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2002年1月分

 
01月31日
(木)
−思うようにいかない世界−
今朝の熊本は昨日よりもずっと雲が少なく安定した晴れの天候です。
僕は大喜びで、まだ暗いうちから水中撮影の準備をして待ちましたが、今日も池の濁りが強く撮影ができませんでした。
自然は思うようには事を運んでくれませんが、がっかりして、カッカしてイライラするのもまた素晴らしいこと。
カメラマンを志すような者は、正常な人には理解できない神経の持ち主なのでしょうね。
僕は、写真家を志すにあたり数人の知人に意見を求めましたが、ある人は賛成し、ある人は反対し、父は賛成でも反対でもなく「見守る。」という言葉を残してくれました。
一番ありがたかったのは「そんなくだらないことは止めろ!」というある人の意見です。
僕に反対するその言葉がなぜありがたいのか?
写真は、冷静に客観的に見ると、その方の言う通り、大部分の人にとって所詮遊びでありくだらないことだからです。
「俺はたいそうな事をやっているんだ。」と思い込んでしまうと、自分の思いと世間のあつかいとのギャップに思い悩み、その思いが先へ進むことを妨げかねません。
僕は、事実を事実として認め、前に進まければならないからです。
もちろん「あなたの写真が人の心を癒し、役に立っているのですよ。」と声をかけてもらう事もあります。
が、なぜそんな言葉をかけるのでしょう?
お医者さんに向って「あなたがたくさんの人の命を救い役に立っていますよ。」と声をかける人は滅多にいません。
そんな事は、口にしなくても誰もが感じる事実。
「あなたの写真が役に立っているのですよ。」とわざわざ口にしなければならないこと自体、すでに写真は世間一般的にはくだらない役に立たないものだということを意味しているのです。
僕は、写真を撮り続ける間に、自分の仕事が仮にくだらないものであってもいいと思うようになりました。
自分が社会の中で役に立つかどうかとは無関係に一生懸命写真を撮り、自然のことを人に伝えるのみ。
「そんなくだらないこと・・・。」という率直で客観的な意見がなかったら、果たしてそんな当たり前の事に気付くことができたかどうか僕には自信がありません。
僕は、反対を押し切り写真家を志し歩き始めましたが、そんな僕をみて「実は、自分もジャンルは違うが同じような思いを持ったことがあり写真のような世界のことはよく解る。カメラマンはこうやって生計を立てているんだ・・・。」とその方が今度はアドバイスをしてくれました。
このアドバイスは僕にとって、むしろとても残念に感じたアドバイスです。
「こうやって生計を立てている・・・。」と教わったような事実は全くなく、それは単に一般の人のプロカメラマンに対するイメージに過ぎなかったからです。
「何でそんな無責任なことを言うのだろう?」と僕は残念な気持ちになりました。
プロの世界は空想の世界ではなく結果の世界。
その中でしのぎを削った人にしか知るよしもない世界。
「写真の世界のことは解る。」という言葉は、「私は理解のある、わかる人間なんだ!」という、むしろアドバイスをする人が自分を誇示するための言葉。
一見、僕を後押しするようでいて、よく考えるとアドバイスをする人のためのアドバイスのように感じられたからです。
時に僕に反対する言葉によって前に押し出してもらい、時に僕を後押しする言葉によって惑わされ、写真家という世界そのものが大抵の人には理解できない妙な世界なのかもしれません。
(フィルム1本撮影)
 
01月30日
(水)
 晴れ間がのぞく

−偏見のない自由な心−
今日の熊本は曇りの予報でしたが、午前中はそれなりに晴れ間がのぞき水中撮影をすることができました。
残念ながら、今日の湧き水の池は濁りが強く、思うような撮影ができませんでしたがチャレンジしてダメだった日には諦めがつきます。
午後からは、製材所を2箇所たずね年輪の撮影をさせてもらった他、阿蘇の風景や阿蘇にある古閑の滝を撮影しました。
古閑の滝は高さが100メーターくらいありますが、北向きの斜面にあるため、冬の間上から下まで真っ白に凍りつくことで有名です。
僕は好奇心の強い人が好きです。
もっと正確に言うと、常識にとらわれない、偏見のない自由な心の持ち主が大好きです。
音楽なら、歌謡曲からロックから民謡から軍歌まで楽しんでしまうような人。
テレビを見るなら、ワイドショーからアニメから討論番組まで楽しめるような人。
好きなカメラマンは?とたずねれ頭に浮かぶのも、フランス・ランティングやマイケル・フォグデンなど、いろいろな被写体に熱い視線を送ることができるカメラマンが好きです。
フランス・ランティングの写真は、ゾウやカバやライオンなどの大きな獣から小さなカエルまで、全く変わらない好奇心と熱意で撮られていて、生き物たちのカッコイイ写真、かわいい写真、怖い写真、美しい写真、悲しい写真、気持ち悪い写真・・・、あらゆる表情を型にはまることなく見せてくれます。
では、何でも撮影すればいいのか?というとそうでもありません。
阿蘇を主題にした写真集は何冊か出版されていて、その中には動物たちの写真も含まれていますが、それらの動物写真は単に「写しました。」というだけのもので魂のこもっていない写真ばかりです。
逆に、昆虫写真家の海野先生は昆虫の専門家という側面が強い写真家ですが、海野先生が撮影する昆虫写真が伝えようとする世界は、昆虫の世界だけにおさまるものではなく、自然全体に対する深い造詣が伝わってきます。
今日のように、水中から年輪から風景まで、いろいろなものを撮影しようとすると、どうしても広く浅い撮影になってしまう嫌いがあります。
写真は競争ではありませんが、そんな日はフランス・ランティングをライバルと思い撮影をすることにしています。
フランス・ランティングは、世界最高の自然写真家と言われている人なので、かなり厚かましいのですが考えるのは自由ですね。
(フィルム4本撮影)
 
