる。
 ところが、人がイメージを作って写真を撮る場合、こだわるのなら、テントウムシを何度も何度もタンポポの上にとまらせて延々と撮影すればいいのだから、今度はきりがない。
 そこで冒頭に書いたように、僕は人様の写真を見る。そして、みなが75点くらいのレベルの写真を撮っておられれば、自分は80点を取ろうと試みる。100点の写真を撮ろうとするのではなく、今の自然写真の市場の中で最高レベルのものを撮ればいい、というのが僕の考え方なのだ。
 クールだな、と感じる方もおられるだろうが、僕は自然写真家として、やっぱり自然な状態での撮影に時間を費やしたいのだ。


 

2010.4.22(木) お金が欲しい

 事務所をリフォームして、新しく撮影スタジオを1つ追加したことは以前書いたが、先日から、その新しいスタジオでの仕事を開始し、今日はある植物の性質を示す一連の写真を撮影中だ。
 本当なら、あと1〜2週間早い段階で仕事を始める予定だったのだが、僕の地元の直方市のとあるイベントで声がかかり、そのなんやらで少々取りかかりが遅くなった。

 今回新たに作ったスタジオは、以前のスタジオよりは広くなったので、撮影の際の自由度が増し照明器具を、より理想に近い位置に置くことができるようなった。
 以前は、ここに照明を設置したい!でも、スタジオが狭くてそれができない、というようなケースが多々あった。
 そしてその新しいスタジオでの照明器具については、スタジオ完成直後から大まかなことは決めてあったが、やっぱり実戦となると話は全く別だ。ここ3〜4日は、ああでもない、こうでもない、と撮影をしているというよりは、早朝から夕刻までスタジオへの機材の設置の試行錯誤をしていると言った方がいいような状態だった。
 しかしその照明の設置も、昨日で一応の結論が出た。
 これまで僕は、2つの照明器具を同時に使用することが多かった。そしてその2つの照明で光の具合が満足できない場合は、レフ板と呼ばれる白い板を被写体の付近に置き、レフ板で2つの照明器具の光を反射させて補ってきた。
 だが新しいスタジオでは、レフ板を全く使わないようにして、レフ板の代わりに別の照明器具を追加して光らせることにした。その結果、使用する照明が合計で4つに増えたが、スタジオが広くなったのでそれが可能になった。

 レフ板を使用すると、写真が自然な感じに仕上がり、実は僕は、照明器具を多数使用した写真よりも、少ない照明器具を使い、レフ板を上手に使いこなした写真の方が好きだ。
 だが、生き物の撮影の場合、相手は動く。例えば、スタジオで昨日のようなテントウムシの羽の模様を撮影する場合だって、テントウムシは時には飛ぼうとさえし、そうなると、部屋の中だって、小さなテントウムシなら見失ってしまうことは珍しくない。
 だから、テントウムシが撮影用の台から逃げ去さろうとしたり飛ぼうとする前にその気配を察知し、さっと蓋をかぶせたり、手をかざすなどが必要になるが、その際に、テントウムシの傍にレフ板があると、実に邪魔くさいのだ。
 その点照明器具なら、光の強さを調整できるので、光を強くしてレフ板よりも被写体から遠い位置に置くことができる。
 スタジオで生き物を撮影する場合、右手はカメラのシャッターを押すために、左手は、生き物を逃がさないようにするために使うのだ。

 せっかくスタジオが1つから2つへと増え、並行して2つの仕事を進められるようになったのだが、新しいスタジオで使用する照明が4つと多くなった結果、照明器具の数が足りなくなり、以前から使用していたスタジオに設置できる照明が不足することになった。
 つまり、スタジオが増えたにも関わらず、現時点では、やっぱり同時に2つの仕事をこなせない状態。新たに照明を買い足せなければ、スタジオが増えた意味がない・・・。
 今は、何と中途半端で意味がない状態なのだろう。
 新たに照明を2つとそれを取り付けられるスタンド2本・・・ああ、お金が欲しい。誰か、「ああ忘れてました!」とお金を振り込んでくれないだろうか。
 今日の植物の撮影は、早朝から夜まで続く。一定時間ごとに1度シャッターを押すだけの待ちの撮影なので、こんな時こそ、2つのスタジオで同時進行で2つの仕事を進めれば効率がいいのに!


