撮影日記 2010年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2010.3.31(水) 水の中



OLYMPUS E-620 ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro 水中ハウジング

 水中の生き物の撮影の場合、水槽内に自然を再現した上で、それにカメラを向ける水槽撮影という方法がある。
 だが今の僕は、可能なら、本物の水の中で写真を撮りたい。
 というのも、どんなに上手に水槽の中に自然を再現しても、やっぱり自然の水中との間には違いがあるから。
 たとえば、落ち葉の埋もれ方とか、土の質感とか・・・・。
 具体的には、自然の水中には小さな生き物がたくさん住んでいるので、それらの生き物が土を耕して柔らかくしたり凸凹させたり、逆に、土の表面を這う生き物が土を平らにするなど、自然の水の中でしかみられない景色がある。
 他にも、浅い水辺の場合、風の影響も受ける。風が生み出す微細な水流は、落ち葉の沈み方に影響を与える。
 僕は今、単に生き物の生態を捉えるのではなく、生き物から環境までのつながりを捉えることに力を入れており、風の影響や地質の影響や微細な水流の影響なども、僕にとっては表現したいとても重要な要素なのだ。
 でも、もしも僕が生き物の性質を捉えることに特化した写真家だったなら、その場合はおそらく、自然の水中よりも水槽を重視するだろう。水槽の方がよく表現できる現象もある。
 つまり、まずは自分が何を表したいかが重要であり、どの方法が正しいとか、間違えているといった問題ではない。


 

2010.3.30(火) 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。

 

2010.3.29(月) 少年の日の思い出(後編)

 中3の時の社会のG先生は、授業中に、当時の政権をひどく批判することがあった。当時は中曽根政権だったのだと思うが、それに対する社会党だか共産党だかの選挙ポスターの中に掲げられていた、
「 Stop The NAKASONE 」
 という言葉を授業中に取り上げ、
「君たち!この The の意味が分かるかね。」
 とみなに呼びかけたことがあった。
「このTheには軍団という意味があって、悪の中曽根軍団を止めろ、という訳になるんですよ。」
 と口角泡を飛ばし、声を大にしておっしゃった。
 今にして思えば、G先生は日教組の熱心な構成員だったのではなかろうか?
 僕には、先生の言葉がどうしても理解できなかった。日本の選挙などを経て選ばれた総理大臣が、なんで悪なんだ?と。
 そして、公立中学の授業に宗教を持ち込んではならないのと同様に、そのような政治的な話もしてはならないことになっているのだから、これは完全に先生の反則行為であったに違いない。
 ただ、中学の授業中に学んだことや出来事で、他に何を覚えているのか?と言えば、僕には好きだった女性の横顔と、英語のI先生の May Peace と社会のG先生の Stop The NAKASONE くらいしか思い浮かばないし、僕は今だに、I先生やG先生の言葉をこうして考え続けているのである。
 それを思うと、なんと凄い授業だったかと思う。
 教育とは、その人から滲み出る抑えようと思っても抑えられない哲学を、本気で相手にぶつけることなのかもしれない。

 一方で僕は、I先生やG先生の授業を受け、それを今だに記憶していて考えているからと言って、その宗教に入信しようと思ったり、当時の政権を悪だと思ったことはなかったし、G先生のような類の考えはいまだに持ち合わせていないし、僕の知り得る範囲では、同級生の中にもそんな影響の受け方をした者は一人もいなかった。
 つまり、どんなに強烈に思想を投げかけられたのしても、一方で自分には自分の考えがあり、投げかけられた思想によって、簡単に相手には染まらず、どこかでバランスが取れている。そんな状態こそが、教育がちゃんと機能している状態ではないのかな?、と僕は思う。
 相手を容易に染めてしまうようなものは教育ではないし、相手に簡単に染まってしまうようなものは、安易な単なる物まね行為であり、信心でもなんでもないような気がするのである。

 

2010.3.26〜28(金〜日) 少年の日の思い出(前編)


NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

 今回、取材現場で見かけたこの立札。表には 『 世界人類が平和でありますように 』 と、そして裏側には『 May Peace Prevail On Earth. 』 とその英訳が書かれている。この場所に限らず、都会〜田舎まであちこちで見かけるこの立札は、ある宗教団体が立てたものらしいが、May Peace Prevail On Earth. には続きがあり、
 May peace be  in our homes and countries.
 May our missions  be accomplished.
 We thank you. 
 Guardian Deities and Guardian Spirits.
 と確かなっていたはずだ。