01月29日
(火)
阿蘇山頂付近

−持ち時間が・・・−
今日も曇りの天候で、湧き水の池の水中撮影ができません。
もう一ヶ月以上、水中撮影をするために時間を費やしていますが、実際に撮影をできたのはほんの数日。
今日は阿蘇の山頂付近で撮影をしましたが、大部分の時間は阿蘇やその他の場所で他の被写体を撮影する時間と化しています。
2月には、20日間の北日本取材を予定していてその準備等を考えると、この冬の残された時間が少なくなってきました。
もしも僕が単なる趣味として写真を撮影しているのなら、北日本取材を迷わず中止して、徹底して湧水池の取材をするところですが、そうはいかない点が辛いところです。
アマチュアカメラマンは、自分には時間がないとよく口にしますが、実は全く逆です。
プロとアマチュアの一番大きな違いの一つに撮影する写真の量の違いがあり、一概には言えないのでしょうが、僕でも平均的なアマチュアカメラマンの30倍くらいは撮影をしているでしょう。
仮に、僕がアマチュアカメラマンの5倍の時間を持っていたとしても、その時間で30倍の写真を撮れば、一箇所の取材にかけれる時間はアマチュアの人の六分の一。
さらに、アマチュアの人は興味がないものを撮影する必要もなく、純粋に好きなものを撮る時間だけを比較すれば、圧倒的にアマチュアの方に軍配が上がります。
ただ、まとまった時間がある点が、プロがアマチュアの人よりも有利な点です。
遠くに行くことができ、いろいろな場所をたずねることができます。
アマ・プロのどちらが幸せなのか、それは人によって違いますが、もしも僕が趣味として写真を撮るのであれば、自宅から1時間以内の範囲にテーマを絞り、プロでは決して出来ないような突っ込んだ、徹底した、十分に時間をかけた、のんびりとした取材をして、プロカメラマンを羨ましがらせるような世界を展開することでしょう。
それを見たプロカメラマンが思わず「アマチュアは時間かけれるからな・・・。」と言いかけ、慌てて口をつぐむような状況が成立すれば上出来です。
そうはいかなくても、それに近い世界を垣間見せてくれる人は僕の身の回りにもいます。
日本野鳥の会・筑豊支部のN氏は北九州にある曽根干潟で野鳥を中心に数年来撮影を続けていますが、N氏の写真展を初めて見た時に、僕はなんとも言えぬ羨ましさを感じたのもです。
(フィルム5本撮影)
 
01月28日
(月)
−主語は何?−
写真を撮る動機は人によってさまざまです。
ある人は自然保護を訴えるため、つまり人のあり方について考え、「人は・・・。」と論じるために自然の写真を撮影します。
ある人は自分を主張し、「私は・・・。」と声を上げるために自然の写真を撮影します。
またある人は、自然のことを人に知ってもらうため、つまり「自然は・・・。」と語りかけるために写真を撮影します。
「人は」という立場で撮影すれば教条的に、「私は」という立場で撮影すれば趣味的に、「自然は」という立場で撮影すれば仕事的な写真の世界になりますが、どの立場が正しく、また誤っているのでもありません。
ただ、「人は」なのか、「私は」なのか、「自然は」なのか、主語をはっきりさせることは大切で、僕の場合は、「自然は」という立場で撮影をしています。
一方で、この撮影メモは、写真を撮る時とは全く違った動機で、「私はこう思います。」という僕の意見を伝える立場で書いています。
撮影メモを書くようになって以来、「人は」なのか「私は」なのか「自然は」なのか、時により、いろいろな立場を体験することの大切さも感じるようになりました。
仮に一枚の写真を見せるにしても、いつ、どんな場で、誰に、何を伝えるのか考えなければならず、自然に興味がない人に「自然は・・・。」と語りかけるのは迷惑な話だし、また、僕のことを知っている人、興味を持っている人には、「私は・・・。」と語りかけなければ面白くありません。
ホームページや写真展など僕のプライベートな場所では「私は・・・」という立場、より多くの人が目にする印刷物の中では「自然は・・・。」という立場をとり、「私は・・・。」と主張しないのが僕の基本姿勢です。

今日の熊本は曇りの天候です。
写真は、太陽の位置によって全く同じ被写体を撮影したとしても驚くほど違った仕上がりになり、晴れの日の場合、その太陽が刻々と動くわけですから撮影は時に時間との競争になることもありますが、雲に太陽が隠れている曇りの日は、その点ゆっくりと撮影することができます。
撮影メモを書く時間にもゆとりがあります。
僕は、一日分の撮影メモを書くために20分〜60分くらいの時間を費やしていますが、時間的なゆとりがある曇りの日には慌てず楽な気持ちで文章を書くことができます。
 
01月27日
(日)
−準備完了−
今晩からまた取材に出かける予定です。
前回の取材では不具合があった三脚の可動部分も完璧に調整しました。
僕は撮影機材にはそれほどにこだわりがありません。
よく、「キャノンじゃないとダメ!」「ニコンが絶対にいい!」などという人もいますが、僕には使い慣れたものが一番。
あまりゴチャゴチャした改造も好きではなく、むしろ市販の物を、さらっと、当り前のようにうまく使いこなす熟練の方を大切にしています。
それでも、不思議なくらい機材に関して工夫をしなければならない事は多く、前の取材から帰宅したままの状態で次の取材に出かけることは滅多にありません。
 
01月26日
(土)
−そして雨−
僕は、熊本から帰宅をする時には大抵高速道路を利用し、筑後小郡インターICで一般道路に乗り継ぎますが、昨日は、熊本市から菊地市、菊池市から日田市、日田市から英彦山を超え田川郡を通り直方の自宅に帰宅をしました。
九州で最も雪が深い場所のひとつである英彦山の道路は、一面真っ白な雪と凍結した路面で、まだまだ冬の真っ只中です。
英彦山の周辺は数え切れないくらい撮影で訪れたことがある場所でもあり点々と知人がいて、昨日はその何ヶ所かに顔を出しながら帰宅をしました。
昨年の春〜秋にかけては、スタジオ撮影に力を入れた結果、ほとんど誰にも会う機会がなったこともあり、懐かしい面々の顔を見ることができ、いい気持ちでの帰宅です。
2月には20日間の北海道取材を予定していますが、久しぶりの北国ということもあり、ちょうど今、細かな点を調整しています。
特に大切なのは寒さ対策で、昨日までの取材では−6度程度の阿蘇の山頂で、三脚のオイルが硬くなりすぎ動きが極端に悪くなるというトラブルが生じました。
僕は、日頃水辺で撮影をする時間が多く、三脚の内部や締め付けネジの部分は乾く間もないといっても決して大げさではなく、可動部分のオイルは水分で劣化しがちです。
暖かい時分には、それでも問題がなかったのですが、この点は十分に整備をする必要がありそうです。
昨日〜今日にかけて、三脚と雲台の可動部分をすべて点検し、やや軽めの動きをするように調整しています。
寒さの中では、三脚の脚を伸ばす・脚を広げるといった何でもない作業にさえてこずってしまうことがあり、可動部分のネジやツマミの形状、大きさ、位置など、使いやすいように改良を加えることで、ずっと取り扱いが楽になることもあります。
昨日、帰宅の際に立ち寄った先々には、いろいろな技術の持ち主がいて、機材の改良等の相談に乗ってもらうことができました。
感謝、感謝。
 
