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撮影メモ

2002年10月分 バックナンバーへ

10月31日(水)

 今月の水辺を更新しました。
 また、フォトライブラリー・オアシスのHPにて、写真を発表しています。このHPの写真とあまり代り映えしませんが、オアシス・ギャラリーをご覧ください。
 

10月30日(水)

 いずれ1シーズンをかけて、秋の干潟で渡り鳥の撮影をしたい
 と昨日書いたが、実は数年前に、それにチャレンジしかかったことがある。干潟は、足を踏み入れると場所によっては腰まで埋まってしまうので、潟スキーと呼ばれる干潟専用の板を準備し、漁師さんと同じスタイルで干潟にでて、渡り鳥たちの写真を撮った。
 ただ、干潟には、野鳥の調査にくる人たちがいたので、深入りせずに、あまり突っ込んだ写真は、その時には撮っていない。野鳥の調査をする人と、写真を撮る者の相性は、実は最悪なのだ。

 例えば、こんな話がある。福岡県在住の動物写真家のTさんから聞いた話だが、W干潟で写真を撮ろうとしたところ、その干潟の調査や保護活動をしている女性から、
「出ていってくれ。あなたたち、カメラマンは鳥を追い掛け回して・・・」
 と苦情を言われたらしいのだ。その女性は、有名な動物写真家のMさんの名前を出して、
「Mさんは、こんなに無茶な撮影をして、鷲や鷹の生態に悪影響を与えている。とんでもない・・・」
 と、カメラマンに対して非難ごうごうだったらしい。
 ところが、僕が知っている範囲では、その女性は、同じ団体に属している人がW干潟で写真を撮ることに関しては、とても寛容なのだ。それどころか、その団体の方々がW干潟で撮影した写真の写真展を開催し、僕は、その展示をお世話したことがある。
 その女性に限らず、保護活動や調査活動をしている人たちには、しばしば似た傾向が見られる。写真を撮ってはならないのではなくて、他人がそこに立ち入ることが嫌で、調査や保護という大儀名文を持ち出す。調査や保護活動をしているうちに、その場所に対する独占欲が生じるのだろう。

 僕も似た経験をしたことがある。ある時、干潟での撮影を終え車に戻ると、見知らぬ男性から、
「ここでは撮影をせんでくれ」
 と声をかけられた。ところが、その男性は、前日に同じ干潟で撮影をし、しかも、わざと鳥の群れの中に走って突っ込み、鳥が驚いて飛びあがる様子を写真に撮っていた。僕はその様子を見ていたので、見た通りのことを話すと、その男性は、
「いや・・・今日は、これから外国の人も来てここで調査をするので、写真は撮らないほうがいいですよ」
 と、やはり調査を大義名分に持ち出して話をすりかえようとした。
 僕の知人には、自然保護活動や調査活動をしている人が数人いるが、全員同じ傾向があるといっても過言ではない。その中には、僕が尊敬する人も、大好きな人も含まれているし、独占欲が生じることを僕は否定しない。だが、そこで大義名分として調査や保護という言葉を持ち出して欲しくないと思う。そんなことをしていると、調査や保護という行為の信頼性が失われてしまう。

 今、地域の自然保護や調査活動をリードしている大半の人は、独学でそれを学んだ人で、科学出身の人は少ないが、科学を勉強したことがない人は、一般に「科学」「調査」といった言葉に弱い。まるで水戸黄門の印籠のように、そんな言葉にひれ伏してしまう。その反面、逆にその印籠を自分が手にすると、今度はそれを振り回したがる嫌いがある。
 生物学の学生時代何を勉強したか?と問われれば、僕は、正直に言って返事に困るが、科学はひれ伏すほど大したものではないし、逆に、それを振り回して人をひれ伏させるようなものではない。それだけは、よく勉強したつもりだ。
 

10月29日(火)

 昨日は、紅葉を探して、渓谷を中心にいろいろな場所を下見したが、九州の紅葉は、まだ一週間ほど早いことがわかった。ちょうど一週間をおいて、また出直したい。今日は、その帰り道に阿蘇周辺を走り、秋の風景が撮れる場所を探してまわった。
 毎年感じることだが、紅葉は、常緑樹が多い九州では、やはりむずかしいなと思う。が、九州関係のカレンダーの仕事など、九州の秋でなければならない写真もあるので、今日のような日、つまり僕のメインテーマである水辺の撮影が外れだった日に、いろいろな場所をまわり、一通りの写真を押さえておくことにしている。今日は、一面ススキの原っぱや、ススキの背景に阿蘇の独特の山並みが写っている写真など、一般受けしそうなススキの写真を撮影をした。
 僕のテーマである水辺では、干潟に旅鳥として飛来するシギやチドリの仲間が秋の風物詩の一つになりうると思うのだが、シギやチドリは、特に秋に地味な色をしているためか、一般的にはあまりよく知られていないし、人気がない。結局、紅葉やススキの撮影になってしまうが、いずれは秋の渡りの時期を1シーズンじっくり使って、干潟の渡り鳥たちの撮影をしてみたい。
 

10月28日(月)