 

2010.4.21(水) テントウムシ

「テントウムシの模様がよくわかる写真を大きく拡大して使いたいのですが、そんなことができる写真ってありますか?」
 との問い合わせ。
 そこで僕は、テントウムシの全身を真上から撮影した標本的な画像を送ってみたのだが、
「写真が大伸ばしに耐えないのですけど・・・」
 との返事が返ってきた。
 おかしいなぁ。カメラは2400万画素クラスだから大伸ばしに適するはずだし、スタジオでちゃんと撮影した写真なので十分な画質が得られるはずなのに・・・。いったいなぜ???? 
 そしてその理由がわからないままに電話でやり取りをしていると、ようやく事の次第がわかってきた。
 僕はテントウムシの全身の写真をイメージしていたのだが、相手は模様のごく一部をアップで見せることを考えておられた。
 そしてそれを受けて撮影したのが下の画像だった。
 これを幅60センチの伸ばそうというのだから、元のテントウムシのサイズからすると大変な大伸ばしであり、全身を写した写真なんかでは通用するわけがなかった。幼児向けの本には判型が大きなものが多く、写真が大伸ばしで使用されるケースが多々あるので、高画質な写真が求められる。
 去年の初夏のことだった。


OLYMPUS E-620 Olympus OM-System Zuiko Auto-Macro 20mm F2

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 テントウムシも自分の身長を知っているようで、自分の手足を伸ばせばギリギリ届く長さが分かるようだ。葉っぱの上で立ち上がり、手を伸ばして少し離れた花へと、躊躇することなく乗り移っていった。
 昨年は、その模様のアップの他にもテントウムシの写真をいろいろと撮影したが、今年もまたテントウムシを少々撮影しておくことにした。テントウムシの写真に関しては、昆虫の写真家がたくさん撮影しておられるわけだから、僕が撮影するのなら、昆虫の写真家があまり撮らないタイプの写真を撮ることが肝心だ。

  写真を売ろうと思うのなら、これでもか!というくらいに1つの生き物(物)を撮影することが大切!同じようなシーンでも、繰り返し繰り返し、毎年毎年山ほど撮影していると、やがてそれらの写真が売れ始めることが多いように思う。
 逆に、このシーンはもう撮影済みだから撮らない、などと言っていると、その撮影済みの写真さえもが売れない場合が多い。 
 やっぱり、我武者羅さが大切なんだろうな。
 だから昨年撮影したテントウムシの写真を無駄にしないためにも、今年もまたテントウムシにカメラを向け、とにかくテントウムシの写真が安定して流通を始めるまで、まるで何かに取りつかれたみたいにどんどんと新しい写真を撮ることになる。

 そして我武者羅に1つの物を撮影し、その写真が売れ始め、それでもまだその1つの物を撮り続けていると、やがて今度は、新しい写真を撮影しても売上が対してあまり伸びなくなる。
 きっと、飽和してしまったのだと思う。
 そうなった場合は、今度は我武者羅な撮影をやめ、冷静に、計画的に写真を撮ることが肝心だ。
 我武者羅にどんどん1つの被写体の写真を撮ると、万が一、その写真が売れなかった時にはダメージが大きい。時間と労力とお金がすべてパーになってしまう。
 がしかし、あまりそうしたことを気にし過ぎていると、写真家などという職業は成り立ちにくくなる。
 
 
 

2010.4.18〜20(日〜火) 隔週


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 もしも学校の体育の先生が、
「私はスポーツで飯を食っている。」
 といったなら、それに違和感を感じる方は少なくないだろう。
「いやいや、あなたはスポーツではなくて、教育で飯を食っているのではありませんか?」
 と。
 オリンピックでメダルを取るような選手でせえ経済的に困窮していることを思うと、純粋にスポーツそのもので飯を食うことは、おそらくきわめて難しいに違いない。
 写真も同様で、純粋に写真そのもので飯を食うことは難しい。
 だから例えば、ある人は写真教室を開催しコーチとしてお金を稼ぐし、またある人はアマチュア写真家を風光明媚な撮影スポットに案内し、ガイドとしてお金を得る。写真雑誌だって、そうした写真教室や機材のハウツーや撮影のガイド的な要素を切り捨て、純粋に作品としての写真だけを掲載したなら、おそらくほとんど売れずに、すべての雑誌が廃刊になってしまうに違いない。
 以前、ある写真雑誌の編集者が、
「雑誌の特集で撮影テクニックを満載にしたら、その号の売れ行きが大変に良くて、それからテクニック中心の本作りをするようになりました。」
 と話してくださったのだが、そんなものなのだろう。
 僕の場合は、幼児向けの本に提供する生き物の写真を撮る。つまり、写真の世界でお金を稼いでいるというよりは、幼児の教育の世界でお金を稼いでいると言った方がいい。
 それらの本を子供に買い与える保護者の方々は、写真家・武田晋一を求めているわけではなく、子供の教育を求めているのであり、そこを間違えると仕事が成り立たなくなる。
 一方で、写真そのものでお金を稼ぎたい、という思いは常にある。
 ところがそれを試そうとすると、その自分が撮りたいものを撮る行為と、仕事として写真を撮ることとがなかなか両立できないことを思い知らされる。
 そこでここ2〜3年は、幼児向けの本のための撮影を減らし、自分が撮りたいものを撮る時間を優先させてきた。これまで僕は、子供向けの本の撮影の依頼を断ったことはなかったのだが、その間は、初めて依頼をお断りをすることもした。