 信者でもない僕が何でそんなことを知っているのか?と言えば、中1の英語授業でいつも唱えさせれていたから。授業開始直後の数分、毎回必ず、みんなでこの言葉を声を出して読んだものだ。
「さあ、まずは May Peace からやりましょう。」
 と。
 担当のI先生は、女性であるにも関わらず迫力があり、国会議員の田中真紀子さんのような風貌で、ちょっと野太くて、同級生の中のやんちゃな連中も、I先生の授業中には借りてきた猫のように静かだった記憶がある。
 ともあれ、公立中学の授業には、宗教は持ち込んではならないルールになっているはずだから、I先生の授業中の試みは、客観的に言えばおそらくは褒められたことではなく、反則になるのだと思う。そして、先生もそのことは自覚しておられたに違いない。
「私はね、ただいい言葉だと思うから、みんなにこうして教えているんですよ。」
 と一番最初におっしゃった。
 当時の僕には、先生のその言葉の意味が理解できなかった。いい言葉だから教えているに決まっているのに、何でわざわざそんなことを言うのだろう?と。だが今になって思えば、
宗教の言葉だから授業に持ち込んではならないという人もいるけど、私はね、ただいい言葉だと思うから、みんなにこうして教えているんですよ。」
 の前半部分をあえて言わなかったのだろう。
 いや、中学生相手には言えなかったのだろう。
 先生が信者だったかどうかには、若干の疑問も残る。というのも、ある時教室の後ろの黒板に、同級生の一人が、当時流行していた海援隊の曲(人として)の歌詞を書いていたら、それを見つけた先生が
「これは、いい言葉ね。」
 と大感激をされたことがあったのだ。あの大そうな喜び方を思うと、もしかしたら先生は、そうした言葉が純粋に好きだっただけで信者ではなかった可能性もある。
 唱えさせられていた英文の意味は、最後まで教わらないままだったか、もしかしたら学年の終わりの最後の授業の時に、1度だけ教えてもらったのかもしれない。とにかく一年間は、意味も分からないまま、 May Peace を唱え続けたのだった。
 
 宗教以外にも、政治も授業には持ち込んではならないことになっているはずだ。
 だが中には、そんなルールを破る先生もおられた。
(続く)


 

2010.3.25(木) 雨


NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

 日頃の行いが悪いのか、今回の取材は、これ以上ない、というくらいに天候が思わしくない。何といってももう丸3日間、しとしとと雨が降り続けている。いつもなら、雨と言っても大体途切れる時間帯があり、その間に仕事ができることが多いのに、今回に限っては、まさに途切れることなく雨が降り続いた。
 そしてようやく今日は、夕刻に雨が小降りになり、目的地を短時間ながら歩くことができた。
 ところが、他の仕事や用事との兼ね合いで時間の猶予が明日までしかない。はたして、明日一日で、目的を果たすことができるだろうか。
 正直に言うとあまり自信がなく、もう一度出直しになるような予感がする。

 もしも出直しになったなら、この近辺には確か九州では見られないカエルが生息しているはずだから、そうした生き物の撮影と組み合わせばきっと取材が楽しくなるに違ない。とすると、もう少し水が温み、両生類の活動が活発になる一ヶ月後くらいになるだろうか。
 ともあれ、とにかく明日、最後まで諦めずに、可能な限り頑張ることにしよう。

  
 