 熊本県の五家荘(ごかのしょう)は、宮崎県の椎葉とならび、平家の落人の村として知られている。五家荘の「五家」は、樅木(もみぎ)、葉木(はぎ)、椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、とあと一つ地名は忘れたが、五つの村をあらわす言葉らしい。
 この近辺は、ヤマメ釣りのメッカで、僕は子供の頃から何度も連れてきてもらったことがある場所だが、名前が出てきた四つの村では、いずれも釣りをしたことがあり、名前を忘れてしまった最後の一つの村では釣りをしたことがない。
 ここ数年は、相次ぐ河川や道路の工事で五家荘の渓流の水は汚れてしまったが、僕が子供の頃は、飛びっきりの透明な水で、五家荘での山女釣りには、格別な思いがあった。水の透明度が高く、水深がとても浅く見えるため、何気に川に立ち込んだところ、実はそこが、ズボッと胸まで浸かってしまうほどの深さで、度肝を抜かれたことが何度もある。
 今日は、その五家荘で、滝と紅葉との組み合わせで撮影をしたが、五家荘には、「せんだん轟の滝」という大変に美しい滝がある。まだ木々が完全に色づいていないため、また来週あたり、同じ場所で撮影をしてみようと思う。

 五家荘は、僕がはじめて水中撮影を試みた場所でもある。水中撮影では、なんと言っても水の透明度が写真の出来を左右する。そこで、僕の心の中の最高の渓流を選んだわけだが、潜ってみると水がずっと汚れていてがっかりした記憶がある。
 五家荘近辺では、たくさんの道路工事が行われているが、山の中を走る道は、川に沿って作られることが多い。道路を作れば、工事の際の土砂が谷に入り、また、作られる道路の近辺の木々が切り倒され土が剥き出しになるので、川がとても汚れる。道は、数キロに渡って、数年間の工事の結果出来上がるので、一度工事が始まると、数年間川が汚され続ける。その間のダメージがとても大きいことは、安易に想像ができる。
 また、初めて五家荘の渓流に潜った際、本来九州には生息しないイワナがたくさん泳いでいることに驚いた。これは、恐らく釣り師が放したものだろうが、ヤマメとイワナとはお互いに近い種類だし、餌も、生息場所も似ているので、イワナはヤマメのライバルになる。本来イワナがいない九州に、イワナを放流すべきではない。
 ブラックバスにせよ、五家の荘のイワナにせよ、棲みついてしまったものをどうすべきかは、また別の問題だと思うが、今以上に自然な生き物の分布を乱すべきではない。釣り師のエゴに、
「いいかげんにせい!」
 といいたい。
 

10月27日(日)

 秋の写真を撮るために熊本にきている。今日の熊本は大変に風が強く、しかも気温も低い。今日は、午後から阿蘇でススキを撮影したが、太陽が顔をのぞかせているにも関わらず、気温は六度程度で、この時期としてはとても寒い一日になった。
 本来は、どこか水辺で紅葉と滝や、紅葉と沢の組み合わせで撮影したかったのだが、あまりに風が強いので、いっそうのこと風を感じさせる写真でも撮ろうと阿蘇のススキを選んだ。
 今晩は、今からインターネットを使い明日の天気と紅葉情報を調べ、明日の撮影場所を決め、目的地に移動をする予定だ。明日は、是非水辺で撮影をしたい。

 僕は、背中に背負うタイプのカメラバックを複数個準備して、撮影の目的ごとに機材を詰め、それをいつでも持ち出せる状態で普段から部屋の中に置いている。また、写真用品以外の温泉に入るためのセットや、着替えや洗面道具などは、普段から車の中に積みっぱなしだし、頻繁に野外で撮影をしている時期であれば、一週間程度の取材の準備であれば15分程度で終わる。だが今日は、久々の野外での撮影ということで、、何か忘れ物をしているのでは?とやたらに気になり、準備に思いがけず長い時間を費やしてしまった。
 

10月26日(土)

 今日は、飼育中のカタツムリを子供が観察している様子を撮影した。僕は、ほどんど人物を撮影したことがないので、いつもにない緊張を感じ、昨晩はデジタルカメラを使い、何度も何度も照明の具合のテストを繰り返した。
 僕は、今のところ、撮影のテーマを自然以外の被写体に広げるつもりはない。だが、自然関係の撮影で、人物や、水槽などの「物」や、その他いろいろな被写体を撮影する機会があれば、それがどんな物であろうと当面は、必ずチャレンジすることに決めている。
 これは、仕事を選り好みできる身分ではないという事情の他に、何にせよ、一通りのことを自分で試し、身につけた上で、判断したいという思いからそうしているのだが、ただ将来は、自然関係の撮影の中から、さらにテーマを絞り込んでいく可能性はある。その場合、何となくではあるが、人物の撮影は、僕のテーマから外すような気がする。
 写真家は人に何かを伝える職業だが、物書きと違って、カメラという道具がなければ仕事ができない。道具が必要であるということは、その道具を使いこなす技が写真の出来不出来を大きく左右し、写真は基本的に技の世界だと僕は思う。
 だが、人物の撮影だけは、やや例外的な側面がある。例えば、子供の写真は、その子のお母さんが写した物が一番いいとよく言われるが、人物の撮影の場合、写真の技術よりも、被写体とカメラマンとの間柄が写真を大きく左右する。構図、ピン、露出・・・数ある写真の技術よりも、被写体の表情の方が断然に重要なのだ。
 突拍子もない例えかもしれないが、自然や飛行機や鉄道の写真がクールな技の世界であり、理科系的な世界であるとするなら、人物の撮影は文学に例えられるくらい、両者は違うものであるような気がする。僕は、あらゆる撮影の中で、人物の撮影だけは別格というか、他の撮影と同じ次元で考えられないような気がしている。
 

10月25日(金)

