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撮影メモ

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09月30日(月)

 一昨日から原稿を書く作業をしている。今日は、それに加えて「今月の水辺」を更新した。書く時間が長くなり、その結果、頭の中が飽和状態になっているので、今日は、二行で終わりにしたい。

   今月の水辺を更新しました
 
 

09月28〜29日(土〜日)

 水曜日に現像に出したフィルムが仕上がった。結果は、どれもそこそこのレベルの写真に仕上がっていて、撮り直しが要求されるような写真もほとんどない。一点だけ、アマガエルの足の先の吸盤を撮影した写真があまりよくないので、これだけ撮り直しをしようかと考えている。
 吸盤は足の裏側にあり、普通には撮ることができないので、ガラスに張りついたアマガエルを、ガラスの裏側から撮影するのだが、今回撮影した写真は、ガラスに付着したほこりが目立ちすぎてやや見苦しい。吸盤をシャープに撮れば撮るほど、ガラスの汚れやほこりも目立つから、こういった撮影は案外難しい。
 その他、カタツムリを光に透かして殻の内部を撮影するためのテスト撮影のフィルムも、今回の現像分に含まれていたが、大体要領が分かった。
 殻を光に透かす撮影では、通常の照明に加え、殻の後ろから別の照明を加えるが、その照明の強さに需要で、弱すぎると殻が透けないし、強すぎると真っ白になり、何がなんだか逆にわからなくなる。そのあんばいは、ある程度、デジカメによるテストで確かめることが出来るのだが、デジカメと僕が撮影に使用する645版のカメラとは、比較が出来にくい点もあり、ゆとりがある時にはテストをしておくに限る。
 
 

09月26〜27日(木〜金)

 写真のフィルムには色々なサイズがあるが、僕が好きなのは645版と呼ばれているサイズで、一枚のフィルムの幅が6センチ、高さが4.5センチの大きさである。一般的に普及しているフィルムは35ミリ版と呼ばれているが、645版は35ミリ版よりも一まわり大きい。
 フィルムが大きい分だけ、もしも同じ絵柄の写真を撮ったなら、645版は35ミリ版よりも画質がいいが、代わりに若干不器用になり、動きが激しい被写体の撮影には向かない弱点もある。
 それから、理屈の説明は省くが、645版のカメラで撮影をした方が、写真のぼけの部分がきれいに写る。花の撮影など、花にピントを合わせ、花の背景をしっかりとぼかして被写体を浮かび上がらせたい時には645版は有利になるし、逆に、ぼけを使わずに、画面全体にしっかりとピントが合った写真を撮りたい場合、645版にはむずかしい点もある。
 要するに一長一短があり、両方持っていれば申し分ないが、僕の場合、渓流の足場が極端に悪い場所を長距離歩く機会が多いので、荷物が多すぎることは困る。仕方なく645版の撮影セットのみを持って歩いている。
 ただ、小動物の撮影では、動物にピントを合わせ、しかも、その動物がすんでいる環境にまでしっかりとピントが合った写真を撮りたいこともあるから、僕が好きな645版が不利になることもある。そのワンポイントのみに35ミリ版のカメラが一台欲しいと日頃から感じていたのだが、そう言えば、ずっと使っていない、古いけれどもコンパクトな35ミリ版が手元にある。
 僕が写真をはじめた大学生の頃に人気があったニコンのFE2という名作だが、新しい電池を入れてみるとまだ動く。大変にコンパクトなカメラなので、バックの、本来小さなアクセサリーを入れるようなスペースにも入り込む。これからはFE2とシグマ社製の広角レンズのセットを645版と一緒に持ち歩くことにした。
 
 

09月25日(水)

 先月末から今月にかけて撮影したフィルムを現像に出した。今月はほとんど写真を撮らなかったが、それでも約一ヶ月間、現像に出さないでいると、いつの間にか30本弱のフィルムが貯まってしまった。
 昨日は、カタツムリが糞をするようすや、カタツムリのつの(先端に目がある)が動き回る様子を撮影して、久しぶりに5本のフィルムを一日に撮影したが、これからは、また、たくさん写真を撮ることになるので、貯めこんだフィルムを一旦現像することにした。
 今回現像に出したフィルムの中には、レンズの性能を試すためのテスト撮影のフィルムや、これまでほとんど試したことがない撮り方で撮影をしたテスト撮影のフィルムが多数含まれている。いろいろなことを試し、そういったテスト撮影の結果をよく分析して、撮影の際の表現の幅を広げていくことも大切なことだ。
 写真を撮る人にはこだわりを持った人が多い。写真や写真機材に関して、いろいろと気難しいことを言う人が多いが、実際に、厳密にテストをして、そういった細かい点まで本当に確かめたことがある人は案外少ないように思う。
 何にしろ、実際に自分が試したことがある何かに関しては、人が知ったかぶりをしても見破ることができるし、たくさん話をしてみると、知ったかぶりには必ずと言っていいくらい、ボロや矛盾が感じられるものだ。
 その点、プロの口から出てくる言葉は、やはり自分の経験が踏まえられたことであり、そこがプロとアマの一番大きな違いの一つでもあるように感じる。プロの中にはもちろん天才的な人もいるだろうが、大抵の場合、プロが何か特別なことをしているのではなく、当たり前のことを積み上げ、一つ一つ自分の目で確かめているに過ぎないように思う。
 