2010.3.24(水) 生き物の研究とは

 存在しないかもしれないものを探すのは、とても難しい。
 例えば、
「私はこの山で、絶滅したと言われているニホンオオカミを、もう20年追い求め研究している。」
 などと言ってみたところで、その人がまだ一度もニホンオオカミを見たことがないのであれば、実際のニホンオオカミのことは何も知らないのであり、20年どころか100年追い求めたところで、永遠にど素人のままだと言える。
 研究は研究でも、歴史の研究なら、それでいいのだろうと思う。たとえば、織田信長の研究者と言えども、実際に織田信長に会ったことがある人はいないのだし、世間も、その人が織田信長に会ったことがあるとは誰も思ってはないし、そのレベルの話であることを分かって上で聞いているのだ。
 だが、ある生き物が現存し、その現存する生き物を調べる、というのであれば、それでは研究になるまい。オオカミの研究者は、オオカミを見たことがあるからこそオオカミの研究者であり、
「私はオオカミの研究者です。」
 と言われたなら、世間の大半の人は、まさかその人が実際にはオオカミを見たことがないとは思わないだろう。
 見たことがないニホンオオカミの研究は、ニホンオオカミの研究というよりは、ニホンオオカミの歴史やプロフィールの研究と言った方がいい。
 一言で生き物の研究といってもいろいろあって、その生き物の歴史について知っているのと、実際にその生き物を知っているのとは、全く別のことであり、実際に知ろうと思えば、その生き物かその生き物に近い存在の生き物に接してみるしかない。
 もしも絶滅したと言われている二ホンオオカミを探すことになったなら、僕なら、まずは数年間、海外のオオカミを自分の目で見てみるだろう。そして、オオカミの観察のコツをつかんだ上で、次に日本のオオカミを探してみるに違いない。
 とにかく、自分の目で実際に見ることがとても大切なのだ。そこが、生き物の研究と、歴史の研究やUFOの研究の違うところなのだ。
  
 さて、ある生き物を観察するために、車で500キロほど走った。
 その生き物は北九州にも生息するが、北九州ではとても見難いやっかいな相手なので、先にもっと見やすい場所で経験を積んでおくことにした。
 
 
 

2010.3.21〜23(日〜火) 打ち合わせ


NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

 現在制作中の本に関して、主に本の構成とイラスト、つまり美術的な側面を担当しておられる凹山栗太さんとの打ち合わせの時間を持った。今回は、凹山さんがうちの事務所にお越しになったのだが、来月には、今度は出版社で、出版社の担当者を交えて会うことになっている。

 打ち合わせ、というと、凄いアイディアが飛び交ったり、大変に濃い話が繰り広げられる様子をイメージする方が多いように思う。
 だが僕らの打ち合わせは、むしろ、共に話をすることによってごく当たり前のことに気付き、そのごく当たり前のことを、ごく当たり前に実行するといった側面が強いと感じる。
 例えば、凹山さんがある自然現象に関するイラストを書く時には、ただ絵を描けばいいのではないそうだ。絵を描く前に、その現象について疑問に感じたり分からない部分を調べ、理解をする努力をした後でしか、わずか1枚の絵が描けないのだという。
 もちろん、中には、
「いや、絵をかく際には、必要以上の知識なんていらない。」
 という方もおられる。
 がしかし、そんなことは知識を得てみなければ分からないのであり、あるケースでは、知識を得てみたら、
「あっ、この絵を描く場合には知識が大切だな。」
 と感じるかもしれないし、また別のケースでは、
「この絵に関しては、知識にこだわる必要なないな。」
 と感じることもあるだろう。とにかくいずれにせよ、知識を得る努力をしなければ何も言えないし、それはよく考えてみればごく当たり前のこと。
 天才的な絵画の表現力を持った人なら、正しい知識よりも、一瞬のひらめきを重視した方がいいのかもしれないし、それは僕だって認める。
 だが僕らは天才ではないし、むしろ凡才であり、結局僕らは、打ち合わせと称して、天才ではないごく普通の人が、ごく普通の人であるにも関わらず自分のやりたいことを実現し、それによって楽しく生きていくための方法を出し合っているのだ。
 本作りの具体的な話は、その本作りが終われば、不要になる。
 しかし、その過程で得た考え方や思いは次の本作りへと引き継がれるし、それこそが自分の宝物ではなかろうか。

 

2010.3.19〜20(金〜土) 先見の明


OLYMPUS E-620 ED 9-18mm F4.0-5.6(改造) トリミング

 最初は偶然だと思っていたのだが、どうもこの場所では、ニホンアカガエルの方がカスミサンショウウオよりも先に孵化をするようだ。
 だから、毎年そうなるように、親が卵を産んでいることになる。
 ある年に限ってはせっかちなカスミサンショウウオが随分早く卵を産み、その結果、カスミサンショウウオの卵がニホンアカガエルの卵よりも先に孵化をしたというような例は、この場所では観察したことがない。
 そう言えば、生き物の体の中には、いろいろな長さの体内時計が存在すると、学生時代に習った。
 約24時間で一回りする体内時計。
 3時間くらいの短い周期を刻む体内時計。
 1年の長さを刻む体内時計。
 ・・・・・・
 カエルが1年の中のいつ産卵するのかなどについては、気温や天気の他にも1年の長さを刻む体内時計によって制御されているのだと思うが、体内時計の正確さには、しばしば驚かされる。
 