01月25日
(金)
−晴れのち曇り−
昨晩は、露天風呂で隣に浸かっていたおじさんに話しかけられ、話し込んでしまい、ひどくのぼせてしまいました。
おじさんはやくざ風。
非常に危ない雰囲気の人ですが、実は丁重で物腰柔らかな人です。
温泉にはその筋の人が多く、「ごく普通に見える人の中に、こんなにたくさん刺青を入れた人がいるのか!」と驚かされますが、水をはねたりする可能性が高い場所でもあるので、頻繁に温泉を利用する僕は日頃から周囲に目を配り揉め事を起こさないように気を付けています。
昨年の夏のある日、そのおじさんは僕の隣の蛇口に座り、体を洗い始めました。
「こいつは危険な雰囲気だ〜。」と警戒する僕に、おじさんの方向から小さな水滴が飛んできました。
僕は気にもとめなかったのですが、おじさんは大変驚き、「あ〜すいません。うっかりしました。申し訳ありません・・・。」と驚くほど丁寧なお言葉。
おじさんは、ごく普通の人だったのです。
そのおじさんが、昨晩は同じ露天風呂に浸かり、僕に話し掛けてきました。
いい人であることは、とっくの昔に調査済みです。
田舎には知らない人と話をするのが好きな人が多く、いつも僕が撮影をする湧き水の池、燃料を入れるガソリンスタンド、温泉・・・いろいろな場所に話し相手ができます。
あまりにひどくのぼせてしまい、今日は、早起きできるのかどうか心配をしたのですが、いつもどおり5時頃に目を覚ますことができました。
今日は朝から晴れの予報。
一番いい時間帯に水中撮影が出来ると張り切っていたのですが、撮影開始の直前に急に雲が広がり、残念ながら水中撮影をすることができませんでした。
(フィルム1本撮影)
 
01月24日
(木)
−湧き水の池の水中撮影−
今日は、午後から久々の晴れ間がでました。
日射しがあれば暗い水中も明るくなり、水中撮影をすることができます。
以前にも一度書いたことがありますが、池の中は水草の光合成によって発生する酸素が浮かび上がる際に生じる弱い水流で、かき混ぜられています。
光合成が盛んな午後からは、水中がかき混ぜられることにより池の中の透明度は低くなり、光合成が行われない夜は水の透明度が高くなります。
撮影に適する時間は、朝の光が差し込み始めた直後の透明度が高い時間帯で、僕はこの時間にいつも撮影をしていますが、今日は午後からの撮影になりました。
これだけ曇り・雨が多いと贅沢は言えず、晴れ間が出ただけで、感謝しなければなりません。
今日は、水の透明度があまり問題にならないようなアングルを考え撮影しました。
水中撮影をするとドライスーツを着用していても体は芯から冷え切ってしまい、そんな日の温泉は天国のようです。
最近は、温泉がブームで休日はどこも人だらけ。
こんなに人が多いなら・・・と帰宅する予定の日には、決して温泉には入らず自宅で入浴をすることにしているのですが、さすがに平日は閑散としていて別天地です。
昨日も、ある温泉に立ち寄ったところ、車は3〜4台しか見当たりません。
「これはいい!」と僕は大喜びしましたが休館日でした。
代わりに別の温泉まで車を走らせる羽目になりました。
(フィルム4本撮影)
 
01月23日
(水)
  今朝の阿蘇と雪の結晶

−雪の阿蘇−
今朝は阿蘇で冬の九州の風景を撮影しています。昨日の積雪で、あたりは一面の雪化粧。手袋に降り積もる雪は良く見るとすべて結晶していて、かわいらしい雪印のマークを形作っています。
阿蘇の裾野にある白水村には、昨年一年間定点撮影をした大桜がありますが、なんだかその木が気になり、阿蘇山頂に登る前に見に行くことにしました。僕は植物にはそれほどには興味がありません。仮に時間が無限にあっても、今の僕が桜の花見をすることはまずないでしょう。その僕が、木を定点撮影したわけですが、 依頼された写真のイメージは青空をバックに枝ぶりが良くわかる写真ということでした。木の下見をして撮影する地点を決め、一日の太陽の動きを確認しました。晴れの日の午前8時前後が撮影に適した時間でした。「桜!!いいですね〜。」という人が何人もいましたがとんでもない。晴れの日の午前8時前後と言えば、物が一番きれいに写る時間帯。大好きな渓流の撮影をする時間が減り、代わりに取り立てて興味がない桜の木を毎月のように撮影するわけですから、内心穏やかではありません。月に一度の撮影を成功させるために、時には何日も費やさなければならないこともあります。しかも、車で一時間走れば、菊池渓谷や緑仙峡や内大臣峡・・・、すばらしい渓谷があるのです。もちろん撮影には全力を尽くしますが、どこか僕の心の中に集中できない部分があったことを告白します。ところが、今度はその木を見に行きたくなるのですから不思議なものです。好きだから撮影をする。これは文句無しにすばらしいのですが、撮影をしたから好きになる、撮影をしながら好きになる、そんな機会を与えてもらえることも大切で、幸せで、ありがたく、楽しいこと。それから、時にとても辛くて切ないことを付け加えておかなければなりません。今日、改めて桜を見て「こう撮っておけばよかったな〜。」「こう撮りたいな〜。」という思いが、いろいろと込み上げてきました。与えられることを悪いことだとする風潮がありますが、必ずしもそうではないように僕は思います。
(フィルム8本撮影)
 
01月22日
(火)
−人の写真−
数年前に僕は北九州のギャラリーで写真展を開催しましたが、その際に展示を見に来られた方とギャラリーとの間で小さなトラブルが発生しました。もめごとの主はカワセミばかりを撮影しているアマチュアカメラマンのYさん。販売用に置いてあった絵葉書セットの中に記載された僕の連絡先を無断で携帯電話にメモしようとしてギャラリーの方に注意を受けたことが原因でした。僕のプライバシーを守ることはギャラリーの方からすれば至って当たり前の事。にもかかわらず、その晩Y氏から僕に一本の電話がありました。「私のことは、カワセミを専門に撮影しているということであなたも多少は聞いたことがあるとは思うけど・・・・。」という自己紹介で始まり、無断で連絡先をメモしようとしたことに関しては、「私も写真を撮るので、他人が撮影をした葉書を買う気になれないんでね〜。」と説明を受けました。「写真を撮るものどうし、お互いに連絡を取り合い自然保護を訴えなければ・・・・。」というY氏の大義名分とは裏腹に、話はいかに自分がすごい写真を撮り有名なのかというくだらない内容に終始しました。「俺は俺は。」というY氏の話に僕はげんなりしました。写真展を開催しても、「作者は何を伝えようとしているのかな〜。」とカメラマンが描いた物語を読んでくれる人が滅多にいません。「どこで撮影したか?」「どうやって撮影したか?」「こう撮った方がいいんじゃない?と写真雑誌の書評受け売りのアドバイス。」「カメラは何か?」・・・そんなことばかり。写真を見ることには撮ることとは違った難しさがあります。その難しさの正体は「心の余裕」なのだと思います。少なくとも「俺はすごいんだ!」「俺の方がすごいんだ!」と自分を誇示することばかりを考えていたのでは他人の意図など理解できるはずもありません。
なぜ今こんなことを書くのか?Y氏の気持ちがわからなくはないからです。僕も写真を始めて間もない頃にコンテストに入賞した他人の写真など、たくさんの写真に嫉妬をした時期があります。人の写真を見て本当に楽しく感じるようになったのは割と最近のことです。今日は、昨日からの予定通り友人の写真展を見に行きましたが、いい気持ちにしてもらうことができました。
 