 そして今年は、再度、それら2種類の撮影を両立させることにトライしている。
 ところがやっぱり、さっそく難しい。何を一人でもがいているのかと思うのだが、気持がどうしても上手に切り替わらない。
 さて、どうしたものか?まずは一週間交代でやってみようか!
 今週は、幼児向けの本の撮影をしよう。
 今の時期、子供向けの本の中で人気と言えば、春の植物やテントウムシなどの昆虫であろう。昨年とは若干機材が変わっているので、まずは試し撮りをして、色の出方などを試してみた。
 来週は、自分の作品作りをする。
 そしてそれらがやがて両立できたなら、次に、それらの世界がひとつながりになるように、まとめていきたい。
 今僕が撮影している子供向けの本に提供する写真と、自分の作品として撮影している写真とは、同じ人が撮影したとは思えないほどの世界の違いがあり、それが自分としてはとても気になっているのだ。
 難しいことには違いないと思うが、それをちゃんとできている先輩もおられる。


 

2010.4.16〜17(金〜土) 水の透明感とは


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM 水中ハウジング

 熊本での取材からの帰宅後、本来なら車上荒らしなどに合わないように真先に車から下すべき撮影機材を積んだままに、まずはハードディスク1つだけを持ち出し、撮影した画像を事務所のパソコンで開く。
 泉に潜って撮影した水中撮影の画像には、すでに現場でノートパソコンを使って目を通してあるのだが、水中の微妙な質感は、ノートパソコンの性能の悪い液晶モニターでは、いいのやら悪いのやらさっぱり判断ができない。
 だから、もしかしたら僕が撮影したその日の条件が悪くて全部の画像がボツかもしれないし、逆に大豊作かもしれず、とにかく気が急くのだ。
 僕が表現したい水の透明感は、実は水がいかに透明であるかではなくて、水がいかに適度に濁っているかの問題であり、ただやたらに水中の浮遊物が目立たない写真の撮り方をすればいいわけではない。
 むしろ、水中の浮遊物を心地よく表現することに尽きる。
 一方で浮遊物が目立ち過ぎると、今度はただ見苦しいだけの写真になってしまう。
 これは結局、いろいろな条件の時に潜り、たくさんの写真を撮ってみるしかないのだ。特に止水では、その傾向が顕著になる。
 同じ水中撮影でも水が流れている場所では、撮影はずっとシンプルで、簡単になる。

 
 

2010.4.15(木) 調べごと


RICHO Caplio GX100

 自然を取材して本を作っている、と言うと、
「うわ〜素晴らしい仕事ですね。私も自然の本は大好きです。あなたのような人が必要とされているし、あなたのお仕事の将来は明るいですよ。」
 と言う人は少なくない。
 だがその言葉に大喜びし、自然の本が大好きというその言葉を鵜呑みにすると、あとでがっかりさせられることが多い。
 ならば、いったい誰の本をお持ちですか?自然写真家の中では誰が好きですか?と聞いてみると、大抵の人は本を持っているわけではないし、自然写真家の名前を知っているわけでもないし、相手は口をつぐんでしまうのだ。
 自然の本が大好き、という人さえもが、お金を出してその自然の本を買わないのだから、いったい誰が本を買ってくれるのだろう?その方は、実は、僕の仕事の将来はむしろ暗いと言っていることになる。
 いやいや、あれが社交辞令というものなのだろうか。
 好きと言ってもいろいろな程度があり、お金を出すほどは好きではないと理解したらいいのだろうか。
 