 以前に、年輪の撮影を依頼されたことがある。材木問屋に行き、綺麗な年輪を探して撮影したが、地面に根を生やしたまま残っている切り株とその年輪も撮って欲しいと追加で依頼された。
 当初の予定では、この9月が期限だったが、その予定が変わり来春にまで期限が延びた。ただ、来春まで期限があるといっても、冬になると切り株の周辺の下草がなくなり、殺風景になる。そこで、今日は年輪の撮影の下見をすることにした。
 年輪は針葉樹が綺麗だが、スギにせよ、ヒノキにせよ、大抵は誰かの持ち物なので、森林組合の方にお願いして山を案内してもらったが、いい場所を教えてもらうことができ、なんとか撮影ができそうな目処がたった。

 今日、僕を案内してくださった森林組合のAさんは、初対面の方だが、その話の中から、木や林業に対する情熱がひしひしと伝わってきた。そして、それ以上に自然に対する熱い思いが感じられ、ただ単に、仕事として林業に携わっているという感じではない。それ以上の何かを感じるので、いったいどんなきっかけで、林業を選んだのだろう?と僕は疑問に思い、
「Aさんは、以前から木や林業に興味を持っておられたのですか?」
 とたずねてみたところ、
「実は虫が好きだったんです。蝶、カミキリムシ・・・」
 という返事が返ってきた。確かにAさんからは、生き物好きの匂いがする。Aさんの口から、ミドリシジミという蝶の名前が出てきたが、ミドリシジミは僕にとっても憧れの蝶だ。今でも飛んでいる姿を見かけると胸がワクワクする。
 また、写真にも多少興味をお持ちのようで、67版のカメラを持っていると伺った。「里山」という言葉もAさんの口から聞くことができたが、この言葉は、すぐれた昆虫写真をたくさん発表している写真家の今森光彦さんによって広められた感のある言葉なので、昆虫が好きで、多少写真にも興味を感じるのであれば、里山という言葉が出てくることもすんなりと理解できる。おかげで、思いがけず、大変に楽しい時間を過ごすことができた。
   

10月24日(木)

 カタツムリの目玉(引っ込んでいる)

 カタツムリの目玉は、角の先端部分にあるが、そこを指先で刺激すると、カタツムリは角を胴体の中に引っ込めてしまう。
 今日の画像のカタツムリは、右の角を僕が刺激して引っ込めさせているが、引っ込んだ角が黒い筋となって胴体の中に透けて見える。この画像を見ると、カタツムリが角を引っ込めたときに、体の中にどのようにして角を収めているのかがよくわかる。角は比較的皮膚の表面に近い部分に収まっているようだ。
 角は大切な部分なので、膚の表面付近ではなく奥の方に収めるべきでは?と思ったが、角は明るさを判断する場所なので皮膚の奥深い部分に収めてしまうと、明るさが判断できなくなってしまうからかもしれない。
 上の画像は、あと少しで角が頭部から飛び出してくる段階だが、刺激が加えられた直後で、カタツムリが一番びっくりしている時には、胴体に透けて見える角は、完全に殻の中に隠れてしまうほど奥にまで引っ込む。それがスーッと胴体の中を伸び、やがて頭部から現れてくるようすを、今日は連続写真で撮影した。
 カタツムリの体の構造ってどうなっているの?という疑問を持ったことがある人は多いのではないだろうか。それを、カタツムリを解剖するのではなく、うまく見せることで分かってもらえるような写真を撮りたいと考えている。
   

10月23日(水)

 北朝鮮への拉致被害者の方々の、特に故郷に帰ってからの表情をテレビで見ていると、「ふるさとって、なんて大きな存在なのだろう!」と、痛感させられる。久しぶりに肉親に会えたにもかかわらず、硬い表情のままだった人たちが、ふるさとに帰りついたとたんに和み、やさしい顔へと変化する。
 これからきっと、日本の風景はどんどん変わっていくだろうし、僕は、身の回りの自然をありのままに写真に記録しておきたいと日頃考えているが、拉致被害者の方々の表情を見ていて、より一層、そんな思いを強く持つようになった。

 写真家の中には、被写体を見たままに撮るのではなくて、わざと暗く写してみたり、わざとぼかしてみたり、わざと構図を崩してみたり、芸術的な表現を好む人もいるが、僕は、写真機を使って被写体を作り変える創造を楽しむのではなく、自然を僕が見たままに、僕のイメージそのままに写し撮り、人に伝えたいと思う。
 もしも風景を写すのなら、その場所を何度も歩いたことがある人が10年後に僕の写真を見て、
「あ〜ここ歩いたな」
 とわかり、
「いい場所だったな」
 と感じられるような、説明力のある写真を撮りたい。自然をちゃんと説明することができ、しかも、自然は美しいのだから、その説明が美しい。そんな素朴な写真が、僕の目指す写真だ。
   

10月22日(火)

 昨日に引き続き、今日も、子供を室内で撮影するための準備を整えている。昨日は、撮影のためのスペース作りをしたが、今日は、実際に水槽台を設置し、水槽を置き、どんなイメージで写真を撮るのかを試行錯誤し、また照明の具合を多少テストしてみた。
 スタジオ撮影は、とにかく下準備が物を言う。ほんの少しでも気になることは、テスト撮影をするなりして、自分の目で確認しておくことが、いい結果につながる。
 撮影の下準備は、頭を使う時間になることが多い。単に機材を組み立てたり、設置したりするだけでなく、いろいろなことを検討しなければならないし、どうやって写真を撮るのか、そのアイディアを絞り出す時間でもある。
 アイディアは、すぐに出てくるときもあるし、なかなか出てこないこともあり、時間があれば何とかなるというものでもない。僕は、少し考え、今度は別の作業をして、また少し考え・・・というように、頭を時々開放するように心がけているが、頭を開放する際には、飼育室に行き、生き物の世話することが多い。
   