 

09月24日(火)

 カタツムリが糞をする様子を撮影した。糞は、まるで金魚の糞のように細長いが、カタツムリは、それを実に見事に小さく折りたたみ、その時にとまっていた場所において立ち去る。
 カタツムリを飼い始めて2年以上になるが、ようやく、カタツムリに関連する面白い現象が、次々と、目に飛び込んでくるようになってきた。
 一昨年〜一昨昨年は、アマガエルの撮影に力を入れたが、アマガエルの面白さは、比較的写真に撮りやすい。例えば、体色を周囲の色に合わせて変化させる現象や、お玉じゃくしからカエルに変態するようすは、特別な工夫をしなくても技術さえ持ち合わせていれば、写真に表現できる。
 ところが、カタツムリの場合は、ちょっとばかり勝手が違う。昨日撮影した殻の中のようすなどが、その例だが、カタツムリに関する面白い現象は、何か見せ方に一工夫をしなければ、写真で表現することがむずかしい場合が多い。
 ただ、それだけに工夫のしがいがある。アマガエルの写真は、オーソドックスな、アマガエルの生態を素朴に追いかけた本としてまとめたいし、カタツムリの写真は、撮り方や見せ方の点で工夫に満ちた、ちょっとおしゃれな一冊の本にまとめてみたいと考えている。

 撮り方や見せ方に工夫をするのは、日本の写真家はあまり得意ではないが、欧米人が撮影した写真には、その点ですぐれたものが多い。
 たとえば、ハクチョウやガンを飼いならし、軽飛行機の後ろからついて飛ぶように訓練し、飛行機の中から飛んでいるようすを撮影した写真を見たことがある。また、モグラがすんでいる地面を断面にして、地中に作られた穴の様子とモグラの生活をみせた写真を見たことがあるが、いずれも日本人にはできにくい発想だと思う。
「そういえば!」
と、本棚から7〜8年くらい前に買った、「ビジュアル博物館」というシリーズの本を引っ張り出してみた。「ビジュアル博物館」は、多分、英国の本の翻訳で、写真もすべてヨーロッパの写真家の手によるものだと思うが、カタツムリの撮影に関して参考にできそうな写真の見せ方が多い。
 この本は、ごく普通に自然写真家を志す者が手に取るような本ではないと思うが、当時の僕は、昆虫写真の海野先生の元を初めてたずね、写真家の仕事に関して教わったばかりだった。その時に、海野先生の口から「ビジュアル博物館」という名前を聞き、その値打ちもよくわからないのに手に入れた本だが、今は、海野先生がこの本の名前を出した意味がよくわかる。
 
 

09月23日(月)

 カタツムリの殻の中

 カタツムリの殻の内部を撮影した。
 僕の手元には、飼育中に死んでしまったカタツムリの殻が2つあったのだが、まず一つ目を試しに切ってみて、どのような面で切ると内部の様子がよくわかるのかを確認し、同時に、どうしたらきれいに殻が切れるのか、切る技術を練習した。
 二つ目は、試し切りの手応えをよく踏まえた上で本番撮影用に殻を切ったが、その殻が上の画像で、これはコべソマイマイという種類のカタツムリだ。
 残念ながら、切断面が一部欠けてしまい、その欠けた部分がわからないような角度で撮影をしなければならず、カメラのアングルが大変に制限され、今日の画像を撮影した角度以外に、ほとんど選択肢がない。あと、一つ二つ殻を切ってみると、完全に要領がつかめるのだろうが、そのためのちょうどいい殻が手元にない。
「カタツムリって殻の中でどうなっているの?」
 と、よくたずねられるし、この写真は、きっと子供向けの自然雑誌などで大きく引き伸ばして使用すると、まるで、自分が殻の中に入り込んだかのような気分になり、本を決定的に面白くする写真になる可能性がある。できれば大きく引き伸ばすことに耐えるようなきれいな殻を材料にして撮影したい。
 そのためには、生きているカタツムリの中から殻がきれいなものを探し、標本を作る要領で煮沸して殺し、その殻を切断してから撮影をすればベストだが、大型のカタツムリは成長するのに数年の時間がかかるのだし、やはり殺したくはない。
 迷いに迷ったあげく、当面は、今回撮影した殻の内部の標本写真を使用し、また別のカタツムリが死んでしまった時などに、新しい撮影をすることにした。
 次は、殻が薄い種類のカタツムリを、生きたまま光に透かすことで、胴体が殻の中にどう収まっているのか、その様子が多少なりともわかる写真を撮影してみたい。
 
 

09月22日(日)