 生き物の体内時計の研究は時間生物学と呼ばれており、僕の大学時代の指導教官である千葉喜彦先生は、日本におけるそのパイオニアであり権威であった。
 だが生物学を専攻した人でも、僕よりも年上の人は、時間生物学などという言葉を聞いたことがない人が大半ではなかろうか?僕が学生の頃は、時間生物学はマイナーな分野だった。
 ところが恩師は、
「時間生物学は必ず大きな分野になります。」
 と宣言しておられた。
 そして、それから約20年が経過し、実際に先生がおっしゃった通りになった。
 いや、僕は最新の研究のことは一切知らないのだが、先日、世界をリードしている凄い若手の日本人研究者がいる、という内容のテレビの特集番組があり、その研究者が、まさにその時間生物学の研究者だったのだ。
 もしも時間生物学が自然科学の世界で重要で大きなジャンルではなかったのなら、その若手研究者がそこまで大きく取り上げられることはないわけだから、僕は番組を見て、
「ああ、時間生物学がここまでメジャーなジャンルになったんだ。」
 と今さら知り、恩師の先見の明に驚かされたのだった。
 蛇足だが、恩師は絵画が大好きで、定年後は自宅にアトリエを作り絵を描いておられた。そして先日、青木繁記念大賞という、賞金が300万円も出る絵画の大賞を受賞された。
 おめでとうございます!

 

2010.3.18(木) 自分でする

 体調不良で仕事を休むと、メールの返信などの人とのやり取りがたまり、回復した翌日あたりは、ただひたすらにパソコンに向かうことが多い。
 だが僕は、そうした時間をとても大切にしている。
 今日は、改めて自分の考え方をメールに記して人に伝える機会があったのだが、そんな機会に自分の頭の中を整理することになるし、頭が整理されることで、さらにまた別の機会に、
「あなたはどう思いますか?」
 と自分の考えを問われた時に、
「私はこう思います。」
 と意見を述べることができる。
 メールの返信は、一件あたり時には数時間を要することも珍しくないし、数日に分けて書くこともあるし、それで撮影の仕事が滞ることも頻繁にある。
 だが、時間の問題ではない。
 僕にとって、写真撮影であろうが、メールの返信であろうが、日記の更新であろうが、いずれも同じ内容の作業であり、その内容とは、「僕はこう思う」という自分の思いを全エネルギーを費やして、本気で伝える作業なのだ。

 体調不良で動けなくなっていた間、仕方がないのでテレビを眺めていたのだが、気になった話題が2つあった。
 1つは、鳩山邦夫さんの離党の話題。
 鳩山さんは、他の2人の有力な政治家の接着剤になると言うが、僕は、他人を担ぐのではなく、何で自分でやらないんだ?と思う。
 あとの1つは、親の年収と子供の学力の話題。親の年収が低いほど、子供の学力が低いという。
 低所得家庭のあるお母さんが嘆いておられた。
「塾に行かせてあげられれば、もっと成績は良くなるはず。」
 と。
 僕は、お金がないのなら、なぜ親が自分で教えないんだ!と思う。自分がまず教科書を開き、内容を理解する努力をし、一緒に勉強をすればいいじゃないか、と。
 自分でやらない理由があるのなら、いいと思う。
 たとえば、テニスをしたいから子供の勉強など見る暇がないとか。
 あるいは、勉強は嫌いだから教えたくないとか。
 そして、それらの理由に関しては、僕もだいたい身勝手な人間であるから、とてもよく理解ができる。煩わしいことは、他人にお願いするのもいい。
 でもその場合は、仮に子供の成績が悪かったとしても、その原因は、貧困家庭ではないだろうし、
「私は教育に興味がない。」
 と正直にいうべきではなかろうか。
 日本の政治のためとか、子供の教育のためとか、崇高な理念を掲げるのなら、なんで自分でしないんだ!と思う。

 

2010.3.16〜17(火〜水) 続・発熱

 熱が下がり、ひどかった頭痛がおさまった。不具合は変にこじれることなく、明らかに、快方へと向かっているようだ。
 健康っていいなぁ。
 外の冷たい空気っていいなぁ。
 とにかく、健康っていいですなぁ。

 