10月21日(月)

 先日、小動物を飼育している水槽の写真を撮ると書いたが、水槽だけでなく、その水槽の中の生き物を子供が世話しているようすも撮影する。水槽と子供は、スタジオの中で、白い壁などをバックにして撮影する「白バック」とよばれる方法で撮影するが、水槽と子供を撮影するとなると、かなり大きな白い壁やスペースが必要になる。
 僕が日頃、スタジオ内で撮影している生き物は大きくてもせいぜい亀くらいだから、今回は比較にならないくらい大きなものを撮影することになる。そこで、今日は、朝から不要な荷物を処分したり、棚の位置を変えたりして荷物を整理し、撮影ができるだけのスペースを確保する作業をしている。
 確保できるスペースが大きければ大きいほど、撮影は技術的に楽になるのだが、僕の事務所の一角にそんな大きなスペースが確保できるはずもないし、ぎりぎりのスペースを確保して、そこでなんとか撮影することになりそうだ。
 撮影するものが水槽でなければ、写真スタジオを貸り、そこで撮影するという手もあるが、水が入った水槽はデリケートだし動かしたくない。小さな水槽なので、水を抜けば動かせないことはないが、水槽に植え付けてある水草が乾燥したり、再び水を入れても、すぐには茎や葉っぱを自然な感じに広げてくれなかったり、また、スタジオ内で水槽に新しい水をいれ、フィルターを回し、水の濁りを取り・・・といった作業は、どう考えてもスマートではない。
 事務所の中に、大きなスタジオがあったらな・・・などと、現実的ではないことをつい考えてしまう。プレハブでもいいし、将来はそんな空間を確保したい。
  

10月19〜20日(土〜日)

 10月になってから撮影したフィルムの仕上がりが昨日届けられたが、今回は、スタジオ撮影で、今までとは違う照明の使い方を試した写真が含まれている。結果は、なかなかよくて、これからは、新しく試した方法を多用して写真を撮ろうかと考えている。
 スタジオ撮影では、被写体の形や状況によって、多少照明の方法を変えなければならないが、毎回、撮影のたびにすべての照明のシステムを作り直すことは、手間がかかり過ぎるし、現実的ではない。そこで、基本になる方法を一つ身につけ、その方法を大半の被写体に当てはめ、それでどうしても撮れないものだけを、工夫を凝らして撮影することになる。
 その基本になる方法は、少しでも幅広く、いろいろな被写体に通用するやり方がいい。今回新しく試した方法は、これまで僕が試みてきた方法と仕上がりの写真自体は、そう違いがないが、苦手なタイプの被写体がやや少ない。
「こんな被写体の撮影は嫌だな〜」
 と、これまで苦手意識を持っていたような撮影が、これで楽になる。それだけで、気持ちによとリがでるし自信がつく。また、それまで自分では意識していなかったにもかかわらず、苦手意識がそれなりのプレッシャーになっていたことに、問題が解決してはじめて気付かされる。
 
 僕の撮影は、5〜7月くらいが忙しいが、どうしようもなく忙しい時に、それまでの自分のやり方を変えることはむずかしい。では、仕事がなくて暇な時間があれば、新しい方法が身につくのかというと、そうでもない。適度にゆとりと仕事がある状況の中で、それまでのやり方に不満を感じ、その不満を解消としようとしてもがいた時に、より良い方法に気付かされることが多い。
  

10月17〜18日(木〜金)

 アマガエルのジャンプを撮影するための機材に、原因不明のトラブルが生じると以前に書いた。その原因を確かめるためのテスト撮影を11日に試みたが、その写真が仕上がった。仕上がりを詳しく分析してみなければ正確な事はわからないが、原因は、どうもレンズにあるようで、レンズのどこかから光が漏れているようだ。
 使用したレンズは、タムロン社製の90ミリマクロレンズで、もう15年以上前に買ったものだが、今は、全く別のレンズにモデルチェンジされていて同じものは発売されていない。写真用品には、中古市場があり、カメラやレンズを買い取ってもらうと、物によってはそこそこの値段がつくのだが、今回トラブルをおこしたレンズは古いレンズだし、5000円の値段もつかないことだろう。修理をせずに引退させることにしよう。
 僕は、35ミリ版は、ニコン、キャノン製に加えて、タムロン社製とシグマ社製のレンズを使用しているが、トラブルが少ないのはニコンで、丈夫さに関しては、ライバルのキャノンよりもずっと優れていると感じる。キャノンの道具には当たりはずれが大きい。
 レンズの描写に関しては、製品によって違うが全体としてはニコンよりもキャノンの方がいい。
 シグマのレンズは、特に広角レンズが被写体に近づけることが魅力だ。
 タムロン社製のレンズは、90ミリのマクロレンズが名作中の名作と言われているが、僕も確かにいいレンズだと思う。その名作レンズが、原因不明の光漏れというトラブルをおこしたのだが、昔からタムロンのレンズもややもろいと言われることが多い。
 いつも思うが、道具はどれも一長一短で、なかなかこれといったものに出会えない。
  

10月15〜16日(火〜水)