 「今月の水辺」を更新しようと思うのだが、9月に入ってからほとんど写真を撮っていないし、わずかに撮影したフィルムも、まだ現像にも出していない。去年の今頃は、春〜夏に撮り損ねたシーンを必死に撮影していたのだが、今年は比較的順調に予定をこなしたので、その必要もない。
 シャッターを押す代わりに、冬に、またゆっくりと北日本取材に出かけるために、雪の中で野鳥を撮影するための撮影セットを考えたり、北日本までの運転は結構な時間がかかるので、車の中で退屈をしないように、音楽のMDを準備したりと、撮影の周辺にある作業に力を入れている。
 準備した音楽MDの中には、いろいろな歌手の曲を、福山雅治さんがカバーしたアルバムが含まれているのだが、福山さんは、僕と世代が近いためか、カバーされた曲には、僕が子供の頃に聞いた歌謡曲が多い。
 子供の頃は、歌詞の意味がほとんどわからなくて、メロディーだけが好きだった曲でも、今改めて聞き直してみると、歌詞の意味が良くわかる。沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、寺尾聡さんの「ルビーの指輪」は、いずれも僕が子供の頃の大ヒットだが、歌詞の内容は、どことなく似ている。
 共に失恋の別れ際を歌った曲だし、その別れ方も大変にきざで、
「あばよと、さらりと送ってみるか〜」
 だったり、
「孤独が好きな俺さ、気にしないでいっていいよ」
 だったり、恰好良すぎて、今なら
「ナルシストだな!こいつ」
 の一言で片付けられてしまいそうだが、当時は、それが人の共感を呼んだのだから、流行って面白いなと思う。
 
 

09月20〜21日(金〜土)

 福岡県南部の杷木町に、ヒマワリのお花畑を撮影しに出かけた。お花畑の撮影は、今年の春に頼まれていたのだが、依頼されたイメージは、画面の一面に花が咲いていて、びっしりと花でうめ尽くされている写真だ。これまでに、菜の花、レンゲ、そして今日のヒマワリと3種類の花を撮影して、あとは、コスモスあたりを撮影したいと考えている。
 つい先日、テーマを水辺に集中させたいと書いたばかりだが、現実には、色々な被写体を撮ることになる。もちろん、それはそれで勉強になる。お花畑の撮影をしていると、一見単調にみえる広い空間の中から、写真にピタリと収まる一角がすぐに目に入ってくるようになるし、そうして養われた目は、他の撮影の際にも役に立つ。
 ただ、僕には、それにのめり込んでしまう嫌いがある。写真で仕事をするのであれば、武田といえば水辺といったような、僕を覚えてもらうイメージも必要だし、いろいろな被写体にのめり込むことで、その点が弱くなる危険性もある。
 そこで、今日の撮影では、単に「お花畑の写真を・・・」という依頼に答え、その場をしのげばいいというのではなく、同じようなタイプの被写体を、今度は水辺で撮影することをイメージして撮影に臨んだ。
 ただ依頼に答えるだけであれば、我武者羅にシャッターを押せばいい。だが、それを次の撮影につなげるのであれば、撮影のコツがどの点にあるのかよく考え、頭の中を整理しながら、論理的に撮影を進めなければならない。
 水辺の撮影の場合、僕にとっては大切な撮影なので失敗したくないし、頭で考えるだけでなく、考えることを部分的には忘れて、我武者羅に写真を撮らなければならない。例えば、水辺の朝霧が美しい時には、とにかくシャッターを押しておき、考えるのは撮った後にしなければ、好条件を撮り損ねてしまうし、水辺の写真が一つのテーマでまとまる時期が、どんどん遅れてしまう結果になる。
 だが、水辺以外の被写体であれば、よく考えた上での失敗であれば諦めもつくし、その失敗は、その場だけのものですむ。僕にとっては、それがちょうどいい、訓練の場になっている。
 
 

09月18〜19日(水〜木)

 小動物の撮影をメインにしている僕にとって、一番慌しいのは5〜7月くらいの期間だが、この間は、ひたすらにシャッターを押すだけで、ほとんど何も考えるよとりがない。8月は出版社に顔を出したり、主に売り込みをする。9月は、また先へ進むために、頭の中を一度空っぽにして、すべての計画をたて直す。
 もちろん、撮影の計画は9月以外にも、ほとんど一年中考えてはいるが、通常は一ヶ月前後の目先のことを考えるのに対して、9月にたてる計画は、10年くらい先を見越して、この先どういう風にテーマを絞っていくのかを考える。
 僕は水辺というテーマに撮影を収束させようとしているが、水辺といってもいろいろなまとめ方がある。人によっては、北海道から西表島まで、淡水魚を中心に撮影している人もいるし、カエルばかりを撮影している人もいるが、僕は、西日本の水辺に普通に見られる生き物や自然を、風景から微生物まで、幅広く撮影しようと考えている。

 その中で、まだ手をつけていないのが、プランクトンなどの顕微鏡撮影だが、ちょうど、水道局で水質検査に携わる仕事をしている友人(Iさん)がいて、昨日は、その仕事場をたずねプランクトンや水質検査の仕事の中身に関して教わった。
 微生物には、名前が面白いものが多い。いかだの形をしたイカダモ、勲章の形をしたクンショウモ、三日月の形をしたミカヅキモなど、名前の由来の元になった物体の写真と、それに似たプランクトンの写真とを並べると、子供向けの本の企画が出来そうな気がするし、学校教材などにもプランクトンの写真は使用されいる。Iさんの職場には顕微鏡写真が撮れる機材もあり、その場で、一通りの手順を見せてもらったが、何とか仕事になりそうな気がする。
 プランクトンの名前を調べることは本来はややこしいのだろうけど、Iさんに聞けば、普通に見られるプランクトンであれば、一瞬で種類が判明してしまう。また、池で採集した水を濃縮してプランクトンが濃い水を作る作業なども手馴れたもので、その熟練の技術をもっていすれば、一日に30種類くらいのプランクトンを見ることができるそうだ。せっかくそんな貴重な友人がいるのだから、近いうちに顕微鏡撮影にもチャレンジしてみたい。
 ただ、友人は水質検査が仕事であり、顕微鏡写真の専門家ではない。きれいな写真の撮り方は、どこかで勉強をする必要がありそうだ。
   