 今日は雨のち曇り。町の中の泉での水中撮影には不向きな天候だったため、熊本市立博物館へ、調べごとに行ってきた。
 地方の博物館へ行った際にいつも思うことなのだけど、ここも素晴らしい展示の内容だ。
 がしかし、繁盛しているとは到底思えず、そうした状況が自分の本作りとも重なり、そのうち縮小されてしまうのでは?もっとたくさんの人が見に来て、もっと繁盛してくれよ!と心配になる。
「文化、文化」
 と主張する人も、なかなかお金を出すところまではいかないのだ。
 お金がすべてではないが、僕は、好きとは、それに対してお金を出してもいいと思えるかどうかだと思う。
 
 
 

2010.4.14(水) 町の中の泉

 カメラがフィルムからデジタルへと変化した際に、その対応に一番苦労したのが水中撮影だった。水中撮影の場合、カメラを専用の水中ケースに収めて水に沈めるが、その水中ケースは決して安価ではない。だから、よく吟味して、これ!と思うカメラ用の水中ケースを購入しなければならない。
 ところが、初期のデジタルカメラは日進月歩の勢いで進歩し、次々とより優れた新製品が発売されるのだから、いつ、どのカメラ用の水中ケースを買うべきか、決断ができなかった。
 しかたがないので、僕は水中撮影を放っておくことにした。
 やがてキヤノンのEOS5Dが登場し、初めてその画質を体験した際の驚きは、今でも忘れることができない。
 デジタルとフィルムの画質は性質が異なるため比較ができにくい部分があるが、とにかく、EOS5Dはフィルムの代用以上の存在になることだけはすぐに分かり、EOS5D用の水中ケースを購入することにした。
 水中ケースは、どこの製品を購入するか大変に迷ったが、僕の特殊な用途を考えた挙句特注することになり、素晴らしい作り手さんに出会うこともできた。


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM 水中ハウジング

 フィルムカメラを使用していた頃から、ずっとレンズを向け続けている町の中の泉。その主な住人は、上の画像のカワムツ、オイカワ、ウグイ。
 今日の目標は、これらのハヤと呼ばれる魚たちを、僕の眼に見えているそのままに、誇張のないありのままの生き生きした姿で写しとめること。例えるなら、お母さんが撮影した我が子の写真のように。
 プロが撮影した写真は、当然上手いのだが、
「どうだ!これを見ろ。」
 と言わんばかりに主張し過ぎる嫌いもある。
 僕が目指す自然写真はその手の写真ではなく、お母さんが撮影する我が子の写真の延長線上にあるイメージだ。



 思いがけず、あこがれの魚の姿を見かけた。
 オヤニラミの後姿だった。
 オヤニラミに対する思いは、いずれ何かの機会に書きたいと思う。



 この場所で初めてであったオヤニラミは、ゆっくりと水草の中に消えていった。


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM 水中ハウジング

 そして、何度トライしても、一枚たりとも納得できる写真が撮れないフナ。
 理由は、警戒心の強さ。
 水中でのフナは、大変に神経質な魚だ。

 

2010.4.13(火) ある水溜りでの出来事


OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro
水中ハウジング トリミング

 熊本での取材に出かける前に、いつもの水溜りに立ち寄ると、カスミサンショウウオの幼生に前足が見える。食欲が旺盛で、何やら食べたものが口から飛び出している。
 何を食べているのだろう?この場所なら、小型の甲殻類だろうか。
 ならば、その小型の甲殻類の写真を撮りたいのだが、隠れ込んでばかりで滅多に姿を現さない。しかたがないので、カワニナにレンズを向けてみる。
 が、撮影には何かと制限が多い浅い水辺。たかだかこの程度の写真を撮るのに時間がかかる。これが陸上の生き物なら1分もあれば撮影が終わりそうなところが、5分、10分、15分と時間が過ぎ去っていく。


OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro
水中ハウジング トリミング

 しかし、そうして時間をかけている間に、目的の生き物が姿を現した。5ミリくらいだろうか。 


OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro
水中ハウジング トリミング

 たくさんシャッターを切ってみるが、相手は小さい上にチョコマカ動き回り、恐らく写真は全部ぶれているだろう。そして、ようやく2〜3枚手ごたえを感じ、ふと顔を上げると、一匹のサンショウウオの子供が、僕の目の前で、他を頭から飲み込んだ。共食いだ。そう言えば、今日の最初の画像のサンショウウオの口から飛び出しているのも、サンショウウオの尾っぽではないか!
 せっかくのチャンス。是非ともこれを写真に収めたい!
 だがカメラを構えようとした次の瞬間、上着のジャケットの袖からドボドボっと水がこぼれ落ち、水中が濁った。
 さっきまで写真を撮るために水に浸けていた上着のジャケットの袖に、水がたまっていたのだ。
 それでも構わず、慌ててカメラを沈めて撮影を試みるが、水の濁りでカメラのオートフォーカスが迷い、ピントが合わない。


OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro
水中ハウジング トリミング

 そしてそれに慌てた僕が、わずかではあるがカメラを水溜りの底に触れさせてしまうと、フワッと大量の泥が巻きあがり、まるで巨大な津波か雪崩のように押し寄せてきて、サンショウウオの姿を飲み込む。
 ついに撮影を諦め顔を上げると、水中の直径10センチくらいのごく狭い範囲だけが濁っており、水溜りは相変わらず静寂を保っていた。
 ああ、冷静さを欠いてしまった・・・・

 

2010.4.10〜12(土〜月) 計画

 今日は、朝から雨。先日仕事の計画を立てる際に、次回雨が降った時にはカタツムリの撮影に行こうと決めていた。


NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

 学生生活を終え、プロの写真家を目指して活動を始めた直後は、とにかく写真を撮る時間が欲しかった。だがしかし、一方で生活費も必要なので、僕はある学校で、講師ではあったが、理科を教えることになった。
 その年僕が受け持った授業の数は週に23時間。これは、講師ではない教諭と呼ばれる専属の先生よりもはるかに多い授業数で、学校のことをよくご存知の方には、それがかなりの重労働であることはすぐに分かるだろう。
 一日に5時間の授業をする日もあったが、時々のことならともかく頻繁だったので疲れは蓄積し、毎日授業を終えるとクタクタになったが、それでも、ちょっとでも時間を作っては写真を撮った。
 時には朝薄暗いうちから撮影し、7時くらいに撮影を切り上げ、車の中でスーツに着替えてそのまま授業に向かったこともあった。
 また時には、次の休日に写真を撮る予定にしている大分県の撮影現場が気になり、授業終了後に毎晩2時間車を走らせては現場を下見したこともある。日々の講師の仕事に疲れ果てていたこともあり、その帰りの車の中ではひどい睡魔に襲われ、車を路肩に寄せシートを倒して30分仮眠をとってはまたしばらく運転し、また30分仮眠を取っての繰り返しで、ヨロヨロになりながら福岡の自宅に帰りつくようなことを数日繰り返したこともある。
 とにかくとにかく写真を撮りたい、の一念だった。
 山のように財産があるとか、親が写真家で写真事務所を経営していて、自分が今すぐにでも仕事として写真を撮れる身分だったらなぁ・・・といったい何度妄想したことか。
 でも、自分の限界に近いいっぱいいっぱいの状況の中でもがき苦しんだことは、今になって大変な財産になっていると感じる。
 というのも、少ない持ち時間の中で写真を撮るためには計画性がとても重要であり、僕は合理的に計画を立てることを学ことができた。
 この日記を読んでおられる方の中には、武田は合理主義者だと感じる方もおられるだろうが、当時の僕にとって、いかにして時間を作るかが何よりも大切なことだったのだ。

 それから10年くらいたってからのこと、ある出版社の編集担当の方から、
「アリとアゲハチョウとテントウムシと・・・・・の写真撮影をお願いしたいのですが、大丈夫ですか?」
 と仕事の依頼を受けた。
 僕は
「大丈夫ですよ。」
 と即答したのだが、写真の量があり、しかも撮影にはちょっと時期が悪かったこともあり、依頼者は、
「この人、こんなに安請け合いして大丈夫なの?」
 と内心感じたのだそうだ。
 僕は、もちろん写真を撮った。
 すると先方は、僕には1日が24時間以上あるのではないか?とも感じられたのだそうだ。
 それは、僕にとってはたいそうな褒め言葉なのだ。 
 もちろん、合理性だけがすべてではないことくらいよく分かっているつもりだし、僕が写真家の息子なら、もっと違ったやり方になっているはず。人にはそれぞれに置かれた立場がある。
 
 さて、フリーになったからといっていくらでも時間があるわけではないし、むしろ、大半の人が考えるよりもずっと時間が得にくい、というのが現実ではなかろうか。
 特に、気象条件に左右される撮影は、自分の狙いの天候の日に、いかに自由に動けるようにしておくかが大変に難しい。
 今でもやっぱり僕の毎日は、いかに上手に計画をやりくりするか、なのだ。

 

