今月の水辺 / ビオトープ

NikonZ7
NIKKOR Z 14-30mm f/4 S
(撮影機材の話)
風景の撮影には、35mm判フルサイズセンサーのカメラを使いたい。したがってマイクロフォーサーズ規格のカメラを主に使用する日でも、もしもカメラバッグに入るゆとりがあるのなら、僕は、ワイドズーム付きの35mm判フルサイズ機を持っていく。その場合、カメラやレンズは、収納する時のサイズがなるべく小さい方が都合がいい。その点、NIKKOR Z 14-30mm f/4 Sの沈胴と呼ばれる、収納するときに全長が短くなる仕組みはありがたい。一方で、写真を撮る時には、沈胴ではない方が、レンズがカクカクする感じがなくて安心感がある。

撮影後記 

 自由をより重視する人のことを「リベラル」と呼ぶのなら、僕は筋金入りのリベラルだ。
 どれくらい筋金入りかと言えば、遅くとも幼稚園生の時には、はっきりとしたリベラル志向だった。
 なぜリベラル志向になったのかを考えてみると、常にやりたいことがあるタイプだからではなかろうか。
 今やりたいことがある人にとって、保守の人が重視する世間のしきたりや決めごとや伝統みたいなものは、それを妨げる要因になりがちなのだ。
 聞いた話では、幼稚園での僕は、一人で、いつも楽しそうにせっせと遊んでいたらしい。
 確かに当時の僕は、先生や園に構われるのがあまり好きではなかった記憶がある。僕にはやりたいことがあるのに、と。
 その傾向は、大人になっても変わることがなく、物心がついて以降、僕のテーマはずっと自由だった。
 ただ、選挙の時に目にするリベラルのみなさんとは、違う点がある。
 僕は、リベラルの勢力をもっと広めるべきだとか、それを社会のスタンダードにするべきだと思ったことはない。
 人を折伏したい気持ちは、さらさらない。
 むしろ保守の人がたくさんいて、その人たちの手でしっかりとした社会の秩序が形成されればされるほど、僕一人がその秩序から抜ける時の影響は小さくなるのだから、
「ごめん、僕はやりたいことがあるから・・・」
 と言いやすい気もする。
  
 さて、自由をテーマに掲げる僕にとって、どんなに魅力的な景色の場所でも、どんなに生き物がたくさんいても、誰かの許可を得なければ入ることができない場所は、もはや自然ではない。
 例えば、ある湧き水の池の入り口にはゲートがあり、人の出入りが管理されているのだが、そこは、たとえ池自体は自然のままであっても、僕にとっては自然ではない。
 仮に、「あなたは自由に出入りしてもいいですよ。」と特別な許可を与えられても、仕事で求められでもしない限り、そこで写真を撮りたいという気持ちにはならない。
 一方で、ビオトープは人工の水辺であり人の管理下にあるのに、僕はカメラを持って写真を撮りに行きたくなる。
 ビオトープを自然と呼んでも、違和感はない。
 同じように人がかかわる場所であっても、何かが違う。
 そしてその違いを言語化してみると、「許可」という言葉が思い浮かぶ。
 ビオトープは人の意思で作られた場所だが、多くは出入り自由になっていて、誰かの許可を取る必要がない。
 僕にとっての「自然」は、「自由」という言葉に近い。
 SNSを眺めていると、一言で自然と言っても、人それぞれ、さまざまな定義がある。
 
 多くの人にとっては意外なことだろうけど、実は、1月末〜2月は、ビオトープが楽しい季節だ。
 ちょうどその頃、アカガエルの仲間やヒキガエルや小型のサンショウウオの類がビオトープに卵を産みにやってくる。
 産卵は主に夜間であり、昼間はたいてい隠れているので、明るい時間帯にたくさんの両生類たちに出会う日はあまりないけど、卵なら見つかる可能性は決して低くない。
 田んぼくらいの深さの場所なら、アカガエル類と小型のサンショウウオの卵が、もう少し深い場所があると、ヒキガエルの卵が見つかることがある。
 1月末〜2月にビオトープの写真を撮ると、客観的には色味に乏しいさみしい景色のはずなのに、僕には両生類たちの姿が思い浮かび、つい華やかな気持ちになる。
 僕が写真を通して、仮に折伏のような活動をするのなら、「ばえる」とはほど遠いそこらの何でもない景色を、「何か生き物と出会えそうで楽しい場所だね。」と言わせたい。
 
 
 
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自然写真家・武田晋一のHP「水の贈り物」 毎月の撮影結果を紹介する今月の水辺 2026年2月分


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