09月17日(火)

 写真家の三好和義さんや白川議員さんは、芸術的な写真を撮ることでよく知られている。
「芸術写真って何?」
 とたずねられると、人によって色々な解釈があり、なんとも困るが、一般的には、見たものを見たように撮るのではなく、作為的に何かプラスアルファーを加えた写真のことを意味することが多い。
 例えば、わざと暗く撮る、わざと明るく撮る、わざと水平を傾けて撮る、わざと被写体の一部をフレームアウトさせて撮る・・・と色々な芸術的な表現はある。
 そして、写真を撮る人には、見たものを見たように撮りたいという説明写真タイプと、そうではなく芸術的に撮りたいという芸術写真タイプとが存在する。
 説明写真は実用の写真だから、プロ的な世界になるし、芸術写真は遊びの写真なので、アマチュア的な世界になるのだが、三好さんや白川さんのようにプロでも芸術的な表現に大変にこだわられる人もいる。
 ただ、三好さんや白川さんは、
「私は、見たものを見たように撮りたくはありません」
 といった主張を随所で書いておられるが、両氏の写真には、大変に説明力があることを見落としてはならない。白川さんが撮影した山の空撮写真は、幻想的で厳かだが、同時に、山肌の微妙な起伏や峰と峰との重なり合いが大変によく分かり、稀にみる説明力に富んだ写真だともいえる。
 白川さんご本人は、
「説明写真には興味がない」
 とおっしゃるが、もしかしたら、白川さんは説明の天才であり、説明することを意識しなくても説明できてしまうから、そう言えるのかもしれない。
 両氏の写真を見ていると、たとえ芸術写真でも、単に芸術的であるだけでなく、何か人がその写真を見るに値する情報を含んでいて、それを説明していなければならないことを、僕は教えられる。

 僕は、見たものを見たように撮りたいと思う。ありのままの自然に何か色を加えたくはないから、僕の写真は説明写真が基本だが、それは、ただシャッターを押せばいいということではない。自然は明らかに美しいのだから、自然をちゃんと説明して、その説明が美しいというのが、僕の目指す理想に近い。
 説明写真タイプの人の中には、
「私は、芸術写真には興味がないのです」
 と、ただ説明するためだけの写真を、ただ写っているだけの写真をがさつに撮る人もいる。だが、それは単に写真の技術が未熟であることからの言い逃れであり、それもまた、説明写真ではないような気がする。
 芸術写真にせよ、説明写真にせよ、どちらにしても写真には、見る人にとって見るに値する情報が含まれていなければならないし、ビジュアル的にも優れていなければならないような気がする。
   

09月15〜16日(日〜月)

 先月の末に山田緑地で写真展を開催したが、来年は僕の代わりに野村さんという野鳥を中心に撮影するアマチュアカメラマンが展示を担当することになった。僕が野村さんを推薦し、昨日(15日)は、野村さんと共に山田緑地に挨拶に出向き、来年度の大まかな予定を確定することができたが、僕は一安心し、野村さんは明確な目標ができ、さらにいい写真を撮ってくれるのではないかと期待をしている。
 山田緑地は、写真展の開催のための費用を一部負担してくれるので、大変に条件に恵まれた展示会場だが、その展示の場を、人に明渡したのには僕なりの理由がある。
 野村さんに限らず、このHPにリンクしてるトンボ写真の西本さんなど、僕には、何人かの尊敬しているアマチュアの人が身近にいて、いずれ、みんなを引き合わせて、お互いに情報や意見交換をして、何か一つのことをやってみたいと考えているのだが、その第一歩として、写真の発表の場を僕が作り出し、その場を、みんなに広げていければと考えていたからだ。
 野村さんや西本さんの写真には、他のアマチュアの人にはないものがある。それが何かは、また別の機会に書いてみようと思う。
   

09月14日(土)

 アメリカザリガニの採集に出かけた。アメリカザリガニは、子供の本でよく取り上げられる生き物の一つなので、いつでも撮影ができるように、毎年、秋口に新しい個体を採集している。
 ザリガニは、北九州の場合、町のど真ん中にあるドブのような水路にも生息しているから、どこにでもいると言っても差し障りない。ところが、都会の狭いドブにすんでいるザリガニは、仲間どうしで喧嘩をする機会が多くなるのだと思うが、ヒゲや脚がかけている個体が大変に多い。そこで、ちょっと田舎の田んぼの水路を漁ると、とてもヒゲが長くて、凛々しいザリガニを採集することができる。
 今日は、僕の自宅がある直方市のお隣、鞍手郡の田んぼに出かけ、胸まである長靴をはいて水路を漁り、10匹前後のザリガニを採集した。
 そうして採集すると、圧倒的にオスがたくさん網の中に入る。恐らく、オスは縄張りを持ち、その縄張りに他のオスが侵入しないように、見通しのいいところで見張る性質があるのだと思う。メスは、物陰など、どちらかというと目立たない場所にいる場合が多いのではなかろうか?
 アマガエルにも似た傾向があり、初夏の田んぼで盛んに鳴いているのはオスなので、適当に採集をするとオスばかりを捕まえてしまう。メスは、ちょっと目立たない場所にいて、なんとなく控えめな感じがする。
   