 僕は、一時期、熱帯魚の飼育に熱を入れていた時期がある。魚を飼育するだけでなく、水槽に水草を植え、育てることに夢中にもなったが、その時に覚えたことは、写真の仕事の中で役に立っている。
 まずは、水槽という決まった形をしたものに、どのように水草を植えるとインテリアとして見られるくらい美しくなるのか、いわば一種の生け花のようなものだが、水草をどのように植えれば動きが感じられるのか、奥行きが感じられるのか、広がりが感じられるのかなど、たくさんの試行錯誤をした。それが、写真の構図を知る上でとても役にたった。
 また、水槽撮影をする際、メダカやザリガニの背景には水草を植えるが、その水草もスイスイと育てることができる。
 そして、この11月には、小動物を飼育している水槽そのものを子供に見せるための写真を撮ることになった。撮影するのは、メダカ、アメリカザリガニ、アマガエル、カタツムリの4種の飼育の様子と、それを子供が世話をしているようすだ。
 今回の撮影は、まるで学校の理科室に置いてある水槽のように、単に正しい生き物の飼い方を見せるのではない。本を見た子供やお母さんに、
「ああ、飼いたいね」
 と衝動を与えるような、インテリアとしても通用するようなしゃれた水槽の写真を撮ることが求められてる。
 それは、僕が趣味として夢中になっていた魚や水草の飼育に近いし、さらに、水槽その他、道具を出版社の方で買ってもらえることになった。撮影は、11月の上旬に予定しているが、水草が自然に水槽内に殖えるまでには20日くらいの時間がかかるから、早めに準備に取りかからなければならない。昨日、今日と、水槽を設置したり、水草を植え付ける作業に取りかかっている。

 願ってもない仕事だが、そんな時、日頃から遊び心をもって、世界を広げておくことの大切さを感じる。もしも取材で、「北海道に行ってくれ」と言われたら、自然写真家なら誰でも大喜びだろうが、「水槽の写真を撮って」という仕事の依頼は、大半の写真家にとって、そんなにうれしい仕事の依頼ではないはずだ。むしろ、生活費を稼ぐために仕方なくという側面の方が強い。
 ところが、水槽に水草を植え、レイアウトをして遊んだ経験がある人には、どこまででも創造が膨らむ楽しい世界だし、本の編集者の人が、
「ああ、いいね」
 と大喜びするような水槽の写真を撮りたいと胸がワクワクする。
 ただ、僕は、役に立ててやろうと思って、魚や水草を育てていたわけではない。僕は生き物が好きだし、いつでも見ることができる場所に、生き物を置いておきたかっただけだ。無心で取り組んだことは、結果的にすべて役に立っているような気がする。
  
 

10月14日(月)

 昨日に引き続きコスモスの撮影だ。今日は山口県に出かけた。
 昨日、コスモスを撮影した際には、コスモスがいろいろな向きを向いていて、コスモスってそんな花だと思い込んでいたのだが、今日撮影した山口のコスモスは、すべて太陽の方向を向いていた。
 なるほど!昨日は、早朝に雨が降り、その後雨が上がってから撮影をはじめたが、雨雲で太陽の光が遮られていたため、コスモスが思い思いの方向を向き、そして、今日は朝から晴れなので、みんな太陽の方向を向いたのだ。
 つまり、コスモスのお花畑の写真を見れば、同じ午前10時、晴れの瞬間に撮影した写真でも、その日が曇りのち晴れなのか、夜明けから晴れなのかがわかる。時には、写真の中に、コスモスだけでなく、天候の移り変わりまでもが写り込むことになる。
 花は、曇りの日が写真には綺麗に写る。だが、もしも、お花畑でコスモスがいっせいに同じ方向を向いている様子を撮りたければ、朝から曇りの日は適さない。晴れのち曇りでなければならない。
 以前の僕は、撮影の際に、単にいい絵を撮ること、つまり写真の技術面だけを考えていたが、最近は、生き物や自然のしくみを見つめ、考え、感じる時間が長くなってきた。
  
 

10月13日(日)

 コスモスのお花畑を撮影しに出かけた。帰りには、田んぼの水路でメダカの採集。コスモスの方は、画面一面に花が咲いている写真というリクエストを受けての撮影なので、その通りに撮影。メダカの方は、飼育をしている水槽の様子を、おしゃれに、箱庭的で絵になっている写真で・・・というリクエストで、その水槽の中に泳がせるためのメダカの採集だ。
 僕の自宅の周辺には、まだまだ、たくさんのメダカが生息している。田んぼの水路に出かければ採集するのも簡単だが、今の時期はその水路から水が抜いてある場所が多いので、今日は、なかなか適当な採集場所が見つからず、多少苦労をした。
  
 

10月12日(土)



 野生状態のカタツムリは、コケなどを食べると言われているが、今日は、植木鉢に付着したコケをカタツムリが食べるようすを撮影した。こういった撮影は、そんなに難しくはないので、幾つかの作業を平行して行うことができる。
 今回は、昨日の撮影メモにも書いたが、トラブルを起こしている機材を片手間でテストしながら、カタツムリの撮影を進めたが、二つの作業を平行して行った結果、偶然にも、トラブルを起こしている機材に関して、今まで僕が知らなかった性質に気づかされた。
 カタツムリを撮影しようとして、ストロボを発光させたところ、そのストロボに反応して、アマガエルのジャンプを撮影するための装置(トラブルをおこしている機材)が勝手に作動をしたのである。アマガエルのジャンプを撮影する装置には、赤外線のセンサーが取り付けられており、もしもアマガエルがそのセンサー上をジャンプして横切ると自動的にシャッターが切れるようになっているが、そのセンサーに、瞬間的に強い光があたると、どうも何も物体が横切らなくてもセンサーが反応してしまうようなのだ。
 ということは、アマガエルがジャンプする。そして、センサー上を通過して自動的にカメラのシャッターが切れ、同時にストロボが発光する。さらに、そのストロボの光にセンサーが再度反応をして、それが、機材のトラブルと何らかの関連がある可能性もゼロではない。今日は、さっそくその可能性を確かめるための、幾つかのテスト撮影をおこなった。
 正直に言って、この可能性は低いとは思う。なぜなら、そんなトラブルが生じうるのなら、誰かが同じトラブルを体験して、すでに知られているはずだからだ。ただ、いずれにせよ、アマガエルのジャンプを撮影した装置のセンサー部分には、なるべくストロボの光が直接に当たらない方がいいことがわかった。
  
