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撮影メモ

日々の撮影活動を紹介します。 バックナンバーへ

06月30日(日)

 雨の渓谷を撮影した。場所は、昨日に引き続き大分県で、由布川渓谷という谷だ。
 この谷は、渓谷全体が大きな一枚岩でできているようなイメージで、その岩のくぼみを水が流れていると考えてもらえればいい。
 岩のくぼみといっても、数センチや数メーターといった規模ではない。数十メーターの深さがあるくぼみなので、くぼみという言葉はふさわしくないかもしれない。
 昨晩からの雨で増水をして、荒れ狂う渓谷のイメージを撮影したかったが、雨は、予報とは異なり、大した降り方ではなかった。荒れ狂う渓谷とは程遠いイメージだが、とにかく、午前中いっぱい谷に下り撮影を続けた。

 野外で撮影するカメラマンの腕前は、その人の機材の収納の仕方を見れば、ある程度わかる。
 僕は、初めて沖縄で撮影をした際に、写真家の湊和雄さんに案内をしてもらったが、湊さんの機材は、撮影目的ごとによく整理され、車の中に積み込まれていて、どんな生き物が出現しても即座に対応できる準備がなされていたことに、心底、プロの凄みを感じた。
 沖縄から帰ってすぐに、湊さんのまねをして、あらゆる状況に対応できるように機材の収納を考え直したし、日頃、よく使う機材は一まとめにして、背中に背負うタイプのカメラバックに収めた。
 そのバックをひょいと背負いさえすれば、一般的な被写体にはすべて対応できるようにして、撮影中に、「あ、あのレンズが欲しい」などと、車に取りに返る二度手間が絶対に起きないように、余裕がある時から気を付けている。
 そして、時々、湊さんの顔を思い出し、少なくとも準備の段階で湊さんに負けていないかどうかを確認をするようにしている。
 機材の収納を考える際に、雨や雪の中で撮影をすることも想定して、ザックカバーや傘や三脚に傘を取り付けるアクセサリーなども詰め込んだし、日頃から雨の中での撮影を十分に想定して準備をしているつもりなのだが、それでも雨の中で3〜4時間撮影をすると、びしょ濡れになり限界がくる。
 今日も、わずか3時間程度、沢を歩いただけだが、機材や機材を収めたカメラバックはびしょ濡れで、車の中にすべて広げて、一度完全に乾かさなければ、外に持ち出してもすぐにレンズが曇ってしまい、撮影どころではない状況に陥った。もう少し、よく考えて、いい方法を編み出したい。
   

06月29日(土)

 写真はどこか料理に似ているような気がする。料理が美味しいと感じられるときに、料理人の腕がいいから美味しい場合と、料理人の技術は別にして、素材がいいから美味しい場合とがある。
 どんなに上手い料理人でも、肉が大嫌いな人に、肉料理を「美味しい」と言わせることはむずかしいし、それほどに腕が良くなくても、肉が死ぬほど好きな人に肉料理を出せば、「美味しい、美味しい」と言って、食べてくれるだろう。
 写真もまったく同じで、いい写真だなと感じるときに、撮影者の技術がすぐれている場合と、写真に写った被写体に魅力がある場合とがある。どんなに上手いカメラマンでも、虫が大嫌いな人に、虫の写真を見てもらうことはむずかしいし、カメラマンの腕は大したことがなくても、カワセミが大好きな人に、カワセミの写真を見てもらうことは易しい。

 五月に大分県で滝の撮影をしたが、今日は、同じ滝を、また撮影してみることにした。
 前回撮影した写真が、気に入らないわけではないが、何だかもう少し写真に色気が欲しいような気がして、もう一度だけ撮影してみることにした。
 前回撮影した写真に足りない何かが、具体的に何なのか、今のところ僕にはわからない。
 僕の技術が悪かったからかもしれないし、その時の気象条件が悪かったからかもしれないし、その滝がそもそも、僕のイメージ通りに写るはずがない滝なのかもしれない。
 料理で言うなら、まずいと言われた時に、料理人の腕が悪いからかもしれないし、素材のコンディションが悪かったからかもしれないし、食べる人がその素材が嫌いだったからかもしれない、といった感じになるのだろうか。
 僕の腕が悪いかったのなら腕を磨けばいい。気象条件が悪かったのなら、別の日に何度も何度も足を運べばいい。被写体が、僕のイメージに答えられるような被写体ではなかったのなら、別の被写体を探すしかないのだが、なぜ写真が良くないのか、その原因を付き止めることは、とても大切なことだ。その原因によって、対処の仕方は全く違ったものになるからだ。

 経験はないが、本当に心を込めて料理をしている料理人と話をする機会があったなら、写真と料理とはまったくジャンルが違うが、お互いによく分かり合えるような気がする。いや、言葉を使って話をすることさえ不要で、無言のうちに分かり合えるような気がするし、どんなに写真の経験者でも、雑に、ただ適当に日々の生活を送っている人とは、言葉を交わしても、全く分かり合うことができない。
   

06月28日(金)

 今晩から、水辺の撮影にでかける。場所は、大分県の湯布院の周辺で、今回は、渓谷や滝の撮影をする予定だ。ただ、ずっと雨が降っていないから、水量が乏しいかもしれないが、これから数日は、雨が降る予定になっているので、その雨に期待するしかない。
 出発の前には、飼育している生き物たちの世話をしなければならない。さすがに気温が上がってきたので、カタツムリやカメや魚たちの活性が高く、餌の要求量も多いし、餌が痛むのも早い。せいぜい3〜4日くらいしか放っておけないから辛い。
 カタツムリやアマガエルやザリガニやメダカの写真は特に需要が多いし、これから2〜3年、とにかく集中して撮影をして、一般的にニーズがあるシーンをすべて撮影しつくして、
「本でも図鑑でも広告でも何でも来い!」
と言えるところまで写真をそろえる予定なので、その間は辛抱しなければならない。
 最近考えていることと言えば、2月に北海道で野鳥の撮影をしたときのことで、
「また行きたいな〜。野鳥撮影用にレンズを一本買おうかな?屈斜路湖でゆっくり時間をかけてハクチョウを撮影したいな〜」
などと、ついつい考え込んでしまう。冬の間は飼育している生き物たちが冬眠してしまうので、世話のことを一切考えずに、野外での撮影に集中することができるからいい。次の冬は、また北海道に行こう。
   

06月27日(木)