01月21日
(月)
−明日も雨?−
明日も天気が悪くなりそうです。明日は友人の写真展を見に博多に行こうかと考えています。今回見に行く展示は、このHPにもリンクをしている中野耕志君の写真展で、中野君の写真はキャノンの2002年カレンダーに採用されています。福岡での展示に関する詳細は以下の通りです。広がりと開放感のある中野君の写真は絶品ですよ。

2002年キャノンカレンダー展 / Countryside 谷津田
福岡市博多区美野島1-2-1 キャノン販売福岡ビル (tel 092-411-417)にて
’02年1/21(月)〜2/1(金) 9:00〜15:30 (最終日16:00まで)土、日、祭休館

楽しみだな〜。
 
01月20日
(日)
−今日も雨−
この冬の九州は雨が多く、今日もまた雨です。ある年の冬はたくさん雪が降り、ある年の冬は毎日のように晴れだったり、またある年は曇りばかりだったり、撮影をするようになって以来、「一年一年、天気って結構違うものなんだな〜。」と感じるようになりました。写真は撮れる時に撮っておかなければなりません。どんなに自然を良く知っても、努力をしても雪が降らない年に雪の撮影をすることはできませんね。
数年前の夏、僕は沖縄で撮影をしましたが、ヤンバルクイナを撮影するための夜の林道で、聞き覚えのない獣の声を耳にしました。谷底から聞こえるその声は次第に僕の方に近づいています。琉球のジャングルには無数の木の枝がありますが、角度や見通しを考慮した時に、仮に何かが現れたとして撮影ができそうな木の枝はたった一本だけ。僕はその枝に向け400ミリレンズとストロボとサーチライトをセットしました。果たして数分後、その枝を猫くらいの大きさの獣が通り過ぎていきましたが、その生き物の正体はケナガネズミでした。沖縄の希少生物を専門に撮影するカメラマンでも10年に1〜2度しか目にすることができない超大物です。僕は、シャッターを押すことができませんでした。その枝を千載一遇のチャンスが横切るのかどうか、カメラをセットしながらも自分を信じていませんでした。それ以前に、当時の僕は、自然を観察してその結果自分自身がよく理解できているものだけを撮影しようとしていて、偶然性が要求される撮影が難しい被写体にチャレンジする気持ちを持ち合わせていませんでした。観察して理解して予測をしてシャッターを押すことは大切ですが、野生の生き物の生態や地理や気象・・・所詮自然は人の理解を超えた世界であり、その中で翻弄される勇気と遊び心を持つこともまた大切なこと。考えそして行動するのではなく、いつも行動しながら考え、体と心とを1つにしておくことの大切さを僕は痛感しました。
 
01月19日
(土)
−カタツムリ誕生−
昨年の初冬にコベソマイマイというカタツムリが産卵をしましたが、その卵がこんな時期に孵化を始めています。数十個の卵のうちの最初の一つが孵化を終えていることを今日確認しました。初冬に卵を産んだ時には、こんな時期に産卵するなんて!と大変驚きましたが、こんな時期に孵化をするなんて本当に驚きです。生き物の生態を撮影するためには、その生き物についてよく知らなければなりませんが、その際に要求される知識のレベルはとても高く、もしかしたら生き物の生態を撮影するカメラマン以上にその生き物に関して詳しい人はいないのでは?と僕はよく思います。
 
01月18日
(金)
−腕はプロ級だけど心はアマ−
12日に湧き水の池で撮影した半水半陸写真が仕上がりましたが悲惨なでき栄えでした。画面の下半分が水中写真でうっそうと茂った水草、上半分は何でもないそこらの風景で、ごく普通の場所に「あっ!」と驚くほどきれいな水が湧いていることを、その対比で表現しようとした写真です。半水半陸に限ったことではありませんが、特殊な撮影が一筋縄でうまくいくことは滅多にありません。頭の中で考えたことは通用しないのが普通で、あまり理屈をこねずに試してみることが大切なことです。
一般にアマチュアカメラマンは理屈をこねる事が好きです。頭の中で空想し、その空想を楽しむことが趣味の本質なのかもしれません。プロの世界は空想するよりも行動をし、一枚の写真を撮らなければなりません。アマチュアの世界から一歩踏み出したところにプロの世界があると考える人が多いのですが、僕はアマチュアとプロの写真の世界は対極に位置し、写真に空想を求め左に進んだらアマ、現実を見出し右に進んだらプロというほどの違いがあるように感じています。もちろん大部分のプロカメラマンもアマチュアから第一歩を踏み出しますが、プロを目指すことになる人の写真には最初からプロ志向がうかがえます。アマ・プロ両方の志向が混在するのが雑誌の写真コンテストですが、入賞する写真の中にも、芸術的・空想的な要素が強いアマチュア的な写真と、記録報道に基盤を置いた具体的に何かを伝えるためのプロ的な写真の両者が含まれていて、実は、僕も雑誌の月例コンテストで金賞をいただいた事がありますが、プロなどと考えたこともなかった当時の写真を今改めて見ると、はっきりとしたプロ志向で撮影されていることに気付かされます。写真は3枚の組み写真で、単にじっとしている野鳥がリアルにリアルに写っているだけ。コンテスト受けする写真ではありませんが、「野鳥の姿を人に伝えたい!」という僕の思い、写真の基本は記録報道であるというオーソドックスなスタイルを選者が評価してくださったのでしょう。プロ、アマどちらが優れているわけでもありません。もしも両立できればすばらしい。釣りを愛した作家の開高さんは自らが世界を釣りながら旅し、その様子を記録した写真と開高さんの文章による本を10冊前後出版していますが、その中で自らの釣りに対する思いを「腕はプロ級だけど心はアマ」と表現しています。僕は、最近になりようやくその意味がわかるような気がします。
 