2010.3.15(月) 発熱

 先日、
「今年は体調がいい。」
 といったことを書いたら、なんと!今朝から急な発熱。熱はいまだに上昇中。
 ちょうど一週間後には重要なイベントが控えており、なんとかその日までには万全にしたいので休息を取ることに。
 経過によっては数日間、各種の対応ができなくなります。ご了承ください。

 

2010.3.14(日) 645

 僕は、フィルムを使用していた頃は、645判と呼ばれるカメラを愛用していた。
 645判とは、一般的なフィルムよりも大きなフィルムを使用するカメラで、フィルムが大きい分、画質がいい。幾つかのメーカーから発売されていた規格だが、僕が使っていたのはペンタックスの製品だった。
 そして、先日そのペンタックスから、新しいデジタルカメラが発表され、そのカメラはなんと、僕が大好きだった645判のフィルムカメラをベースにしたデジタルカメラだ。
 待ち望んでいた製品だった。欲しいなぁ。
 価格は、実売で80万円台だと言われている。
 
 数年前までは、今回発表されたようなカメラが発売されたらすぐにでも購入できるように、いつでも自由になるお金を100万円たんす預金していた。
 だが、いつまで待ってもそうしたカメラが発売されず、結局そのお金は使ってしまい、今はない。
 だから、カメラを買うことができない。

 もっとも、新しい規格のカメラの一番最初の製品なので、完成度に関しては、まだまだ未完成な部分がある可能性もある。現に、僕が今使用しているニコンやキヤノンのデジタルカメラとは考え方が異なり、構造の面で若干の違いがあって、それが自然にカメラを向けた場合の画質にどう影響するのか分からない面もある。もしかしたら、扱いにくいじゃじゃ馬的なカメラである可能性もある。
 ともあれ、お金を使い果たしてしまった以上、今回発表された製品をなんとかして買うことを考えるより、さらにその次くらいに出てくるより成熟された改良版の製品を、じっくりと待って買った方がいいのかもしれない。
 とにかく、いずれ使ってみたい。
 レンズは、フィルム時代のものが使用できるようになっているので、あと1本くらい買い足せば、9割方くらいの仕事ができるだけのものが揃っている。

 

2010.3.11〜13(木〜土) 変化


NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

 スタジオの様子をみれば、だいたいその人の気合いの入り方が分かる。特に撮影台は、スタジオで写真を撮る者にとっては神棚のような神聖な存在であり、そこが物置になっているようならアウト。その人は、すぐにでも写真をやめた方がいい。
 などと言い放つことができれば非常にカッコイイのだが、僕の場合、撮影台がよく物置になる。
 特に、どこに整理をしていいのか迷うような荷物を、つい撮影台の上に積んでしまう。
 だから、撮影台の上に積んだ荷物を片づけるには、迷ったり、悩んだり時間がかかることが多く、今回の事務所のリフォームでも、最後の最後まで、撮影台の上には荷物が積んだままになっていた。
 それが今日、ついに片付いた。大変にめでたい!
 もうしばらくすれば多くの生き物が冬眠から目覚め、今シーズンの撮影が本格的になるが、事務所のリフォームやそれに伴う荷物の整理は、どうやらその肝心なタイミングに間に合ったようだ。

 昨年は何度か、
「来シーズンからは、仕事のスタイルを変える」
 と書いたのだが、いろいろと事情があって仕事以外のところにエネルギーを注がねばならなかったこともあり、結局それができずに終わった。
 また、体調がイマイチだったこともある。
 体調不良のきっかけは、昨年1月〜2月にかけての北日本取材の最中に、車の中での寝泊まりだというのに、高熱にうなされたことにはじまった。
 そして、熱は一週間前後で収まったが、一度落ちた体力は帰宅後もなかなか回復せず、結局完全に元通りと言えるまでに数カ月を要した。
 取材中は、体調が悪くてもそれなりに写真が撮れているつもりだったのに、帰宅後にあらためてその時の画像を見てみると、やはり結果が思わしくなく、今思うと、ただひたすらに体がだるい、大変につらい撮影取材だった。
 だが、今年は仕事場の準備も体の具合も万全。1年遅れになったが、これから新しい仕事のスタイルを確立したい。