  

10月11日(金)

 今月の水辺に使用したアマガエルのジャンプの写真には、機材のトラブルで妙な光の写り込みがあり、その原因を確かめるために、再度、カエルのジャンプを撮影したと、6日の撮影メモに書いた。その現像が仕上がったが、やはり同じ光の写り込みがある。いったい何が原因なのだろう?

 今月の水辺の写真は、まるで一回のカエルのジャンプを連続写真でとらえたように見えるが、実はそうではなくて、別々のジャンプの写真を、矛盾が感じられないようにつなげて掲載したものだ。つまり、一回カエルがジャンプをしたら、また捕まえて同じ場所に止め、再度ジャンプする様子を撮影する。
 中には、カエルを葉っぱの上に止まらせる時の僕の手が、写真の隅っこに写り込んでしまったカットもあるが、その写真を見ると、僕は、初めて昆虫写真の海野先生の事務所をたずね、プロの世界のことを教わった日のことを思い出す。その日、僕は、海野先生が撮影したフィルムをみせてもらったが、その中に含まれていた蝶が飛んでいる写真に、同じように海野先生の手が写っていたからだ。

 海野先生は、昆虫に関しては、大変に細かい点にまで、いつもこだわる。
 例えば、僕がカエルのジャンプの撮影に使用したものと同じような撮影セットをつくり、スタジオ内でトンボを飛ばして、その様子を撮影すると、トンボは手足を広げた状態で写真に写ることが多いらしい。ところが、野外で長距離を自然に飛んでいるトンボは、手足を胴体にくっつけて縮めているのだから、
「手足を広げて飛んでいるトンボの写真には納得が出来ない」
と先生がおっしゃるのを、僕は聞いたことがある。
 その反面、海野先生は、小さなことにはこだわらない。飛んでいる蝶の写真の隅っこに自分の手が写っていたとしても、蝶が飛んでいるようなシーンの場合、写真が印刷物にレイアウトされる段階で、手の部分を画面からはずしてしまえば全く問題はない。
 プロの世界は、細かい点にまでこだわらなければならないが、小さなことを切り捨てる割り切りも大切なのだと、僕は、手が写ってしまった蝶の写真から感じた。
 もしも、トンボが手足を縮めて正しい格好で飛んでいるけど、隅っこに人の手が写り込んでいる写真と、トンボが手足を広げているけど、人の手が写り込んでいない写真とを2枚並べられたら、大半の人はどちらを選ぶだろうか?多分、人の手が写り込んでいない写真を選ぶだろう。そこに、その人が本当にトンボを知っているかどうかが出るし、何が細かいことで、何が小さなことかを知っているのだ専門家だとも言える。

 トンボに関する知識があるかどうかは、大半の人には小さな事だが、一般に仕事が出来ない人には、細かいことと、小さなことの区別がつかない人が多い。むしろ、小さなことに執着し、細かい点には大雑把であり、そして、小さなことに執着することを、こだわることだと勘違いしている人が多い。
「あなたのこだわっている姿に共感します」
 などと言って近づいてきた人と、一緒に作業をしてみると、細かい点を大雑把に扱われ、切り捨てるべき自分の小さな好みにこだわられ、うんざりさせられることがある。
  
  

10月09〜10日(水〜木)

 前日の撮影メモの中で、カタツムリのことを書いた。
 殻に入ったカタツムリを裏返しにして置き、そこに水をかけると、カタツムリは、やがて殻の中から胴体の部分を現わす。そして胴体を地面にそっとくっ付け、踏ん張って、裏返しになった殻を起こすが、体を地面にくっ付ける前に、目玉を地面にかすめるようにして近づけ、地面と自分との距離を確認すると紹介した。
 カタツムリに限らず、動物は人の言葉をしゃべらないから、カタツムリが、本当に地面との距離を測っているのか、カタツムリに聞いて確認したわけではない。だから、僕の観察は、単なる僕の「読み」に過ぎない
 そういった読みに対して、中には、
「そんなこと分からないでしょう!あなたの決め付けでしょう」
 とケチをつける人もいるが、その人は、多分、生き物をじっくりと観察したことがない人だと思う。確かに生き物は人の言葉をしゃべらないが、実際に、その行動をよく観察してみると、言葉を交わさなくても、その行動の意味がピーンとくる瞬間があるし、無心になって自然を見つめたことがある人と話をすると、例外なく、みんな同じような経験を持っているものだ。
 それは、音楽のトレーニングを積んだ人が、一般の人には区別できない音を区別できるようになるのと似て、実際に自分が生き物をよく観察して、自分の手を動かして経験している人には、すんなりと理解できるし、そんな経験をしたことがなくて、頭の中でだけで自然を考えてる人には、どれだけ説明しても、こじつけか、決めつけにしか感じられないことだろう。
 では、人はお互いに言葉でコミュニケーションができるが、だからと言って、お互いを正確に理解できるか?というとそうでもない。言葉は、案外曲者で、言葉には誤りが多いような気がする。
  