2010.4.9(金) 仕事のパターン


NikonD3X Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 僕が撮影する写真は、大きく分けると3種類。
 1つ目は、依頼されて撮影する写真。
 2つ目は、依頼されたわけではないのに自分で勝手に写真を撮り、それを誰かが借りてくれるのを待つ写真。つまり、先回りする写真。
 この場合は、出版関係者やその他の人がよく知っている被写体を選んで撮影しなければならない。例えば、チカイエカなどというオタクな、場合によっては昆虫写真家でさえ知らないような蚊を撮影してみたところで、みなはそれを知らないのだから、どんなに待っていたところで、誰も永久に借りには来てくれないだろう。
 そして3つ目は、やはり依頼されたわけではないのに自分で勝手に写真を撮り、そうした写真をある程度の枚数揃えてまとめた上で、これを使ってくれ!とこちらから出版社やその他に売り込みに行く写真。
 その手の写真の場合は、今度は人が知っているものを撮影してもあまり意味がない。なぜなら、人がよく知っている被写体に関しては、こちらから企画を立てなくても、あちらからやってくるのだから。

 さて、ここ2〜3年は、その3つ目のパターンの撮影に力を入れてきた。そしてようやく、その最初の結果が出ようとしている。
 だが一方で、他のパターンの撮影がおろそかになっている。
 本当なら3つ目のパターンの撮影だけで飯が食えればいいのだろうけど、僕にはそこまでの才能が備わっていないようなので、他のパターンの仕事も組み合わせなければならない。
 そこで今年は、それをすべて同時に成り立たせることに力を入れる予定だ。
 例えば、3つ目のパターンの撮影を目的として現場に行ってみたが、残念ながら状況が思わしくない場合は、スパッと2つ目のパターンの撮影に切り替え、何か売れそうな被写体はないか?とあたりを探し、見つけ出し、それを撮影してかえる。
 こう書けば簡単なようだが、何か1つのことに集中すると他のことを考えたくなくなる僕には、これが結構難しい。
 最初から目的を達成できなかった時の逃げ道を考えているような甘っちょろい集中のしかたでは、何か1つのことをやり遂げることができにくくなるし、まずは1つのことにグググッと集中して、それが外れだった時にスパッと気持ちを切り替える。
 そんなこと、できるかな?
 
 

2010.4.8(木) 故郷


NikonD3X Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

 ここ数年、テーマとして定め年間を通して訪れている場所を別にすると、春は毎年、自宅の近くのこの場所から撮影を始めている。
 事務所の近くにも同じような場所はあるのだけど、なぜだが自宅に近い場所からのスタートがいい。
 僕は、本来、地元の直方市にはあまりこだわりはない。むしろ、直方、直方と押し付けられると、どちらかと言えば不愉快に感じることの方が多い。
 中には、
「写真の世界で成功しても、直方市を出ていかないで。」
 とか、
「住民票だけは直方市に置いておいて。」
 などと求めてくる方もおられるが、行政区分としての直方市には一切興味がない。
 自然を考える際に、直方市などという単位に、何か意味があるのかなぁ。むしろ、自然を考える上では、そうした発想がしばしば有害であるような気がする。

 中には、ある行政区分としての市と、ある自然区分とがきれいに一致するような市もあるに違いない。
 たとえば、自然が作り出したある地形の場所で、ある作物がたくさん取れ、その結果その周辺に人が集まり町ができ、そこに政治が生まれ、ある1つの自然区分がそのまま行政区分になったような。
 自然区分がそのまま行政区分になった場所と言えば、九州だって、そんな場所だと言える。
 九州という単位は緩やかな行政の単位でもあるが、同時に海という自然が作り出した自然区分でもあり、僕は、そうした自然の区分には従いたい気持ちが強い。

 だから、直方市から春の撮影をスタートさせる、と言っても、その場合の直方市は行政の単位としての直方市ではなく、自分が見慣れた場所、つまり、自分にとっての直方市だ。今日の画像の場所をちょっと先へ進めば、お隣の田川郡になるが、別に田川郡でも構わないし、たとえそこが行政の単位としては田川郡と呼ばれていたとしても、僕の心の中では、子供の頃から知っている直方市の景色なのだ。
 それが故郷ではないかと思うのである。
 昨年、ある酒場で、
「武田さんは、直方市のためにも何かをしてよ。」
 と市民活動家の方から求められたのだが、村おこし、町おこしとは、ひとりひとりの心の中の故郷が大切にされることであり、決して、行政区分としての故郷を押し付けられることではないような気がしてならない。
 町おこしの活動家の人が声を大にしてもみなが乗ってこない時に、しばしば、活動家の人にとっての町とみなにとっての町との間に開きがあるような気がするのだ。
 
 