01月
16〜17日
(水〜木)
−菊池渓谷−
今年は年賀状に菊池渓谷の風景写真を使用しましたが、「一度行ってみたいな〜。」という人が驚くほどたくさんいました。カメラマンは被写体の最高にいい瞬間を引き出そうとしますが、その結果、写真を見て、期待して、胸を躍らせ、せっかくの休日を使いその場所を訪れてみたところ、実物が写真ほどにはきれいではなかったということがよくあります。また菊池渓谷のような人気スポットには人が多く、駐車場に車を止めることさえできず楽しくない気持ちになってしまうこともあり得ます。そうならないためにも、僕のお勧めは7〜8月・晴れの日・朝7時から前後1時間くらいの散歩です。この時間帯の菊池渓谷であれば、誰でもが「来て良かった!」と感じられるはずです。菊池渓谷では川の清掃料として100円を徴収する決まりになっているので100円硬貨を準備して行かなければなりませんが、もっとゆっくりしたいと思う人は、別個に500円玉を一枚ポケットに忍ばせておくことをお勧めします。11時頃から渓谷の入り口で販売されている地鶏の塩焼きは絶品で、僕はここで初めて地鶏の塩焼きを食べて以来そのとりこになり、行く先々で地鶏を食べていますが、どこで食べたとしても足元にも及びません。それから、夏でも薄手のウインドブレーカーを持参した方がいいでしょう。
年賀状の写真を見て僕の腕前が見事だと思った人がいたらそれは大間違いです。仮に僕の写真がみなさんの心を動かしたとしても、それは僕が上手いからではなく、カメラに収まった被写体がいいのです。僕はいい写真を撮ることで自分が評価されたいとは思いません。また、自然の中で自分自身が癒されたいとも、エンジョイしたいとも、くつろぎたいとも思いません。正確に言うと多少は思うのですが、それ以上に、自然のことを人に伝える仕事がしたいし、人と自然とのつなぎ役であり名プロデューサーでありたいのです。
 
01月15日
(火)
−成人式−
僕はセレモニーが大嫌いで、大学入学以降、小は新入生歓迎コンパから大は大学の入学式・卒業式まで、これといった式には参加したことがありません。もちろん成人式も同様でテレビで人様の式の様子を見ているだけで、あまりのつまらなさに、とても悲しい気持ちになってしまいます。ほとんど誰も聞いていない偉い人の話、誰も聞いていないのに話をしている偉い人・・・。参加したくないのなら参加しなければいいのに、なぜ自ら進んで窮屈な生き方をするのでしょう?「友だちに会えるから。」という人もいますが、友達に会いたいのなら、何でもない日だったとしても連絡を取り会いに行けば、聞きたくもない偉い人の話を聞かずにすむのにと僕には思えるのです。もちろん、僕の方が普通の感覚ではないことは良くわかっています。
撮影時には、撮影するシーンや時によって、とても長い時間シャッターチャンスを待たなければならないことがあります。淡水記のカワセミの捕食シーンなどは、一連の写真を撮影するためにほぼ3ヶ月間同じ場所に通わなければなりませんでした。「よくそんなに待てるね〜。」と言われますが、何か目的が会って待つ時間は僕にとってとても有意義な時間です。一方で、例え10分でも僕は無意味に待たされることが耐えられません。
 
01月14日
(月)
−雨−
今朝の熊本は雨です。今日は水面にできる雨の波紋を撮影してみました。雨の波紋は昨年から何度か撮影をしていますが、まともな写真が撮れたことがありません。案外難しい被写体のような気がしています。僕が考える難しい被写体とは「動くもの」と「水」です。動くものの撮影が難しいことは言うまでもありません。「いや〜静物には静物の難しさがあるよ!」と芸術家ぶったカメラマンは口にするかもしれませんが、そう言う人は、カメラの中に捉えることさえ難しいダイナミックに動く被写体の撮影にトライすれば、いかに自分が恥ずかしいことを言っているのか身にしみてわかり、あまりの自分の無知さにしばらく顔も上げれないことでしょう。水は時に周囲にあるものをまるで鏡のように写し周囲に染まり、時に透明で写したくても写らず、時に流れ落ちる水は空気を巻き込み白い軌跡として写り、七変化という言葉がピッタリ。撮影時に仕上がりの予測が難しい被写体です。雨の波紋は動くものの撮影であり水の撮影でもあり難しいのは当然のことなのかもしれません。しかも、美しく撮影された雨の波紋の写真を見ても、カワセミの動きの瞬間を捉えた写真を見たときとは違い、誰も感嘆の声を上げてくれることはありません。カワセミの撮影が、それを見て感嘆の声を上げてくれる応援団に囲まれた撮影だとすると、雨の波紋の撮影はほとんど誰も応援してくれる人がいない寂しい中での撮影で、「撮るぞ!」という気力が沸いてこないのです。
最近の僕は、まだ暗い4時〜5時頃に目を覚まします。目が覚めると寝袋の中で朝の天気を予測します。僕はコンタクトレンズを着けなければ星が見えませんが、気温、湿度、音、最近は携帯電話のi-mode など、寝袋の中でも、ある程度の天気予報をすることができます。ぐっと冷え込んでいる朝は晴れ。日の出と同時に撮影ができるように早く起きなければなりません。湿っぽく暖かい日は雨、今朝のように、すでに雨が降っている日は車の屋根に落ちる雨音が耳に響いてきます。こんな日は、もう一眠りすることができます。携帯電話に手を伸ばしインターネットに接続して2時間ごとのピンポイント予報を見ればほぼ完璧です。あまり当てにならない天気予報ですが、さすがに今現在の天候を大きく間違えることはありません。
(フィルム3本撮影)
 
01月13日
(日)
−体調不良−
昨晩は、眠りにつこうかという時間帯からひどい吐き気に苦しめられました。今日は、その余韻が残っていて、どことなく体の具合が悪い一日です。偶然にも天気も悪く撮影ができず、一日中車の中でゴロゴロして体調の回復を待ちました。まだ、完全ではありませんが、もう不快感を感じるほどではありません。今日は、比較的暖かかったのですが、気温が15〜20度くらいの日に車の中で昼寝をするのはとても気持ちが良く、僕が一番好きな時間の一つです。こんな日もいいものですね。
帰宅をすると、「何かいいことでもあった?」と母にたずねられることがあります。そんな時はむしろ何かがうまく行かなかった時が多く、「あんたは楽天的。」と言われます。僕は比較的何でも楽しめる方で、体の具合が悪ければ悪いで、それなりにご機嫌で過ごすことができます。何かにトライした結果、うまくいかないことや出来ないことがあってもいいように僕には感じられるのです。もちろんトライしないのは論外。「今の日本人には夢がない。」「夢を持ちなさい。」と言われますが、僕は何か欠けているものがあるとすれば、それは「夢」という空想の世界ではなく「行動力」という現実の世界だと思います。頭の中で自分の理想郷を描き、その自分の空想の世界を愛し、その通りにならないものを否定するのではなく、全力で行動をし、その結果見えてくる現実の世界を僕は受け入れ、立ち向かい、苦しみ、楽しみたいのです。
 