 先日、ちょっとした用事で、母方の伯父に会う機会があったが、
「結婚して、子供を作りなさい」
という話になった。
 僕の母方の宮原家には、ごく普通の感覚の持ち主が多いのに対して、父方の武田の周辺にはとにかく変わり者が多い。武田家では、何かに一生懸命打ち込んでさえいれば、それを何よりも良しとする空気がある。「結婚して子供」といった話にはなりにくいし、武田家の中で育ってきた僕には、それが当たり前なのだが、母方の伯父の話を聞いていると、伯父の話の方が普通の感覚であり、武田が変わり者の血筋であることを改めて感じた。
 結婚はともかく、僕は、子供向けの本に提供するための写真も撮っているが、子供が好きというわけではないし、どちらかというと、嫌いな方に入るのかもしれない。
「子供はいなくてもいいかな〜」と思うのだが、正確に言うと、子供が嫌いというよりも、すぐに、子供、子供と口にする女性があまり好みではない。

「子供達のために自然を残してあげたい」
 という大人は多いが、僕は、そんな言葉に違和感を感じる。なぜなら、それは、「子供は自然を望む」という大前提の上に語られた言葉だからだ。
 でも、その子供が、もしかしたら自然よりも娯楽施設や経済発展の方を望むかもしれないし、そもそも、今、自然を壊して人工物で塗り固めることを推し進めている大人達も、かつては、子供だったわけだし、国会議員でも、開発を推し進めようとするのは、むしろ自然の中で育ったはずの地方議員だ。子供が将来何を望むのか、本当に自然を望むのかどうかは、誰にもわからないし、
「子供達のために自然を残してあげたい」
 というが、自然を残したいと望んでいあるのは、子供ではなくて、その言葉を発している大人でないだろうか?
「子供のために」ではなく、
「私が自然の中で暮らしたい」
 と、私の思いを、なぜ主張しないのだろう?僕は、自分の意見を、自分の意見として、はっきりと伝える姿を見せることこそが、大人が子供にしてあげられることだと思う。
「子供達のために自然を残してあげたい」
 という言葉は、子供の意見を代弁する振りをして、自分の夢や思いを語っているような気がする。すぐに、「子供、子供」と言い出す大人には、そんな卑怯さを感じる。
 子供が自然と接する機会を大人が提供することは、大切なことだと思う。でも、その時に子供がどう感じるかまでは、大人が決めてはならないような気がする。自然が嫌いで、人間社会が大好きという子供がいてもいいし、自然が大好きという子供がいてもいい。
 ただ、大人は、「子供は・・・」ではなくて、「私は・・・」と主張してほしい。
  

06月25〜26日(火〜水)

 ここのところ、撮影の調子が悪い。どうしても気分が乗らずに、写真を撮ることが億劫で、とにかく気だるくて無気力になる。
 ところが不思議なもので、そんな日の中に、集中して写真が撮れる日がポツンと紛れ込むことがある。昨日は、まさにそんな時間で、アジサイとカタツムリの組み合わせでスタジオ撮影をしたが、最近になく穏かな気持ちで撮影ができた。
 その撮影は、具体的に見本にする写真までメールで送ってもらい依頼されていた撮影だったから、
「撮らなければ」
 と、気がかりだったのだが、気分が乗らずに先送りにしていた撮影だ。九州では、もうアジサイが咲いている場所はほとんどない。
「急がなければ」
 と、気が急く反面、無気力症候群が重症で、何でもない撮影に苦しんでいた。

 昨日は、一旦撮影を始めると、今度は不思議なくらい心の中が静かで、何一つもがくことなく、撮影が進んだ。「アジサイの花の形が良く、きれいであること」という条件付きの依頼だったが、アジサイの花の塊中から、そんな場所がパッと目に飛び込んでくるし、カタツムリを止らせてみると、それがなかなか様になる。
 ただ花が綺麗に見える角度ならたくさんあるが、カタツムリを止まらせるのに適した形の花は、それほどに多くない。花の上にのせるカタツムリの重さを考えて、どの程度、花が垂れ下がるかを考慮しなければならないし、カタツムリの全身が隠れないで見えるような形をした花を探さなければならない。
 いつもは、花をすみからすみまで何度も見つめて、時間をかけていい花探しをするのだが、昨晩は、それがとても呆気ない。

 そこまで無気力になってしまうのは、多分、写真の撮り過ぎなのだとは思う。計画の段階では、そうならないように、多少のゆとりを持たせているのだが、思うようにはことが進まない撮影があるし、何度も撮り直しをしているうちに、スケジュールが過密になり過ぎてしまうのだが、僕のような修行の身には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
 ノーベル科学賞を受賞した野依先生が、テレビで、
「若いうちには、ゆとりなんていらない」
 と、おっしゃっていたが、僕もその通りだと思う。
 後になって考えてみると、ギリギリの状況の中で、体を動かして身に付けた技術以外は、それほどには役に立っていないような気がする。
  

06月24日(月)

 今日は、朝から雨が降っている。入梅とは名ばかりで、連日晴れの毎日だったが、ようやく、梅雨の気配が感じられるようになってきた。今年の梅雨は、雨の写真を、それなりにまとまった枚数、撮影したいと考えている。
 実は、昨年から何度も雨の撮影にチャレンジしているのだが、雨の撮影は本当に難しくて、全くと言っていいほど写真が撮れていない。
 ただ、何となく要領はわかってきた。これまでは、日頃から雨を撮影できそうな場所を考えておき、雨が降り出してからその場所で撮影を試みていたのだが、今日は、何も決めずに適当に車を走らせ、実際に降っている雨を見ながら撮影場所を決めた。そして、デジカメでスナップを撮る時のように、次々と場所をかえ、考えすぎずに写真を撮った。
 この方法は、なかなか有効で、今日は、雨が撮れているような気がする。
 気のせいだったりして・・・?
 