  

10月07〜08日(月〜火)



 殻の中に引っ込んだカタツムリに水をかけ、刺激を与えると、まず最初に足が出て、続いて胴体、そして顔の順に、引っ込んでいた体がでてくる。
 それから、しばらくの間、まるでひっくり返った亀のように、体をバタバタ、ウネウネさせ、そして最後は、体を横向きにして胴体を地面にくっつける。
 胴体を地面にくっ付ける前に、上の画像のように、角の先端についている目玉を地面に近づけ、そこにちゃんと土地があることを確認する。そして、体が地面にくっ付くと、胴体の部分で踏ん張って、ひっくり返った殻を起し、やがて歩き始める。
 今日は、この一連の動作を、連続写真で撮影した。
 こんな撮影の時に難しいのは、何となく数枚のシャッターを押すのではなく、ちゃんと一つ一つの動作の意味を理解して、その動作がわかるようにシャッターを押さなければならない点である。
 鳥の行動などの場合、例えばカワセミが魚を食べる一連の動きなどを観察してみると、ある程度生き物に接したことがある人なら誰でも、カワセミが何をしているのかわかるだろう。魚を叩きつけて殺している。うろこで汚れたくちばしを掃除しているなど、それほどにはむずかしくない。ところが、カタツムリくらい人からかけ離れた生き物になると、何度も何度も行動を観察しなければ、その行動の意味が見えてこない。
 カタツムリが、角の先端の目玉で、地面の位置を確認することも、今日、同じ行動を複数回撮影してみて、ようやく気が付いた。最初に、殻から出てくる様子を観察した時には、ただ、体をバタバタさせていると思ったのだが、何度も見ているうちに、起き上がる直前には必ず、目玉が地面スレスレの位置を通ることに気づいた。
 本当は、日頃の観察の中でそれに気づき、よく分かった上でカメラを手にすれば一番効率がいいのだろうが、僕の場合、シャッターを押している最中に、そんな小さなことだけれども、意味のある行動に気付くことが多い。観察しようとすると、「見てやろう!」という気持ちになるが、カメラのファインダーをのぞき、シャッターに手をかけると、僕は、画面に集中して無心になれる。その無心が、わざわざ観察しようとしても見えなかったものを、見えるようにしてくれるのではないだろうか。
 
  

10月06日(日)

 9月分の今月の水辺は、アマガエルのジャンプの写真を掲載した。ご覧いただければわかると思うが、一応、アマガエルがジャンプする際の動作が撮れている。印刷物に使用できるレベルであることは間違いない。ただ、この一連の写真は、実は機材のトラブルで、厳密に言うと失敗策である。何が原因なのかわからないが、フィルムに変な光が写り込んでしまうのである。
 今月の水辺に掲載した画像は、フィルム3本分の写真の中から、そのトラブルが目立たない写真を数点選んだもので異常が目立たない写真だが、中には、とても使用に耐えないほどひどい光が写り込んでいる写真もあった。
 撮影に使用した道具は、カメラ、レンズ、レンズの前に取り付けるレンズシャッター、赤外線センサー、ストロボの5点だが、赤外線センサーは、明らかに写真の写りには関係がない。ストロボも関係があるとは思えない。残るは、カメラとレンズとレンズシャッターだが、レンズシャッターは点検に出したが異常なしという結果になった。カメラは、複数台のカメラで同じような撮影を試したが、どのカメラでも同じトラブルが生じたので、原因ではない。あとはレンズだが、レンズから光が漏れるとは聞いたことがない。いったいどうなっているのだろう?
 いろいろな箇所の異常を想定して点検してみるが、どうしても原因がわからない。今日は、改めてアマガエルのジャンプを撮影する準備を整え、明日は、再度同じ撮影をして、また異常がおきるかどうかを確かめる予定だ。
 特殊な撮影をすると、やはり訳のわからないトラブルがおこりがちだ。普段は、カメラが正常に動くことなど当たり前のことだと感じるが、特殊な撮影をして、原因不明のトラブルに悩まさせると、日頃、普通の撮影に使用している機材がいかに完成されていて、扱いやすいのかよく分かる。
 それは、たくさんの人が同じカメラを使用して、多くの人の意見が吸いあがられ、小さなトラブルが少しずつ解消された結果たどり着く域だし、人の小さな積み重ねの大切さを、そんな時に思い知らされる。
 
  

10月04〜05日(金〜土)



 先月、カタツムリの殻の内部を撮影したと書いた。飼育中に死んでしまったカタツムリの殻が2つ手元にあり、その殻の一部を切って中が見えるようにしたのだが、切り方に要領があり、2つの殻共に納得できるようなうまい切り方ができなかった。
 仕方なく、うまく切れなかった殻をモデルにして撮影をしたが、ある方から、きれいなカタツムリの殻を提供してもらうことができ、今日は、さっそくその殻を切り、内部の構造を撮影した。今回は、うまく切れた。
 本当は、もう少し大きく切り開きたいが、これ以上切ると割れてしまう。どこが弱いかなどは、前回、二つの殻を切ったときによく分かったので、今回は、その弱い部分に手をつけないようにして、強い部分のみを切り開くことにした。
 僕は、写真を撮るまでは、特別にカタツムリに興味を持ったことがなかったから、カタツムリにはどんな種類がいて、どこに行けばたくさんみられるのか、ほとんど何の知識も持ち合わせてなかった。
 そんな時、大学時代の知人を通して、山口県在住の増野氏を知り、メールでカタツムリ探しの要領を教わったのだが、そのアドバイスが難し過ぎず、易し過ぎず、的を得ていたため、すんなりとカタツムリの世界に入っていくことができた。
 その後、増野氏のHPを時々のぞくが、文章や説明がうまい方で、なるほど、最初にメールで問い合わせをした際に、その説明が大変にわかりやすかったことがうなずけた。
 その増野氏だが、オトメマイマイという小さなカタツムリが特に好きなのだとうかがった。今回、僕が殻を切って内部を撮影したかったのは大型のカタツムリなので、増野氏の得意の分野とは若干異なるが、大型のカタツムリをコレクトしている方をご存知かもしれないと考え、問い合わせてみたところ、増野氏がお持ちの標本があり、その中から二つの標本を譲ってもらえた。
 できれば一つの殻をうまく切り、残った一つは手をつけずに、撮影した写真を添えて、お返しできればと考えていたのだが、思い通りにうまく切れたし、今日はめでたい。
増野氏のHP かたつむりの館
 