2010.4.7(水) 撮影機材の話

 先日、ちょっと上京する機会があって、大きなカメラ屋さんに立ち寄った。僕は通販大好き人間なのだけど、写真用品の中には、実際に手に取ってみなければ適不適が分かりにくいものもある。だから、上京した折には、その手のものをいつも見ておくことにしている。
 ついでに、三脚を一本買おうか・・・。
 いやいや、買いたくないし、買わなくていいじゃないか、とその時点では明らかに思うのだけど、もしもお店で気に入ったものがあったなら、堪えきれずに買ってしまうような予感がしていた。
 そして、その気に入ったものがあった。

 だが、値札を見た途端に一気に冷めた。
 高かったのである。
 僕が欲しかったものはカーボン製の三脚だが、カーボンの製品はどれもそれなりに高価なのだ。
 カーボンには、軽くて強いという特徴がある。だから、例えば洞窟の奥深くで撮影をするようなケースで、そこに到達することさえ大変な困難が伴うような場合に、その軽さはありがたいだろうなぁと思う。
 何といっても、洞窟には人が一人、ギリギリ通れるような狭い個所や匍匐前進で進まなければならない個所があるのだ。
 ああ、洞窟にカーボンの三脚を持っていきたい!
 でもね、重たい三脚を苦労して持っていけばいいじゃないか、という思いもよぎる。
 お金をどこに使うべきか?三脚なら、仮にカーボンを買わなくても、自分さえ頑張れば、重たい金属製のものでも事足りる。だからやっぱり、それがなければどうにもならない、というような物にお金をつぎ込もうか。


 ふと、うちに一本だけ、ベルボン社製のカーボン三脚があることを思い出した。
 自分で買ったものではない。
 もらいものだが、それゆえに、僕の使い方には全長が短すぎる欠点があり、これまであまり使用したことがない。細かな理由の説明は省くが、洞窟の場合、あまりに地形が特殊すぎてどこにでも三脚が立てられるわけではないため、大は小を兼ねるで、ある程度背丈のある三脚が欲しいのだ。
 そこで、その短すぎる三脚を、少々工夫をして長くしてみるか!といろいろな部品を組み合わせていたら、ベルボンの製品であるにもかかわらず、ジッツオ社製の部品が取り付けられることが分かった。
 今日の画像の一番上のポールはジッツオ社製。そして、一番下のポールはベルボン社製であり、こららはポールの直径が同じなので、交換可能になっている。
 ジッツオの方は、ポールが2段に伸びる構造になっていて、それを伸ばすとベルボンよりも約20センチ高い場所にカメラを固定できる。
 これでいい。
 ああ、気分がいいなぁ。手もちのものが生きるし、お金だってかからなかった。
 カタログを見ると、ジッツオの三脚のパイプの径とベルボンの三脚のパイプの径は、ほぼ同じになっているから、恐らくベルボンが伝統あるジッツオの規格に合わせたのだと思うが、汎用性を重視する僕としては、ベルボン社のファンになってしまった。


 

2010.4.6(火) 常識


OLYMPUS E-620 ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) 水中ハウジング

 僕が撮影の際のテーマにしている浅い水辺には、大きく分けると2種類の環境がある。まず1つ目は水が流れている場所。そして2つ目は水が流れていない場所。
 撮影が難しいのは、圧倒的に後者だ。
 止水の場合、写真を撮るために水中に足でも突っ込もうものなら、水が濁ってしまい、当分は撮影ができない。だから陸上から、なるべく泥を巻き上げないように、カメラを水中に沈めなければならない。
 つまり肘や膝を陸上に残したまま、カメラだけを水の中に沈めるのだから、かなり姿勢に無理が生じる。
 そして、そうした無理がある姿勢で写真を撮っていると、通りがかりの人たちには気になるようで、
「いったい何をしておられるのですか?」
 とよく話しかけられる。今日も、いったい何人に同じことを聞かれただろう?

 中には、こちらのタイミングなどお構いなしで、まさに写真を撮っている最中に声を掛けてくる人もおられるから、参ってしまう。
 恐らく、そのタイプの人とは、永久に友達にはなることができないだろう。そんな時は、残酷ではあるが、冷たく接することにしている。
「何を撮っておられるのですか?」
「写真です。」
「いや、写真は写真でも何の?」
「別に・・・」
 あまりのそっけなさに、沢尻エリカ様だって、びっくりにするに違いない。
 逆に、遠くで静かに様子を見ていて、僕が顔を上げた時にそっと近づいてきて話しかけられたら、ついつい、たくさんしゃべってしまう。



OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro 水中ハウジング

 見事な保護色だなぁ。
 そんな自分自身の体色のことを自分でも知っているのか、ニホンアカガエルのオタマジャクシは、枯れ葉が積もっている箇所で見られることが多い。
 

OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro 水中ハウジング

 一方で、カスミサンショウウオの幼生は、落ち葉がどっさり積もっている場所よりも、地面の上に軽く数枚の葉っぱが乗っかっているような箇所に多いように感じられる。

 通りかかったおばさまから、
「魚ですか?」
 と聞かれたのだが、この場所は誰が見ても水たまりであり、閉じているのだから、少なくとも人が放さない限り、魚が住んでいる道理はない。
 今度は親子連れがやってきて、お母さんが、
「魚がいるのかな?」
 とつぶやくと、2〜3歳くらいの幼児が、
「魚はどこからくるん?」
 とたずねた。
 子供の方が常識的だったのである。
 
 
 

2010.4.2〜5(金〜月) 意図

 ちょっと前のことだが、ある出版社に写真を一枚貸しだしたら、その後しばらくして編集担当の方から、その画像を紙に印刷したものを送ってもらえないか?というリクエストがあった。
 恐らく、僕が送ったデジタルデータを印刷所で印刷してみたら、その方が、パソコンのモニターで見た時とは色の感じに違いがあったのだと思う。
 パソコンのモニターは、メーカーや機種や使った年数の程度によって色や明るさが変化してしまうため、同じ一枚の画像を見ても、僕のモニター上で見えている色と、あなたのモニター上で見えている色には違いがある。
 だから、パソコンのモニター上でみえている画像の色は、絶対的なものではない。また、印刷の際にも、機械や何やらの具合で色のばらつきが生じる。
 そこで編集者は、時には紙に刷られた写真を印刷所にみせ、
「こんな色に印刷してください。」
 と指示を出すこともある。
 僕は、たった一枚の写真であるにもかかわらず、その担当者がそこまでこだわってくださったことがとても嬉しかった。
 
 今日は、ある出版社の方との打ち合わせ。
 先日、金魚の写真を送っておいたら、それが本の体裁に出来上がっていたのだが、そこに編集者の真面目で誠実な人柄がにじみ出ていたので、温かな気持ちにさせられた。
 僕は別に真面目で誠実である必要はないと思うし、天真爛漫であってもいいし、遊び心満載でもいいと思うのだが、とにかく何となく作られたものではなく、その人の意図がちゃんと存在し、人間性が滲み出ている物が好きだ。
 その意図の中身が、たとえ自分の好みとは違ったって構わないと思う。
 その意図さえはっきりしていれば、僕の方がそれに合わせ、その意図を明確にするような写真の撮り方をしたっていいと思う。
 こうしたい、という意図があることが、面白いと思うのである。

 

2010.4.1(木) すっきり

 先月は事務所の改築に他の諸々の用事が重なり、撮影以外の用事が満載だった。
 そしてそんな時は、予定していたすべての仕事をこなすことができなくなるから、仕事を取捨選択し、優先順が低いものから切り捨てることになる。
 たとえば、領収書の整理などというのは、当面放っておくことになる。

 ところが、その領収書の束が、1センチ、2センチ、3センチ、4センチと積み上がっていくと、さすがに気分が悪く、何をしていても、心の底から楽しめなくなる傾向になる。
 だが今日は、ようやくそれらの束を整理する時間の確保ができ、気分は実に晴々しい。
 
 領収書と一緒に、やはり積んだままになっている封書を1通1通開封して目を通していくと、例によって返信を求められているにも関わらす僕は眼を通すこともせず、結果的に無視をしてしまったものが1つ、2つと出てくる。
 申し訳ないなぁ。
 一方でまだ返事が間に合うものには慌てて返事を書き込み、投函する準備を整える。
 
 それにしても、領収書というやつは、お店によって日付が打ち込まれている位置などが異なるが、日付は一番下、などと書式を統一できないものだろうか。
 作業を進めてみると、カード決済した買い物の領収書の量が大変に多く、次回の決済の時に破産してしまうのではないか、と心配になった。
 だが、よく調べてみると、それらの領収書の大半は、すでに引き落としが終わっている古いものが大半で、一安心。
 ああ、すっきり。
 今シーズンはまとめて5冊の本を出すことになっており、それらの撮影にとどめを刺さなければならず、悔いを残さないためにも、場合によっては思い切って新たな機材を購入するようなケースもあり得るし、しっかりお金の管理をする必要があるのだ。

   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2010年4月分


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