01月12日
(土)
 釣り人

−忘れ物−
最近の僕は忘れ物が多く、先週の取材の際には温泉で使用するタオルを積み込むのを忘れ、しかたなく、車の中に積みっぱなしだった一枚のお手拭用タオルで体を拭いては乾かし繰り返し使用しました。今日は信じられないことに潜水用の水中メガネを忘れ、水中撮影をすることができませんでした。僕は、コンタクトレンズを使用しているため、マスクなしで水中に潜り撮影をすることができません。面倒なドライスーツを着用し水中撮影の準備を完了し、さあ潜るぞ!と意気込んだところで水中メガネがないことに気がつき、空しく、腹立たしく、寂しく、悲しい、そんな時間を存分に味わうはめになりました。まず第一に、今日は仕方がないとして急ぎ水中メガネを取りに帰り明日からの撮影に備えることを真剣に検討しましたが、そんな馬鹿げた検討をしていること自体冷静ではありません。往復の交通費の方が高くつき、どこかで水中メガネを買った方が断然安上がりだからです。タイガーウッズはミスをしても5秒で立ち直ると言われていますが、今年の武田晋一はミスをしても5分で立ち直ることを目指しています。忘れ物のついでに、忘れ物をしたことも忘れ、今日は、一枚の写真の画面の半分が陸上、半分が水中の半水半陸撮影をすることにしました。これがなかなかいい感じで、充実した時間を過ごすことができました。
阿蘇の周辺には湧き水が多く、先月末から取材を続けている池も「下六嘉湧水群」と呼ばれる幾つかの湧水池の中の1つです。撮影の中心は水中撮影ですが、いつも十分に早起きをして水中を撮影する前に一時間くらい池の風景や野鳥の撮影をしています。今朝は釣り人の姿を撮影してみました。
(フィルム3本撮影)
 
01月11日
(金)
−酸素放出−
先週末に撮影した水中写真が仕上がり、届けられました。今日は、そのフィルムをしっかり見て、検討して、反省し、胸をときめかせ、明日からの撮影のイメージを頭の中に構築しています。明日から4日間の予定で、熊本県嘉島町の湧水池で撮影をします。
水草は植物なので、光があたると光合成をして酸素を放出しますが、水中では、その様子を目でみることができます。日が差し込むと同時に、いっせいに気泡が立ち昇る様子は神秘的ですが、実は、この酸素の放出が撮影をとても難しいものにします。水中の小さな気泡は差し込む光によって乱反射し、写真の画質を極端に低下させ、また、酸素が立ち昇る際に生まれる池の底から水面に向かう水の流れは、底床に沈殿した微粒子を巻き上げ、画質の低下に拍車をかけます。撮影は、光合成が本格的になる前の、日が差し込んでからの30分間が勝負です。カメラマンの都合は別にして、光合成によって生まれる微弱な水流が、池の中の水を循環させているとは、自然ってほんとうによくできているのですね。僕は、カメラを持つことで知る機会を持ちましたが、いったい何人の人が、それを見て知っているのでしょう?多分、日本中に30人いないのではないでしょうか?カメラを持つことで撮影意欲ばかりが強くなり過ぎ、自然を見る目が曇ってしまうという人もいますが、僕は、カメラを持つことで、とてもたくさんのものを見ることができました。
 
01月10日
(木)
−アドバイス−
野外での撮影の際には、HP用の画像をデジタルカメラで撮影する時間さえも惜しく感じることがあります。一方で、帰宅をすると、HP用に、何かいい被写体はないのかな?と、ついデジタルカメラの方に視線がいってしまいます。デジカメを使用するようになって以来、僕の撮影スタイルが代わりつつあります。デジカメでの撮影ではフィルム代を考えずにすみ、気軽にシャッターを押せるのがその原因です。気軽にシャッターを押せば写真のクオリティーが下がるか?というと、そうでもありません。「とにかく撮っとこう!」とシャッターを押した画像の中に、何でもないシーンの中の、とてもいい一瞬を捉えた画像があり、「難しく考えすぎていたんだ!」と反省させられることもたくさんあります。くそ真面目に努力をすれば好結果につながるわけではない所が写真の難しい所であり、残酷な所であり、面白い所です。人によって写真の撮り方には傾向があり、じっくり構える人〜流れに乗って次々と撮影する人まで様々な撮り方がありますが、僕には撮影を始めた当時から、考えすぎ、構えすぎる嫌いがありました。最近になり、ようやくそんな弱点を克服できそうな気がしてきました。
たくさんの人が、僕にアドバイスをしてくれます。構え過ぎ、先へ進めなくなる嫌いがある僕に対して、「じっくり構えなさい。」という趣旨のアドバイスをしてくれる人もたくさんいました。「じっくり構えなさい。」というアドバイスは、何にしろ正論だと思いますが、アドバイスは正論を言えばいいのではなく、その人に欠けている何かを伝えるものではないのかな?と、僕は思います。僕の写真を見て、そこで何かを感じて、その思いを僕に伝えてくれた人は、ほんの数人しかいません。僕は、初めて昆虫写真家の海野和男先生に写真を見てもらった時、海野先生から、「どうしたらいいのかは、その人の経済状態、生い立ち、情熱・・・・人によって全員違うんだよ。」とアドバイスをしていただきました。人は誰しも、「こうだ!」という絶対的な答えを求めたがり、絶対的な答えがあれば安心をすることができます。海野先生は、そうではなく、「自分の手を動かし、自分の目で確認し、自分の答えを出せばいいんだ。」ということを教えてくださいました。
 
01月
08〜09日
(火〜水)