  

10月02〜03日(水〜木)

 昨日、飼育中のアメリカザリガニが卵を産んだ。日本に帰化しているアメリカザリガニは、春に卵を生むこともあるが、産卵のピークは夏の終わりから秋にかけての時期だと言われている。今回卵と生んだ個体は、つい先月に採集してきたばかりのもので、一匹ずつ隔離をして飼育をしていたのだが、採集以前に交尾を終えていたのだろう。
 アメリカザリガニは、個体によって臆病なものと、逆に攻撃的なものとに極端に分かれるような気がする。臆病なザリガニを水槽の中に入れると、とにかく隅っこに潜り込むようにして隠れ撮影がむずかしい。逆に、攻撃的な個体を水槽に入れると、ドーンと水槽の真中に陣取り、人が顔を近づけるとハサミを振り上げて威嚇する。
 今回卵を生んだメスは、とても攻撃的で、まったく物怖じせずに威嚇のポーズを見せてくれるので、その様子を撮影しようと、飼育用の容器から撮影用の容器に移したら、すぐに産卵をした。ついでに卵やザリガニの親子の様子を撮影しておこうと思うが、事務所の水槽での撮影なので、事務的な仕事と両立できるし、ザリガニの写真自体は、すでにたくさん撮影をしているので、今回は、水槽にべったり張り付くのではなく、面白いシーンを見せてくれた時にだけ撮影すればいい。
 ただ、たくさん生んだ卵の一部を、不注意で腐らせてしまい、親のザリガニが尾っぽの所に抱いている卵の数が少なくなってしまった。卵は、酸欠になると腐りやすくなるので、卵が孵化するまでは酸素をたくさん供給したほうがいいのだが、酸素をたくさん供給すると、逆に、水草が枯れやすくなる。
 ご存知の通り、植物は二酸化炭素を吸収して成長するが、二酸化炭素はコーラの中に入っている炭酸と同じものなので、エアーポンプで酸素を加え、水がバシャバシャ波立つと水中から抜けてしまう性質がある。二酸化炭素が抜けた水中では水草が育たないのだ。
 ザリガニのバックは、やはり鮮やかな水草の緑色が生えるので、しっかりと水草を育てたいが、卵が孵化をするまでの数日は、水草には我慢をしてもらい、酸素を供給した方が良さそうだ。
 水草だけを育ていることは難しくないし、ザリガニだけを育てることはやさしい。だが、狭い水槽の中で、両者を両立させて飼育することは結構難しい。いつも思うが、自然を再現することは難しい。
 
  

10月01日(火)

 うちには2台のパソコンがある。一台は事務所で使用しているデスクトップ型で、あとの一台は取材に持ち歩いているノート型だが、先日、事務所のパソコンが起動しなくなった。長い間使用している間に、小さなエラーが積み重なったのだろう。
 パソコンの内部は、2つのドライブに分割されていて、保存用のドライブにあるデータは損なわれなかったが、ウインドウズのシステムがインストールされている側のドライブのデータはなくなり、メールのデータなどを紛失した。
 僕の仕事には、パソコンは不可欠なので、撮影の仕事をやめにして、丸一日がかりですべてのソフトの再インストールを行ったが、昨晩はなんとノート型の方がおかしくなり、今日は、またまたパソコンの修復作業に明け暮れた。
 実は、昨日の朝に、ノートパソコンのキーボードにお茶をこぼし、その直後には、これといった異常はなかったのだが、夜に帰宅をしてパソコンを立ち上げてみると、パソコンは、何かのキーを押したままのような状態になっていて、キー入力ができない。
 そこで、パソコンを分解してキーの部品を取り外し、キーボードを若干反らしてみると異常が収まる。異常が収まったままの状態で、そっとパソコンにキーボードを取り付け、ねじで止めるとパソコンの機械の部分は修理ができた。
 ところが、今度は、ウインドウズのシステムに異常が生じた。恐らく、キーが押しっぱなしになった状態で、起動したり、どこに異常があるのかを確かめようとしたりしたので、その間にソフトの方がおかしくなったのだろう。
 今日は、朝からすべてのソフトを再インストールしているが、夕方になってようやく作業が終わりつつある。事務所のパソコンとノートパソコンとで、合計して2日も撮影の予定が狂ってしまったから、「何をやっているんだ!」という思いもあるが、まあ、今は一年で一番のんびりできる時期なので良しとしよう。これが、5月や6月だったなら、目が血走っていたに違いない。
  
 
自然写真家・武田晋一のHP「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影メモ 2002年10月

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2001/05/26