 さて、
「東大に入りたい。」
 といって5年も6年も浪人しているような人を
「目標に向かってあきらめない姿勢が素晴らしい」
 というような理由で、雇いたいと考える会社の経営者は滅多におられないだろう。むしろ多くの経営者は、そんな人は使い物にならないと考えるのではなかろうか。
 人は、同じことばかりをやっているとやがて新鮮な気持ちを失い、前進するどころか、たいてい後退を始める。
 だからそうなる前に自分自身で見切りをつけ、新しい道を探さなければならないが、それができない人に、何か革新的ないい仕事ができるとは考えにくい。
「あなたは、1つのことを続けていて素晴らしい。」
 と僕は時々褒めてもらうことがあるのだが、それは大きな誤解であり、僕は仕事の内容を次第に変化させ、むしろ、同じことをしないように心掛けている。


 

2010.3.9〜10(火〜水) なごり雪

 自分の写真に足りない部分を指摘してもらえることは、実にありがたい。中には、
「ど素人の意見ですけど・・・」
 などと前置きをした上で遠慮がちに意見を聞かせてくださる方もおられるが、僕らの写真を見る大半の人は写真の素人なのだから、素人の意見は素人の意見として、また言うまでもなく、専門家の意見は専門家の意見としてやはりありがたいと思う。
 では、意見は何でもいいから聞けばいいのか?と言えば、そうではない。意見を聞く側の者が、どの意見を聞くべきか取捨選択することも、他人の意見をよく聞くことと同様に、とても大切なことだ。
 例えば、素人が専門家ぶって語る意見は、何の役にも立たないどころか、それを聞くだけ時間の無駄だと言える。それは意見というよりも、むしろその人が
「私は物が分かる人間なんだ!」
 と自分の虚栄心のようなものを満たしているに過ぎないように感じる。

 また、中には、
「意見を聞くことは大切だと思うけど、はっきりダメ出しをされると、傷ついてやる気が失せる。」
 という方もおられる。
 だが、それはその人が、心のどこかで迷っているのだと思う。たとえば、写真家を目指そうか、それともやめた方がいいのだろうか?と内心悩んでいる人が、誰かから、
「あなたの写真はイマイチだ。」
 と指摘をされたならら、心の中の写真を止めた方がいいのか?という迷いとその一言が結びつき、
「やっぱりやめるか・・・」
 とやる気が失せてしまうことはあり得るだろう。
 しかし、
「絶対に写真家になる。」
 と決心し、背水の陣を敷いた上で写真に取り組んでいる人なら、逆に、
「イマイチだ。」
 という指摘は、
「もっと頑張らないかんなぁ。」
 とより頑張る動機になる。
 
 僕は、もしも写真家を志すのなら、背水の陣を敷いた上で、無心になって取り組まなければ意味がないと思う。
 無心になって取り組んでみて、初めて、自分に適性があるかどうかが分かるのであり、どうしようかな?と迷いながらの中途半端な気持ちでは、その人の潜在能力が引き出されることもなく、結局適性があるかどうかも何も分からないのが落ちで、ただいたずらに時間だけが過ぎていくような気がしてならない。
 腹をくくらなければ、何も始まらないような気がする。
  

NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

 寒いとか、濡れるとか、そんなことは一切関係なく、納得できる写真が撮れるまで撮るとか、日が暮れるまで撮るとか、とにかく腹をくくって、腰を据えてとことんまで写真を撮る。


 

2010.3.8(金〜月) 収納

 昨年、昆虫写真家の新開孝さんがうちの事務所にお越しになった際に、
「うわ〜、物が凄いなぁ。」
 と驚いておられた。
 そこで、改めて客観的に自分の仕事場を眺めてみれば、確かにその通り。部屋の中だけでなく廊下までもが収納や飼育のスペースと化していて、これ以上もうどうにも扱いようがない、というくらいにあらゆる場所がはち切れそうだ。
 その大量の物を抱えたままに、今回は建物をリフォームしようとしたのだから、工事は大変だった。どこかを工事しようにも、そこに置いてある物を避難させる場所がなかなか確保できなかったのだ。
 どこか一ヶ所だけでも、荷物を避難させることができる空きスペースを作ることができればいいのに、そのスペースがなかったのだ。
 仕方がないのでどんどん物を捨てた。撮影したものの未整理だったフィルムなどは、中身を見ることもなしに、思い切って片っぱしから捨ててしまった。
 そしてようやく工事が終わり、今度は、避難させておいたものを新しい場所に移すのが忙しい。
 玄関を入ってすぐの場所には、水中撮影用の空気や、水草を育成するための二酸化炭素のボンベを置くスペースを作った。
 下の画像の右の3本のボンベには空気が入っており、水中撮影用のもの。そして一番左側の緑色のボンベには二酸化炭素が詰められており、それを水槽の水に溶かしこむことで、水草の成長を促進する。


NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE SILKYPIX

 上の画像は、長くて収納しにくい物を置くためのスペース。天井付近に木材で橋のようなものをかけ、その上に長いものを上げておくことにした。
 左の木の板は、潟スキーといって有明海の干潟の上を進むために使い、数メートルの長さがある。
 工事の最中に、いろいろな工具の使い方や工作の方法を、大工さんから教えてもらった。
 
 
 

2010.3.4(木) 大切な物

 自然写真家の場合は、依頼されて写真を撮り、それでギャラをもらうよりも、あらかじめ自分で撮影しておいた写真を何かの機会に貸し出して使ってもらい、その際にお金が支払われるケースが多いだろうと思う。
 つまり、自分が撮影した写真は、大切な飯のタネであり、財産である。
 財産は財産でも、撮影機材の場合はお金さえあれば、失ってもまた買うことができる。
 だが自分が撮影した写真の場合は、もしもなくしてしまったら、お金では買うことはできない。だから僕にとって一番失いたくない財産は、自分が撮影して貯めてきた写真だ。
 
 さて、事務所をリフォームする際に、預金通帳がどこに行ってしまってのかが分からなくなっていたが、リフォームが終わり、避難させておいた荷物を順次整理していったら見つかった。
 写真や機材やパソコンなどの仕事の道具に関しては、いつでも使えるように、どんな時でも気を使っているのだが、通帳とか印鑑などはたまにそうしてしばらく見失ってしまうことがある。
 そして今回は、税金の申告をしなければならない時期だっただけに気が気ではなかったのだが、工事が終わらない限り、すべてがゴチャゴチャになっていて、どうにもならない状況だった。
 僕は、お金の勘定などは大嫌いなので申告は税理士さんにお願いしているのだが、それでも、通帳の残高をお知らせしたり、通帳と領収書を照らし合わせたり多少はしなければならないことがある。
 今日は、めでたく通帳が出てきた機会に、それらの雑務を一気に終わらせておくことにした。

 

2010.3.3(水) スタジオ完成

 写真には、経験則の部分と理論の部分とがあるが、もしも野外で生き物の写真を撮りたいのなら、必ずしも理論にこだわる必要はない、と僕は思う。むしろ下手に理論にこだわるくらいなら、好きな写真家の作品を真似てみればいいだろう。
 一方でスタジオの場合は、1からライティングの理論を勉強するつもりがないのなら、やらない方がいいのかもしれない。断片的な知識を寄せ集めてスタジオで写真をどれだけ撮ってみても、恐らくほとんど上達することはないだろうし、そこからは何も生まれてこないような気がする。
 スタジオでの照明の基本に関しては、僕の場合は独学派なので、次から次へと本を読み漁って勉強をした。
 ただ、機材を選ぶ際には、幾分人に教わったこともある。本なら何冊買ったって値段はたかがしれているが、機材は間違えたものを選んでしまったら、かなりの出費になってしまうから。
 照明を購入する際には、大きなスタジオを経営しておられる方に相談をしてみた。
 すると、
「どれくらいの大きさのものを撮るの?」
 と聞かれたので、
「あまり大きなものは撮りません。大きくても、せいぜい幅60センチの水槽くらいです。」
 と答えると、
「60って、かなりでかいよ。」
 という答えが返ってきたことは、今でも鮮明に覚えている。
 照明器具は、被写体が大きければ大きいほど大がかりになり、実際にやってみると、幅60センチの水槽どころかカメラくらいの大きさのものでも、かなり大がかりになり、なかなか大きいなぁと感じる。

 さて、事務所をリフォームする際に、スタジオとして使用するスペースを1つ増やした。今回新たに追加してスタジオは、僕が撮影する被写体の中でも、より大きなものを撮影するための場所だ。
 今日は、その新しいスタジオを整えた。
 物の置き場を試行錯誤し、最後に照明器具を置き、電源を確保し、大まかな影の出方を確認するために、そこにカメラを置いて数枚だけ写真を撮ってみた。


NikonD700 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 

2010.3.1(月) 更新のお知らせ

2月分の今月の水辺を更新しました。

   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2010年3月分


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