 
−次の取材へ−
僕は、撮影を終えた夜に、その日一日の反省をして、不備が合った点をノートにメモします。撮影から帰宅すると、そのメモを見返しながら、うまくいかなかった点を改善していきますが、今日は、新しいストロボのテストをしています。僕には、お気に入りのストロボがあり、淡水記の中のアマガエルが鳴いている写真など、そのお気に入りで撮影すると、まるで昼間のように明るい感じに写すことができますが、被写体の形によっては、ストロボの光によってできる影が強過ぎ、「やや見苦しいかな?」と感じることケースもあり、今日は、第二のストロボとして、被写体に影がつき難いタイプのストロボを試しています。このストロボはニコン用で、ニコンのカメラに取り付けて使用してきましたが、前もって撮影テストをしてデータを取り、そのデータに基づいて使用すれば、ペンタックでも使用することもできます。比較的コンパクトで、カメラバックの小さなポケットの中にも収まり、持っていても邪魔にはならないはずです。一般に日本の自然写真家には、ストロボの使い方がうまくない人が多く、そのためか、日本のアマチュアカメラマンには、ストロボの使用を極端に嫌う人が多いように思います。それ以前に、一枚の写真を見て、ストロボが使用されているかどうかの区別がつかない人も多く、僕がストロボを使用して撮影した写真を見て、「あ〜、やっぱり自然光っていいね!」と言った人が数人います。中には、仲間内での写真の指導をしている人も含まれてました。もちろん、ストロボを自然に感じられるように使用するためには、工夫とコツが必要で、今日のストロボも、若干の改造を加え、使い方に工夫をしています。闇雲にストロボを光らせるのは論外です。
 
01月07日
(月)
−迷子−
昨日、温泉から上がり、車に戻ろうとすると、一人の男の子が泣きながら建物の入り口に立ていました。「迷子になった?」とたずねると、首を横に振ります。子供は、大人が考えているほどに言葉の意味がわからないものなので、「お父さんいなくなった?」とたずね直してみると、今度は首を縦に振りました。泣きながら一生懸命状況を伝えようとするその子の話を聞くと、どうも、帰り際に保護者とはぐれてしまったようです。まずは、温泉の職員の人に伝えなければならないので、僕は、その子を温泉の受付に連れて行くことにしました。「向こうに行こうね。」と玄関を上がろうとすると、その子は腰を下ろし、靴を手で引っ張るように脱ぎ、また立ち上り、脱いだ靴を自分の手で持ち、僕の後ろからついてきました。自分で靴を脱げるようになって間もないようです。気が動転している状況でも、ちゃんと靴を脱ぎ、自分の靴を自分で持ってくる様子から、僕は、この子が時々この温泉に来て、靴を脱ぐ練習をしたり、「靴を持ってきなさい。」と教えてもらったりしているのでは?と推測しました。子供が、ちゃんと社会生活をしていけるように、社会の決まりを両親が教えてあげているに違いありません。僕の心の中には、しつけや教育に対して、強い反発の気持ちがあります。大抵の場合、しつけや教育は、それを施す側のためにあるように感じられるからです。ある人は、しつけのために子供を叩きますが、子供のためではなく、自分の都合で叩き、また、ある人は「体罰絶対反対。誉めてあげよう!」と主張しますが、誉めることで自分に従わせようとしているだけ。単に体罰が誉めることに置き換わったに過ぎず、何のためにそうしないとならないのか、何も教えていないように感じられるからです。それでも、子供のためになるしつけって美しいものだな〜と感じました。
今朝は、雨です。今日で撮影を切り上げ、帰宅をします。
 
01月06日
(日)
−水中からカモに近づく−
今日も、昨日に引き続き、湧き水の池(下六嘉湧水群)での水中撮影です。この池は、湧き水で満たされているため、ほとんど水質の変化がありませんが、時々、なぜか濁っている日があります。僕は、湧き水の量が多い日に、池の底に溜まった微粒子が巻き上げられるからでは?と考えていますが、単なる僕の推測に過ぎません。今日は、まさにそんな日で、せっかくの快晴にもかかわらず撮影ができませんでした。濁っているといっても、普通の人には見分けがつかないレベルですが、写真に撮ると、そのわずかな濁りが大きな差となりフィルム上に現れます。
こんな日は、僕は、いろいろな試行錯誤をすることにしていますが、今日は、水中を泳ぎ、水面に浮いているカモに近づいてみることにしました。この池には、ヒドリガモやオカヨシガモやマガモが飛来しますが、餌付けをしているわけでもないのに、岸から近づくと、ほんの数メーターの距離にまで近づくことができます。果たして、水中から近づいてみると、10メーターくらいの距離にまでは近づくことができ、水面で足ヒレをヒラヒラさせているところや、時々、水の中に潜り、藻をむしり取る様子を観察することができました。もう少し、アイディアを絞り出し、水中から見たカモを撮影したいと考えていますが、どのようにしたら、もっと距離を縮められるのでしょうね?淡水の水中撮影では、物が本当にシャープに写真に写るのは、手を伸ばしたら届きそうなくらいの距離にあるものだけで、遠くにあるものは水の影響で不鮮明に写ります。カモの足を撮影するためには、かなり距離を縮めなければなりませんが、当面、一時間くらい水中でじっとしておいて、カモの方が近づいてくるのを待つ方法がよさそうです。できれば、明日試してみたいと考えています。
(フィルム1本撮影)
 
01月05日
(土)
 湧水池の風景

−イワナ・ヤマメ・アユ−
今朝は、4時に起床しました。空を見上げると星が出ていて、雲がほとんど見当たりません。昨晩の天気予報では、今日は曇りの予報だったこともあり、5時の天気予報を待ち、一日の予定を立てることにしました。今日・明日は晴れの予報で、今回の取材の一番の目的である湧き水の池の撮影ができそうです。まだ真っ暗な道を運転し、阿蘇を降り、熊本市のお隣の益城郡にある湧き水の池を目指しました。
僕は、人の写真を見ることも大好きで、生き物の写真を撮るカメラマンの中では、特にたくさんの写真に目を通している方だと思いますが、僕が、初めて買った写真の本は、平凡社から出版されている桜井淳史さんの「イワナ・ヤマメ・アユ」という写真集です。僕が買った本は初版で、当時の僕は、小学生か中学生だったように記憶しています。写真集は、本来は、子供が買うような本ではないことは、写真集に載っている写真家の哲学が込められた写真と、子供向けの本に載っている判りやすい写真とを比較すれば良くわかります。写真集は、写真や自然が好きな大人をマーケットにした本だと思いますが、当時の僕は、渓流釣りとヤマメが大好きで、この本を購入しました。それでも、僕にとってこの本は写真の本ではなくヤマメの本であり、写真を撮った桜井さんや写真家という仕事に対しては全く興味がありませんでした。僕は、ヤマメを手にする代わりに、この本をめくりました。この本の最初のページには、作家の開高健さんが書いた贈る言葉があります。
「鳥獣虫魚の写真は、とにかく難しい。それは、第一に生態写真であり科学の目である。第二に風景写真であり詩人の目である。第三に報道写真であり、第四に・・・・・・。一枚の写真を目にして、一人の中に住むたくさんの男たちがいっせいに口を開こうとするのをピシャリと黙らせ、にんまりとさせなければならない。」
正確には覚えていませんが、こんなフレーズだったように思います。偶然にも僕が初めて手にした写真集に贈られたこの言葉は、今の僕が目指す地点をよく表しています。生態写真であり、風景写真であり、報道写真でもある写真。いや、そんなジャンル分けをすることさえ無意味に思えてくるような写真。そんな写真を撮るためには、それだけの写真が撮れるいい舞台を選ばなければなりません。今日、撮影をした湧き水の池は、そんな可能性を秘めている数少ないフィルードです。
(フィルム4本撮影)
 