09月13日(金)

 東日本に出かけると、紅葉にしても、雪にしても、九州とは比較にならない規模で、秋〜冬の写真に関しては西日本では全く太刀打ちができないことを実感する。九州で、本当に秋らしい写真を撮れる日、冬らしい写真を撮れる日は、年に数日ずつしかない。
 その他の時間をどう過ごすかに関しては、いろいろな試行錯誤をしてきたが、今年は、水槽を使用して淡水魚の撮影をしようかと考えている。九州で見られる淡水魚の大半を、この一年くらいで撮影してしまうつもりだ。
 そのために、撮影用の水槽を準備したり、その水槽にストロボなどの機材を取り付けるための工夫を凝らしたりと、アマガエルの撮影の傍らで、この秋から冬にかけての撮影準備を進めている。
 また、冬の間にまとまった時間を作り、野鳥も撮影したい。この2月にも東日本〜北海道に出かけたが、今年も、カモ類を中心に水辺の野鳥を撮影する予定にしている。2月の撮影は、久々の野鳥撮影だったこともあり、今一歩調子が上がらなかった面があるが、この冬は冷静に、狙った写真をワンカットずつものにしていこうと考えている。
   

09月12日(木)

 今日は、アマガエルを撮影した。来年、子供向けの月刊誌でアマガエルの号を担当することになりそうなのだが、そのための撮影だ。本の編集を担当するSさんから、「このようなイメージで」と絵コンテを書いてもらい、そのイメージに合わせて撮影をする。
 その絵コンテが大変に可愛らしく、そして分かりやすくて、編集の方が持っているアマガエルの本のイメージがよく伝わってくる。
「なるほど、Sさんは、こんな風に作りたいのか」
 とよくわかるし、それは僕にとって、大変に勉強になる。
 大抵の写真はすでに撮影済みだが、足りないカットが数カットあるから、それは撮影をしなければならない。また、写真はあるものの、今一歩質がよくない写真は撮り直しをして、この機会に徹底的に強化する予定だ。
   

09月11日(水)

 久しぶりにカメラを手にした。
 昨日は飯塚市に写真展を見に行ったと書いたが、実は、写真展はついでであり、主な目的は、魚の調査に携わる知人に会うことだった。
 知人に会い、魚の写真の種類を増やしたいことを相談し、この近辺で採集できる魚についてまとめられたガイドブックを譲ってもらい、また、魚の採集に関して力を貸してもらえることになった。また、氏が得意ではない種類の魚に関しては、その魚に詳しい方を紹介してもらえた。
 これから2〜3年、どのようなスタイルで撮影をしていくのか、だいたい目処が立ってきたので、計画に頭を悩ませるのは止めにして、今日はカメラを手にしたという訳だ。
 久しぶりの撮影ということもあり、何でもない水槽撮影のはずだったが、一日がかりの作業になった。撮影の方も、これから調子を上げていかなければならない。
   

09月10日(火)

 今日は、僕の自宅から車で30分ほど走った飯塚市に、写真展を見に出かけた。この写真展には、僕の知人のF氏が写真を出品しておられるのだが、F氏の個展ではなくて、二科のお偉い先生が指導をしているグループ展である。
 その中に、一人だけ野鳥の写真も撮るというI氏が含まれていて、
「武田さんですか」
 と話し掛けれ、I氏は、
「芸術写真にこだわっています」
 と、自分の作風を自己紹介してくださった。
 日本野鳥の会筑豊支部にも属しておられるとのことなので、僕は、その中の知人であるN氏の名前を挙げてみたのだが、I氏に言わせると、
「N氏の写真は大したことはない」
 というお話。実は、僕は、ここ3年毎年続けてきた山田緑地での写真展を来年からN氏にお願いしようと考えていて、N氏の写真を大変に高く評価しているのだが、
「来年から僕の代わりにN氏に個展をお願いするのですよ」
 という僕の言葉に対しては、
「え、あの程度のものを」
 といった言葉がI氏から返ってきた。僕は、その言葉にカチンと来て、ちょっとばかりI氏に噛み付いてみることにした。大したことがないというその言葉の根拠を知りたかったからである。
 I氏の説明によると、
「Nさんの写真は、説明写真なので、芸術性がなくて美しくないからダメ」
 とのことだが、芸術性や美しいという言葉は曲者で、人によって大変にばらつきがある。僕は、素直な感想として、Nさんの写真の方が、I氏の写真よりも断然に美しいと感じたのだが、I氏にとってはそうではないのだろう。要するに何か説得力のある理由があるのではなく、I氏の好みではないという程度の根拠のようだ。
 さらに確認をするために色々と写真の話をしてみたが、代表的なプロの写真も、写真が掲載されるような雑誌も、写真集もほとんど見たことがないようだし、それほどに写真をよく知っているとは思えなかった。例えば、
「私は生き物の写真が大好きなのです」
とおっしゃるのだが、星野道夫さんの写真も見たことがないようなのだ。