今月の水辺を更新しました。
  

06月22〜23日(土〜日)

 川口孝さん

 僕が所属するSSP(日本自然科学写真協会)の川口さんが出品している写真展を見にいった。
 長崎在住の7人の作品を一同に集めた展示だったが、テーマはそれぞれ様々で、文化を捉えた作品もあれば自然もある。それがとても面白く感じられた。
 僕は、生き物に興味はあるが、写真にはそれほどに興味がない。だから、自然写真以外の写真に、日頃、ほどんど接する機会もないし、正直に言うと、その良し悪しもあまりわからない。が、とにかく、川口さんをはじめ、7人の方の展示を楽しませてもらうことができた。ありがとうございました。

 ある写真を見て、その写真を「いいな」と感じることと、その写真の良し悪しがわかることとは、別のことだと、僕は思う。
「いいな」と感じるかどうかは、人の好みの問題である。それがとても個人的な意見であるのに対して、写真の良し悪しとは、好みなどという個人的な思いを排除した客観的な写真の評価である。
 例えば、蛇が嫌いな人は、蛇の写真を見ると嫌悪感を感じるに違いないが、それは、その人の個人的な好みの問題であり、写真の良し悪しの問題ではない。そこのところを、ごちゃ混ぜにしている人は、とても多い。
 以前に、僕が紹介した写真展を見に行った方から、
「あまり写真が良くない。異様な写真に感じられた」
 と、感想を聞かされたことがある。その写真展に展示されていた写真は、技術的には最高レベルのものだったから、きっと、被写体や作風がその方の好みではなかったのだろう。
「写真には、良し悪しの前に見る人の好みがあり、写っている被写体が、好みではなかったのかもしれませんね。一般的には、とてもいい写真ですよ」
 と、その方に伝えたのだが、
「いや、そうでしょうか。何か良くない。まわりの人に聞いても、同じ感想でした」
 と言い張られ、僕は閉口した。
 要するに、その方の個人的な好みと、客観的な写真の評価との区別がついていないのだ。
「写真が良くない」
 ではなく、
「私の好みではない」
 と、自分の好みを、個人的な好みの話として堂々と語ればいいのにと僕は思う。なぜ評論家のように、写真の一般的な善し悪しを論じなければならないのだろうか。まるで、写真のことをわからなければならないかのように。僕は、その発想の窮屈さに、写真展を案内したことを後悔した。
「あなたの写真、上手いですね」
 と、誉めてもらっても、僕はあまり嬉しくない。それが、プロの世界でしのぎをけずる仲間や、アマチュアであっても、それにすべてを打ち込んでいる人の言葉なら話は別だが、上手いかどうかなんて、同じ物を撮ってみなければ、なかなかわかるものではない。そんな評論家のような言葉よりも、
「あなたの写真好きだな」
 という、無理をしない、ごく自然な言葉が僕は好きだ。
  

06月20〜21日(木〜金)

 今日は、ここのところ欲しいなと感じている「物」について書いてみようと思う。
 まずは、645版用の300ミリレンズが欲しい。
 645版はカメラやレンズが大きくて重たいので、35ミリ版よりも持ち歩くレンズの本数を絞らなければならない。特に、ただでさえ大きくて重たい望遠レンズを645版で使用するのは、とても疲れるのだが、ペンタックから発売された300ミリ(f5.6)レンズは、とてもコンパクトで軽い。十分に持ち歩けるサイズなので、是非手に入れたいと考えているが16〜7万円はするだろうし、よく考えて買わなければならない。
 それから、ブロニカかハッセルのレンズシャッターのシステムが欲しい。
 現在発売されている大部分のカメラのシャッターはフォーカルプレーンシャッターだが、シャッターを押してから実際にシャッターが切れるまでに時間がかかるという欠点がある。だから、赤外線センサーを利用してカエルがジャンプしたり、水に飛び込む瞬間を撮影しようとしても、フォーカルプレーンシャッターのカメラだと、カエルがセンサーの場所を通過し、センサーからカメラにシャッターを切るように命令が送られ、実際にシャッターが切れるまでに結構な間があるし、その間にカエルがかなり距離移動してしまう。レンズシャッターのブロニカやハッセルだと、その点、とても反応が早いため全く問題がない。
 ただ、ハッセルは世界の超一流品であり、僕にはふさわしくないので、ブロニカがいいな〜などと考えている。ブロニカは別名「ボロニカ」と呼ばれるほどボロっちいらしいが、センサーを使用するような場合にのみ使うわけだし、それでいいような気がする。カメラ自体は、10万円以下で買えるだろうし、ブロニカなら結構安い。
 それから、ニコンの14ミリレンズは、いつか手に入れたいと考えている。
 現在は、シグマから発売されている14ミリレンズを水中撮影に使用しているが、逆光時にゴーストやフレアーがとにかくひどい。ニコンの14ミリは、その点、ずっと優れていると聞いているし、キャノンの14ミリほど値段も高くない。
 それから、超音波モーターを内蔵した、ニコンの500ミリレンズが欲しい。
こちらは、定価で100万円近くするので尋常ではないが、最新のオートフォーカスは飛んでいる鳥の撮影に十分通用するし、いずれ手に入れようと考えている。ただ、ニコンの500ミリレンズには、手ぶれ防止機構が組み込まれていない。ライバルのキャノンが、大口径の超望遠レンズすべてに手ぶれ防止機構を採用しているのだから、ニコンもそのうちに手ぶれ防止付き500ミリを発売するだろうし、それまで待った方が賢明だろう。
 それまで待って、中古市場にあふれた古いタイプの500ミリを安く買うという手もあるし、さっそく最新のものを買うという手もあるが、何となく前者を選択することになるような気がしている。80〜200ミリのズームに関しても同じで、もうしばらくすると、ニコンから手ぶれ防止付きのレンズが発売されるが、そのレンズが発売され、中古市場に古いタイプの80〜200ミリがあふれ値段がグッと下がったところで、超音波モーター内蔵のレンズを買う予定だ。
 35ミリ版は、キャノンに総換えしたい気持ちもある。が、ペンタックスの645版とのコンビという点で考えるとニコンの方が相性がいい。ニコンとペンタックスのレンズは、カメラをもってピントリングを時計まわりに回すとピントが無限遠に近づく。キャノンはその逆なので、ペンタックとの相性が悪い。

 今日は、カタツムリが糞をするようすを撮影した。
 昨年もこのシーンにはトライしたのだが、いつ糞をするかわからないし、ただでさえセッカチな僕は、どうしても待ちきれず撮影することができなかった。
 今年になって、飼育をしているカタツムリたちを眺めていると、もうしばらくすると糞をする個体が見分けられるようになった。そんなカタツムリを葉っぱや木の枝の上にとまらせておき、しばらく待っているとカメラの前で糞をしてくれる。

写真展を案内します(僕が所属するSSPの川口孝さんも出品されています)
遥々会写真展-福岡展-
場所・福岡市美術館
2002年6月18日〜23日
午前9:30〜午後5:30まで
  

06月18〜19日(火〜水)