01月04日
(金)
 阿蘇火口

−雪の阿蘇−
今日も、昨日に引き続き、阿蘇火口付近での撮影です。今日は、昨日以上に風が強く、重さ4キロ弱の三脚が強風で飛ばされるという経験をしました。僕は、日ごろ風景の撮影には、3キロ弱の三脚を使用しています。3キロ弱という重さは、風景撮影用としてはやや軽い部類に入りますが、軽めの三脚を持つことで、足場が悪い渓流の水辺を、場合によっては胸まで水に浸かりながら、長距離を歩き撮影するという狙いがあります。ところが、今日は、あまりの強風で、いつもの三脚が全く使い物にならず、野鳥撮影用の大きなレンズをのせるための三脚を持ち出すことになりました。唯一の救いは、背中側から吹き付ける風だったことで、おかげで、かろうじて撮影をすることができ、時々顔を出す青空、雪、火山の黒い岩肌、火口からの白いガスの色合いが見事な一日でした。
強風といえば、以前に、沖縄で強い台風の直撃にあい、不安な気持ちで丸二日間を車の中で耐え忍んだ経験があります。トイレに入り、うんこをしてお尻を吹き、ちり紙を汲み取り便所の中に捨てたところ、肥溜めの中を舞う風で、下に落としたはずのちり紙がもう一度便器から飛び出して来て、僕は、ジャンプして避けました。風が弱まるのを待ち、再度ちり紙を捨て、車に帰ろうとしても、逆風で一歩も前に進めず、しばらくトイレの中で待機して、風が弱まった間に這うようにして車に帰りました。
今日の風は、その台風と甲乙つけがたい強さで、風が強い時間帯は、火口からの落下を防止する手すりしがみ付き、ただただ、風が弱まるのを待ちました。
(フィルム4本撮影)
 
01月03日
(木)
 阿蘇へ

−雪の阿蘇−
今日は、阿蘇で冬の風景の撮影です。阿蘇に向かう途中の道沿いにある菊池渓谷で雪の渓流を撮影した後、阿蘇にのぼり、火口付近で雪の風景を撮影しました。気温は、マイナス4度程度ですが、台風並に風が強く、寒い寒い一日です。
僕が撮影したことがある被写体の中で、撮影の際に一番緊張をするのは野鳥です。野鳥は、逃げてしまう可能性があり、時には、一度のシャッターチャンスで一枚しか撮影ができないこともあります。野鳥が現れる前からカメラの設定等を十分に確認して、最初の一枚で撮り切る覚悟で撮影に臨みます。対象的なのは風景の撮影で、風景にも、もちろんシャッターチャンスはありますが、野鳥の撮影に比べると、かなり時間的にゆとりがあります。僕は、風景の撮影の場合には、同じ構図の写真を、明るさを変えて数枚撮影して、現像したフィルムの中から、一番好ましい明るさの写真を選び出すスタイルで撮影をしてきました。明るさを変えた数枚の写真を撮ることには、いくつかのメリットがあり、例えば、失敗をする確率を低くできたり、撮影の技術的なことを考えずにすみ、その分、自然を見ることに集中することができます。一方で、デメリットもあります。フィルム代が高くつき、考えない習慣がついてしまうことです。僕にとって、何よりも怖いのは考えない習慣が付くことで、考えなくなると技術の進歩が止まってしまいます。今年からは、時間的にゆとりがある風景の撮影でも、まずは、十分に状況判断をしてこん身の力を込めた一枚を撮影し、その後で明るさを変えた写真を数枚撮影するスタイルで撮影をする予定です。今日は、さっそく、そんな方法を試してみました。
(フィルム2本撮影)
 
01月02日
(水)
−体調不良−
今日は、朝から腹痛です。人は、大抵誰でも体の中に弱い部分があり、ある人はお腹をこわし易すかったり、ある人は胃が痛みがちだったり、また、ある人は、頭痛に悩まされていたりするものですが、僕は、腸が弱くて、すぐにお腹を壊してしまいます。そんな僕にとって、腹痛は悪友みたいなもので、うまく付き合っていくしかない生理現象なのですが、今日の腹痛は、いつもの腹痛とは次元が違い程度がひどいものです。どうも、甘く見ない方がよさそうなので、なるべく安静にしていますが、今晩からは阿蘇・熊本への取材に出かける予定になっていて判断を迷っています。とにかく、安静にしながら、車にすべての荷物を積み込み、いつでも出かけることができる状態を整えた上で、今日の阿蘇の天候や、明日以降の天気予報を調べ、最終的に結論を出すしかなさそうです。予定としては、晴れの場合、熊本市近郊の湧き水の池で水中撮影を、雪の場合、阿蘇周辺で冬の九州の風景撮影を、曇りの場合、阿蘇の麓で冬の作物や霜などの撮影を頭に描いています。
 
01月01日
(火)
−あけましておめでとうございます?−
僕には、とても覚めたところがあり、「なぜ正月だけが特別な日なの?」という思いが心の中にあります。ある日を境に急に一年が始まったり終わるのではなく、毎日少しずつ時が過ぎ、ある日気がついたら、去年と同じ花が咲いていて、いつの間にかだけど、間違いなく一年が過ぎていてほしい。世間が決めた一年ではなく、たとえ人から与えられなくても、自分が感覚として感じることができる一年が、僕にとって大切なのです。
僕は、人が感覚として感じることができるかどうかを、いつも最優先にします。「君の写真はすばらしい・・・・・・・。」と誉めてもらったとしても、その言葉が的外れだったり、何か言わないといけない〜と絞り出した言葉だったりすると、むしろ悲しい気持ちになります。それなら、「私は写真のことはわかりません。」と言ってもらえた方が嬉しい。逆に、「おまえの写真のここがダメだ!」と否定されても、その指摘が理にかなっていれば、決して不快感ではありません。一番がっかりするのは、「おまえの写真のここがダメだ!」と否定され、その指摘が、何かの雑誌の写真コンテストの選評にかかれてある言葉の受け売りだった時です。