 I氏の写真は、ツル、ウマ、サルと3点出品してあったが、いずれもどこかで見たことがあるような写真ばかりである。特にウマの写真は、つい先日北九州で見せてもらった写真展に、ほとんど同一カットが展示されて、撮影会で主催者が設定した状況で、みんなが並んで撮っただけの写真である。そんなものが果たして芸術なのだろうか?と僕は疑問を感じずにはいられなかった。
 他にも、I氏の口から出てくる被写体は、「北海道でタンチョウを撮ったり、オジロワシを撮ったりもしますよ」などと、いずれも数え切れないくらいの類型写真が発表されていて、撮り尽くされている被写体である。
 これは、二科の先生に指導を受けているアマチュアの大半に当てはまることだが、写真はきれいなのだが、みんな類型ばかりで、しかも、それを口をそろえて芸術という。芸術ってそんなにつまらない猿真似のことを指すのだろうか?僕は、少なくともオリジナリティのないものは、芸術ではないような気がする。
「そういう写真は邪道だ」
 と言っているのではない。楽しければ、それを撮ればいいと思うが、僕は、それを芸術だといって欲しくない。僕の写真は、芸術写真ではないが、僕は芸術が好きだし芸術を汚されたくない。
「あなたの写真は、単なる人のコピーだけど、Nさんの写真にはオリジナリティーがありますよ」
 と僕がI氏に伝えると、
「いや私は趣味だから楽しければいいのです」
 とI氏が口にされたので、
「あなたに、そうしなさいと言っているのではありません。程度の低いNさんの写真をなぜ?とあなたがおっしゃるので、その理由を答えただけです」
 と僕は答えた。
 人のことを散々に言っておいて、自分が答えられなくなると、
「いや私は趣味だから。私は楽しければいいのだから。いや人それぞれ考え方があるから」
 とすぐに逃げ出す輩は多い。
 逃げ出すくらいなら最初から批判しなければいいし、批判するのであれば、最後まで自分の考えを伝え、それでも勝てないと思ったときには、そこまで考えていませんでしたと降参すればいい。僕は、批判は必ずしも悪くないと思うが、I氏程度の哲学と気持ちならば、人の写真の悪口を言うべきではないと思う。N氏も、趣味で楽しく撮っているのである。今日は、思い切り大人気なく噛み付いてみた。

 ここで僕の代わりに来年から山田緑地で写真展をする予定のN氏について、紹介をしておきたい。N氏は、北九州の曽根干潟にすむ生物を、野鳥を中心に撮影しているアマチュアカメラマンである。僕がN氏の写真を高く評価したのは、有名な探鳥地で、誰かが発表した写真や情報ばかりをたよりにして、有名鳥を追いかけるのではなく、自分の身近な場所で一つ一つ自分の目で探した被写体を撮影している点である。N氏の写真は芸術ではないと思うが、N氏の写真には、I氏の写真とは比較にならないほどの哲学がある。少なくとも、何かの真似ではない。
   

09月08〜09日(日〜月)

 撮影用の水槽に敷き詰めるための砂利を採集するために宮崎に出かけた。淡水魚やオタマジャクシやアメリカザリガニなど水中にすむ生物を撮影する際には、実際に僕が川に潜って撮影をするよりも、水槽を使用することが多い。
 撮影者が川に潜る方法だと、大変に自然な写真が撮れるのだが、酸素ボンベを使用してもせいぜい数時間しか水の中では撮影ができないから、撮影に時間がかかる難しいシーンを撮ることができない。
 そこで水槽の中に自然を再現して、その様子を撮影する水槽撮影という方法を用いることになるが、その結果を大きく左右するのが、水槽に敷き詰める砂利の色で、砂利の種類によっては、写真の色がとても不自然になってしまうことがある。
 その点、宮崎県の五ヶ瀬川産の砂利を使用すると、とても自然な感じの発色が得られる。今日は、五ヶ瀬川の支流の日之影川にでかけて、大きなバケツ2杯分の砂利を採集して帰った。本来は、そういう作業は、撮影で宮崎に出かけたついでが望ましいのだが、しばらく宮崎での撮影予定がないため、思いきって一日をかけて砂利の採集に出かけることにした。
   

09月07日(土)