 アマガエルの卵の撮影には、キャノンの65ミリマクロレンズを使用している。このレンズは、だいたい1ミリくらいの被写体まで撮影することができるので、小動物の卵の撮影にはとても重宝している。
 僕がメインに使用しているニコンには、このレンズに匹敵レンズがない。仕方なくキャノンを買ったのだが、キャノンにもそれなりに慣れ、使い始めた当初に感じていた違和感も最近では感じなくなった。
 メダカの成魚など、もう少し大きな被写体は、100ミリクラスのマクロレンズで撮影している。このクラスのレンズは、ニコンからもキャノンからも発売されていて、いずれも所有しているのだが、キャノンに慣れたこともあり、最近は、こちらもキャノンの使用頻度が高くなってきた。
 ニコンの道具は、どちらかと言うと自動化を控え、カメラマンの意思を尊重した使い勝手になっているのに対して、キャノンの方は、どんどん自動化していこうという意思が道具の中に見え隠れする。その自動化が、多少いかがわしくも感じられたりするのだが、その分キャノンの方が気軽にシャッターを押せるような気がする。
 ニコンを使うと、「撮るぞ!」となってしまうところを、キャノンだと「まあ、撮っとくか」といった感じになり、楽に写真が撮れる点が気に入ってきた。たくさん写真を撮る者にとって、楽にシャッターが押せるということは、とても大切なことだ。
 それが気に入るかどうかは、人の好みの問題であり、良し悪しの問題ではないのだが、65ミリマクロレンズを使い込むにつれて、キャノンユーザーの気持ちが、多少分かるような気がしてきた。

写真展を案内します(僕が所属するSSPの川口孝さんも出品されています)
遥々会写真展-福岡展-
場所・福岡市美術館
2002年6月18日〜23日
午前9:30〜午後5:30まで
  

06月17日(月)

 以前に、東京で「沢の流れの物語」という写真展を開催した際に、先輩のMさんから、
「武田さんは、生物学の専門知識を持っているのに、風景的な、絵的な生き物の写真も撮るから、とても柔軟ですね。驚きました」
 と、言われてドキッとしたことがある。
「そうか!そういう風に人の目に映るんだ。僕には、そんな特徴があるんだ」
 と 、先輩の一言から教えられたし、自然科学に対する憧れや敬意を持ちつつ、そうでない詩人としての自分も大切にしていこうと、その時に思った。
 科学の目と詩人の目とは、ある部分、180度逆の物の見方であるから、両立させるためには、それなりの気持ちの整理が大切だと思う。うまく気持ちを切り替えて、目の前にある被写体に対して、科学の目でカメラを構えるのか、詩人の目でカメラを構えるのか、はっきりとさせ、両者を明確に撮り分けるように心がけている。
 写真には、「こう撮ればいい」という決まりはない。見る人に何を伝えたいのかによって、正しい撮り方は変わってくる。例えば、図鑑に使用するために鳥の写真を撮るのであれば、鳥の特徴がよくわかるように撮らなければならない。シジュウカラであれば、胸のネクタイ模様の太さでオス、メスが区別されるのだから、その模様が良く見えるように撮らなければならない。
 しかし、もしも絵としてシジュウカラの写真を撮りたいのであれば、鳥はシルエットになってもいいし、胸のネクタイ模様にこだわる必要はないし、それよりも画面構成や光の条件にこだわらなければならない。
 いつ、どこで、誰に対して、何を見せたいか、つまりカメラマンの意思が何よりも大切だし、 その意思を持たずにどれだけ写真を撮っても、永久に写真が上達することはないように思う。
 たとえ、30年写真を撮り続けても、それなりの心持で撮っていなければ、「ど素人」である。
 「そんな馬鹿な」と思う人がいたならば、車の運転について考えてみるといい。何十年運転しても、普通の人は、プロ級はおろか、そんなに運転が上手くなるものではない。

 徹夜でアマガエルの卵を撮影している。生物学の学生時代に勉強したままの現象が、カメラのファインダーの中で繰り広げられている。
 アマガエルが卵を産んだのは、昨晩の2〜3時くらいの時間帯で、産み落とされたばかりの受精卵は30分後に2細胞と呼ばれる段階に、さらに、ほぼ10分ごとに4細胞、8細胞、16細胞、桑実胚と成長を続けて、その後は、胞胚、のう胚という段階を経て、ちょうど今、尾芽胚という尾っぽができるところまで成長が進んでいる。

写真展を案内します(僕が所属するSSPの川口孝さんも出品されています)
遥々会写真展-福岡展-
場所・福岡市美術館
2002年6月18日〜23日
午前9:30〜午後5:30まで
  
 

06月16日(日)

 昨晩、東京から帰宅をすると、今週の頭に現像に出した分のフィルムが届けられていた。結果は、かなり悪くて、半分くらいのフィルムは、丸ごとボツという感じだった。
 まずは、蛍だが、ワイドレンズを使用して、蛍と一緒に夜空を写しこんでみたものの、蛍の光が米粒のように小さく写ってしまい、まるでフィルムにほこりでもくっ付いているように見える。完全な失敗だった。
 そしてアマガエルの卵だが、フィルムの中に、妙な光の反射が写り込んでしまった。また、カタツムリの写真に関しては、フィルムが悪かったようで、かなり色が青っぽい。
 蛍と星空の写真は、僕の遊びで撮影したものだったので、また作戦を練り直して来年撮影すればいいとして、アマガエルの卵の写真とカタツムリの写真は撮り直しをしなければならない。特に、アマガエルの卵は、もうしばらくすると、産卵のピークを過ぎてしまうため入手が難しくなる。
 さっそく、夜の田んぼに交尾中のカエルを採集にでかけたが、今日は、とても成績がよくて、ほんの数分で数つがいのアマガエルを確保できた。
 今、そのカエルが産卵をするのを待っているが、明日の朝まで、数分刻みで撮影をしていく予定だ。

写真展を案内します(僕が所属するSSPの川口孝さんも出品されています)
遥々会写真展-福岡展-
場所・福岡市美術館
2002年6月18日〜23日
午前9:30〜午後5:30まで
  

06月15日(土)