 知人が講師をつとめる写真クラブの展示を見にいった。クラブの写真展なので、複数の人が撮影した写真が一同に展示をされることになるが、一つの部屋の中で、いろいろな撮り方や被写体の写真を見ることが出来、僕には、それがおもしろく感じられた。
 アマチュアの方の趣味の写真の展示なので、ご本人が楽しいことが何よりも大切だが、大変にレベルの高い写真があったので、あえて僕が満たされなかった点を挙げるとするならば、それは、もう少し自由に写真を撮ってほしいという点である。
 どの写真にも、人と一味違う写真を撮ろうとする心が感じられるのだが、それにとらわれ過ぎていて、人を意識しすぎた結果、いつの間にか、人と同じような写真になっている傾向があり、僕は、そこに若干満たされないものを感じた。
 いかに人と違う写真を撮るかを考えるのもいいが、人を抜きにして、自分が撮りたいもの、表現したいものは何なのか、それを良く突詰めることも面白いのではないかと感じた。
 僕は、自分を知ることは大変に難しいことだと考える。自分が好きなように振舞えば、それが自分のしたいことなのかといえば、そうでもない。例えば、プロのカメラマンは、仕事上撮りたくない被写体を撮らされることもあるが、撮りたくないと思っていたものを実際に撮ってみると、それが実は好きだったということは珍しくない。要するに、撮りたくないと勝手に自分が思い込んでいただけで、自分で自分のことを誤解していただけなのだ。
 今日の出品者の中には、自宅の庭の餌台を舞台にしてスズメばかりを撮影している方が一人おられた。僕自身が鳥を撮影するからだろうか、僕は、その方の写真が何とも言えず心に残っていて、もう一度同じ展示をみるのなら、その写真を見てみたいと思うのだが、どの写真も逆光気味の、写真コンテストで多く見られるような撮り方で撮られていて、全く違うシーンの写真がほとんど同じ絵柄に見えてしまう点をもったいなく感じた。
 スズメが餌台の上で跳ねるように飛んでいる写真は、逆光で翼が透けて見え、大変に躍動感があるが、巣立ったばかりの雛が親から餌をもらっている写真や二匹の雛が仲良く並んでいる写真は逆光気味の光で撮るのではなく、やさしい光で、スズメの子供のあどけない表情を分かりやすく見せてもらいたいような気がした。
 逆光気味の光で撮ると、スズメの表情は影になり分かりにくくなる。だが、もしも、表情が分かるような光で撮ったなら、スズメにもいろいろな表情があることがわかる。そして、その表情を写真で写しとめようとするならば、それが大変に難しいことを痛感するし、時に、飛んでいるスズメを写しとめた写真よりも、止っているスズメの表情を写しとめた写真の方が、瞬間という言葉がふさわしいことに気付かされる。
 恐らく、その方には色々なスズメの表情が見えているから、スズメばかりたくさん撮影しているのではなかろうか?僕はそれを、その方の写真の中で見てみたいと思った。
   

09月06日(金)

 僕の知人に、
「私は、人と同じが嫌なのです」
 と、いつも主張する人がいる。ところが、その方と話していると、話の随所に、人と同じでありたいという思いが無意識のうちに滲み出ていたりするから面白い。
 人と同じでありたいという思いと、人と同じが嫌だという思いとは、一見正反対のように感じられるが、よく考えてみると、共に、人を大変に意識している点でよく似ているし、共に、人と自分とを比較して、その比較の結果、自分がどう振舞うかを決めている点で共通点がある。人と同じでありたいと、人と同じが嫌とは、もしかしたら、根が同じなのかもしれない。
 僕は、極端にマイペースな性格なので、時に人と全く違った行動をとることも少なくないし、中にはそんな僕を、「人と同じが嫌な人間」だと思い込んでいる人もいるが、僕は、人と同じが嫌なわけではない。人と同じでありたいとか、人と同じが嫌だなどと人との比較で自分の振る舞いを決めるのではなく、自分の心の底から素直にでてくる感じ方を大切にしたい。それが人と同じでも、人と違っても、僕は全く構わない。
 同様の内容を8月4日の撮影メモの中にも書いたが、その時は、僕は個性的になりたいのではなく、個性を大切にしたいのだという表現を用いた。
 時に、マイペースな僕を見て、
「私も人と同じが嫌なのですよ」
 と、声をかけてくださる人がいる。
 その方にとって、マイペースであることと、人と同じが嫌なのは同類なのかもしれないが、僕にとっては、方や人を気にしておらず、方や人を大変に気にしている点で全く違うし、むしろ正反対のことである。
   

09月05日(木)

 ここ3年くらい、僕は、身近な小動物の撮影に力を入れてきたが、これから3年くらいは、何か特定の生き物を徹底して撮るのではなく、いろいろな種類の生き物を撮影してみようと考えている。先日から、そのための下準備として、水辺に住んでいる生き物の名前をリストアップして、何から順番に撮影を進めるのかを考えているが、水辺というテーマで括ろうとすると、そこに住んでいる生き物の種類は莫大な数になる。
 具体的には、水辺の鳥、カメなどの爬虫類、カエルなどの両生類、淡水魚、昆虫、エビやカニ、植物、プランクトン・・・といったところになるのだろうが、そのうちの幾つかに関しては手掛かりがあるから、そこから地道に撮っていこうと思う。
 淡水魚に関しては、調査に携わっている知人がいるので、普通に河川に見られる種類に関しては、比較的短期間で撮影できるに違いないし、プランクトンに関しては、水質調査に携わる友人に、後日、いろいろと尋ねてみようと考えている。顕微鏡写真の撮り方も教わることがあるかもしれない。
 鳥は、ずっと以前から好きだったし、たくさん撮影をしてきたら、一番取っ付き易いが、特に他の小動物が不活発になる冬の間は、鳥をたくさん撮影しようかと思う。
 昆虫は、僕の師匠である昆虫写真の海野先生には敵わないという思いがあり、ずっと敬遠してきた被写体だが、水辺の昆虫に関しては、これからは積極的にシャッターを押していくつもりだ。
 その中で、何か特に強くひかれる被写体に出会えば、それを今度は徹底して撮影してもいいし、とにかく、的を絞って撮るのではなく、自分の興味の幅を広げていくような撮り方をしてみたい。
   