 学生時代に初めて昆虫写真家の海野先生をたずねて以来、僕は、先生にとても多くのことを教えてもらっている。
 海野先生は、あくの強い写真を撮る人だし、いつも新しいことをしようと目を輝かせていて、時には奇抜に感じられるようなこともする人なので、個性の強い人だという印象をもっている写真ファン・昆虫ファンは多いことだろう。
 確かに、海野先生を写真家として見た時にはその通りなのだが、実業家としては、とても常識的で、良識のある人だと、僕は感じている。写真の世界で生きていくためには、すぐれた実業家でもなければならないから、僕は実業家としての海野先生に教わることがとても多い。
 教わった分は、海野先生の力になり、お返しがしたいと思うのだが、残念ながら僕にはそれができない。力になるというのは、力のある者が、そうでない人に対してすることである。僕と海野先生との力の差は、あまりに歴然としていて、僕には、海野先生の力になれるほどの力量がない。
 ただ、代わりにできることはあるように思う。海野先生に僕がお世話になった分は、自然写真界に何らかの貢献をしたいと、僕は思っている。
 今日は、海野先生が副会長を勤める「日本自然科学写真協会」の総会に出席した。今年から、この会の評議員に選ばれたので、評議委員会にも出席した。アマミノクロウサギを撮影した浜田太さんや、青森の江川正幸さんや、アマチュアだけどめっぽう上手い林明輝さんなどと、初対面を果たすことができた。
 また、水中写真の機材に関して、
「改造等、詳しい人を紹介しますよ」
 と、ネイチャープロダクションの坂本陽平さんから、声をかけてもらった。ありがたいことだし、やはり嬉しい。
「SSP(日本自然科学写真協会)」は、科学と写真とを結び付け、写真を通して、自然現象の不思議・面白さを伝えることを目的としている。だから、美しい写真や、人を癒す写真を撮ることは、その目的ではない。
 もしも、そんな趣旨に賛同される方がおられるのなら、是非、僕に一声かけてほしい。特に、九州には人が少ないので、大歓迎だ。もちろん、九州でなくても歓迎する。
 「SSP」には、プロもアマチュアもいるが、アマチュアの人にとって、この会がどれだけ役に立つのかはわからない。年会費が一万円必要だから、
「それだけの値打ちがあるか?」
 と言われると、人それぞれだろうけど、色々な撮影技術をもった人がいるし、そんなネットワークを持っておくことは悪くないような気もする。
 また、組織的な活動によって、自然写真の世界をより多くの人に理解してもらうのは、個人の損得を越えて、意味のあることだと思う。

写真展を案内します(僕が所属するSSPの川口孝さんも出品されています)
遥々会写真展-福岡展-
場所・福岡市美術館
2002年6月18日〜23日
午前9:30〜午後5:30まで
  

06月13〜14日(木〜金)

 僕は、この日記の中で、写真や自然以外のことをあまり書かないが、他のことに対して興味がないわけではない。多分、大部分の人よりも断然に興味を持っている方だと思う。
 芸能ネタも好きだし、アイドルだって好きだし、政治や歴史にも興味があるし、サッカーだって面白い。よくワイドショーをみるし、モーニング娘が選ばれる時のオーディションには熱中したし、テレビ番組の「マネーの虎」が待ち遠しいし、日曜日には田原総一郎さんの「サンデープロジェクト」が見たくなる。NHKの「その時、歴史が動いた」なども面白い。
 ただ、この日記のテーマは、自然と写真なので、あえてそれ以外のことは書かないだけなのだが、中には、僕が恐ろしく偏った生活をしていると思い込んでいる人もいるようだ。時には、僕に対して「一般の人の生活を教えてあげよう」と気を利かせ、日常の生活を綴った日記のようなメールを送ってくださる方もいる。
「一般の人って誰のこと?」
 と問われると多少困るが、おおまかに言って「カメラマンや自然に入れ込んでいる人ではない人」だと思っていただければいい。
 僕が撮った写真を見るのは、写真や自然に入れ込んでいる人よりも、ごく普通に写真や自然に興味を持つ人なのだから、そういった一般の人たちの感じ方をよく理解することはとても大切なことだ。
 ただ、「一般の人の気持ち」は、誰かから教えてもらうものではない。ごく自然な流れの中で、僕が、人から感じ取るものだと思う。
 「私が教えてあげよう」という意識で、誰かの口から言葉が発せられたその瞬間から、それはすでに一般の人の生活を語った言葉ではなく、作られた何かであるような気がする。意識をせずに、自然とにじみ出てくる言葉、態度だからこそ、一般の人の気持ちなのだと僕は思う。
 身近な小動物を撮影する僕にとって、もっとも慌しい季節が終わろうとしている。あとは、雨の日の撮影などを多少残しているが、これからは、あまり仕事を詰め込みすぎず、一つ一つ手間のかかった仕事をしていこうと考えている。
 そのために、気持ちの持ち方を変えるために、今週は、一昨日からほとんど撮影の仕事を入れていない。今日は、ワールドカップの日本戦でも観戦しよう!この夏は、撮影が難しいシーンに、じっくり時間をかけつつ、トライする予定だ。
  

06月12日(水)

 昨日、依頼された講演を断った話を書いた。その講演は、僕の地元の直方市の、行政に関わる市民ボランティアの方が企画してくれた講演だったから、何となく心残りでもある。
 一般市民のボランティアとはいえ、行政に近いところで活動をしておられる方なので、どうしても「お役所的」な所が多くなるし、写真のような結果だけが求められる世界にどっぷりと浸かっている僕には、それがとても手ぬるく感じられるのだが、そうではなく、ボランティアの方に対する僕の要求が高すぎるのかな?という思いもある。
「お役所的」というと、一般的には悪口であるが、僕はそうは思わない。「お役所的」であることのいい点もあれば、悪い点もある。確かに、「仕事をして結果を出す」という気概は、お役所やボランティアの人からは感じられないが、身近に接してみると、おっとりとして、気がやさしくて、くつろげる人が多い。
 また、行政の人が、ひたすらに結果を求めて仕事をすると、多くの市民は息がつまる。例えば、お巡りさんが徹底して細かいところまで違反を取り締まると、息が詰まるような町になってしまうことは、誰の目にも明らかである。もちろん、何事にも限度はあるが、
「まあ、いいじゃないの!」
 という、ゆったりとした空気も、お役所にはまた大切だと思う。
 ただ、僕は、自分の自然写真の仕事に関しては、妥協をしたくない。
 写真を撮ったり、講演をしたり、自然に関わる仕事をするからには、少なくとも日本中で通用するレベルのものを、いつでも志したい。そして、そうでない仕事を、ふるさとだから、田舎だから、地元のボランティアの方だからというコネクションではしたくないと思う。