09月04日(水)

 今日は、完全休養を取った。昨日、来年度に向けて準備していた計画を一度すべて壊し、新しい計画をたて直す予定だと書いたが、その前に一度頭を空っぽにし、それから体も休めた方がいいだろうと、一日ほとんど何もせずに過ごした。
 飼育している撮影モデル用の生き物の世話をしたり、貸し出していて返却されてきたフィルムの整理をしたり、貯めこんでいたメールの返信を書いたり、故障している撮影機材を修理するために宅配を出したり・・・、事務的な仕事を多少こなしたが、それ以外は、昼寝をして過ごした。
 人によって違うのだろうけど、僕の場合、一度フィールドに出て撮影を始めると次々と撮りたいものや見たいものが見つかり、忙しくなるから、上京と写真展の開催とでフィールドでの撮影が途切れているこの時期にあと2〜3日休養を取っておこうと考えている。
  

09月02〜03日(月〜火)

 この2月に北海道で撮影をした際、屈斜路湖のほとりの小さな温泉で水越武さんという写真家を見かけた。水越さんは山岳写真の第一人者で、かつては「山と渓谷」という雑誌に頻繁に写真が掲載されていたが、僕の父が山登りが好きで、うちにその「山と渓谷」がたくさん置いてあったため、なんだか親しみを感じる写真家の一人だ。
 その水越さんが、「私は作品主義なんです」と何かの誌面に書いているのを、まだ学生時代に読んだことがあるが、当時の僕には、そこに書いてある作品主義という言葉の意味がわからなかった。
 写真家が撮影する写真には、その写真家が仕事として撮るものと、仕事を抜きにして好きだから撮るものとがあり、後者を作品と呼ぶのだが、水越さんは撮りたくないものは撮らないという哲学の持ち主で、それを作品主義という言葉で表わしたのだと思う。
 僕は、写真家は全員水越さんのようにして生きていると思い込んでいたから、「作品主義って、当たり前じゃないの?」と思ったのだが、プロの世界は大変に厳しく、水越さんのような人は例外中の例外で、大半の人は、多少なりとも妥協をして写真を撮っている。僕もそうだから、今は作品主義という言葉の意味がよくわかる。
 例えば、カエルの写真の中では、きれいで、身近で、可愛らしいアマガエルの写真が良く売れる。アマガエルの写真の中でも、アジサイとの組み合わせや、雨との組み合わせなど、絵になる写真はさらに人気があり、そこで仕事をしたいと思うのであれば、そういった人気があるシーンの写真を撮らなければならない。
 これまでの僕は、そういった人気があるシーンを徹底的に撮影をしてきたのだから、言うならば「作品主義」と180度逆の撮り方をしてきたのだが、来年度はあまり人気のないカエルや、アマガエルの写真でも、良く知られていない性質を紹介する写真を中心に撮ってみようと考えている。僕は、売れる写真は好き嫌いに関わらず、一通り撮るつもりだ。だが、いつまでも同じような写真ばかり撮るのではなく、先へ進まなければならない。

 僕は、ほぼ一年先まで計画をたてて撮影をしている。もう秋になり、水辺の小動物の撮影はシーズンをほぼ終えた段階なので、来年度の計画はすでに準備をされているが、これまでの惰性で、売れそうなシーンの撮影計画ばかりが,そこに書き込まれている。今週は、それをもう一度考え直し、全く新しい撮影計画をたてるつもりだ。
  

09月01日(日)

 今日は、山田緑地での写真展の最終日だが、無事、全日程を終えることができた。写真展を開催していつもむずかしいなと思うのは、写真の評価は、僕がどう撮るかということよりも、そこに写っている被写体が見る人の好みかどうかに大きく左右される点だ。
 例えば、僕の知人で古くから一生懸命写真を撮っておられる方が、今回の展示を見て、
「武田君の写真は、すごく好きな写真と、とても嫌いな写真とがあるな〜」
 とおっしゃったので、どの写真が好きで、どの写真が嫌いな写真なのかをたずねてみたところ、
「このヒキガエルの写真や、以前の写真展で展示されていたミミズの写真はどうも好きになれないな。水辺の花の写真や鳥の写真はとても好きですね」
 と具体的に説明をしてくださった。
 どんなに技術や着眼がすぐれた写真でも、そこに写っている被写体が見る人の好みでなければなかなか評価されないし、たとえ技術的にお粗末な写真でも、被写体が見る人の好みであれば評価されやすい。写真展を開催すると、いつもそんなことを痛感する。

 写真は、
「一場所、二物、三技術」
 と言う人がいる。
 一場所とは、いい場所にいる人が一番いい写真を撮れるという意味だが、もっと広く解釈すると、場所に限らず被写体に恵まれた人が評価されるという意味である。機材や腕は、二番目、三番目に大切なことであり、写真の評価は、何よりも被写体で決まるということを表わす言葉だが、この言葉は大筋で正しい。
  
 
 
自然写真家・武田晋一のHP「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影メモ 2002年9月

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2001/05/26