 自分に世界的な仕事ができるとは思わない。これは、謙遜ではないし、諦めているのでもない。世界的な仕事をする写真家を冷静に見つめた結果である。
 例えば、日本の自然写真家の中で最も高く評価されているのは、間違いなく岩合光昭さんだが、その岩合さんが、
「パリの町をぶらりと散歩をするのが大好きなんです」
 と、ある雑誌に書いているのを読んだことがある。
 もしも、自然写真家が世界的な仕事をすれば、その写真を見るのは、パリ市民やニューヨーク市民やロンドン市民である。そんな先進国の都会の人たちや文化に興味がもてなければ、世界的な仕事などできるはずがないから、この一言はうなずける。
 また、「自然が一番くつろげる」「自然の中で癒されたい」という発想は、人間社会からの一種の逃避でもある。そんな逃げ腰な心では、世界的な仕事などできるはずがないから、「パリの町が好き」という岩合さんの言葉に、ぼくは、一流の人の世界の大きさを垣間見たような気がした。
 岩合さんに限らず、一流の自然写真家には、「自然命」ではない人が多いが、僕にはそうはなれそうもない。これは、努力でどうにかなることでもない。その人が神様から与えられた世界の大きさの違いとしか言いようがない。また世界が大きければ、それがいいとも限らない。僕は、日本中で通用する仕事を、最低限できるようになりたいと思うし、ふるさとというレベルでは写真の仕事をしたくない。
  

06月11日(火)

 自然というと、今真っ先に挙げられる言葉は、「癒し」ではないだろうか?癒しという言葉を、実際に使用するかどうかは別にして、自然というと、大抵の人は、癒しに匹敵する内容の話をする。
 例えば、こんな事があった。一昨年だったか、僕は小さな講演会で話をしたことがある。講演を依頼され、話を引き受けたところ、
「大自然からエネルギーをもらおうというテーマにしました」
 と担当の方から連絡をいただいた。僕は、講演で話すつもりだった内容に関して、まだ、ほとんど何も伝えていなかったのだから、相手方の頭の中に、「きっとこんな話をするに違いない」というイメージが、先に出来あがっていて、そのイメージに僕を当てはめたのだと思う。
 先方のイメージは、エネルギーを与えてくれる大自然なのだから、大雑把にいうと、人を癒してくれる自然である。癒しという言葉は使用していないが、聴衆を癒すような何かを、僕の話や自然に対して期待されたのだろう。
 だが、自然の話しといってもいろいろある。例えば、北九州の住宅街のドブを真夜中に見て回ると、さまざまな生き物達に出会える。数十センチもある雷魚、サザエよりも大きなジャンボタニシ、メダカ、グッピー、フナ、アメリカザリガニ、タナゴ・・・。ドブと、そこに住む生物の写真は決して美しくないし、人はそれで癒されないだろうけど、そんな話もいいなと思う。
 また、恐ろしい自然の猛威についての話などもいい。生き物が、自然の中で死んでいくありさまも、僕は写真の中で伝えたいと思っている。もちろん、癒しとしての自然の話しもいい。
 色々な話ができるのだが、大切なことは、自然=癒しといったお決まりの構図に当てはめるのではなく、いつ、どこで、誰に対して、どんなことを伝えたいのか、それによって話しの内容を考え、自分の思いを良く整理することだと思う。そんな思いを、先方に対して一生懸命伝えたのだが、どうしても理解してもらうことができなかった。

 今年も同じ企画で講演をすることになっていたのだが、また、同じ事が起きた。
 講演の依頼を受け、講演のタイトルを先方に伝えておいたところ、僕の元に講演の計画等が書かれた用紙が送られてきたのだが、僕の講演の内容が先方によって作られて、そこに書かれていたのだ。僕は、具体的な講演の内容に関しては、まだ一切、話をしていない段階だったので、さすがにちょっと驚いた。そんな点を指摘して伝えたのだが、理解してもらえなかったのだろう、返事はなかった。
 理解してもらえないことは、仕方がない。そもそも写真家にはみなこだわりがあり、カメラマンには誰でも気難しいところがある。だから、分からなくてもいいのだが、「分からない」ということから逃げずに、何度でもたずねたり、何らかの対応をすることは大切なことである。似たようなことがいくつか重なり、今回は、持ちかけられた話を蹴ることにした。
 僕にとって写真撮影は、生活費と稼ぐ場であるから、相手の求めるイメージに僕の方が合わせなければならない。自然を美化し過ぎることを内心は嫌だと思っていても、時には、徹底的に自然を美化して写さなければならないこともあるし、そもそも出版物の中で僕の写真が使用される時、大抵の場合「武田晋一」が求められているのではない。例えば、僕のアマガエルの写真が使用されたとしても、武田晋一が写した写真が必要なのではなく、カメラマンは誰でもよくて、アマガエルの写真が必要なのだから、僕の思いなどは、どうでもいいという側面がある。僕のカエルを見た子供は、僕についてではなく、カエルに対して興味をもつのだから。
 だが、講演は違う。僕が面と向かって話をするのだから、僕の思いを貫きたい。それなりに迷ったが、今回は講演をお断りする決断をした。妥協してはならない部分もある。
  

06月10日(月)

 明日から自宅の庭でアマガエルの撮影をする。アマガエルの写真に関しては、今年は、ただ単に売れ筋の写真をたくさん撮るのではなく、一冊の本になるようにまとめながら撮影をする予定だ。具体的には、棚田の風景や、棚田での農作業の写真によって季節を表現しながら、アマガエルの一生を紹介する内容にできれば、と考えている。
 今日は、熊本県から大分県へと山越えをする途中に、イメージ通りの棚田を見つけ、そこで稲の手直しをしている農家の方の作業のようすを取材させてもらった。途中でにわか雨に降られたが、稀に見る明るい状況での雨で、田んぼに落ちる雨の波紋も撮影することができ、なんだか得をした気持ちになれた。
 昨年、かなり雨の撮影にトライしたが、イメージ撮れた写真はほとんどない。雨が降り出してから移動や準備をするのでは、遅すぎるのだ。仮に雨が上手く撮れるとしたら、他の撮影中ににわかに雨に降られた時だと思っていたのだが、今日は、まさにそんな一日になった。
 夜になってからは、明日の午前中、庭で撮影するためのアマガエルを採集しに行ったが、今日は、田んぼにでているカエルの数がとても多い。そこで、アマガエルを人工的に交尾させる方法を試してみたら、3組のつがいが交尾をしたので、産卵をさせ、採卵をして卵の撮影も進めている。
  

06月09日(日)

 昆虫写真家の海野先生は、昆虫撮影のテクニックを紹介した本を数冊出版されていて、僕は学生の頃、そんな本を読んで、写真の勉強した。
 が、人によっては、そういったノーハウを明かさない人もいる。海野先生に匹敵するほど、昆虫をたくさん撮影している人といえば今森光彦さんがいるが、僕は、今森さんが出版物の中で、撮影テクニックに関して細かく触れているのを見たことがない。
 カメラは、元々昆虫を撮るようには、ほとんど作られていない。だから昆虫を撮る人には、カメラに多少の改造を加える人が多い。
 海野先生の本の中には、海野先生のプロフィールを紹介するページがあり、そこには、改造カメラを手にした海野先生の写真が載せられてるが、今森さんの本では、単に今森さんの顔が紹介されているだけで、機材のようすがわかるような写真は載せられていない。多分、今森さんの改造機材が、本の中で紹介されたことは、一度もないのではないだろうか?
 海野先生のように、どんどんテクニックを明かしてくれる人もいるが、大抵の場合、ノーハウは秘伝であり、自分で編み出すものである。
 しかし、時にそんなノーハウを教えてもらえることがある。以前に、先輩カメラマンのMさんから、スタジオ撮影の際のバックの作り方を、さりげなく、僕の誇りを傷つけないように配慮しながら、教えてもらったことがある。僕は、教えていただいたことをとても嬉しく感じたものだが、そのMさんから、今回の蛍の撮影に関しても、ちょっとばかり、気をきかせてもらった。
 この日記の中に、
「蛍の名所には人が多くて撮影しづらいので、人が来ない深夜にでも撮影しようか」
 と、書いていたところ、
「蛍が、一番たくさん飛ぶ時間は日暮れ直後だよ」
 と、メールをいただいたのだ。
 この日記を見て、そうだ、蛍を見に行こうと、考える人がいるかもしれないので念のために書いておくと、ゲンジボタルが一番たくさん光る時間帯は、日暮れからしばらくの間の時間帯である。
 その後、深夜の12時頃と、深夜の3時頃にも、発光のピークがある。ただ、深夜の時間帯に光る蛍の数はやや少なくなるので、もしも鑑賞に行くのなら、日暮れ直後の時間帯をお勧めする。

 生き物の体の中には、時計のような機構があり、すべての生き物はリズムをもって生きている。例えば、人は一日のリズムで生活をしているが、地下室のような場所に閉じ込め、一切時間がわからないようにしても、人は、約24時間のリズムで生活をすることが知られている。
 そんなリズムはサーカディアン(約一日)リズムと呼ばれているが、サーカディアンリズムとは別に、3時間くらいの短いリズムがあることもわかっていて、ウルトラディアンリズムと呼ばれている。
 赤ちゃんが寝起きをする際のリズムは3時間くらいの周期であると言われているし、大人になっても、単純作業をしてみると、3時間くらいの周期で、能率が良くなったり、悪くなったりすることが知られている。
 ゲンジボタルの発光周期も、ちょうど3時間くらいのリズムだから、これもウルトラディアンリズムなのかもしれない。
  

06月08日(土)

棚田

 今日から宮崎県北部で、蛍の撮影をする。その前に、ちょっと棚田の撮影をしようと、福岡県内の田んぼに立ち寄ってみたところ、アマガエルのオタマジャクシがあまりにたくさん泳いでいるので、撮影に夢中になってしまった。
 オタマジャクシと一緒に写し込む稲の大きさ、田んぼの水の量、水面に写った青空の様子など、撮影条件は申し分ない。夕方前には宮崎に到着したいから、12時頃には田んぼを後にしようと思っていたが、結局午後の2時過ぎまで、オタマジャクシを撮影した。
 時間が遅くなったので、宮崎に移動をするのか、それとも、もっと近い場所で蛍を撮影するのか迷ったが、宮崎に移動をすることを決め、夕方の7時頃になんとか到着をすることができた。
 早速、今晩から撮影をしたが、宮崎の蛍の量は圧倒的だ。この量を体験してしまうと、他の場所で撮影する気にはなれない。
 蛍の写真といえば、小川で撮影された写真が多いが、今日おとずれた川は、かなり大きい。その大きな川いっぱいに蛍が飛ぶのだから壮観だ。
 条件も比較的いい。近くに町がないから、空の色が気持ちいい。また、近くには同じような規模の蛍の名所が他に2つあり、見物人も分散される。
 ただ、車のライトの光が、ごくわずかだが、川の周囲を照らすことがある。ほとんど撮影には影響がないレベルだと思うが、ライトの影響を受けないように、気を使わなければならないから、何となく撮影に没頭できないのが、唯一の難点だ。
 また明日、同じ場所で撮影する。明日はワールドカップの試合と重なるから、車がほとんど通らない能性もある。数年に一度のチャンスかもしれない。
  

06月07日(金)

 アマガエルの卵の成長を撮影する予定だったが、思うように卵が採卵できなかった。
 アマガエルの卵は、交尾をして、産み落とされた直後から、分単位で変化していく。6日に生まれた卵は、もうオタマジャクシになっているほどで、その成長は、とても速い。
 だから、その様子を撮影しようと思えば、産みたての卵を手に入れ、すぐに撮影に撮りかかる必要がある。昨日は、田んぼで産卵の瞬間を撮影したが、同じような感じで、今日は撮影スタジオで産卵の瞬間を見張り、卵を手に入れる予定だったが、今回は、うまくいかない。
 いつも思うけど、生き物を知ることは、とても難しい。いくつかの、ノーハウはある。だが、そのノーハウを駆使しても、やはり撮影は難しい。
 アマガエルの交尾や産卵なども、何度も撮影して、手に取るように知っているつもりだが、いざ撮影してみると、必ずむずかしくて、きわどい撮影になる。
 これは、アマガエルに限ったことではない。カタツムリも、メダカも、ザリガニも、定番のシーンでも、決して苦しまずには撮影できない。
  

06月05〜06日(水〜木)

 アマガエルの卵

 4日の夜、田んぼに出かけた際に、水が入ったばかりの田んぼを見つけた。そんな田んぼには、産卵を控えたアマガエルたちが集まってくる。
 5日の夜から6日にかけては、その田んぼにでかけ、アマガエルの産卵の瞬間を撮影した。
 アマガエルは、夜に交尾をして産卵をするから、その様子を撮影するためには、夜更かしをしなければならない。今回の撮影では、カエルが3時頃に産卵を始め、ほとんど徹夜の撮影になったが、撮影そのものはうまくいったように思う。
 産卵の瞬間は、このHPの中の淡水記で、すでに写真を掲載しているが、その写真は、交尾を撮影中に偶然に撮影したものであり、納得できるものではなかった。
 また、同じ撮影は、先月にも試みたが、その時は、交尾をしているアマガエルを見つけることができず、撮影ができなかった。
 そして、今回も、交尾をしているアマガエルを見つけることができなかったのだが、ちょっと工夫をこらし、人工的に交尾させる方法を試みたら、これがうまくいった。
 そのつがいを、田んぼに放し、あとはひたすら産卵の始まりを待った。
 今日は、これからまた別のつがいを使って、今度は、きれいな容器の中に産卵をさせ、その中の1つの卵の成長の様子を撮影する。2日続けて、徹夜のような状況になるが、たまにはそんな日もいいだろう。
  

06月04日(火)

 今朝、水辺に繁茂した藻の中に、アマガエルの卵を見つけた。卵は、かなり成長していて、丸いゼリー状の包みの中で、すでにオタマジャクシの形が整っていた。
 3日くらい前に産み落とされた卵だろう。メダカの稚魚でもいないかな?と探していた最中だった。
 それならば、ということで、夜の田んぼに出かけてみた。
 アマガエルやヌマガエルが、無数に鳴いていて、今日は、その中から一匹のヌマガエルを選び、鳴き顔を、顔の真正面から撮影してみた。
 来週は、蛍の撮影をする予定だ。
 蛍が多い場所は、どこも人が多い。蛍見物で渋滞をする場所さえある。
 それだけ人が多いと、必ずストロボを使用して記念撮影をする人がいるから、蛍の光を写した写真の中に、そんなストロボの光が写しこんでしまい、写真が台無しになってしまうこともある。
 そこで、蛍と人が一番多い夜の9時頃の時間帯を避け、深夜に撮影をする予定なのだが、そのためには、今から夜型に体のコンディションを整えておいた方がいい。
 夜の田んぼでのカエルの撮影は、そのためのコンディション作りでもある。
  

06月03日(月)

 僕は、野鳥の撮影をきっかけに写真の世界に足を踏み入れた。
 野鳥をシャープに、美しく撮影すると、多くの人が、
「すごいね」
 と、喜んでくれた。
 これが、他の生き物の写真であれば、そうはいかない。仮に植物を撮影したとしても、特に植物に興味がある相手でもない限り、「綺麗だね」という程度で終わってしまう。昆虫を撮影しても、「虫嫌いなんだ」という一言で片付けられてしまう。カエルなどの小動物を撮影したとしても、「ふーん」と実にあっけなくかわされてしまうが、野鳥であれば、
「何でここまで、しっかりと撮れるの」
 と、さらっと流れていきそうなその場の空気を、一瞬停止させることができる。多くの人にとって、野鳥の撮影は、いかにも難しそうに感じられるようだ。
 野鳥は、超望遠レンズを使用しなければ、なかなか写真に収めることができないし、超望遠レンズを使用すると、確かに撮影がむずかしくなる。また、超望遠レンズを使用しても、なかなか十分な距離にまで近づくことができないから、撮影のジャンルとしても、かなり特殊な部類に入るだろう。そんな野鳥の写真が撮れることは、僕を支える自信の一つにもなっている。
 ところが、むずかしいことができるからといって、他の撮影ができるかというとそうでもない。たとえば風景の撮影がそうであるが、風景ばかりを撮影する専門のカメラマンの写真と比べると、僕の写真は一味違う。もちろん、下手な方に。
 どんなにむずかしい野鳥の撮影をこなしても、風景の撮影が上手くなるわけではないようだ。
 今日は、早朝から菊池渓谷で沢の風景を撮影した。ここ数年、風景も「上手くなるぞ」と、それなりの気合を込めて撮影してきたが、最近は、風景の写真もかなり見られるようになってきた。
  

06月02日(日)

阿蘇の田んぼ

 今朝は、早起きをして、早朝の田んぼの風景を撮影する予定だったが、霧が濃く、思うような写真を撮ることができなかった。阿蘇は見晴らしが良く、山の上から麓の田んぼを、まるで空撮でもしたかのように見下ろして撮影することができるが、残念ながら一年を通して、空気の透明度が低い。まるで黄砂でも舞っているかのように、風景が白っぽく見える。
 田んぼの一年を定点撮影したくて、昨年から何度も阿蘇に通っているのだが、いつも同じ霞がかった風景だから、山の上からの撮影を諦め、麓に降り、ごく普通に田んぼを撮影するように変更した。
 午後からは、熊本市で昆虫写真の海野先生の講演があり、話を聞きに行った。講演は、熊本城の近くにある美術館の別館で行われたのだが、熊本城の周辺は、交通量も多く、車でグルグルと走りまわっている間に、異常なほど疲れ果ててしまった。
 講演を聴き終え、再度阿蘇に戻り、温泉に入るために車を走らせていたのだが、途中で、どうしてもきつくなり、しばらく休憩をとらなければ動けなくなってしまった。体調が下り坂だったことも原因だとは思うが、改めて、人ごみや混雑に弱いことを実感した。我ながら不思議なくらい、疲れる。
 ちなみに、僕は、町自体は嫌いではない。田舎の人よりも、むしろ都会の人の体質の方が好みに合う。が、とにかく混雑に弱い。あまりに疲労が大きいので、明日の撮影の計画を練り直している。こんな時は、計画をコンパクトに、手堅くしておく方に限る。
  

06月01日(土)

阿蘇の田んぼ

 僕は宮崎県でよく撮影をするが、宮崎からの帰りには熊本の阿蘇に立ち寄ることが多い。
 ある時、宮崎から熊本県に入って間もなく、夕方の阿蘇で、田んぼの風景に思わず目を奪われたことがある。
 夕焼けが美しかったからではない。田んぼが夕日にきらめき、巨大な湿原のように見えたからだ。
 人間にとっての田んぼは、作物を作る場所だが、野生の生き物達にとっての田んぼは、一年に一度だけ出現する巨大な湿原であるに違いない。日本中の田んぼの面積を合計したら、いったいどれほどの大きさになるのだろうか?
 僕は、水辺の小動物の撮影をテーマにしているのだから、「田んぼは巨大な湿原である」というテーマで撮影をしたいと、その日から考え続けてきた。
 今日は、そんな思いを実行にうつすための第一歩として、夕方の阿蘇で、夕日に輝く田んぼを撮影し、夜は、その田んぼで、トノサマガエルが鳴いている様子を撮影した。
 今日の午前中までは、ここ数日の体調不良が尾を引き、きついきつい撮影になったが、夕方あたりからは、いつものペースを取り戻し、夜のカエルの撮影の際には、普段よりもむしろ集中して撮影をすることができた。トノサマガエルは、アマガエルほどには数が多くないし、アマガエルほどには頻繁に鳴かないので、鳴いているようすの撮影には多少の根気が必要だ。
 フィールドでの緊張感は、時に体調不良でさえ吹き飛ばしてくれる。